らいおんの小ネタ劇場

第 121 回目から第 130 回目まで


第 121 回 : 2004 年 9 月 22 日「手弁当」

 きっかけは些細な――いえ、あまり些細とは言えないような気もしますが――些細なことだったのです。
 先日の昼食の時間、由紀香がシロウに言った言葉。

『衛宮君、もし良かったらなんだけど、今度また、お弁当食べてくれませんか?』

 別に気に障ったわけではない。
 由紀香は良い人だし、彼女の作る食事もまたシロウに劣らず美味しいということは知っている。私も少し頂きましたし。
 だから彼女がシロウのために弁当を作るのは問題ではない――と、思うのです。

 ですが、彼女のその言葉を聞き、シロウが受け入れてからというもの、どうにもそのことが心に引っかかっている。いえ……はっきりと認めたほうがいい。私は、口惜しいと感じていたのです。そして何故と己に問いかけるまでもない。

 私はずっと戦いの中に己を置いて生きてきました。
 包丁の代わりに剣を持ち、エプロンの代わりに鎧を身につけて、女らしいことなど何一つ知らないままに、またそれで良しとして生きてきた。
 だが、今このような平穏の中にあっては剣は無用であるし、鎧もまた脱いで然るべき。一朝事があれば私はまたシロウの騎士として戦の中に戻れるよう、常に覚悟を持ち続けていなければなりませんが、少なくとも今はその時ではない。

 究極的に言ってしまうと。
 私はこの時代、この平穏な時にあってはシロウのために何もしてあげることができない。ただ、してもらうばかりなのだ。
 シロウにそう言っても、彼は間違いなく否定するだろう。理由はなくとも――私の存在そのものが理由であると、きっとそう言ってくれる。彼のためになにもしてやれなくても、彼のことをもっともよく知っている者の一人であると自惚れさせてほしい。
 シロウは優しい人だから、きっと――優しい言葉を与えてくれる。
 だが私はそれになにも返してあげられない。わかっていたことだが、今日改めて再認識した。
 今までは、シロウの周りにいたのが凛や桜、イリヤスフィールのような極めて近しい人たちばかりだったからそのことに思い至らなかったのかもしれない。


 誰もが寝静まった時間に、わざわざこうして台所に立っているのはその為なのです。
 眠ってしまわぬように眠気に耐え、誰も起こさぬように気配を消し、慣れない手つきで握ったおにぎりが三つ。
 無論、シロウや由紀香が作るものとは比べるのがおこがましいほどに不恰好ではある。きちんと三角形にならず、いびつな球形になってしまっているし、一つは硬すぎてもう一つは柔らかすぎる。残った最後の一つがようやくちょうどいいくらい。
 一番最初に握った試しの一つは、塩加減が悪くて少し辛かったのだが、この三つはどうだろうか。まさか食べてみるわけにも行かず、できることといえばこれで良しとするか否か、悩むだけ。

 とはいえ――どちらにしろ、これ以上はもう新しいのを握りたくても握れないのだが。
 炊飯器に残っていた今晩のごはんの残りは全て使ってしまった。朝起きてきてシロウが不審に思うかもしれないが、それは致し方ない。ともあれ、この三つがうまく言っているかどうかは、もはやシロウに食べてもらう他に確かめようがない。

「はぁ――」

 ため息を小さく吐き、首から下げていたエプロンを外す。ただそれだけなのに、急に体が軽くなったような気がしたのが驚きだった。
 だが、不安は尽きない。
 自分が作ったものが、果たしてシロウのためになるのか――喜んでもらえるのかと思うと、不安は尽きず湧いてくる。

「まったく……全部、シロウのせいです」

 目を閉じて今も太平楽に眠っている彼に悪態をつく。反対に、口元には何故か笑みが浮かんでいた。


 結局私の不安は、翌朝の食卓でシロウにかけてもらうまで解消されることはなかったのですが――そのひと言だけで心の天秤がまるで逆方向に傾くのだから――我ながら実に現金なことだと思う。




第 122 回 : 2004 年 9 月 24 日「Lunatic」

「セイバー、知っていますか? 月にはうさぎがいるのです」
「それとその格好がいったい何の関係があると言うのだ」

 唐突に家にやってきたライダーは、いつぞやの忌々しい……胸の余るうさぎの格好をしていた。私はそんな彼女に鋭く切るつけるような視線を送ったのだが、気づいているのかそれとも無視しているのか、ライダーは何事もなかったように話を続ける。

「そしてこの国、ニホンにおいては十五夜という行事があるそうです。この十五夜、夜に月を見ながらおだんごを食べる行事なのですが」
「ふむ、そのような行事があったとは、私も知りませんでした。……で、十五夜とその格好と、結局いったいどういう関係があるのです」
「――つまり、うさぎに扮して月見をしようということなのです」

 ……結局、全然わけがわかりませんが。


 などという、私の主張も聞き届けられれないまま日は暮れて、空には見事に真円を描いた月が昇る。

「今頃あの月では紅白の巫女さんとかぐや姫が弾幕の撃ち合いをしてるんだろうなぁ……」
「は? 何を言っているのですかシロウ?」
「……いや、単なる現実逃避だから気にするな」

 そう言ってシロウはお猪口に注がれたお酒をくっと飲み干した。

「なかなかいい飲みっぷりですね士郎。もう一杯どうぞ」
「む、いただきます」
「シロウ、お酒をいただくのは構いませんが、あまり度をすぎないよう」

 隣に控えたライダーにお酒を注いでもらいながら、シロウは私の言葉に小さく頷く――誰とも目を合わせないように。
 後ろで飲んでいる大河と凛とも。そして台所でおだんごの用意をしている桜とも。例外は気ぐるみを着たイリヤスフィールでしょうが、唯一まともな格好をしている私とも目を合わせようとしないのはいかがなものでしょうか。

 ――とはいっても、頭にうさぎの耳は乗せているのですけれど。これがぎりぎりの妥協点だったのです。

「それにしても月が綺麗ですね」
「あ――ああ。今日は空も良く晴れてるし、いつもより月が大きく見えるな」

 こちらを横目で伺い、すぐにまた逸らしてシロウも空を見上げた。……まったく。

「シロウ、私とて好きでこのような格好をしているのではない。シロウが気に入らないのであれば、即刻外します」
「う……別に気に入らないとかそういうわけじゃないぞ。ただなんというか、その……いろいろと事情があってだな」
「事情? ならばその事情とやらを話していただきたい」

 目を細めてシロウに詰め寄る。
 私が寄った分だけシロウは身を逸らして逃げようとするが、私の手はしっかりと彼の服の裾を掴んでいる。これ以上は逃げようがない。しかしこうして詰め寄っている間も、シロウの視線は宙を彷徨い、なかなかこちらを直視しようとはしていなかった。
 不満です。何故こうも私が避けられねばらないのか。
 些細なことではないか。ただ頭にうさぎの耳が乗っているというだけなのに。

「セイバー、待ちなさい」
「なんですかライダー、今はあなたの相手をしている暇はないのですが」

 シロウを追い詰めて問い詰めることが、私にとってはなにより重要。
 しかしライダーは、そんな私を見ても首を横に振り諭すように語り掛けてくる。

「セイバー、士郎はあなたを避けているわけではありませんよ」
「避けていない? それは本当ですか?」
「あ、ああ。ライダーの言う通りだぞ」
「士郎は単に己の欲望と戦っているだけなのですから。あなたを直視すると己に負けてしまう――それを恐れているのです」
「……それは本当ですか?」
「うわぁ、何わけわかんないことぶっこいてますかー!」

 叫び、シロウは明後日の方向を見ながら必死に身振り手振りで否定する。
 ……なるほど。ライダーの言うことは確かなようだ。シロウは致命的に嘘が下手な人ですから。これだけで彼女が事実を語っているという証になる。

「ではセイバー、私は桜を手伝ってきますから。後は何なりとお好きなように」

 月明かりの下で彼女は僅かに微笑んで、桜の元に向かっていった。
 あとに残されたのはそっぽを向いたまま顔を赤らめているシロウと、彼の傍らでとっくりを持っている私。

「シロウ、とりあえず杯を干してしまってください」
「……ああ」

 シロウは言われた通りに手にしたお猪口を傾けて、中身を一気に飲み干す。そして私は、無言で空になったシロウの杯を満たした。

「……昔から、月には人を狂わす魔力があるといいます」
「…………」
「ですから……今日、空に月が輝いている間だけは――触ろうと愛でようと、シロウ、あなたのお好きなように」
「っ! げほっ!」

 私の言葉にシロウは慌てて杯を傾け少しむせていた。
 自分でも、かなりとんでもないことを言ってしまったような気がする。

 ですが――私もこの月の魔力に酔ってしまったことですし、これは仕方ないのことと諦めるしかない。
 月は人を狂わせる。私もシロウも、この夜だけは月の輝きに身を任せて存分に狂うとしましょう。



第 123 回 : 2004 年 9 月 26 日「膝というよりはふともも」

「シロウ、失礼します。――やはり」

 隣のシロウの部屋と自分の部屋とを隔てる薄いふすまからそっと彼の部屋を覗きこんで、私はそこにあった予想通りの光景にため息をついた。
 シロウがいない。

 床に潜って灯りを消して、一度眠りに落ちてからしばらくの時間が経ったところでふと目が覚めた。
 その時にはもう隣の部屋からは気配が失われており、実際の自分の目で確認したところ、案の定部屋の主の姿はそこになかった。
 彼がどこに何をしにいったかはだいたいわかっている。凛という師匠を得て、彼女から魔術の手解きを受けるようになってからは頻度が減ったものの、依然としてあの場所で鍛錬をすることは彼にとってはひどく当たり前のことだったから。

 ――とはいえ。

 夏も終わり秋となって、夜の風は冷たくなっている。こんな中で朝を迎えては風邪をひいてもおかしくはない。
 だから私も、先ほどまで被ってまだ暖かいままの毛布を抱え、自分は上着を羽織って部屋を出た。


 薄暗く、ひんやりと肌寒い庭の土蔵。窓から差し込む月明かりに舞っている埃が浮かび上がっている中に、やはりと云うか当然と云うべきか、ともあれシロウは胡坐をかいたままの格好でうつむいて眠っていた。
 足元に転がっているのは――私がかつて握っていた選定の岩の剣――勝利すべき黄金の剣カリバーン
 シロウの魔力により紡がれた幻想は世界の修正力により存在を薄められ、もはや消え去る寸前だった。だがその黄金の輝きは、あり日しの輝きと寸分たりとも違わない。シロウの投影は、たとえ贋作であったとしても本物に劣るところなど一つたりともないように思える。

 それに正直な話――同じ使うならば、シロウが紡いでくれた剣を使いたいと――目の前で結晶が砕けるような涼やかな音ともに砕け、世界のどこかに溶けていった剣を見ながら、私はそんなことを思っていた。

「……さて」

 消えてしまった剣はいいとして、問題はシロウである。このまま放っておいて風邪をひかせるわけにもいかない。

「本当に……自分のこととなるとまるで無頓着なのですね、あなたは」

 太平楽な表情で船を漕いでいるシロウに、少しだけ恨みがましく声をかけてみる。当然、答えなど返ってくるはずもなく、ただ一つ、大きく頭を落として床に落ちそうになっただけ。他人に対する気配りの、ほんの少しだけでも自分に向けてくれればいいのに。
 そんなシロウを、私はござを敷いてある床に起こさないようゆっくりと横たえて、持ってきた毛布をかけてやる。
 起こして部屋に連れて帰ろうかとも思ったが……せっかく眠っているところを起こすのも彼に悪い。それにせっかくこのために毛布を持ってきたのだから、使わなくてはもったいないですし。

 ふむ。これで風邪の心配は一先ずなくなった。眠るシロウの表情も実に穏やかですし、後は翌朝起こしにくる桜に叱ってもらえばいつも通りです。
 だがふと――思い立ってシロウの頭の傍に膝を突いて、彼の顔をじっと見つめる。

「風邪はひかないかもしれませんが……固い床に枕も無しというのは……」

 ござが敷いてあるとはいえ、所詮はじかに寝転がるよりはまし、という程度だ。
 これは私の失敗です。毛布を持ってくるのであれば、ついでに枕も一緒に持ってくればよかったのだ。

「……仕方がない。己の不始末の責任は、己が身を以って果たさなければ」

 シロウの頭をそっと持ち上げて、その下に自分の膝を入れる。
 たまにシロウがイリヤスフィールにしていることと同じですが……私でも、彼の枕代わりにはきっとなれると思う。

「申し訳ありません、シロウ。今夜だけは、これで我慢してください」

 囁きかけながらシロウの髪に指を通して撫でてみる。シロウの髪は少し硬いが、触れているとなんとなく安心する。
 ……それに、暖かい。
 シロウが寝返りを打って膝の上で動くのが少しくすぐったくて、自然と口元が緩むのを感じながら、落ちてきたまぶたに逆らわず、そのまま瞳を閉じる。

 これでは私も桜に怒られてしまいますが……主従は一蓮托生ということで、一緒に怒られるとしましょう。



第 124 回 : 2004 年 9 月 27 日「えっちなのは――」

 シロウたちが学校に行っている間の掃除は私の役目です。この家は広いから毎日隅から隅まで、というわけにはいかないが、家事を任された者の責任として、できる限りのことはしている。
 今日などは久しぶりに本格的に掃除をしようと思い、普段は触れない棚の中やたんすの裏、押入れの中などを掃除しようと思ったのです。

 シロウの部屋は物が少ない。故に早々に一通りの掃除を終えた私は、仕上げに押入れの中の掃除に取り掛かった。
 そして――その本が出てきたのです。

「……なるほど、これが凛の言っていた本ですか」

 表紙では自分の胸を抱えた半裸の女性が作った笑みを浮かべ、裏表紙にはなにやら電話番号が並んでいる。ページを一枚捲ると、いきなり全裸で胸の豊かなの女性がふとんに横たわった姿でこちらを見つめていた。
 いつぞや凛から聞いた、男性がよく読むいかがわしい本――所謂ところのえっちな本。
 以前、彼女が『必ずある!』と主張してひっくり返した時には見つからなかったのですが、どうやらシロウはその後に手に入れたようですね。

「ふむ。……ふむ」

 このようなものを見るのは私も初めてのこと。本来、女であるこの身が読むものではないとは思いますが、興味がないといえば嘘になる。それにマスターであるシロウのことは、どんな些細なことであれ、知っておくのは悪いことではない――はず。
 適当にページを捲りながら、ざっと内容に目を通す。使用目的がはっきりしているだけあって、どのページにもほとんど例外なく全裸、もしくは半裸の女性が写っている。ある意味、内容を理解するのにこれ以上わかりやすい本もないだろう。

「……ふむ」

 最初から最後まで簡単に目を通して本を閉じ、黙考する。

 ――さて、どうするべきでしょう。

 正直なところ、私とてシロウにはあまりこういう本を持っていてほしいとは思わない。理由はどうあれ、持っていてあまり誉められたものではないだろうし、女の身としても当然良い気分はしない。それに私もいちおう女なのに――と、これはどうでもいいことではありますが。

 だが、かといってシロウとてやはり男性。となれば、こういったものが時に必要となることくらいわかっている。姿は幼い頃のままだが、私はこれでもシロウや凛などよりも長く生きている。別段このことでシロウのことを責めようなどとは、微塵も思っていない。
 思わないのだが……どうしたものでしょうか。要はシロウにこのような本が必要なければよいのですが――

「――ッ、何を馬鹿なことを考えているのか」

 思わず脳裏に浮かびかけた考えを慌てて打ち消す。一瞬でも愚かしいことを考えた自分を恥と思う。

「……そもそも、この本の女性たちとではあまりに違いすぎる」

 自分自身を見下ろして、つい口からそんな言葉が漏れてしまった。
 ……やはりシロウも、幼いよりはもっと豊かな身体つきの女性のほうがいいのでしょうか。
 と、ふと脳裏に勝ち誇った顔をしたライダーや、含み笑いを浮かべている桜の顔が思い浮かぶ。
 無論、即刻退場していただきましたが。

 さて、結局この本をどうするかですが――


「セイバー、ただいまー」
「おかえりなさい。お疲れ様でした、シロウ」

 夕方になってシロウが帰ってきた。玄関まで出迎えてかばんを受け取り、部屋まで同行する。

「……シロウ」
「ん?」

 その道すがら私はシロウの袖を引き――他に誰もいないので特に意味はないのだが――耳元に口を寄せて囁いた。

「気持ちはわかるのですが、えっちなのはあまり良くないと思うのです」

 すると予想通り、シロウの表情が一気に凍りついた。多分、私の顔も少し顔も少し赤くなっていると思う。――その理由は自分でも良くわからないが。
 そのままシロウを伴い部屋に入ると、部屋の真ん中にきちんと重ねておいた数冊のえっちな本。あれから他にも見つかったのですが――

「あの、セイバーさん?」
「はい、なんでしょうかマスター」

 ――その光景を目の当たりにしたシロウが、首を軋ませながらこちらに振り向く。

「ごめんなさい。もうしませんからどうか他の人たちには黙っててください」

 両手を合わせて平謝りに謝るシロウ。かといって私も謝られても困ってしまうのですが……。


 結局、シロウのえっちな本は即刻庭で火葬されることとなりました。
 灰となり風に舞って、土に返っていく様を見つめるシロウの目はどことなく曇っていたようですが、まあ仕方ないでしょう。

 それにどうしてもというのであれば……いや、ありえないことですね。



第 125 回 : 2004 年 9 月 30 日「同盟」

「……では、これより第一回美乳同盟対策会議を始めます」

 凛が厳かな口調で会議の開会を告げる。
 ……なんなのでしょうかこの会議名は。もしや美と微を掛けているのですか?
 というか、いつの間にそのような同盟を結んだのだろうか。私には全く身に覚えがない。……まあ、微であることを否定するわけではありませんが。

「ねーねー、リン。なんでわたしまでここにいるの?」
「僭越ながら私も自分がここに呼ばれた理由がわからない……いえ、認めたくないのですが」

 抗議の声を上げたのは私と同じように凛にここに連れてこられた二人――イリヤスフィールとセラの主従です。
 だが凛は二人の抗議に対して全く取り合うつもりはないようだ。

「ふっ……61と75が揃って何を偉そうに。そんな戯言はせめてわたしの77を超えてから言うことね」
「……これは私の身体を生み出した者の責任であり。私のせいではないのですが」
「ふんだ。わたしまだ発展途上だもの。凛みたいに終わってないもの」
「がーーーっ! へこませるわよちびっ娘!」

 無表情ながら額に青筋を立てるセラ。憎まれ口を叩くイリヤスフィールに噛み付いている凛。
 そんな三人を心を空にして、ただ眺めている私。まさかこのようなところで瞑想による精神修養の効果を発揮することになろうとは思わなかった。

 ちなみに――当然ながら、リーゼリットはここにはいない。
 この会議の主旨を考えれば彼女は不倶戴天の敵のようなものですから。

「で……凛、会議の議題はいったいなんなのですか? できるだけ早くしていただければ助かるのですが。このあとシロウと夕飯の買い物に行くのです」
「そんなのもちろん決まってるわ。……如何にして我々の敵である胸に贅肉をつけて誇っている連中を見返すか……これよ」
「素直にどうやって胸を大きくすればいいのか、って言えばいいのに。回りくどいわね」
「イリヤスフィール様。それはわかっていても言わぬが華です。トオサカ様はああしてご自分の小さい胸の如き小さな誇りを守っているのですから」
「……口チャックしないと強引に黙らせるわよ、ムッツリメイド」

 びきびきと音を立てそうな勢いで青筋を迸らせる凛。
 彼女の右腕は既に光を帯び始めていたが、私も含めてその程度を気に留めるような者はここにはいなかった。
 ……とにかく。このままではいつまで経っても話が終わりませんね。……それに、私としても話の内容に興味がいないわけではありませんし。

「凛、議題はわかりましたが、実際問題としてどうするのですか? あなたのことですから何か案があるのでしょう」
「ん、うん。牛乳は半年試しても全く効果なかったし、その……揉ませるってのも相手いないから駄目だし」
「わたし、シロウにだったらいいけどなー」
「あんたにゃまだ十年早いわよ。見た目的に条例違反なんだから」

 ひらひらと手を振り、あざ笑うかのように言う凛に、イリヤスフィールが膨れて眉を怒らせている。見た目相応の可愛らしい仕草だと思う。
 イリヤスフィールは大人の女性を自認しているようですが、あれでは到底背伸びしている少女といった具合だろう。無論、シロウにとっても。

 しかし、凛とイリヤスフィールは相性が良いのか悪いのか。
 この二人が話を始めると、すぐにこうして話が脱線してしまう。魔術師としての二人ならばともかく、そうでない時は互いに強い我が災いするのだ。

「……凛」
「っと、ゴメンゴメン」

 少しだけ力を込めて凛を睨むと、ばつが悪そうに舌を出して素直に謝る。

「ともかく、そんなわけだから次なる手段としてわたしが用意したのがこれよ」

 そう言って、苦笑を浮かべたままの彼女が私たちの前に出したのは――

「……掃除機ですか?」

 ――形状を見て思わずつぶやいてしまったが、それは普段私たちが使っている掃除機にそっくりな機械だった。
 正確に言うのであれば、掃除機の先端に二股に分かれた吸盤をつけたような感じです。

 しかし凛はわたしの問いかけに静かに首を振り、ついでに立てた指も左右に振って否定の意を表した。

「違うわ。これはわたしがなけなしの――そう、本当になけなしのお金をだして通信販売で買ったものよ」
「通信販売ですか。噂には聞いていましたがこれが……」

 昼間のテレビや深夜のテレビでも良く流れていますから、通信販売のことは知っていましたが、実際に利用して買った物を見るのは初めてのことです。なんでもいろいろとおまけがついて、尚且つ普通のお店で買うよりも非常に安く手に入れられるとの事ですが、本当なのだろうか。非常に興味深い。
 しかしそのような詮索は後でもできること。
 通信販売で買おうとお店で買おうと道具は道具。要はいかに使い、望んだ通りに役立つか否かが肝要なのです。

「それで凛、これはいったいどのように――何をしているのです、二人とも」

 いつの間にか背後に回っていたイリヤスフィールとセラの二人が、私の腕を取ってこの身を拘束している。

「ま、馬鹿らしいとは思うけど面白そうだしー」
「このようなベタな道具を売る方も買う方もどうかしているとしか思えませんが、イリヤスフィール様がそう仰るのであれば」
「……む」

 逃れようと身を捩ってはみたが、拘束から脱することができない。かといって無理にすれば二人を傷つけてしまいかねない。力の加減は難しいのです。

「二人とも。いい加減に戯れはやめて離してはいただけないでしょうか?」
「残念だけどそういうわけにはいかないのよ。――というわけで、脱げッ!」
「なっ!?」

 言うが早いか、凛の指先が揺らめいたかと思うと、いつのまにか私の着ているブラウスの前がはだけられ、おまけに下着まで外されていた。
 すなわち――脱がされた。

「ふぅん。相変わらずちっちゃいわねぇ、セイバー」
「こっ、このような辱めを……! 何のつもりですか、凛!」
「何のつもりも何も……これであんたのちっちゃいのが大きくなるか試すに決まってるじゃない」

 途端、凛が持ってきた機械が怪しげな音を立て始める。そして凛は吸盤を手にとって――まさか。

「ま、値切りまくって二束三文で手に入れたものだし、成功すれば儲けものって事で」
「くっ、おのれ……こうなれば仕方ありません。少々の怪我は覚悟していただく!」

 いかに目的のためといえど、このような辱めを受けるわけにはいかない。
 機械の手などに嬲られるなどと……冗談ではありません。

 もはやなりふり構わず、拘束から逃れようと手足に魔力を込めたその時でした。

 ――ふすまが開いて、彼が顔を出したのは。


「おーい、セイバー。もうすぐ出かけ……」


 言いかけたその表情のまま、シロウが凍りついた。
 無論、私も凍りついた。私だけでなく、凛も、イリヤスフィールも、セラも凍りついた。

 そして。

「うわぁぁぁぁっ! 遠坂がセイバーをレイプしようしているーーーっ!?」
「って、誰がそんなことするかばかたれーーーっ!」

 全員が凍りついた次の瞬間、真っ先に解凍したシロウが首をいやいやと振り乱し、叫びながら脱兎の如く逃げ出した。
 あれは、見たくない光景を見てしまった人間の、一種の逃避行動というものでしょうか……。いえ、そんなことよりも、

「……見られてしまった」

 これまでに一度も見られたことがないわけではありませんが……このような形でシロウに見られてしまうとは。

「んー、とりあえず犬にでも噛まれたと思っておけば?」
「いざとなればシロウ様に責任を取っていただけばよろしいのではないかと」

 口々に慰めているのだかなんだかよくわからないが、もちろんそんな言葉で私の心が慰められるはずもない。

「死ねっ! そして記憶を失えっ!」
「死んだら記憶まで墓に持ってくことになるじゃねーか、ばかー!」

 遠くで炸裂しているガンドの着弾音、そして士郎と凛の罵り合いを聞きながら、私は次に顔を合わせたときにシロウに言う言葉を考える。

 しかし、これがシロウで良かった。
 彼以外の殿方に肌を晒してしまったとしたら、今頃凛の代わりに私が相手の殿方の記憶を消しにかかっていたところですから。

 ……シロウならばこそ、見られたとしても……嫌悪感を抱かずに済むのですから。



第 126 回 : 2004 年 10 月 2 日「二人乗り」

「商店街までなら後ろ乗ってくか?」
「後ろとは……一号のですか」

 買い物に出ようと玄関に出たところで、同じようにアルバイトに行こうとしていたシロウと会った。
 シロウがアルバイトに行く時は歩くか、もしくは一号自転車を使うかのどちらかだ。今日はどうやら自転車に乗っていくつもりだったらしい。
 三台並んでいる自転車の、一番左を引っ張り出して彼はそう提案してきた。

 私の目的地はマウント深山商店街であり、シロウの目的地は新都である。
 真っ直ぐに新都に向かうならば、わざわざ商店街を通っていく必要もない。そう考えると、シロウの申し出を丁重に断るべきなのかもしれない。
 しかし、新都に向かう途中で商店街に寄ったところでたいした時間のロスにならないのも確かだ。商店街は殆ど新都への通り道の上にあるのだから。

 ――だったら。

「わかりました。それではよろしくお願いできますか?」
「もちろん。乗り心地は保障できないけど、な」


 と、シロウは言ったものだが、実際のところそんなに悪い乗り心地ではなかった。
 というよりも、乗り心地などはまったく気にならなかったというほうが正しいだろう。
 私も最近では時々シロウの自転車を借りて出かけることはありますが、やはりこうして誰かの後ろに乗るのとではまるで違う。

 自分以外の誰かが操る自転車に乗っているのは、いつもと違ってなんとなく不安定な心持ちになる。目の前で横向きに流れていく景色も、前だけを見ているときとは違ってひどく新鮮な感じがした。
 シロウの駆る自転車は後ろに私という余計な荷物を乗せているのにも拘らず、よろめくこともなく真っ直ぐに走っていく。こんなところで彼の逞しさを感じることになろうとは、思ってもみなかった。

 ――もっともよろめいたらよろめいたで、逆に不満を感じてしまうのでしょうけど。

 重たい荷物だと思われるのは、やはり不快なものなのです。

「あぶねっ!」
「!?」

 シロウが小さく叫んで自転車に急制動をかけた。
 ぼんやりと景色を眺めていた私は、堪える間もなくシロウの背中に顔を埋めてしまう。

「どうしたのですか、シロウ?」
「いや、猫。急に飛び出しきてきたからさ」

 シロウの背中から半分顔を出して見ると、こちらをじっと見ていた子猫が一声鳴いて立ち去っていくところだった。下手をすれば自分の命を失っていたというのに、まったく猫というのは暢気な生き物だと思う。……そんなところが魅力でもあるのだが。

「悪い、怪我なかったか」
「私は平気です。シロウも、仕方のないことなのですから気にしないでください」

 謝ってくる彼に言葉を返し――私はまだ自分がシロウの背中に顔を埋めているのに気がついた。
 シロウはそのことに気づいているのかいないのか、だが少なくとも気にした様子はない。再び自転車を走らせ、合わせて景色もまた流れ始めた。
 目まぐるしく変わる景色は、先ほどまでだったらきっとまた私を没頭させていただろう。
 しかしながら、今はそれよりも頬から伝わってくるシロウの背中のぬくもりの方にばかり意識が集中していて、目に入ってくる景色は殆ど入ったそばから抜けていってしまっていた。
 そんなものよりも、今はこの広い背中のほうが何よりも大事に思えた。
 だから腰にまわしていた腕に少しだけ力をこめて、気づかれないくらいに軽く頬をこすりつける。

「…………」

 シロウは多分気づいていない。気づいていたらきっと狼狽して何事か言ってくるだろう。
 だから私も、安心してこんなことができるのだ。

 商店街まではまだもう少し時間がかかる。けれど決して長い時間ではない。

「シロウ」
「ん? なに?」
「もう少し……いえ、なんでもありません」

 もう少しゆっくりと走りませんか――などと言おうとやっぱりやめた。

 ――いくらなんでもそれは少し虫が良すぎるような気がしますし、それにあまり贅沢をしすぎるのも良くはありませんから。

 そんなことを考えてる自分がおかしくて、私は思わず小さく笑みを浮かべていた。



第 127 回 : 2004 年 10 月 4 日「金のエンゼル 銀のエンゼル」

「あなたが落としたのは金の約束された勝利の剣エクスカリバーですか? それとも銀の約束された勝利の剣エクスカリバーですか?」

 私の前に現れた湖の妖精は、銀の聖剣と金の聖剣を携え、そう尋ねてきたのです。
 無論、私はここで悩みました。私は確か湖の妖精に、長らく借り受けていた聖剣を返しに来たのです。だというのにいざ返してみれば、落としたのはどちらの聖剣ですか、などと問われることになってしまったのですから、これは混乱しても仕方ありません。
 それに何より問題だったのは――。

「凛、何故あなたがこんなところで妖精などをしているのですか?」
「何を言っているのですか? わたしは遠坂凛などという天才美少女魔術師とは何の関係もありません。わたしはこの湖の妖精ですから」

 と、言われても俄かに信じる気にはなれませんでした。彼女の顔は見慣れた凛のものと全く変わりありませんでしたし、純白の羽衣にニーソックスを履いていたり、髪形をツインテールにしている湖の妖精などいないと断言できます。
 ですがここで反論してもきっととりあわないであろうことはわかっていたので、ため息と共に諦めて話を進めることにしたのです。

「では、あなたを湖の妖精と仮定したところで話を進めますが……いったい何の用でしょうか」
「ですから……あなたが落としたのは金の約束された勝利の剣エクスカリバーですか? それとも銀の約束された勝利の剣エクスカリバーですか?」

 ぴしり、と妖精のこめかみに青筋が浮かんだような気がしましたが、もちろん気のせいのはず。妖精は些細なことではこだわらないものですから。
 なにはともあれ、私の答えは決まっていました。我が聖剣はあのように悪趣味なものではない。

「無論。私が今投げ入れたのは普通の約束された勝利の剣エクスカリバーです。……というより、聖剣はあなたに返したのですが――」
「素晴らしい! あなたはなんて正直者なんでしょう」
「――って、聞いているのですか凛」

 正直者とかどうとか、そんなことより早く聖剣を返してもらいたかったのですが、凛によく似た妖精は全く人の話を聞こうとしないのです。
 ここまで来たらさすがの私にもこの後の展開を予測することができました。私とて金の斧、銀の斧の話は知っていましたから。

 ――しかし私はまだ甘かったのです。

「正直者のあなたには、褒美にこのバッタもんの約束された勝利の剣エクスカリパーを差し上げましょう」
「って、ちょっと待ってください。この場合、金の聖剣と銀の聖剣をいただけるはずでは?」
「何を馬鹿なことを。これはわたしのですから差し上げられません。ではまた会いましょう……」
「凛! 待て、せめて普通の聖剣を。おのれ凛、謀ったな……ッ!」


「――と、いう夢を見たのです。本当に不思議な夢でした……」
「あのね……なんであんたの夢にそんな役でわたしが出演してるのよ……」
「いや、なんか微妙にリアルなような気もするんだが――」
「士郎、死なすわよ」
「――いや、もちろん気のせいだよなぁ」

 凄まじい形相と視線を向けてくる凛から視線を外すシロウ。顔色が微妙に土気色になっているが無理もないでしょう。
 しかしシロウの言葉ではありませんが、夢を見ている間はこれが夢であるとは思いもしなかったほどに現実味の溢れる夢でした。目覚めた時は、それが夢であったことに心底から安堵を覚えたものです。

 しかし……ということは。
 もしや凛は本当に困窮しているのではないだろうか。私が昨晩見たあの夢は、親しい人の窮状を間接的に訴えていたのではないだろうか。

「……なによセイバー。その憐れみをいっぱいに湛えた目は」
「凛。困った時はお互い様です。私とて僅かなりとも蓄えはありますし、いざという時は我が家に来れば食事には困りませんから……」
「あんたら……主従揃いも揃ってよほど人を怒らせたいらしいわね……ッ!」


 その後、怒り心頭に達した凛にシロウ諸共散々に怒られました。
 まったく、勘違いとはいえ凛のことを想って言ったというのにここまで怒られるのは心外です。何もたんこぶになるほど強く殴らなくてもいいと思うのですが。非常に痛いのです。

 まあ……頬が腫れ上がって食事の直後のハムスターのようになった上に、ガンドを受けて寝込んでいるシロウよりはよほどましですが。



第 128 回 : 2004 年 10 月 7 日「進路相談」

「進路、ですか?」
「うん、進路っていうかこれから先っていうか」

 食後のお茶を啜りながら何気なく聞いてきた大河の質問に、私は梨を食べる手を止めた。

「……シロウはどうするのですか?」
「俺か? 俺はいちおうこの辺の大学に進学するつもりだよ。……それから先どうするかは、そのあと考えようと思ってる」
「そうですか。大学に……」

 私の進路――私のこれからは、シロウに依存すると言っても過言ではない。
 シロウがたとえどのような道を進むとしても、彼と共に常にあり、彼を護るのがサーヴァントとしての私の役目です。シロウがこの街で大学に進学するというのならば私の生活はきっとこれからも変わらないでしょう。

「遠坂は確か、イギリスに留学するつもりなんだよな」
「ん。そのつもりよ。わたしも士郎みたいにこっちで大学にいくのも悪くないとは思ってたんだけど……ま、決めてたことだし」

 紅茶のカップを置き、少し寂しげに微笑む凛。
 彼女が言うイギリス留学とは、ロンドンの時計塔のことだ。そこでアーチャーをお供に、魔術師としての己を磨くのだろう。つまり彼女は高校を卒業すると同時にこの街を去ることになる。
 帰ってくる場所は変わらずこの街なのだろうが、凛は一時、私たちの日常から姿を消すことになる。それはきっと、寂しいことなのだろう。

「桜は来年になったら三年かー。なんか考えてるのか?」
「いえ、まだ何も。ただ、もう一度先輩の後輩になりたいなって考えてます」
「あ、そうなんだ。……んー、でも桜ちゃん。士郎のこと追っかけるのもいいけど、ちゃんと自分やりたいこととか考えて決めるのよ。自分の進路は自分のために決めなきゃダメなんだから」
「はい、わかってます先生」

 教師としての大河の言に、桜は笑って答えた。
 大河は普段はああだが、彼女の教師としての姿勢は常に正しい。それは偏に彼女が常に教師として、生徒たちのことを思っているからなのだろう。あるいは教師としての彼女は、本当に大河にとって天分だったのかもしれない。

「あ、そういえばライダー、どうするの?」
「ん? どうするってなにを。なんかあったのかライダー」

 シロウと桜に呼ばれ、ぼんやりと猫をいじっていたライダーが顔を上げ、

「はあ……どうした、というほどではないのですが」

 答えて指にじゃれつかせていた猫を膝に抱いて小首を傾げる。

「先輩。実はライダー、モデルにスカウトされてるらしいんです」
「もっ、モデル!? って、雑誌かなんかのか」
「はいっ」

 本人よりも嬉しそうに答える桜。ライダー自身は今ひとつぴんときていない様子であまり表情も変わっていないのですが、それでもどことなく困惑しているようではあった。

「そっかー。まあ、ライダーは背も高いし、かっこいいからな」
「……そう、でしょうか? まだ受けると決めたわけではないのですが……」

 やや不躾ともいえるシロウの視線を受けながら、ライダーは自分自身を見下ろす。
 確かにライダーは同性の自分の目から見てもスタイルは良いし容姿も美しい。元より神でさえその美貌に誘われたほどの彼女なのですから、この時代の人々であっても魅かれないはずがない。
 彼女がその気になりさえすれば、おそらく世界中の人々を魅せることすら不可能ではないでしょう。もっともライダー自身はそれを望まないでしょうが。

「それでセイバーちゃんは、何かやりたいこととかあるの?」
「私は……いえ、別に……今は何も」

 大河の問いに、私はそれだけしか答えを持っていなかった。
 当然だろう。この時代の先を生きる自分など、これまであまり意識したことがなかったのだから。
 シロウも凛も桜も、そして私と同じサーヴァントであるライダーにも、これから先の自分の姿がおぼろげながら見えている。
 私は……ただ一つ、常にシロウの傍に在るということを決めているだけで、それ以外に何もなかった。
 元よりこの時代に存在するのはただ一時だったはずだから、シロウ以外に私に為すべき事は何もない。それでいいと思っていた。

 だが、本当にそれでいいのだろうか。

 なし崩しとはいえこの時代で生きるようになり、これからもこの時代で生きると決めた。
 だが、私はこの時代にシロウ以外に自分の存在意義を見出していなかった。
 無論、シロウのことは私にとって何よりも優先すべきことではあるが――それは、私が彼の荷になることと同義なのではないだろうか。それにシロウは、私が彼にのみ存在意義を持つことを良しとはしないだろう。そういう人だ。

 ならば、私はどうすればいいのだろうか。どうすべき、なのだろうか――。

「……セイバー」
「! ……シロウ?」

 頭に置かれた手のひらの感触に顔を上げると、そこにはシロウの顔があった。

「眉間に皺、寄ってるぞ?」
「……む」

 そうなのだろうか。自分ではまったく気づかなかったが……。
 思わず指でそこを揉み解すと、シロウは笑いながら私の髪の中に手を入れて、くしゃくしゃと掻き混ぜてきた。

「難しく考えるなってこと。これからいくらだって時間はあるんだからさ……俺も一緒に考えてやるから」
「!」

 見抜かれていた。――いや、シロウならば。
 彼は何故か、時として妙に鋭くなる時がある。それは大抵、誰かが困っていたり悩んでいたり、意識はせずとも助けを求めていたりする時で――例えば今の私にするように、突然懐に潜り込んでくる。

「……それで、いいのでしょうか」
「いいって。ゆっくり考えればいいじゃないか。時間はいくらだってあるんだし」
「……はい、シロウ」

 彼がそれでいいと言ってくれるならそうしよう。時間はあるのだと、甘えさせてくれるのならば甘えよう。
 撫でる手のひらは大きくて暖かい。

「ったく、ほんと士郎はセイバーには優しいわよね」
「……ええ、そうですね。私もシロウは優しいと思います」

 他愛のない憎まれ口を叩く凛に逆にそう返す。すると、何故か彼女ではなくシロウの方が言葉に詰まっていた。

 ――焦る必要はない。

 時間はある。ゆっくりと過ごしながら、ゆっくりと考えていこうと思う。……シロウと共に。



第 129 回 : 2004 年 10 月 10 日「ちゃぷちゃぷ」

「セイバー、お風呂行くの?」
「はい、そのつもりですが……イリヤスフィール、先に入りますか?」

 お風呂場の前で鉢合わせたイリヤスフィールは、私と同じく着替えを持っていた。お風呂の順番は特に決めていないから、時々こうしたことがある。
 私は別に一番最初にお風呂に入ることにこだわりはありませんし、イリヤスフィールが入りたいと言うのなら譲ってもいいと思った。

「んー、そうねぇ」

 が、イリヤスフィールは口元に指を当ててしばし黙考し、

「せっかくだから、一緒に入ろっ!」

 と、まるでシロウに向けるような邪気のない笑顔でそんなことを提案してきたのです。


 衛宮家の湯船はお世辞にも広いとはいえない。以前、凛の家のお風呂に入らせてもらったことがありますが、そちらのほうがずっと広い。
 だから他の人に比べて小柄な私とまだ幼いイリヤスフィールでも、二人が一緒に入れば身動きが取れなくなってしまう。

 イリヤスフィールは湯船に身を沈めた私の膝の上に腰を降ろし、私の胸に背を預けていた。彼女の長い髪が肌に触れて少しくすぐったい。

「それにしても……些か予想外のことでした」
「ん? なにが?」
「あなたが私と一緒にお風呂に入ろうなどと言い出したことがです」

 顔を上げてこちらを見上げてくるイリヤスフィールの小さな顔がすぐ下にあった。彼女は赤く大きな瞳を一つ二つ瞬きして、

「最初はね、シロウと一緒に入ろうと思ったの。でもダメって言われちゃったから」
「なっ! そ、そんなのダメに決まっています! まったく……何を考えているのですか。いいですか、シロウは男であなたは女なのです」
「そんなのわかってるわよ。わたし、シロウだったら別にいいんだけどなー」
「ッ!」

 くらくらしてきた。本気でこんなことを言っているのだろうか、この娘は。
 あくまで冗談だと思いたいが、イリヤスフィール・フォン・アインツベルンという少女に限って油断は禁物だ。

 これはやはり、一度きちんと釘を刺しておかなければいけないでしょう。
 いかにイリヤスフィールがシロウに好意を抱いているとしても、やはり彼女の身体にはまだ早すぎる。……いえ、そういう問題ではなく――そ、そのようなことはきちんと愛し合った者同士で行うべきではないかと……ああ、考えがまとまりません。
 ともかく、このまま放っておくわけにもいかない。私はイリヤスフィールに苦言を呈しようとして口を開いて――

「でも、それってセイバーも一緒でしょ?」

 ――などと言われて、吐き出しかけた言葉が逆流してきた。

 私が。
 シロウに?

「……いっ、イリヤスッ……んっ! けほっ、かほっ!」
「んふふっ、落ち着きなさいよセイバー。もう、冗談に決まってるじゃない」

 口元と赤い瞳を愉快げにほころばせるイリヤスフィール。私はむせて跳ね上がった肺と喉をどうにか落ち着けて、彼女を鋭く睨みつけた。

「イリヤスフィール! たとえ冗談だとしても言っていいことと悪いことがある!」
「じゃあ、本気だったらいいの?」
「そ、そういうことではありません!」
「ん、もう。セイバーってばわがままー。だったら半分本気、半分冗談。これだったらいいでしょ?」

 くすくすと笑っているイリヤスフィールにはまったく邪気がない。半分だろうと本気でいいはずがないのですが、言ったところでどうせなんだかんだといってかわされて、逆にからかわれるだけなのでやめておきましょう。
 まったく、凛といいイリヤスフィールといい、悪魔の二つ名の持ち主を相手に舌戦を試みても勝ち目がありませんね。

「……ね、セイバー」
「なんですか、イリヤスフィール」

 口元を柔らかにほころばせたまま、イリヤスフィールが私の胸に寄りかかってくる。
 彼女の身体は柔らかく、染み透るような暖かさを持っていて何故かわけもなく安堵感を覚えた。

「シロウは優しいね。タイガもリンもサクラも……ここはすっごく優しいよ」
「……ええ、そうですね。とても、とても優しい」

 イリヤスフィールが言っているここというのは、もちろんこの衛宮の家のこと。そしてこの街のこと。

「わたしね、ずっとここにいたいって思ってるよ」
「いれば良いではないですか。誰も拒みはしません。シロウはもちろん、タイガもリンもサクラも……」
「うん。そうだよね。わたしのおにいちゃんはシロウだもの。ずっとここにいても、誰も怒らないよね」
「無論です。ここにいることで貴女を責めるような輩がいるのだとすれば、そのような慮外者は我が剣にかけて撃退してみせましょう」
「……うんっ、ありがと」

 嬉しそうに笑い、イリヤスフィールが私の手を取って自分の身体に巻きつける。
 自分の腕に少し力をこめながら、私は思った。本当にそのような者がいるとすれば……きっと、その時は私だけではなくシロウもまた剣を取るでしょう。凛も、桜も大河もまた同じくして彼女を守ろうとするに違いない。

「あなたの家はここにあります、イリヤスフィール。ですから、好きなだけここにいればいのです」
「……ん」

 イリヤスフィールはこちらを見上げ、そして小さく頷いた。


「んっ? なんだ二人とも、一緒に風呂入ってたのか?」
「ええ、少し長風呂だったのでのぼせてしまいましたが」
「ふぅん。仲いいじゃないか」
「ふふん、シロウ羨ましい? セイバーの裸、すっごい綺麗だったよー」
「ッ! い、イリヤスフィールっ!」

 捕まえようとした手をするりとくぐり抜け、くるりと踊るようにこちらを振り返って笑っているイリヤスフィール。
 そんな彼女を見ると怒る気にもならない。シロウと互いに赤くなった顔を見合わせて苦笑をもらす。

「で、イリヤは今日泊まってくのか? 泊まってくならふとん敷くけど」
「うん、でも今日はセイバーと一緒に寝るから大丈夫っ」

 走り寄ってきてぶらさがるように腕に絡みつく。湯上りのぬくもりが、彼女の身体が触れているところから伝わってくる。

「そっか、じゃあイリヤのこと頼むぞセイバー。こいつ、けっこう寝相悪いから蹴られないように気をつけてな」
「むっ、シロウ、そういうこと言うのはレディに対して失礼だと思うの」
「いいではありませんか、イリヤスフィール。……ですが、私のことは蹴らないようにお願いします」
「……ふんだ、こうなったら絶対蹴ってやるんだから」

 憎まれ口を叩きながらも楽しげなのがなんとなく嬉しい。
 私とイリヤスフィールとシロウの三人で、他愛もない話しをして笑いあう。……こういうのを家族の団欒というのでしょう。

「あ、そうだ」

 と、イリヤスフィールが顔を上げて、シロウに小悪魔めいた笑みを向ける。

「ねえ、シロウ? なんだったらシロウも私たちと一緒に寝る?」
「ばっ……で、できるわけないだろそんなことっ! お、俺のことはいいからおまえらさっさと寝ちまえ!」

 言いながら慌てて逃げていくシロウ。外に出て行ったということは、これからまた土蔵で鍛錬でしょうか。
 ……頭を冷やしにいったという可能性もありますが。

「あーあ、シロウ逃げちゃった。わたしたちだったら別にいいのに、ね」
「……そうですね。それでも良かったかもしれませんね」

 つまらなそうにつぶやくイリヤスフィールに、半分冗談、半分本気で同意する。
 いつもの私だったらきっとシロウと同じように否定していたでしょうが――今はなんとなくそういうのも悪くない気持ちになっていた。

 まあ、もっともシロウは逃げてしまったのですけどね。



第 130 回 : 2004 年 10 月 12 日「おねがい(メガネ)ティーチャー」

 居間のテーブルの上にぽつんと残されたそれ。

 ――凛のものでしょうか。

 手にとって見ると、別に魔眼殺しの類ではないようなので思ったとおり凛のものであるとわかった。
 この家に出入りする人物でメガネをかけることがあるのは凛かもしくはライダー。そしてライダーのかけているメガネは魔眼殺しと呼ばれる特別製だ。このように魔力の欠片も感じられないものであるはずがない。

「忘れて帰ったのか……まったく。いつもながらにどこか抜けていますね、彼女は」

 シロウが何度も忘れ物はないか、と念を押していたというのにやはり忘れている。しかもこんなわかりやすいところに。彼女はあらゆる分野においてその才能を遺憾なく発揮する才媛ですが、最後の最後で詰めの甘いところがある。シロウに言わせるとうっかりスキルとの事ですが。
 まあ、忘れてしまったものは仕方ありません。明日にでも彼女に返し、言いたいことはその時に存分に言ってやることとしましょう。

「……そういえば」

 と、はたと思い出した。

「凛は何故メガネなどかけているのでしょうか?」

 私の記憶が間違っていなければ、メガネとは確か視力の弱い者の補助をするための道具であったはず。
 凛の視力にはメガネをかけなければいけないような問題はなく、それどころかシロウほどではないにしろ常人以上のはずだったのだが……。

「ああそういえば、確か……伊達メガネとか言いましたか」

 視力の矯正には役に立たない、ただ飾りのためだけに使うメガネがあるらしい。凛の使っているメガネはまさにそれなのだろう。
 何のために凛が必要のない伊達メガネなどを使っているかまではわかりませんが、きっと精神的な作用を己に期待しているのでしょう。

 精神的な作用……というとなんでしょうか?

「ふむ」

 このメガネにいったいどんな効果があるというのだろう。
 見る限り、何の変哲もないただの伊達メガネだ。ライダーの使っているもののように魔力的な何かが込められているわけでもないのだから当然だろう。
 となると、このメガネをかけることによる外観の変化に何か秘密があるのだろうか。

「……ふむ」

 やはりここは一つ、自分で試してみる他ありませんね。


 洗面所の洗面台の鏡の前。
 鏡の中には、メガネを持って緊張を面に湛えている私がいる。
 いえ、別に緊張する必要などないのでしょうが、なんとなく。いざかけようと思っても、周囲を気にしてしまう自分がいる。

「……では、失礼して」

 さっ、とかけてもう一度鏡の中の自分を見る。

「……どこか変わったでしょうか」

 メガネをかけた鏡の中の自分が、私の動きにあわせて小さく首を傾げた。
 確かに外見は多少変わりましたが、それで精神的に何か変わったようには自分では思えない。強いて言うならやや重たげな表情になった、と感じるくらいでしょうか。むしろ、常に顔に何か触れているということのほうがずっと気になる。
 少しずれ落ちたメガネのつるを指で押し上げながら、やはり自分にはあまり意味がないものと再認識する。

「まあ、そういうものでしょう。凛にとっては意味のあることでも私にとって同じとは限らない。特に必要性も感じませんし、やはり私には――」
「ふぅん、セイバーちゃんって結構メガネ似合うんだー」
「――って大河ッ!?」

 いつの間にか鏡の中には私の肩にあごを乗せている大河が一緒に映っていた。
 最初はまじまじと鏡の中の私を見ていたかと思えば、徐々にこちらに視線を移して猫っぽい笑みと一緒に私に向けてきた。

「な、なんですか大河! わ、私がメガネをかけてはいけないというのですか。それは私とて似合っているとは思いませんが、少し試してみるくらい良いではありませんか!」
「んー、ダメなんていってないじゃない。それにわたし、似合うと思うけどなー、セイバーちゃんのメガネ」
「む……そ、そうでしょうか」

 そう言われてはさすがにこちらも悪い気分はしない。と、言っても別に良い気分がするわけでもないのですが。

「うん、決めた」
「は……なにがですか?」

 唐突にこくこくと頷き、満足げな表情を浮かべている大河。
 そんな彼女に何か嫌な予感がして問い返すと、

「セイバーちゃん、明日学校にメガネかけてきなさい」

 私のそんな予感は見事的中してしまっていた。


「で、ではこの英訳を……」

 と、黒板から振り返った瞬間、剣の林の如く連なる挙手の群れ。
 その一種異様な雰囲気に、いかなる圧力を前にしても一歩も引かぬと自負していた自分が思わず半歩後退してしまった。

 いったいなんなんでしょうか。
 これがメガネの効果というものなのでしょうか。ただ私の外観が変わっただけだというのに、授業にかける気迫が一変してしまっている。
 しかしそれは主にシロウを含む男子生徒に限定されているのがまた不思議といえば不思議だ。逆に凛を含む女子生徒はいつもよりやや冷めた――というよりは呆れた態度で授業に臨んでいる。効果は一長一短、というものなのでしょうが……。

 どちらにしろ。

 メガネの効果はどうやら自分自身ではなく、己の周囲に対して発揮されるらしいということが良くわかりました。
 あとはその……授業に熱心になるのは良いのですが、雰囲気がやや獣じみているのは……少し容赦していただきたいと思う。

 シロウ、ちょっと怖いです。