らいおんの小ネタ劇場

2004 年 9 月 8 日


第 115 回 : 漢字ドリル

 イリヤスフィールは漢字の読み書きが不得手です。
 特に学ぶことなく聖杯から知識を得た私に『ずるい』と連呼し続けていたが、その気持ちはわからなくもないが……そのようなことを言われても困ってしまうのもまた事実です。
 ともあれ、このまま漢字に不自由なままでは日本での生活に支障をきたします。よってセラを教師に、漢字の読み書きを学んでいるのですが――

「何故、わざわざこの家で?」
「藤村の家でやるとタイガがうるさいのよ」

 ――なるほどもっともです。

 イリヤスフィールの教師役のセラは、元々が彼女の教育係だけあって、相手が自分の主であっても容赦することなく厳しく教えている。
 ともすれば『自習自習』と騒ぐイリヤスフィールの口に猿轡を噛ませて黙らせたり、いつかだったか僅かに席を外した隙に逃げ出してからは、それすらできないように足枷を嵌めて強制的に拘束したりと、目的のために手段を選ばない非情さは相当なものです。
 だがそれもこれもイリヤスフィールのため――故に相手に疎まれることを厭わない非情さは、逆に思いやりの深さでもあるのです。

「違う。セラのあれは、素」

 とはリーゼリットの言でしたが。


 そんなわけで今日も今日とて、足枷をつけられたイリヤスフィールが居間のテーブルで漢字ドリルと相対し、セラはそんなイリヤスフィールを見張るように、目の前でじっと彼女を見つめている。

「イリヤスフィール様、もうまもなく制限時間ですが」

 かけている伊達眼鏡の蔓を指で押し上げ、セラが抑揚のない声で告げ、イリヤスフィールの表情に焦りが混じり始める。
 伊達眼鏡は彼女なりの役作りなのだそうです。なんでも眼鏡をかけることで自分自身をイリヤスフィールの教師役へと変じさせ、その間だけは主従の関係を自分に忘れさせるとか。そうでもしなければ、非情に徹することができないと、セラは言っていた。

「違う。セラのあれは、浸ってるだけ」

 とはリーゼリットの言でしたが。
 まあ、それはさておき――

「時間切れです」

 一切の情を排したセラの声が開け放たれた居間においてもなお朗々と響いた。
 それに合わせて頬を丸々と膨らませたイリヤスフィールの声が開け放たれた居間から庭のほうまで響き渡った。

「ぶーーーっ! こんなのわかるわけないじゃないっ」
「できないと諦める前に知識として覚えてください、イリヤスフィール様」

 セラは諭すようにイリヤスフィールに言うが、彼女は完全にへそを曲げてしまってそっぽを向いたまま不機嫌を隠そうとしない。そしてセラは、そんなイリヤスフィールの姿を見て小さくため息をついた。

 ――仕方ありませんね。

 私は台所から取って置きのお菓子――江戸前屋のどら焼き――とお茶を用意して、二人の前に並べた。

「一先ず休憩しては? このまま無理に続けたとしても身にはならないでしょう」
「……そうですね」

 私の提案にセラはしぶしぶながらも頷き、イリヤスフィールは気色を満面にして、早速どら焼きにかぶりついている。
 が、ここはやはりきちんと釘を刺しておかなければいけないでしょう。

「イリヤスフィール、あなたの気持ちもわからなくはありませんが、セラの言うことも正しい。そう簡単に諦めなどせず、できるようになるための努力を怠らないようにしなくては」
「むっ、じゃあセイバーはこれわかるっていうの?」

 私の苦言に一転してまた表情を不機嫌に変えて、先ほどまで向かっていたドリルを差し出してくる。
 仕方ない。ここは一つ、彼女のためにも正しい知識があれば解けない難問はないことを教えてやらねば――

 そう思いドリルを覗き込むと、

『項王軍壁垓下。兵少食尽。漢軍及諸侯兵囲之数重。夜聞漢軍四面皆楚歌、項王乃大驚曰、「漢皆已得楚乎。是何楚人之多也。」項王則夜起飲帳中。有美人、名虞。常幸従。駿馬、名騅。常騎之……』

 ……なんですか、これは。

「どうしたのセイバー、わかるんでしょ?」

 じとりと、湿っぽいイリヤスフィールの視線が私の横顔に突き刺さる。
 それに対して私はもちろん――


「それではセイバー様もご一緒に。解けるまで昼食は用意いたしませんからそのつもりで」

 ――答えることができるわけありませんでした。

 漢字は漢字でも国が違えばものも違う。私が聖杯より得た知識は、日本という国で生活していくための知識であり、中国の漢文の知識など持ち合わせていないのです。というより、何故日本の漢字の勉強で中国の漢文を学ばなくてはいけないのでしょうか。

「セラも日本語のこと、良くわかってない」

 とはリーゼリットの言でしたが……いくらなんでも日本語と中国語を勘違いするとは、さすがに予想外のことでした。