らいおんの小ネタ劇場
2004 年 7 月 26 日
第 88 回 : びんた
「…………」
「…………」
「…………」
小うるさい羽音を立てながら目の前を飛ぶ小さな虫。
そして彼を追いかける私と大河とイリヤスフィールの目線。先ほどから隙をうかがっているのですが、これがなかなか隙を見せず、戦況は膠着状態に陥っている。
蚊。
大河によれば日本の夏の風物詩とも呼べる虫なのだそうですが、かといって目の前でこうもぷんぷんと飛びまわられると非常に不快な気分になる。
しかも彼はやっかいなことに吸血種でもある。
どうやら彼は毒を持っているらしく、血を吸った痕は赤く膨れて痒くなる。肉体的な被害といえばそれだけなのですが、精神的な被害は甚大である。夜、睡眠時に耳元を飛んでいくあの不愉快さは、蚊の者とあまり面識のない私でさえ感じているのだから尋常なことではない。
というわけで今私たちは、シロウが夕飯の支度をしてくれている間に出現した彼を排除するべく、その隙をうかがっているのですが……
「なかなか、止まらないわね」
「そうですね。おかげで今は、見失わないように、追いかけるのが精一杯です」
「ていうか、タイガの持ってきた、蚊取り線香って、意味あるの?」
三人が三人とも、話すよりも目線で追いかけるほうに集中しているため、自然言葉も途切れがちになる。
そういえばイリヤスフィールの言う通り、大河の持ってきた蚊取り線香とやらはあまり役に立っていませんね。『やぶ蚊対策にはこれー!』と自信満々にしていたのですが、蚊はあの通り、悠々と飛んでいます。まあ、何事も万能ではないということでしょう。
「おーい、メシできたぞー」
と、台所のほうからシロウがやってきて、用意してくれた夕飯をテーブルに並べ始める。
なるほど、ごはんですか。ならば蚊の者との戦いも一時休戦にせざるを得ませんね。
蚊とごはんと、どちらが大事かなどと、そんなことは言うまでもなく決まっていますから。
「今日はおさかな?」
「ああ、いいのを買ってきたから、焼いたんだ」
言いながら茶碗に全員分のご飯をよそうシロウ。炊き立てのご飯は今日も見事な輝きを見せている。
――む!
シロウの頬に蚊の者が止まった。
だがシロウも、そして大河もイリヤスフィールも気づいていない。それをいいことに、蚊はシロウから吸血しようと口の先を降ろしていく。
なるほど……我がマスターの血を吸おうなどとは増長したものですね。
確かに貴公はこれまで私の手を逃れてきましたが、それを驕ってシロウに手を出そうなどという暴挙に出るとは……ならばそれが無謀な試みであると、私が証明して見せましょう。
「むむ? 士郎、ちょっと焦げてない?」
「あ、ほんとだー」
幸い蚊はまだ私の動きには気づいていない。
腰を低く落とし、いつでも跳びかかれるような体勢を作る。覚悟していただこう。これならば一刹那もかからぬうちに、一撃を見舞ってみせる。
そして、私はタイミングを計って――
「ああ、ごめん。ちょっとうっかりして焦がしちまったんだ――」
――高く乾いた音共に、思いっきり、平手で蚊をシロウの頬から叩き落としていた。
「ふ。討ち取ったり……」
蚊を討った右手を見る。そこには確かに蚊の者を捉えた証がある。
ティッシュを一枚とって右手を拭き取り、私はシロウに向き直った。
「安心してくださいシロウ、あなたを狙っていた者はこの私が――シロウ?」
「セ、セイバー……」
何故かシロウは赤く頬を手で押さえ、体勢を崩してしなをつくり、私を潤んだ目で見つめていた。
……む。頬が、赤く?
……シロウの頬から?
――あ。
「ご、ごめん。やっぱり駄目だよな。ごめんなセイバー。俺、こんなにおまえが怒るなんて思ってなかった……」
「い、いえ、これはちが……」
「や、やり直してきますッ!」
「シ、シロウ!? シローーウ!!」
だが呼び声も虚しく、シロウはちょっとだけ焦げた魚を乗せた皿を持って再び台所へ。
「あーあ、セイバーちゃんってばおによめー」
「セイバーのおにしゅうとめー」
大河とイリヤスフィールの責める声を聞きながら、その場にがっくりと膝を落とす。
違うのですシロウ。私は別にあなたを叩いたわけではなく……それに少しくらい焦げ目がついていても別に怒ったりしません。
結局、後で事情を話して誤解を解くことはできましたが、それからシロウの料理がますます繊細になったのは……喜んでいいのか悲しんでいいのか……正直言って、微妙な気持ちです。