らいおんの小ネタ劇場

第 61 回目から第 70 回目まで


第 61 回 : 2004 年 6 月 20 日「筒抜け」

 突然、お風呂が壊れてしまいました。
 詳しいことは良くわかりませんが、湯沸かし器とやらが故障してしまったらしく、お湯が出なくなってしまったのです。
 さすがのシロウもお風呂の修理はできないらしく、修理を頼んだのですが明日にならないと修理できないとのことでして、今日は皆で銭湯に行くことになったのでした。

「ふぅ……」

 家のお風呂よりもずっと広い湯船に浸かり、そのあまりの心地よさに思わずため息が漏れる。
 以前の温泉ほどではありませんが、自由に手足を伸ばせるというのはそれだけでとても心地よい。

「これならばたとえお風呂が壊れていなくても、時々は利用したいものですね」
「そうねぇ……どうかーん」

 隣に浸かった凛も緩みきった表情で口元までお湯に浸かり、天井を見上げていた。

「ところで、セイバーちゃん」
「はい? なんですか大河」

 私も凛と同じように気を緩めて天井を見上げていると、反対側に身を沈めていた大河がこちらに身を寄せてくる。
 ……はて。目が笑っている。
 なんでしょう、嫌な予感がするのですが。

 だが大河はそんな私の内心など知った風もなく、口元を猫のように歪めて肩に手を回してきた。

「あれからどうかね? あちらのほうは」
「あちら? あちらのほうとはなんでしょうか」

 にやにやとしている大河の表情に不吉なものを感じ、身を引きながらも首を傾げる。
 あちらと言われてもこちらにはなんの思い当たる節もないのだから仕方ない。が、大河はますます楽しげに目を細めて、

「あちらといえばアレに決まってるじゃない。ねぇ、遠坂さん?」
「そうですね藤村先生……わたしも、とっても気になるところですし」

 そう言って凛に意味ありげな視線をやると、彼女まで悪魔じみた表情に変貌し、大河が回しているのとは逆の肩に手を回してきた。

 ……これは良くない。
 研ぎ澄まされたわたしの直感が告げている。逃げろと。この場にいては良くない目に合うと激しく私に伝えてきていた。
 しかし、私が直感に従って湯船から上がろうとするその前に、

「風呂場においてアレと言えば決まっているでしょう!?」
「チチよ! あんたの乳はちったあ成長したのか確かめさせなさい!」
「なっ!? 何をするのですか二人とも! や、やめっ……!」

 言うが早いか、大河と凛の手が私の胸元に伸びて、容赦なく触れてきた。
 逃げようにも二人の腕がしっかりと肩に回って私を拘束し、逃げることすらできない。それを良いことに二人の手がさんざんに私の胸を弄ぶ。

「むむっ! これはどうですか遠坂さん!?」
「間違いありませんわ藤村先生。この子、ちっとも成長してません。……だがしかし!」
「あっ、り、凛! やめてください、やめっ、やめて。……んんッ!」
「この感度、この感触! 小ぶり、というかぺったんこながらも相変わらず素晴らしいわね」
「あっ、ちょッ……だめですっ! ど、どこをさわっ……あぁッ!」

 悲鳴を上げて逃げようとするたびにますます二人は調子に乗って私に触れてくる。

「せ、セイバーちゃんってば可愛すぎるよぅ!」
「でしょう? ああ、でもやりすぎると癖になるから気をつけてくださいね」
「こ、このようなことを癖にしないでくださいッ! あ、や、やめ――助けてくださいシロウーーーっ!!」


 そうして必要以上に上気する頬を押さえながら銭湯から上がって外に出ると、

「お、おまえら……風呂でなにやってるんだよ、もう……」

 そこには私以上に顔を真っ赤にしたシロウが待っていました。
 ああ、そういえば男湯と女湯の仕切りは上のほうが空いていたような。……つまり私たちの声は全てシロウまで筒抜けだったということで。

「…………」
「…………」

 結局そのあとはシロウと顔を合わせることすらできず――
 もう二度とあの二人と銭湯になど行くものかと、私は心に強く決めたのでした。




第 62 回 : 2004 年 6 月 21 日「ザ・サムライ」

『あら楽し 思いは晴れて 身は捨つる
         浮世の月に かかる雲なし』

 ……素晴らしい。

 その物語を最後まで見終えて、私は内心で感嘆の息をついた。
 今私が見ていたのは時代劇というこの日本の国がまだ外と交わる以前の暮らしをしていた頃を描いた物語です。そもそも私はあまりテレビというものを見ないので今までにその機会もなく、時代劇を見るのは今日が初めてだったのですが、こんなにも素晴らしいものだとは思ってもみなかった。

 日本における侍とは武士道精神という、我々のような騎士の誇りに似た信念を己の中に持ち、それに殉じた。もちろん全ての侍がそうだったということではないのでしょうが、少なくとも今見た物語は実際にあった出来事とのこと。つまりは主の仇を討つために己の命を捨てる、誇り高い武士たちがかつて存在したということです。

 ああ、ともあれ満足です。思いもかけず良い時間をすごすことができました。

「あー、ご機嫌のところ申し訳ないんだけれどさ、セイバー」

 と、台所で夕食の支度をしていたシロウが顔を出した。
 そういえばそろそろ夕食の時間です。程よくお腹もすいてきましたし、ちょうどいい頃合ですね。

「はい、なんですかシロウ? 私にできることがあるのであれば何なりと。お皿を用意すればいいのですか?」
「ああ、うん……いや、そのな?」
「? いったいなんですか、歯切れの悪い。用があるのであればはっきりと言っていただきたいのですが」

 頬をかき、明後日の方向を見ながら口の中でもごもごと呟いているシロウ。
 ……あれは、何か心に疚しいことがあるときのシロウですね。いったいなにをしたというのか。

 あえて問い詰めることをせず、黙って彼を見ているとやがて意を決したのか、身体を半分に折って頭を下げた。

「すまんっ! ちょっと買い物してくるの忘れて晩飯の材料が足りないッ!」
「……ほう」
「い、今すぐ買いに行ってくるから、それまでしばらく我慢して――あ、あの、セイバーさん?」

 恐る恐るといった感じでこちらを伺ってくるシロウ。
 はて、なにをそんなに恐れているのでしょうか? まさか――

「シロウ、この程度で私が怒るとでも思いましたか?」
「え? あ、うん。でもだってほら、セイバーってお腹すくと機嫌が悪くなるし」
「……なるほど、貴方が私のことをどう考えているのか良くわかりましたが――まったく、いくら私とてそのような理不尽なことで我を忘れたりしません」

 そのような認識を抱くことのほうがよほど失礼というものです。

「とにかく、そういうことでしたら仕方ありません。早くしないとお店も閉まってしまいますよ、シロウ」
「あ、ああ。悪い、すぐに行ってくる」

 そう言ってシロウはばたばたとエプロンを外しながら出かけるために身支度を整え始めた。

 だがしかし、いくら仕方ないこととはいえ、これは失態です。ここが戦場であったなら、補給線の途絶による自軍の疲弊は甚大なものでしょう。
 軍令に沿って処罰するならば、自軍を危機的状態に陥れたとして厳重な罰を与えなければならない。
 もしこれがかつての日本であったならば、与えられる罰はやはり――


「……切腹」


 ――となるのでしょうか。

 と、見るとシロウが額に激しく汗の粒を浮かべ、手に財布を持った格好で固まっている。

「どうしたのですか? 出かけるのではなかったのですか、シロウ」
「あ、い……うん、いやその。あ、ははは、なんだ、俺の聞き違い、聞き違いだよな、うん。いくらなんでも……なぁ?」
「? なにを言っているのですか? おかしなシロウですね」

 そんな彼の表情がなんだかおかしくて、思わずくすりと笑みが漏れる。

「! す、すぐに行って参りますッ! サーッ!」

 その途端、シロウは叫ぶや否や、青い顔をしたまま逃げるように飛び出していった。

 急速に遠ざかっていく彼の背中を半ば呆然と見送りながら、私は首を傾げる。
 はて、本当にいったいどうしたというのだろうか。あの一瞬、まさしく必死の顔をしていたのですが……何故でしょう。



第 63 回 : 2004 年 6 月 22 日「猫と虎」

「…………」

 私は今ちょっとした緊張の只中にいます。というのも、目の前には縁側の陽だまりの中で丸くなっている猫のせいなのです。
 彼は良くこの家に出入りし、シロウや桜から食事をいただいている果報者なのです。今日もお昼ご飯の時間にふらりと現れ、腹が膨れるやこうして縁側で眠っているわけです。なんとも暢気なものですが、こうも太平楽な表情で眠っているのを見ると少しうらやましくもある。

 さて、私が何故緊張しているのかというとですが、実はそんなにたいした理由ではないのです。ただふと思いついて、彼の頭に居間に置いてあった小さな置物を載せようとしているだけなのです。
 しかし猫というのはこれでなかなか気配には敏感な生き物です。まして彼は、この人間社会をただ一人の力で今日も尚生き抜いている野生の野良猫。いかな食事をシロウに世話してもらってるとはいえ、気配に敏であること、そんじょそこらの猫とは比べ物にならない。
 故に私もこうして己を殺し、僅かな音も立てないように慎重を期して行動しているのですが――

「……ふ、いかなぼす猫殿とはいえ所詮は猫。サーヴァントであるこの私の敵ではなかったということか」

 ――見事、彼の頭に招き猫の置物を置くことに成功。
 猫の上にまた猫。ふむ、思ったより愉快な光景ですね。叶うことならばシロウにも見せて差し上げたいのですが、生憎買い物に出かけていますし、仕方ありませんね。なにやら『切腹反対』とか呟いてましたが、いったいなにがあったのでしょうか。

 まあ、良い。
 こうして私の最初の戦いは勝利に終わったわけですが、これはあくまで序章に過ぎないのです。

「くー、むにゃー、すかー、ぴー」

 振り返ったその先にいるのは、テーブルの上に突っ伏して、まるで潰れたおまんじゅうのような顔をしながら愉快な寝息を立てて眠っている大河。
 私の次なる敵は彼女。その頭に、このおまんじゅうを見事乗せてみようと思うのです。

 だが当然のことながら、彼女こと藤村大河は先ほどの猫よりも更に手ごわい相手です。
 何故ならば彼女は虎。野にあらずして尚、野生を失わず持ち続ける生粋の虎なのですから。虎が猫より弱いなどという道理はなく、虎は元より強いからこそ虎。虎が鍛錬などするかね? なのです。

 だが私とてこの世にあって伝説に謳われた英雄の端くれ。そうやすやすと後れをとるわけにはいかない。覚悟していただきましょう、大河。

「…………」
「ふかー、ふかー、むにゃ……おなか、すいたよう……しろうー」
「……眠りながら尚、シロウに食事を求めますか。それでこそです、大河」

 自分でも良くわかりませんが、大河のその寝言に思わず戦慄が走る。
 しかし臆することなく、私は先ほどよりも更に己を絞り気を細め、さながら針の穴を通すかのような慎重さを持って手にしたおまんじゅうを眠っている彼女の頭へと持っていく。
 そしてついに……その台座におまんじゅうを置いて――

「――え?」

 と、思ったその瞬間、忽然とおまんじゅうが消えていた。

「いったい……なにが?」

 この私の目でもその瞬間を捉えることはできなかった。まさしく目にも写らぬ間に、おまんじゅうは消えたのです。
 ともあれ、このままで済ますわけにはいかない。まだ私と彼女との決着はついていないのですから。

 だがしかし、もう一度先ほどのようにおまんじゅうをそこに設置しようとしたものの、再びそれは忽然と姿を消してしまった。
 いったいこの頭にどんな秘密が?

「こうなれば多少危険ですが――置くことよりも見ることに神経を払うしかないようですね」

 そうしなければこの謎を解き明かすことはできず、私たちの決着もつくことはない。
 そして私は三度、おまんじゅうを大河の頭の上に置くために手を伸ばし、その瞬間を見定めようとして目を凝らした。

 ――果たして、おまんじゅうは消えました。

「なるほど、こういうことだったのですか、大河……」
「むにゃ、むにゃ、はぐ、はぐ……」

 突っ伏したまま幸せそうな顔でおまんじゅうを頬張っている大河。
 なんのことはありません、私は虎の野生ではなく……大河の食欲に負けたと、そういうことだったのです。
 恐るべきは藤村大河。まさか空腹の一念でサーヴァントであるこの私にも見切れぬ動きを見せるとは……私もまだまだ甘いようですね。



第 64 回 : 2004 年 6 月 23 日「成長期」

「シーローウー!」

 と、今日も今日とてイリヤスフィールがシロウに向かって飛び込み、彼の腰にしがみついている。
 正直言ってあまり愉快な気分ではないのですが、なんだかんだと言ってもう慣れてきました。ついこの間まではそのたびにいちおう窘めてはいたシロウも、最近では何一つ言わないようになってしまいました。
 今もイリヤスフィールを腰からぶら下げ、片手間に彼女の頭を撫でながら黙々と食事の支度をしています。

「あれ?」

 と、そのイリヤスフィールが少し目を見開いて首を傾げる。次いでシロウを見上げ、自分を見下ろし、そしてもう一度腰にしがみついて、

「うん、やっぱりそうだ」
「そうだって、どうしたんだよイリヤ」
「あのねシロウ! わたし、ちょっとだけ背が伸びたみたい!」

 そう言って嬉しそうに笑った。

「って、待ってくださいイリヤスフィール」
「なによー」
「なによではありません。いったい今ので何故背が伸びたなどとわかるのですか。少なくともわたしには貴方の背が伸びたようには見えないのだが」

 ただシロウの腰にしがみついているだけでそんなことがわかるはずがない。
 だというのに、イリヤスフィールは無邪気だった笑みを不敵なそれに変えて、私に細い視線を送ってきた。

「わかるわよ。まあ……セイバーじゃわからないと思うけど」
「なっ、ならばどうしてわかるのか、説明願いたい!」
「簡単なことよ。この間までわたしの頭、シロウのここんとこにあったんだけど、今日は……ほら、ここにある」

 そういって彼女が指し示した『この間までの頭の位置』は、今イリヤスフィールがくっつけている場所から僅か下、だいたい1cmくらいの場所だった。

「へえ、ほんとだ。ちょっとだけ伸びてるなー」
「ですから、何故それでわかるというのですか」
「なによー、わかんないのはセイバーじゃない。だってわたし、前にシロウのどこにしがみついたかちゃんと覚えてるもの。だから間違いないの!」

 ああ、どうやら怒らせてしまったようですね。
 両腕を腰に当て、真っ直ぐにこちらを見てくる彼女の瞳は至極真面目で、事実はどう荒れ彼女自身が嘘をついているようには思えない。それがイリヤスフィールにとっての真実なのでしょう。
 ならばこれ以上、私に言えることなどありませんね。まあ、もちろんだからといって納得したわけではないのですが。

「わかりましたイリヤスフィール。ですからそのように――」
「ふん、どうせそのうち、セイバーの背だって簡単に追い越しちゃうんだから」
「――待ちなさい。それは聞き捨てなりませんね」

 その瞬間、私とイリヤスフィールの視線がじりじりと絡まり、間の空間にひょっとした常人にも視認できるのではないかというくらいに濃密な魔力が渦を巻いて交錯する。そしてシロウは腰が引けていた。

「イリヤスフィール、まさか指の先程度の身長が伸びたくらいで、驕っているのですか?」
「驕り? 言葉の使い方には気をつけたほうがいいわね、セイバー。これは油断や慢心の類ではなく確信というものだわ。わたしはいずれ成長し、シロウの隣を歩くに足るレディとなる。もちろん今だってそうなのだけど。翻ってセイバー、あなた――」

 ぴしりと、イリヤスフィールの指先が眼前に突きつけられ、

「――あなた、成長してなかったそうね、それ」

 その指先がつつ、と下に降りて私の身体の一点を指す。
 胸。

「……凛から聞いたわよ」
「お、おのれッ……」
「ふふーんだ! どーせセイバーのおっぱいなんてずっとそのままだもん! それじゃシロウを満足させてあげることなんてできやしない。ねっ、シロウ?」
「い、いきなり俺にふるんじゃねぇ!」
「シロウ! そうなのですか!? 貴方は私よりもイリヤスフィールのほうが良いと!? ならばこちらにも考えがある!」
「だ、誰がいつそんなこと言ったーーー!」


 で、結局事はお腹をすかせた大河の乱入まで続くこととなり、終わった頃にはイリヤスフィールの背が伸びていようがどうでも良くなっていたのでした。
 所詮はまだ1cmですし。彼女が私に追いつくなど、まだまだ未来のことですし、そもそも追いつくことなどないかもしれませんし……
 ええ、全く気になどしていませんとも。



第 65 回 : 2004 年 6 月 24 日「アルバム」

 今日は家の大掃除をしています。
 普段から掃除はきちんとしているのですが、時々こうして徹底的に掃除をしないと、普段は目に付かないところに埃が溜まっていたりするそうです。それに大河がどこからともなく集めてくるがらくたを処分するにもいい機会ですし。

 というわけで各々、担当に充てられた部屋をそれぞれ掃除しているのです。
 桜は台所、大河とイリヤスフィールは居間で、ライダーはお風呂。凛は聖杯戦争の頃から使っている自分の部屋です。彼女の部屋は彼女以外の誰もが触れられないのだから当然といえば当然なのですが、凛一人に任せるといつまで経っても片付かないのでアーチャーが手伝っています。
 そしてシロウは土蔵を片付けており、私はというと自分の部屋とシロウの部屋を任されていました。

 といっても、元々私の部屋もシロウの部屋も私物などあまりなく、故に普段の掃除で殆ど用が足りてしまっているので、大掃除といってもすることなどいつものそう変わりはなく――

「……これが幼い頃のシロウですか」

 ――現在はシロウの部屋の押入れに入っていたアルバムを開いて眺めていました。

 正直なところ、断りもなくシロウの私物を開いてしまうなど気が引けたのですが、結局好奇心には勝てませんでした。
 写真の中のシロウは今よりも更に更に背が小さく、隣に立って写っている切嗣の胸ほどまでしかない。顔立ちもまだ幼く、イリヤスフィールと並んでいたならば、姉弟にも見えるでしょう。

「これは、大河……ですか」

 こちらの写真では、シロウと大河と切嗣が三人で写っていた。大河はシロウの背中から彼に抱きついて、シロウはといえば迷惑そうな表情をしながらも少し頬を赤らめている。今ならば表情一つ変えないだろうに、この時はまだ彼女の突飛な行動に慣れていなかったのでしょうか。

「それにしても……本当に変わったのですね、切嗣は……」

 このアルバムの中の、シロウと大河と共に過ごしている頃の彼をこうして目にすると、かつてシロウが語っていた彼の姿は本当だったことがよくわかる。
 どの写真に写っている切嗣も穏やかに微笑み、時にシロウの頭を撫で、時に大河の肩を抱き、そんな彼のそばにいる二人も笑顔でいた。

 おそらくはこの切嗣こそが彼の本質なのだろう。私と共にいたときの魔術師であった彼は、己を殺し非情に徹し、鋼鉄の殻で心を覆っていた。金属の殻はどこまでも冷たく、何者をも寄せ付けず、誰にも見通せないほどに分厚くて、私には彼を知ることはできなかった。

 だがその殻を纏う必要がなくなり、脱いだ切嗣の心は凪のように穏やかだった。

「彼をそうさせたのはきっと、シロウと大河なのでしょうね」

 この写真を見ればそれが良くわかる。二人は切嗣にとって正真正銘の家族だったのでしょう。
 きっと彼は死の間際まで……己の業に苦しみながらも、同時に救いを得ていたのではないだろうか。だからこんなにも穏やかな笑みを浮かべていられるのだろう。
 彼を侵した聖杯の泥は、その身体を侵すことはできても、心までを侵すことはできなかったはずだ。

「セイバー、掃除は……?」
「あっ、シロウ」

 背後から声をかけられ、心臓の音が一瞬激しく飛び上がった。
 シロウはアルバムを開いている私を見て、次いでその中に綴じられている写真に目を落とす。
 なんとも、ばつが悪い。どう言い訳したところで、私がシロウのアルバムを勝手に見たのは事実なのですから。

「あの、シロウ……」
「切嗣とのアルバムかー、ふぅん……懐かしいな」

 だが当の彼はといえばまるで気にした様子もなく、私の隣に腰を降ろしてページをめくり始めた。

「申し訳ない、勝手に見てしまいました」
「ん? ああ、別にいいよそのくらい。隠してるわけでもないし」

 それでもいちおうは謝罪した私だったが、シロウはこちらに目を向けることもなくアルバムの中の光景に没頭している。
 口元に浮かんだ微かな笑みを見ればわかる。シロウの中で、この頃の時間は何物にも変えがたい大事なものだったのだろう。

「む、そういやそうだな」
「? なにがそういえばなのです?」

 突然顔を上げてそんなことを言い出したシロウに首を傾げる。

「いや、そういえばセイバーたちがこっちに来てから結構写真とかも撮ったけど、まだアルバム作ってなかったなー、って思ってさ。だから今度買いに行こう。それでさ、ちゃんとアルバムに収めて残しておこう。そうすりゃまたいつか、こうやって懐かしむことだってできるだろ?」

 シロウは名案を思いついた子供さながらの――そう、ちょうどこのアルバムの中で、切嗣に頭を撫でられている子供のような表情をして笑っていた。
 私はそんな彼の表情に、思わず笑みを浮かべてしまう。ですがそれは確かに名案ではある。

「そうですね、今度皆で買いに行きましょう。撮った写真はたくさんありますから、きっと一冊や二冊では足りませんよ?」
「ああ、そうだな。そうだよな」

 そう思うと、私もなんだか楽しくなってきた。
 私たちのこれまでの思い出はアルバムに綴られ、これからの思い出もまた綴られる。
 そうしてきっとこれから先、何冊ものアルバムが綴られていくでしょう。

 いつか遠い将来、そのアルバムをシロウと共に紐解く日が……今から楽しみです。



第 66 回 : 2004 年 6 月 25 日「疲労困憊」

 今日は午前中から学校、午後になってからはシロウたちより一足早く帰って家事をした。
 そしてその後、今から一時間ほど前ですか。バーサーカーがやってきまして……まあ、そういうことです。

「ふぅ……」

 テーブルの上に突っ伏して、思わずため息を漏らす。さすがに今日は疲れました。こんなに忙しい一日も珍しい。
 胸の奥にどろりとした空気のようなものが居座って身体が重たい。意識しなくても自然にため息が出てきてしまい、少し息苦しさすら感じる。
 開け放った縁側から吹き込んでくる風が心地よい。このまま眠ってしまいそうになるくらいに。あ、まぶたがだんだん……

「ただいまー」
「!」

 と、玄関からシロウの声が聞こえてきて、慌てて飛び起きる。
 軽い足音と共に居間に入ってきたシロウは、どうやら商店街で買い物をしてきたらしい。手にした袋は大きく膨れ上がっていた。

「ただいま、セイバー」
「おっ、おかえりなさい!」
「あ、ああ……なに焦ってるんだ?」
「そ、そのようなことはありません。とにかくシロウ、お茶でも淹れましょうか?」

 それは半ばその場を取り繕うためのごまかしだったのですが、しかし立ち上がろうと腰を浮かしかけたところでシロウに制された。

「いいよ、そんなの。俺がやるからセイバーは座っててくれ」
「え……いや、しかし帰ってきたばかりで疲れているでしょうに、そのようなことはさせられません」
「なに言ってるんだよ、俺なんかよりよっぽどセイバーのほうが疲れてるだろ?」

 そう言ってシロウは私の背後に回り、そこに腰を降ろした。
 いったい……なんでしょうか。
 背中に感じるシロウの体温と彼の気配が何故だかくすぐったく感じる。もちろん……不快な気持ちではないのですが、やはり気にならないわけがない。

「ど、どうしたというのですか? いきなり……」
「……朝から学校で授業やって、家に帰ったら掃除と洗濯、それからバーサーカーと散歩、だろ?」
「な、授業と家事はともかく、何故散歩のことまでシロウが……」
「いやほら、俺、商店街で買い物してきたし。バーサーカーはあの通り目立つだろ」
「……それもそうですね」

 確かにあの巨体で商店街を闊歩し、肩に気分悪そうな私を乗せていて誰の目にもつかないほうがおかしい。それどころか、商店街の人たちの記憶に強く刻まれたはずだ。
 ……で、シロウは噂話が好きな商店街の住人たちから私の話を聞いたのですね。

「だからさ、今日はもうセイバー、ゆっくりしててくれよ」
「は、はい。それではその言葉に甘えさせてもらいます」
「ああ、そうしてくれ。なんだったら肩揉みくらいはするぞ、俺」
「……え?」

 思ってもみないことを言われた。
 しかし、その言葉に少し混乱している私が止める前にシロウの手は私の肩に伸び、肩をほぐしていた。

「あ、あの……シロウ?」
「ずっと教壇で黒板に向かうのも、家で洗濯物干すのも肩凝るだろ? にしてもセイバーって、やっぱり肩細いな」
「そ、そうでしょうか……」
「そうですよ。やっぱ女の子だな」

 シロウはそう言いながら笑うが、私のほうはといえばそれどころではなく。彼が正面にいてくれなくて、本当に良かったと思う。

 それにしてもシロウの手は本当に大きい。
 もちろん、私と比べてのことですし、彼は学校のクラスの中でも小柄だから男性の中でもそう大きくないほうなのだろう。でも、そういうことではない。

「……シロウ」
「ん? ああ、すまん。少し痛かったか?」
「いえ、違います。むしろ……とても気持ちがいい」

 たとえこれが誰であっても、私にとってシロウに敵う者はいるまいと――そういうことなのです。



第 67 回 : 2004 年 6 月 27 日「酒癖」

「ふぅ……いいお湯でした」

 夕食を頂いた後、今日は一番にお風呂を頂きました。シロウに勧められた入浴剤を使ってみたところ、存外に気持ちよく、ついつい長風呂になってしまいましたが……たまにはいいでしょう。
 とはいえ、あまり後の人を待たせるのも良いわけがありません。

「申し訳ありません、お待たせしま――」

 そう思って居間のふすまを開けるとそこは……酒羅場と化していました。

 あちらこちらに転がる空っぽの一升瓶、テーブルの上を埋め尽くしているおつまみの数々。
 そして赤い顔をしてなお、酒盃を傾けている面々。
 けたけたと笑っている大河、くすくすと笑っている桜、口元に笑みの形だけを浮かべて凛と、一人無表情でただ飲んでいるだけのシロウ。

「こっ、これはいったい……?」
「あー、セイバーひゃんだー」
「いえ、考えるまでもありませんね。……また貴女ですか、大河」
「うー、ごちゃごちゃ言ってないであんたもここ座って飲みなさいっ」
「……で、それに乗じて調子に乗ったのが貴女ですね、凛」

 喉を鳴らしてお酒を流し込みながら手を振っている大河と、ひどい目つきで自分の隣の座布団をバンバンと叩いている凛。いくらお風呂が長かったとはいえ、たかだか一時間足らずの間に、よくもここまで酔っ払えたものです。

「まったく……いくら休日とはいえ、羽目を外しすぎなのではないですか? って、イリヤスフィールまで飲んでいるのですか!」
「子供だからって仲間はずれにするのは可哀相だとは思いませんか? うふふ……」
「さ、桜……よ、よもや貴女がそのようなことをするとは……」
「そんなことよりセイバー! シロウのとこなんて行かないでこっちきなさい!」

 喚いている凛を無視して、先ほどから静かに飲んでいるシロウの隣に腰を降ろす。飲みすぎたのか、顔を赤くしてシロウの膝の上で寝息を立てているイリヤスフィールの髪を撫でてやりながら小さくため息をつく。賑やかなのも楽しいのもかまいませんが、度を過ぎると何事も毒だというのに……
 イリヤスフィールにお酒を飲ませるなど、さすがに行き過ぎです。彼女はまだまだ肉体的には子供なのですから、酒精がその幼い身体に毒でないはずがない。シロウがいながら何故止められなかったのか……イリヤスフィール自身がとても太平楽な表情で眠っているというのが唯一の救いですね。
 しかし、だからと言ってこの有様を見逃すわけにはいかない。

「シロウ、ちょっといいですか?」
「…………」
「シロウ、貴方はイリヤスフィールの兄を自認しているのでしょう? でしたら彼女にお酒を飲ませるような真似をどうして止められなかったのですか」
「んー、それはねセイバー。そうなる前にわたしが士郎を潰しちゃったからよ」
「先輩ってばけっこうお酒に弱いんですよねー」
「ごくつぶしな姉妹は黙っててください」

 余計な口出しをしてくる二人をぴしゃりと黙らせて、シロウを正面からじっと見据える。
 と、それまでこちらも見ずに俯いたままちびちび飲んでいたシロウが顔を上げて、ようやくこちらに目を合わせてきた。どうやらわたしの話を聞く気になったようですね。ならば容赦は必要ない。

「いいですか、シロウ。さすがに今日という今日はじっくりと話をさせてもらいますよ。だいたい貴方はですね、大河と凛に弱すぎるのです」
「…………」
「だからこのように酒精に溺れ、守る者も守れず醜態を晒すことになるのです!」
「……セイバー」
「聞いているのですかシロウ! って、あの……!?」

 突然、シロウが抱きついてきた。つまり私は今、シロウに抱きしめられていた――

 な、なにがいったいどうしたというのですか!? わ、わけがわかりません!

「し、シロウ! い、いきなりなにを……こ、こんなところで……!?」
「む、やわらかくてあったかいぞ」
「あ、そ、そんな! そのような無体はやめてください!」

 シロウは膝からイリヤスフィールの頭がころりと転がり落ちたがまるで気にも留めず、彼女自身、畳の上で口元を小さく動かしながら眠っていた。
 そして私はシロウにきつく抱きしめられ、彼の手は私の背中を探るように撫でて、鼻先は髪の毛に埋められていた。

 ……シロウの顔がすぐ横にある。
 すり寄せられた彼の身体は酒の匂いがしていて、その中に僅かに汗のにおいが混じっていた。

「し、シロウ……酔っていますね?」
「そりゃ酔ってるわよう。一升瓶空けてるもの」
「酔ってなきゃそんな大胆な行動に出られるはずがないでしょ、その朴念仁が」
「鈍感故に先輩、先輩故に鈍感、ですよ、セイバーさん」
「わかってます。言ってみただけです」

 そりゃそうです。あのシロウがしらふでまさかこのような真似をできるなどとは、私だって思っていません。酔ったシロウがこちらの予想外の行動出に出るのは花見の席で実証済みですし。
 しかしだからといって――

「む。やわらかいだけでなくすべすべでもある」
「ああ、わかりましたからシロウ、そのように頬をすり寄せないでください。くすぐったいのですから、もう……」

 ――酔った上でのこととはいえ、こうも肌に触れられるのはその、困る。

 もちろん嫌だから、というのではないのですが……どうしたら良いのでしょうか。どうやらシロウはシロウなりに満足しているようですし、それを無理に引き剥がすというのも気が引けますが、このままでいるわけにもいかない。

 ――仕方ありませんね。シロウには悪いのですが、少し力ずくで今日はもうお休みいただこう。

「というわけで、覚悟してくださいシロウ」

 そしてシロウの首筋に落とそうと、振りかぶった手刀は、

「ちょっと待った」
「え? り、凛?」

 相変わらず目つきが悪いままの凛に止められていた。そしてその彼女の後ろには大河と桜が仁王立ちしている。
 あ、なんでしょう。とても嫌な予感がします。

「な、なんですか三人とも……?」
「いやね、シロウばっかり良い思いさせるのももったいないと思って」
「い、良い思いというのは一体……?」
「決まってるじゃないですか、セイバーさん?」

 ああ、桜……そうやってにこやかに微笑んでいる貴女が今は一番恐ろしい……


 そんなわけで結局、その日は夜が明けて全員が起きてくるまで、私は四人にしがみつかれたまま一睡もできず――

 ――起きてきた全員をもう一度、少しばかり力ずくで眠らせてから、眠りについたのでした。



第 68 回 : 2004 年 6 月 28 日「おまけ生活」

「こんにちわー、冬木新聞の者ですがー。誰かいませんかねー?」

 む、来客のようですね。

 シロウも大河も凛も桜も学校に行き、今この家に私は一人でいる。つまり留守を守っていることになります。
 そこに来客が訪れたとあっては、これは丁重に対応せねばならないでしょう。下手をして相手に不快な思いをさせてしまえば、それはすなわちこの家の主であるシロウの恥に繋がる。彼のサーヴァントとしてそれだけは避けなければいけない。

「すいませーん、いませんかー?」

 と、これ以上待たせるのはそれだけで失礼に当たりますね。
 私専用の獅子のスリッパをはいて小走りで玄関に向かう。ところで……ふゆきしんぶんなどという方はシロウの知り合いにいたでしょうか?
 記憶の中にあるあまり多くないシロウの知り合いの名前を思い出し、該当者がないことに首を捻りながら戸を開く。

「はい、どなたでしょうか」
「あ、ああ……いたんですか。留守かと思っちまいましたよ」
「申し訳ない。それは大変失礼を」
「あー、いやいや。いいんですよ別に」
「……ところでいったいどちらの方でしょうか。シロウの知り合いの方ですか?」

 見たところ、やはり見覚えがない。年の頃でいえば四十絡みの頃で背は低く、顔に貼りついた笑みが妙に不審だ。
 これはおそらくシロウの知り合いなどではありませんね。

「いや、冬木新聞の者なんですがね、お宅は今どこの新聞とってます?」
「しんぶん……ああ、なるほど新聞ですか」

 そういえばシロウが以前言っていた、

『いいかセイバー、新聞屋とかがきてもとりあえず相手にしなくてもいいから。うちは間に合ってますとか言っておけばそれでいいからな。絶対に新聞を取ったりしたらだめだぞ』

 ……なるほど。それが今この時なのですね。ではさっそく。

「うちは間に合ってます」
「いや、そう言わないで話だけでも聞いてくださいよー」
「うちは間に合ってます」
「あの、だから……」
「うちは間に合ってます」
「…………」

 ああ、見ていますかシロウ、この完璧な応対。あなたのサーヴァントはマスターの言いつけをきちんと守っていますよ。
 完璧なる対処を前に新聞屋は作った笑みを微妙に崩し、それでもなお形を保って、

「じゃ、じゃあこうしよう。サービスってことでこいつを差し上げましょう」
「……ほう」

 新聞屋がかばんから取り出したのは洗濯洗剤。しかも柔軟材入りで少々お高く、うちでは使っていない良い洗剤です。
 ……これはつまり戦に勝利したことへの戦利品ということでしょうか。

「ならばありがたく受け取っておきましょう、新聞屋」
「お! そ、それじゃあ契約を……」
「うちは間に合ってます」
「…………」
「…………」

 絡み合う私と新聞屋の鋭い視線。
 彼の表情はその作った笑みのまま凍りつき、しかし瞳はますます鋭く私を真っ直ぐに射抜いてくる。
 なるほど……これは私に対する挑戦ということですか。

 ならば新聞屋、あなたがいったいどこの誰を敵に回したのか――とくと教えて差し上げましょう。


 それから一時間後――


「ただいま、セイ……な、なんだこれはっ!?」
「シロウ、お帰りなさい。今日もお疲れ様でした」
「あ、うん、ただいま……って、ところでこれはどうしたんだよ?」

 シロウの差す指先には積み上げられた洗剤や石鹸、調理油や水族館のチケットなどなどの山でした。

「これは戦利品です」
「せ、戦利品?」
「はい。シロウの言いつけ通りに敵を撃退したところ、これだけの物を置いていったのです」

 心なしか誇らしくシロウに今日の戦果を報告する。
 それにしても新聞屋とはすごいものですね。あれだけ打ちのめしてもなお立ち上がって挑んでくる姿は、感嘆すら覚える。しかも負けたとあれば潔くこれだけの戦利品を差し出すとは……見上げたものです。
 またいつか、再び挑戦してくる日があるならば……そのときもまた、徹底的に打ちのめして差し上げましょう。



第 69 回 : 2004 年 6 月 29 日「家族みたいな」

 夕暮れ時は買い物時です。
 夕飯の買い物に行くのは大抵がこのくらいの時間で、それは何故かというと商店街でタイムセールを始めるのがだいたいこのくらいの時間であるという至極現実的な理由が一つ。そしてもう一つは、このくらいの時間がもっとも散歩に適した時間だからです。
 夏ともなると昼間はうだるような暑さになってしまい、そんな中を散歩などしたいとは思いませんが、日が落ちかける時間になれば身を焼くような熱気もあらかた去って行く。時折吹き抜ける風は涼しく、歩いている私たちの影は道に長く長く伸びている。

「悪いな、セイバー。買い物付き合ってもらっちゃって」
「なにをそのような……シロウ、あなたは私が嫌でこうしていると本気で思っているのですか?」
「まさか」
「ならばそのようなことを気にする必要はありません」

 軽口を叩きあいながらシロウと並んで商店街を歩く。
 だが、今日は二人で買い物に来たのではなく、彼女も一緒なのです。

「こらー! シロウもセイバーもぐずぐずしないのーーーっ!」
「わかったからそんなに騒ぐなよイリヤ」

 シロウと一緒に買い物に来るのは久しぶりだからか、少々はしゃぎすぎのような気もする。だが、そこは気心の知れたマウント深山商店街です。くるくると踊るようにして歩いているイリヤスフィールを、誰もが微笑ましげに見送っている。
 それになにより、彼女はこの商店街でも評判はかなり良いのだ。

「おっ、イリヤちゃんおつかいかい?」
「ええ、今日はシロウと一緒に」
「そうかい、それじゃこいつをおまけしてやろう。持ってきな」
「ありがとう、おじさま」

 優雅に微笑み、貴族の子女さながらに一礼するイリヤスフィール。
 彼女は幼いながらも美しく、そして無邪気でありながら、決して生まれついて持った気品も失わない。そんなところが商店街の人々に愛されていて、さながら姫のごとく扱われているのだ。
 イリヤスフィールは八百屋の店主から果物を受け取ると、こちらを振り向いて満面の笑みを浮かべる。大きく手を振りながら走ってきて、

「シロウ! おまけしてもらっちゃった!」

 片手にいただいた果物を抱えて、空いているもう片方の手でシロウの腕に抱きつくようにしがみつく。

「良かったな、イリヤ」
「うん!」

 シロウも嬉しそうに笑い彼女の頭をくしゃくしゃとかき回すように撫で、イリヤスフィールはくすぐったそうに目を細めた。

「申し訳ない、いつもいつも……」
「なぁに、イリヤちゃんのためだったら良いってことよ。この子が笑い顔はその果物ほど安かないからな」
「イリヤスフィール、もう一度感謝を」
「うん、ありがとー、おじさん!」

 そういって今度は無邪気に笑うイリヤスフィールは、私の目から見てもとても愛らしいものだった。


 橙色に染まった家路を、私とシロウと、イリヤスフィールの三人で並んで帰っていく。
 イリヤスフィールは私とシロウの間で、何故か右手で私の、左手でシロウの手を握って歩いていた。珍しいものですね、シロウのならばともかくとして、彼女が私の手を握ってくるとは……
 しかし、もちろん悪い気はしない。私とてイリヤスフィールは好きなのですから。

「あのさ、今ふと思ったんだけどさ……」
「はい、なんですか?」

 ぽつりと、誰にともなく呟いたシロウの声に振り向いて聞き返す。

「俺たちってさ……端から見たらどんな風に見えるんだろうな……」
「どんな風に……ですか?」
「ひょっとしたら親子に見える……かもな」

 親子、ということは――それはつまり。

「…………」

 ま、まったく……何故この人はいつもいつもそのようなことを唐突に言うのでしょうか。しかも何気なしに。
 そのような意味ありげなことを言われて、平静でいられると思っているのでしょうか――いや、きっとそのようなことは心の端にも浮かべていないのに違いない。……だから凛や桜に鈍いと言われるのです。

「むー、そんなわけないじゃない」

 案の定、機嫌を悪くしたイリヤスフィールが頬を膨らませて抗議する。そしてシロウも、だよなぁ、などとつぶやきながら楽しげに笑っていた。
 まったく、私たちからしてみれば笑い事ではないのですが……まあ、いいでしょう。このお返しは今日の夕食で存分に返していただくとしましょうか。

 右手に果物の入った買い物袋と、左手にイリヤスフィールの小さな手とそのぬくもりを握り締めて、ゆっくりと三人で家路を歩く。
 道に映った私たちの影は、互いに重なり合い交じり合って、深く寄り添いながら長く長く伸びていた。



第 70 回 : 2004 年 6 月 30 日「往く道を共に」

 正面に対峙するシロウ。その面持ちは緊張感に溢れ、今も首の筋を暑さによるものではない汗が一滴、伝っていく。
 正眼に構えられた竹刀の切っ先は、私の喉笛を狙ってぴくりとも動かない。目線の行く先は私の切っ先、僅かな動きをも見逃すまいと凝視している。
 だがそれは良くない。
 一点を見据えれば、確かに見据えた部分の動きを追うことはできるでしょうが――

「…………」
「!」

 私が切っ先を僅かに揺らすと、シロウの視線も同じく揺れる。

 ――それが致命的な隙となるのです。

 シロウの目線が一瞬、私から逸れた隙を狙い、身を縮めて懐に踏み込む。シロウからすれば、突然私が消えたように見えたことでしょう。

「ッ!」

 声を上げる間も与えず下から逆袈裟にシロウに竹刀を弾き飛ばす。高く乾いた音と共に跳ね上げられた竹刀は、彼の手から離れることはなかったものの、成す術もなく宙に泳いだ。もちろんそうとなれば、シロウとて成す術もない。
 返す刀でシロウの喉元に切っ先を突きつれば、もはや動くことすら叶わず、

「ま、参った。降参」
「はい、潔いのは良いことです」

 私を貫こうと返していた手首を戻して諸手を上げた。

「あー、やっぱまだまだセイバーには敵わねえかぁー」

 竹刀を放り出してひやりとした道場の床に転がる。天井を見上げて悔しそうにそのようなことを言いながら、それでも口元は笑っていた。
 負けたのが嬉しいとか、そういうわけではなく、今の鍛錬にシロウ自身に得るものがあったが故のことなのでしょう。

「にしても……俺がセイバーに勝てる日なんてほんとに来るのか?」
「ふむ。シロウは人の身でありながらサーヴァントであるこの私に勝つつもりでいたのですか? それは無謀というものではありますが、望みを高く持つのは良いことです。ならば明日よりの鍛錬は今よりもう一段厳しくすることとしましょう」
「げ、やぶへび」

 軽口を叩くシロウに少しだけ笑みが漏れる。やぶへびだ、などと言いながらいざ鍛錬となればよりいっそう厳しいものを望むというのに……シロウは時に己の身にそぐわぬことを望もうとするから、私たちのほうが気を使わなければいけない。私も凛も、その点で意見が一致している。

「しかし、最近のシロウは以前に比べて動きが鋭い」
「ん? そうか?」
「はい。レベルを一段上げなくてはいけないというのも、あながち冗談ごとではありません」
「……どうなんだろ。自分では良くわからないけどな」

 目の前に自分の手をかざしてシロウが呟く。彼の言うとおり、こういうことは自分自身では良くわからないかもしれない。
 ですが、彼の師として決して短くない間鍛錬を施してきた私にはわかる。シロウのレベルは確実に上がってきている。先ほども、以前であれば反撃の一手を用意することなく終わっていたはずなのに、彼はなお竹刀の切っ先を私に向けていた。
 彼は元より凡人ではあるが、長年積み上げてきた下地があり、何より自分自身を鍛え上げることへの姿勢が非常に強い。これで成長しないほうがどうかしているのだ。

「シロウはいつか……私の手を離れて、自分の道を歩んでいくことでしょう。そのときはきっと、今日一日のことが役に立つ日が来るはずです。ですから今私が教えられること……教えたことを決して忘れないでください」

 それは寂しいことだけれど、真実だろう。今は私はシロウと一緒にいられるが、できることならばずっと一緒にいたいとも思うが、必ずしも叶う願いではないこともわかっている。
 シロウは大きな可能性を持っている人だ。それを私一人の我が儘で消してしまうわけにはいかない。だから、私の願いはきっと叶えられることなく、シロウはいずれ私の元から去っていくのだと――そう思う。

「は? なに言ってるんだよセイバー。何で俺がおまえから離れるんだ?」

 なのにこの人はこういうことを言うのだ。

「逆ならありえるかもしれないけどさ……もしかしてセイバー、そんな寂しいこと、考えてたりするのか……?」
「ばっ……馬鹿なことを言わないでください! 私はあなたの下を去りたいなどと考えたことは一度もない! ……これからもありえない」
「なんだ、だったら何の問題もないじゃないか。俺はセイバーにずっといてほしいと思ってる。セイバーも同じ気持ちでいてくれてるなら、俺たちが離れ離れになるなんてこと、絶対にありえない」

 そう言って彼は笑った。私を安心させるためではなく、もちろん愛想笑いでもなく。心からそう思っていて自然に出てきた、そんな笑顔だった。
 そんなことを、こんな顔で言われてしまったら――

「そうだろ、セイバー?」
「……はい。そうですね」

 ――言われてしまったら、頷くしかないではないか。

 わかりました、シロウ。貴方がそう言ってくれるなら。私と同じ気持ちでいてくれると言うのなら。
 貴方には、その言葉の責任を取っていただかなくてはいけません。

「わかりました、シロウ、あなたがそう言うのであれば、私はあなたについていきましょう」
「ああ、そうしてくれると助かる。それに、嬉しい」
「……はい。あなたのためならば」

 騎士として、そして一人の私として。
 貴方と共にありましょう……これからも、ずっと。