らいおんの小ネタ劇場
2004 年 9 月 4 日
第 112 回 : 秋風邪
まず喉に痛みを感じた。
次いで咳が出はじめ、頭痛がしてくる頃には自分でも信じられないことではあるが、食欲が失せた。そこで異変を察した――きっかけが食欲のせいだというのが甚だ不本意ではありますが――シロウが熱を測って、風邪をひいているとわかったのです。
私は生まれてからこの方、風邪をひいたことなどありません。アルトリアであったときも王であったときも、そしてもちろんサーヴァントのセイバーとなってからもです。だから風邪という病気のことを知ってはいても、それがどういうものなのかいまいち私にはわからなかったのですが……
「ッ! けほ……っ、けほっ」
しゃくりあげるようにして喉の奥から込み上げるいがらい塊を吐き出す。そのたびに胸が破れるような痛みを伴って跳ね上がり、呼吸が詰まって細くなる。頭はぼんやりと霞がかってはっきりとせず、そのくせ打ち付けるような痛みだけは正確に伝えてくるのが忌々しい。
小一時間ほども前にシロウが置いてくれた額の濡れタオルはすっかり温くなってしまっている。いや……こうしてふとんで横になってからどのくらい時間が経ったのかすらよくわからないのだから、ひょっとしたら二時間も三時間もこのままなのかもしれない。
おかしいのは時間の感覚だけはなく、自身の身体の自由もそうだ。
張りついているだけで役に立たないタオルなどただ気持ち悪いだけなのだから、本当は取り替えてしまいたい。なのにふとんの中から手を出すのも億劫で、ましてや台所まで立ってタオルを冷やすなどできるはずもない。寝返り一つうつだけで、熱で痛む身体の節々が悲鳴をあげているくらいなのだから。
「はっ……ふぅ……」
胸に淀んだ熱を追い出して仰向けになり、歪んだ天井を見つめる。
風邪などたいした病ではないと、正直なところそう思っていた。シロウに風邪だと告げられた時も、そんなものかと思い、直ぐ治るものと高をくくっていた。
ああ……なるほど。その油断が今の自分の醜態を招いているのですね。――なんて、愚かな。
あまりの自分の情けなさに、なんだか泣きたくなってくる。だが、元より歪んでいる視界がぼんやりと霞んできているから、もしかしたら自分はもう泣いているのかもしれない。なんて――心の在り様までもがひどく不安定で、それがまた情けない。
「セイバー、調子はどうだ?」
私が自己嫌悪に溺れていると、すっ、と襖が開いて何かを持った人影が部屋に入ってきた。
「シロウ……ですか?」
「ああ。とりあえずタオル換えるぞ」
「どうして……学校は……?」
「休んだ。おまえのこと、放っておけるわけないだろ」
言いながらシロウは、額に張りついているタオルと持ってきたタオルを交換する。新しくなった濡れタオルの冷たさのおかげで、ぼんやりとしていた頭が少しだけ覚めてくれて、多少はましに働くようになってくれた。
すると、本来学校に行っていなければいけないはずのシロウが、私などのために休んでくれているのだということが、今更ながらに理解できた。
「……申し訳ありません、シロウ……あの、今からでもいいから学校に……」
「却下。もう一回言うけどおまえのこと放っておけない。それにこんな時間からじゃ、どうせ行って帰ってくるくらいで終わっちまう、だから却下する。……セイバー、悪いけどちょっと失礼するぞ。文句なら後で言ってくれて構わないから」
淡々と当たり前のことのように話すシロウ。私の話など聞く耳持たないと言わんばかりに、私の懐に体温計を差し込んでくる。胸元に触れる彼の手のひらの感触に少しだけ焦りを覚えたが、彼の真剣な目を見た途端にそんなものは雲散霧消した。
しばしの沈黙の後、体温計が胸元で小さく鳴って、今度はシロウの手を煩わせる前に自分で取った。たったそれだけのことがひどくしんどかったが、いくら相手がシロウとはいえ、そう何度も胸元に手を入れられるのはさすがに少し困ってしまう。
「……どう、でしょうか」
「んー、少しは下がってるかと思ったけど全然だな。夏も終わりだってのに今更夏風邪か?」
「そうですか……すいません、シロウには迷惑ばかりかけてしまう」
少しでも良くなっているならシロウの負担も多少減るものと思っていた。だというのに、熱はまるで下がっていないという。それで自分自身に裏切られた気持ちになったのか、内心の思いが無意識に口から出てしまっていた。
だがシロウは、無意識なだけに本心であった私の言葉を、はっきりと首を横に振ることで否定した。
「あのさ、セイバーがそうやって自己嫌悪する気持ちはわかるけど、俺はちっとも迷惑だなんて思ってないぞ」
「ですが、学校が……」
「学校なんかよりセイバーのほうがよっぽど大事だ」
「…………」
そんなことをこうもはっきりと言われてしまえば、風邪をひいていても羞恥で顔が熱くなってしまう。
だがもちろん、シロウがそんなことに気づくわけもない。
「それに前の借りを返すのにちょうどいい機会だからな」
「……借り?」
なんだろうか。
シロウは私に借りがあると言うがこちらにはまるで心当たりがない。むしろ私のほうがいつもシロウには世話になっているというのに、そんなものがあると思うほうがおかしい。
「そんなもの、ないはずですが……」
首を捻っていると、シロウは少しだけ苦笑ながら問いには答えず、私の背中に手を入れてふとんから抱き起こした。
「おかゆ作ったから食べよう。食欲もあまりないかもしれないけどさ、少しは食っておかないと治りも悪いから」
「は、はい……」
答えるとシロウは持っていたレンゲでおかゆを掬って私の前に差し出してきた。
――が、私がそれを受け取ろうとすると手を引いて素早くかわしたのだ。
更にもう一度手を伸ばしても、やはりシロウは私の手をかわして食べさせてくれようとせず、それどころか何やら意地悪く笑っている。
「……? あの、シロウ? おかゆをいただきたいのですが……」
堪らなくなって問うと、シロウは首を振っておかしげに笑いながら、
「いや、セイバー。ここは俺が食べさせてやるから……ほら、あーんってやってくれ」
などと、そんなことを言ったのでした。
……はい、これで思い出しました。
しかしシロウ、これは借りを返すというよりは意趣返しといったほうが正確なのではないでしょうか。
するほうからされるほうの立場になって初めて、あの時にシロウが感じていた羞恥を知った今、そう思えてならない。
だがしかし、そう思ってみてもシロウには退くつもりなどさらさら無いようで、差し出した手とレンゲを微動だにせずに、私が口を開くのを待っている。
……こうなればもはや、私も覚悟を決めるしかない。抵抗する気力などもありませんし。
そうして結局、鍋の中身が全て空になるまでシロウの手ずからおかゆを食べさせてもらい、その後は私が眠ってから目覚めるまで……シロウはずっと傍にいてくれたようだ。目覚めたときに、傍らで舟をこいでいる彼がいたのだから、おそらくそうなのだろうと思う。
その時には風邪もだいぶ良くなっていた私は、眠っているシロウの髪を弄ぶように梳きながら、
「このお返しはまたいずれさせていただきますから……覚悟をしておいてくださいね、シロウ」
そうつぶやいて、何やら僅かに表情をしかめている彼の寝顔に思わず笑みを零していた。