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らいおんの小ネタ劇場




こたつむり (2006/1/17)

 季節は巡っていつの間にか冬がやってきていました。ついこの間まで夏だと思っていたのですが、時の流れとは不思議なものです。
 気がつけば漂っていた正月の雰囲気も溶けるように消えてゆき、世の中は新年を迎えたばかりだということを忘れたかのようにいつもの日常を取り戻している。
 しかしそんな世間と違い、この家の中だけは、何故か正月の雰囲気をそのままにいまだ残している。
 有体に言えばだらけきっている。腑抜けきっています。見ていて嘆かわしいほどに。

「特にライダー、貴女はサーヴァントでしょう。そのようなザマで己を省みて恥辱と感じないのですか」
「別に何も」

 冬となってから居間に設置されたこたつに潜り込んで動かないライダーは、今朝がたから既に何時間もああして本を読んでいる。ご丁寧に横にはまだ手付かずの本が積み上げられ、もはやこたつの一角を陣取って動く気がないのは誰の目にも明らかだった。
 しかしそれはライダーだけに限った話ではない。
 四方に開かれたこたつ布団は、西にライダー、東にイリヤスフィール、北に凛が陣取り、最後の南はついこの間居候として返り咲いたカレンが陣取っていた。当然、誰も彼も動く気配など微塵もない。イリヤスフィールはシロウから貰ったお年玉で買ったというどてらを着込んでごろごろと転がってみかんを食べているし、凛は台の上に宝石を広げて弄っている。そしてカレンはといえば、何をするでもなくテレビのドラマを見ながら時折口元を歪めた笑みを浮かべ、

「複数の女の間でフラフラと揺れる優柔不断な男……まるでどこかの誰かみたいね」
 と、つぶやいている。
 ……どこかの誰かというのが気になりますが、聞いたところでまともな答えが返ってくるはずもないので、聞かないことにする。
 ともあれ、ライダーのみならずこの場にいる面々がそれぞれ朝からずっとこの調子なのです。
 たとえ何か用があったとしても自分ではしようとせずに、

「あ、セイバー。悪いんだけど暇ならお茶淹れてくれない?」

 などと人に頼む始末です。

「それならばこたつから出て自分で淹れればいいでしょう」
「だって寒いし手が離せないんだもの。セイバー、わたしの代わりに宝石の鑑定してくれる?」
「……わかっていてそのようなことを……。まったく、魔術師というのは己を厳しく律するものではないのですか? とにかくお断りします。その程度のことは自分でやりなさい」
「ちぇっ、セイバーのけち」

 毒づきながらもやはり凛は動こうとせず、ぶつぶつと文句を言うに留めていた。
 それにしても、こたつというものは、やはり魔力でもあるのではないかと思うくらいに人を惹きつける。この寒さというのもあるのだろうが、普段は名前通りに凛とした態度を、少なくとも人前では容易く崩さない凛でさえあのようになってしまうのだ。正直な話をすると私自身、こたつには抗いがたい魅力を感じている。
 だがしかし……こうしてこたつの魔力に取りつかれた者たちの無残な姿は、さすがにどうだろうかと思う。イリヤスフィールなど、剥きっぱなしのみかんの皮もそのままにうたたねを始めてしまいましたし。
 もしかしたら、こたつには否応なく入る者を堕落させる魔力でもあるのではないだろうか――



「――と、そう思い片付けたほうが良いのではないかと考えたですが……」
「ですが?」
「……やはりこの魔力には抗いがたいのです」

 夜、皆が寝静まった後にシロウが作ってくれた夜食を頂きながら二人でこたつで寛いでいる。昼間あれだけライダーたちが堕落している様を目の当たりにしながら、自身もこうしてこたつに入って気を緩めきっているのだから私も現金なものだ。これでは人のことをとやかく言う資格などありはしませんね。
 こたつの中で、伸ばした私の足とシロウの足が触れ合って少し重なっている。
 にも関わらず、お互いそれを気に止めてもいない。
 もちろん触れたその時は気恥ずかしく感じたものだが、毎夜毎夜こうしているのではさすがに慣れたものだ。

「まぁ、いいんじゃないのか? 今年の冬は特に寒いし、少しくらいだらけたってバチは当たらないだろ。こんなことできるのも冬の、こたつを出してる間だけなんだしさ」
「ッ……そ、そうですね」

 シロウの言う『こんなこと』というのを一瞬勘違いしかけた焦りを押し殺し、こたつの温もりでゆっくりと訪れてきた眠気に抗わずまぶたを落としかける。

「っと、寝るなよセイバー。こたつで寝たら風邪引くからな」
「……だいじょうぶです。いくらなんでもそこまで堕ちてはいません」
「怪しいもんだけど……ま、こんな緩んでるセイバーを見れるのも冬の間だけだしな」

 苦笑するシロウの声をどこか遠くに感じながら、うっすらと開いていたまぶたを完全に閉じて緩やかな心地よさに身を預ける。
 こたつの中では私を眠らせまいとしているのか、シロウの足が私の足を突ついている。
 私はそれに軽くやり返しながら、こたつを片付けるのは当分先のことにしようと密かに心に決めていた。



紫陽花の花 (2006/1/9)

「……で、あんたはまた家出してきたってわけか」

 苦笑を貼り付けた仏性面という、なんとも言えない表情でシロウがこぼした。
 家出――というのは、他にきちんと自分の住まう家があるにもかかわらず、何らかのやむを得ない事情でそこを離れ、独自に生活を営むことを言う。そのやむを得ない事情というのは大抵が、共に住む他人への不満である場合が多い。
 そういった意味では、彼女が家出をする理由は確かにもっともであるとは思う。私とて、あの場所で住みたいなどとは思わないだろうから。
 ……しかし、何故家出先がいつもいつもこの家なのだろうか。

 ため息交じりの、しかしシロウと同じような私の仏頂面を向けられる少女――カレン・オルテンシアは、そんな私たちの視線など意に介した様子もなく出された出涸らしのお茶を啜りながら、しれっとした表情でこう言った。

「やむを得ない事情があったの」
「それを聞くのもこれで何度目になるんだよ……今度はいったいなんなんだ?」
「まったくもって許しがたい……ええ、まさに神に弓引く行為、もしくは陵辱と言ってもいいでしょう」

 眉根を寄せ怒りを堪えているといった表情をしている彼女を見れば、それが彼女にとって確かに許しがたいことなのだということはわかる。それにあながち間違いというわけでもないのだろう。
 なんせ相手はあの破戒神父だ。イエス・キリストの聖誕祭であるクリスマスの日に、自身のサーヴァント二人を『カップルバスターズ』などとして野に放ったのは記憶に新しい。二人は12月のクリスマステロルなどを口ずさみながら、主にカップルに対して悪逆非道の限りを尽くしていましたが、最後は警察犬に捕まってました。ランサーは犬に弱いのです。あと何故かギルガメッシュはズボンをはいてませんでした。
 まぁ、全くの余談なのですが、ともあれ相手はこれくらいのことは平気でやってのける男、ということです。
 だから今更あの男が何をしようとそんなものか、と思ってしまうのだが、その度に家出してくるカレンの身元引受人になる我々のことも考えてほしい。

「それで結局、今度は彼が何をしたというのですか」
「……私の聖骸布をパンツと一緒に洗濯したのです」

 細い眉を顰めているカレンは、泥でも吐き出すかのようにそう言った。

「何かと思えばそんなことですか……」

 あまりのも予想通りの内容にくだらなさに深々とため息をつく。
 しかしカレンは私に、その細い眉を顰めて静かな怒りの表情を向けてきた。

「そんなこと、ではありませんセイバー。想像してみるといいわ、もしあなたが大事にしている……そう、例えば衛宮士郎にこの間買ってもらったお気に入りの洋服にあの男のちぢれッ毛がついていたとしたら――」
「速やかに成敗します」

 実にわかりやすく納得できた。
 ここまでわかりやすい例を挙げられてみれば、カレンの事情に頷かざるをえないだろう。あの聖骸布はカレンが常に肌身離さず身につけているものだ。それが汚されたのでは、カレンだって怒ろうというものである。

「シロウ、今回に関してはカレンの言うことにも一理ある。私は彼女の身柄を引き受けても良いと思うのですが……」
「あー……まぁ、カレンの気持ちもわかるけどなぁ。あんなのでもいちおう、父親だろ? 一緒にいてやらなくてもいいのか?」

 士郎も半ばカレンの家出を受託しつつも、まだ僅かに躊躇っているが、

「衛宮士郎、あなたは自分を頼りに逃れてきた婦女子をすげなく追い返すような薄情者なのですか? 今でさえ、何人もの女性を自分の家に囲っているというのに私はだめだというのですか……この甲斐性なし」
「って、別に囲ってねぇ!」

 カレンは、自分からここから動く気は全くないようだ。
 しかし士郎の気持ちもわかる。士郎はかつての聖杯戦争で実の両親を亡くしている。その後、幸いにも切嗣に引き取られ今では彼を父と慕っているが、それでも今は亡い血の繋がった家族に対する想いが消えたわけでもないだろう。たとえ、その記憶がないとしても。

 カレンと、彼女が家出した原因――言峰綺礼は血の繋がった親子であり、共に聖堂教会に属する異端審問官でもある。
 本来の冬木市の担当者である言峰がああいう男であることだし、この街は特に異端が集中する特殊な土地柄であるからと、言峰と血が繋がったカレンは新しく増援で派遣されてきたわけだが、教会側の期待と裏腹に二人の連携はすこぶる悪い。
 かといって、言峰が父親としてカレンのことを愛していないかというとそういうわけではないだろう。カレンが頻繁に家出してくるのは大概の場合が、彼の捻くれた愛情表現のせいであることが多い。例えば、カレンのハブラシを勝手に使ったりとか。
 だから士郎は、できるだけ二人に一緒にいてもらいたいと思っているのだろうが……実際問題、自分がカレンと同じ立場になったとしたらおそらくは彼女と同じ行動をとるだろう。子は父親を選べないのです。

「はぁ……まあ、しょうがないか。でもカレン、言っとくけどいつまでも置いとくわけじゃないからな。そのうち、ちゃんと家に帰れよ」
「……わかっています。子供ではないのだから、そのくらいの分別はつけているわ」

 そう言ってカレンは膨れっ面を作って見せる。そういうところや、家出の理由だとかが十分子供っぽいのだが、私も士郎もそのことを口にはしない。

「さて、それじゃ話も終わったところで晩メシの仕度でもするか。カレン、なんか食いたいものってあるか?」


 そんなわけでこれで何度目になるかわからない家出の居候がまた一人増えました。
 まぁ、そのうちランサー辺りが言峰の意を受けて連れ戻しに来るでしょう。……もっとも彼は今、クリスマスの悪行が祟って塀の中で雑な食事を食べているので、少なく見積もっても一週間以上はかかるのでしょうが。
 その間くらいは、ひと時の異邦人を受け入れるくらい、構わないと思う。
 ただし――、

「シロウ。あらかじめ言っておきますが、凛や大河への言い訳に関してはシロウのほうからお願いしますね」
「……了解」

 がっくりと項垂れるシロウに若干の憐れみの視線を向けて、私はテーブルの上にあるお茶菓子に手を伸ばした。



お盆 (2005/8/21)

 夏の日差しの厳しい柳洞寺。
 蝉の声がまばらに降り注ぎ、地面から立ち上ってくる熱気と空からの熱に肌を焼かれながら私たちはここに来ていた。
 シロウと私と、イリヤスフィールの三人は、墓地の隅にひっそりと隠れるようにしている小さな墓石の前に立っている。

 ぱしゃり、と小さな水の音。
 イリヤスフィールがうちかけたひしゃくの水が二度三度と墓石を墨色に染めていく。

「ほら、イリヤ」
「うん」

 シロウに渡された小さな数珠を受け取り、彼に倣うようにしてイリヤスフィールもぎこちなく手を合わせた。

 この墓石の下に眠るのは、かつてシロウの前に私のマスターであった人、そしてシロウとイリヤスフィールの父でもあった衛宮切嗣。
 夏――八月。
 この熱い季節に、死者の霊が死後の世界から僅かな間だけ生者の世界に還ってくるという。古くから日本に伝わる御伽噺のような風習だ。
 言い伝えが生まれた時代ならいざ知らず、今ではそのようなことを心から信じている人間などいやしないだろう。それは異常の世界に生きる私たちとて例外ではない。
 いや、異常の世界に生き、世の理を常人よりよく知ってしまっているが故にそのようなことはありえないとわかっている。

 だがそれでもシロウは手を合わせ、シロウよりもずっと冷徹な理というものを知り抜いているイリヤスフィールでさえも同じように手を合わせていた。
 彼らは何を思ってそうしているのだろう。
 会えないとわかっている人に語りかけるなど無為とわかっているのにそうしているのは自分自身への慰めなのだろうか。『そういうものだから』と、決まりごとのようにこうしているだけなのか。しかし静かに目を伏している二人からはそのようなつもりがないのは見ればすぐにわかる。
 過去を懐かしみ、故人を悼み、いるはずのない人に心で語りかける――実に非論理的な行為ではある。

 けれど。

 シロウの隣に蹲り、渡されていた数珠を握り締めて手を合わせた。
 人の生と死は理ではあるが、人の感情は理屈ではない。冷たく血の通わない理屈などに比べ、会いたいと願う人にひと目でもと思うその気持ちは尊いものだ。シロウと、そしてイリヤスフィールの行為は無駄なものかもしれないが、間違ったものではない。
 正直なところ、私自身は切嗣との思い出にはあまり良いものはない。彼に良い感情を抱いているとは、決して言えるものではないだろう。
 だから私は自分のためではなく、二人のために手を合わせた。
 年に一度だけでいい、いるならば切嗣よ、たった二人の子らに会ってやってほしいと。



「ところで、ねぇシロウ? あの手を合わせるのって何か意味があることなの?」

 水の入った桶を両手でぶらさげたイリヤスフィールの影が帰り道に短く伸びている。彼女が歩くのに合わせて、麦藁帽子がゆらゆらと揺れた。

「そうだなぁ、なんでだろうなぁ……俺もよくわからないけど、そういうものだから、かな……」
「シロウ、いいかげーん」

 そんな彼女に日傘を差してやりながらシロウは小さく苦笑した。今日のイリヤスフィールは暑いからと、袖のない白いワンピースのスカートの裾をはためかせていたりするから、こうしてシロウが日傘を差してやっている。つくづくシロウは彼女に甘すぎると思う。

「ところで二人とも、切嗣とはどんなことを話したのですか?」
「どんなこと……って言われてもなぁ。別にたいしたことじゃないぞ、セイバーのこととかイリヤのこととか……まぁ今の生活のこととくらいかな」
「わ、私のことですか……?」

 いったいどんなことを話したのだろうか。シロウのことですからよもや食べすぎだとかエンゲル係数がどうとかではないと思いたいのですが……気にならないといえば嘘になる。というか、はっきりと気になるのだがそれを聞くのは少々憚られる。

「で、イリヤは?」
「んー、わたしは別になんにも。そもそもキリツグに会えるとも思ってたわけじゃないし。死んだ人間に本当に会おうなんてこと、魔法でもなければありえないことだもの。……キリツグのことだって、ほとんど覚えてないんだから」

 イリヤスフィールはそう言って、表情をまるで人形のようにさせていた。

「…………」

 シロウの手のひらが彼女の頭に置かれて少し自分のほうに引き寄せる。少しだけ悲しげな顔をしていた。

「あ、でもいっこだけ」
「? それはいったい?」

 思い出したように顔を上げた彼女が、瞳をいっぱいに開いてシロウを見上げた。
 紅色の瞳の中にはシロウだけが映っていて、口元には楽しげな笑みが浮かんでいる。

「来年はね、キリツグのことを『おとうさん』って呼ぼうと思ってるの」
「それは……当然ではないのですか? 切嗣は真実あなたの父なのでしょう?」
「そうだけど、そういう意味じゃなくってー。うん、シロウにも協力してもらわなくちゃいけないの」
「俺に?」

 うん、と大きく頷いて、イリヤスフィールは手に持っていた水桶を放り投げてシロウに抱きつく。
 その光景を私は、眼前に迫りくる水桶越しに眺めていた。

「だってほら、わたしとシロウが結婚すれば、キリツグはシロウのお父さんなんだし、わたしにとってもおとうさんじゃない?」
「いっ!?」
「だからシロウ、えっとこういう時には……『フツツカ者ですがよろしくお願いします』って言うんだっけ」
「い、いや間違ってないけどイリヤ、なんかいろいろと間違ってるような気がするぞっ」

 ……どうでもいいのですが。
 シロウ、イリヤスフィールを甘やかしている暇があるならば、全身水浸しになった私のことを少しは気にしても良いのではないでしょうか。

 髪から滴り落ちる水滴で足元が濡れていく。
 水をかぶって涼しいはずなのにちっとも涼しく感じられないのは現在進行形で怒りがこみ上げてるせいなのでしょう。

 私はとりあえず、頭にひっかかっていた水桶をシロウに思いっきりぶつけることにした。



大小 (2005/7/12)

「じゃ、いってきまーす」
「って、ちょっと待ちなさいイリヤスフィール」

 飛び跳ねるようにして玄関から出て行こうとする彼女の頭を掴んで止める。

「なによぅ、わたしこれから超合金仮面ライダートドロキ買いに行くんだから邪魔しないでよ。中のトダヤマさんが無表情で不気味なんだから」
「そんなものをあえて欲しがる理由が良くわかりませんが、そんなことはどうでもいいのです。今問題なのは、あなたのその恰好です、イリヤスフィール」
「え、これ?」

 イリヤスフィールは自分が着ている服を「どこかおかしい?」と摘んで引っ張りながら、首を傾げていた。
 ……まったく、確かに彼女はまだ幼いが、いい加減こちらでの生活というものに慣れているはずなのに。
 こうまで常識が欠如しているのはイリヤスフィールの教育担当が大河だからでしょうか。――いや、大河はあれで教育現場に身を置いている女性ですし、その辺りに対する常識感覚はまともなものをもっているはず。
 だとしたらやはりこれはイリヤスフィール自身、そもそも常識感覚がおかしいということなのでしょう。
 ともあれ――

「おかしいなどというものではありません、イリヤスフィール」
「普通の体操服とブルマじゃない。どこがおかしいのよ」
「その時点で普通ではなく、おかしいということに気づかないことがおかしいのです」

 半袖から覗く細い二の腕と伸びる彼女の白い足――動きやすい服装であることは認めますが、街中を歩くにはいくらなんでも素肌を晒しすぎている。

「幼いとはいえあなたも女性なのですから、少しは自分の恰好に気を遣いなさい」
「しょうがないじゃない。ここのところの雨で他の服が乾いてないんだもの」
「む……」

 確かに、イリヤスフィールが普段来ている服は全て、今も庭の物干し竿にぶら下がっている。他でもない私自身が選択して干したのですから間違いない。
 しかし……だからといってこのような恰好で街中を歩くようなこと、させるわけにはいかない。そんなことになればまた近所の住人たちになんて噂されるかわかったものではないからだ。
 ……もはや今更という気もしないではないですが、シロウが変質者呼ばわりされるのは彼を守護する身として、絶対に防がねばなるまい。

「いいですか、イリヤスフィール――」
「ん? どうしたんだよ二人とも。こんなところで」
「あ、シロウ!」

 口を開き言いかけたところで居間のほうからエプロンをかけたままのシロウが顔を出してきた。

「ああ、シロウ。ちょうどよいところに。あなたからも言ってやってください」
「? 良くわからないけど何をだ?」

 首を傾げる彼にかくかくしかじかと事の次第を説明する。

「……なるほどなぁ。確かにイリヤのこのカッコは――ちょっとばかり一般向けではない」
「ちょっとばかりではなくかなりマニア向けだと思うのです」

 頷くシロウにしたり、と私も頷くが、やはりイリヤスフィールはそれが不満らしい。唇を小さく尖らせて、

「えー、だってシロウだって嫌いじゃないでしょ、コレ」
「うーん……確かに良いものではあるけれど……でもイリヤ、それだとまるで俺がマニアックな人だと言われているみたいなんだけど」
「マニアックじゃない」
「失敬な! シロウを言峰のような奇人変人と一緒くたにするような言動は止めていただこう。シロウはあくまでもノーマルです! ……多分」
「おーい、セイバーさん? もしかして俺、疑われてますか?」

 そのようなことを言われても過去に実績があるのだから仕方ないではないですか。無論、シロウのことは信じていますが、記憶の片隅にあるシロウの過去の行状が断言することを許してくれないのです。自業自得と諦めていただくしかない。

「それはともかく……イリヤスフィール、今日のところは諦めなさい。幸い今日は良く晴れていますし、明日には乾くでしょう」
「何故? 別にわたしにはセイバーの言うことに従わなくちゃいけない理由はないもの。わたしが良いって言ってるんだからいいじゃない」
「二人ともちょっと落ち着けって。……わかった、イリヤには俺がついていくから。セイバーもそれで良いだろ?」
「そう言う問題では……」
「うん、わかった! わたしはそれでいいから、ほら、早く行こうシロウ」

 言いかけたところでイリヤはシロウを引っ張り出て行ってしまった。
 伸ばした手が虚しい。
「むしろ更に状況が悪くなったのは私の気のせいなのでしょうか……」



 シロウとイリヤスフィールが出かけてからしばらくした後、
「……む、電話ですね」

 お風呂掃除の手を止めて、袖と足元をたくし上げたまま電話を取りに行く。
 濡れていたせいで廊下に足跡がついてしまいましたが、とりあえずそれは後で拭いておきましょう。

「はい、エミヤですが――はい、はい、は……い。わかりました、すぐに参ります……」

 努めて静かに受話器を置き、天井を見上げる。
 果たして私の予感は当たってしまった。やはりこの直感は間違いではなかった。
 なんとしてもシロウを止めるべきだった――そう後悔してももう遅い。とにかく今は二人のもとへと向かわなければ。

 気のせいではなく重たくなった身体を引きずるように動かし、ああ、その前に廊下を拭かなければ……。
 正直、気が重い。身体が重たいのは精神状態が肉体にまで影響を及ぼしているせいだろう。

「それにしても……ああ、シロウ、だから私は言ったのです……」

 今更嘆いたところで仕方のないことだが、あの時止めることができなかった自分を私はひどく嫌悪せざるを得ない。

「あれ? セイバーさんお出かけですか?」
「桜……ええ、ちょっと……警察まで」
「け、警察!? な、なんでどうして……一体全体なにが……!?」

 哀れなほどに取り乱している桜に事の次第を説明してやる。

 シロウとイリヤスフィールは今現在、マウント深山商店街前派出所にいるとのこと。
 なんでも……白昼堂々体操服姿の幼女を肩車して歩いていた不審人物がいたので連行したところ、それがシロウだったこと。
 何故か良くわからないが、巡査長が派手にエキサイトしていること……。

「そ、そんなことが……」
「あったのです。出かける前に止められなかった私にも責任の一端がある。ですから今から行ってシロウを引き取ってきます」

 無論、シロウには疚しいところなど一片足りともないはずなのですが……私はそう信じている。
 しかし事の次第を聞く限りでは事情を知らぬ一般警察官が勘違いしたとしても無理のないところ。これで私のマスターは己の人生に『前科一犯』という汚点を残してしまったわけだ。如何に濡れ衣であったとしても汚点は汚点。もはや拭おうとも拭えない。
 桜もそれがわかっているのか、

「せ、先輩はそんな人じゃありません……」
「わかっています、桜。シロウが幼女に手を出すような卑劣漢ではないことくらい、私とて――」
「先輩が好きなのはきっとおっぱいが大きい女の子ですっ! だって一緒にお料理とかしてても痛いくらいの視線を感じますからっ! 断じてイリヤちゃんとかセイバーさんとか姉さんみたいな貧乳好みなんかじゃないんだからーーーッ!!」
「……って誰が貧乳ですかっ!」



 結局のところ桜と共に事情を説明し、シロウは無事に無罪放免となりました。
 その帰り道、

「まったく……ひどい目に合った。悪かったなセイバー、桜。迷惑かけた」
「そのように気にする必要はありませんが、しかしシロウ、あまりに迂闊です。出かける前に言ったではありませんか」
「なによー、別にいいじゃない」
「ですからっ! あなたがそう周囲の目も気にせずにシロウにくっつくから今回のようなことになるのです!」

 少しも悪びれた様子もないイリヤスフィールが、懲りずにシロウの背中に飛び乗ろうとするのを阻止しながら家路を歩く。

「せ、先輩っ! 先輩は大きいのと小さいのと、本当のところどっちが好きなんですか!? 正直に答えてください!」
「は、はぁ?」
「も、もし……万が一先輩がそっち派なら……わたし、努力しますから!」
「あー、言ってることが良くわからないんだが、とりあえず落ち着いてくれ桜」

 というかそもそも努力してどうにかなるようなものではない気がしますが。
 ……努力してどうにかなるようなものなら、今頃私も凛も……いえ、別に小さいからといって私は気になどしていませんが。

「んー、まあ、どっちかといえば大きいほうがいいんじゃないか? 何のことかわからないけど、大は小を兼ねるというし」
「なっ!? し、シロウ! あなたは小さいというだけで差別をするというのですか! その言、訂正していただきたい!」
「って、今度はセイバーかよ!」



 などと、そんなことにばかり気をとられていたせいか、私は周囲がわたしたちに向けている視線にまるで気づいていなかった。
 我ながら不覚です。
 白昼堂々、背中に幼女を張り付かせた殿方を中心に胸の大小で言い争うなどと、恰好の噂の種になるというのに……。

 数日後、衛宮士郎は幼女好きのおっぱい星人だというあまりにも不名誉な噂が流れ、しばらく人目を忍ぶ羽目になったのは言うまでもありません。



雨漏り (2005/7/5)

 連日続く雨模様。一昨日からずっと空をひっくり返したかのような雨が、足音も高く降り続けていたのですが、まさか部屋にいながらにして雨に降られるとは思ってもみませんでした。

「あー、こりゃダメだ」
「ダメですか?」

 部屋の天井を見ていたシロウが首を振りながら降りてきてそう告げる。

「屋根のほうまで完全にいっちゃってる。徹底的に直さないとダメみたいだ」
「そうですか……」

 雨漏り、というものだそうです。毎日の雨空で溜まった雨水は、屋根を伝い天井に染み込み、今もなお私の部屋に降り注いでいた。
 さすがに今は部屋のそこかしこにバケツを置いて床まで濡れるのは防いでいますが、それまでに蒙った被害は甚大。折り悪く、わたしが眠っている間のことだったので、畳は愚かふとんまで水浸しになってしまっていた。

「それにしてもセイバーも、雨漏りしてるのに朝まで気づかないなんてたいしたもんよね」
「……それについては反論のしようもありません」

 瞳にあからさまな揶揄を込めて笑っている凛に、今回ばかりは言い返すこともできない。
 我ながら不覚でした。これが敵意を持った相手ならば即座に気づいたのでしょうが……。それにしてもふとんが濡れていることにも気づかないとは、私はそんなに寝汚かったのでしょうか。

「ところで士郎、雨漏りの修理はいいとして今日のセイバーの寝るところどうするのよ。いくらなんでもあの部屋で寝かせるわけにはいかないし、ふとんだってびしょびしょじゃない。今日も雨降ってるし、夜までには乾かないわよ」
「ああ、そうだな……それじゃセイバーは今晩俺の部屋を使ってくれよ」
「なっ! そ、そういうわけにはいきません! それではシロウはどこで寝るのですか!」
「俺は居間かどこかで寝るからいいよ。雨は降ってるけどここのところあったかいし、毛布の一枚もあれば十分だろ」
「しかし……」

 シロウはそう言うが、いくらなんでもマスターである彼を居間に寝かせておいて、シロウの部屋を私が使うわけにはいかない。

「しかしもかかしもないだろ、セイバーは女の子なんだから」

 ……が、この人はこういうことを言う人なのだ。
 こうなってしまった以上、シロウはテコでも動かない。普段、凛やイリヤスフィールに対してはあれほど弱腰なのに、こういう時だけは非常に頑固だ。
 そんなこと、私も凛も嫌というほど知っている。
 だから私たちは互いに顔をあわせて、苦笑を浮かべるしかなかったのだ。



 その日の夜、私はシロウの部屋で床につき、天井を見上げていた。
 シロウのふとんに包まっていると気のせいだろうか、まるで彼のにおいに包まれているような気がする。なかなか寝付けないのはそのためだろうか。頬が熱くなってくるのは気のせいではないだろう。
 外はまだ雨が降っていた。この様子ではきっと明日も雨になるだろう。夏も間近に迫り、既に足を踏み入れている今の季節ならば夜といえど蒸し暑いものだが、連日連夜続く雨のせいか、少し肌寒い。
 なのにシロウは畳敷きの居間で毛布一枚というのはさすがに酷ではないだろうか。

 だとしたら、私はどうすればいいのだろうか。
 彼一人をそのような目に合わせて、私一人暖かなふとんで眠るなど、許されたことではない……と、思う。きっとシロウはそんなことなどないと反論するのだろうが、彼の気持ちは嬉しいけれど私はそうは思わない。
 口元にふとんを手繰り寄せ、頭までかぶるとまるで――。

「…………」

 包まっていたふとんから身を起こして、天井を見つめる。
 ……私の部屋が雨漏りしたのであれば、続きになっているこの部屋もそうならないとは限らない。
 だとしたらこのままこの部屋で眠り続けるのは愚かというものだろう。濡れることがわかっているのに、ここで一人で眠らなくてはいけない理由などない。

 そう――ならばきっと仕方のないことなのだ。
 きっとその方がずっと正しい。

 ふとんをたたんで、濡れないように押入れにしまって、それから向かう先は決まっている。
 眠っている人たちに気づかれないよう、足音を殺してその場所へ。
 足音とは別の、私の中から高鳴っている音が外に漏れていないか、それだけが心配だった。



 ――そばでもぞもぞと何かが動く感じがして、私は薄く瞳を開いた。

 まだ重たいまぶたのその裏側に、外から差し込んでくる太陽の日差しが飛び込んでくる。まだ少しぼんやりしている頭で、どうやら自分の心配が杞憂だったことを知った。今日の空には太陽が浮かんでいた。

「う……もう朝かよ」

 と、耳元を眠たげな声がくすぐる。
 そちらに首を動かすと、見慣れた赤い髪がまず視界に入って、次いでその髪の持ち主と視線がぶつかった。

「……おはようございます、シロウ」
「ん、セイバーか……おはよう」

 まだ半分夢の中にいるらしいシロウは小さく笑い、ふとんの中に入れていた手を伸ばして私の髪に触れた。
 ゆっくりと髪を撫でるシロウの手のひらを感じながら、少しだけ身を寄せて額で彼の肩に触れる。

 ――眠たい……このまま眠ったらどれだけ気持ちがいいだろう。

 そんな欲望に抗うことなく、もう一度瞳を閉じようとして、

「……セイ、バー?」

 ふと、硬くなった声と同時にシロウの手のひらの動きが止まった。

「セ、セセセセイバー……?」
「はい……なんでしょうか、シロウ。私は、ここにいますが」
「いや、その……なんででしょう?」

 どうやら完全に覚醒したらしいシロウと、お互いの体温で温もった毛布の中で見詰め合う。
 しかし、なんででしょう、とは――ああ、そういうことだろうか。
 私はまだ起きていない頭をほんの少しだけ働かせて、シロウの問いに答えた。

「雨漏りです」
「……は?」
「ですから、濡れる前に避難させていただきました」

 それだけ言って、私は今度こそ瞳を閉じた。

 二度寝は心地よい。
 寝汚いと言われるかもしれないが、これだけ安らかなぬくもりに包まれているのだから抗う術などありはしない。
 意識がゆっくりと眠りの淵へと落ちていく。
 その途中、桜と凛と、そして焦っているシロウの声を聞いたような気がしたが――それすら何の妨げにならず、私は再び夢の世界へと潜り込んでいた。



 起きてからシロウと並んで正座して、凛からお説教されたのはまた別の話である。



生理現象 (2005/5/15)

「…………」
「うわ……すごいことになってる」

 朝、いつものように土蔵で眠ってしまっていたシロウを起こしにきてすごいものを見てしまった。
 その……すごいというか、なんというか……困るのですが……。それが当たり前のことと知ってはいたのですが、いざこうして目の当たりにするとどうしたらいいものか対応に苦慮する。

「ねえ、セイバー。シロウ、起してもいいのかな?」
「わ、私に聞かないでください!」
「わたしも初めてだから聞いてるのに。もしかしてセイバーも初めて? これ見るの」
「あ、当たり前ではないですか……」

 イリヤスフィールはふぅん、と一つ頷いて目の前のそれにまじまじと見入っては感心したように嘆息を漏らしている。恥ずかしくはないのだろうか、それとも相手がシロウだからか? 少なくとも私には彼女ように堂々と直視できない。
 ちらりとそこに目を向けてみるが、やはりなんというか……すごい。顔に血が上ってくるのが自分でもわかる。
 これが朝の男性の生理現象だというのは知っていますが、何故こんなにもすごいことになるのだろうか。何か特殊な夢でも見ていたのだろうか。

 ――って、何を考えているのだ、私は。

 我ながら一瞬とはいえ思い浮かべた内容に赤面してしまう。そのようなことは……ありえるかもしれないが、考えないほうが自分のためだろう。

「ねえねえセイバー」
「! なっ、なんですかイリヤスフィール?」
「……なに驚いてんの? 変なセイバー。そんなことよりこれなんだけど」

 目の前でこれだけ騒いでいるにもかかわらず気持ちよさげに寝息を立てているシロウのある一点――当然、生理現象をこれ以上ないほどに体現しているその部分を指差し、

「触っても大丈夫かな」

 イリヤスフィールはとんでもないことを言い出した。

「だっ、駄目に決まっているではないですか! 突然なんて事を言い出すのですかイリヤスフィールッ、変なアニメかマンガの、見すぎです! も、もしやこっそり大人の人しかやってはいけないゲームでもやっているのでは……」
「やってないわよ別に。もう、レディに対してなんてこというのかしら。それにセイバーだって興味ないわけじゃないんでしょ?」
「それは……」

 全くないといえば嘘にはなる。これでもいちおう私は殿方の喜ばせ方くらい知っていますが……相手がシロウなのであればまた話も違ってくるものだ。
 とはいえ、やはり触るのは駄目だ。特にイリヤスフィールにはまだ早い。殿方のこれがこうなっている時にいろいろすると……大変なことになるのです。

「うわぁ……かた」
「って! 触ってはいけないと言ったではないですか!」
「ちょっと突いただけじゃない。でも何も起きないね。シロウも起きないし」
「起こられても起きられても困ります!」

 起きてしまったらもはや取り返しのつかないことになるだろう。シロウのことだから激しくショックを受けて引きこもってしまうかもしれない。
 そうなる前に人差し指で恐れた様子もなくそれに触れているイリヤスフィールを無理矢理そこから引き剥がそうとすると、

「なによ、まだ起きてこないの士郎? まったくなにやってんのよあんた……ら」
「「あ」」

 いつの間にかやってきていた凛と目があった。
 私はイリヤスフィールを羽交い絞めにし、イリヤスフィールはなおも触れようと手を伸ばしている。そして凛の瞳はゆっくりと動いて眠っているシロウへと向かい、

「あ」

 その一点でぴたりと止まった。
 青くなり紅くなり、口元がぴくぴくと震え始める。凛の魔力と闘気が徐々に膨れ上がる。これは非常にまずい、危険です。――シロウが。

「猥褻物陳列罪ッ! ロリコンッ! 婦女暴行現行犯ッ!」
「ま、待ってください凛! 前二つはともかく一番最後は未遂です!」
「というか、むしろ逆なんだけどね」

 左腕に魔力を纏い始め、右手の指にどこから出したのか宝石を三つ挟み込み今にも土蔵を破壊する気満々の凛にしがみつく。そうでもしなければ一瞬後には我が家の庭は隕石でも落ちたかのようなクレーターが出来上がってしまうだろう。そうしてワイドショーのネタとしてお茶の間に話題を提供することになるのだ。
 それはできない。シロウのサーヴァントとして、主をそんな屈辱的な物語の主役にしてヒロインにするわけには断じていかない。

「お、落ち着いてください凛!」
「落ち着けるかばかー! お、乙女に朝っぱらかなんてもの見せるのよこやつはーっ!」

 手負いの獅子ではないが照れ怒って我を忘れた凛の力は思いの他強い。
 いったい何が彼女をここまでにさせるかはわからないが、このままでは……。

「なんだ……うるさいな。もう朝か……?」

 と、その時ようやくシロウが目を覚ました。

「セイバーに……イリヤ。それに遠坂か……いったいなんだってんだよ……」

 まだ眠たそうな瞳をこすりながら私たち一人一人を見回し、そして自分自身を見下ろす。

 ――そしてシロウは凍りついた。



「シロウ! シロウ!! ここを開けてください! 朝ごはんの時間です!」

 閉ざされた土蔵の扉を力いっぱい叩く。しかし内側から扉は開かれることなく、硬く閉ざされたまま。ただ、私が叩く鈍い音だけが響き渡る。
 いや、それだけではない。
 時折思い出したように、すすり泣きの音が低く耳に届く。ああ……泣くほど悲しいことだったのですね、なんて哀れ。

「別に恥ずかしいことじゃないのに。ねぇ、リン」
「……十分恥ずかしいことよ」

 平然としているイリヤスフィールと真っ赤になったままの凛がお互いに違う意味合いのため息を交わす。その間も私は開かない扉を叩き続ける。

「シロウ! イリヤスフィールが言う通り恥ずかしいことではありません! 私は、その……気にしてません! 貴方は立派でした!」
「何がよ」
「ナニじゃないの?」



 結局その日、夕暮れ時になってからシロウは無理矢理引きずり出された。凛が土蔵の扉を力づくで破壊したのだ。
 シロウは子供のように泣きじゃくり「お婿にいけない」とつぶやいていたのだけ追記しておこう。



酒日和 (2005/4/22)

「……遅い」

 もうこのつぶやきも何度目になるだろうか。
 時刻は夜の七時。今日はシロウたちが帰ってくる日なのだが、予定の時間をすぎてもまだ帰ってくる気配はない。

「もうとっくに着いていてもおかしくないわよね、あの子たち」

 眠っている赤子を抱いたメディアが時計を見ながらつぶやいた。

「せっかく美味しいお酒が入ったから飲もうと思って持ってきたのに」
「……衛宮と遠坂は未成年だ。飲酒は許されんぞ」
「ええ、ですからこれは私たちが飲むの。こんないいお酒、味のわからない子供たちに飲ませてももったいないもの」

 退院したばかりの母親が飲酒するのもどうかと思いますが、彼女とてサーヴァントですから多少は問題ないだろう。
 それよりも問題はシロウたちです。せっかくメディアと宗一郎も子供を連れてきてくれているというのに、どこで何をしているのだろうか。もしや凛がうっかりしていて飛行機の時間に間に合わなかったとかそういうことがあったのだろうか。
 考えたくないことだが……何か事件に巻き込まれたという可能性もある。

「落ち着きなさい、セイバー。あの子たちだって子供じゃないんだからそのうち帰ってくるわよ。それにアーチャーだってついているのでしょう? 何かあったとしても大丈夫よ」
「む……それはそうなのですが……」
「まったく、ほんとにあなたはあの子が関わると途端に子供になるんだから」

 ……失敬な、そのようなことなどありません。
 とは、思っても口に出すことはしない。言ったところでどうせまたからかわれるだけだ。口でメディアに勝てるなどとは思ってもいない。

「そんなに気にすることないわよ、人には得手不得手があるのだから」
「そうですね……って、何故私の考えていることまでわかるのだ!」
「顔見ればわかるわよ。あなたといい士郎君といい、正直に顔に出すから見てて飽きないわ」

 悔しいが言い返せない。少なくともシロウに関しては彼女の言う通りとてもわかりやすいのだから。

「だからそんなに悔しそうな顔しなくてもいいの」
「くっ……」

 心底楽しそうに笑うメディアから逃げるようにして顔を背ける。
 壁にかかった時計の針が首を傾げ、私の顔を不思議そうに見つめていた。



「だいたい最近のシロウはだらしないのです! 誰にも彼にもいい顔をしすぎなのです! 凛や桜はともかく最近は由紀香にもそうですし、イリヤスフィールに抱きつかれて嬉しそうにするなど……緩みっぱなしなのです!」
「ふむ。しかしそれは女だけではなく男にもそうなのではないのか?」
「なっ!? では宗一郎はシロウは女性だけでなく男性にも手を出すような見境なしの人間だと、そう言いたいのか! だとすればそれは……危険です!」
「いい具合に面白く酔ってるわね、セイバー」
「私は酔ってなどいない!」

 だいたいこの程度のお酒で酔ってしまうほうがおかしいのだ。確かに多少酒精が身体に回ってはいるが、まだせいぜいがほろ酔いといった程度だ。

「子供ではないのです。あまり私を甘く見ないでもらいたい」
「でも体型は子供よね。胸の辺りとか特に」
「……胸なんて飾りです。シロウにはそれがわからないのです。だいたいあの本、あれで隠したつもりなのでしょうか。それに胸の大きい女性ばかりでしたし……あれは私に対するあてつけのつもりなのか?」
「しょうがないんじゃないかしら、男の子なんだし」
「くっ……宗一郎、もう一杯ください」

 コップの底に残っていたお酒を一気に飲み干し、瓶を抱えていた宗一郎に突き出す。
 しかしこのお酒、良いものだというだけあって確かに美味しい。
 本来ならばこのお酒はシロウたちが帰ってくるまで開けないはずだったのですが、いつまでも帰ってこないシロウたちにこのように良いお酒を飲ませるのはもったいないというものです。

 無言で注がれる透き通った液体がコップを満たしていく。注がれていく液体を通して向こう側に見える宗一郎の強面がゆらゆらと揺れ、それに合わせるように私の頭もゆらゆらと揺れる。
 ……なるほど、確かに少し酒精が回ってきているようだ。

「……メディア、なにやら顔が宇宙的な顔になっているのですがどうしたのですか? 何か宇宙的な電波でも受信したのでしょうか、マイクロウェーブとか」
「……今のあなたに私がどのように見えてるかわからないけど、この発言は聞かなかったことにしてあげるわ。でないとすごいことをしてしまいそうだわ」
「すごいことですか?」
「すごいことよ」

 すごいことというのがどういうことかわかりませんが、何か嫌な予感がするので考えないことにしようと思う。

 しかし、シロウたちはまだ帰ってこないのだろうか。
 もう既に八時をすぎている、いくらなんでも遅すぎるのではないだろうが。帰ってきたらお説教ですね。

「おーいセイバー、ただいまー」

 と、玄関のほうからシロウの声が聞こえてきた。意識をそちらに向けると人の気配が幾つも感じられる。
 はて、シロウと凛だけならば気配は二つだけのはずなのですが……。

「ただいま……って! なんなんだどうしたんだよセイバー!」
「なにこれ、ちょっとお酒臭いわよ?」
「黙りなさい。そしてそこにちょっと座りなさい、もちろん正座です。……言っておきますが私は怒っているのです。というか、何故イリヤスフィールとメイドコンビまで一緒に帰ってくるのですか!」

 どうやら気配の正体はイリヤスフィールと、リズセラの二人だったようだ。

「シロウと一緒にイギリスから帰ってきたからに決まってるじゃない」
「なっ……! シ、シロウ! あなたは私というものがありながらよりにもよってイリヤスフィールを……!」

 必死になって違う違うと頭を振っているが、腰にイリヤスフィールを張り付かせたままでは説得力などない。
 ……なるほど、そういうことならばこちらも容赦する必要などない。

「もう今日という今日は勘弁ならない。シロウ、あなたには言いたいことがあるのです」
「セイバー、おまえちょっと酒臭いぞ。酔ってるだろ」
「誰のせいだと思っているのですか!」

 シロウを無理矢理に座らせまず何を言ってやろうかと考える。

「ところでメディアが抱いてる赤ちゃんって、もしかして生まれたの?」
「ふむ、女の子か……母親似になるといいな」
「って、アーチャー、あんたいきなり出てこないでよ。びっくりするじゃない」

 というか、やかましいです。なんなんですか、帰ってきたそばからこの騒がしさは。
 いつものことといえばいつものことですが、人が説教をしようとしている時くらい静かにしていても良いではないですか。

「まあ、なんていうか……帰ってきたなぁって感じだな」
「……そうですね」

 凛もアーチャーも既にお酒に手をつけ始めているし、あろうことかイリヤスフィールまで飲もうとしている。しかもそれを誰も止めようとしないのはどういうことなのだ。

「まったく……シロウ、この場は一時預けておきます。明日にでも厳しく鍛えなおして差し上げますから覚悟しておいてください」

 一先ずはイリヤスフィールをお酒から引き剥がすのが最優先だ。
 このまま酒宴になるのは仕方ないとしても、さすがに彼女がお酒を飲むのを看過することはできません。それに何故イリヤスフィールがシロウたちと一緒にいたのか、その辺りの事情も聞かなくてはいけませんし。
 ……シロウたちとの再会を懐かしむのはその後でも良いでしょう。

「りょーかい。……やっぱセイバーはセイバーだよな」
「? どういう意味ですか?」
「いや、気にしなくてもいいよ。それよりもさ……ただいま」
「……おかえりなさい、シロウ。帰ってくるのを待っていましたよ」



退屈な一日 (2005/4/10)

「暇ですね……」

 雨が降り続ける日曜日。シロウたちはまだ帰ってきていない。
 ここのところ自分も暇なのか、勝手にやってきて勝手にお茶菓子を食べていたライダーも今日はおらず、家には私一人だった。
 退屈しのぎにテレビをつけてみても興味を引くような番組はやっていない。雨音に混じって流れるただの雑音と化している。
 道場で鍛錬をしようにも一人だけでは意味がありませんし、外に散歩に行こうにもこの雨ではどうにも行く気がしない。濡れてしまうのはわかりきったことですし。

「…………」

 自分でお茶を淹れ、残っていた最後のお茶菓子に手をつける。どら焼きは確かに美味しいが、これで暇を潰せるわけでもない。食べてしまえば全ては私の胃の中です。

「……ゲームでもやってみましょうか」

 以前、大河が持ってきたゲーム機は、専らイリヤスフィールの遊び道具と化している。
 テレビ台の下から黒い箱を引っ張り出し、線を繋ぐ。イリヤスフィールはよくシロウを相手にゲームをやっているのですが、それを見ているうちに私も自然と覚えてしまった。
 正直なところ……線の繋ぎ方はわかってもゲームの遊び方はほとんど知らないのですが、まあ多少の暇を潰せるのならいいでしょう。確か対戦格闘とかなんとかいうものだったと記憶していますが……。
 ゲーム機のスイッチを入れるとテレビにゲームの画面が映し出される。コントローラーのボタンを適当に何度か押すと自分の操る人物を選択できるようになるので、私は箒を携えた女性を選ぶことにした。……というか、何故箒なのでしょう。

「まあ……所詮はゲーム、幻想の中での戦いです。曲がりなりにも英霊である私が、たとえ武器が箒とはいえ敗北することなどありえないでしょう」

 軽やかな音楽と共に戦いが始まる。私は手にしたコントローラーを駆使して、向かってくる敵に飛び掛っていった。


『斬刑に処す――その六銭、無用と思え』


 ……高らかに鳴り響く敗北のラッパ。画面の中では倒れ伏したまま動かない私を見下ろし、ナイフを手にした青年が口元を歪めている。

「む、無念です……しかしっ、何故貴女は敗れて緊張感のカケラもなく笑っているのですか! 貴女には誇りというものがないのですか!」

 などといくら毒づいたところで結果が覆ることはない。むしろ彼女は良くやってくれたように思う。
 いかにまるで緊張感がなく、不可思議な魔女に変身したり奇怪な植物を操ったりと理解に苦しむところがあったとはいえ、彼女を選び、操ったのはこの私だ。敗北の責は全てこの私にある。
 だがしかし――だからといってこうも立て続けに敗北を重ねるのは――。

「……今日はここまでにしておきましょう」

 これ以上戦いを重ねたところで敗戦の記録を重ねるだけにすぎない。勝てない戦に敢えて挑むのは蛮勇の為すことだ。いずれはこの屈辱は晴らしてみせる。
 ……まあ、琥珀という名の少女が屈辱を感じているかどうかは甚だ疑問ではありますが、さしあたってシロウが帰ってきたら鍛錬に付き合っていただき、私が負った汚名は返上してみせましょう。

「しかし、また暇になってしまいましたね」

 ゲーム機を片付け、部屋の中の音は雨音と私の独り言だけとなる。
 猫と遊ぼうにもこういう時に限って彼らはいない。朝寝ている時や洗濯をしている時などは呼んでもいないのにやってきて邪魔をしてくれるものだが、いてほしいときに限っていないのだから猫とは至極勝手な生き物だ。
 時計を見ると針は午後の三時をさしている。本来ならばおやつの時間なのですが、あいにくお茶菓子は先ほど全て食べてしまいました。空はまだ灰色に澱んだ雨模様、これでは外出する気にもならない。

「……こうなれば已むを得ません」

 寝ましょう。



(セイバー、セイバー)

 ――誰だろうか。
 とろりとしたまどろみに、誰かが優しく呼びかけてくる。大きな手のひらが、ゆりかごを揺らすように私を揺らす。それがまた私を深いまどろみに誘うということも知らずに。

(セイバー、起きろセイバー)

 その手を避けるように身を縮めた私に、声はなおも呼びかけを続けてくる。
 ――私は眠いのです。もう少し眠らせてください、シロウ。

(セイバー)

 ――シロウ?

 浮かんだその名前に一気に意識が覚醒した。
 ここにいるはずがない、そうわかっているはずなのに、そのことを理解する前に期待だけで身体が反応する。

「し、シロウ!?」

 声をあげてその名を呼び、跳ね起きる――。

「…………」
「…………」

 目の前には髑髏が二つ、並んでこちらを見つめていた。

「ッ――!!」

 思わず悲鳴をあげそうになる声を口を塞ぐことで無理矢理押さえ込み、その場から飛び退いて完全武装。全て無意識のことだった。

「なっ、どっ――どうして二人がここにいるのですか!」
「食事の時間であるが故に起こしたのだが。そのように驚かなくても良いではないか」
「あ……いや、しかし」
「見ろ、魔術師殿が激しくショックを受けておられる」
「…………」
「案ずるな魔術師殿、貴殿は決していらない爺さんなどではない」

 はらはらと落ち窪んだ眼から涙を零す蔵硯の背をハサンの大きな手が優しく撫でて慰めている。うなだれている蔵硯の姿を見ていると、さすがに罪悪感が込み上げてくる。
 しかし……シロウと思って目覚めたところにあの二人の顔が至近距離で並んでいたのでは、驚くなというほうが無理ではないだろうか。

「ともあれセイバーよ、食事にしよう。疾く、武装を解いて席に着け」
「……はい」

 ハサンの長い右手が台所まで伸びて食器を取り、私の前に並べる。
 ……私はあの手をシロウの手と勘違いしたというのか。

「私としたことが……不覚です」
「む? 何か言ったか?」
「いえ、気のせいでしょう……大丈夫ですから、そのように見つめないでください、蔵硯……」

 シロウ、早く帰ってきてください。この生活は……疲れます。



御出産 (2005/4/3)

 シロウたちがイギリスに旅立ってから二日がすぎた。
 当初の問題であった食糧事情も……少々釈然としないものの解決しましたし、今のところは何事もなく平穏無事に過ごせている。シロウたちだけでなく大河や桜もまた冬木市にいないので、実に静かなものです。もっとも今まで騒がしかったのが急に静かになると僅かに寂しく感じるのもまた事実ではありますが――。

「……さて、洗濯物もこれで全部ですね」

 洗濯機から引き上げてきた洗濯物を籠に入れ、庭の物干し竿に干していく。ついでにふとんも。
 今日は天気も良い。この陽気ならばきっと夕方になる頃にはすっかり乾いてくれるでしょう。午後から雨が降るという予報もありませんでしたし、夜は柔らかい寝床で寝ることができるでしょうか。

 と、洗濯籠の一つ目を終え次に取り掛かろうとしたところで、耳が微かな音を捉えた。
 電話――取りに行かねば、そう思った途端に呼び出し音が唐突に途切れる。
 そういえば今はライダーが来ていたのだった。きっと彼女が取ってくれたのでしょう。

「セイバー、電話です」

 どうやらその予想は当たったようだ。ライダーが電話の子機を片手に縁側に顔を出してきた。

「誰からでしょうか。シロウですか?」
「期待に沿えず申し訳ないのですがキャスター……メディアからです。何やら切羽詰った様子でしたが」
「? メディアから?」

 はて……メディアがいったい何の用事だというのだろうか。それも切羽詰っているとはいったい……?
 ともあれ電話に出てみればすぐにわかること。いつまでも相手を待たせるのも失礼ですし。

「もしもし、メディアですか? セイバーですが」

 ライダーから子機を受け取り通話のボタンを押す。
 ちなみに凛はまだ子機の操作がわからないらしい。以前も電話を取った時に子機への切り替え方がわからず往生していたことがあった。ただボタンを押すだけだというのに、不思議なことだ。魔術の式を覚えるほうがよっぽど大変だと思うのだですが……。
 まあ、それは余談ですね。

「メディア、私に何か用事なのでしょうか」
『…………』
「メディア……? 用があるならあるで早くしてほしいのですが。今、洗濯物を干している途中なのです」

 二度三度と呼びかけるも、しかし電話の向こう側から返答がない。

「聞こえているのですか!? 用がないなら切りますよ!」

 もしやこれが音に聞く無言電話というものかと思い、思わず声も荒くなる。
 しかし本気で切ってしまおうと、指をボタンにかけたところで、受話器の向こう側から途切れ途切れの声が――。

『セ、セイバー……う、生まれる……!』
「……は?」

 そこで唐突に電話が切れてしまい、後に残るのは無常に響くぷーぷーのみ。ぷーぷーとなると、それは即ち電話が切れたということです。シロウに教わりました。

 ――そんな薀蓄を思い出している場合ではありません。

「ライダー! 今すぐ学校に飛んで宗一郎を病院まで連れてきてください!」
「何故ですか?」
「説明している暇はありません! 私は柳洞寺に行きます!」

 相手はメディア。そしてあれほど切迫した様子で生まれるとなれば答えは一つしかない。
 事は緊急を要する。ほんの僅かな時間でも無駄にはできません。
 ライダーの返事を待つことなく、この身に持ちうる魔力を全開にして柳洞寺へと急いだ。


 柳洞寺に急行し、倒れていたメディアを連れて病院に来てから一時間ほどが経過している。メディアは既に手術室に入り、私はぼんやりと椅子に座っていた。
 さすがに気持ちが落ち着かない。まさかこの時代で子供の出産に立ち会うことになるとは思ってもいなかったが……ともあれ今は母も子も無事でいてくれることを願うしかない。なにせサーヴァントの出産など、古今類に見ないことでしょうから。

「セイバー、ここにいたのですか」
「ライダー、それに宗一郎も……と、その髪型はどうしたのですか?」

 ライダーと共にようやく現れた宗一郎の髪形は、何があったのか前髪が全て後ろに逆立っており、その下にいつもと変わらない彼の強面がある。

「ここまでペガサスを使ってきたので、風圧でこうなったのでしょう。気にしないことです」
「ペガサスを……? それにしては随分と時間がかかりましたね」
「病院と言われてもどこの病院かわからなかったので。一つ一つ訪ね歩くのは骨が折れました」
「……なるほど」

 心なしか眼鏡から届くライダーの視線がいつもより冷たいような気がする。……仕方ないではありませんか、事は緊急を要したのです。

「……セイバー、メディアはここか?」

 と、その低い声に振り返ると、宗一郎がいつもと変わらぬ表情でじっと目の前の扉を見据えていた。手術中のランプはいまだ点灯したままだ。中では今もメディアが自分の子のために必死に戦っている。
 サーヴァントであることなど関係ない。魔力の多寡も宝具の優劣も、英雄としての肩書きも何も関係ない、ただの人間としての戦い。それも初めての――。

「メディアは誇らしげに笑っていました」
「…………」
「大丈夫です」
「……そうか」

 そうつぶやくと、宗一郎は私から少しはなれた場所に腰を降ろし、そのまま瞳を伏せた。きっと彼はこのまま、メディアが出てくるまでは一歩も動かないだろう。その姿からは巌のような意志が感じられた。


 そしてそれから時計の針も見飽きた頃になって――手術室の中から子供の泣き声があがった。


「宗一郎……」
「…………」

 蛍光灯が切れかかった誰もいない待合室。宗一郎はそこで一人で佇んでいた。
 子供が生まれて……メディアの傍らに産着を着た赤ん坊が眠っている病室から、彼は何も言わずに、何もせずに立ち去った。
 生まれたばかりの我が子を抱き上げることもせず、ただじっと子供を見つめた後、静かに病室から出て行った。

「嬉しくなかったのですか?」
「…………」
「あの子は、あなたの子なのですよ?」
「……わかっている」

 沈黙が落ちる。宗一郎は自分の手のひらを開き、そこに視線を落とした。
 何もないはずの手のひらの中、彼は何かを見ているのだろうか。本当ならば今頃我が子を抱き上げているはずの手のひらに、今は何もない。

「それでは何故、抱いてやらぬのですか? あなたとメディアが互いに望んで生まれた子だ。愛していないはずがないでしょう」
「……私はかつて人を殺したことがある」
「……聞きました」

 葛木宗一郎がこの地に来る前の過去の話。詳しい事情は知らないが、ただその事実のみを聞いて知った。
 ……だからか。

「血で汚れた己の手が、我が子を穢すのを恐れているのか?」
「……私には、あの瞳が綺麗すぎた」
「どういうことですか?」
「返り血に塗れ、薄汚れた自分しか見えなかった。何度手を拭おうと血の色は落ちず、臭いも消えなかった。いかに装ったところでそれが私だ。真実も本質も、決して消えることはない。……あの赤子のあの瞳の中には、そんな私が映っていた」
「…………」

 つまりは恐れたということか。我が子の瞳に汚れた自分が映っているのを見て――いや、そう錯覚して恐れた。

 ……あの時のことを思い出す。
 魔術師の力を借りてまで成した我が子の泣き声から、私は逃げ出した。この腕に抱いてやることもなく、ただの一度も省みることはなかった。
 円卓で顔を合わせても玉座にいた私はあくまで王であり、あの子の親ではない。ぬくもりの一欠けらもない声で叱責し、親として子を誉める言葉も何一つかけてやれず、あったとすればただひと言で終わる労いの言葉くらいだろう。認められようと必死になっていた子に対し、その言葉はどれだけ冷たく響いただろうか。
 王と騎士――支配する者と従う者――私と私の子は、そんな血の通わぬ関係でしかなかった。そして最期には――。

「……それがなんだというのだ」

 気がついたら口から言葉が漏れていた。だが構わない。

「確かにあなたは人を殺したかもしれない。いずれあの子があなたの過去を知る時も来るだろう。しかし――」

 感情の赴くまま宗一郎の襟首を掴み寄せる。

「だからと言って貴様はあの子の父親であることを放棄するというのか! 人殺しの過去が真実であるというならば、メディアという女を愛し、その間に子をなしたのもまた真実であろう! 過去からも未来からも目を背け、これからも生きたまま死んでいるつもりか!」

 目の前にある巌のような無機質な表情。その顔に吐きかけるように言葉を叩きつけた。
 メディアは笑っていた。子ができたと嬉しそうに語っていた。慈しむように膨らんだ腹をなで、生まれてくる我が子のために何冊も本を買い込み、そして今日、戦って子を産んだ。
 だが――。

「メディアとて……同じなのだ」

 彼女は人間ではない。遥かな過去に生を受け、その身を世界に召し上げられた、私と同じ存在。

「知っているはずだ。メディアも元は英霊、それも人々に忌み嫌われ、邪悪と罵られた女性だ。他者の勝手な都合で望まぬ裏切りを強いられて我が手を血で汚し、最期には裏切られて失意の内に命を落としたのだ。彼女の手も血で汚れている、不安も恐れもないはずがない。それを……」
「…………」
「貴様も彼女の幸せを、裏切るのか」

 掴んでいた手を離し、宗一郎を解放する。
 彼は瞳を伏せ、黙ったまま開いた手を握り締めていた。

「……すまん」
「わかったなら早く二人のところへ。待っているでしょうから」

 頷くと宗一郎は踵を返し、真っ直ぐに背筋を伸ばしたまま去っていった。
 ――心なしか足早に。

「……は」

 思わずため息を漏らし、手近にあったソファに腰を降ろす。
 ……少し、疲れた。
 私にあのようなことを言う資格があったのかどうか……いや、かつて我が子を切り捨て、この手で殺してしまった私にそんな資格はきっとないのだろう。だがそれでも、あの二人――三人には幸せになってもらいたい。
 どんな罪悪や業を背負っていたとしても、この平穏な時代にあれば幸福を掴むことができるのだと――そんな証がほしかった。
 その証があるのならば――。

「……シロウ」

 何故だか無性に彼に会いたくなった。


 翌日訪れた病室で、メディアは幸せそうに微笑んでいて、その傍らには眠る我が子を抱く宗一郎の姿があった。
 ……まあ、子を抱きながらもいつものしかめつらしい表情はどうかと思いましたが……良しとしましょうか。



出発 (2005/3/27)

「それじゃセイバー、俺たちは行ってくるけど家のことは頼むな」
「了解いたしました。心置きなく旅行を楽しんできてください、シロウ」

 シロウたちは今日からかねてよりの予定通り、イギリスに卒業旅行に向かいます。私とライダーはその見送り。本当だったら桜もくるはずだったのですが、彼女は今日から弓道部の合宿があるとかで不在なのです。
「俺たちがいない間メシの支度とか大変かもしれないけど、大丈夫だよな?」
「無論です。私たちとて子供ではないのですから、心配は無用です」
「士郎も心配性なんだから……そんなに心配ならセイバーもイギリスに連れてきゃいいじゃない」
「そうできるならそうしてるけどさ……」

 私も可能ならばアーチャーのようにシロウと共に行きたいのですが、あいにくこの身は霊体になることができない。かといって余分な旅券があるはずもなく、よってシロウについていくことができないのです。不本意なことではありますが、諦めるしかありません。

「さて、そろそろ時間だし、わたしたちは行くわね」
「待ってくださいリン、サクラより伝言があります」

 時計を確認してかばんを持ち直した凛をライダーが引きとめる。

「あの子から? 伝言ってなによ」
「はい。『姉さんへ。くれぐれも旅行中に先輩に手を出さないように。隠そうとしても先輩はすぐに顔に出るから無駄ですよ。万が一の事があったら、姉さんの宝石という宝石全てに蟲を仕込んでおきますからそのつもりで』――以上です」
「な、な、何の心配してるのあいつーーーっ!」
「いえ、とても重要なことだと思いますが」

 顔を真っ赤にして激昂する凛に、ライダーがこちらは表情も動かさず至極冷静に返す。
 ……まあ、私もそれは非常に重要なことだとは思う。

「まあ待てライダー」
「なんでしょうか、士郎」

 と、シロウが凛の隣に立ち、ライダーの肩に手を置いて話しかけた。何故だか諦念を浮かべた表情で。

「心配してくれるのはありがたいんだけど……きっとそれは無理だと思うぞ」
「ぅぁッ、アンタもなに馬鹿なこと言ってんのよ!」
「だってさ、俺が遠坂に手を出されないなんて、そんなのどう考えたって無理だと思うんだ。ライダーだって知ってるだろ?」
「……それは、どういうことでしょうか」

 ……本当だとしたらこれは由々しきことだ。私とて黙っているわけにはいかない。
 目を見開いて見守る一同を前に、シロウは空を――というより天井を見上げてつぶやいた。

「昨日だって……遠坂の洗濯物を干してたら顔面に鉄拳が飛んできたんだ……『人の下着握り締めてなにしてのよヘンタイ』って……」
『…………』

 一同の真ん中に沈黙が落ちる。……無理もありません。
 シロウ……それはそういうことを言っているのではありません。確かに『手を出している』という意味ではその通りなのですが。

「ま、そんな心配しなくても大丈夫だよライダーさん、遠坂はちゃんとあたしが見張っておくし、それに」
「この俺の目が黒いうちはそのような不埒な真似などさせません故」
「よろしくお願いします。くれぐれの士郎の貞操を守り通してください。……でなくては私がサクラに怒られるのです」

 今のシロウの発言が無かったかのように笑顔を浮かべる綾子と一成に、ライダーが深々と頭を下げる。
 シロウはまだわかっていないのか「はは、無理だと思うけどよろしく頼むぞー」などと呑気な顔をしているが、きっと二人とも凛の物理攻撃の邪魔はしないと思いますよ、シロウ。

「それにしても……信用がないのう、遠坂嬢」
「ったく、どいつもこいつも……」
「まあ、化けの皮が剥がれちまえばこんなもんだよなぁ。いいんじゃないの? あたしとしてはこっちのほうが楽でいいや」
「うるさいですわよ、蒔寺さん……」

 地の底から響くような声と視線を肩に手を置く楓に向ける凛だったが、彼女はまるで堪えた様子もなく笑っていた。

「あ、あのっ! わたしは遠坂さんはそんなことしないって思ってますから!」
「……ありがとうございます、三枝さん」
「あっはっは! そんなこと言っといて由紀っちだって衛宮に手ぇだされたら困るんだよな!」
「えっ? えっ!? あ、あのそれは……はう」

 こちらもこちらで賑やかなことです。少なくともこの面々で行くのならば、退屈することは無い、良い旅行になるでしょう。
 叶うことならば私も共に行きたかったのですが……それは仕方ありません。あの家で、私はシロウの帰りを待ちましょう。

 ところで、賑やかなのは良いのですが……時間のほうは大丈夫なのでしょうか。


 案の定、時間ギリギリになってエントランスに駆けていったシロウを乗せた飛行機を見送り、今は私とライダーの二人だけ。賑やかだった時間が急に過ぎ去るとわけもなく寂寥感が込み上げてくる。
 これからしばらく、シロウたちが帰ってくるまで家の中も寂しくなるのでしょうね。仕方がないことではありますが……。

「帰りますか、セイバー?」
「……そうですね、帰りましょう」

 いつまでもこうして、見えなくなった飛行機を見つめているわけにはいかない。私はシロウに留守を任されたのだ。ならばその責務は見事全うして見せねばならないでしょう。
 さしあたって掃除でしょうか。いつも以上にしっかりと掃除をして、帰ってきた時に驚かせるくらいのことはしなくては。

「ところでセイバー」
「なんですか?」
「今日からの食事はいったいどうするつもりなのですか」

 決意を胸に新たにしていたところに、水を差すようなライダーの冷たい声。
 振り返ると彼女は魔眼殺しの奥の瞳に、相変わらず怜悧な光を湛えてこちらを見ていた。

 しかし……なるほど、食事ですか。
 先ほどシロウに聞かれた時は問題ないと答えてしまったが、よくよく考えると問題がある。
 桜は合宿で不在ですし、アーチャーも霊体となって凛についていってしまった。大河もまた桜と同じく合宿で不在ですし。……まあ、大河はいたとしても海鮮丼と称して生きたままの蛸を使用した火星丼を作るような人ですからいてもいなくても変わらないのですが。

「ライダー、あなた料理は?」
「愚問です」
「ではイリヤスフィールとメイドの二人……は、そういえば昨日から行方不明でした」

 先週からこそこそと何事かを企んでいたようですが、いったい何を考えていたのか。なんにせよ、この場にいない人物を戦力として数えることはできません。
 しかしそうなると、まともに料理ができるような知り合いは冬木市に一人も存在しないということになる。教会の言峰綺礼に世話になるなど、考えられることではありませんし。どうせあの麻婆豆腐なのですから。

「仕方ありません……こうなれば私が――」
「私は士郎に三十点と評価されるようなおにぎりなど食べたくはありませんが」
「なっ! 失礼な! シロウはそんなことなど言わない!」
「……そうでしたね、申し訳ありません。それは別の士郎でした」

 ライダーは時々意味不明なことを言う。少し世俗の垢に塗れすぎているような気もするのだが、今は問うまい。

「しかし、それではどうするのですか。私もあなたもだめとなれば、あとは外で食事するしかありませんが、そんなお金は私は持っていない」
「……やむを得ません。こうなれば最後の手段に訴えるとしましょう」

 しばし黙考した後にライダーが出した結論。
 ……その最後の手段というものに、私はそこはかとない不安を感じざるを得なかった。



「……これが最後の手段というやつですか」
「その通りです」

 目の前に並んで湯気を立てているのは白いごはんにコンソメスープ、デミグラスソースをたっぷりかけたハンバーグ。サラダのドレッシングですら、市販のものではなく手製のものだと言っていた。これで更に食後にデザートまで用意しているというのだから、これはもう完璧だ。これ以上ないほどの完璧な夕食である。
 シロウにも勝るとも劣らない、素晴らしい食事だ。このような食事を味わえるのであれば、文句などどこにもつけようがない。
 しかし……しかし、だ。

「どうした、食わぬのかセイバー。作った私が言うのもなんだが、出来はさほどに悪くはない」
「……いえ、いただきます」

 口に運んだハンバーグは確かに美味しかった。シロウが作るそれに匹敵するほどに。
 これを、この食事を――

「ハ、ハサン……お……お茶ッ!」
「目の前にありますぞ、魔術師殿」

 ――よもやハサン・サッバーハが作ったなどと、誰が信じることができよう。
 だが、事実は事実だ。目の前の食事が消えることなどありはしないし、ハサンはひよこのエプロンをつけている。
 ごはんを炊くところも見たし、ハンバーグの挽肉をこねているところも見た。これは間違いようのない事実だ。

「これが私の最後の手段……言うなれば切り札というやつです」
「……そうですか」

 確かにハサンが作ってくれた食事は美味しい。美味しいのだが……。

「ハ、ハサン! ワシはうどんが食いたい!」
「ならば明日の食事はうどんにする故、今日のところは我慢していただきたい」

 ……納得できません。というか、納得することを拒否しているといったほうが正しいのですね、これは。



お昼ごはん (2005/3/15)

 暖かかったり寒かったりとどっちつかずの陽気が続く毎日だが、今日は日差しも春めいて庭に立ち並ぶ木々もここぞとばかりに枝を伸ばしていた。
 無論、それは我が家に居候している猫たちにとっても例外ではなく、今は縁側で丸まっている。

 それとは別に、衛宮家の居間には食欲を刺激する香りが立ち込めていた。ちょうど時刻もお昼時、台所では昼食の支度が進められているのだから、それも当たりまえのことだ。
 ただいつもと違うのは、居間にいてテーブルの前で食事が並ぶのを待っているのは私だけではないということ。普段ならば台所で包丁を握っているはずのシロウもまた、今日はテーブルの前で、時折そちらを気にしつつものんびりとくつろいでいるのだ。

「衛宮君、お塩とこしょうってどこにありますかー?」
「それなら上の棚に入ってるから適当に探して使ってくれー」
「はーい」

 台所から顔を出したのは、つい先日までシロウのクラスメートであった三枝由紀香その人でした。

「シロウ、よろしいですか?」
「ん?」
「今日はまた、何故由紀香が昼食を作っているのでしょうか」

 昼になる少し前、そろそろ身体が空腹を訴え始めた頃に、手に食材を持った彼女が訪れた。ちょうどその時私は庭で洗濯物を干していたので彼女とシロウがいったい何を話していたのかまではわからなかったのですが――。
 部屋に戻ってみれば台所にはエプロンを着けた由紀香がいて、居間には手持ち無沙汰なシロウがぼんやりとテレビを眺めていたわけです。
 別に由紀香が食事を作るのは構わない、彼女の作るごはんもまた美味しいものですし。ただ何故――と、気になるだけなのです。

「いや、俺も良くわからないんだけどさ。どうやら学校で世話になったからその恩返しらしい」
「おんがえし?」
「ああ……別に俺、三枝に世話焼いた覚えなんてないんだけど、なんか妙に必死だったから。断る理由もないしな」
「ふむ……」

 恩を与えたほうは身に覚えがなく、受けたほうはいつまでも覚えている、というのも良くある話の一つです。特に相手は由紀香なのですし、更に言えばもう一方はシロウだ。いつどこで何気なく人助けをしていてもおかしくない。おまけに本人にはまるでその気はないというのも深く頷ける。きっとその類なのでしょう。
 由紀香も些細なことであれ、助けられたことを忘れるような人ではないですし。

「何となく事情は理解できました。そうとなればありがたくいただきましょう、シロウ」
「うむ。俺はいまだに良くわからんが、せっかく作ってくれるのだからありがたくいただくことにしよう」

 理由はどうあれ美味しいごはんが食卓に並ぶのであれば何も言うことはない。
 漂ってくる食欲を刺激する香りに、眠っているはずの猫たちも鼻をひくひくと動かしていた。


「あの、どう……ですか?」
「ん、美味いぞ。……というか、三枝が料理上手なのは知ってたから、流石だなってところか」

 シロウの言う通り。由紀香の作るごはんもシロウに劣らずとても美味しい。

「ほら、セイバーだって一心不乱に食ってるだろ。美味いって証拠だよ」
「そ、そうですか? 良かったー」

 ふむ、シロウのその評価の下し方には少々疑問が残りますが、ごはんが美味しいので良しとしましょう。

「おかわりもありますから、たくさん食べてくださいね」
「悪いなぁ三枝、わざわざ飯作ってもらっちゃって」
「ううん、だって今日はわたしがお願いしたようなものだし……それに、好きでしてることだし……」
「そ、そうか? ならいいんだけど」
「うん……あ、おかわりしますか?」
「む、頼む」
「はい、頼まれました!」

 ……ふむ。由紀香はずいぶんと人の世話をするのが好きなようですね。エプロンをつけてこうも甲斐甲斐しく世話を焼いているとまるで――。

「むぅ……」
「ん? どうしたセイバー?」
「いえ、どうもしませんが……由紀香、申し訳ないのですが私もおかわりお願いできますか?」

 ごはんが美味しいのはいいのですが……なんでしょう、この釈然としない気持ちは。今度は私もお昼ごはんでも作ってみればわかるのでしょうか。
 私がエプロンをつけてシロウの世話を焼く姿というのも、我ながらあまり想像のできることではありませんし、むしろ逆にエプロンをつけたシロウに世話をしていただくほうがしっくりくるような気がするのですが――。

 その、いつまでもこのままというのも……シロウに申し訳ない気がしますし……。
 私も少しくらいはシロウの世話をしてみたいですから。



卒業 (2005/3/10)

「ただいまー、帰ったよセイバー」
「おかえりなさいシロウ――と、綾子たちも一緒なのですか。それではお茶の用意でもしましょう」
「あぁ、おかまいなく。あたしらでするからさ」

 そうは言いますが、客を迎えて何のもてなしもしないのでは我が家の沽券に関わります。やはりここは留守を預かるものとして、私がするべきでしょう。
 綾子に一成、それに由紀香に鐘と楓の三人。凛と桜についてはもはや客というのもどうかと思いますが、ついでですし。
 今日は随分と大所帯だが、桜を除いた彼らが同じクラスメートであるのも今日までだ。いろいろと積もる話もあるのでしょう。


「それで結局さ、衛宮はこれからどうするんだい? 大学には行かないんだろ?」
「ん、まあね。しばらくは今世話になってるアルバイト先で働かせてもらいながら、自分なりにやりたいことを探していこうと思ってるよ」

 お茶菓子を摘みながらの綾子の質問に、シロウは誤魔化すようにそう答えた。
 やりたいことを探す――そうは言うが、シロウが目指している道は今も昔も変わることはない。彼が自分の道を見失うことはありえない。
 正義の味方――決して叶えることが出来ない理想。しかしそれでもシロウはずっと、それを目指し続けるのだろう。自分なりにどうしたらその理想に辿りつくことができるのか、生涯悩み続けながら。
 もしかしたらその道には苦難しかないかもしれない。それでも真っ直ぐにその道を歩もうとする彼を、私もずっと支えていきたいと思っている。

「美綴たちは春から大学生か。確か美綴と一成は同じ大学なんだっけ?」
「偶然にもな。本当ならば俺は卒業したらすぐに仏門の道に入ろうと思っていたのだが、その前に俗界で学ぶこともあると父に諭されたのだ。とは言ったところで何を学べばよいのかまだ俺にも皆目見当がつかんのだが……」
「真面目なヤツだねー。そんなの入ってから探せばいいじゃない。若いうちからそんなだと老けちゃうよ」
「む……」

 言いながら綾子は一成の背中を叩いて笑う。真面目なのはいいことですが、彼は少し考え方が堅すぎるのは事実です。幸いというか二人は同じ大学なのですし、綾子に良い方向に導いていってほしいものです。

「にしても高校三年間って言っても終わってみればあっという間だったねー」
「ま、そのようなものだ。はじまる時は長いように思えても終わってみればそれは既に過ぎ去ったこととなる。自分の中で思い出となった時間が儚く感じられるのは、それが二度と戻らぬ時間だからであろう。……その代わりに永遠に残るものでもあるがな」
「でも……これでお別れっていうわけじゃないよね?」
「そりゃそうだ。卒業したからって住むところが変わるわけじゃない。これからだって会おうと思えば会えるんだからな」

 何処か不安げな由紀香に答えたのはシロウでした。それを聞いて由紀香の顔も安堵したように緩み、いつものように笑顔になる。
 鐘の言うこともその通りだが、シロウの言うこともまたその通り。
 互いに何処か遠い地に離れ離れになるわけではないのですから、別れというわけではない。ただ、一つの節目を迎えたというだけのことだ。

「そういえば姉さんはどうするんですか? まだ聞いてなかったんですけど……」
「わたし?」

 のんびりとくつろいでお茶などを啜っていた凛に注目が集まる。
 そういえばそうですね、この中では凛の進路だけまだ聞いていなかった。
 シロウは大学に行かずにアルバイトを続け、綾子たちは大学へ。桜は最高学年に進級し、では凛はどうするのか。まさかとは思いますが、本当にイギリスに行くのでしょうか。
 魔術師としての遠坂凛ならばそうするのが当然なのでしょうが……。

 問いかける視線をその身に受けながらその手に持っていた饅頭を食べ、お茶を一つ啜り、小さく音を立てて湯呑みを置く。
 気になって仕方がない様子の一同を前に、当の凛はといえば落ち着いたものだ。

「なんだよー、もったいぶるなよー」
「別にもったいぶってるわけじゃありませんわ」
「俺も気になるぞ」
「あら」

 真面目な顔つきをしているシロウを見つけ、凛が猫のように目を細める。ついでに口元も歪んだ弧を描く。

「何で衛宮君がわたしの進路なんて気にするのかしら。もしかしていなくなったら寂しいとか?」

 見慣れたあくまの表情で、いつものようにシロウをからかいにかかる凛。
 ですがそれは間違いです。今になってもまだ凛はシロウのことを完全に見抜いていないようですね。こんな時にこのようなことを言えば――

「そんなの当たりまえだろ。遠坂にはできればここに居て欲しいって思ってるぞ、俺は」

 ――と、こうなるのです。こういうことを何の含みもなく言ってくるからシロウは恐ろしい。
 凛は一瞬、虚を疲れたように仰け反り、次いで片手で顔を覆って視線を反らす。指の間から僅かに覗いている白い肌は、案の定、赤く染まり始めている。
 まったく……シロウを侮るからこうなるのです。

「? なんだ、どうしたんだよ遠坂」
「う、うるっさい! あんたはちょっと黙れ!」
「……で、結局どうするんですか、姉さんは」

 照れ隠しに声を張り上げる凛に桜は冷たい視線を向け、楓は声を押し殺して笑う。
 鐘は我関せずとお茶を飲んでいますし、一成といえば表情に呆れの色を隠さずシロウはやはり一人だけわかっていない顔。そして由紀香は、

「…………」

 はて、いつものように微笑んでいると思っていたのですが……珍しいこともあるものですね。
 まあ、それはともかくとして、

「ったく……短大よ短大。年明ける前に推薦取れたからいちおう受けといたのよ」
「あれ? それじゃおまえ、正月前にはもう進路決まってたのか? 何で言わなかったんだ?」
「ふん……いいじゃないそんなの。聞かれなかったし、言う必要だってなかったからよ」
「なんだそりゃ。おまえ、人にはどうするか聞いといてそういうこと言うのかよ」

 ……なるほど、そういうことですか。
 なんだかんだと言って結局はそういうことですか。用意周到というか、それともさすが遠坂凛と言うべきなのでしょうか。

 ともあれ結局、何一つ変わらず、ということですか。
 高校を卒業したところで誰がいなくなるわけでもなく、したがって別れもない。一時的な、悪く言えば微温湯のような状況かもしれませんが、それでも全員が望んだことならばこの状況が最も正しいものなのかもしれない。
 痛くなるような厳しさのない、優しいだけのぬくもりでも……今は私もそれを望んだのですから。


「しろうーーーッ!」


 と、家全体を揺るがすような声が響いたと思ったら何かがものすごい勢いで飛び込んできた。
 すわ、敵の襲来か? と身構えたものの、良く考えたら今の状況でこのような行動を取るのは一人しかいない。

「士郎、やっぱり卒業禁止! 卒業取り消しー!」
「は!? いきなり現れて何いきなりぶっ飛んだこと言ってやがるんだ藤ねえ!」

 シロウの頭を噛み付くように鷲掴みにしているのは、当然のごとく大河でした。

「だいたい卒業取り消しったってもう卒業証書だって貰ったから今更無理だ! ばかちんなこと言うなって」
「う……うー、それじゃ私もねこのところで働く。アルバイトする」
「却下」
「うがー! じゃあ士郎、私のことお婿さんに貰ってようー!」
「大却下! つか、普通逆だろうがそれ! どうでもいいが頭放せ! 千切れる!」

 シロウの後頭部を鷲掴みにしたまま高校生活最後の大暴れを見せる大河と、高校生活最後の被害を受けているシロウを横目にお茶を啜る。
 ……まあ、なんと言いますか。
 高校を卒業しようとどうしようと、大河がこの家に入り浸るのは変わらないのですし、この光景も代わり映えなどしないのでしょうが、いちおう一つの節目として見るならば貴重な光景となるのでしょうか。

「う、うおおおお!? まさかこのまま砕くつもりじゃねえだろうなこの虎! あれ? ちょ、ちょっと今頭蓋骨がみしっていった?」
「うわぁぁぁぁん! 私を虎って呼ぶなー!」

 やれやれ、です。




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