らいおんの小ネタ劇場

2004 年 5 月 25 日


第 41 回 : 夜雨

 窓から日が落ちた暗い外を眺める。
 ともすれば見逃してしまいそうなほど細く走る斜線の群れ。先ほどから降り始めた雨は足音もますます高く、弱くなるどころか次第に駆け足になって、低い空から降りてきている。

 振り返った食卓に用意されている、布巾をかぶせられた一人分の食事。
 桜がせっかく作ってくれた夕食は、すっかり冷めてしまっている。その彼女は今も台所で洗い物をしているのだが、振り返ってはこっそりとため息をついているのに私は気づいていた。
 シロウはまだ、アルバイトから帰ってきていない。

「……少し、出かけてきます」

 桜の背中にそう言い残し玄関に向かい、靴をはいて立てかけてある自分の傘を一本取って外に出る。
 人が辛うじて二人は入れるくらいには広い、青く無地の傘。商店街のお店で買ってきた何の変哲もない、しかしシロウが買ってくれたその傘を差す。
 ぽつぽつと傘に当たり、リズムを奏でる雨音を聞きながら、私は足取りも軽く歩き出した。


 どうやら間に合ったようだ。
 まだシロウはこの傘を買った店の庇の下にいて、しかし少し苛立たしげに空を見上げていた。
 ……間に合いはしたけれど、間一髪であった、というところだろうか。

「シロウ」
「あ、セイバー? 迎えに来てくれたのか?」
「はい。シロウは傘を持っていないだろうと思いましたから」
「ん、当たりだ、それ」

 シロウはおどけたように肩を竦めて、少しだけ苦笑した。そうでなかったら今ごろこんな商店街の店の軒先で雨宿りなどしていないだろう。

「ですが良かった、行き違いにならなくて。シロウのことですから、無理をしてこの雨の中を走っているのではないかと心配しました」
「む、信用ないんだな。俺だってわざわざ風邪を引くような真似をしたりしないぞ」
「……ですが、無理と無茶はシロウの専売特許ですから」

 特に今日はアルバイトに出て行く前、桜が腕によりをかけて食事を作ると言って笑っていましたから。
 それを知っているシロウが彼女のために無理をしないと誰が言い切れるでしょう。……きっと、誰にも言えるはずがない。だからこそ、私もこうしてシロウを迎えに来たのですから。

「さ、シロウ。とにかくここにこうしていても仕方がない。帰りましょう、桜も待っている」
「ああ、そうだな」

 が、シロウは傘を差し出して彼を誘う私に、何か気づいたように顔を上げる。

「あのさ、セイバー。ちょっと聞きたいんだけど」
「なんでしょうか?」
「えっと……俺の傘は?」

 まあ、そうでしょうとも。私が持っている傘は唯一つ、今も差して雨粒を遮るこの青い傘だけなのですから。
 他に――例えばシロウが自分自身だけのために差すような傘は持っていない。

 だから私はそんな彼の表情が少しだけおかしくて、思わず微かに笑みを浮かべてしまいながら、正直に言った。

「申し訳ありません、シロウ。私としたことが忘れてしまったようです」
「ええっ!?」
「ですが、幸いなことにこの傘は大きい。私とシロウの二人分なら十分にこの傘一つで雨を遮ることができる」
「あ、あー……つまり、それってさ」

 はい、つまりそういうことです。

「ではどうぞ、シロウ。多少肩が濡れようとも私は気にしませんから、ご遠慮なく」
「……ばか、それは俺が気にする」

 言いながらもシロウは、はっきりとした苦笑を浮かべながら私が差している傘の下に入ってきた。
 急に肌に感じられるシロウの体温とシロウのにおい。何故だかわからないが、そこにあるだけで心安らぐ気配が私を包む。
 私は僅かに頬が染まるのを自覚しつつも、まるでそれをごまかすようにシロウに持っていた傘を差し出した。

「ん? なんだよ」
「こういうときは……殿方が傘を持ってくれるものと聞き及びましたが」
「……なるほどな、了解しましたよ、お姫様」
「シロウ、それは違う。私は姫ではなく騎士です。ですが――」

 笑いながら私の手から傘を受け取るシロウ。
 この身は確かに姫ではなく、騎士であるけれど……同時に女であることも確かではある。だからたまには、こういうのも悪くはない。

 今度は自分の感情を隠すことなくシロウを見つめ上げ、そっとその懐に身を寄せて擦りつける。

「――時には貴方が言うように……姫と呼ばれるのも、悪くはないと思います」

 暗く寒く、冷たい雨が降る夜。
 寄り添ったシロウの身体も、私の身体も温かかった。