らいおんの小ネタ劇場

2004 年 8 月 31 日


第 110 回 : 酒よ

「「乾杯」」

 ちん、と小気味よい澄んだ音を響かせて、互いに持ったグラスを打ち合わせる。なみなみと満たされた杯の中身を零さないように口元に運び、まずは下で転がすようにひと口含み、次いでくっ、と四分の一ほどを干す。

「ふぅ……美味しいですね」
「なんだ、なかなかイケる口なんじゃないか、セイバーも」
「ええ。お酒は嫌いではありませんから。シロウの作ってくれたおつまみも美味しいですし」

 自身、杯を運びながらのシロウに応えるようにもうひと口いただいて、お皿に盛られたきんぴらごぼうを箸で摘んで一緒にいただく。
 少し辛めに味付けられたごぼうは、日本酒に良くあっていてやはり美味しかった。


 今日は珍しく凛も桜も大河もイリヤスフィールもおらず、久しぶりにこの家に私とシロウだけの二人きりだ。
 いつもは他に誰かしらいるからあまり気にならないのだが、この家は二人だけだと思った以上に広い。それに私もシロウもあまりに久しぶりなせいか、何故だかわけもなく緊張してしまって、いつもよりも余計に口数も少なくなる。普段、騒がしいほどに賑やかな食卓は、今日に限って言えばまるで火が消えてしまったように静かだった。

 しかしかといって気まずい沈黙だったというわけでもない。
 お互い苦笑しながら顔を見合わせて、この家はこんなに広かったのか、とか、普段騒がしいのは七割大河で残りその他ですね、とか、そんな他愛のないことをぽつぽつと話しながら、久しぶりの静かな食卓をそれなりに楽しんでいた。


 で、今私たちが何をしているのかというと、見たら一目でわかるようにお酒を飲んでいるのです。晩酌、というやつですね。
 いつもよりも少し早めのお湯をいただいて居間に戻ってくると、シロウがおつまみとお酒を用意して待っていました。なんでも商店街の酒屋で特別に取り寄せた美味しいお酒を分けていただいたのを、せっかくだからと出してきたのだそうです。
 確かに秘蔵の、というだけあってこのお酒は口当たりもよくて飲みやすいですし、あまり詳しくない私でも素直に美味しいと思える。

「……あ、シロウ。どうぞ」
「む。こりゃすまない」

 シロウの杯が空になっているのに気づいて、次の一杯をコップに注ぐ。シロウは注がれたお酒を半分くらいまで一気に空けて、大きく熱い息を吐いた。
 ……大丈夫でしょうか。シロウはあまりお酒には強くないのに、このような調子で飲んでいたら、アルコールの回りも速いのではないだろうか。既に顔色も少しずつ変わってきていますし……いちおう釘は刺しておいたほうがいいでしょう。

「シロウ、お酒が美味しいのはいいことですが、あまり無茶な飲み方はしないように。無理しない程度にほどほどに飲むのが楽しみ方です」
「あー、そりゃわかってるんだけどさ」

 照れたように笑いながら、今度は舐めるように口をつけて、おつまみのきんぴらを放り込む。

「ほら、やっぱり美人さんにお酌してもらったお酒はいつもより美味いっていうかなんていうか……」
「……な、何を言っているのですか」

 いきなりとんでもないことを言ってきたシロウから顔を背けて両手で持った杯を一気に干す。
 おかげで酒精が一気に回ってしまって顔が妙に熱い。この分ではもしかしたら顔色も変わってしまっているかもしれないが、これだけのお酒を一気に飲んでしまったのだから仕方がないことだろう。突然変なことを言ったシロウが悪いのです。

「自分で無茶な飲み方するなって言っておきながら、人のこと言えないじゃないか」
「知りません。だいたい、冗談であってもあのようなことを言うのがいけない。……もしやいつでも誰にでもあのようなことを言っているのですか?」
「はは、ランサーじゃあるまいし。俺はそんなに器用じゃないって」
「……なら、いいのですが」

 差し出したコップにお酒を注いでもらい、また一口飲む。それで酒精が完全に回ったのか急に頭がぼんやりしてきて、目の前にいるシロウの顔も僅かに泳いで揺らぎだす。お風呂から上がったばかりでまだ温かい身体が更に熱くなり、まるで浮いているかのような感覚に襲われた。
 それはシロウも同じなのか、少しずつ杯の中身を減らしながらも頭がふらふらと揺れ始めている。――といっても、本当に揺れているのか私の目にそう見えるだけなのか、いまいちわかり辛いのですが。

「……あのさ、セイバー」

 と、シロウが頭を揺らし、コップに口をつけながら私を呼んだ。
 顔を上げて目を合わせると、シロウはコップの中身を半分ほど減らし、一度休んで、それから残りを一気に飲み干す。

 ……まったく、言ったそばからこの人は。

「ですから、そのような無茶な飲み方は――」
「俺は冗談なんて言ったつもりはないぞ」
「――は」
「……本当にそう思わなけりゃ……あんなこと言えるもんか」

 コップを口元に運ぼうとしていた手が止まる。

「…………」

 シロウの顔色は相変わらず酒精によって赤いまま。口調もどこかぼんやりしているし、身体もふらふらと揺れている。
 これは明かに――だから。

「……シロウ、酔っていますね」
「ああ、酔ってる」

 しかし目だけはじっとこちらを見たまま、シロウは小さく頷いた。
 ならば無理はないと思う。前にもお酒に酔ったシロウを見たことがありますが、その時もまるで別人になったかのようになっていましたし。
 だから、今回もその時ときっと同じなのだろう。酔っているから――

 シロウが肩に手を伸ばして触れてくるのも、シロウの手が頬に触れてくるのも。

 ――きっと彼が酔っているせいなのだろうと思う。
 私が擦り寄るように身を寄せてしまうのも、きっと酔っているせいだ。

「…………」

 頬に触れている右手が、耳を掠めてまだ少し湿っている髪に触れてくる。指が触れてなぞったところが強く熱を持って熱い。
 というよりも、徐々に近づいてくる体温が私の身体に移ってきて、既に全身にその熱が回ってきている。もしかしたら今の私は、酒精にではなく熱に酔っているのかもしれないと、そんなことすら思ってしまうほどに。
 耐え切れなくなって、中にこもった熱を小さな吐息と一緒に逃がす。もしかしたら同時に声も漏れてしまったかもしれない。
 今の自分がどんな顔をしているか――想像しかけてやめた。そんなことをしたらきっと自分は我に返ってしまう。

 肩に触れているシロウの手に力がこもって、少しだけ痛みを感じる。だがそれすらも今の熱に浮かされた身体には甘痒くて、むしろ心地よく感じられる。
 やがて手のひらは肩から二の腕にゆっくりと滑り、そこから撫ぜるようにして徐々に背中へと動いていく。私は思わず漏れそうになる吐息を懸命に抑えていたが、肩甲骨のふちを指でなぞられた時には無意識に身体が震えてしまっていた。

「シ……ロウ……」

 何故か体温と一緒に、瞳に移るシロウの姿も徐々に近づいてきている。覆いかぶさるように次第に大きくなってくる彼の顔の一点に意識が集中する。
 何故か怖くなるくらいに真剣な彼の瞳の中には私の姿が映っている。客観的に見た自分の顔は、自分自身では表現し難いほどに崩れていた、が、その程度では全身に回って意識まで冒しているこの酔いを醒ますことはできなかった。
 だから私は、何故か近づいていくるシロウに合わせて瞳を伏せようとして――


「しーろーうーっ! お姉ちゃんお腹がすいたからなんかごはん作れーーーっ!」


 ――次の瞬間、いきなり部屋に飛び込んできた大河の声に、自分自身手放しで賞賛してやりたいほどの俊敏さを以ってその場から飛びのいていた。

「む? どしたのセイバーちゃん、テーブルの上で正座なんて、お姉ちゃんちょっとお行儀悪いとか思ったりするのだがどうか?」
「い、いえこれはその……そ、それより大河、い、いきなりどうしたのですか。今日はてっきりもう来ないものかと……」
「んー、今日はちょっと職員会議が長引いちゃってこんな時間までかかちゃったのよ。まったくごはんもダメ、おやつもダメでぶっ続けで五時間もやめられない止まらないっていうのははっきり言ってごーもんなのだ」
「そ、そうですか……」

 なるほど、今日はこないのではなくまだ帰れなかったというだけだったのですね。確かになんの連絡はありませんでしたが、こんな時間になっても帰ってこないなら勘違いしても仕方ないと思うのです。

「とにかく、私はお腹がすいたので早急に晩ご飯の用意を要求するものである。……で、士郎は?」
「……あ」

 きょろきょろとシロウを探す大河に言われて思い出し、さっきまで彼がいたところに振り向くと――

「!? シ、シロウ!?」

 ――飛びのく際に思いっきり私に突き飛ばされ、床に後頭部を強かに打って昏倒しているシロウの姿があった。


 その後、欲求不満で暴れる虎を宥めるために桜を呼び出し食事を作ってもらい、結局いつも通りの光景が夜遅い我が家に戻ってきたのですが……
 きっとあの時の私はお酒に酔ってどうかしていたのでしょう。……そしてシロウも。

 だからあのような真似をしてしまったのだと――そう思っても、しばらくの間は顔をあわせるたびに互いに思い出してしまって顔が赤くなる始末。
 おかげで桜やイリヤスフィールに疑いの目を向けられて大変でした。

 教訓――お酒を飲むときは節度を持ってほどほどに。