らいおんの小ネタ劇場
第 91 回目から第 100 回目まで
浴衣……というのを初めて着てみました。
髪はかんざしという物で留めて、靴も今日はいつものではなく、下駄という少々歩きづらい履物を履いています。
聞こえてくるのは笛と太鼓の祭囃子。
周囲には子を肩車した父親と、母親に手を引かれた女の子。私と同じく浴衣を着て、恋人なのでしょうか、同じ年頃の男性と手を繋いで歩く女性もいる。
今日はマウント深山商店街のお祭りです。
せっかくだからと浴衣に着替え、シロウに連れられてやってきたのです。
「おまたせ、セイバー」
「シロウ……それが、ちょこばななというものですか?」
「ああ。バナナにチョコかけただけのものだけどな。これが結構いけるんだ」
屋台でちょこばななを買っていたシロウが戻ってきて、私の手に一本渡して自分の分にかぶりつく。
それを見た私も、同じようにちょこばななにかぶりついた。
「……ふむ。確かにシロウの言う通り。単純ではありますが、これはこれで良いものですね……はむ」
と、シロウが私のほうを見て何故か赤い顔をしている。
……はて、どうしたのでしょうか。
「何ですかシロウ? 顔色があまりよくないようですが」
「い、いやっ! なんでもないから気にするな!」
言って、明後日の方向を向いて再びちょこばななをかじるシロウ。そんなに慌てて食べなくても良いというのに。ヘンなシロウだ。
それからしばらく、シロウと二人で祭りの中を歩いて回った。
今まで食べたことのないものもいろいろと食べてみた。というか、シロウが食べ物の屋台ばかり回るから自然とそうなるのですが……
「まったく、シロウは私をなんだと思っているのですか」
「はは……でもそんなこと言って、しっかり食ってるじゃないか」
「……それはそれ、これはこれです」
美味しいものになんら罪はありませんから。
「ところでシロウ、あの屋台はなんでしょうか」
前方にある他のと同じく小さな屋台。食べ物を売っている屋台ではないようですが、なにやらかなりの人だかりができている。
決して広くない道の半分ほどを埋めていて、その様子が更に他の人を誘っているようだ。
「あれか……んーと、多分、金魚すくいだろうな」
「きんぎょすくい……とはなんでしょう」
「まあ、そのまんまだよ。紙でできたすくい網でさ、水の中の金魚をすくって、捕まえられた分だけ金魚がもらえるっていう遊びだよ」
「なるほど。紙の網では水の中の金魚をすくおうとしてもすぐに破れてしまう、故に如何にして多くの金魚を捕らえるか、その技術を競うのですね」
なかなかに興味深い内容に頷いていると、シロウは『そんなにおおげさなものんでもないけどな』と言って苦笑した。しかし、確かに単純な遊びではありますが、力押しだけでは目的を達成し得ぬところなど、奥深いところもあると見たのですが……
「にしても、なんだってあんなに人がいるんだろうな……別にそんなに人が集まるようなもんでもないんだけど」
シロウはそう言って首を傾げたが、その疑問の答えはすぐに返ってきた。
「うがーーーっ! なんでこんなすぐに破れちゃうのよぅー! やりなおしを要求するー!」
祭囃子と喧騒を突き破ってなお力を失わぬ虎の咆哮。
虎が一体誰であるかなどと――もはや言うまでもない。
「藤ねえ……」
「大河……いなくなったと思ったら、あんなところに」
つい先ほどまですっかり忘れていましたが、実は大河も一緒に子のお祭りにやってきていたのです。
が、気がついたらいつの間にかいなくなっており、シロウと歩きながら適当に探していたのですが……
「まさかあんなところで見世物になってるなんてな」
「大河らしいといえば、大河らしいのですが……」
「はあ……とりあえず捕まえてくる」
ため息を大きくついて、人だかりに向かって歩いていくシロウ。
まったく、ご苦労様です。
からころと下駄の音が人気の無い家路に一際大きく鳴り響く。
シロウの背中には大河がいて、健やかな寝息を立てている。はしゃぎすぎて疲れたのでしょう。まるで幼子のようなあどけない顔をして眠っている。
もっとも、シロウの背の上でなければこのような無防備な表情は見せないでしょうが。
「ったく、藤ねえもいい年してはしゃぎすぎなんだよ」
「良いではないですか。大人しい大河は大河らしくありません」
「ま、それには同意するよ。祭りで藤ねえが大人しくしてるなんて、逆に心配になる」
少し落ちかけた大河を背負いなおして、シロウは小さく笑った。大河も眠ったままそれに反応したのか、シロウの首に腕を回しなおし、首筋に鼻先を埋めるようにしていた。
「で、セイバー。どうだった? 初めての祭りは」
「……そうですね。正直なところ、あれだけの人ごみは少し苦手なのですが……賑やかなのも良いものだと思いました」
言って隣を歩くシロウに微笑みかける。
「珍しい食べ物もいろりといただけましたし」
「ははっ、結局それかよ……でも良かった。そう言ってくれるならつれてきた甲斐もあったよ」
「はい。ありがとう、シロウ」
「次は来年だ……また来ような」
「……必ず」
半歩、シロウのほうに身を寄せて、そっと彼の服の裾に手を伸ばし、並んで静かな家路を歩く。
きっとシロウは気づいただろうが、何も言わず振り払うこともせず、ただ私のしたいようにさせてくれた。
暗い夜道に明るい星の下、響くのは歩く下駄の音。
柔らかい風が吹く、いつもより少しだけ涼しくて賑やかだった夏祭りの夜はこうして過ぎていった。
夏の日の午前、まだ風の涼しい朝の時間に、ふと目を開いて縁側を覗くと、そこにはシロウとイリヤスフィールがいました。
首から布をかけて、まるでいつぞや大河が作っていたてるてる坊主のような格好になったシロウの後ろで、イリヤスフィールが真剣な表情ではさみを握っている。きっとイリヤスフィールがシロウの髪の毛を散髪しているのでしょう。
食卓の席で何気なく『髪が伸びてきたから切りに行かねば』とつぶやいたシロウの言葉に、イリヤスフィールが自分が切ると言い出したのが一週間ほど前のこと。それからかつらと人形を使って懸命に練習していたようですが……
難しい表情をして慎重にはさみを入れているイリヤスフィールに対して、シロウは笑顔だ。
彼にしてみれば、イリヤスフィールに髪を切ってもらうのが嬉しくて仕方が無いのでしょう。数日前から練習しているイリヤスフィールを眺めては、だらしないと思えるほどに相好を崩していましたし。
私はしばらく、そうして開け放たれた道場の戸の隙間から二人の様子を眺めていた。
――シロウの髪型がヘンな髪型になってしまったらどういう顔をしたらいいのだろうか。
そんな他愛もないことを思いつつ。
日課の瞑想を終えて庭に出ると、縁側では散髪を終えたらしいシロウとイリヤスフィールがじゃれ合っていました。
というかはイリヤスフィールが一方的にシロウにくっついているだけなのですが、シロウのほうも迷惑そうな顔一つせず、彼女のしたいようにさせているのでじゃれ合っているという言葉もあながち嘘ではありません。
シロウの髪型は、少々不揃いではあるもののさっぱりと短くなっている。だからイリヤスフィールはあんなにも機嫌がいいのだろう。
いつもよりも三割り増しでシロウに甘えて、後ろから首に抱き付いて頬に頬を当てていた。
……正直なところ。
少々くっつきすぎだと思うのです。イリヤスフィールには邪な気持ちは無いでしょうし、シロウも無防備に身体をすり寄せてくる彼女に対して、その……へ、ヘンな気持ちを抱いたりはしないでしょうが、それでもイリヤスフィールは女性なのです。
別に将来を誓い合ったわけでもない男女がああも人前で密着するのは、あまり良くないと思うのですが――
――と、大河?
居間からひょっこり顔を出した大河が、いつもの、ある意味幼子などよりもよほど邪気のない笑顔でシロウたちに近づいてきた。
散髪したシロウの頭を撫で回しながら、イリヤスフィールと話をしている大河。
と、なにやらだんだんと大河の顔色が悪くなっていき、困ったような、追い詰められた小動物のような表情に変わっていく。対するイリヤスフィールの表情はというと、対象的に意地の悪い小悪魔めいたものに変わっていき――あ、大河がシロウの首に飛びつきました。
左右からシロウの首を引っ張り合い、彼の顔を挟んで激しく言い争っているイリヤスフィールと大河。
半分泣きそうな表情の大河と唇を尖らせているイリヤスフィール。
そして顔色を青紫にして今にも昏倒しそうなシロウ。三者三様の顔色なのですが――
――まあ、放っておいても大丈夫でしょう。いつものことですし。
そう判断し、洗濯機を回すために家の中に戻っていく。
今日の家事の当番は私ですから、洗濯をした後は部屋の掃除もしなくてはいけませんし、これでも忙しい身なのです。多少のことには目を瞑る寛容さも時には必要でしょう。
「シロウ、イリヤスフィール……と」
「ああ、寝ちまってるんだ」
シロウが唇に人差し指を当てて苦笑する。
桜から昼食の支度ができたと言われたので二人を呼びにきたのですが、当のイリヤスフィールはシロウの膝の上に頭を乗せて小さく寝息を立てていた。
「昨日の夜遅くまで髪切る練習してたらしいからさ……」
「そうですか。では仕方ありませんね」
穏やかな表情でイリヤスフィールの髪を梳くシロウ。その瞳には彼女に対して抱いている愛情がありありと見える。
「なあセイバー、今日の昼飯ってなんだ?」
「そうめんですが、それが何か?」
「ん……いや、そうめんだったら少しくらい置いといても大丈夫だなって」
「そうですか。わかりました、では桜にはそのように」
「悪い。もうちょっとこのまま寝かせておいてやりたいんだ。……気持ちよさそうに寝てるしさ」
確かに。
口元を緩めて陽だまりの中、シロウに撫でられているイリヤスフィールは、傍目にも幸せそのものの表情をして眠っている。
夢でも見ているのでしょうか。時折口元がつぶやくように動いているのですが、何を言っているのかまではわからない。
だが、そんなことがわからなくても、この寝顔だけで十分な気がした。
「シロウ、桜も待っていますから、なるべく早くお願いします」
「ん? 先に食ってていいんだぞ? 腹へってるだろ」
「まさか。食卓は家族全員で囲むものです」
言いたいことだけ言って、私は居間で待っている桜の元へ向かう。
せっかくの兄妹水入らずなのですから、あまり邪魔したいとも思いません。
だからシロウとイリヤスフィールには、しばらくあのまま穏やかなままでいてもらいたい。
さて私は……差し当たり先ほどから不満を訴え続けているこの空腹感をどうやってやりすごすか……桜にでも相談するとしましょうか。
今日も今日とて日課の瞑想。
私にとって欠かすことのできない大切な時間です。どれだけ忙しく、時間のない一日であっても瞑想の時間だけは最低でも一時間は割くことにしている。
聖杯戦争を通しても自覚したことだが、私はまだ精神的に未熟だ。
戦場において冷静さを忘れ、己の力に溺れてシロウを危機的な状況に追い込んでしまったことすらある。今は幸い、日常は平穏の中にあり命を危ぶまれるような危険も争いもありませんが、いつそのような事態が訪れるかわかったものではない。
だからいざというときに備え、己の精神修養だけは絶対に欠かさないようにしているのです。
――の、ですが。
「…………」
いかんせん、暑すぎます。日本の夏は何故こんなに暑いのでしょうか。
シロウによれば今年は例年に比べても特に暑いとのことでしたが、これでは精神を鎮めようにも鎮められない。それすらも私の未熟故と言われればその通りではありますが、暑いものは暑いのです。
外では長い雌伏の時を経て地上より現れたセミたちがひっきりになしに自分の存在を世界に知らしめようと声を張り上げている。大河によれば、彼らの中から選ばれたセミが、長じた後に忍者となって地上の征服を企むとか何とか言っていましたが……まあ、どうせデタラメでしょう。
と、そんなことはどうでも良い。セミが忍者であろうと無かろうと、問題なのはそれがシロウに累を及ぼすか否かだけなのですから。
「……ふぅ」
そんなことよりも、とにかく暑いのです。私自身、まさかこんなにも暑さに弱いとは思ってもみなかった。
……仕方がない。
悔しくはありますが、これ以上は瞑想を続けようとしても無駄でしょう。今でさえ、雑念が入ってしまって精神修養としてはまるで成っていない。
自分自身の不甲斐なさにため息をつきつつも、とりあえず居間に戻って何かを飲もう。そう思い、道場の板張りに手をつき立ち上がって――
「……む」
――その瞬間、意識が暗い闇の色に包まれて、私は自分が落ちていくのを自覚した。
「ん……」
「起きたか? セイバー」
目を覚ますとシロウが私を見下ろしていて、うちわで私を扇いでいた。
「シロウ……あの、私は」
「熱射病だよ。ああ、無理に起き上がろうとするなって、まだきついだろ」
シロウの言う通り、起き上がろうとしても頭がぐらりと揺れてそのまま倒れ込んでしまった。
「まあ、今日は暑かったし、セイバーも暑いの苦手だろ?」
「それはそうですが……しかし……申し訳ありません、シロウ」
「いいって、気にすんなよ」
シロウは私を扇ぐ手を止めず、笑いながらそう言ってくれた。
だが、シロウは私を慰めてくれるが……サーヴァントでありながら熱射病程度で倒れてしまうなど……ありえない。
不甲斐ないなどという話ではない。シロウを守らなければいけない身でありながら、この体たらくでは……
「私は……自分が情けないです」
「は?」
「これではいざというときにシロウを守ることなどできない」
「あー、いや。待てってセイバー」
「私は……私には、貴方のそばにいる資格など……」
「だーーーっ! ばか言ってんじゃねーーー!」
ばたばたと私を仰ぐ手の動きをいっそう激しくしながら、シロウが激昂する。
「たかだか熱射病で倒れたくらいでそこまで思いつめてんじゃねーよ」
「し、しかしシロウ……」
「しかしもかかしもないっ!」
いつになく怒気を発しているシロウに思わずたじろぐ。それにシロウがこんなに大きな声を出して怒ったのも、ずいぶんと久しぶりのことだし、こんなに真剣な表情をしているのも……きっと、久しぶりのことだと思う。
「だいたい、資格だの何だのといったい誰がそんなもん決めたってんだ。俺はそんなもん決めた覚えないし、そんなもん必要ない。それにセイバーは普段から少し気を使いすぎなんだ。マスターとサーヴァントの関係なんてどうでもいいから、少しくらい俺に世話かけろってんだ」
「ですが、私はあなたを――」
「それから!」
シロウに言い返そうと口を開いた私を遮ったシロウは、そのまま何故かそっぽを向いてしまった。
私に表情を見せようとしないシロウは、しばらく口の中でごにょごにょとつぶやいていたが、やがてどこか不機嫌そうな口調で、
「……俺はサーヴァントだのなんだのって、そんなもん抜きにして……セイバーがいてくれないと、困る」
そうつぶやいた。
まったくもってシロウは卑怯だと思う。
そのようなことを言われて、私がそれ以上彼に逆らうことなどできないと――自覚しているかどうかは怪しいのですが――ともあれ、シロウにそんなことを言われてしまっては私に言えることもできることも、もはや何もない。
後はただ、黙って大人しくされるがままになって、シロウの看病を受けるしかないわけで――
ですから程なくしてやってきたイリヤスフィールや桜の機嫌が悪くなっても、全てシロウの責任なのです。私にできることは、彼女たちに訳もなく責めらているのを、黙って見ていることしかないのです。
「ふぅん……なんか、ご機嫌じゃない、セイバーってば」
「なにを言うのですか。そのようなことはまったくありませんよ、凛」
ええ、あるはずがありませんとも。
私はただシロウが望む通り、彼の傍にいるだけなのですから。
「申し訳ありません、シロウ……」
壊れてしまった目覚まし時計と、苦笑しているシロウを前にして私はただただ恐縮するしかなかった。
自分で言うのもなんですが、私はあまり寝起きが良いほうではありません。更に言うと、普通の人よりも若干……そう、若干ですが、眠るのが好き、というか、口の悪い凛に言わせれば寝汚いほうです。
重ねて言いますが、若干です。ほんのわずか、注意して観察せねば気づかないほどの差でしかないのです。
ですが、それでも私の寝起きが悪いのは確かなことです。恥ずかしい話ではありますが。寝起きが悪いと言っても凛のように人が変わるというわけではなく、一度起きてもまたそのまま眠ってしまったりすることが多い。故に毎朝目覚まし時計を使って起きていたのですが……
「物の見事に大破してるわねー」
「うっ……」
その……今朝、起きたときに目覚ましを止めようとした際に、無意識に力を入れすぎてしまったようでして、長らく私の朝の供をしていてくれた目覚まし時計は、帰らぬ人となってしまったのです。享年・四ヶ月です。
「重ねて申し訳ありません……せっかく買ってもらったというのに……」
「あー、別にいいって。そのくらいたいしたことないし」
シロウはそう言ってくれるが、しかしこの心苦しさが癒えることはない。
反省です。今度から目覚まし時計は手の届くところから離して置いておきましょう。
「それはいいとして、明日からセイバーの目覚ましどうするのよ。無かったら困るでしょ?」
「む……見縊らないでいただきたい。目覚まし時計など無くても、きちんと起きて見せます」
「とか言って起きてこなかったから目覚ましを買ったんじゃないの」
肩を竦めながら、視線を細めてこちらを睨んでくる凛。……事実だけに言い返せないのが悔しい。
とはいえ、いくら壊れてしまったからといってまたすぐに新しい物を買ってもらうのも申し訳ない。シロウは既にそのつもりのようですが、お金くらいは私が出そうと思う。そもそも自分の時計なのですし。
「とりあえず新しいの買いに行こう、セイバー」
「はい……重ね重ね面目ありません……」
「まあまあ、待ちなさいって二人とも」
と、凛が私とシロウの間に入って、満面の笑みを浮かべた。
……なんでしょう。この背筋を這い上がってくるような不吉な予感は。何か、私にとって非常に良くないことの前触れのような気がする。
そしてこの嫌な予感を感じたときほど、逃れえぬものなのだと、経験上私は知っていた。今までずっとそうでしたし。
しかし凛は私の内心など露ほども知らず、また知ろうともせずに笑みを浮かべている。その、悪魔の笑みと称される笑顔を。
「どうしたんだよ遠坂?」
「ええ、実はね。うちに余ってる目覚ましがあるんだけど、良かったらあげるわよ。買うのもお金がもったいないでしょ?」
「ホントか? だったらもちろんありがたくもらいたいところだけど……いいのかよ」
「とーぜん。わたしとあんたの仲で今更遠慮することなんてないわよ。ただ……」
そして凛の瞳が細くなり、三日月の弧を描いて――
「ちょーっと、士郎にも協力してもらう必要があるんだけど、ね」
――その瞳が、私のほうを向いて楽しげに、そして邪悪に輝きを放ったのだった。
翌朝。
『セイバー、朝飯できたぞ』
「はい、すぐに起きます。シロウ、今日のおかずは……」
上半身を起こし、即座に意識が覚醒したところで……激しい自己嫌悪と共に気がついた。
『セイバー、朝飯できたぞ。セイバー、朝飯できたぞ。セイバー、朝飯できた……』
シロウの声で同じ言葉を繰り返す目覚まし時計を止めて、ふとんに足を入れたままがくりと肩を落とす。
「……凛が言い出したときは、私を馬鹿にしていると思った。このようなことで目が覚めるなどとありえるはずがないと……」
だが、現実はどうだ。
確かに朝ですし、お腹はすいています。夢を見ないサーヴァントであるはずなのに、夢でシロウのご飯を食べている夢を見ていました。
認めましょう。確かに私は食べることを楽しみにしていると。
だがしかし……しかし、よもやここまでとは。
自分でも知り得なかった自分自身に気づき、朝から微妙に落ち込んでしまいました。
おかげで、今日の朝ごはんはお茶碗二膳しかおかわりできませんでした。
イリヤスフィールが虫歯になりました。
彼女はあれで毎日三食のあとにきちんと歯を磨いていたのですが、それでもなるときはなるのが虫歯というものだそうです。大河も幼い頃はよく悩まされたものだと言っていました。
ともあれ、このまま放っておくわけにも行かず、イリヤスフィールを歯医者に連れてきて、私は現在待合室で彼女が戻ってくるのを待っています。
本来であればシロウが連れてくるはずだったのですが、彼は今日も学校があるので仕方ありませんね。
しかし……歯医者というところには初めてきましたが、いつもこのような削る音がしているのでしょうか。
この音に自分の歯を削られているのを想像すると……正直、あまり良い気分にはなりませんね。それに時折子供の泣き声も聞こえてきますし……この中ではいったいどんな治療が行われているというのでしょう。
「う〜〜〜」
と、イリヤスフィールが診察室から出てきた。
表情を歪めて、目の端にほんの少しだけ涙を浮かべてとても不機嫌そうな顔をしている。
「もう……絶対にこんなところこないんだからっ!」
「そんなことを言っても仕方ないではないですか。虫歯になってしまったのですし」
「それからイリヤちゃん、今日の治療で全部治ったわけじゃないから、これからも何度か来てもらうことになるよ」
「えーっ!? やだっ!」
苦笑しながらの先生の言葉に唇を尖らせて反論するイリヤスフィール。この様子だと素直に言うことを聞いてくれそうにないですし……次回こそはシロウに来てもらわないといけないですね。
頬を手で抑えて完全にへそ曲げているイリヤスフィールに言うことを聞かせるには、シロウに頑張ってもらうしかありません。
もちろん、それでも多大な犠牲を払うことにはなりますが、別段命に危険があるわけでもないですし。
「さて、それでは帰りましょうか。そろそろシロウも帰っている頃でしょうし」
「……シロウには責任とってもらうんだから。すっごく痛かった」
ぶつぶつと文句ばかり言っているイリヤスフィールを促してお金を払い、帰ろうとしたところで、
「ああ、待ってください。せっかくだからあなたも検診を受けていきませんか?」
「は? 私ですか?」
と、先生にそんなことを言われてしまった。
検診といえば……この、ポスターにある虫歯検診とかいうものだろう。だがそんなことをしても意味がないと思う。
「いえ、結構です。私には虫歯などありませんから」
「痛くないからと言って虫歯がないというわけではないんですよ。潜在的に隠れているやつもあります。そういうのは放っておくと後が大変ですよ」
「しかし……」
検診といっても時間はかかるでしょうし……それに自分に虫歯などあるとは思えない。
そう思ってやはり断ろうと口を開いて――
「ふぅん……もしかしてさ、怖いの? セイバー」
「馬鹿な。恐ろしいなどと、この私に限ってそのようなことあるわけないではないですか。よろしい、受けて立ちましょう」
――にやり、と笑ったイリヤスフィールのその一言に、あっさりと私は乗せられていた。
我ながらもう少し……後先を考えて行動できるようにしなくてはいけないと、そんなことを考えつつ。
そして検診が終わり――
「ただ今帰りました……」
「ああ、おかえり。遅かったなセイバー……どうしたんだ? なんかすごく機嫌悪そうだけど……」
「シロウ……私はもう二度と歯医者になど行きません」
「ふふーん。ちゃんと治るまで通わないとダメって言われたじゃない」
「くっ……!」
「なんかよくわからんが……とりあえずセイバーも虫歯があったってことか?」
ええ、その通りです。それ以外に語ることなど何もない。
はあ……これからしばらくこの痛みと付き合っていかねばならないとは……憂鬱ですね。
洗濯物の中に凛の着替えが混じっていました。
彼女は昨日まで我が家に泊まっていたのですが、今日のところは三日ぶりに自宅に帰っています。というか、もはやどちらが自宅なのか非常に微妙なところではあるのですが、忘れ物を放っておいていいとも思えません。
……というか。
普通、若い女子が異性の家に下着を忘れていくなど……あっていいものなのでしょうか。
この時代の女子は皆そうなのか、それとも凛だけなのか。もしくは、彼女がそれだけシロウに気を許しているということなのか。
まあ、間違いなく一番最後の理由なのでしょうけど――
そしてやってきた凛の家。
シロウの家も世間一般的に言って屋敷と呼べるほどに大きい物だが、凛の家はシロウの家を更に上回る。また、シロウの家が純和風の建築であるのに対して、凛の家は洋風建築です。彼女の家は元々冬木市の管理人を務める家柄ですから、このように立派な屋敷を持っていても当たりまえなのですが、何故か常に金策に苦労しているのが現状です。魔術にはとかくお金がかかるのだそうです。
呼び鈴を押してしばし待つ。
今日は平日ですし、まだ凛は学校から帰ってきていないでしょうが、この時間ならばきっと――
「……ふむ、セイバーか。君がこの家に来るとは珍しいな」
「……貴方こそ見違えましたね、アーチャー」
――予想通り玄関から現れたのは留守を任されているアーチャー。
しかし、彼が三角巾にひよこのエプロンをつけているのは全くの予想外のことでした。
「粗茶だがな」
「いや、すまない」
アーチャが出してくれた紅茶に口をつける。彼が入れる紅茶は非常に美味しく、こればかりはシロウといえどいまだ彼に及ばない。
「相変わらず見事ですね、アーチャー」
「ふん。だが君にとっては小僧の手によるもののほうが良いのだろう?」
「…………」
まったく、せっかく誉めてやったというのに何故このような憎まれ口を返してくるのだろうか。凛はアーチャーのことを素直じゃないだの性格が悪いだのとよく言っているが、その通りだと思う。シロウとは似ても似つかない性格だが、彼もまたエミヤシロウの一つの姿。
……やめよう。
シロウもアーチャーももはや別人だ。彼らは全く別々の存在なのだから、同一存在として見ようとするのは間違っている。
「しかし凛も何を考えているのだ。あれほど身の回りを正しておけと言っているのに、よりによって小僧の家に下着など忘れてくるとはな……」
まるで父親か兄のように、凛にぶつぶつと文句を言っているアーチャーになんとなく笑みを浮かべながら、紅茶を一口含んだ。
「まったく、我がマスターながら何故にああも粗忽なのだ。この家だって私がいなかったら今頃塵と埃に埋め尽くされているぞ。あれで年頃の娘だなどというのだから笑わせてくれる。嫁の貰い手など生涯現れないのではないか? どう思うセイバー」
「――ふむ。そうですね」
水を向けられて、傾けていたカップをソーサーに置く。
どうやらアーチャーは文句をつぶやくのに夢中で気づいていなかったらしい。
私も巻き込まれないよう、慎重に言葉を選んで口にする。
「とりあえず、アーチャーは少々背後が甘いと思うのですが、どう思いますか、凛?」
「……なに?」
アーチャーが振り返ったその先には、満面に笑顔を貼り付けた凛が握り拳を作って立っていた。
「――――!」
「――! ――――!!」
背後で交わされる主従の罵倒の声を右から左に聞き流しながら、出されたお茶受けのクッキーと紅茶を楽しむ。
優雅というには程遠いですが、クッキーも紅茶も美味しいですし、まあ、巻き込まれない分にはそれなりの午後の過ごし方ではないでしょうか。
「さくら、メシはまだかの」
「おじいさま、さっき食べたばかりです」
居間のテーブルの前で小さく正座してお茶を啜っているのは桜の祖父、間桐蔵硯だ。
顔中しわだらけで表情は埋没し、眼窩も黒く落ち窪んでまるで髑髏のような顔立ちだが、こうして大人しくしている姿は隠居した好々爺にしか見えない。
これでも彼はれっきとした魔術師だ。しかも五百年の時を生き、数々の魔術の秘奥をその身に修めた大魔術師だ。
が――
「さくらぁ、メシはまだかのぉ」
「だからおじいさまってば、もうさっき食べましたよ」
――聖杯戦争でいろいろあって、いまやすっかりボケてしまっている。
原因はまあいろいろとあると思うのですが……一説では柳洞寺の階段から転がり落ちたときに頭を打ったのが最大の原因だと言われています。
……それは間接的に私のせいだと言われているような気がしてならないのは気のせいでしょうか。仕方ないではないですか、私だってわざとそんなことをしたわけではないのです。飛び退ったその先に、たまたま蔵硯がいて、たまたまぶつかってしまったというだけです。
ともあれ。
マキリの魔術師である間桐蔵硯はそれ以来、すっかり好々爺と化してしまって、時折こうして我が家にも遊びに、というかご飯を食べにきたり、町内を散歩していたりと人畜無害な存在となっています。
――ああ、そういえばそれだけではありませんでした。
「シロウ〜、朝ごはん〜」
今日も今日とてばたばたと、呼び鈴も押さずに部屋に飛び込んでくるイリヤスフィール。
と、彼女と目が合う間桐蔵硯。
途端、かくんと蔵硯の顎が落ち、開いた口蓋から『カカカカ』と笑い声が漏れてくる。……笑い声、ですよね?
対してイリヤスフィールといえば、あからさまに引きつった表情で後退り、
「き、来てたのっ!?」
来てました。私が起きてきたときには既に居間でお茶を啜っていました。老人は朝が早いのでシロウよりも早かったそうです。
さて、後退っているイリヤスフィールに、笑いながら両手をふらふらさせてにじり寄る蔵硯。
「ゆすてぃ〜つぁ〜〜〜」
「だからそれはわたしのご先祖様! わたしはイリヤ! イリヤスフィールなの!」
いつも通りの押し問答だが、いつも通りに蔵硯にその言葉は届いていない。何故なら彼はボケているのですから。
そう、間桐蔵硯は、理由は良くわからないがイリヤスフィールに懸想しているらしい。というよりも、彼女に良く似たユスティーツァという女性に。どうやら遥かな過去、聖杯を生み出したときに出会ったアインツベルンの女性に、蔵硯は密かに思いを寄せていたようです。
が、もちろんユスティーツァも今は亡く、彼女と勘違いしてイリヤスフィールに想いを寄せる蔵硯の姿は、老いらくの恋と呼ぶにはあまりに特殊すぎる姿のようです。なんでもろりこんとか何とか言うそうですが、私には良くわかりません。
「ゆすてぃ〜つぁ〜〜〜」
「だっ、だからー! セイバーも見てないで助けてよっ!」
「食事中ですから」
ごはんを食べているときに立ち回りを演じるなどと行儀の悪いことができるわけありません。
それにいつも通りの展開ならそろそろ来るはずです。
「御免」
ほら来ました。
いつもの展開通りにやってきた仮面をつけたサーヴァント――もう一人のアサシン、ハサン・サッバーハだ。
「こちらに魔術師殿はいるだろうか」
「蔵硯でしたらあそこでいつものようにイリヤスフィールに迫っていますが」
「……ふむ」
確認したハサンは一つ頷いて蔵硯の元へ向かう。
そして――
「魔術師殿、そろそろ帰りましょう」
「むぅ……」
蔵硯の襟首を捕まえて肩に乗せ、一礼をして去って行く。
何故か知りませんが、蔵硯はハサンの言うことなら素直に聞くのです。柳洞寺の階段から落ちて、目を開いたときに最初に見たのがハサンの顔だったので刷り込み現象が働いたのではないかと噂されているのですが、どこまで本当かわかりません。
「ん? 爺さんもう帰っちまったのか?」
「はい。今さっきですが」
「シロウ! もう、出てくるなら早く出てきてよ! わたし、大変だったんだからー」
台所からおかずを乗せたお皿を持ってシロウが現れ、さっそくいつものようにイリヤスフィールが飛びついて文句を言っている。
シロウは腰にしがみついた彼女を適当にあしらいつつ、おかずをテーブルに並べる。
「なんだ、爺さんがうるさいからせっかくお代わり用意してやったのに……」
「安心してください、シロウ。それなら私がいただきますから」
こうしていつもより余計に朝ごはんをいただけるのもいつもの通り。
イリヤスフィールには申し訳ありませんが、役得ですね。
急報が飛び込んできたのは、放課後、授業も終わり職員室でお茶をいただいてるときのことでした。
「セイバー殿っ! 殿中でござる!」
「いったい何事ですか? 職員室では静かにしろと書いてあるではありませんか」
「それどころではござらん! 衛宮がさらわれたでござるよっ!」
「!」
――不覚。
よもやこの学び舎で、そう思い込んでいた我が身の失態。どんな言葉で取り繕おうと覆せぬ愚かさよ。
きしりと噛み締めた奥歯から小さく音が漏れる。
だがここでいくら悔やんでも事ははじまらない。今、私が成すべきは賊を打ち倒しシロウを取り戻すこと、それ以外にない。
「して、賊はいったいどこに?」
「弓道場でござる」
「……弓道場?」
確かに……嫌がる人間を強引に連れ出すのが人攫いであるならば、確かにこれも人攫いなのでしょうが……
「ったく、誰も助けてくれないんだもんな」
「まあまあ、いいじゃないか衛宮。それだけ皆があんたの射を見たがってるってことだよ」
快活に笑いながら道着に着替えたシロウの肩を叩くのは美綴綾子。シロウをさらった犯人です。
なんのことはない。以前からシロウに弓道部に戻れと言い続けて断られ続けていた綾子が、とうとう強行手段に訴えただけのことでした。
「悪いねセイバーさん、あんたの旦那ちょっと借りるよー」
「……旦那ではありませんが、別にかまいません。シロウが良いと言うならば私にも是非はありませんから」
それに私も以前からシロウが矢を放つところを一度見たいと思っていました。聖杯戦争中にその機会はあったのですが、何分戦闘中のこと故、きちんと見ることなどできるはずもありません。綾子に言わせれば矢を放つシロウの立ち居振る舞いは美しいとのことだったので、非常に興味があるのです。
「言っておくけど美綴、これでほんとに最後だからな。俺はもう弓道はすっぱりやめたんだから」
「わかってるって。最後の大会の前にあんたの射を見て焼きつけときたいだけだからさ」
そう言ってシロウは射場に立ち、半身に構える。
「……凛」
「ん? なに?」
私は隣で正座している足を気にしていた凛に話しかける。私が来たときには彼女は既にいたので、おそらくシロウが綾子に連れ去られる現場にいたのでしょう。
「私はシロウが矢を射るところをきちんと見たことが無いのですが、凛はあるのですか?」
「残念ながらあなたと同じ程度にしか見たことないわ。だからついてきてるんだけど……桜は見たことあるんでしょ?」
「はいっ。先輩の射は……すごく綺麗なんです。絵にして飾ったらそれだけで芸術品になるんじゃないかってくらい」
『わたしには芸術とか良くわかりませんけど』と、そう言って桜は舌を出して笑った。
綾子と同じ弓道部員で、彼女に続いて第二の実力を持っているという桜がそう言うのであればシロウの腕は確かなのでしょう。
「しっ! ほらあんたたち、ちょっと静かにしな」
綾子から叱責を受けて射場に目を向けると、シロウが的を見据えて身を正していた。
――的中する。
その姿を見ただけで直感した。彼が放った矢は絶対に的を外さないと。
普段のシロウが纏わぬ凛とした雰囲気は、夏の緩んだ空気を冷たく締めつけるほどで、隣にいる凛からも息を飲む気配が伝わってきた。
息が詰まるほどの空気の中、シロウが弓を構え矢を番える。視線が向く先は一点、的の中心。
そして次の瞬間、シロウはごく自然に弓を引き絞っていた。さも当たりまえかのように、まるで上流から下流に水が流れていくかのような自然さだった。一点の曇りも、淀みも無い清流の流れのような動きだった。
――勝てない。
瞬時にそう思った。
私は剣術だけでなく、騎士としての当然のたしなみとして弓術も嗜んでいる。さすがに剣ほど技に精通しているわけではなが、それでも並みの騎士より劣るものではなく、むしろ私に比肩する者のほうが少ないと自信を持って言えるほどの腕は誇っていた。
が、シロウには敵わないと思った。
私ではあれほどの境地には達することはできない。西洋の弓術と東洋の弓術との違いはあれど、根本のところではそう変わりはないだろう。
だからわかる。シロウと比べれば、私は二段も三段も劣る。
そして存分に引き絞った矢が彼の手から離れ、ひょうと燕が風を切るにも似た音を残し、次いで高い音と共に狙った的の中央に突き立った。
シロウは弓を下ろし、放った矢が突き立っている的を静かな瞳で見つめ――一滴の雫が落ちるほどの間をそうして、やがて小さく息を吐いた。
と、ようやくその場にいた皆の口から大きく息が漏れた。
「……久しぶりの射だったけど、結構なんとかなるもんだな」
「なんとかってね、あんた……あれだけのブランクのあとでこれだけのことができるって何なのさ」
「まあ、まぐれみたいなもんさ」
そもそもシロウを弓道場に誘った綾子が感嘆のため息をつく。いや、むしろあれは呆れすら含んでいるだろうか。
シロウが射る姿を見たことがある桜も胸の前で手を組んで、酒精に酔ったような表情で彼を見つめている。
しかし、その桜の気持ちもわからないでもない。私でさえ、シロウの顔から目を離すことができないのですから。
「ねえ、衛宮。あんたやっぱり弓道部に戻っておいでよ。アンタほどの男が何もせずに埋もれてるなんて惜しいじゃないか」
綾子が先ほど言った言葉の舌の根も乾かないうちにそんなことを言い出した。興奮しているのか、頬は僅かに上気している。弓道に精通してる彼女から見たら、今のシロウの射はそれほどのものだったのだろう。
「あのな。だからさっきも言っただろ? 俺の答えは変わらないよ」
「そんないけずなこと言わないでさ〜」
彼女がシロウの道着の袖を引きながらなおも強請るが、シロウは曖昧な笑顔を見せるだけでそれに頷くつもりはない。
確かに綾子の言う通りではある。幾人もの優れた射手を目にしてきた私から見ても、シロウの弓の腕は見事なものだ。ひたすらにこの道に邁進するのであれば、いずれは世界を獲ることすら不可能ではないだろう。
それだけの才能を持ちながら、何故シロウは――
「なんで弓道をやんないのよ、士郎?」
――と、そんなことを考えていたら凛が私に代わるようにその質問をぶつけていた。
凛と綾子と桜と、そして私の視線を一身に受けて、シロウは僅かにたじろぎながらも答える。
「いや、だってさ、バイトもあるしメシの支度だってしなくちゃいけないし」
「そんな、先輩。ご飯の用意だったらわたしだっているじゃないですか」
「……ま、ついでだから言っちゃうけどね。わたしもいるわよ」
「ああ……そういやそうだったね、遠坂」
「そうだったのよ、美綴さん」
何がそうなのかはよくわかりませんが、ここで名乗りを上げることができないのは少々悔しい。
だが今は、シロウのことのほうが私にって大切だ。
「シロウ。凛と桜の言う通り、食事の用意でしたら彼女たちにも可能です。それにアルバイトでしたら、僅かながらこの私もお手伝いできます。そのような些事であなたの可能性が失われるのはあまりに惜しいと思うのですが……」
「いやな、セイバー。そう言ってくれるのは嬉しいんだけどさ」
シロウはそう言って照れたように頬をかきながら、
「俺、今は一人じゃないからさ。今は家に帰れば皆がいるから、できるだけ一緒にいたいって思ってる。イリヤだってあの広い家に一人ぼっちで待ってるのは嫌だろうし、セイバーはなんか学校に来てるけど……ほんとなら今頃一人で留守番してるだろ? だからさ」
私と凛と桜とを、順番に見ながらそう言った。
ああ――なるほど。そういうことなら素直に頷ける。実にシロウらしい理由で、そう答えてくれたことに喜びすら感じる。
我ながら現金なものだと思う。
彼がとても大切であると感じていることの一端に自分の姿があるというだけで、先ほどまで思っていたことをむしろ些事と感じてしまっている自分がいる。
「これでも俺はあの家の家長だと思ってるから。今はやっぱり、できるだけあの家にいたいって思ってるんだよ……変かな?」
「いえ――そんなことはありません、シロウ。……やはり、私もシロウには家にいてほしいと思います。あの家は私と貴方の帰る場所ですから」
「…………」
シロウは私の言葉に照れたのか、明後日の方向を向いて不意に黙り込んでしまった。
「ま、そういうわけだから。綾子、士郎のことは諦めてくれるかしら」
「……もし諦めきれないって言ったらどうする?」
「そのときはわたしを敵に回すことになるだけよ。ああ、それから来期の英語の成績も諦めたほうがいいわね」
「失礼な。私は公私混同などしません」
「あんたじゃなくって、藤村先生よ」
「……否定はできません」
「それじゃ間桐はどうなのよ。あんたは弓道部でもあるわけだけど」
どこか剣呑な光を湛えて振り返る綾子に、桜はしかし、にっこりとそれは花の咲いたような笑みを返して、
「美綴先輩、わたしは弓道部の部員である前に先輩の家族ですから」
そう、きっぱりと、一分の反論の余地も許さないほどに言い切った。
それを聞いた綾子は大きくため息をつき、次いで先ほど見せた呆れを含んだ視線を士郎に向ける。
「まったくさ、衛宮ってばあんた、ちょっと見ない間にどれだけの女を引っ掛けてるのよ。揃いも揃ってあんたなんかのどこがいいんだか」
「な、なんだよそれ。俺はそんなことした覚えないぞ」
「な、なによそれ。わたしがどうしてこんなやつのこと」
シロウだけでなく凛までも慌てたように反論するが、シロウはともかくとして凛、あなたは今更です。
「ま、そういうことならしょうがないね。これ以上、執着してあんたたちに恨まれでもした日にゃ堪ったもんじゃない。衛宮のことは諦めるよ」
「それが妥当ね」
しかし、シロウに言われて私は彼にどう思われているか再確認した。
家族――かつては得られなかった、むしろ自分から捨てた言葉ですが――このように心地の良い響きの言葉だと思っていなかった。
それもシロウの口から言ってもらえるのであれば、他の誰に言われるよりも魅力的な言葉になる。きっと凛も桜も、私と同じ気持ちなのでしょう。
「さて、帰るとするか。そろそろイリヤが家でぶーぶー文句言い出す頃だろうし」
「そうですね。先輩、今日の晩御飯何にします?」
「あー、買い物でもしながらのんびり考えりゃいいさ」
「ま、そういうわけだから綾子。わたしも一緒に帰らせてもらうわ。……今度、なんか驕ったげる」
シロウから弓を受け取りながら、嬉しそうな笑顔を零している桜。凛も苦笑しながらも、その感情を隠しきれていない。
二人とも私に負けず劣らず現金ですね。
両側からシロウの腕を取って更衣室に連行していく凛と桜の背を見送りながら、綾子と顔を見合わせて笑いあう。
「ったく、衛宮のやつも愛されてるね」
「ええ。ですがきっと、本人はそのことに気づいていないのです。私でさえわかることだというのに……シロウはもう少し人の心の機微というものを知ったほうが良い」
「だね。そうでないとあんたの気持ちにだっていつまで経っても気づいてもらえないだろうし」
「……否定はしません」
ですが今はまだこのままで良いと思っているのも事実。
私はシロウの家族で、彼に大切に想ってもらえている。それだけで十分、満たされた気持ちになれる。
いずれ彼も誰か一人を選ぶかもしれないが、それはきっとまだまだ先のこと。
その時のことはその時に考えればいいのです。シロウがどんな選択をしようとも、私が彼の家族であることに変わりはないのですから。
「そこに座りなさい」
道場の真ん中で威厳を込めてそう伝えると彼らは思い思いに丸くなりました。
「……私は座りなさいと言ったはずですが」
が、今度は反応なし。毛繕いをしたり眠たそうにあくびをしたり、実にのんきなものです。
どうやらこの者たちには罪の意識というものがないようですね。せっかくシロウが作ってくれたお昼ご飯をひっくり返しておきながら良い覚悟をしています。おかげで私は今日はお昼抜きだというのに。
「いいですか、ミケ、ブチ、クロ、シロ」
四種四様の毛並みを持つ子猫たちに、もう一度最大限の威厳を以って呼びかける。
この子たちは我が家の庭で生まれました。全員が同じ母親と父親から生まれたというには信じられない毛並みの仔たちではありますが、間違いなく彼らは兄弟姉妹。ミケとクロが男子で、ブチとシロが女子です。
この子らの両親は二親とも気紛れ極まりなく、ふらりと出かけては一週間ほど帰ってこないことも珍しくない。
元々が野良ですし、それでなくても誇り高きぼす猫夫婦です。彼らは彼らなりに忙しいのでしょう。
仕方なく私がこの子らの母親代わりを務めているのですが、故に過ぎた狼藉はきちんと叱ってやらねばならない。まだ子供なのですから元気よく遊ぶのは結構。しかし、おかずを並べた食卓にその舞台を移すのはいけない。台所にお茶を取りに行っていた私は、その場を離れなければと激しく後悔した。
しつけというのは子供のうちからきちんとするものである。でなければ将来、碌な大人になりません。大河からいただいた『たまひよ』という雑誌にもそのようにありましたし。
わがまま放題育った金ぴかが今どんな大人になっているか、見れば一目瞭然というやつです。
ともあれ、私は責任のある大人として、この子らを導いてやらねばなりません。それが母代わりとしての務めですから。
「良いですか、あなたたちが遊ぶのは結構です。古来よりのこの国では子供は風の子といい、よく遊ぶことを以って尊しとしてきたことからもそれは確かです。しかし、何事も限度というのがあります。庭を力の限り駆け回るのは良いことですが、それで他の者に迷惑をかけてはいけません。特にごはんは生き物が生きていくのに必要な、とても美味しくて大切な物です。それを粗末にしてはいけません。いいですか? あなたたちも日頃シロウからごはんをいただいているはず。ならばわかるでしょう、シロウのごはんはとても美味しい。私はその美味しいごはんを失ってしまったのです。理解できますか? 私のこの悲しみと憤りが……聞いているのですか!?」
もちろん殆ど聞いていません。丸まって寝息を立てていたり、二匹が絡み合ってじゃれていたりと、一目瞭然です。
――が、ミケだけは違っていました。
彼だけはこちらを、私の目をじっと見つめ熱心に話を聞いていたのです。
「……なるほど。さすがは長兄ですね。自ら弟妹たちの規範になろうとは見上げたものです」
私が頷きながら感心すると、彼の視線もそれを追って上下する。
「あなたたちも少しはミケを見習いなさい」
遊んだり寝たりしている弟妹たちのほうに振り向くと、ミケの視線もまた追うように横に動いた。
……はて。
先ほどから妙にミケの視線が固定されています。彼の視線の向く先はどうやら私の顔のようなのですが、何故わざわざ追いかけるような真似を?
などと思っていると、ミケの目つきが徐々に鋭くなり、まだ短い尾が雄々しく逆立った。ゆっくりと、低くした姿勢を支える四肢には力がこもり、お尻を振りながら今にも飛び掛りそうなくらいに――
「――まさか」
気づいた時には既に遅し。
野性に目覚めた狩人のごとく、ミケは一直線に飛びかかってきました。
――私の髪の毛に。
「ただいまー、って! お、おいセイバー! どうしたんだ、その顔の引っかき傷!?」
「……猫に……一斉に」
あの後、兄に習って他の弟妹たちも飛びかかってきたものだから、私の頭と顔は猫たちの爪に晒されて、見るも無残なことになってしまいました。
まあ、まだ子供ですから後も残らないような掠り傷だったのが不幸中の幸いなのですが……
この髪の毛、切ったほうが良いのでしょうか……?
首を振っている扇風機の風速を『弱』にして、こちらに向けておく。
そうして台所に行き、良く冷えたお茶と、バスケットに入っているお茶菓子を一掴みお盆に取って用意する。
縁側に戻るとシロウが外に足を投げ出して、ぼんやりと座って待っている。
風が吹いて、この間買ってきたばかりの風鈴がちりんと小さく鳴いた。
日中はひたすらに強く私たちを攻め立ててくる夏の日差しも、夕方になれば少しは弱く柔らかくもなる。それでもやはり汗ばむくらいなのは変わらないけれど、昼間の厳しい暑さに慣れた身体にはこれくらいでも涼しく感じられる。
その上で髪を撫でる風の一つも吹いてくれるのであれば何も言うことはないのだが、時々風鈴を軽く揺らすくらいにしか期待できないので、仕方なく扇風機で代用することにする。本当は多少生温くても自然の風のほうがよほど気持ちがいいのだけれど――。
そんな贅沢を考えながら、軋む縁側の板張りに立ったままふと空を見上げる。
浮かんでいる橙色に染まった入道雲は、いつか夏祭りで食べたシロップをかけすぎたかき氷のようだった。
傍目にもぼんやりとしているシロウの隣に腰を降ろし、少しだけ開いた私たち二人の間にお茶菓子のお盆を置いて、もう汗をかき始めたコップを渡す。
ぽつりと、滴り落ちた雫が木目の上に小さな染みを作ってすぐに乾いて消えていく間に、お盆から一つお茶菓子を取って頬張った。江戸前屋のどら焼きはやはり美味しい。最近では江戸前屋以外のどら焼きだと微妙に物足りなく感じてしまうのだから、以前よりも舌が肥えたという凛の軽口を否定することもできなくなっている。
しかしだからといって止める気もないので、開き直って美味しくいただくことにする。美味しいものは美味しい。良いではないですか。
ちなみに私はこしあんが好みだ。
「セイバー」
「あ、はい?」
と、隣からのシロウの声に振り向く。
「どら焼き、俺も少し貰って良いか?」
「もちろん。遠慮することなどないではないですか」
私がそう言ってもシロウはありがとう、と言ってから、こしあんのどら焼きを取って頬張った。
このどら焼きは私とシロウで半分ずつお金を出して買ったものなのだから、私と彼とで半分ずつ所有権がある。だから別にシロウが食べるのに断りを入れなくてはいけない道理はないのだが、どうしてか食べ物のこととなると、私に遠慮しようとする傾向がある。
それはシロウだけでなく、誰しもに言えることなのだが、なんだか随分と失礼なことをされているような気がする。
まあ……今更良いのですけど。私自身、美味しい物を食べるのが好きなのは否定するつもりもないですし。
どら焼きを齧りながらお茶を飲み、やっぱり冷えた麦茶よりも温かい緑茶のほうがどら焼きに合う……そんなことを考えながらぼんやりと見慣れた庭の風景を眺める。
何もかかっていない洗濯の物干し竿と、冬の頃に比べてすっかり青々としている木々。一角には、何やら家庭菜園とやらに挑戦しようとしているらしいライダーが、自分のスペースを確保して看板で主張していた。曰く『許可なく立ち入る者は石になります』と。
どうでもいいことですが、何故彼女は自分の家でもないこの庭で家庭菜園などやろうとするのでしょうか。間桐の家にも立派な庭があるというのに。
まあ、本当にどうでもいいことだ。今更取り立てて騒ぐことのほどでもありません。
きちんと帰れと言っても凛が泊まっていくのも。
桜が時折妖しい笑みを浮かべているのに少しばかり怯んでしまうのも。
イリヤスフィールがシロウに甘えすぎなのも。
ライダーが少々傍若無人であるのも。
大河が年長者なのに一番幼い振る舞いをしているのも。
バーサーカーが相変わらず人を散歩に連れ出そうとするのもそうですし、言峰主従三人が人様に迷惑をかけているのも、アーチャーが時折哀れに感じるのも、メディアはいい年して少々趣味が偏りすぎているのも――。
何もかも全て、今更日常のことです。
少しばかり騒がしい、だけどただそれだけの平穏の中の一つの出来事にすぎません。
この日常がこれからどれだけ続いていくのかわかりませんし、いずれはきっとどこかで何かが変わっていくのでしょうが、私は今に満足している。腹立たしく感じるのも、喜びを感じるのも全てひっくるめた上での日常と平穏なのですから。
沈んでいく夕日の前を二羽の鳥が並んで飛んでいくのをぼんやりと眺める。
緩みきった自分を自覚しながらも、時にはこういう時間もあって良いではないかと思いつつ、手の中に残ったどら焼きの欠片を頬張った。
……ふむ。この後すぐに夕飯ですが、もう一つくらいならいいでしょうか。
自分のお腹の具合と相談し是と判断、手をお盆に伸ばして――
「――あ」
「――む」
同じようにお盆に手を伸ばしていたシロウの手と私の手がぶつかった。
軽く重なっている手を見下ろし、次いでなんとなしに二人で顔を見合わせてしまう。シロウの頬は、夕焼けの光を浴びて少しだけ赤い。きっと私の頬も同じように赤くなっているのだと思う。
――さて、それはいいとしてどうしたものでしょうか。
お盆に残っているどら焼きはこしあんとつぶあんが一つずつ。私としてはこしあんをいただきたいのですが、シロウも同じなのでしょう。そうでなければ私たちの手がこうして重なっていることもないはずですし。
「セイバー、半分こにしようか」
悩んでいる私を見かねたのか、シロウが笑いながら提案してきた。
なるほど――それならば私もシロウもお互いにこしあんのどら焼きを食べることができて不公平がない。夕飯の前ですから量的にもちょうど良いですし。
「そうですね、半分こにしましょう、シロウ」
「ああ。となると、残った一つはどうしようか」
「……では大河に差し上げることにしましょう。きっと喜んで食べてくれると思いますし」
「ん、だな。むしろ俺たちだけで全部食っちまったら、後でうるさいぜ、藤ねえは」
「なるほど。確かにその通りだ」
そう言って互いに笑い合い、半分にしたどら焼きをシロウと一緒に食べた。二人で分けたどら焼きは、何故かほんの少しだけ、いつもより美味しく感じられたような気がする。不思議なものですね。
それから私とシロウは、太陽がすっかり沈んでしまうまで並んで夕涼みをしていた。
板張りについた手が、何故か重なってままで汗ばんでいたけれど、私もシロウも気にせずそのままでいた。
おかげで気づいたことが一つある。
どうやらシロウの頬が赤かったのは、夕日のせいではなかったようです。