らいおんの小ネタ劇場

第151回目から第160回目まで




おねえちゃん (2005/3/2)

 夜、お風呂上りの身体に冷たい空気を感じて縁側に出ると、そこには大河がいた。
 冷気が流れ込んでくるのも当然で、開け放たれたそこに腰掛けて彼女は足をぶらつかせていた。

「どうしたのです大河……それは?」
「あ、セイバーちゃん」

 口元に僅かな笑みを浮かべた大河は、膝の上にくすんだ藍色の着物を抱えていた。
 シロウがたまに着ているそれと似ているが、少し違う。少なからず年月を経た、古ぼけた男性の着物。

「これね、切嗣さんのなの」
「切嗣の……」

 手のひらで埃を払ってくれた場所に並んで腰を降ろす。大河は大事そうに着物を抱き、懐かしむように視線を落とした。

「もうすぐね、士郎も卒業でしょ? そのこと切嗣さんに教えてあげよーって思って」
「そうか……そうですね、彼にもシロウの成長を知らせねばなりませんね」
「うん。切嗣さんの息子は、私の弟はもうすぐ大人になりますよって。ホントに士郎ってば、お姉ちゃんに断りもなくあんなに大きくなっちゃってさ。昔はあーんなにちっちゃかったのに。おまけにあんなに生意気になっちゃって。昔はあんなに可愛かったのに」

 そう言って大河はぶらぶらさせている自分の足元の辺りに手をやった。それでは些か小さすぎるような気もしますが、彼女にとってはそうなのでしょう。
 大河にとってシロウはいつまでも弟で、面倒を見ていてあげなくちゃいけない大切な子――そういうことなのでしょう。
 もっとも現実はむしろシロウのほうが大河の面倒を見ているようなものなのですが、それは言わぬが華というものです。それに実際がどうであれ、シロウが大河の弟で、大河がシロウの姉であることに変わりはないのですから。

「ねえ、セイバーちゃん」
「なんですか?」
「うん……あのね」

 着物に視線を落としたまま、大河は声をかけたまましばらく黙っていた。
 私は口を差し挟まない。いつものように考える前に口を出すのではなく、何かを思い悩んでいるような雰囲気。
 まるで何かを怖がっているのか、私には今の大河がひどく小さく見えた。

「あのさ、士郎さ」

 ぽつりとつぶやくように言い、こくりと一つ息を飲み込み不安を吐き出す。

「士郎もさ……いつかいなくなっちゃうのかなぁ……? 切嗣さんみたいに。いなくなっちゃうのかな」

 膝にあった着物を手に取り、胸にかき抱く。

「この間、士郎が遠坂さんとイギリスに行っちゃうって話してたから」
「しかし、それは」
「うん、セイバーちゃんの勘違いだったんだけど、でも……士郎もいなくなっちゃうんだって思ったら」

 ……なるほど、私と同じだったのですね。
 今まで当然のように続くと思っていたことが不意に失われていくことへの不安を感じる。ずっとあり続けると思っていたものが、実はそうではないということを知ってしまった。
 無論、シロウはいなくなるわけではないし、この日常がすぐに無くなるわけでもない。
 だが、いつかは失われてしまうのは仕方のないことだ。むしろそれが当然なのだから。
 大河とてそれは百も承知だろう。しかしだからといって、当然と甘受できないのもまた当然のことだ。

「……士郎、いつまでここにいるのかな」
「……わかりません、私には」
「ずっとここにいて欲しいと思うのはワガママかな。おねえちゃん失格かな、私」
「そうかもしれません。……でも、その想いは間違いではないと思います」

 そのまま大河は黙り込み、私も何も話すことはなくなった
 風が冷たい。もう冬も終わるというのに、まるで今にも雪が降り出しそうなほどに今日の空は冷たかった。吐く息も白く、ゆらゆらと揺れながら昇っていく。

「おっ、二人ともこんなところにいたのか」
「士郎……?」

 床板が軋む音に振り向くとシロウが立っていた。

「お茶淹れてお茶菓子にどら焼き用意しといたぞ。二人とも食うだろ?」
「……う゛ー」

 大河はそんな呑気なことを言っているシロウをしばらくぼんやりと見ていたが、やがて唸り声を上げ始め、じっとりと睨み始めた。
 ……ふむ、どうやら雰囲気がいつも通りになってきたような気がします。

「な、なんだよいきなり。なに唸ってんだよ藤ねえ」
「士郎の、士郎のアホたれー!」
「ってアホってなんだよ何事だー!?」

 そのままシロウに飛び掛っていった大河を尻目にこの場を去る。
 ま、襲われて齧られるなり懐かれるなり、好き放題にされてくださいシロウ。少なくとも大河にはそうする権利がある。
 代わりに私はどら焼きを美味しくいただくとしましょう。



触覚と責任の所在 (2005/2/23)

「それにしても結構伸びたなぁ。セイバーってもしかして髪伸びるの早いか?」
「そうなのでしょうか、気にしたことがないので人と比べてどうなのかはわかりませんが……それよりもサーヴァントの身でありながら髪が伸びるというほうが不思議な話ではないかと」
「んー、まあ言われてみればそうだけど、別にいいんじゃないか? サーヴァントの髪が伸びたってさ」
「はぁ……」

 シロウに背を向けて鏡台の前に座る。鏡には首から全身を覆う雨合羽のような布を被った私の姿が映っていた。
 そしておろした私の髪に櫛を通すシロウの姿も。
 おろして肩口までだった私の髪は気づいたら背中に届くまでに伸びていた。前髪もだいぶ伸びて時折目の中に入ってくるのが鬱陶しかった。
 以前、髪が伸びたときは凛に切って……もらったというか、切られたというか……ともあれ、半ば無理やりでしたが凛に切ってもらったのですが、今日はあいにく彼女は不在。
 だから今度こそ床屋か美容院にでも、と思っていたらシロウに捕まったのです。いえ、別に彼に髪を切ってもらうのが不満というわけではないのですが。
 というか、凛に切っていただくよりも余程安心できるというのが本心です。

「っと、危ない」
「? どうしたのですか?」
「もうちょっとでコレ切るところだった。いくら伸びたからってコレ切るのはちょっとまずいからなぁ」

 言いながらシロウが摘み上げているのは、ひと房だけ飛び出している前髪。寝癖というわけでもなく、別に癖があるというわけでもないのにコレだけこのように飛び出しているのは何故なのか、自分のことながら理由は不明だ。
 わかっているのは、コレがどうやら私の自律神経の一端を担っているらしいということだけです。理由はやはりわかりませんが、以前凛に散髪してもらった際に、一緒に伸びていたコレも切っていただいたのですが……。
 口の悪い凛などは触角などと呼び、更に口の悪いランサーなどはアホ毛などと言う。言うに事欠いてアホなどとは、人を愚弄するにも程がある。

「それにしても……」

 つぶやきながらシロウが髪に手を差し入れてきた。と、突然どうしたのでしょうか。

「セイバーの髪って綺麗だよなぁ」
「シ、シロウ?」
「さらさらだし染み一つない金髪だし、いい匂いするし」
「あ、あの……その、シロウ……何を?」

 差し入れたまま髪を梳いたり撫でたり摘み上げたり自分のほうに持っていったりと……好き勝手に弄っている。
 その……このようなことをされるのは、困る。
 もちろん別に嫌というわけではないのですが……なんというか、少しくすぐったいですし……。

「肌真っ白だし、ほらうなじとか……ってあれ? なんか赤くなってきたんだけど」
「ですからそれは……べ、別に赤くしたくてしているわけではなく、えっと」
「まあ、これはこれでキレイだし……触ってもいいかセイバー?」
「そ、それは困る! あっ、こ、困ると言っているではないですかシロウ! 酔っているのですか!?」

 困ると言っているのにシロウが首筋に人差し指で触れている。
 いや、ですから別に嫌というわけではないのですがいろいろと困るのでやめていただきたいのです。
 具体的に何が困るのか、と言われてもやっぱりそれはそれで困るのですが……。

「顔、真っ赤だなセイバー」
「あ、当たりまえではないですか……って」

 振り返るとそこには口元ににやにやとした、例えるならばとある時の――シロウをからかっている時の凛のような笑みを貼り付けたシロウがいる。

「……何故そのようなことがわかるのです?」
「そりゃあ、鏡を見れば丸見えだからな」

 ……なるほど。確かにその通り。
 シロウから見れば鏡で私の様子は全てわかるということですか。つまり、

「私を辱めて何が楽しいのですか」
「えーっと、ほらなんというか、出来心というか……遠坂の気持ちが少しわかったかなー、とか」
「…………」

 つまりシロウは私をからかって楽しんでいたということですね。凛にされていることの意趣返しを私にしたということか。

「〜〜〜ッ! む、無抵抗なのをいいことに思う様人を辱めるなどと卑怯な! 卑怯ですシロウ!」
「ちょ、ちょっと待てセイバー! わ、悪かったから暴れるなって!」
「問答無用! いかなマスターといえど、いえ、マスターであるからこそ許しがたい!」
「だ、だからそんな暴れられると手元が狂――あ」

 さくりと――。
 そんな軽い音がすぐ近くで聞こえたと思ったその瞬間、前髪が少し軽くなったような気がした。


「で、なにやってんのセイバーは。あんたがシロウに引っ付いているのは今更だけど」
「シロウが悪いのです。全てシロウが私のことを辱めたのが原因です」
「ふぅん……衛宮君ってばいやらしいのね」
「違います……確かに悪乗りしたのは認めますが違うんです」

 そう、全てシロウが悪い。だからその責任もやはりシロウにとってもらわなくてはいけない。
 シロウの服の裾をつかみ、ともすれば崩れそうになる体勢を維持しながら、横目で睨みつける。いくら困ったような顔をしようと凛やイリヤスフィールに誹謗中傷を受けようと許すつもりはない。
 せめて元に戻るまでは――。

「責任は取っていただきます、シロウ」
「……はい」



断食 (2005/2/19)

「…………」
「…………」
「…………」

 ひんやりと冷えた空気がシンと静まった道場に、私と凛、それから桜は身を正して心を空にしている。
 己を殺し我を殺し、周囲から自分を切り離す。目指すのは無我の境地だ、周囲の一切の瑣事と隔絶した真っ白な世界へと自分自身を連れて行く。

「…………」

 周囲から音が消える。ただ暗闇だった世界が白く染まり始める。ほんの僅かにわだかまっていた心の中の自分の囁きもやがて消えて――

 くるるる、と腹が鳴く。

 心はともかくとして身体のほうは嫌になるほど正直だった。

「セイバーさん……」
「あんた、わたしたちが我慢してるってのに……」
「く……不覚でした」
 たどり着きかけていた無我の世界が足早に遠ざかり、隣にいる凛と桜から飛ばされた冷ややかな視線が突き刺さる。
 しかし今日は昼からごはんを食べていないのだから仕方ないではありませんか。そもそも何故私までがこんなことをしなくてはいけないのだろうか。原因は凛と桜の二人にあるというのに全くもって納得がいかない。

「あーあ、セイバーちゃんってばだらしないんだねぇ」
「仕方ないわよタイガ、だいたいセイバーがごはん抜きなんて荒行に耐えられるはずないじゃない」
「だまりなさい大河、イリヤスフィール」

 江戸前屋のどら焼きを頬張って好き勝手なことを言う道着姿の大河と、何故か体操服にブルマのイリヤスフィールに一瞥をくれながら再度身を正す。
 背後の掛け軸には『断食道場』の四文字。今日に限ってこの道場は断食のための修行場と姿を変えているのです。


 事のはじまりは昨日の夜……そう、桜がお風呂から上がったその時でした。
 最近では定例行事のようになっているのですが、昨日も桜は風呂上りだというのに顔色を青白くしていました。せっかく減らした体重がまた元に戻ったのです。笑いながらからかうイリヤスフィールと凛、それに彼女たちの言葉に更に打ちひしがれる桜と慰めるシロウ。
 ここまではいつも通りだったのです。
 違ったのは次に風呂に入った凛が戻ってきてからでした。

「断食道場を……開くわよ」

 桜と同じような青白い表情で肺腑から搾り出すようにつぶやく凛。
 そしてそれに一も二もなく桜は頷き、我関せずと傍観していた私も気がつけば巻き込まれていたのでした。


 断食道場などと銘打ったところで要はやっていることはだいえっとというやつです。だいたい私は彼女らのようにだいえっとなどする必要がないというのに何故私までこのようなことをしなくてはいけないのか……私にとっては一日三度の食事は何よりの楽しみだというのに……。
 これではいつ私の理性の紐が切れてしまってもおかしくありません。そうなれば最早私を止められるのはシロウのごはんしかないのです。ああ、それにしてもお腹がすきました。

「セイバー、さっきから腹の虫がうるさいわよ」
「うるさくて当然です。お腹がすいているのですから」
「……そういえばそろそろ晩御飯の時間ですね。今日のおかず、なんでしょうね……」
「今日は鳥のから揚げにすると、先ほどシロウが」

 ああ、考えれば考えるほどごはんが恋しくなる。本来食事など必要としないはずのこの身がこうまで追い詰められることになろうとは。恐るべしは日本の食卓といったところでしょうか。まさかこのような弱点を内包する羽目になろうとは思ってもみなかった。
 ……というか、私には凛にも桜にも付き合わなくてはいけない理由などないのだから今すぐこんなことなどやめてしまえばいいのでは。
 目前の敵から逃げるのかとかなんとか言っていましたが、そもそもその敵は私の敵ではなく二人の敵なのですから。私は別に体重が増えたわけではないのです。

「おーい藤ねえ、イリヤー。晩飯できたぞー、ってなんで二人ともそんなカッコしてるんだ?」

 吹っ切れてちょうど良いところにエプロンをつけたままのシロウがやってきた。

「わーい! ごはんごはんー」
「もうタイガってばはしゃがないでよみっともない」

 ばんざいしながら満面の笑みを浮かべている大河と、そんな彼女を横目で見ながら自分もどことなく嬉しそうにしているイリヤスフィール。ちょうど良い、私もこんな修行などという名を借りた拷問など切り上げて、お相伴に預かりましょう。

「シロウ、待ってください。私も行きます」
「ちょっとセイバー! あんた裏切る気!?」
「裏切るも何も私は被害者です。断食するなら二人でやればいいではないですか」

 口々に非難の声をあげる二人を振り切りシロウのそばに駆け寄る。先ほどまで食事の支度をしていた彼の身体からは、染み付いた食欲をそそる匂いがほのかに漂ってくる。それだけで私の溜まりに溜まった食欲は刺激され、先ほどから口うるさく喚いていた腹の虫が声をあげそうになる。さすがにシロウの前でそのような失態を晒すわけにはいかないが、もうあまり我慢できそうにない。

「シロウ、今日の夕飯はから揚げと聞きました。その……申し訳ない話なのですが、できれば私の分は少し多めにしてくれるとありがたいのです」
「え? あ、ああ……セイバーの分?」

 む……何故口篭るのだろうか。もしや余分に多くするほど作っていないということなのだろうか。
 それならそれで仕方がありません。少し残念ではありますが、今から作れなどという無理なことを言うつもりもない。

「あのシロウ、そのような顔をしないでください。急に無理を言ったのは私なのですから」
「そ、そうか? いやぁ、そう言ってくれるなら助かる。セイバーも断食するって言ってたからさ、セイバーの分の食事用意してないんだよなぁ」

 ははは、と安堵したように笑い声をあげるシロウ。

 ええ、もちろん笑い事ではありません。

「シロウ……」
「ん?」
「聞き間違いでなければ……私の食事はないと聞こえたのですが?」
「うん、ないよ。だってセイバーも断食だろ?」
「…………」


 その後、理性の糸が切れた後のことは良く覚えていません。
 気がついたら居間でシロウの作ったから揚げを食べていたことと、何故かシロウに生傷があったこと――。
 それから意味もなく甲冑を身に纏っていたのはいったい何故なのでしょうか。実に不思議なものです。



ほしいもの (2005/2/5)

「ちょっと士郎、セイバーの全身に緊張が漲ってるわよ?」
「みたいだな……」

 対面でひそひそと耳打ちし合っているシロウと凛。二人は聞こえないように話しているつもりかもしれないが、生憎しっかりと届いてしまっている。
 が、別に反論するつもりはない。二人の言うとおり、私が緊張しているというのは間違いのないことだからだ。

「士郎……あんたほんとに何もやってないんでしょうね?」
「何かってなんだよ。何もしてないって」
「だってセイバーよ、セイバーなのよ? あのセイバーが食事時にあんな……どう考えたっておかしいじゃない」
「……むぅ」
「ねえ、ちゃんとお昼ご飯与えてる? あの子もしかして、空腹のあまり拾い食いとかしたんじゃないの?」
「そんなはずは……メシは用意しておいたから多分。いやでも……」

 ――とはいえ、ここまで辱められなくてはいけない理由があるわけでもありません。

「……遠坂。セイバーの目つきがなんか鋭くなったんだが」
「まさに飢えた獣……百獣王の眼ね。あれは相当怒ってるわよ、覚悟しておくのね」

 ええ、当然シロウにも覚悟はしていただかなくてはいけませんが、凛、あなたとて例外ではないのです。
 二人共に、覚悟はしてもらう必要があるのだが……今はそのような瑣末ごとをは正直どうでもよかった。

 シロウに話したいことがある。
 というよりは、我がままだ。私の一方的な望みをシロウに聞かせたいだけ。
 その望みを聞き入れてもらおうなどとは最初から期待していないし、無論聞き入れてもらえなかったとしてもそれで私と彼の関係が変わるわけではない。私はどちらにしろ、シロウの望む道を往く。
 私の選ぶ道が変わるわけではない。何故なら私はとうの昔に選んでいるのだから。
 だから躊躇せずにはいられない。私が彼に言おうとしていることは、もしかしたら彼の望みを捻じ曲げてしまう結果になるかもしれない。それだけが何よりも怖かった。
 しかしそれでも――。

「な、なあセイバー?」
「……あ、はい。な、なんでしょうか?」

 かけられた声に顔を上げる。すると、話しかけてきたシロウだけでなく凛も桜も揃って私のほうを見ていた。例外は目の前の食事に夢中になっている大河と我関せずとしているライダーだけ。

「あの、なんでしょうかシロウ?」
「いや、今日のセイバー、なんか難しい顔してるからさ。もしかしたら味付けどこか失敗してるか?」
「そ、そのようなことはありません! 今日のごはんもいつも通りとても美味しい。問題などあるはずがない」

 慌てて答えるとシロウは「ならいいんだけど」と、やや釈然としない様子で頷いた。

「まったく今日はどうしちゃったのよセイバー。なんか悩み事でもあるの?」
「……いえ、そういうわけではないのです。しかし……申し訳ありません」
「ん。まあいいんだけどさ。それより士郎、あんたそろそろ考えてくれた?」

 周囲に気を使わせてしまっていた自分の態度を反省していたところの凛のこの言葉、反応しないわけがなかった。

「お、おお。いい加減そろそろ決めないとまずいかー」
「あったりまえでしょ。去年からずっと言ってきてるんだからさっさと決めてよね」
「し、シロウ!」

 今が食事中であるということも忘れ、テーブルから身を乗り出してシロウに迫る。このようなことはしてはならないとわかってはいたが、そんなことすら気にしている余裕が今の私にはなかった。

「ど、どうした?」
「その……その話のことについてです!」
「この話って、ああ卒業したらって話? でもセイバーに話したことあったっけ?」
「い、いえ……それは……。実は大変申し訳のないことなのですが」

 事ここに至って黙っておくわけにもいかない。正直に、凛とシロウの話を立ち聞きしてしまったことを説明する。
 既に大河を除いた全員が食事の手を休めて私の話に耳を傾けていた。いえ、大河も話を聞いているのですが、やはり食事の手は休めようとしない。あまりにも彼女らしい振る舞いが微笑ましくて、少しだけ気が楽になったような気がした。

「まあ、事情はわかったよ。聞こうとして聞いたわけじゃないんだし別にいいさ。それよりそれがどうかしたのか?」
「は、はい……単刀直入に聞きます、シロウ」
「ん?」

 こくりと口の中に溜まった唾を飲み下して覚悟を決める。

「シロウは……シロウは、卒業後に凛と共に倫敦に留学するつもりなのですか!?」
「えっ?」
「この家を、この街を出て……凛と共に海の向こうでの生活を始めるつもりなのでしょうか」
「なっ……なにーーーっ!? お、お姉ちゃんそんなの聞いてな、ぐもっ……!」

 さすがに食事の手を止めて、途端に騒ぎ立てようとした大河をタイミングよくライダーが羽交い絞めにする。いかに大河がいろいろな意味で人類規格外だとしても、サーヴァントであるライダーには抗うことはできないでしょう。
 ――感謝を。
 視線だけでその意を送ると、ライダーは瞳を僅かに伏せて口の端をほんの少しだけ歪めてみせた。

「せっ、先輩! その話本当なんですか、姉さん!」
「ちょ、ちょっと待ちなさい桜! 落ち着けーーーっ!」

 そういえばもう一人いたのを忘れていました。が、そちらは凛に任せるとしましょう。
 猛然と迫る桜を宥めすかしかわしている凛を横目に、私は私でシロウの瞳をじっと覗き込む。

「シロウ……」
「あー、あのなセイバー」
「シロウ、私は貴方のサーヴァントであり、私は貴方に剣を捧げた。故に貴方が歩む道は私の歩む道でもある。シロウが凛と共にロンドンに行くと言うのであれば、私もまた貴方と共に往きましょう。……それはたとえこの身が貴方のサーヴァントでなかったとしても変わることはありません」
「いや、だからさ」
「聞いてください、シロウ」

 シロウが何かを言いたげに口を挟むが、もはや私は止まらなかった。ここまできたら胸中の全てを吐き出さないわけにはいかない。
 無論、決して言う必要があるわけではないし、言ったところで何かが変わるわけではないかもしれない。
 それでもただ、私が望むことを聞いてほしかった。

「ですがシロウ……私は、ここにいたい」
「…………」
「自侭でしかないとわかっています。シロウのことを一に考えるのであれば、凛の提案は飲むべきであるということもわかっている。……それでも私は、今の生活を好ましいと感じています。いつまでも今のままでいられないとしても――それでも」

 自分の思うところを必死に、たどたどしく紡ぐ。果たして私の想いは余すことなく、正確に届いただろうか。シロウは先ほどまでの少し戸惑った様子から今では表情を引き締めて、そして少し考えて、

「わかった。うん、セイバーもそう言うならそうする」

 何故かわからないけれど、ひどく嬉しそうに笑ってそう言った。
 ひどく簡単に、とても重要なことのはずなのにあっさりと。まるでなんでもない、当たり前のことのようにシロウは言った。

「――――」

 ともあれ、彼のその言葉を聞いた瞬間に不覚にも全身から力が抜けて弛緩した。浮いていた腰は力なく落ち、座布団の上にぺたりと座り込んでしまう。
 ああ、だがしかしそんな場合ではない。確かめなくてはいけないことがある。

「シロウ、一つだけ確認させていただきたいのですが」
「ん? なんだ?」
「はい、自分で望んでおきながらこのようなことを言うのはおかしな話ですが、もしシロウが心底からロンドンへ行きたいと思っているのであれば……もし、私のために自分の望みを捨てているのであれば、それはやめていただきたいのです。シロウの望みを潰してまで私は自分の望みを叶えたいとは思わない。私にとって何よりも優先されるのはシロウだ。そのことに変わりはないのだから」
「俺としてはセイバーにはそんなこと気にしないでもっと我がまま言ってもらいたいんだけどな」
「今でも十分そうしているつもりですが……それでシロウ、どうなのですか?」

 もしシロウが本当に自分を押し殺しているのだとしたら、私はすぐにでも自分の望みを取り下げなくてはいけない。
 私の存在がシロウの足枷となるのは御免だ。シロウのことを思えばこそ、時には彼の意にそぐわないことも言わねばならないだろうが、今回は完全に自分の望みだけを彼に押し付けようとしているのだから。
 たとえ自分にとって喜ばしいことだとしても、そのためにシロウの意思を犠牲にはしたくない。

 ふと気づくと何かと騒がしかった凛たちもいつしか大人しくシロウの言葉を待っていた。それはそうだろう、彼の言葉一つでこれからの生活は一変する。良くも悪くもシロウは我々の中心に位置する人物なのだから。
 彼女らの視線に気づいているのかいないのか――少なくとも表面上はまるで気づいていないかのような平静さで答えを口にした。

「それなら大丈夫。俺だってセイバーと同じで今の生活が気に入ってるから。俺はイギリスには行かないよ」

 その言葉を聞いて今度こそ完全に力が抜けた。
 良かった――そう思う気持ちが自分の思考の大半を占めていた。

「っていうかさ、そもそも俺も遠坂もイギリスに行こうなんて話一つもしてなかったんだが」
「……え? ですが、この間……」
「まあ、確かに卒業した後どうしようかって話しはしてたけどさ……卒業後の進路のことじゃなくって、卒業旅行のことだから」
「……旅行?」
「そうよ……」

 横合いから入った押し殺したような凛の声に振り返る。
 桜と揉みあっていた凛の姿恰好はひどいもので、束ねている髪の片方は解けて乱れ、服の肩が少しずれかかっている。
 そんな状態で飛ばしてくる悪意のこもった視線は、人ならぬ身である私にさえ強烈なプレッシャーを与えていた。

「わたしはね、卒業した後に綾子たちと旅行に行くから、ついでに士郎も連れてってやろうと思っただけよ!」
「……では、つまり」
「セイバーの勘違い。単なる早とちりってやつだなぁ、あはは」

 笑いながらシロウが二度三度と頭を撫でるように軽く叩いてくる。
 勘違い……早とちり……。そんなもののために私はこの数日間ずっと悩んでいたのでしょうか。

「……不覚」

 先ほどとは違った理由からなる虚脱感が全身を支配する。我ながらなんと愚かな。
 ずっと黙って食事を続け、今はお茶を啜っているライダーの沈黙が何故か痛い。

「だいたいなんでわたしがロンドンに行くのにこいつを連れていかなきゃなんないわけ? 理由がないわ理由が!」

 私の勘違いのおかげで食事時に立ち回りを演じる羽目になった凛が眼を吊り上げている。
 ……理由ですか。
 凛がシロウを連れて行く理由など簡単に挙げられるとは思いますが、さすがにここで言うわけにもいかない。
 桜もライダーもその点は弁えているようで、何も言わず黙って凛を眺めるだけ。無論凛もそのような視線は無視しているものの、ほんの少しだけ赤らんだ頬は隠しようがなかった。

 ――なんにせよ。
 膨れっ面になっている凛の横顔を何となく眺めながら思う、勘違いで良かった、と。勘違いしてたことに対する是非はどうあれ、シロウもまた私と同じ気持ちでいてくれたことが嬉しい。

「セイバーちゃん、なんか嬉しそうだね」
「そうですか? ……ええ、あなたの言う通りです大河」

 どうやら知らずのうちに表情に出てしまっていたらしい。だが、嬉しいものは嬉しいのだから仕方が無い。
 ざわついて落ち着かなかった心は現金なことにすっかり落ち着いて、いつもの通りの穏やかな凪に戻っている。

「すっかりメシが冷えちまったな。セイバー、温めなおそうか?」
「お願いします、シロウ」

 するとやはり現金なことに、大人しかった食欲までもが思い出したように自己主張を始めた。
 シロウに冷えてしまったお味噌汁のお椀を渡し、冷たくなったごはんを頬張る。
 冷めているはずのごはんは何故か妙に温かく感じられ、そしていつも通りに美味しく感じられた。



サーヴァント (2005/1/23)

「…………」
「…………」

 たった二人しかいない居間は物音一つしない。シロウも大河も凛も、そして桜も学校に出ており、家には私と、朝から来ているライダーしかいない。丁寧なことにいつもは部屋の隅で丸くなっている猫たちも散歩に出かけているようだ。
 私とライダーの前には湯気を立てているお湯呑みがある。自分で淹れたのだが、私もライダーもまだ一度も口をつけていない。

 確かに私は料理を得意としていない。少しずつ簡単なものを作れるようになってきてはいるが、シロウや桜に比べれば何段も劣る。
 しかしだからといってお茶を淹れるくらいであれば、私にだってできないことではない。やはりシロウが淹れるものとは格段の違いがあるだろうが、いくらなんでも飲めないというわけではないはずだ。
 ……多分。
 いや、間違いなくそのはずだ。……気になるならば自分で飲んで確かめてみればいいのです。

 ず……と、静寂の中に小さく音を立てて湯呑みを傾ける。

「ふむ……」

 さすがにシロウが淹れるものと比べれば劣りますが、それでもやはり飲めないというわけではない。むしろ、自分にしてはわりと上手く淹れられたのではないかと思う。手をつけないのは彼女の勝手ではあるのだが……。

「セイバー」

 ずっと黙っていたライダーが突然口を開いた。やはりお茶に私が淹れたお茶には何か問題が――そう思い聞いてみたが、彼女は相変わらずの無表情で小さく首を横に振った。

「セイバー、本来ならばこのような役目は私には不向きだと思う」
「む……何がでしょうか?」
「……ですが、桜に頼まれたのであれば私も否とは言えません。だから聞きましょう。セイバー、貴女は何か悩んでいることがありますね?」

 両手で湯呑みを持ち口元に運びながら、まるで断定するかのような口調。
 私は言葉に詰まり、部屋にはライダーがお茶を啜る音だけが響く。悩みなどない、違う、と彼女の言葉を否定しようとしてもできるだけの説得力を乗せられないと自分でもわかっていた。だが――。

「ライダー、何故そう思うのですか? 何を根拠にして、私が悩んでいると?」
「根拠などありません。私はただ、桜からそう聞いただけです。貴女が何か悩んでいると」
「桜から……?」
「そうです。そして貴女の悩みとは恐らく士郎に関することでしょう。……ならば士郎に相談するわけにもいきません。だから桜は私に相談に乗ってやれと。……見当違いも甚だしいことですが、桜から見れば私と貴女はとても強い友好関係が築かれているのだそうです」

 それは確かに見当違いだ。
 私とライダーに友好関係が? 馬鹿な話だと思う。どちらかといえば私たちはいまだに敵対関係にあるといったほうが正しい。桜はきっと何かを勘違いしているのだろう。

 しかし――まさか誰かに気づかれているとは思いもよらなかった。それほどに私は露骨に自分の態度に出していたのだろうか。
 ライダーは空になった湯呑みに自分でお茶を注ぎながら、それ以上何を言うでもなくただ待っている。きっと私がこのまま何も言わなければ彼女も何も言うことはなく、ただ時間だけがすぎていくことだろう。
 それはそれで構わない。悩みなど、自分自身で解決することだ。そもそも私自身、心の内に澱んでいるこれがなんなのか、よくわかっていないのだ。話してみろと言われても話し様などあるはずがない。

「…………」

 ただ、聞いてみたいことならあった。
 同じサーヴァントとして、居場所を同じくする者として。

「ライダー」
「話す気になりましたか? 話したところで私に何かができるとは思えませんが」
「いいえ。ただあなたに聞きたいことがあるだけです。私とて貴女に悩みを打ち明けてまともな答えが返ってくるとは思っていない」
「なるほど」

 淹れなおしたお茶を啜り、お茶請けに出しておいた饅頭を齧りながらライダーは続きを促した。
 聞きたいこと、といってもたいしたことではない。答えなど聞かずともわかっていることだ。
 ライダーも私と同じくサーヴァントなのだから。

「それで、何を聞きたいのですか?」
「……貴女は――例えばライダー、桜が将来いずれ貴女の望まぬ道を歩もうとしたらどうしますか? 桜の歩もうとする道は彼女にとって正しく、しかし貴女の望みにはそぐわない。その時貴女はどうするのか……」
「愚問ですね」

 はっきりと、断ち切るように彼女は言った。
 表情には何も浮かばず、瞳にも何もなく。ただ当然のことを口にするように。

「私は常に桜と共にある。私の望みは桜と共にあり、彼女の歩む道を共に歩むこと。それ以外に私の望みはありません」
「……その通りだ」

 やはり答えは同じだった。彼女の答えもまた、サーヴァントとして当然のことだった。ライダーもまた、私がシロウを大切に思うように桜を大切に思っている。その身は桜のために全てがあると言っても過言ではない。
 だから私もまた……シロウを選ぶのは当然のことなのだ。

「貴女が聞きたいのはそれだけですか?」
「ええ。少し気になっただけです。……やはりこの一点に関しては私も貴女も変わらないようだ。同じサーヴァントなのだからな」
「……なるほど」

 一瞬、僅かに身を震わせて湯呑みを置く。

「では逆に聞きましょう、セイバー」
「……む」

 ライダーの視線はどこかしら鋭さを増しているようだった。魔力を遮断する魔眼殺しを通してさえ、身体が痺れるような感じがする。

「貴女はもし、自分が士郎のサーヴァントではなかったらどうしますか?」
「……それはどういう意味ですか?」
「簡単なことです。もし貴女が士郎のサーヴァントではなかったとして……彼に何も従う義務がなかったとしたら、どうするのかと聞いているのです」

 私がシロウのサーヴァントでなかったら……?
 そのようなこと、それこそ愚問だ。何も変わることなどありはしない。私は彼のサーヴァントであるという義務だけで彼と共にいるわけではなく、自分の意志でそばにいることを選んでいる。
 もしシロウが令呪を失い、従う理由を失ったとしても私が変わることはありえないだろう。

「私は別に桜がマスターであるからという理由で彼女と共にいるわけではない。それはセイバー、貴女も同じはずだ」
「無論です」
「同じように桜も士郎も、私たちがサーヴァントであるからという理由で私たちと共にいるわけではありません」
「……無論です」

 そのくらいのこと、私にだってわかる。そもそも聖杯戦争の時よりシロウは私をサーヴァントとして扱おうとはしなかった。
 シロウも、そして桜も私たちをサーヴァントであるからという理由で縛り付けようとは決してしないだろう。
 ……そう、例えば私が我侭を言ってしまったとしても、決して何の理由もなく切り捨てたりはしない。

「セイバー、私たちは確かにサーヴァントではありますが――」
「…………」
「少なくとも、私たちのマスターにとって私たちはサーヴァントではないのです」

 それきりライダーは口を閉ざし、お茶を啜り、黙って饅頭を食べていた。

 サーヴァントであってサーヴァントではない。それは矛盾のはずだ。
 しかし真実でもある。シロウは魔術師としての力を持ってはいるが、真実の意味で魔術師ではありえない。そうでなかったら私を対等の存在として扱うはずなどということがあるわけがない。
 シロウのそんな心根はひどく心地よくて好ましいものだ。だから私は、もし自分が彼のサーヴァントでなかったとしても、彼のそばにいたいと願うようになったのだから。

 ……ならば。私がもし彼の隣に立てるのであれば。
 シロウがそれを許してくれるのであれば。

 少しくらいの我侭は許されてもいいのではないだろうか。
 私は既に、真実の意味でサーヴァントではないのだから。



卒業の後 後編 (2005/1/15)

 シロウと凛の、二人の話を聞いてしまってから三日がすぎた。
 あれからどうしても心にかかった靄は晴れず、私は依然として気分が落ち着かないままだった。となれば自分自身のことには疎いのに他者には敏なシロウが気づかないはずもなく、事あるごとに様子を窺ってくるのがひどく申し訳ない。
 かといってまさか事情を話すわけにもいかない。二人の話を盗み聞きしたことについてはともかくとして、だ。
 ならば何故なのかというと、単純にシロウの凛への答えを聞いた時に、自分がなんと言っていいのか決めかねているからだろう。
 ……私の答えなど、決まっているはずなのに。
 たった一つ、それ以外に答えなどなく、私自身それを望んでいるはずなのに。


 寒風吹きすさぶ空の下、商店街を歩く。昼の時間が短い冬の日だから、既に足元から伸びる影は遠く向こうの曲がり角まで延びていた。
 右手にはスーパーの袋と、左手には八百屋と魚屋の買い物袋、そして隣にはコートを着てマフラーを巻いた桜。寒さのせいか頬は僅かに赤く染まっており、彼女の吐息が空に溶けていくのが見てとれる。
 私も両手に買い物袋を持っているが、彼女もまた両手を食材で埋めている。普段はこんなにも大量に買い込むことなどしないのだが、今日は何故そうなのかというと当然理由があった。
 いつもはまばらに集まるいつもの面子が、今日に限って何故か一斉に集まったのがその理由。大勢の人が集まった時の食事は鍋である、と大河が主張し、となれば食材も大量に必要となるのは道理。それこそ二人で買い出して、両手を埋めてしまうくらいには必要だった。
 ずしりとビニールが食い込む指先が少し痛い。野菜やお肉、調味料などが入った袋は重たくて、食い込んだところが必要以上に白くなっていた。

「桜、重たくはありませんか? もし辛いようでしたらそちらも私が持ちますが」
「あ、ううん、わたしは大丈夫。ちょっと重たいけど持てないわけじゃないから。というか、わたしよりもセイバーさんが持ってるほうが重たいのに」
「確かにその通りですが、私はサーヴァントです。この程度の荷物など何ほどのこともありません」

 魔力の消費を抑えるために今は人並みに調節しているが、その気になれば桜の持っている荷物も持つことは不可能ではない。……まあ、そうなったらそうなったで、今度は私の手が足りるのかという問題があるのですが、些細なことでしょう。
 しかし桜は僅かに考える暇もなく首を横に振り、

「ほんとにわたしは大丈夫、だから気にしないでください。それに先輩だったらきっと『サーヴァントだとかそうじゃないとか全然関係ない。女の子に重たいものなんて持たせられるか』って言いますし。セイバーさん、女の子じゃないですか」
「わかりました、あなたがそう言うならば。……しかし桜、私が女であるというならば、あなたも女ではありませんか」
「……あっ、そうでしたね」

 言って彼女は、自分の失敗を心底楽しむように声をあげて笑う。控えめだが明るい笑顔だった。彼女らしい、と思う。
 桜はいつも明るく、錯覚かもしれないがいつも笑顔でいてくれるような女性だ。特にここ最近の彼女はそうだ。
 以前――そう、まだ桜と出会って間もない頃も彼女は明るい女性だったが、それでもどこか影を纏っていたように思う。決して消えず切り離せない、ちょうど足元から今伸びている影のような……しかしずっと暗く深く濃い影を。
 だが今はそんな影など、影も形もない。……というのもおかしな話ですが。

 両手に重たい荷物を持ち寒風に晒されながら、桜の足取りは浮き立つようだ。
 同じだけの荷物を持ち、同じ寒さを感じている私とは違う。

「楽しそうですね、桜」
「そうですか? うーん……そうですね」

 思わず発していた私の問いに少しだけ首を傾げる。

「以前は家に先輩と藤村先生だけで……それでもいいと思ってたんです。わたしはそれで満足でしたし……。だけど」

 言いながら、まるで自分で確認するかのように何度か頷き、

「今のほうが前よりももっと良いって思ってます。たまにちょっと困っちゃったりすることもありますけど……それでも今の生活は楽しいなぁって」

 そう言って桜は笑っている。いや、微笑んでいるといったほうが正確だろうか。
 穏やかに。今が幸せであると言うかのように。

「そう思いませんか?」
「…………」
「? セイバーさん、どうしたんですか?」
「ああ、いえ――」

 なるほどと、私は声にならない言葉――つまるところ自分の心の内だけでそうつぶやいていた。
 私は何故、自分がシロウの言葉に素直に頷けなかったのかわかったような気がした。桜の言葉が、きっとその答えなのだろう。
 まだ一年にも満たない時間でしかない。だが短いはずのその時間は、私がこれまで過ごしてきたどの時間よりも満たされていて喧騒に満ちていた。
 桜が言うように、時にはその喧騒を疎ましく感じることもあるが、それすらも決して否定するようなものではない。

「――そうですね。桜が言うように私も、今の生活は好ましく思っています。できることなら……」

 後の言葉を言いかけたが、それは無意識に飲み込んでいた。口にしてしまったが最後、今の自分の想いに飲み込まれてしまいそうだと思ったからだ。
 無論、それは錯覚でしかないだろう。今の生活がどうであろうと、全てはマスターであるシロウがいるという前提での話し。彼の居場所が私の居場所なのであり、その逆はありえない。シロウが私と共にあるのではなく、私がシロウと共にある――それが私たちの関係なのだから。

 歩いている先に我が家の屋根が見えてきた。純和風造りの衛宮の屋敷。切嗣がマスターであった時も私はあの屋敷ですごしていたが、今のように帰る場所ではなく、ただ行動の拠点としていただけの場所。
 今はあの家が私の帰る場所だ。
 シロウがいる――今の生活がある、私の居場所。
 単に風雨を凌ぐだけではない。食卓があり、寝所があり、風呂があり、部屋がある。
 人がいる。そこには生活がある。

 今の生活はひどく騒がしくて、息をつく暇もない。毎日のように何かしらの出来事があって、あたかもそれが当たりまえのような日常となっている。
 一日の始まりにシロウと挨拶を交わし、家事をして、時には学校に行き教壇に立つ。家に帰れば無人だったはずの家には誰かしらがいて、そんな傍若無人さに腹を立てながらも共に茶菓子をいただくこともある。夜になれば味わい豊かな食事を取って、心地よい疲れを風呂で落として眠るのだ。
 春には桜を愛で、夏には海で遊び、秋は味覚を楽しみ、訪れる冬の季節の厳しさに時間の流れを感じた。
 全て、この家で。

 ため息が漏れた。

 いつかこの居場所を失う時が来るのかもしれない――それも至極近いうちに。
 そう思うと自然にため息が漏れて、つまり自分がそれを失うことを恐れているのだということに気がついてしまっていた。



卒業の後 前編 (2005/1/9)

 時刻は夜の十時を回り、先ほどまで騒がしかった居間の食卓もすっかり落ち着いて今は大河が寝そべってテレビを見ている。
 イリヤスフィールはお風呂に入っていて、桜は食器の片付け。夕飯を集りに来ていたライダーとランサーは先ほど見た限りでは、縁側で将棋を打っているはずだ。ランサーの顔がにやけていたのと、ライダーの無表情が崩れかかっていたところからすると、形勢はどうやらランサーに分があるようだった。

 そして私はというと……さしあたって特にやることが無い。イリヤスフィールがお風呂から上がったら次にいただこうと思っているのだが、彼女はお風呂が長いのでまだしばらく時間がかかるだろう。
 だからふと、凛の部屋で彼女に魔術の講義を師事しているシロウにお茶を淹れてあげようと思い立った。
 以前に比べればお茶を淹れる手つきも慣れたものだ。茶葉の分量もわざわざ測るまでもなく適量。お湯を注いだ急須の中で茶葉が開いたのを確認してから湯呑みにお茶を注ぎ、お茶請けに買ってきた饅頭を二つ添える。
 これでお茶の支度は完了です。凛は日本茶よりも紅茶を好むのですが、シロウは日本茶を好む。なので仕方がないと思って諦めていただきましょう。

「あ、先輩と姉さんにお茶ですか?」
「はい。そろそろ少しくらい休憩を入れても良い頃合でしょうから」

 食器洗いの手を止めて振り返った桜に答え、縁側でいつの間にか難しい顔つきに変わっていたランサーの、

「おいセイバー、俺にも茶ぁ淹れてくれ」

 という声を無視して、凛の部屋に向かうことにする。まぁ、シロウの後で彼にも淹れて差し上げましょう。
 お盆に乗せた湯呑みから立ち上ってくる湯気が湿っぽくて温かい。冷めるということはないだろうが、できるだけ温かいうちに届けてあげたい。冷めているお茶よりも温かいお茶のほうが美味しいのは当たり前だからだ。

 離れにある凛の部屋の前――。

『許可なく立ち入るモノに三年殺し』

 扉にはこのような張り紙が張ってあるくらいですから、間違ってもノックを忘れてはいけません。三年殺しというのが具体的にどんなものであるかはわかりませんが、あまり良いことではないのは確実です。

 廊下はひんやりとしていて、しんと静まり返っている。
 居間で大河が見ているテレビの音も、ライダーとランサーが打つ将棋の音もここまでは届かない。
 そのせいか、何故か不意に身体に緊張が走った。

「……?」

 首を傾げてその正体を探ってみるも何も姿を現さない。
 ……まあ、気にするほどのこともないでしょう。少々のことではあるし、私の気のせいということも考えられる。
 気を取り直し、一つ呼吸をして扉の前に立つ。お盆を持ち直してノックしようと手を伸ばし、

『で、考えてくれたの? 卒業後のこと』

 部屋の中から聞こえてきた凛の声に上げた手は止まっていた。

『いや、すまん。まだ決心はついてないんだ。おまえの言ってることはその通りだと思うし、俺にとっても良いことだってのはわかってるんだけど』
『そう。まあ、士郎らしいとは思うけど。だけど決めるなら早くしないと、時間は無限にあるわけじゃないんだから』

 これは……いったい何を話しているのでしょうか。
 凛は卒業してからのことと言った。雰囲気からもとても重要なことを話しているというのもわかる。

 ――シロウが、卒業してからのこと。

 確か凛は倫敦の時計塔に留学すると話していたと覚えている。ならばシロウは……?
 シロウは……凛と一緒に倫敦に行くつもりなのだろうか。

「…………」

 扉をノックしようとしていた手は再び上がろうとしない。仕方なく背を壁に預けて扉の向こう側を見つめた。
 ……シロウがもし倫敦に行くのだとしたら、私はどうすれば良いのか。
 いや、考えるまでもない。私はシロウのサーヴァントであり、この身は彼に捧げた剣である。彼の行くところ常に傍にあるのが私の往く道だ。

「……それなのに、何故」

 口の中だけで転がした言葉が耳に届く。

『でもさ、遠坂。いいのか? 俺なんかが一緒で』
『いいのよ。……心の贅肉だと思うし、自分でもなんでこんなこと考えてるのかわからないけど……多分、あんたが一緒だと楽しいもの』
『そ、そうなのか?』
『そうなのよっ! だから余計なことは気にしないで、後はあんたがどうしたいかだけ。……ちなみに言うけど、わたしは多分士郎が考えてる以上に士郎のことを気に入ってるわ。うん、だから……まぁ、来てくれると嬉しい……かな』
『う……遠坂おまえ、いきなりすごい恥ずかしいこと言うんだな』
『なによ……いいじゃない、別に。わたしだって、たまには……こういうこと言うわよ』

 聞こえてくるシロウと凛の声を聞くとなしに聞く。
 何故だろう。
 シロウと共にあるのは私の義務であり、同時に願いでもある。迷いなど入る余地はないというのに、何故こうも心が晴れないのか。
 考えても答えなど出てこない。心当たりなどどこにもないのだから当然だ。

「……シロウ」

 問いかけるように彼の名を呼ぶ。
 しかしやはり、それでも答えは返ってこなかった。



寝正月 (2005/1/4)

「ふぁ……あッ」

 思わず漏れてしまった欠伸に、慌てて口元を押さえる。しかし目元に滲んで零れる涙が、今の自分の醜態を隠しようもなく物語っていた。
 三が日の間の慌しさも過ぎ去り、久々にのんびりとしたまだかろうじて正月と言えないこともない日の昼下がり。冬はこれからが本番だというのに、今日は太陽の日差しも柔らかく、縁側にできた陽だまりの中はまるで春の日のように暖かい。
 その縁側に、私は座布団を枕に横になっていた。
 昨日までの忙しさがさすがに少し堪えたのでしょうか。ひっきりなしに訪れる常人とは一味違った来客の対応と、人ごみの中を掻き分けるようにして行った初詣は、その時こそ気にはならなかったものの、終わってみれば随分とこの身に疲労を蓄積させていたようだ。自分でも少々腑抜けているかと思うのだが、今日一日は何もする気が起きないというのが正直なところです。

 幸いなことに今日は特に予定があるわけでもなく、来客があるわけでもない。
 正確には客ならすでに来ているのだが、彼女にしてみれば勝手知ったる衛宮家なのだろう。小腹が空いたと自分で餅を焼き、湯呑み茶碗片手に居間でテレビを見ています。いくらなんでもそんな相手を客として扱うつもりはさらさらありません。
 ふと視線を庭にやると、身体も少し大きくなった我が家の猫たちが四匹、丸まって転がりじゃれあっている。ああ、こんな平和な光景を目の前で見せられては、欠伸が出てしまうのも仕方ないというものではありませんか。

『それでは次は寒いところに住んでいる動物たちのお正月を見てみましょうっ』

 居間から聞こえてくるテレビの音が左の耳から入って右に抜けていく。たった今耳に入ってきたばかりのことなのに、どうやら記憶には僅かもとどまらなかったようで、もう既にテレビの中の女性が何を言っていたのか覚えていない。
 その代わりと言わんばかりにやってきたのが睡魔だ。
 彼らは抵抗する術を持たない私に対し圧倒的な戦力を以って押し寄せて、瞬く間に意識を蹂躙していく。お昼ごはんにお雑煮をたくさんいただいて、とても満たされているのも助けとなっているのでしょう。
 だがもし、抵抗する術を持っていたとして、私は彼ら睡魔に抵抗しただろうか。

「……答えは否です」

 折りたたんだ柔らかい座布団に顔を埋めて、背中を丸めてほとんど膝を抱え込む。こうするとまるで降りてくる日差しを独り占めできたような気になって、しかも実際に暖かくなるのだから不思議だ。

 ……もう良いでしょう。今日はもうこのままのんびりしていましょう。
 だって仕方がない。私の意識は既に睡魔に犯されて取り返しのつかないことになっているのだから。そもそもいったい誰がこの穏やかなぬくもりに勝てるというのだ。誰も勝つことなどできはしないはずだ。
 半分以上閉じていたまぶたから、最期に込めていた力を抜いていく。するとゆっくりと、しかし確実に瞳は閉じられて、私の意識も暗闇へと――

「トド」

 ――落ちようとしたところで不意に聞こえてきた声に、落ちていこうとした意識が引き上げられた。

「……?」

 重たい頭をゆっくりと捻ってそちらを見ると、相変わらず紫紺の髪の彼女が背筋をピンと伸ばしてテレビを見ている。
 いったいなんだったのでしょうか。確かにこちらに向けて言った言葉だったような気がしたのですが。
 しかし気にはなったが、それよりも再び思い出すように襲ってきた睡魔のほうが強力だった。少しだけひっかかっていた意識もまたたちどころに塗りつぶされていき、まぶたも急速に閉じて――

「トド」

 ――また邪魔されることとなった。

 さすがに今度は間違いありません。確かに間違いなくその言葉は私に向けられたものだ。

「先ほどからいったいなんだというのですかライダー。言いたいことがあるならばはっきりしていただきたい」

 すきっと伸びきった彼女の背中。長い髪が半ば以上覆い尽くしているが、芯でも差し込んでいるかのようにピンとしているのはそれでもわかる。その背中に向けて自分でもやや尖っているとわかる声をぶつけると、彼女は手にしていた湯呑みを置いてゆっくりとこちらに振り向いた。

「何か用ですかセイバー。私はただテレビを見ているだけなのですが」
「何用かとはこちらの台詞です」

 振り向いたライダーは、表情を隠す眼帯ではなくいつもの魔眼殺しの眼鏡だというのに、憎らしいほどに能面のような表情だった。
 しかしだからといってこの女に関してだけは油断することはできない。無表情でありながら腹の底で笑うことができるのが、このライダーという人物だ。

「先ほどからつぶやいている言葉。あれは私に向けている言葉でしょう。いったいなんなのです」
「……貴女が何を勘違いしているのかはわかりませんが――」

 私の詰問にも表情一つ動かさず、ライダーはテレビの中で動いているモノに指を差す。
 釣られて見るとそこには、何かがごろごろと転がっていた。

「――私はただこの子たちの名前をつぶやいていただけです」
「……トド?」
『はいっ! 寒い寒い北海道に住んでいるトドたちです! もうかんっぺきに寝正月ですね! 何をすることもなくごろごろごろごろ――』
「……トドですか」
「はい。トドの寝正月です」

 テレビの中でトドたちは群れをなしてごろごろしている。仰向けになったり横になったり、仲間の背中を枕にしてごろごろと。

「つまり……それはなにが言いたいのでしょうか」
「別になにも」
『テレビの前の皆さんも、お正月だからってお雑煮食べてごろごろしてばかりだと、トドになってしまいますよーーーっ!』
「…………」
「…………」

 互いに無言。
 ライダーはもはやこちらのことなど知らぬと言わんばかりにテレビに向き直り、湯気を立てているお茶を啜っている。テレビから聞こえてくる女性の声とライダーがお茶を啜る音だけが、やけに大きく居間に響く。
 何故だろうか。先ほどまで暖かかった陽だまりが今はそんなに暖かく感じられない。それに気温が高いとはいえ冬は冬。寒いのに変わりはありません。
 のろのろと身を起こし、庭で遊んでいた猫たちに目をやると、彼らは遊びつかれたのかいつの間にか重なり合って眠っていた。

「ただいまー」

 玄関からシロウの声が聞こえてきた。

「おかえりなさい、士郎。随分と買いこんできたのですね」
「ああ、ライダー来てたのか。いや、新年の初売りやってて安かったからついな」

 しばらく微動だにせず待っていると両手に買い物袋を持ったシロウが頬を上気させて居間に入ってきた。あれだけの荷物を一人で持って歩いていたのですから、良い運動になったことでしょう。
 ……さて。

「おかえりなさい。お疲れ様でしたシロウ」
「ああ、ただいまセイバー。ん? もしかして昼寝してたのか。だったら起こしちまったか?」
「いえ、問題ありません。眠ってなどいませんから。それよりも――」

 立ち上がり、荷物を降ろしたシロウの腕に自分の腕を絡みつかせる。「え?」と声をあげ目を白黒させているが、有無を言わさず引っ張っていく。
 向かう先は去年幾度も世話になり、今年も世話になるであろう道場です。

「――帰ってきて早々ですが、新年の初鍛錬と参りましょう。既に身体は温まっているようですし、最初から厳しくいきますよ」
「あ、え、おい? ちょ、ちょっとセイバーさん? いったい何がどうしたんですかーーーっ!?」

 引っ張られながら戸惑いの悲鳴を上げるシロウですが、無論それに構っているわけにはいきません。
 別に何がどうしたというわけではないのですが、そう、新年だからといって腑抜けているわけにはいきませんから。
 居間から出る直前、ちらりとライダーの笑みの端が見えたような気がしましたが――ええ、もちろんそんなのは何も関係ないのです。



謹賀新年 (2005/1/3)

 慌しかった年末も明けてお正月。長いようで短かった一年が手の届かない過去へと去って行き、新しい一年がやってきました。
 門扉に門松を飾り、玄関に注連縄を張る。箪笥の上には二段重ねにみかんを乗せた鏡餅。
 それぞれがどういった意味を持つのかこの国での暮らしが浅い私にはわかりませんが、日本の正月では伝統的にこうした飾り付けをしているそうです。かなり古い歴史があってこうした伝統が今に伝わっているそうなのですが、それがどんな歴史なのかはシロウにも良くわからないとのこと。今度時間がある時にでも、自分で調べてみるのも悪くないと思っている。この国の歴史は長く深く、関係する本などを読んでいてもまるで退屈しないのです。

 さて、そんな日本伝統の中には正月料理というものがあります。
 今私の目の前に並んでいるお重――おせち料理のことです。昨日からシロウと桜、それに凛の三人が作っているのを少し見せていただいたのですが、目にも鮮やかな繊細極まる料理であったと記憶しています。味見はさせていただいていないのでどのようなものなのかはわかりませんが、元よりあの三人が作る料理が美味しくないはずもない。期待しても良いと思われます。

「ちょっとセイバー! おせちできたから運んでくれない?」
「む、了解しました。任せていただこう」

 台所から呼ぶ凛の声に応えて、積み重なっているお重をまとめて居間のテーブルに運ぶ。こたつだと今日は少し狭いから、彼には申し訳ないが居間の隅のほうで休んでもらっているのだ。

「たのもーーーっ!」

 と、全てのお重をテーブルに運び終えて一息ついたところで玄関のほうから聞きなれた女性の声。正月そうそう、今年も元気なようですね。

「セイバーちゃん、あけましておめでとー」
「はい、あけましておめでとうございます、大河。……それが先日話していた振袖ですか?」
「うむ。どうよ、似合う? 似合う?」

 そう言って、自分を誇るように腰に手を当て胸を張る。
 ひまわり色の生地に金糸、銀糸で松や梅が描かれた振袖は目にも鮮やかで豪華絢爛、普段はつけない髪留めで飾った大河に確かに良く似合っているのですが、彼女の一挙手一投足が着飾った大河をいつもの大河に戻してしまっているような気がする。
 とはいえ、似合っているのは確かなので素直にそれを言うと、彼女はますます誇らしげに胸を反らしていた。まあ、喜んでいるのならいいのですが。

「ところで大河、イリヤスフィールはどうしたのですか? 一緒に来たのではないのでしょうか」
「イリヤちゃん? イリヤちゃんだったらさっさと中に飛び込んでいったけど。こう、ねこまっしぐらーーー、ってカンジに」
「……ああ、そうですか」

 一緒に来ているはずの彼女の姿が見えないので不思議に思ったのですが、それで合点がいった。きっと迎えに出た私と入れ違いになったのでしょうが……それならばねこまっしぐらと言うよりはシロウまっしぐらと言ったほうが正しいでしょう。猫たちは今、家の中ではなく庭を巡回中ですから。

 大河と一緒に居間に戻ると、案の定、イリヤスフィールが正月早々からシロウにくっついて纏わりついていた。その懐き様といったら眠たい時の猫も顔負けで、座っているシロウの膝の上から彼の首に縋りついている。
 ……まったく。シロウにくっつくのはいつものことだから仕方ありませんが、それではせっかくの振袖が皺になるというのに。
 イリヤスフィールが着ている振袖は、雪のような白地に薄い色の桜をあしらっている。髪を結い上げていて、覗くうなじはほっそりとしていて儚く、振袖の柄と相まって、黙って立っていれば涼しげで清げな印象を受けるでしょう。
 が、当の本人は目の前で見ていてわかるように、いつものごとくの暴れっぷりです。

「あけましておめでとうございます、イリヤスフィール。新年になっても相変わらずですね」
「もちろんよ、新年だからこその初シロウだもの。これはとっても大事なことなんだから」

 いかにも嬉しそうな満面の笑みを浮かべて頬擦りするイリヤスフィールに、シロウは少し疲れたような苦笑いを浮かべている。その隣では凛が何事も無いかのような表情で新聞のテレビ欄を眺めていて、台所にいる桜からはひきつったような笑みが僅かに覗けた。そして私はというと、きっと呆れたような表情を浮かべているのではないでしょうか。

「イリヤスフィール、シロウにくっつくのは構いませんが、もう少し自分の恰好には気を使いなさい」

 はだけた裾から白くて細い腿が覗いているのを直してやりながら、シロウの隣に腰を降ろす。ちょうど眺めていた新聞から顔を上げて、つまらなそうに肘をついてテレビを眺めている凛の反対側だ。
 完璧に表情を通常のものに戻した桜も台所から帰ってきて、これで全員が居間に揃ったことになる。

 この後きっと今はここにいない面々が集まって賑やかになるだろう。なんだかんだといってこの家は私たちの中心にある。
 それは去年、聖杯戦争が終わってからずっとそうなのだし、だからきっと今年もそうなるだろう。中にはギルガメッシュや言峰ように歩く大迷惑のような人物もいるが、せっかくの正月なのですし、今日くらいは快く迎えても良いだろうと思う。

 今日、出会う全ての人々に新年の慶びを。そして今年一年、幸多からんことを願って。


「ところで、士郎。おねえちゃんにおとしだまは?」
「……今年も貰ってきたのか藤ねえ。つーか、普通立場が逆だろう」

 などという一幕の後、新年早々から拗ねた大河を宥める羽目となりましたが、完全に余談です。
 ちなみに私とイリヤスフィールはシロウからおとしだまをいただいたのですが、これは大河には内緒なのだそうです。



大掃除 (2004/12/29)

 今年ももう残された時間もあと僅かとなりました。もうあと数日で今年は終わり、新年が幕を明けることになります。
 私をはじめとして、イリヤスフィールや他のサーヴァントたちも日本で迎える年末も正月も初めてです。シロウと桜が用意するというおせち料理は楽しみですし、大河などはお年玉がどうのこうのとはしゃいでいました。……お年玉とはいったいなんでしょうか。
 しかし正月を迎えるその前にやらねばらないことがあります。
 一年もたてば家にも汚れが溜まる。となれば、やはり一年の締めとして溜まった汚れを落とさなくてはいけない。
 つまりは大掃除です。

 ……とはいえ、家の中は普段から毎日きちんと掃除しているので、そんなに汚れが目立っているわけではない。いつもと同じように掃除をすれば十分なので、今日の大掃除は普段余り手をつけない場所の掃除ということになります。
 それは例えば押入れの奥だったり縁側の下、それから屋根の上であったり土蔵の中であったりします。

「まあ、ここもたまに掃除していますからね……あんまり汚れてはいないのですが」

 自分に割り当てられた担当の土蔵を見渡す。窓から差し込む光に浮かび上がった埃が、ゆらゆらと舞いながら床に向かって落ちていく。

「かといって何もしないわけにはいきませんし、とりあえず転がっているものの整理でもするとしましょう」

 一歩踏み出すとそれで動いた空気に煽られて、落ちかけていた埃が再び舞い上がり、そしてまたゆらゆらと落ちていく。
 光に照らし出されると以外にきらきらと光って綺麗な埃の乱舞を目の端にしながら、私は積み上げられたガラクタの山に立ち向かっていった。


「これは確からじおとかいうものでしたね。きっとシロウが修理しているのでしょうからこちら。で、この……なんでしょう、不気味な笑顔を浮かべた……ひまわり? よくわかりませんが、きっと大河がどこかから拾ってきたのでしょう。こっちですね」

 残しておくものの山に一つと、捨てるものの山に一つ、一つずつ新しく加えられる。
 あまり汚れてはいないから掃除と言っても楽なものだと思っていたのですが、整理整頓となるとこれがなかなか大変な作業だった。あまり広いわけではない土蔵には、いったいどこにこれだけ、と思えるほどに多くのものが収められていた。
 そのうちの半分は何に使うのかわからないが、どうやら切嗣が遺したらしい品であり、残りの半分はシロウの所蔵品であったり大河がどこかから拾ってきたらしいガラクタであったりする。これをきちんと分けるのが大変なのだ。
 何しろ量が多い。シロウによると去年も同じようにいらないものを捨てたとのことなのですが、一年経ってまたこれだけ増えているのだから驚きだ。しかも去年、私たちがいない時は家の掃除と土蔵の掃除、どちらもシロウ、桜、大河の三人で全てやっていたというのですから更に驚きです。

「さて、残りも半分ですからもう少し頑張りましょう――」

 今しがた自分で積み上げた山の前から背後に振り返ったところでふと、去年のことを思い出した。

「――そういえばそうでしたね。私とシロウが出会ったのもここでしたね」

 私の背よりも高いところにある窓から差し込んでくる一条の太陽の光。あの時はそれが青白い月明かりだった。
 尻餅をついて呆然と目を見開いているシロウを、私はきっと感情のない目つきで見下ろしていた。
 事実あの時私は、シロウに対して何の感情も抱いていなかった。私にとってエミヤシロウは私を呼び出したマスターにしかすぎなかったのだから。

「……そうか、あれかもうすぐ一年になるのだな」

 思えば随分と変わったものだ。僅か一年という短い間だったというのに。あの頃の私からすれば、今の自分の代わりようは信じられないものに違いない。
 聖杯を欲していた自分はおらず、エミヤシロウはもはやただのマスターではない。彼を見るとき、私の瞳はきっと多くの感情をそこに乗せているだろう。

「本当に……変われば変わるものだ……」

 だがそれはもちろん好ましい変化だ。
 私は今の自分も生活も受け入れているし、何の不満もない。むしろひどく満たされている。もう一度あの頃の自分に戻りたいかと問われれば……。

 私は、迷わずに選ぶだろう。
 引っ掛かりが無いわけではない。私には確かにやり残したことがあるのだから。
 しかしあの時自分が抱いていた願いは間違いであることも、今では知っている。
 使命はいずれ果たす。シロウが往く道を共に行き、最期までその道程を見届けた後に、必ず。それが私の選択なのだから。

「おーい、セイバー?」
「! シロウ?」

 呼ぶ声に振り向くと、逆行を背にしたシロウが土蔵の入り口に立っていた。

「そろそろ昼メシだぞ。腹減ったろ? とりあえず休憩にして食べよう」
「ああ、もうそんな時間ですか」

 言われてみれば確かにお腹が空いてきていた。我のことながらなんですが、そのことに気づかないというのも珍しい。
 まあ、それだけ作業に没頭していたということにしておきましょう。

「シロウ、お昼ごはんはなんですか?」
「今日は遠坂のチャーハン。随分と気合入れてたみたいだから期待していいんじゃないか」

 頬についた汚れを拭って外にいるシロウの隣に並ぶ。
 ずっと縁の下の汚れと格闘していたのか、彼の横顔にも泥が跳ねていて、こびりついたのがかたまりになっていた。

「そのまま、ちょっと動かないでいてください」
「ん? ……ん」

 指先で泥のかたまりを落とし、染み付いた汚れを手のひらで拭ってやる。

「サンキュ」
「いえ、この程度のことは礼にも及びません」

 そう、この一年で私がシロウから貰った様々なものとはまるで比べ物にならない。
 私は彼から多くのものを貰い、そしてこれからもきっと貰い続けるだろう。だから私は私のできる限りでそれを返すのだ。
 来年も――再来年も。

「シロウ」
「なに?」
「少し早いですが……今年一年、ありがとうございました」

 そして来年、元旦になれば言うのだ。
 今年もよろしくお願いします、と。





※注意事項

 らいおんの小ネタ劇場は完全ご都合主義な世界観でお送りしております。
 何事もなかったようにサーヴァントとかいたりしますが、その辺あまりこだわらない方のみご照覧ください。

 なお、当コーナーは不定期更新です。

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