らいおんの小ネタ劇場
2004 年 7 月 20 日
第 85 回 : 海で遊ぼう
「…………」
見つめている足元に波が押し寄せて、温い海水でくるぶしまで浸される。とろりとした感触に包まれると、急に足元が柔らかくなって不安定になる。
そこに引き波が訪れる。
ざぁ、っという音と共に足元を浸していた波は一気に遠い沖にさっていき、足元の砂がさらわれて私自身の世界もぐらりと揺れた。
「波遊びですか、セイバーさん?」
「い、いえ、別に遊んでいるつもりではないのですが……これは、不思議な感覚ですね」
「ところでイリヤちゃんとバーサーカーさんはどうしてるんですか?」
「ああ、あの二人でしたらあそこにいます」
指差した先には波間に揺れるゴムボートとそれを引いているバーサーカーの長身の姿が見える――というか、高速で移動しているのですが……あれではもーたーぼーととか言う船とそう変わりありませんね。
私の隣でその様子を同じように見つめていた桜も同じ感想を抱いたのか、呆れたようにつぶやく。
「バーサーカーさん、相変わらずすごいですね……」
「ええ。ギリシャ神話最強の英雄ですし。イリヤスフィールも楽しんでいるからいいのですが、交通事故を起こさないかどうかだけが心配です」
「この場合、交通事故というより海難事故ですね」
器用に人を避けながら海面を疾走していくゴムボートとはしゃいでいるイリヤスフィールを眺めながら、二人並んでぽつりとつぶやく。
じりじりと照りつける太陽の光が肌に痛い。周りに城のように壮大な雲を従えて、太陽は四方に強い輝きを放っていた。
「ところで桜、シロウはどうしたのですか?」
「先輩ですか? 先輩だったら姉さんとライダーに捕まってサンオイル塗らされてました」
「ああ、そういえばそんなことを言っていましたね……」
と、首を彼らがいるほうに向けると、シロウが砂浜にうつ伏せになっている凛の背中に何かを塗っている様が見て取れる。その隣にはすでにライダーも同じように横たわっていて、順番待ちしているようだった。
ここからでもシロウを従わせている凛の表情が良く見て取れる。いつもの彼をからかっている、あくまと評される表情だ。赤くなった顔を必死に逸らしながらも、言われた通り丁寧にオイルを塗っているのもシロウらしい。
「……楽しそうですね、姉さん」
「まったくです。しかし……正直、私には凛が良くわからない」
「そうですね。わたしもそう思います」
凛の表情の中に僅かに混じる喜悦の色は、シロウをからかっていることへのものなのか……それとも他に何か意味があるのか。
まあ、考えたところで答えの出る問いではない。人の心は所詮、その人だけのもの。余人がその心底を察しようというほうが無理なのですから。
それにしても……私も変わったものだと思う。
「まさか自分がこのように人の心を気にするようになるとは、な」
「……セイバーさん、ほっぺた赤いですよ」
「暑さのせいです」
言うと桜はおかしげに含み笑いを漏らして、
「だったら泳ぎましょうか。先輩が来るまで一緒に」
そう、空にある太陽すら翳るような笑顔を零して私の手を引いた。
「ねーねー、シロウはまだ来ないのー?」
「さあ、わかりません。凛に捕まっているようですから――と、何度言えばわかるのですかイリヤスフィール」
ゴムボートの上で唇を尖らせながら海を手でかき混ぜているイリヤスフィールにもう四度目にもなる同じ答えを返す。
彼女にしてみればシロウと一緒に遊びたいのであろうに、彼がいないのがたいそう不満らしい。私もその気持ちは良くわかる。
だがいくら言ったところでシロウがここに現れるわけでもなし。だいたい彼は後から来ると言ったのだから、信じて待つべきなのではないでしょうか。
シロウは決して、嘘をつくような人間ではない。
「あっ、噂をすれば影ですよ」
海面に沈めた身体を目一杯に伸ばして手を振っている桜の視線の先を追うと、そこに確かに待ち人の姿があった。
「シローウ! おそーーーい!!」
憎まれ口を叩きながらも笑顔になって手を振っているイリヤスフィールと桜に手を振り返しながら、シロウはゆっくりとこちらに向かって泳いできていた。
「バーサーカー、いけーーー!」
「■■、■■■ーーー!」
イリヤスフィールの号令一下、バーサーカーが水飛沫を上げてシロウに突進して行き――あ、シロウが引かれました。
「せ、先輩!」
「落ち着いてください桜、ああ見えてシロウは頑丈ですから」
言いながら、桜と一緒にシロウに近づいていく。
元々の身体能力の差もあり、私のほうが先にシロウの下に到着して、桜は……どうやらあまり泳ぎが得意でないらしい。ばたばたと手足がもつれるような泳ぎ方で歩くよりもゆっくりと近づいてきている。
まあ、溺れることはないでしょうし、それよりも今は先にシロウです。
「大丈夫ですか、シロウ?」
「あ、ああ……だいじょうぶだいじょうぶ」
「なら良いのですが……バーサーカーも、少しは加減というものを覚えなさい」
「■■■……」
私の肩にぽんと手を乗せて反省のポーズをとるバーサーカー。どうやら本気で反省しているようですし、許して差し上げましょうか。
「せ、せんぱーい」
と、桜がようやくやってきたみたいですね。
それにしても、本当に不器用な泳ぎ方ですね。弓道に堪能で身体を動かすのも得意であるのに、不思議なものですね。
「せんぱぁい」
「もうちょっとだー。がんばれさくらー」
なんだか、シロウのことよりも桜のことのほうが心配になってきました。それでもシロウの声援を受けて、必死に四肢を手繰って桜がやってくる。
そしてのようやくここまで到達した彼女が救いを求めるように私の背中に手をかけて――
「あ」
「あ」
「あ」
「■」
――水着が、ずれた。
「――、――!」
悲鳴が出ない。落ち着いてずれた水着を直せばいいだけなのに、固まったように身体が動かない。
見られた。シロウに、見られてしまった。
思考は乱れてまとまった形にならず、ただ見られてしまったという事実だけが頭を埋め尽くしていた。
だから次の瞬間、シロウが取った行動に成す術もなく――
「桜っ!」
――何故か、私は彼の腕の中に抱かれていた。
「……え?」
「桜! 早くしろ!」
「は、はいっ!」
シロウが怒鳴り、桜がたどたどしい手つきで私の水着のずれを直す。
そうされている間、私はただシロウの腕の中でされるがままにされていて、何で自分がこうなっているのか、何でシロウが自分を抱いているのか必死に考えようとして、結局、何もかもが乱れてしまって何も形にすることができずにいた。
「あ、あの……シロウ」
ようやく腕から開放されて、ずれていた水着も元に戻り、赤い顔をしてそっぽを向いているシロウに話しかける。
シロウは一瞬だけこちらに目を向けて――そしてすぐにまた目を背けてから、少しだけばつが悪そうに、
「……他の男に見せるわけにいかないだろ」
小さな声でそう、つぶやいた。
「あ、はい……わかりました……見せません」
そして私はシロウの言葉に咄嗟にそう返していた。
「…………」
「…………」
互いに言葉を失って、顔を合わせることもできず黙り込む。
なにをやっているのだろうか。海にまで来て、私たちは。
「先輩……」
「シロウ……」
と、まるで唸っているかのような二種類の声が割り込んでくる。
我に返ってそちらを向くと、あからさまに機嫌を悪くした桜とイリヤスフィールが揃って頬を膨らませてこちらを、いや、正確には私とシロウを睨んでいた。
それで私は――今自分がいったい何を言っていたのか思い出した。二人の前で何をやっていたのかも。
「お、泳いできますっ!」
「おい、セイバー!?」
シロウの声が背中に届いたが振り返ることもできない。
今はただひたすらに身体を動かし、余計なことを振り切るように泳ぐことしか私にはできない。
そうでなければ――
深い群青色の海をただがむしゃらに泳ぐ。
冷たい海の水の中にあって、私の身体は尚――何故か熱いままだった。