らいおんの小ネタ劇場
2004 年 8 月 11 日
第 98 回 : 家族
急報が飛び込んできたのは、放課後、授業も終わり職員室でお茶をいただいてるときのことでした。
「セイバー殿っ! 殿中でござる!」
「いったい何事ですか? 職員室では静かにしろと書いてあるではありませんか」
「それどころではござらん! 衛宮がさらわれたでござるよっ!」
「!」
――不覚。
よもやこの学び舎で、そう思い込んでいた我が身の失態。どんな言葉で取り繕おうと覆せぬ愚かさよ。
きしりと噛み締めた奥歯から小さく音が漏れる。
だがここでいくら悔やんでも事ははじまらない。今、私が成すべきは賊を打ち倒しシロウを取り戻すこと、それ以外にない。
「して、賊はいったいどこに?」
「弓道場でござる」
「……弓道場?」
確かに……嫌がる人間を強引に連れ出すのが人攫いであるならば、確かにこれも人攫いなのでしょうが……
「ったく、誰も助けてくれないんだもんな」
「まあまあ、いいじゃないか衛宮。それだけ皆があんたの射を見たがってるってことだよ」
快活に笑いながら道着に着替えたシロウの肩を叩くのは美綴綾子。シロウをさらった犯人です。
なんのことはない。以前からシロウに弓道部に戻れと言い続けて断られ続けていた綾子が、とうとう強行手段に訴えただけのことでした。
「悪いねセイバーさん、あんたの旦那ちょっと借りるよー」
「……旦那ではありませんが、別にかまいません。シロウが良いと言うならば私にも是非はありませんから」
それに私も以前からシロウが矢を放つところを一度見たいと思っていました。聖杯戦争中にその機会はあったのですが、何分戦闘中のこと故、きちんと見ることなどできるはずもありません。綾子に言わせれば矢を放つシロウの立ち居振る舞いは美しいとのことだったので、非常に興味があるのです。
「言っておくけど美綴、これでほんとに最後だからな。俺はもう弓道はすっぱりやめたんだから」
「わかってるって。最後の大会の前にあんたの射を見て焼きつけときたいだけだからさ」
そう言ってシロウは射場に立ち、半身に構える。
「……凛」
「ん? なに?」
私は隣で正座している足を気にしていた凛に話しかける。私が来たときには彼女は既にいたので、おそらくシロウが綾子に連れ去られる現場にいたのでしょう。
「私はシロウが矢を射るところをきちんと見たことが無いのですが、凛はあるのですか?」
「残念ながらあなたと同じ程度にしか見たことないわ。だからついてきてるんだけど……桜は見たことあるんでしょ?」
「はいっ。先輩の射は……すごく綺麗なんです。絵にして飾ったらそれだけで芸術品になるんじゃないかってくらい」
『わたしには芸術とか良くわかりませんけど』と、そう言って桜は舌を出して笑った。
綾子と同じ弓道部員で、彼女に続いて第二の実力を持っているという桜がそう言うのであればシロウの腕は確かなのでしょう。
「しっ! ほらあんたたち、ちょっと静かにしな」
綾子から叱責を受けて射場に目を向けると、シロウが的を見据えて身を正していた。
――的中する。
その姿を見ただけで直感した。彼が放った矢は絶対に的を外さないと。
普段のシロウが纏わぬ凛とした雰囲気は、夏の緩んだ空気を冷たく締めつけるほどで、隣にいる凛からも息を飲む気配が伝わってきた。
息が詰まるほどの空気の中、シロウが弓を構え矢を番える。視線が向く先は一点、的の中心。
そして次の瞬間、シロウはごく自然に弓を引き絞っていた。さも当たりまえかのように、まるで上流から下流に水が流れていくかのような自然さだった。一点の曇りも、淀みも無い清流の流れのような動きだった。
――勝てない。
瞬時にそう思った。
私は剣術だけでなく、騎士としての当然のたしなみとして弓術も嗜んでいる。さすがに剣ほど技に精通しているわけではなが、それでも並みの騎士より劣るものではなく、むしろ私に比肩する者のほうが少ないと自信を持って言えるほどの腕は誇っていた。
が、シロウには敵わないと思った。
私ではあれほどの境地には達することはできない。西洋の弓術と東洋の弓術との違いはあれど、根本のところではそう変わりはないだろう。
だからわかる。シロウと比べれば、私は二段も三段も劣る。
そして存分に引き絞った矢が彼の手から離れ、ひょうと燕が風を切るにも似た音を残し、次いで高い音と共に狙った的の中央に突き立った。
シロウは弓を下ろし、放った矢が突き立っている的を静かな瞳で見つめ――一滴の雫が落ちるほどの間をそうして、やがて小さく息を吐いた。
と、ようやくその場にいた皆の口から大きく息が漏れた。
「……久しぶりの射だったけど、結構なんとかなるもんだな」
「なんとかってね、あんた……あれだけのブランクのあとでこれだけのことができるって何なのさ」
「まあ、まぐれみたいなもんさ」
そもそもシロウを弓道場に誘った綾子が感嘆のため息をつく。いや、むしろあれは呆れすら含んでいるだろうか。
シロウが射る姿を見たことがある桜も胸の前で手を組んで、酒精に酔ったような表情で彼を見つめている。
しかし、その桜の気持ちもわからないでもない。私でさえ、シロウの顔から目を離すことができないのですから。
「ねえ、衛宮。あんたやっぱり弓道部に戻っておいでよ。アンタほどの男が何もせずに埋もれてるなんて惜しいじゃないか」
綾子が先ほど言った言葉の舌の根も乾かないうちにそんなことを言い出した。興奮しているのか、頬は僅かに上気している。弓道に精通してる彼女から見たら、今のシロウの射はそれほどのものだったのだろう。
「あのな。だからさっきも言っただろ? 俺の答えは変わらないよ」
「そんないけずなこと言わないでさ〜」
彼女がシロウの道着の袖を引きながらなおも強請るが、シロウは曖昧な笑顔を見せるだけでそれに頷くつもりはない。
確かに綾子の言う通りではある。幾人もの優れた射手を目にしてきた私から見ても、シロウの弓の腕は見事なものだ。ひたすらにこの道に邁進するのであれば、いずれは世界を獲ることすら不可能ではないだろう。
それだけの才能を持ちながら、何故シロウは――
「なんで弓道をやんないのよ、士郎?」
――と、そんなことを考えていたら凛が私に代わるようにその質問をぶつけていた。
凛と綾子と桜と、そして私の視線を一身に受けて、シロウは僅かにたじろぎながらも答える。
「いや、だってさ、バイトもあるしメシの支度だってしなくちゃいけないし」
「そんな、先輩。ご飯の用意だったらわたしだっているじゃないですか」
「……ま、ついでだから言っちゃうけどね。わたしもいるわよ」
「ああ……そういやそうだったね、遠坂」
「そうだったのよ、美綴さん」
何がそうなのかはよくわかりませんが、ここで名乗りを上げることができないのは少々悔しい。
だが今は、シロウのことのほうが私にって大切だ。
「シロウ。凛と桜の言う通り、食事の用意でしたら彼女たちにも可能です。それにアルバイトでしたら、僅かながらこの私もお手伝いできます。そのような些事であなたの可能性が失われるのはあまりに惜しいと思うのですが……」
「いやな、セイバー。そう言ってくれるのは嬉しいんだけどさ」
シロウはそう言って照れたように頬をかきながら、
「俺、今は一人じゃないからさ。今は家に帰れば皆がいるから、できるだけ一緒にいたいって思ってる。イリヤだってあの広い家に一人ぼっちで待ってるのは嫌だろうし、セイバーはなんか学校に来てるけど……ほんとなら今頃一人で留守番してるだろ? だからさ」
私と凛と桜とを、順番に見ながらそう言った。
ああ――なるほど。そういうことなら素直に頷ける。実にシロウらしい理由で、そう答えてくれたことに喜びすら感じる。
我ながら現金なものだと思う。
彼がとても大切であると感じていることの一端に自分の姿があるというだけで、先ほどまで思っていたことをむしろ些事と感じてしまっている自分がいる。
「これでも俺はあの家の家長だと思ってるから。今はやっぱり、できるだけあの家にいたいって思ってるんだよ……変かな?」
「いえ――そんなことはありません、シロウ。……やはり、私もシロウには家にいてほしいと思います。あの家は私と貴方の帰る場所ですから」
「…………」
シロウは私の言葉に照れたのか、明後日の方向を向いて不意に黙り込んでしまった。
「ま、そういうわけだから。綾子、士郎のことは諦めてくれるかしら」
「……もし諦めきれないって言ったらどうする?」
「そのときはわたしを敵に回すことになるだけよ。ああ、それから来期の英語の成績も諦めたほうがいいわね」
「失礼な。私は公私混同などしません」
「あんたじゃなくって、藤村先生よ」
「……否定はできません」
「それじゃ間桐はどうなのよ。あんたは弓道部でもあるわけだけど」
どこか剣呑な光を湛えて振り返る綾子に、桜はしかし、にっこりとそれは花の咲いたような笑みを返して、
「美綴先輩、わたしは弓道部の部員である前に先輩の家族ですから」
そう、きっぱりと、一分の反論の余地も許さないほどに言い切った。
それを聞いた綾子は大きくため息をつき、次いで先ほど見せた呆れを含んだ視線を士郎に向ける。
「まったくさ、衛宮ってばあんた、ちょっと見ない間にどれだけの女を引っ掛けてるのよ。揃いも揃ってあんたなんかのどこがいいんだか」
「な、なんだよそれ。俺はそんなことした覚えないぞ」
「な、なによそれ。わたしがどうしてこんなやつのこと」
シロウだけでなく凛までも慌てたように反論するが、シロウはともかくとして凛、あなたは今更です。
「ま、そういうことならしょうがないね。これ以上、執着してあんたたちに恨まれでもした日にゃ堪ったもんじゃない。衛宮のことは諦めるよ」
「それが妥当ね」
しかし、シロウに言われて私は彼にどう思われているか再確認した。
家族――かつては得られなかった、むしろ自分から捨てた言葉ですが――このように心地の良い響きの言葉だと思っていなかった。
それもシロウの口から言ってもらえるのであれば、他の誰に言われるよりも魅力的な言葉になる。きっと凛も桜も、私と同じ気持ちなのでしょう。
「さて、帰るとするか。そろそろイリヤが家でぶーぶー文句言い出す頃だろうし」
「そうですね。先輩、今日の晩御飯何にします?」
「あー、買い物でもしながらのんびり考えりゃいいさ」
「ま、そういうわけだから綾子。わたしも一緒に帰らせてもらうわ。……今度、なんか驕ったげる」
シロウから弓を受け取りながら、嬉しそうな笑顔を零している桜。凛も苦笑しながらも、その感情を隠しきれていない。
二人とも私に負けず劣らず現金ですね。
両側からシロウの腕を取って更衣室に連行していく凛と桜の背を見送りながら、綾子と顔を見合わせて笑いあう。
「ったく、衛宮のやつも愛されてるね」
「ええ。ですがきっと、本人はそのことに気づいていないのです。私でさえわかることだというのに……シロウはもう少し人の心の機微というものを知ったほうが良い」
「だね。そうでないとあんたの気持ちにだっていつまで経っても気づいてもらえないだろうし」
「……否定はしません」
ですが今はまだこのままで良いと思っているのも事実。
私はシロウの家族で、彼に大切に想ってもらえている。それだけで十分、満たされた気持ちになれる。
いずれ彼も誰か一人を選ぶかもしれないが、それはきっとまだまだ先のこと。
その時のことはその時に考えればいいのです。シロウがどんな選択をしようとも、私が彼の家族であることに変わりはないのですから。