らいおんの小ネタ劇場

第 51 回目から第 60 回目まで


第 51 回 : 2004 年 6 月 6 日「お金は大事だよ」

「凛、そろそろ夕食の時間です……と」
「ちゅうちゅう、たこかいな……」
「――何をしているのですか、凛?」

 シロウから頼まれて凛を呼びに彼女の部屋に来たのですが……彼女はいったい何をしているのでしょうか。
 薄明かりの下、自分の机の上で何かを数えているらしいが、いったい何を数えているのでしょう。時折、小さく金属の触れ合う音がするのですが――

「凛?」
「ん……ああ、セイバー。なに、ご飯の時間?」
「はい、その通りです。が、なにをしているのですか、凛?」

 振り返った凛は机仕事をしているときにいつもかけている眼鏡をかけていた。彼女が丸めていた背中を猫のように伸ばすと、その体重を一身に支えた椅子の背もたれが軋んで小さく声を上げた。
 そんな彼女の元に近づいて、その手元を覗き込むと、

「……お金?」
「うん。先月はちょっと色々使っちゃったからね。今月のお小遣いはどのくらい使えるか数えてたのよ」
「はあ……」

 お小遣い、といえば私などは自分のアルバイトのお給料から生活費を差し引いた分と、大河の手伝いで雷画から頂く分なのですが、そういえば凛はどうやってお金を稼いでいるのでしょうか。
 少し気になったので、素直にそれを聞いてみることにした。

「お金? まあ、基本的には父さんが残してくれた遠坂の財産と、あとは株とか宝石の転売で儲けかな」
「カブ? テンバイ?」

 初めて聞く言葉に思わず首を傾げる。
 遠坂の財産というのはわかりましたが、後者の二つはいったいなんなのでしょう。
 特にカブとは……? 時折、お味噌汁の具になったりお漬物になったりするカブとは違うのでしょうか。そう、あれは確か煮物にしてもとてもよろしいものなのですが、凛の言うカブとは……食べられるのでしょうか。

「セイバー……言っとくけど、多分、今あなたが考えているのとは全然違うシロモノよ」
「そうなのですか? ではいったいどういうものなのでしょう。教えてください」
「話すと長くなるからまた今度ね。せっかくの夕飯が冷めちゃうし、先にご飯にしましょ」
「む。それはその通りです」

 危ないところであった。そもそも私は夕飯の支度ができたことを凛に伝えに来たというのに、このようなところで別のことに気をとられてしまっては本末転倒ではないか。それでは私たちのために食事の支度をしてくれたシロウと桜に申し訳が立たない。

「凛、あなたのおかげで私は己を見失わずに済んだ。礼を言います」
「あー、はいはい。別にそんなことでお礼言われたって嬉しくないわよ。ったく、ほんと真面目なんだから、あんたって娘は」

 なにがおかしいのか、凛は肩を揺らして笑いながら、机の上に広げていたお金を手元の貯金箱に片付けていく。

「では、凛。それが終わったら早くきてくださいね。貴女がきてくれなければ、夕食を始めることができない」
「はいはい、わかってるわよ」

 ひらひらと片手を振りながらも、ちゃりちゃりとお金を片付けていく凛。
 そして私が彼女の部屋をあとにするその直前、

「ふふ……お金、結構あるのね……フフ」

 貯金箱に耳を当てて、じゃらじゃらと音を鳴らす凛のか細い笑い声が部屋に響く。

 そういえば……アルバイトのお給料を初めていただくとき、シロウに言われたことがありました。

『いいかいセイバー。お金には魔力があるんだ。いや、魔術とかじゃないけれど、簡単に人の心を惑わしてしまう力があるんだ。セイバーは大丈夫だと思うけど……そうなっちまったらある意味悲惨だからな。十分気をつけるように』

 言われたときは何のことか良くわからなかったのですが……なるほど、こういうことですか。

「ふふ……ふふ、ふふふふふ……」

 いまだ響く凛の笑い声とお金が踊って奏でる音をあとにして――私はそっとその部屋の扉を閉じるのでした。




第 52 回 : 2004 年 6 月 7 日「満員御礼」

 今日はシロウと二人で新都に出かけました。
 空も良く晴れていたので行きは歩いてきたのですが、さすがに帰りともなると少々疲れていたこともあり、バスを使うことにしました。
 青かった空もすっかり橙色に色づき、太陽もビルの向こう側に消えかけて、幾つも連なった長い影を地上に投げかけている。

 私もシロウも、そんな街の風景をぼんやりと眺めながらバスに揺られていたのですが――

「休日だというのに今日は結構込んでいるのですね」
「そうだな。でも新都はむしろ休みの日のほうが人が多いから、これくらいで当たりまえだと思うけど」
「ふむ……そういうものですか」

 まあ、込んでいると言ってもせいぜい私たちが座る座席がなく、立っている人で吊革が埋まっているというくらいです。この程度ならたいしたこともないのかもしれませんね。

 ――と、思っていたのですが。

『次は新都中央会館。新都中央会館前です』

 そのアナウンスの後で止まったバス停には、

「!? シ、シロウ、あの人だかりはいったい!?」

 言うが早いか、扉が開いた途端にバス停の前で並んでいた人だかりが一斉に雪崩れ込んできました。

「きゃっ……」
「セイバー、掴まれ!」

 私がその人波に流される直前、シロウが素早く手を掴んで自分のほうに引き寄せてくれた。
 車内はあっという間に重箱さながらに人間で埋め尽くされ、空調が聞いて涼しかった空気もひしめき合う体温と吐息とで熱気に塗り替えられてしまった。

「い、いったいこれは何事ですか!?」
「わかんないっ、けど、さっきのとこで何かイベントでもあったんじゃないのか!?」

 こんなに近くにいるというのに、車内は雑多な音に支配されてそれなりに声を張り上げないと聞こえなくなっている。
 おまけにこんなに狭くては、私のように小柄だと人に潰されて……

 と、そう思ったところで気がついた。
 こんなにも混雑していて、ともすれば人の壁に押しのけられて潰されてしまうかのような車内だというのに――

「……シロウ?」
「……ん?」

 下から見上げるシロウの顔は平静を装っているようで、実のところ微妙に歪んでいた。ごまかそうとしたところで、私にそんなものが通じるはずがないというのに、彼はそう見せかけようとしている。
 壁について、間に私を挟みながらも必死に支えているその腕は、小さく震えているというのに。

 まったく、なんて愚か――

 私のことなどかまう必要などないというのに。
 だがそれを言ったところでシロウが素直に頷くはずもなく、いつものように『女の子だから』と、そんな理由で私を守ろうとする。
 これでは互いの立場がまるで逆ではありませんか。

 だけど。

「シロウ――」
「んー?」
「――ありがとうございます」
「……うん」

 今だけは、それでも。



第 53 回 : 2004 年 6 月 8 日「その後の乗り物」

 イリヤスフィールがシロウに自転車を買ってもらいました。
 今も彼女はその自転車で、機嫌よく買い物に出かけていきました。いつもなら『めんどくさーい』などと言ってなかなか動かないというのに、それがよほど嬉しかったのでしょう。
 少々うらやましく思わないこともないですが、素直に微笑ましいと思える。彼女が手伝ってくれるというのなら私やシロウの負担も減りますし。

 ――が。

 そのせいで逆に暇を与えられてしまった人物がいました。

「■■■■……」

 そう、バーサーカーその人です。
 彼はイリヤスフィールが自転車を手に入れるまで、彼女を肩に乗せて商店街へ藤村組へ、そして時には新都にまでと、八面六臂の活躍で以ってイリヤスフィールの足役として己の勤めを果たしてきました。
 だがここに、自転車という存在が台頭したことで彼は彼の役目を失ってしまったのです。

 しかし、他人事ながら恐ろしいことです。
 ギリシア神話最大の英雄と言われ、十二の苦難を乗り越えた伝説中の伝説とも言える彼が、たかがバーゲンセール10,290円(税込)の品にこうも容易く敗れ去るとは……恐るべしは時代の進歩と言うべきか。
 この私とて、下手をすれば明日は我が身である。そうならない為にも、常に我が身に精進の心を忘れないようにしなければ。

「■■、■■■……」
「む、なんですかバーサーカー?」

 私が決意を新たにしているところに、肩を落としてうなだれていたバーサーカーが何かを訴えるような視線を向けてきた。

「■■■■、■■■■■■ーー」
「うむ……私には貴公の言葉を理解することができないのだが、何か用なのですか?」

 そう問い返すと、バーサーカーは一瞬、眉間に大きな皺を寄せて考え込むと、

「ほう……ぱんとまいむですか。なるほど、これならば私にも理解できるはずだ」

 以前、テレビを大河たちと一緒に見ていたときに私も覚えたぱんとまいむ。確か身振り手振りだけで言葉を使うことなく芝居する、無言劇であったはず。
 バーサーカーはその巨体のわりに軽い身のこなしを見せて、私の己の意思を伝えようとしてくる。

「ふむ、肩に? 叩く? いや、乗る、乗せる? それから歩く……ああ、散歩ですか。私と一緒に、貴公が」

 つまりこれを全て繋げると。

「私を、肩に、乗せて、一緒に散歩する」
「■■■■ーーーー!!」

 そう言うとバーサーカーはしたりと頷き、天に向かって雄叫びを上げた。ああ、近所迷惑になるのでそんな大声は出さないでください。
 ――と、そんなことはどうでも良いのです。

「待ってください、バーサーカー。何故、私と貴公が」
「■■、■■■■■■ーー!」
「いや、寂しいというのはわかります。私もシロウに構ってもらえないのは寂しいですし。だが私は」
「■■■ーー! ■■■■■■ーー!!」
「――その、私は、だから……貴公に乗ると、乗り物酔いが……」


 などと言ったところで泣く子と吼えるバーサーカーに勝てるわけもなく。


「■■■、■■■■■■−−−!」
「あの、できればその……もう少しゆっくり、揺らさないようにしていただきたいのですが……うっ」

 結局私は、延々二時間もたっぷりと、彼の肩の上で町内の散歩をする羽目となったのでした。
 とりあえず……差し当たって私はこの乗り物酔いの癖を直す必要があるようですね……うぅっ。



第 54 回 : 2004 年 6 月 9 日「カロリーオフ」

「ごちそうさまでした」

 彼女がそう言った途端、私たちは思わず顔を見合わせてしまった。

「どうしたのです、桜? まだご飯を一膳しか頂いていないではないですか」
「あの、セイバーさん? 何か誤解があるみたいですけど、わたし元々そんなに食べるほうじゃないんですよ」

 桜はそう言うが、そんなことを言ったところで誰も信じるはずはない。

「あのねぇ桜、昨日までのあなたの健啖振りが見事に今の言動を裏切ってるんだけど?」

 と、まあ凛の言う通りである。昨日までの桜の食事っぷりは、それは見ていて清々しいものがありました。
 出された食事を全て頂くのはもちろんのこと、恥ずかしげにしながらも――居候、三杯目はそっと出し――を実践しつつおかずまでおかわりする辺りがあなどれない強敵でした。何がというと、もちろん食卓の戦いにおける強敵というわけですが。
 ともあれ、そんな桜が一杯のおかわりもせずこれで夕食を終えようなどと――彼女と食卓を共にした者ならば俄かに信じられるものではない。

 一同の疑惑の視線が突き刺さる中、桜は引きつった笑いを浮かべつつ、

「そ、それじゃあわたしは先にお風呂を頂きますから……あ、洗い物はあとでするからお水につけておいて――」
「――体重」

 立ち上がろうとしたところでぽつりとこぼしたイリヤスフィールの言葉に、中腰のまま凍りつく。
 そんな桜の姿に満足したか、イリヤスフィールはにやりと、しかし見るモノ全てを慄かせるような酷薄な笑みを零して続ける。

「わたし知ってるのよ桜……昨日、見たもの。貴女が洗面所の体重計に乗って顔を青ざめさせているのを」
「イ、イリヤちゃん……そんな、わたしはそんなこと……」
「ブザマなものね。自分自身を律することも忘れて毎日毎日……レディとしての嗜みに欠けているからそういうことになるのよ、サクラ」
「……うっ、ううっ……あ、あう、ああああぁぁぁ……」

 ふふん、と笑いながら髪をかきあげ、膝をついて慟哭する桜を見下ろすイリヤスフィール。
 そんな彼女を凛は生ぬるい瞳で見つめ、シロウはなんと言ったものかとおろおろし、そして大河は我関せずと自分でご飯をよそっていた。というか、私としては一番己を律することに欠けている彼女の体型がまるで変わらないことのほうが不思議なのですが……

 まあ、良い。これも彼女にとっては自業自得というべきですし、私にとってはむしろ僥倖とも言うべきでしょう。

「シロウ、私のもおかわりをください」

 桜が戦線を離脱した分、これで安心しておかわりを求められるというもの。これもまた幸せの一つというものでしょう。桜には悪いですが。


「……そういえば久しく体重を量っていませんね」

 お風呂からあがり、全身を伝って床を濡らす水滴を拭き取りながら足元の体重計に視線を落とす。
 針の位置はゼロ。桜は昨日、この体重計に乗って今の自分を知り驚愕したわけですが――

「……心配することなど何もない。この身は常に己を正して久しい。故に体型など変わろうはずもないのだから」

 なんとなく独り言をつぶやき、そして体重計に乗ってみる。

 ――右に向かって勢い良く振れる針。
 ――ややもして己の置き場を探して針が揺れる。

 そして針は、居場所を定めて止まり――

「ば、ばか……な。そんな……?」

 私はそれを見ながら、自分の顔から血の気が引いていく音を確かに聞いていた。
 ありえない。そんなはずはない。
 そう言い聞かせながら何度目を瞬かせても、針は変わらずそこにある事実を私に突きつける。

「あ、貴女も……貴女もそうだったというのですか、桜……?」

 この絶望を――この、深い奈落のそこに落ちていくような浮遊感と共に襲いかかる絶望を、貴女も知ったというのですか、桜。
 昨日、この場で、たった一人で。

 湯に浸かり、充分に温まったはずの体が冷えていく。それ以前に頭は冷水を浴びせかけられたかのようで、全身に怖気が走るのを止められない。
 こくりと、喉までせり上がってきた嗚咽を飲み下し、この受け入れがたい現実を受け入れようとしたそのときでした。

「! 何奴!?」

 不意に感じられた気配に振り向くとそこには、

「ふ……」
「ッ!」
「ふふ、ふふ、うふっうふふふふ……クスクス」

 俯き加減に目を前髪で隠し、しかしながら確実にこちらを見据えて瞳を光らせた桜が――歪んだ笑みを浮かべて扉の隙間から顔を覗かせていた。

「さ、さく……」
「……」

 慌てて私は桜を呼びとめようとするが、その名を呼び終わるよりも早く彼女は扉を閉めて――

「あ、ああ……なんということだ」

 ――遠ざかっていく足音を聞きながら、私はがっくりとその場に四肢をついたのでした。


 そして翌日から、私の食事量が減り、運動量が増えたのは――もはや言うまでもないでしょう。



第 55 回 : 2004 年 6 月 11 日「タイフーン」

 がたがたと強い風が木戸に吹きつけ、ばちばちと激しく雨が窓を叩く。
 外に見える庭の木は大きくしなり、時折折れてしまうのではないかと思わせるほどにその身を反らしてその度に思わず息を飲む。

 台風がやってきました。
 昨日くらいからテレビや食卓でも何かと話題に上った台風とやらが、いよいよこの冬木市にもやってきたのです。
 私は今まで台風というものに遭遇したことはなかったので、天気の者が何をあんなに騒いでいるのかと首を傾げていたのですが――

「うっわー、こりゃすごいな」
「――はい。こんなにも凄まじいものだとは思ってもみませんでした」

 隣に並んで窓の外を見るシロウの言葉に深く頷いてみせる。
 ごうごうと唸る風の声は壁の内側にいても私たちにまで届き、散弾のように降り注ぐ雨の粒はともすれば窓を貫いてしまうのではないかと、そんな不安すら抱かせる。夜の闇にまぎれてしまって見えないが、空では黒々とした雲が激しく処を変えながら幾重にも渦を巻いているのだろう。

「今回のはまた強烈なヤツだけど、これから夏だからな。秋口までにかけては日本列島は台風シーズンだ」
「そうなのですか? こんな日がこれから何日も訪れるというのですか……」
「それでも沖縄とかに比べれば全然ましなほうだけどな」

 ブリテンにはこのような台風など訪れたことはなかったから、私は正直なところ少々圧倒されている。
 風も雨も空も雲も、その怒りを撒き散らすように荒れ狂い地上にその牙を容赦なく突き立てる。風の神というものが存在するのであれば、まさに今、ここに彼の者が顕現しているのではないかと、そう思わせるほどの荒々しさだ。
 いかに英雄と呼ばれ、人の身と比して圧倒的な魂を持つ我々サーヴァントとて、自然という神の荒魂の前ではちっぽけな存在に過ぎない。その前に姿を晒せば、たちまちのうちに身体も魂もずたずたに引き裂かれ散華するしかない。

「なのに、これでもましなほうですか……恐ろしいですね」

 脳裏に浮かべた光景に、己の姿を投影してしまい思わず怖気が走る。
 押し寄せる幾千幾万の軍勢ならば恐れもしないし退きもしないが、相手が天然自然であるのならば話は別だ。世界そのものに抗うことのできる存在など、この世には在りえないのだから。

「まあ、そんなに心配することはないよ。台風っていってもこのくらいならさすがにこの家が吹き飛ぶほどでもないし、そんなでかいのなんて一生に一度お目にかかれるかどうかってくらいなんだらさ」

 シロウはそんな私を見かねたか、私に笑顔を見せながら頭に手を置いてくる。
 髪を撫でる感触が妙に気恥ずかしかったが、しかし、そんなもの知らずなシロウを放っておくわけにはいかないでしょう。

「シロウ、そのような軽い気持ちでいてもらっては困る。魔術師であろうとサーヴァントであろうと、決して勝てぬ存在が自然なのです。その力を甘く見ていては、いずれ手痛いしっぺ返しを食うことになりますよ」
「う、うん。わかった気をつける――」

 身を乗り出した私に気圧されたかのように、神妙な顔つきでシロウが頷いたその瞬間でした。

「――お?」
「明かりが……」

 何の前触れもなく突然、部屋の中を照らしていた明かりが全て消えて、周囲は一斉に暗闇に包まれた。
 感じられるのは私の頭に手を置くシロウの感触と、そばにある彼の気配と微かな体温だけ。珍しく私たち以外にいない家の中は誰の声もなく、吹きつける風の音と雨の音だけが周囲を支配している。
 そして空には当たりまえのように月明かりもないのだから、視界など闇色に塗りつぶされて支配されていた。

「停電か。どっか電線でも切れたかな」
「見なさいシロウ。油断するからこういうことになるのです」
「いや、油断って言っても……まあ、いいやとりあえず今日はもう寝よう」

 そう言ってシロウは私の頭から手を離す。
 と、急にシロウの気配までもが離れていき、私は暗闇の中取り残されてしまった。

「シ、シロウ!」

 思わず咄嗟に手を伸ばし、彼の服の裾を掴んで引き止める。

「ん? どうしたセイバー?」
「い、いえ……その、どうというわけではないのですが……」

 自分自身、どうして突然こんなことをしたのか良くわからない。わからないが、家が軋む音と風の唸り声しか聞こえない暗い闇の中に、一人にされたくないと思ってしまった。

「……もしかしてセイバー、おまえ」
「っ! な、馬鹿なことを言わないでほしい! この私が、このような暗闇に怯むことなどあるはずがないではないですか!」
「……いや、俺まだ何も言ってないし。それにセイバー、俺の服掴んだままだし」
「うッ!?」


 ……結局私に反論の術などあるはずもなく。
 その日は特別に許しを得て、シロウとの部屋を隔てるふすまを開いたまま眠ることにしたのでした。

 しかしいくら初めてのこととはいえ、このようなことで不覚を取るとはまったく……私もどうかしていますね。



第 56 回 : 2004 年 6 月 14 日「忘れすぎ」

「ライダー、買い物のメモはちゃんと持ちましたか?」
「もちろんです。そのような心配は必要ありません」
「……まあ、普通ならそうなのですが」
「失敬な」

 今日はライダーが家にお茶を飲みに来ています。もちろん私が招くはずもなく、勝手に来たわけなのですが。
 とはいえ、シロウたちが学校に行っている今、特に予定のない私は家事に何かと忙しい身です。そんなところに来られても彼女の相手などできるわけもないのですが、

「セイバー、よろしければ私も手を貸しましょう」

 と、突然ライダーがこのような申し出をしてきたのです。
 正直なところ客に家事を手伝わせるというのはあまり良いことではありません。ですが、彼女としてもこのまま手持ち無沙汰で一人お茶を飲んでいるというのも居心地が悪いらしく――一瞬、それだったら帰れば良いのにと思いもしましたが、それはあまりにも人が悪いというもの。すぐにそんな考えを打ち消して、その申し出を受けたわけです。


 そんなわけで、ライダーはシロウの二号自転車に跨り、颯爽と出かけていったのですが。

「……いまいち、不安が残りますね」

 何でしょうか、この言いようのない胸のモヤモヤとした感じは。
 とはいえもはや心配したところで始まらない。まだお洗濯の途中ですし、さっさと終わらせておやつにしましょう。


 それから約十五分後――


 物干し竿にかけたふとんのシーツを手で伸ばしていると、塀の向こう側に土煙が立ち昇っているのが目に入った。

「もう帰ってきたのですか。ずいぶん早いですね」

 そう思いながらエプロンで湿った手を拭いて門の方向に身体を向ける。
 と、タイヤが激しく地面を削って擦りあげると共に、ライダーが駆る二号自転車が庭に滑り込んで来る。そして二号自転車は地面に綺麗な半月の弧を描き、いつも一号、三号と共に置いてある駐輪場の前でぴたりと停止した。
 ああ、これでまたシロウがタイヤを交換しなくちゃ、と嘆くことになるのですね。

「……ライダー、そのように派手に乗り回しては二号がだめになるといつも言っているではないですか。少しは遠慮してください」
「それはこの私に騎兵としての誇りを捨てろということですよセイバー。……いえ、今はそのようなことを言っている場合ではありませんでしたね」

 晴れてきた土煙の向こう側にライダーのシルエットが徐々にはっきりしてくる。
 そして、自転車の荷台に載っているモノの姿も。

「……ライダー、私はお肉を買ってこいと言った覚えはないのですが」
「それです。いえ、この方はお肉ではなく、八百屋のご主人なのですが」

 荒い息をついて虫の息の男性は、おお、確かに八百屋の店主ではありませんか。

「店主、このようなところでいったいなにを?」
「……は」

 息も絶え絶えに細い声で告げる店主の言葉に耳を寄せる。ぱくぱくと、まるで大河の家で見た金魚のように酸素を肺に取り入れながらも必死に絞り出したその声を、今にも風の音に消えてしまいそうなその声を拾い取る。

「は?」
「はっぴゃくえん……」
「……はっぴゃくえん、ですか」
「その通りです、セイバー」

 神妙な顔をして店主の言葉に頷くライダー。

「……お財布、忘れてしまいました」
「……ほう」

 つまりあれですか。買い物をしたのはいいが、よりにもよって財布を忘れてしまったため、わざわざここに店主を連れてきたということですか。
 私の視線からこの胸中を悟って取ったか、ライダーはそのままの神妙な表情でこくりと頷く。

「……はあ、まったく」

 これが先ほど感じた不安感の正体というわけですか。

 居間に戻ると、メモと一緒に確かにライダーに持たせたはずの財布がたんすの上にぽつんと鎮座していました。
 深いため息をつきつつ、それを手に取って二人の元へと戻る。

「ライダー、何故この財布が貴女の手元ではなく、居間のたんすの上にあるのですか?」
「……それは私にもわからないことです」

 細いあごに指を添えながら、真剣な顔で悩んでいる様子の彼女を見ていると、怒りを通り越して呆れてくる。
 八百屋の店主に八百円、確かに払いながら、私はもう一度深いため息をついた。

「へい……まいど……」
「申し訳ない店主……それで、買った野菜はどうしたのですか?」

 彼女におつかいを頼んだ今晩のおかずの材料。にんじん、じゃがいも、たまねぎなどなど。今日はきっとカレーなのでしょう。
 だがライダーも店主もそれを持っている様子はなく、二号の荷台にもその姿がはない。
 そして私が問うような視線をライダーに向けると――


「あ」


 ――まあ、要するに結局そういうわけでして。
 もう二度とライダーにおつかいは頼むまいと、強く決意したある日の午後でした。



第 57 回 : 2004 年 6 月 15 日「口は災いの元」

 大河に拉致されて、なし崩しにやる羽目になってしまった英語の教師、というか私はあくまで大河の助手なのですが、当の大河が生徒に混じって授業を受けていたりするので私が彼女の代わりをするしかないわけです。
 まあ、報酬として学食の食券をきちんと頂いてますし、一度引き受けた以上、課せられた役割は全うしなくてはいけません。
 そんなわけで今日も今日とて、三年A組の英語の授業中なのですが――

「むむ……」

 この私を前にして堂々と机に突っ伏している彼に思わず唸り声が漏れてしまう。

 ――エミヤシロウ。

 隣の席である凛と教卓の前にいる私の視線を一心に浴びながら、なんとも太平楽な表情で寝息を立てている。
 まったく、この私の授業でこうも無防備に醜態を晒すとは、いい度胸です、シロウ。

「覚悟はよろしいですね」

 背後の黒板に備えられているチョークを一本、指に挟み込み、そのまま流れるように横投げで放つ。
 手首のしなりを利かせて放たれた弾丸は、空気を破りながら目標へと直進し――

「だッ!?」

 ――大河の家の庭にあるししおどしのような音を立てて標的へと命中した。我ながら見事と自賛できる投擲です。

「なっ、なにがいったい!? 遠坂!?」
「わたしじゃないわよ」
「――シロウ」
「え? ……と、セイバー?」

 生徒たちの感嘆の声を浴びながら、椅子から転げ落ちてきょろきょろとうろたえている彼の前に立ち、じっと見下ろす。
 それに気づいて見上げてくるシロウは表情を引きつらせながらも口元を笑みの形に作っている。無理に笑おうとしなくても――良いというのに。

「今は何の時間ですか? エミヤシロウ」
「英語の時間です、サー」
「その通り。私が担当する英語の時間です。では……エミヤシロウ?」

 腰を屈めて、目線を床にしゃがみこんでいる彼に合わせる。
 歪んだ笑みを浮かべながら、額に小さな汗の玉を浮かべているシロウ。その汗がどれだけ冷たいのか、少し気にしながら、彼の頬に両手を添えて挟み込む。シロウの肌は疲労のせいかひどく荒れていて、ざらっとした感触がはっきりと伝わってきた。
 ですがそんなものは自業自得なのです。ですから容赦などしてはあげません。

「その授業中に……貴方はいったいなにをしているのですかっ!」

 挟み込んだ両頬を、挟んだ指の爪先で摘みあげ思い切り左右に引っ張り伸ばす。
 伸ばされたシロウの口から空気のような悲鳴が断続的に漏れてくるが、もちろんそんなもので哀れを誘えるわけもない。
 そうです、自業自得なのです。全部シロウが悪いのですから、このような目に合うことも当然と言っていいでしょう。

「あ、あのー、セイバーちゃん。学校内で体罰はご法度なんだけど。PTAがいろいろうるさいのよぅ。保護者のイリヤちゃんが暴れるー!」
「む! 甘すぎです、大河! イリヤスフィールが暴れようが飛び跳ねようが、罪の所在は明らかにしておかなくてはなりません!」
「って、そんなおおげさな」
「だまらっしゃい、遠坂凛!」

 シロウの頬を引っ張りながら、自分自身が徐々に高揚してきているのを自覚する。
 だが、そうとわかっていても自分を止められない。それが自分の未熟故とわかっていたとしても、だ。

「だいたいシロウ! 昨晩遅くまでずっと凛の部屋にこもって夜更かしなどしているからこうなるのです!」
「……まて」
「凛がお風呂から上がってからというもの、えんえんと朝方四時まで……そんなことだから授業中に居眠りなどと不覚を取るのです!」
「だーーーっ! あんたちょっと黙ってなさいこの世間知らずの箱入り娘ーーー!」

 雄叫びを上げて凛が私をシロウから引き剥がし、口を塞いでくる。
 そしてシロウはといえば、開放されたにも関わらず床にへたり込んだまま青い顔をしていて、私が摘んでいた部分がまだらに赤くなっていた。

「……セイバーちゃん?」
「っぷは、はい? なんですか大河」

 と、今度は大河が私に張りついていた凛を引き剥がしていた。その大河の表情は、久しくお目にかかったことがないほど真剣な表情であった。
 大河は右腕に凛を抱え込んで拘束しながら、ずいと私に一足迫り、

「今の話……詳しく聞かせてもらえるかしら」

 空いた左手で私の肩を強く握りながらそう言ってきた。
 なるほど……この様子、大河もまたシロウの生活態度を憂えているということなのですね。
 そしていつしか異様な雰囲気に包まれている教室を見渡してみれば、クラスの生徒たち全員が、大河と同じ表情で私を見つめていた。

「よろしい……良い機会ですから貴方たちにも知っておいていただく必要がありますね。シロウの生活態度がどれだけ堕落しているかを」


 そして結局、その日の授業は私の話ですっかり潰れてしまったのですが、シロウも凛も、

「……は、反省しています」
「……今後、気をつけます」

 と、言ってくれたことですし、まあ良いでしょう。
 これも教師としての務め、教育的指導というものです。これでシロウも凛も、少しは生活態度が改まることでしょう。
 いかに魔術の鍛錬とはいえ、過ぎたるは及ばざるが如しという言葉もありますし、日常に支障をきたすのはよろしくありません。

 ……ところで授業が終わった瞬間、シロウと凛の周りにみんなが詰め寄せていたようですが……いったいなんだったのでしょうか。



第 58 回 : 2004 年 6 月 16 日「特訓」

「聞いたぜセイバー、おまえ乗り物……ていうかバーサーカーに酔い易い体質なんだってな」
「それは確かに間違いありませんが、何故貴方がうちで朝食を摂っているのですかランサー?」

 凛の隣で目玉焼きを頬張っているランサーにそう言ってやりましたが、やはりというかなんというか、完全に無視してくれました。ちなみにもちろん、この男を朝食の席に呼んだ覚えなど、誰にもあるはずがありません。

「あとできっちりメシ代は払ってもらうからな」
「ああ、そっちは言峰にでも請求しておいてくれ――ごちそうさん」

 ぱん、と両手を合わせて礼をして、再びこちらに向き直るランサー。

「というわけでセイバー、今日は俺がおまえのために取って置きの特訓プログラムを用意してやったわけだ」
「特訓というと、バーサーカー酔いのですか? ……はむ」
「その通りだ。おまえだっていつまでも弱点をそのままにしときたくはねえだろ?」

 お皿に残った最後のソーセージを頂いて、ランサーのその言葉を吟味する。
 ……ふむ。確かに彼の言う通り、私はバーサーカーに弱い。戦闘能力とかそういうのではなく、乗り物としてのバーサーカーの乗ったとき、この身は途端に本来の力を失ってしまう。……端的に言えば気分が悪くなるわけですが。
 前々回、そして前回ともに醜態を晒してしまった私ですが、いつまでもこのままというのはもちろん望むところではない。
 と、なればランサーのこの申し出は渡りに船というもの。いったい如何なる特訓なのかは知りませんが、可能性があるならば試してみるべきですね。

「いいでしょう、ランサー。その申し出受けました」
「よっしゃ、それでこそだ。――んじゃ、さっそく」
「待ちなさい」

 勢い込んで立ち上がりかけたランサーを制して、シロウに向き直る。

「その前に……シロウ、おかわりです」


 そして私は新都にある、とあるデパートの屋上へとやってきていた――の、ですが。

 うぃんうぃんうぃん

「…………」
「よ、よーし、いいぞセイバー! そ、その調子だ!」

 うぃんうぃんうぃん

「…………」
「これならすぐにでもおまえは弱点を克服できる! この俺が保障してやるッ! ……ぶっ」

 一番近い表現で言いますと――私は馬に乗っていました。と、言ってももちろんかつて私が騎乗していたような馬ではありません。それどころか、たとえ乗馬の経験がない者だとしても、この馬ならば容易く乗りこなすことができるでしょう。
 事実、周囲を見渡せば、イリヤスフィールよりも更に幼い歳のころの少年や少女たちも、私と同じこの機械仕掛けの馬に跨っているわけでして。

 要するに私は、幼い子供たちの遊戯と全く同じ事を、特訓と称してやっているわけですか……

「……ランサー、私を騙しましたね」
「あん? なに言ってんだよ。ばっちり特訓になってるじゃねえか」

 ランサーは私が跨っている馬を指差しながら、そう言って――追加の百円を投入した。

「バーサーカーと全く同じ歩調で、激しく上下に動く馬。それに跨るおまえ。これで酔わないようになったら、弱点克服したも同然だろうが」
「……では、何故話すとき、私と目を合わせないのですか?」
「そりゃおまえ、うっかり目を合わせようもんなら爆笑するからに決まってんじゃねえか」
「おのれ、そこに直れ槍兵」
「……ぶっ!」

 私の周りで子供たちが見上げているのにも関わらず風王結界を現界させ、切っ先をランサーに突きつける――が早いか、ランサーは素早く周囲を囲っている鉄柵まで飛び退いて、

「くっ、ククッ……ぶははははーーーっ! お、オマっ、おまえ最高! 可愛いぜセイバーちゃん!」

 その場で激しく全身を痙攣させながら、辺りを憚らずに笑い声を響き渡らせた。

「き、貴様ーーーッ! やはり最初からこれが狙いであったかッ!!」
「あ、あったりまえじゃねえか。にしてもこんなに上手くいくとは……おまえ、人が好すぎるぜ」

 蹲って腹を抱えながら、ランサーは涙目でこちらに嘲りを向けてくる。
 お、おのれ……このような男の甘言に乗り、見事に嵌められるとは……なんという不覚!
 だがしかし、これでこちらにも容赦をする理由などなくなった。
 私は跨っていた馬の上に立ち上がり、足を撓めて一足にヤツに飛び掛ろうと構えて――

「あ、ちなみに今のはばっちり写真に撮らせてもらったからな」
「……なに?」
「もしおまえが俺に報復しようってんならそれでもいいが……そのときはわかってるよな」
「あ、く……き、さま……」

 私の表情が絶望の鈍色に染まっていくのと対象的に、ランサーはその表情を喜色に塗れさせ、口元を邪悪に歪めて笑っていた。

「そのときは――全方位三六〇度から撮影したおまえの恥ずかしい写真が……おまえのだーいすきなボウズの手に渡るってわけだ」

 そしてランサーは最後に一つ、天に向かって高らかに勝利の凱歌を上げると、

「じゃあなセイバー、今日はおまえのおかげで美味い酒が飲めそうだぜ! だーーーはっはっはー!」

 と、耳障りな笑い声を残しながらデパートを飛び降りて消えてきました。

 そして……私は……

「おねえちゃん、どうしたのー?」
「だいじょうぶー? おなかいたいの?」
「えっとね、おとなはないたら、めーなのよー」

 その場にがっくりと膝を突き、声を出す気力もなく――

 ――ああ、子供たちよ。時に慰めは敗者に残酷であると……お願いです、察してください。



第 59 回 : 2004 年 6 月 17 日「犬」

 目の前で激しく左右に揺れる尻尾、出しっぱなしの舌、短くて撫で心地のよさそうな茶色の毛、そしてつぶらな黒い瞳。
 私の眼前に思いっきり突き出された彼は、いわゆる犬という生き物でした。ちなみにミニチュアダックスフント、という犬種らしいのですが、詳しいことは良くわかりません。

「藤村先生、この子どうしたんです? 犬なんて飼ってましたっけ」
「飼ってないわよ。ご近所さんがね、なんでもしばらく旅行に行くらしくって、その間預かっててほしいって」
「はぁ、なるほど」

 答える大河と同じように、凛のほうに振り向いてはっはと荒い息をつく犬。凛は彼の鼻先をちょんとつつきながら、難しい顔つきをしています。
 ふむ、あれはきっと私と同じことを考えていますね。

『ペットといえば家族も同然のはずなのに、それを大河(藤村先生)に預けるとは……』

 と。
 いや、無論大河がどのような人物か私は良く知っています。彼女が人間的に立派な女性であるということも。
 しかし、良く知っているからこそ、また同時に不安要素も良く知っているわけでして――

「セイバーちゃん?」
「……は。なんでしょうか、大河」

 呼ばれて我に返る。

「ねえねえ、セイバーちゃんって犬は大丈夫なひと?」
「ええ、もちろん。犬であろうと獅子であろうと猫であろうと、この身が恐れることなどありはしません」
「ふぅん。それじゃあ――はいっ」

 と、大河が抱いていた犬を私に突き出し、胸に押し付けてきた。

「た、大河?」

 ずり落ちそうになる彼を慌てて抱きなおして支える。
 ふわふわとした手触りは思った通りに心地よく、胸に当たる体温は染みこんでくるほどに温かかった。

「私これからお風呂入ってくるから、その間この子のこと見ててね。ヨロシクー」
「って、タイガーーー!?」
「私を虎と呼ぶなーーーッ!!」
「……いえ、虎とは呼んでないのですが……ああ……」

 行ってしまいました。伸ばしたこの手がなんとも虚しい。
 まったく、預かった以上、肌身離さず世話と面倒を見るのが当然のことでしょうに。少なくとも、私が獅子の子を預かっていたときはそのようにしていた。

「ま、そんなに難しく考えなくても、どうせ藤村先生がお風呂出てくるまででしょ。あんまり眉間にしわ寄せてると消えなくなるわよ」
「そうなのですが……ああ、そんなに顔を嘗め回さないでください」

 抱いている犬が身体を伸ばし、なにがそんなに嬉しいのか私の顔を嘗め回す。おかげで私の顔は頬だけと言わず、まぶたや唇の辺りまでべたべたになってしまいました。が、

「いたしかたありませんね。貴方がそのように望むのであれば、私が一時、貴方の母となってあげましょう」

 私自身、このように懐かれるのは嬉しくないわけではない。なによりこの子はとても愛らしい。
 だからか、私は思わずかつてあの子にしたように、自分の頬をこの子の頬に当て、その温もりを楽しんでいた。



第 60 回 : 2004 年 6 月 19 日「七色の橋」

 日本において六月という月は梅雨と呼ばれているそうです。
 一年のうちでもっとも湿り気が多く、天よりの恵みをもっとも多く垂れられる月。今日もまた、その名に反せず、朝からしとしとと静かな音を立てながら、雨が庭の土を叩いていた。
 だから本当なら外に干すはずの洗濯物も今日は部屋の中に干しているし、私自身もずっと部屋の中から外を眺めている。

「…………」

 話をする人もいなくて、テレビもつけず、テーブルの上に頬をつけてじっと灰色の庭を眺めている。空気の中に描かれた幾筋もの斜線が間断なく刻むリズムを、空っぽの頭でずっと聞いていた。何もすることはなく、故に些事に思考を奪われることもなく、ただこうして目にするものを見て、耳に入るものを聞いているだけだった。

 そうしていると、徐々にまぶたが重たげに落ちてくる。
 一瞬――ほんの一瞬だけ、理性がそれに抵抗しようとした。このようなところで眠ってはいけないと。
 だがそれは本当に、呆れるくらいに一瞬のことで、やがて私の意識は誘惑を容易く受け入れて、暗くて温い、柔らかなまどろみの中に埋没していった。



「セイバー、セイバー」
「……ん」

 名を呼ばれ、そっと身体を揺らされて、意識が起きていく。
 最初に感じたのは肩に触れる誰かの大きな手のひらの感触、そして薄く開いたまぶたの裏に飛び込んでくる橙色の光。
 ぼんやりとしたままの頭で顔を上げると、そこには制服を着たままのシロウが私を見下ろしていた。

「あ……おはようございます、シロウ……」
「おはようございますって時間じゃないけどな。でも、おはよう」
「え……?」

 そう言って笑うシロウに、慌てて時計を見てみれば、針は五時を少し回ったところをさしていた。

「昼寝だろ? 良く寝てたから起こすのはちょっと悪いかとは思ったんだけどさ」
「い、いえ……! 申し訳ないシロウ」
「ははっ、別に謝るようなことじゃないし。まあ、そんなことはどうでも良くてさ、実はちょっと見てもらいたいものがあって起こしたんだよ」
「見てもらいたいもの、ですか?」
「ああ、ほらこっち」

 シロウは肩から手を離し、縁側に歩いていき、私も彼について縁側に出て行った。
 そこには――


「虹ですか……!」
「ああ、ちょっと見事なもんだろ?」


 ――橙色の陽光に横顔を照らされて、シロウは他愛ない企みを成功させた子供そのものの表情で笑っていた。
 その視線の先では、いつの間にか雲が取り払われて一面激しく燃え上がっている空に架けられた七色の橋が、視界の端から端へと緩やかに弧を描いていた。その虹は夕焼けの強い溺れてしまうことなく、強く、はっきりと自分の存在を主張していた。

「これは素晴らしい……とても、きれいです」
「だろ?」

 シロウは嬉しそうに笑いながら空に架かる虹に見入っている。
 なるほど、これほど見事な虹であるならばシロウが誰かに見せたくなった気持ちも良くわかる。これほどの自然の神秘は、独り占めするにはあまりにもったいない。

「……シロウ、あなたに感謝を」
「だろ? こいつを寝過ごして見逃すのはあまりにもったいない」
「た、確かにその通りですが……いいではないですか。昼寝くらい、私だってします」
「ああ、それはもちろん。あのまましばらくセイバーの寝顔を見ていても良かったんだけどさ――」
「なっ!?」

 そ、そういえばその通り。寝ているところを起こされたということは、シロウに私はずっとシロウに寝顔を晒していたということになる。
 その言葉に一気に顔が燃え上がり、文句を言おうと口を開いたが、

「――でもそれよりも、セイバーと一緒にこいつを見たかったんだ」
「…………」

 そう言った彼の言葉に、喉の辺りまで出てきていた文句は、全て消されてしまった。
 だから代わりに、

「……はい、私もあなたと一緒にこの虹を見れて、良かったと思っていますよ」

 正直なその気持ちを、笑みと共に告げていた。