らいおんの小ネタ劇場

2004 年 8 月 21 日


第 105 回 : 蘇ル思ヒ出

「ごめんくださーい」
「む……来客ですか」

 夕方、シロウが不在の我が家に来客者の声と一緒にチャイムが鳴った。
 しかもその声には聞き覚えがある。私の記憶に間違いがなければ、彼女はシロウたちの友人であり、私も日頃学校の教室で顔を合わせている女性のはずだ。

 ともあれ、来客ならば玄関に出て迎えなければいけないのですが、生憎今私は少し手が離せない。

「セイバー、私が出てきましょう」
「頼みますライダー。……ただしくれぐれも粗相の無いように」

 失礼な、と言い残しライダーは立って玄関に向かって行った。
 まあ、本人も遊びに来たはいいが、例によって誰も相手にしてくれる人がおらず、お茶を飲んでいるしかなかなくて手持ち無沙汰だったようですからちょうどいいのでしょうが……なんでしょう、久しぶりに私の直感が何かを告げています。
 この予感を取り払うべく、洗い物をする手を急がせる。少々おざなりになってしまうのは嫌なのですが、こういう時の自分の直感は信じるに足るものと経験上知っているが故のことだ。
 そして洗い物の籠の中に、洗い終わったお皿が全て積み上がった頃に――

「ヒッ!?」

 ここまで聞こえてきた綾子の悲鳴に、私は玄関に急行していた。


「綾子ッ!」

 玄関には予想通り、ライダーの視線に射竦められて立ち尽くしている綾子と、そんな彼女の前に立つライダーがいた。
 そしてそれを見た私の行動は、自賛してもかまわないと思うほどに迅速だった。

「何をやっているのですか、この不埒者がッ!!」

 私は履いていたスリッパを素早く脱いで手に取って、肩口に構えて突進。無防備なライダーの背中に一瞬で詰め寄って、上段に振りかぶったスリッパを叩きつけるようにライダーの後頭部に打ち下ろす。

 スパーン、と響く破裂音。

「……痛いではないですかセイバー」
「痛くしたのですから当然です。まったく、あれほど粗相をするなと言ったのに何をやっているのですか。それともライダーのクラスのサーヴァントは、人の言ったことも守れないほどの愚か者なのですか? 大河に言わせるところのわからんちんのおばかちん、なのですか?」
「……よく意味はわかりませんが、大河の言葉ともなると何故こんなにも屈辱的な響きになるのでしょう」

 それは私にもわかりませんが、気持ちは良くわかります。
 と、それどころではありません。

「申し訳ありません、綾子。その、大丈夫でしょうか? もし、この不埒者に何かされたというのであれば遠慮なく言ってください」
「い、いや、大丈夫だよ。別に何もされてないし……」
「? 何も?」

 しかし彼女の切羽詰ったような、悲鳴は確かに聞こえてきた。聞き違えなどではない、と思う。
 それにここに来たとき、綾子の表情は確かに恐怖で歪んでいた。あのように表情をしている者に何事も無かったなどとはとても思えない。
 だが、目の前でやや引きつりながらも笑っている綾子が嘘をついているようにも思えない。ましてや隠し事してライダーをかばうような理由も彼女には無いはずですし。

「しかし綾子、では先ほどの悲鳴はいったいなんだったのですか?」
「え? ……うん、あたしにもよくわかんないんだけどね。その、そこの人と目が合った瞬間、なんか急に……」

 そう言うと、彼女は目を逸らして小さく身を震わせた。

「……ライダー」
「なんですか?」

 私はライダーを手招きして呼び寄せ、綾子には聞こえないようにそっと耳打ちする。

「いったい何があったのですか? 綾子はあなたに何もされていないというが、彼女の様子を見る限りとてもそうとは思えない」
「ええ、確かに彼女は何も知らないでしょう。……正確には覚えていないといったほうが正しいのですが」
「……! 貴様、まさか彼女の記憶を……!?」
「はい……聖杯戦争の時に」

 ……なるほど。で、あれば綾子がライダーのことを覚えていないのも無理はない。それに……あまり良いこととは思えないが、綾子にそのときのことを思い出してもらうわけにもいかない。聖杯戦争のことは、何も知らない一般の方々には決して知られてはならない秘事だ。
 先ほどから無意識に首筋を意識しているところを見ると、おそらくライダーに血を吸われたのでしょう。
 異形・異質のサーヴァントに追い詰められ、血を奪われる恐怖……ならば、記憶を失っているはずの彼女が潜在的に恐怖を覚えていても無理は無い。

「アヤコ、と言いましたか」
「あ……は、はい」

 と、ライダーが綾子の前に進み出て、彼女と対峙していた。長身のライダーに見下ろされる形となった綾子は、見てわかるほどに怯えを見せている。
 ライダーはしばし、恐怖の色を見せている綾子の目をじっと見ていたが、やがて瞳を伏せると彼女に対して深く頭を下げた。

「申し訳ありません、アヤコ。詳しく語ることはできませんが、私はかつて貴女に対して危害を加えたことがあります」
「え、ええっ!?」
「今、あなたが私に感じている恐怖はそのときのもの。ですから、私は何も言い訳するつもりはありません。あなたが望むならこの身を如何様に弄ぼうとかまいません。ええ、どんな責めでも受け入れる所存です」
「い、いや、それは遠慮しとくけどさ」

 綾子が頭を下げているライダーから心なしか一歩引きながらも言葉を続ける。

「でも、本当なのかい? その、あたしがあんたに会ったことがあるっていうの。こっちには全然覚えが無いんだけれど……」
「思い出さなければそれに越したことはありません。ただ、本当のことです」
「……ふぅん。なんか気持ち悪いね、それも。……でもま、いいや」

 言って、頬をかきながら綾子が一歩ライダーに近づいて手を差し出した。
 対するライダーは、差し出された手のひらを見、次いで差し出している綾子の顔を見た。彼女の顔からはまだ完全に恐怖が抜け切っていないようだったが、それでもしっかりといつものさっぱりとした笑顔を保とうとしていた。

「アヤコ?」
「思い出せないっていうならきっと忘れたあたしが悪いんだし。それに、わざわざ言わなくてもいいようなことを言ってくれたあんたはいい人だろ? だったらさ、つまんないことは忘れたついでに全部無かったことにしちゃうっていうのが一番楽じゃないか? あんたも、あたしも」
「……それで、いいのですか?」
「いいって。だから仲直りしとこうよ。ライダー、だっけ? あたしゃね、いいやつのことをいつまでも嫌ったままでいるのは嫌なんだよ」

 そう言うと綾子は強引にライダーの手を取って握り締めた。

 なんとも綾子らしいというか……だが、やはり彼女はとても気持ちのいい人物であると再確認した。さすがに、あの凛がかぶっている猫を全て捨て去って、素顔のままで付き合おうとする友人だけのことはある。
 日本の言葉で言うところの、赤心を推して人の腹中に置く、というものでしたか。こうまで深く信頼の心を寄せられては、その心に抗うことなどできるはずがない。

 ライダーもまた、同じ気持ちだったのだろう。小さく笑みを浮かべて、綾子の手を握り返していた。

「ま、とりあえずよろしく。……でも、何されたのか覚えてないけど、同じことするのはもう勘弁してよね」
「はい、こちらこそ。……安心してくださいアヤコ。それでしたらもう、士郎にしかしませんから」
「は? 衛宮?」

 思わぬところで思わぬ人物の名前が出て驚いたのか、目を見開いてライダーの顔を凝視する綾子。
 そして私はというと、一度履きなおしたスリッパをもう一度脱いで振りかぶった。

「ええ、士郎は私専用ですし。それに彼ならば、むしろ悦んで……」
「とんでもないデタラメを言わないでいただきたい、この不埒者」

 スパーン、と響く破裂音。
 その後、綾子から私とシロウとライダーの関係について追求されたのですが、それはまた別の話です。

 ちなみに彼女は、桜の忘れ物をわざわざ届けにきてくれたとの事だったのですが、それを何故、この家に持ってくるのでしょう。
 あくまでこの家は私とシロウの家なのであって、桜の家ではないのですが……いや、毎日のように桜が我が家に入り浸っているのは否定しませんが。