らいおんの小ネタ劇場

2004 年 6 月 14 日


第 56 回 : 忘れすぎ

「ライダー、買い物のメモはちゃんと持ちましたか?」
「もちろんです。そのような心配は必要ありません」
「……まあ、普通ならそうなのですが」
「失敬な」

 今日はライダーが家にお茶を飲みに来ています。もちろん私が招くはずもなく、勝手に来たわけなのですが。
 とはいえ、シロウたちが学校に行っている今、特に予定のない私は家事に何かと忙しい身です。そんなところに来られても彼女の相手などできるわけもないのですが、

「セイバー、よろしければ私も手を貸しましょう」

 と、突然ライダーがこのような申し出をしてきたのです。
 正直なところ客に家事を手伝わせるというのはあまり良いことではありません。ですが、彼女としてもこのまま手持ち無沙汰で一人お茶を飲んでいるというのも居心地が悪いらしく――一瞬、それだったら帰れば良いのにと思いもしましたが、それはあまりにも人が悪いというもの。すぐにそんな考えを打ち消して、その申し出を受けたわけです。


 そんなわけで、ライダーはシロウの二号自転車に跨り、颯爽と出かけていったのですが。

「……いまいち、不安が残りますね」

 何でしょうか、この言いようのない胸のモヤモヤとした感じは。
 とはいえもはや心配したところで始まらない。まだお洗濯の途中ですし、さっさと終わらせておやつにしましょう。


 それから約十五分後――


 物干し竿にかけたふとんのシーツを手で伸ばしていると、塀の向こう側に土煙が立ち昇っているのが目に入った。

「もう帰ってきたのですか。ずいぶん早いですね」

 そう思いながらエプロンで湿った手を拭いて門の方向に身体を向ける。
 と、タイヤが激しく地面を削って擦りあげると共に、ライダーが駆る二号自転車が庭に滑り込んで来る。そして二号自転車は地面に綺麗な半月の弧を描き、いつも一号、三号と共に置いてある駐輪場の前でぴたりと停止した。
 ああ、これでまたシロウがタイヤを交換しなくちゃ、と嘆くことになるのですね。

「……ライダー、そのように派手に乗り回しては二号がだめになるといつも言っているではないですか。少しは遠慮してください」
「それはこの私に騎兵としての誇りを捨てろということですよセイバー。……いえ、今はそのようなことを言っている場合ではありませんでしたね」

 晴れてきた土煙の向こう側にライダーのシルエットが徐々にはっきりしてくる。
 そして、自転車の荷台に載っているモノの姿も。

「……ライダー、私はお肉を買ってこいと言った覚えはないのですが」
「それです。いえ、この方はお肉ではなく、八百屋のご主人なのですが」

 荒い息をついて虫の息の男性は、おお、確かに八百屋の店主ではありませんか。

「店主、このようなところでいったいなにを?」
「……は」

 息も絶え絶えに細い声で告げる店主の言葉に耳を寄せる。ぱくぱくと、まるで大河の家で見た金魚のように酸素を肺に取り入れながらも必死に絞り出したその声を、今にも風の音に消えてしまいそうなその声を拾い取る。

「は?」
「はっぴゃくえん……」
「……はっぴゃくえん、ですか」
「その通りです、セイバー」

 神妙な顔をして店主の言葉に頷くライダー。

「……お財布、忘れてしまいました」
「……ほう」

 つまりあれですか。買い物をしたのはいいが、よりにもよって財布を忘れてしまったため、わざわざここに店主を連れてきたということですか。
 私の視線からこの胸中を悟って取ったか、ライダーはそのままの神妙な表情でこくりと頷く。

「……はあ、まったく」

 これが先ほど感じた不安感の正体というわけですか。

 居間に戻ると、メモと一緒に確かにライダーに持たせたはずの財布がたんすの上にぽつんと鎮座していました。
 深いため息をつきつつ、それを手に取って二人の元へと戻る。

「ライダー、何故この財布が貴女の手元ではなく、居間のたんすの上にあるのですか?」
「……それは私にもわからないことです」

 細いあごに指を添えながら、真剣な顔で悩んでいる様子の彼女を見ていると、怒りを通り越して呆れてくる。
 八百屋の店主に八百円、確かに払いながら、私はもう一度深いため息をついた。

「へい……まいど……」
「申し訳ない店主……それで、買った野菜はどうしたのですか?」

 彼女におつかいを頼んだ今晩のおかずの材料。にんじん、じゃがいも、たまねぎなどなど。今日はきっとカレーなのでしょう。
 だがライダーも店主もそれを持っている様子はなく、二号の荷台にもその姿がはない。
 そして私が問うような視線をライダーに向けると――


「あ」


 ――まあ、要するに結局そういうわけでして。
 もう二度とライダーにおつかいは頼むまいと、強く決意したある日の午後でした。