らいおんの小ネタ劇場
2004 年 9 月 20 日
第 120 回 : 屋上弁当・後編
固まっているシロウと朗らかな笑顔で彼の口元に箸を差し出している由紀香。
そして息を殺して見守る私たち。
ふわりと、頬を撫でた風が髪を揺らしていくのを感じる。私たちの間に流れる空気が固まってからどれくらい経っただろうか。時間にすればほんの数秒か十数秒のことだったのだろうが、とてもそうとは思えないのが不思議なところだ。
相対したまま動かないシロウと由紀香――先に動いたのは由紀香のほうだった。
差し出した箸が摘んでいるじゃがいもを凝視したまま動かないシロウになにを思ったのだろうか。
見る者を柔らかな気持ちにさせる彼女の笑顔が不意に曇り、形の良い眉が悲しげに顰められた。
「えっと、衛宮君……?」
「…………」
「あ……ごめんね。もしかして、迷惑だったかな……ごめんね」
言って、彼女の笑みは一転して悲しげなものに取って代わる。内心の感情を押し殺して無理に浮かべた、見るだけでこちらも引きずられてしまいそうな、そんな笑顔だった。
となればシロウが気づかないはずがない。元々自分に寄せる好意や賞賛などには疎いくせに、他人の悲しみや苦しみには敏い人ですから。
「うっ……いや待て三枝! そんなことはない、そんなことはないぞ!」
「……あ」
そう喚いて手を引っ込めようとする由紀香の肩を逃げられないように掴むと、そのまま差し出されているじゃがいもの煮っ転がしにひと口で齧りつき、お百姓の方に失礼にならぬようよく咀嚼してから飲み込んだ。
「衛宮君……」
「……うん、美味い」
「ほんとに?」
「ああ、俺はこと料理に関しては嘘は言わない。だからほんとに美味い」
確かにそれは真実でしょう。シロウは料理に関しては一家言を持っているし、己の腕に誇りを持っている。故にごまかしも手抜きも一切しない。シロウが美味いといったのであれば、由紀香の料理は本当に美味しいのでしょう。
由紀香もシロウの真摯な態度にそれを感じ取ったのでしょう。
「そっか……うん、ありがと。衛宮君」
目元をほんの少し、薄っすらと染めて、彼女は見惚れるくらいに柔らかな微笑を浮かべた。
……それにしても、何故でしょうか。
由紀香があんなにも嬉しそうにしているのはとても良いことだというのに、何故か胸の辺りに不快な気持ちが込み上げてくる。これはやはり、己のサーヴァントのそんな状態に陥っていることにも気づかず目の前の少女に見入っているシロウが悪いのでしょうか。
我のことながら無理もないと思う。これまでずっと尽くしてきた主に、こうも容易く裏切られれば誰であれこのような気持ちの一つも抱くものでしょう。
しかし主は事ここに至ってもなお、無慈悲にもこちらを省みることをしようとしない。
「それじゃあ衛宮君、もうひとつ食べますか?」
「あ、ああ。……いただきます」
二人向かい合ったまま、シロウは由紀香から差し出された料理をまるで鳥の雛のように素直に口にする。
最初はあれだけ躊躇していたと言うのに、一度やってしまえばたがが外れたかのように唯々諾々と口を開いている。我が主ながらなんと流されやすい人なのだろうか。……ところでいつまで由紀香の肩を掴んでいるのでしょうか、マスター?
「でもまさかさー、昼休みの屋上でこんなラブコメ見れるとは思ってもみなかったなぁ」
「うむ。しかも主演が衛宮と三の字だ。もっとも三の字のあれは天然だが……衛宮は己の身の危険を理解しておるのかどうか」
「はい? 危険て……うおぉっ!?」
む、なんですか楓。こちらを見るなりなにを驚いているのですか。しかも人の顔を見てそのような態度を取るのは些か――ああ、なるほど。凛と桜ですか、ならば無理もありません。彼女たちがああなった姿は、あまり人前に出すことができるものではありませんから……ここは一つ釘を刺しておくべきでしょう。
「凛、桜。気持ちはわからないでもありませんが、少し落ち着いてください。楓が脅えていますよ?」
「あらセイバーさん、落ち着けと言われてもわたしは最初から落ち着いていますが……。逆にわたしのどこら辺が取り乱しているのか、よろしければお教えいただけないかしら」
「ふむ。では遠慮なく言わせていただくと……笑顔があくまになっています」
「……ほう」
む、こめかみに青い筋が浮き出ましたね。被っている猫の皮と塗りたくっているメッキが半ば以上剥げてきていますが、まあ自業自得でしょう。私のようにきちんと己を保つ冷静さを持てない凛が悪いのですから。
それから――。
「桜、あなたも影が伸びてます」
「――あっ、気がつかなかった。ありがとう、セイバーさん。……フフッ、わたしってばうっかりさん」
目元に影を落としながらざわついていた足元の影を引っ込めている桜の笑みは、ある程度見慣れているわたしでも怖気を誘うものがある。ましてや見たこともないであろう楓が硬直して蒼白になっていても無理はないでしょう。
「うん、衛宮の弁当は噂に違わぬ美味さだな。これならばハイエナのごとく群がるのも頷けるというものだのう、うん」
むしろ、まるで気にせずシロウの弁当を摘んでいる鐘のほうが脅威に値する。私ですら怯ませる彼女ら二人のあの様相を前に微動だにせぬとは、いったいどれだけの精神力を持っているのでしょうか、彼女は。
それからシロウは――相も変わらずですね。完全に場の雰囲気に飲み込まれてしまっています。なんということでしょう。
戦場では常に己を見失わず、相手のペースに惑わされぬよう努めねばならないと常々教えているというのにこの様とは。やはりもう一度、一から厳しく基本の手解きをしなおさなければなるまい。必要とあるならば、この身を修羅へと投じることも厭いません。シロウのためですから。
しかし私がこのような覚悟まで固めているというのに――
「衛宮君、もし良かったらなんだけど、今度また、お弁当食べてくれませんか?」
「なっ、なんですとー!?」
「えっ……? だめ、かな」
「うああ……ダメじゃありませんっ。よろしければ是非っ」
――などと、またも由紀香に敗北し、要求を呑まされてしまっている。
まったく、由紀香が手強い相手だというのはわかりますが、そこで堪えないでどうするというのですかっ! 腑抜けています、まったく腑抜け切っています。聖杯戦争の時、あれほどまでに己を真っ直ぐ、決して曲げなかったシロウはいったいどこへ行ってしまったのでしょうか。
「ふむ、馳走であった……ところでセイバー嬢?」
「……む、なんでしょうか鐘。今、私はシロウにどのような鍛錬を課すべきかを考えるのに余念がないのですが」
「ああ、それは結構なことなのだが――」
シロウの弁当箱をすっかり空にした鐘は、私の持っている弁当箱に指を差し、
「力の入れすぎで箸が折れておるぞ。ついでに言えば弁当箱も軋んで砕けそうになっておる」
淡々と、感情の動きをあまり感じさせない瞳で事実をありのままに伝えてきた。
ああ、確かに。手にしていた割り箸は小枝のごとく二つに折れているし、弁当箱は今もなお悲鳴を上げていますね。これは気づかなかった。
「気持ちはわかるが少々落ち着いたほうがよろしいな」
「そうよセイバーさん……」
「凛?」
肩に手を置かれ、振り返るとそこにいたのはとてもいい笑顔を満面に浮かべた凛。
――が、目があまり笑っていないような気がするのはきっと私の勘違いではないでしょう。
「気持ちはわかりますけど、物に当たるのは良くありませんよ?」
「む……確かにその通りです。この身の不覚でした」
となれば、やはりこのような気持ちを二度と抱かなくて済むように、シロウにはきちんと成長していただかなくては。
マスターの敗北はサーヴァントである私の敗北も同義です。私はシロウのサーヴァントとして、彼が正しい道に進み、そして正当な勝利を得られるように最大限の努力をしなくてはならないのです。
故にシロウ、覚悟を。今宵の私は、貴方のために手加減を己から捨てましょう。
そんな私たちを見ていた鐘は、秋の空を見上げ口元に小さく、微笑を浮かべた。
「やれやれ……衛宮も愛されておるが故に苦労が多いのう……ま、善哉善哉」
あまり善くありません。