らいおんの小ネタ劇場

2004 年 8 月 9 日


第 97 回 : ボケ

「さくら、メシはまだかの」
「おじいさま、さっき食べたばかりです」

 居間のテーブルの前で小さく正座してお茶を啜っているのは桜の祖父、間桐蔵硯だ。
 顔中しわだらけで表情は埋没し、眼窩も黒く落ち窪んでまるで髑髏のような顔立ちだが、こうして大人しくしている姿は隠居した好々爺にしか見えない。
 これでも彼はれっきとした魔術師だ。しかも五百年の時を生き、数々の魔術の秘奥をその身に修めた大魔術師だ。
 が――

「さくらぁ、メシはまだかのぉ」
「だからおじいさまってば、もうさっき食べましたよ」

 ――聖杯戦争でいろいろあって、いまやすっかりボケてしまっている。
 原因はまあいろいろとあると思うのですが……一説では柳洞寺の階段から転がり落ちたときに頭を打ったのが最大の原因だと言われています。
 ……それは間接的に私のせいだと言われているような気がしてならないのは気のせいでしょうか。仕方ないではないですか、私だってわざとそんなことをしたわけではないのです。飛び退ったその先に、たまたま蔵硯がいて、たまたまぶつかってしまったというだけです。

 ともあれ。

 マキリの魔術師である間桐蔵硯はそれ以来、すっかり好々爺と化してしまって、時折こうして我が家にも遊びに、というかご飯を食べにきたり、町内を散歩していたりと人畜無害な存在となっています。

 ――ああ、そういえばそれだけではありませんでした。

「シロウ〜、朝ごはん〜」

 今日も今日とてばたばたと、呼び鈴も押さずに部屋に飛び込んでくるイリヤスフィール。
 と、彼女と目が合う間桐蔵硯。

 途端、かくんと蔵硯の顎が落ち、開いた口蓋から『カカカカ』と笑い声が漏れてくる。……笑い声、ですよね?
 対してイリヤスフィールといえば、あからさまに引きつった表情で後退り、

「き、来てたのっ!?」

 来てました。私が起きてきたときには既に居間でお茶を啜っていました。老人は朝が早いのでシロウよりも早かったそうです。
 さて、後退っているイリヤスフィールに、笑いながら両手をふらふらさせてにじり寄る蔵硯。

「ゆすてぃ〜つぁ〜〜〜」
「だからそれはわたしのご先祖様! わたしはイリヤ! イリヤスフィールなの!」

 いつも通りの押し問答だが、いつも通りに蔵硯にその言葉は届いていない。何故なら彼はボケているのですから。
 そう、間桐蔵硯は、理由は良くわからないがイリヤスフィールに懸想しているらしい。というよりも、彼女に良く似たユスティーツァという女性に。どうやら遥かな過去、聖杯を生み出したときに出会ったアインツベルンの女性に、蔵硯は密かに思いを寄せていたようです。
 が、もちろんユスティーツァも今は亡く、彼女と勘違いしてイリヤスフィールに想いを寄せる蔵硯の姿は、老いらくの恋と呼ぶにはあまりに特殊すぎる姿のようです。なんでもろりこんとか何とか言うそうですが、私には良くわかりません。

「ゆすてぃ〜つぁ〜〜〜」
「だっ、だからー! セイバーも見てないで助けてよっ!」
「食事中ですから」

 ごはんを食べているときに立ち回りを演じるなどと行儀の悪いことができるわけありません。
 それにいつも通りの展開ならそろそろ来るはずです。

「御免」

 ほら来ました。
 いつもの展開通りにやってきた仮面をつけたサーヴァント――もう一人のアサシン、ハサン・サッバーハだ。

「こちらに魔術師殿はいるだろうか」
「蔵硯でしたらあそこでいつものようにイリヤスフィールに迫っていますが」
「……ふむ」

 確認したハサンは一つ頷いて蔵硯の元へ向かう。
 そして――

「魔術師殿、そろそろ帰りましょう」
「むぅ……」

 蔵硯の襟首を捕まえて肩に乗せ、一礼をして去って行く。
 何故か知りませんが、蔵硯はハサンの言うことなら素直に聞くのです。柳洞寺の階段から落ちて、目を開いたときに最初に見たのがハサンの顔だったので刷り込み現象が働いたのではないかと噂されているのですが、どこまで本当かわかりません。

「ん? 爺さんもう帰っちまったのか?」
「はい。今さっきですが」
「シロウ! もう、出てくるなら早く出てきてよ! わたし、大変だったんだからー」

 台所からおかずを乗せたお皿を持ってシロウが現れ、さっそくいつものようにイリヤスフィールが飛びついて文句を言っている。
 シロウは腰にしがみついた彼女を適当にあしらいつつ、おかずをテーブルに並べる。

「なんだ、爺さんがうるさいからせっかくお代わり用意してやったのに……」
「安心してください、シロウ。それなら私がいただきますから」

 こうしていつもより余計に朝ごはんをいただけるのもいつもの通り。
 イリヤスフィールには申し訳ありませんが、役得ですね。