らいおんの小ネタ劇場

第 111 回目から第 120 回目まで


第 111 回 : 2004 年 9 月 1 日「秋風」

 ――もう夏も終わる。

 シロウと共に街を散歩していて、不意にそんなことを思った。

 カレンダーも八月から九月に変わって、さんざん猛威を振るった夏の日差しにもそろそろ翳りが見え始めてきた。
 残暑はまだまだ厳しいけれど、時折吹き抜けていく冷気を含んだ風が夏が終わっていく証拠のように思える。只中にあってはあまりの猛暑に秋の到来を心待ちにした日もありましたが、こうして過ぎ去りつつある様を目の当たりにすると、寂しくも感じるのだから不思議なものだ。

「もう夏も終わりだなー」

 と、隣を歩いていたシロウが、私が考えていたこととまったく同じことを口にした。

「ええ……そうですね」

 だから思わず漏れてしまいそうになる笑みをこらえながらそう答える。
 シロウの横顔を伺うと、彼の視線は先ほどからずっと一点を見つめていた。追いかけた先にあるのは、沈みかけて緋色に染まりかけた太陽。
 確かに一時に比べて、最近は日が落ちるのも少しずつ早くなってきているような気がする。空もまた、夏の終わりを告げいてたのか――などとまるで詩人が物語る詩の一節のような言葉を思い浮かべてしまい、今度こそ苦笑を漏らしてしまった。

「ん? どしたんだ、いきなり笑い出して」
「いえ……すいません、なんでもないのです。ただ、この身には似合わぬことを考えてしまったのがおかしかっただけですから」

 私自身、語るよりもむしろ語られるほうの存在だ。それに詩人たちのような豊かな感受性も想像力も持ち合わせてはいない。故に私には言葉を飾って物語るなど無縁のことではあるが――かつて彼らも今日のような季節の移り変わる日の中で、私と同じ空を見て詩を綴ったのかと思うと時には彼らの真似事なども悪くない、などと考えてしまうのだから不思議なものだと思う。――もっとも思うだけで、実際に綴ったりはしないのだけれど。

 それにしても今日は少し肌寒い。
 空も曇っていないし、風もそんなに強くはないのだけれど、半袖のブラウス一枚では剥きだしの腕から少しずつ身体が冷やされていく。
 橋の上から一望できる川の流れが寒々しく感じてしまうのは、だからなのだろうか。水面はいつもと同じ、ただ静かに緩やかな風に細波を立て、降り注ぐ光をまぶしく返しているだけでしかないのに。
 欄干に手をかけて、川面を走っている小船を眺めているシロウはどんな風に感じているだろうか。
 私と違ってちゃんと上着を着込んできているから、いつもと同じ印象しか感じていないかもしれない。なんとなくそんな気がする。

「……っ」

 と、不意に川面が大きく揺れて、同じ風に晒された私の身体も小さく震えた。
 鳥肌が僅かに浮いた腕を抱きしめるようにして、身を縮こませる。耳元を吹き抜けていく風の音にさえ寒さを感じて、もう一度身体が震える――

「そりゃそんな恰好じゃ寒いよな」

 ――前に、苦笑交じりにそう言ったシロウがかけてくれた上着に包まれていた。

 突然のことにふと我を忘れている間に、背中からじんわりと温もりが染み込んでくる。そして不覚にも我に返ったのは、先ほどまで寒さを感じていた自分が、今はむしろ暖かいと感じていることに気づいてからだった。

「あの、これは……」
「寒いだろ? 着といたほうがいいぞ」
「いえ、ですがそれでは今度はシロウが」

 慌てて脱いで返そうとするが、その手は当のシロウに推し留められる。逆に上着の前を合わせられて、ボタンを止められてしまった。
 そうなると自身小柄であると自覚している私の身体など、彼の上着に完全に包み込まれてしまう。先ほどまでシロウ自身が羽織っていた上着にはまだ彼の体温の残滓があって、まるでシロウに包まれているようだと――考えそうになって慌てて打ち消した。

「? なんだよ、いきなり頭なんか振って」
「な、なんでもありませんから。……それより、シロウは寒くないのですか?」

 彼とて上着を脱いでしまえば残ったのはシャツが一枚だけ。白い無地のそれだけでは、先ほどまでの私と状況はまるで同じで、寒くないはずがない。
 だというのにシロウは、

「ああ、平気平気。俺、寒いのは苦手じゃないし」

 などと笑って否定する。
 それがあからさまな痩せ我慢なのは、彼の腕に浮いた鳥肌を見れば一目瞭然だった。川の水面はますますざわめき、耳元で踊る風は足早に、しかし騒々しく音を立てて走っている。だから、寒くないはずなどない。

 だが、私は寒くない。何故ならシロウがかけてくれた上着は暖かい……これさえあればどんな寒さにも耐えられるのではないかと思うほどに。

 寒いはずのシロウは、そう感じている素振りなど一つも見せず、身体を大きく伸ばしてから笑いかけてくる。

「さて、それじゃそろそろ帰るか? 日が落ちるまでに戻らないと夕飯が遅くなっちまうし……そしたらセイバーの機嫌が悪くなるしな」
「最後のひとことには異議を申し立てたいところですが……そうですね。帰りましょう、シロウ」

 冗談交じりの言葉に頷いて返して――羽織っただけの上着にきちんと袖を通してから、私はシロウの腕を取った。

「……セイバー?」
「こうすれば……少しくらいは暖かくなれるはずですから」
「ん……ま、そうだな」

 シロウの腕に自分を絡ませ、影が伸びる夕焼けの中を並んで歩く。
 吹き抜けていく風は夏の気配を次第に押し流して去って行き、やってくる風が少しずつ秋の気配を運んでくる。
 夏の出口と秋の入り口のちょうど真ん中、どちらでもない時間の中を、私とシロウは共に歩いていた。




第 112 回 : 2004 年 9 月 4 日「秋風邪」

 まず喉に痛みを感じた。
 次いで咳が出はじめ、頭痛がしてくる頃には自分でも信じられないことではあるが、食欲が失せた。そこで異変を察した――きっかけが食欲のせいだというのが甚だ不本意ではありますが――シロウが熱を測って、風邪をひいているとわかったのです。

 私は生まれてからこの方、風邪をひいたことなどありません。アルトリアであったときも王であったときも、そしてもちろんサーヴァントのセイバーとなってからもです。だから風邪という病気のことを知ってはいても、それがどういうものなのかいまいち私にはわからなかったのですが……

「ッ! けほ……っ、けほっ」

 しゃくりあげるようにして喉の奥から込み上げるいがらい塊を吐き出す。そのたびに胸が破れるような痛みを伴って跳ね上がり、呼吸が詰まって細くなる。頭はぼんやりと霞がかってはっきりとせず、そのくせ打ち付けるような痛みだけは正確に伝えてくるのが忌々しい。
 小一時間ほども前にシロウが置いてくれた額の濡れタオルはすっかり温くなってしまっている。いや……こうしてふとんで横になってからどのくらい時間が経ったのかすらよくわからないのだから、ひょっとしたら二時間も三時間もこのままなのかもしれない。

 おかしいのは時間の感覚だけはなく、自身の身体の自由もそうだ。
 張りついているだけで役に立たないタオルなどただ気持ち悪いだけなのだから、本当は取り替えてしまいたい。なのにふとんの中から手を出すのも億劫で、ましてや台所まで立ってタオルを冷やすなどできるはずもない。寝返り一つうつだけで、熱で痛む身体の節々が悲鳴をあげているくらいなのだから。

「はっ……ふぅ……」

 胸に淀んだ熱を追い出して仰向けになり、歪んだ天井を見つめる。
 風邪などたいした病ではないと、正直なところそう思っていた。シロウに風邪だと告げられた時も、そんなものかと思い、直ぐ治るものと高をくくっていた。
 ああ……なるほど。その油断が今の自分の醜態を招いているのですね。――なんて、愚かな。

 あまりの自分の情けなさに、なんだか泣きたくなってくる。だが、元より歪んでいる視界がぼんやりと霞んできているから、もしかしたら自分はもう泣いているのかもしれない。なんて――心の在り様までもがひどく不安定で、それがまた情けない。

「セイバー、調子はどうだ?」

 私が自己嫌悪に溺れていると、すっ、と襖が開いて何かを持った人影が部屋に入ってきた。

「シロウ……ですか?」
「ああ。とりあえずタオル換えるぞ」
「どうして……学校は……?」
「休んだ。おまえのこと、放っておけるわけないだろ」

 言いながらシロウは、額に張りついているタオルと持ってきたタオルを交換する。新しくなった濡れタオルの冷たさのおかげで、ぼんやりとしていた頭が少しだけ覚めてくれて、多少はましに働くようになってくれた。
 すると、本来学校に行っていなければいけないはずのシロウが、私などのために休んでくれているのだということが、今更ながらに理解できた。

「……申し訳ありません、シロウ……あの、今からでもいいから学校に……」
「却下。もう一回言うけどおまえのこと放っておけない。それにこんな時間からじゃ、どうせ行って帰ってくるくらいで終わっちまう、だから却下する。……セイバー、悪いけどちょっと失礼するぞ。文句なら後で言ってくれて構わないから」

 淡々と当たり前のことのように話すシロウ。私の話など聞く耳持たないと言わんばかりに、私の懐に体温計を差し込んでくる。胸元に触れる彼の手のひらの感触に少しだけ焦りを覚えたが、彼の真剣な目を見た途端にそんなものは雲散霧消した。
 しばしの沈黙の後、体温計が胸元で小さく鳴って、今度はシロウの手を煩わせる前に自分で取った。たったそれだけのことがひどくしんどかったが、いくら相手がシロウとはいえ、そう何度も胸元に手を入れられるのはさすがに少し困ってしまう。

「……どう、でしょうか」
「んー、少しは下がってるかと思ったけど全然だな。夏も終わりだってのに今更夏風邪か?」
「そうですか……すいません、シロウには迷惑ばかりかけてしまう」

 少しでも良くなっているならシロウの負担も多少減るものと思っていた。だというのに、熱はまるで下がっていないという。それで自分自身に裏切られた気持ちになったのか、内心の思いが無意識に口から出てしまっていた。
 だがシロウは、無意識なだけに本心であった私の言葉を、はっきりと首を横に振ることで否定した。

「あのさ、セイバーがそうやって自己嫌悪する気持ちはわかるけど、俺はちっとも迷惑だなんて思ってないぞ」
「ですが、学校が……」
「学校なんかよりセイバーのほうがよっぽど大事だ」
「…………」

 そんなことをこうもはっきりと言われてしまえば、風邪をひいていても羞恥で顔が熱くなってしまう。
 だがもちろん、シロウがそんなことに気づくわけもない。

「それに前の借りを返すのにちょうどいい機会だからな」
「……借り?」

 なんだろうか。
 シロウは私に借りがあると言うがこちらにはまるで心当たりがない。むしろ私のほうがいつもシロウには世話になっているというのに、そんなものがあると思うほうがおかしい。

「そんなもの、ないはずですが……」

 首を捻っていると、シロウは少しだけ苦笑ながら問いには答えず、私の背中に手を入れてふとんから抱き起こした。

「おかゆ作ったから食べよう。食欲もあまりないかもしれないけどさ、少しは食っておかないと治りも悪いから」
「は、はい……」

 答えるとシロウは持っていたレンゲでおかゆを掬って私の前に差し出してきた。
 ――が、私がそれを受け取ろうとすると手を引いて素早くかわしたのだ。

 更にもう一度手を伸ばしても、やはりシロウは私の手をかわして食べさせてくれようとせず、それどころか何やら意地悪く笑っている。

「……? あの、シロウ? おかゆをいただきたいのですが……」

 堪らなくなって問うと、シロウは首を振っておかしげに笑いながら、

「いや、セイバー。ここは俺が食べさせてやるから……ほら、あーんってやってくれ」

 などと、そんなことを言ったのでした。

 ……はい、これで思い出しました。
 しかしシロウ、これは借りを返すというよりは意趣返しといったほうが正確なのではないでしょうか。
 するほうからされるほうの立場になって初めて、あの時にシロウが感じていた羞恥を知った今、そう思えてならない。

 だがしかし、そう思ってみてもシロウには退くつもりなどさらさら無いようで、差し出した手とレンゲを微動だにせずに、私が口を開くのを待っている。
 ……こうなればもはや、私も覚悟を決めるしかない。抵抗する気力などもありませんし。


 そうして結局、鍋の中身が全て空になるまでシロウの手ずからおかゆを食べさせてもらい、その後は私が眠ってから目覚めるまで……シロウはずっと傍にいてくれたようだ。目覚めたときに、傍らで舟をこいでいる彼がいたのだから、おそらくそうなのだろうと思う。
 その時には風邪もだいぶ良くなっていた私は、眠っているシロウの髪を弄ぶように梳きながら、

「このお返しはまたいずれさせていただきますから……覚悟をしておいてくださいね、シロウ」

 そうつぶやいて、何やら僅かに表情をしかめている彼の寝顔に思わず笑みを零していた。



第 113 回 : 2004 年 9 月 5 日「遠坂さんの小ネタ劇場」

「あの、遠坂さん」
「あら三枝さん、何か御用でしょうか?」

 自分でも完璧と思える余所行き用の笑顔を話しかけてきた彼女に返す。胸の前で手を組んで、僅かばかり伺うような表情をしていた彼女は、それでまた何故か少しだけうろたえたようだ。
 彼女――三枝由紀香さんは普段からわたしに対してどこか遠慮がちな態度を取っている。かといって、別に彼女はわたしのことを嫌っているというわけでもないらしい。時折彼女のほうから感じる視線や、やはり遠慮がちながらも昼食に誘おうとしてくるのがそのよい証拠だ。

 さて、そんな彼女がわたしに用事があるという。
 まあもっとも、昼食の時間も当に終わり今は放課後なのだし――彼女がいったい何を聞こうとしているかなど、だいたい予想がついている。こちらには心当たりなど、とりあえず今日のところはたった一つくらいしかないのだから。

「えっと、セイバーさんの風邪ってひどいんですか? 藤村先生は生死を彷徨ってるって言ってたんですけど……」

 ほらきた、予想通り。
 英語の時間、普段ならセイバーに全部任せて授業をサボっている藤村先生が……まあ、事実をかなり大げさに伝えてしまったわけだ。
 かといって、もちろんその言葉を素直に信じる人間など殆どいるはずもなかったわけだが、そこは人が良すぎるほどに誰かを疑うって事を知らない三枝さんのこと、さすがに全部信じたわけではないにしろ、かなり心配になったらしい。こちらを見つめてくる彼女の形のよい眉は八の字になって、視線はひどく真摯な光を宿している。

「大丈夫ですよ三枝さん、人間、風邪なんかじゃ簡単に死んだりしませんから。それにちょっと熱は高いですけど、寝ていればきっとすぐ良くなります」
「そうなんですか? それなら安心です……うん、良かったぁ」
「ええ。だから心配しないでも大丈夫。それに彼女、あれで意外と丈夫ですから」

 なんせセイバーは人間ではなく、サーヴァントだ。万が一にも風邪などで死ぬわけがない。――まあ、それを言ったらサーヴァントである彼女が風邪をひくということ自体ありえないのだけれど……とりあえずそれはへっぽこ魔術師のサーヴァントだから、という理由で自分を無理やり納得させることにした。

 そう、あのへっぽこ。あいつが全て悪い。あいつがもうちょっとましな魔術師だったら、きっとセイバーだって風邪なんてひかなかったのだ。
 現にわたしのアーチャーや、言峰のギルガメッシュ、ランサーなんかは……まあ、あいつらの場合は馬鹿はなんとやらが適用されるのかもしれないから除外するとしても、イリヤのバーサーカーや桜のライダーが風邪をひいたなんて話は聞いたことがない。キャスターやアサシンコンビにしたって同じだ。

 ――キャスターはよりにもよって妊娠しちゃってるけどこの際置いておこう。

 ともかく士郎が悪い。事がサーヴァントのせいでないのだとしたら、これはもうマスターのせいと考えるほうが自然だ。
 だから士郎が悪い。もっとちゃんとわたしの講義を真面目に受けていたらこんなことにもならなかったかもしれないのに……こうなったらもう、今日明日からでも少々厳しくしてやろう。うん、決めた。

「ふむ、蒔の字よ。遠坂嬢のあの少々歪んだ笑みはいったい何を示しているのかわかるかね?」
「ああ、ありゃ危険な兆候だなー。きっとろくでもないことを思いついたに違いない。見ろよあの邪悪を隠そうともしない笑顔。悪魔の微笑ってーのか? まったく、あれに四六時中付き合わなけりゃならない衛宮も苦労するよなぁ」
「って、何でそこで衛宮君の名前が出てくるのですか、蒔寺さん?」

 いつの間にかそこに立っていた蒔寺に視線を向けると、それを受けた奴は隣にいた氷室さんの背中に逃げるように隠れてくれやがった。おおこわ、ってなんだその失礼なセリフは。

「だってよー、今日おまえ朝から妙に不機嫌だし、さっきはさっきでアレじゃん。それってやっぱり衛宮がいないせいだろ?」
「別にわたしは不機嫌になどなっていませんし、そもそも衛宮君は無関係です」

 もちろん嘘だが。
 わたしが不機嫌だったかどうかはともかく、さっきは確かに士郎のことを考えていた。それが思わず顔に出てしまったのも士郎のせいだろう。

「で、遠坂嬢。今日、衛宮はどうしたのかね? 彼もセイバー嬢と同じく休んでいるわけだが」
「あっ、そうだ衛宮君。もしかして衛宮君も風邪ひいちゃってるのかな……大丈夫かな。お見舞い行かなくちゃ」

 言いながら三枝さんが「良いですか?」とばかりに視線でお伺いを立ててくる。

「ああ、そのことでしたら大丈夫ですよ。衛宮君は別に風邪なんてひいてませんから……もっとも明日になったら風邪ひいてるかもしれませんけど」
「え? それってどういう……」
「ふむなるほど、そういうわけか。それならば確かに衛宮らしい」
「はい、そういうわけです」

 さすがに氷室さんは察しが良い。あれだけの言葉で事情を悟り、納得したように頷いている。
 対する三枝さんはまだ事情が良く飲み込めてないようで、きょとんとした表情でわたしと氷室さんの顔を交互に見ている。
 仕方ないなぁ――わたしは彼女の微笑ましい仕草に思わず笑みを零してしまいながら説明してあげることにする。

「あのですね、三枝さん。衛宮君が今日休んでるのは、家で寝込んでいるセイバーの面倒を見てるからなんです。彼のことだから今日一日はずっと彼女の看病をしてるでしょうし……だから、ミイラ取りがミイラになってないか、それだけが少し心配なんです」
「あ……そうなんですか。だったら安心です。衛宮君まで風邪ひいてないで良かった……」
「ええ。ですからもし明日、本当に彼が風邪をひいてしまったら、その時はお見舞いに来てくださいね。――ああ、そうそう」

 と、今度は傍らにいる蒔寺に視線を移して、

「蒔寺さんは結構ですから。病人がいるところに騒がしい方を連れて行くのはよろしくないですし」
「あー、なんだよそれー。横暴だおーぼー、まったく衛宮のことを独り占めしたいならしたいってはっきり言えばいいのによ」

 ……なんか聞き捨てならないことを言われた。

「……蒔寺さん?」
「お、おう」
「あなたがわたしのことをどう見ているのか、一度じっくりと話し合いたいものですね……もちろん二人だけで。ええ、以前から蒔寺さんのその無意識に事実を改竄する悪癖に悩まされてきましたから、もしかしたら話し合ってるうちにわたし、我を忘れてしまうかも」

 そしてわたしは自分でも見事だと自賛できるほどに完璧な笑顔を彼女に向ける。

「その時は申し訳ないんですけど……諦めてくださいね?」

 ただし――目は笑わずに。これポイント。

 案の定、蒔寺はもはや怖いとか何とかそんな失礼な言葉すらも失って、氷室さんの背中に完全に隠れてしまった。

「すまないが蒔の字。あの遠坂嬢が相手では、私など盾にすらならんと思うのだが」
「だ、だってよー。あ、あいつの目、見たか? 完全に死ナス目だったぞ!」

 ふっ、この程度で臆するなど、蒔寺楓恐るるに足らず。士郎ならまだ隠れずに頑張っているところだ。
 ……膝は笑っているかもしれないが。

 それにしてもやはり士郎だ。
 ここのところわたしの平穏だった学園生活は、あいつのおかげでどうにも調子が狂いっぱなしだ。どんな時にも余裕を持って優雅たれ、というのが遠坂の家訓だというのに、最近は守れなくなりつつある。
 ここは一つやはり、あいつを遠坂の魔術師の隣に立つにふさわしい魔術師として、きちんと教育してやらなければならないだろう。それもまた、士郎の師匠であるわたしの役目だ。――うん。あいつが今よりもっとましな男になるっていうならば、それも悪くはない。

 やるならば徹底的に容赦なく。
 士郎に苦労してもらうことになると思うが、諦めという文字と共に覚悟を決めてもらうことにしよう。
 それもこのわたし、遠坂凛を師匠に持った弟子のつとめというものだ。

「蒔寺よ。なにやらまた遠坂嬢が微笑を浮かべているのだが、あれは何を企んでいるのわかるかね?」
「それをあたしに言わせるか……これ以上遠坂の逆鱗に触れたら今度こそ灰も残らず消されちまうよ」

 まあ……一先ずは背後で囁かれている姦しい声を消すのが先決なのだけど。


 余談。

 翌日士郎は学校を休む羽目となった。前日に話していた事が現実となってしまったわけだ。
 三枝さんはしきりに見舞いに行きたがっていたが――わたしはそれを止めざるを得なかった。看病なら風邪が完治したセイバーがしていたし、それに……休んだのは風邪ひいたせいじゃないのだし。

 士郎に成長してもらいたかったからやった。鍛錬のためなら手段を選ばなかった。今は少し張り切りすぎたと反省している。



第 114 回 : 2004 年 9 月 7 日「激辛」

「中華料理が食べたい」

 発端はイリヤスフィールのこのひとことでした。いえ、それだけならまだ問題はなかったのですが……
 それならばと凛が支度に取り掛かろうとしたところで、問題となるひとことを同じくイリヤスフィールが口にしたのです。

「リンの中華はもう飽きたー!」

 そしてそのあとの展開がどうなったかはもはや語るまでもなく、シロウを間に挟んだ紆余曲折の果てに私たちはこの店の前にやってきていたのでした。


 『紅州宴歳館 泰山』


 独特の雰囲気と個性的な店が並ぶこのマウント深山商店街にあってなお、一際異彩を払う中華料理店。
 シロウ、凛、桜、そして事の発端であるイリヤスフィール――この場にいる誰しもが緊張の面持ちで、余りにも有名すぎる店の看板を見上げていた。

 ここで勘違いがないよう明言しておくが、その異彩は店の姿形にあるわけではありません。時間季節問わず閉め切った窓は、確かに異様といえば異様なのかもしれないが、そんなものはたいしたことではないのです。
 問題は店先から放たれる、威風地を払わんばかりのオーラのごとき雰囲気とでも言いましょうか。僅かなりとも気を察することができるならば、これほどまでに静かに、しかし重たく立ち込める空気を読み取れないはずはない。これならば常人ですら、背筋に片鱗を感じ取るくらいはできるでしょう。

「なあ遠坂……本当にここにするのか……?」
「もちろんよ。この商店街で中華料理といえば魃さん。魃さんといえば激辛よ。この店を選ばずしてなんとする、選らばずんば中華に対する無礼というもの。……イリヤには一度ここで中華料理の本当の恐怖を知ってもらわなくちゃいけないわ」
「え、えっと、わたし恐怖とか激辛は遠慮したいんだけど……ていうか、中華と何の関係があるの、それ?」
「しゃらっぷ! 黙れイリヤ、もはや問答無用――語るならば死に花咲かせたその後にするのね」
「そ、それなら姉さん、わたしとか先輩は無関係なわけですし、イリヤちゃんと二人でまったりしっぽりごゆっくり……」
「一蓮托生って言葉知ってるかしら桜? あと別にまったりもしっぽりもご休憩もしないわよ」

 どうやらイリヤの言葉が凛の意地に火をつけてしまったようです。完全に目が据わっていますし、こうなればもはやテコでも動かないでしょう。質のいい宝石辺りならば彼女の心を動かすこともできるかもしれませんが、生憎我々にそれだけの財力はありませんし。
 こうなれば彼女の直弟子であるシロウに逆らう余地はありません。私はシロウのサーヴァントであるから当然、彼の傍から離れるわけにはいきませんし、となれば桜が一人だけ逃れようとするわけにはいかないのもまた道理でしょう。

 ――しかし、私には気になることがあるのです。

「シロウ、ちょっとよろしいでしょうか」
「ああ……聞きたいことがあるなら語れる口があるうちに早くしたほうがいいぞ」

 もはや諦めていることを如実に示す、死んだ魚の目をしているシロウ。

「先ほどから見ていると、シロウたちの表情からは絶望の色しか見受けられないのですが……この店の料理はそんなに……その、雑なのでしょうか?」

 恐る恐るそのことを聞いてみる。
 私はこの店に入ったことがありませんから、当然この店で出される中華料理がどんなものか知る由もない。料理には人一倍こだわりを持っているシロウたちが食事する店として選ぶのですから、問題はないものと安心していたのですが……聞いていればどうも様子がおかしい。
 故に、私の心に俄かに不安の雲が立ち込めてきたのです。
 もし……万が一、祖国の料理を髣髴とさせるような料理が出てきたならば私はどうすればいいのでしょうか。そうなれば正直なところ……正気を保っていられる自信がない。いかなシロウといえど、大事な食事の時間を台無しにすることの罪のから逃れられるわけではありませんから。

 シロウは私の問いに複雑な表情をすると、しかしゆっくりと首を横に振った。

「……別に不味いってわけじゃない。むしろ上手い・・・と言っていいだろう……ある意味では遠坂以上に」
「……? ではいったいなにが問題なのですか?」
「セイバーも食べてみればわかる。いや、見ればわかるといったほうが良いか」

 そう言ってシロウは、意味ありげな言葉と笑みを漏らしながら私の腕を掴み、彼にしてはやや強引に店の中に連れ込んだのでした。


 店内は和風とも洋風ともつかぬ、言うなれば中華風といった装いで、普段は純和風に慣れている私にとっては新鮮に感じられる。しかし私以外の、特にシロウ、凛、桜の三人は、見た目にもはっきりとわかるほどに身を強張らせながら、大き目のテーブルに腰を落ち着けた。

「いらっしゃいませアルー」
「あれ、魃さん?」

 厨房の奥からお盆にお冷を乗せて出てきた小柄な人物を見ると、凛が少しだけ目を見開いて驚いてみせた。

「どうしたんですか? いつもは厨房から出てこないのに」
「あいやー、今日はアルバイトのウェイトレスさん、みんな体調崩してお休みアル。仕方ないからワタシ一人で注文やらレジやらコックさんやら馬車馬アルね。とっても大変アル」

 そう言って魃さん、と呼ばれた少女は小さく眉根を寄せてこくり、と小首を傾げた。
 どうやら彼女がこの店のメインシェフのようですが――それにしては随分と幼げに見える。背丈はイリヤスフィールほどにしかないですし、顔の造りも頭の上に二つ団子状に結い上げた髪が重たげに見えるほどに小ぶりで、口元から僅かに覗く八重歯が彼女の幼さを強調している。

 ……しかしながら、彼女が見た目通りの年齢でないのは明白です。

 何故ならその……以前、キャスターの部屋で見たチャイナ服とかいう、足の辺りが涼しそうな服に包まれた彼女の身体は……背丈と容貌の幼さに相反して不釣合いなほどに豊満であるからです。服の裾から伸びて晒されている白い足も、妙に艶かしく感じる。
 胸元など言わずもがなで、私や凛の及ぶところではない。ひょっとしたら桜にも匹敵するのではないでしょうか。
 いえ、だからといって別に悔しくわけではないのです。……ところでシロウ、そのように谷間を注視するのは私、些かどうかと思うのですが。

 とりあえず足の甲を強く踏んでおきました。おかげでシロウも態度を改めたようです。

 もっとも魃さんのほうはシロウの不躾な視線には気づいていなかったようで、お冷を全員分配り終えると、

「それでお客さん、ご注文はどうするアルか?」

 笑顔で伝票を捲ってそう聞いてきた。

 途端――シロウ、凛、桜の間に不可視の緊張感が漲りその場を支配する。そして三人は互いに互いを見やると、目と目で会話をし始めた。
 私とイリヤスフィールには生憎彼らが何を言っているのかわからない。だがひどく真剣で重大な会話であることは、三人の額に浮き、こめかみの辺りを流れていく汗の珠が語るでもなく語っていた。

 ――いったい何を?

 語っていることを知ることができない、それがひどくもどかしい。しかし三人の間は、知る者にしか持つことができぬ連帯感のようなもので結ばれていて、所詮知らぬ身であるこの私では間に入っていくことはできない。

「くっ……!」
「むー……なんかわたし仲間はずれー」

 思わず食い締めた歯の間から声が漏れてしまい、慌てて唇を引き結ぶ羽目になった。隣にいるイリヤスフィールは頬を膨らませ、感じている不満を隠さずに漏らしている。
 しかし……ここは仕方ないと諦めるしかないでしょう。それよりも注文を決めなくては。

 三人が互いに頷き合っているのを視界の端に捉えながらメニューをざっと眺める。ここはやはりチャーハンでしょうか。チャーハンは中華の基本だとシロウも言っていたような気がしますし。

「注文、お決まりアルかー?」
「はい、私はチャーハンを」
「わたし、かに玉ー」
「「「杏仁豆腐三つ」」」
「……は?」

 声を揃えて昼食にデザートを注文した三人は、しかし至極真剣な表情をしていた。まさに『必死』という言葉がしっくりくる表情だ。

「あの……シロウ? 本当にそれで良いのですか?」
「ああ、俺たちは杏仁豆腐が食いたいんだ」
「というかむしろ、それ以外は今は食べたくないわ」
「二人ともわたしたちに遠慮しないでいいから、激……けふけふ、お腹いっぱい食べてくださいね」

 怪しい。策の気配がします……これはきっと、何かを企んでいる。

「シ」
「ご注文繰り返すアル――」

 私はそれを追求しようと口を開いた――が、言葉を発しようとするのを遮るように、魃さんが先にメニューを読み上げる。

「――麻婆豆腐五つ」
『なに?』

 奇しくも私たちの声が揃い、振り向いた時には既に魃さんの姿はそこになかった。
 よもやサーヴァントであるこの私が姿を見失うとは、ましてや動く気配すら感じられなかった。……いったい何者?

 しかし麻婆豆腐ですか……半ば以上強引に決められてしまったが、まあいいでしょう。美味しいのであれば私には文句はありませんし。
 ですがこの三人は――

「……終わった」

 ――テーブルに突っ伏してただそれだけをつぶやく凛。
 シロウと桜は声すらあげられない様子で完全に脱力している。いったい何がどうしたというのだろうか。

「ねえセイバー、どうしちゃったのかなシロウたち」
「さあ、私にもわかりかねるが……」

 私とイリヤスフィールは互いに首を捻って、何かを諦めきっているシロウたちを眺める。
 そして――

 ――五人分の麻婆豆腐がやってきた時に、三人の不可解な態度の理由の全てを……文字通り、嫌というほど味わうこととなったのでした。



第 115 回 : 2004 年 9 月 8 日「漢字ドリル」

 イリヤスフィールは漢字の読み書きが不得手です。
 特に学ぶことなく聖杯から知識を得た私に『ずるい』と連呼し続けていたが、その気持ちはわからなくもないが……そのようなことを言われても困ってしまうのもまた事実です。
 ともあれ、このまま漢字に不自由なままでは日本での生活に支障をきたします。よってセラを教師に、漢字の読み書きを学んでいるのですが――

「何故、わざわざこの家で?」
「藤村の家でやるとタイガがうるさいのよ」

 ――なるほどもっともです。

 イリヤスフィールの教師役のセラは、元々が彼女の教育係だけあって、相手が自分の主であっても容赦することなく厳しく教えている。
 ともすれば『自習自習』と騒ぐイリヤスフィールの口に猿轡を噛ませて黙らせたり、いつかだったか僅かに席を外した隙に逃げ出してからは、それすらできないように足枷を嵌めて強制的に拘束したりと、目的のために手段を選ばない非情さは相当なものです。
 だがそれもこれもイリヤスフィールのため――故に相手に疎まれることを厭わない非情さは、逆に思いやりの深さでもあるのです。

「違う。セラのあれは、素」

 とはリーゼリットの言でしたが。


 そんなわけで今日も今日とて、足枷をつけられたイリヤスフィールが居間のテーブルで漢字ドリルと相対し、セラはそんなイリヤスフィールを見張るように、目の前でじっと彼女を見つめている。

「イリヤスフィール様、もうまもなく制限時間ですが」

 かけている伊達眼鏡の蔓を指で押し上げ、セラが抑揚のない声で告げ、イリヤスフィールの表情に焦りが混じり始める。
 伊達眼鏡は彼女なりの役作りなのだそうです。なんでも眼鏡をかけることで自分自身をイリヤスフィールの教師役へと変じさせ、その間だけは主従の関係を自分に忘れさせるとか。そうでもしなければ、非情に徹することができないと、セラは言っていた。

「違う。セラのあれは、浸ってるだけ」

 とはリーゼリットの言でしたが。
 まあ、それはさておき――

「時間切れです」

 一切の情を排したセラの声が開け放たれた居間においてもなお朗々と響いた。
 それに合わせて頬を丸々と膨らませたイリヤスフィールの声が開け放たれた居間から庭のほうまで響き渡った。

「ぶーーーっ! こんなのわかるわけないじゃないっ」
「できないと諦める前に知識として覚えてください、イリヤスフィール様」

 セラは諭すようにイリヤスフィールに言うが、彼女は完全にへそを曲げてしまってそっぽを向いたまま不機嫌を隠そうとしない。そしてセラは、そんなイリヤスフィールの姿を見て小さくため息をついた。

 ――仕方ありませんね。

 私は台所から取って置きのお菓子――江戸前屋のどら焼き――とお茶を用意して、二人の前に並べた。

「一先ず休憩しては? このまま無理に続けたとしても身にはならないでしょう」
「……そうですね」

 私の提案にセラはしぶしぶながらも頷き、イリヤスフィールは気色を満面にして、早速どら焼きにかぶりついている。
 が、ここはやはりきちんと釘を刺しておかなければいけないでしょう。

「イリヤスフィール、あなたの気持ちもわからなくはありませんが、セラの言うことも正しい。そう簡単に諦めなどせず、できるようになるための努力を怠らないようにしなくては」
「むっ、じゃあセイバーはこれわかるっていうの?」

 私の苦言に一転してまた表情を不機嫌に変えて、先ほどまで向かっていたドリルを差し出してくる。
 仕方ない。ここは一つ、彼女のためにも正しい知識があれば解けない難問はないことを教えてやらねば――

 そう思いドリルを覗き込むと、

『項王軍壁垓下。兵少食尽。漢軍及諸侯兵囲之数重。夜聞漢軍四面皆楚歌、項王乃大驚曰、「漢皆已得楚乎。是何楚人之多也。」項王則夜起飲帳中。有美人、名虞。常幸従。駿馬、名騅。常騎之……』

 ……なんですか、これは。

「どうしたのセイバー、わかるんでしょ?」

 じとりと、湿っぽいイリヤスフィールの視線が私の横顔に突き刺さる。
 それに対して私はもちろん――


「それではセイバー様もご一緒に。解けるまで昼食は用意いたしませんからそのつもりで」

 ――答えることができるわけありませんでした。

 漢字は漢字でも国が違えばものも違う。私が聖杯より得た知識は、日本という国で生活していくための知識であり、中国の漢文の知識など持ち合わせていないのです。というより、何故日本の漢字の勉強で中国の漢文を学ばなくてはいけないのでしょうか。

「セラも日本語のこと、良くわかってない」

 とはリーゼリットの言でしたが……いくらなんでも日本語と中国語を勘違いするとは、さすがに予想外のことでした。



第 116 回 : 2004 年 9 月 11 日「残暑」

「あっ……つい」

 白い薄手のシャツに紺色のスカートという涼しげな出で立ちのイリヤスフィールが、全力稼動している扇風機の前に陣取ってなおそんなことを言った。
 八月も終わり九月も半ばになろうかという今日この頃、夏の厳しい日差しも徐々に過去のものとなって忘れかけていた頃に、またあの溶けてしまうかのような日差しが空に帰ってきました。
 ぎらぎらと照りつける太陽は突き刺さるような虹色の光を地面に投げかけ、容赦なく私たちを責める。天気予報でも真夏日と言っていましたが、下手をすればその真夏の日の頃よりも今日は暑いと感じられる。

 故にイリヤスフィールが犬のようにだらしなく舌を出して、なんとか涼をとろうとする気持ちもわからなくはない。
 ――真似をしたいとは思いませんが。

「あーもう、暑いのっ! シロウ、なんとかして!」
「なんとかしろって言ってもなぁ……無理なもんは無理」
「それじゃアイスー!」
「さっきも食ったろ。あんまり冷たいもんばっかり食べてると腹こわすぞー」

 わがままを言うイリヤスフィールを適当にいなしながら、シロウもまたぐったりとだらけている。
 我がマスターながら少々見苦しいですが、まあ、今回ばかりは見逃して差し上げましょう。

「……あー、セイバー?」
「む。なんですか、シロウ?」
「いやな……暑いのはわかるんだけどさ……」

 と、シロウはふと頬を赤らめてこちらを指差し、

「そんなにシャツの胸元引っ張ると、その……目のやりどころに困る」
「……申し訳ありません」

 言われて、私もまた頬を赤らめながら手を元の位置に戻すことにした。


「うー……もう我慢できないっ」

 それからしばらく三人で、なにもすることなくじっと暑さを耐えていたのですが、遂にイリヤスフィールに我慢の限界が訪れたようです。
 居間から飛び出して庭に駆け下りると、私たちの視界から消えてどこかに行ってしまいました。

「……なにをする気なのでしょうか、イリヤスフィールは」
「さあなぁ……」

 二人並んでぼんやりと誰もいなくなった庭を眺める。普段だったらシロウも苦笑いを浮かべながらイリヤスフィールの後を追いかけているところですが、今日ばかりはそんな気にもなれないらしい。少し動くだけで汗が吹き出てくるような暑さですから。

 と、しばらくそうしているとやがてイリヤスフィールが手になにか長いものを持って戻ってきた。

「シロウッ! はいこれ!」
「はいこれ、って……ゴムホース? 庭に水でも撒くのか?」
「んー、ちょっと違う。水撒きじゃなくって水浴びするの!」

 先端から水を流し続けているゴムホースをシロウに渡し、イリヤスフィールは庭の真ん中に走っていく。
 なるほど。水浴びとは、単純だが確実に涼をとれる方法です。この暑さであれば、終わった後にちゃんと身体を拭けば風邪もひかないでしょうし、一時の涼を得るには良い方法といえるでしょう。
 庭の真ん中で早くしろとせがんでいるイリヤスフィールにシロウも頷き、ホースの先端を彼女に向けて思いっきり指で押さえつけた。
 と、ホースから流れる水が飛沫を上げて宙を舞い、両手を挙げて待っているイリヤスフィールに降り注ぐ。

「あははっ! つめたーい!」

 雨のように降りかかる水にはしゃぎまわるイリヤスフィール。
 無邪気に笑いながら踊るように庭を駆ける彼女を、追いかけるようにして水が振りそそぐ。

 ……楽しそうですし、涼しそうですね。少しだけ羨ましい気もする。
 かといってさすがに彼女と同じことをしようとは思わない。ああいうことは、イリヤスフィールだからこそ許されるのだと、なんとなくそう思う。

 ――と、シロウがいきなりホースを降ろして水を撒く手を止めてしまった。

「ちょっとシロウ? なんでいきなりやめるのよー」

 もちろんイリヤスフィールは不満顔だ。それはそうだろう、あれだけ楽しんでいたところで突然終わりにされては無理もない。
 だがシロウは、何故か赤くなってイリヤスフィールから目線を外して動こうとはしない。

「シロウ、いったいどうしたのですか?」
「いや……その、なんだ」

 シロウはごにょごにょと口の中で何事かつぶやいていたが、やがて意を決したように顔を上げ、しかしあくまで目線は合わせようとしないままにイリヤスフィールに告げる。

「とりあえずイリヤ……そのままじゃ目のやり場に困る」

 言われて私とイリヤスフィールは同時に気づいた。
 私は彼女の胸元に目をやり、イリヤスフィールは濡れそぼった自分自身を見下ろす。

 ……どうやら彼女は、下着をつけていなかったようですね。
 胸の肌色も、中心にあるモノも……はっきりとではないが、水でシャツが肌に張り付いてしまったせいで見ればわかるくらいに浮き出てしまっている。

「んふっ、んふふふっ、シロウのえっちー」
「だぁっ、誰がえっちだ! いいからさっさと着替えてこいっ!」
「やー」

 ああもう……まったくシロウは。これではまたいつもと同じではないですか。
 からかわれて顔を更に赤らめたシロウに、イリヤスフィールがにんまりと小悪魔じみた笑みを浮かべながら飛びかってくる。

「まったく……よもやこれを狙っていたのではないでしょうね、シロウ?」
「そ、そんなわけないだろっ! ちょっ、い、イリヤっ! くっつきすぎっ……」
「ふふっ……ん? もしかしてシロウ、ちょっとおっきくなった?」
「ンなわけないだろーーーっ!!」
「……はぁ」

 イリヤスフィールに押し倒されているシロウを横目に、自分でも自覚できるくらいに冷たい視線を彼に送る。
 シロウはしきりに助けを求めていますが、こんなことで動きたいとは思わない。

 何故なら今日は真夏日ですし。少しでも動けばそれだけで汗が出てしまうくらい暑い日ですから。
 だからシロウへの苦言はまた後ほど……涼しくなってから厳しく、道場でして差し上げようと心に決めていた。



第 117 回 : 2004 年 9 月 12 日「インスピレイション(ジプシー・キング)」

 桜は自己管理のしっかりした女性です。
 彼女と出会ってから数ヶ月経ちましたが、その間に彼女が風邪をひいたり学校に遅刻したり、ましてや寝坊などしたことを私は見たことがありません。
 そしてそれだけでなく、彼女は自分以外の他人、特にシロウの管理まで積極的にかって出ている――というのは、多分に彼女のシロウへの想いがそうさせているのでしょうが、毎朝一番に起きて土蔵で眠っているシロウを起こし、時には全員の朝食の仕度まで整えるのだからたいしたものです。

 このように間桐桜という少女は、自己管理のしっかりした女性なのです。
 だからよもや……私は彼女があのような暴挙に出るとは思ってみなかったのです。


 それは雲一つない空にある月が、地上を青白い光で照らしている美しい夜のことでした。
 日付も変わりすっかり寝静まった時間にふと目が醒めた私は喉の渇きを覚えて水でも飲もうと、そう思い隣の部屋で眠るシロウを起こさないようにそっと起きて台所に向かったのです。

 だからでしょうか。足音にも気を使っていた私は、どうやら己の気配すらも消してしまっていたようです。
 こうなれば――この身は伊達に剣を象徴とするサーヴァントを名乗っているわけではありません。一般人はおろか、腕に覚えのある達人ですらも、そう簡単に我が存在を捉えることは叶わないでしょう。
 無論、魔術師であるとはいえ一般人に過ぎない桜など、何をか況や、というものです。

「! 何者!?」

 前述した通り、この時は家中の誰もが眠っている時間。台所に人の気配を感じた私が誰何の声を発しても何の不思議もありません。
 私の接近に気づかず何事かをしていた人影は、非常に驚いたようで手に持っていた何かを取り落としました。

 ――盗人?

 咄嗟にそう判断した私は、その日の食卓のテレビで見ていた火付盗賊改方もかくやという動きで下手人を捕らえました。
 腕を掴まれながらも必死に身体を捩じらせ逃れようとする下手人。だがこれでも道場で手合わせしているシロウから鬼のセイバー、通称鬼セイと呼ばれているこの身です。盗人ごときを逃がすような情は持ち合わせていませんし、休憩休憩とせがむシロウに容赦するほど甘くもない。

「悪党、尋常にお縄を頂戴!」
「……くっ!」

 ああ、今思えば少々影響されていたような気もしないでもありませんが、ともあれ私は下手人を捕らえたまま部屋の明かりに火を入れたのです。
 そして――明かりの下で見た下手人の顔は――私を驚愕させるのに十分に足るものだったのです。

「さ……桜!?」
「フ……見られてしまいましたね……セイバーさん」

 腕を掴まれたままもはや逃げようともせず、悄然と項垂れている下手人――その人の顔は、紛れもなく私が良く知っている間桐桜のものでした。
 何故、どうして……私の脳裏には音こそ違えど意味は変わらぬそれらの言葉が次々に踊っては消える。
 と、私の目は床に散らばっているもの、先ほど桜が取り落としたものを視界に捉えた。

「これは……! 今日の学校帰りにシロウが買ってきた明日のおやつ……桜、貴女はまさか!?」
「フフ……笑ってくださいセイバーさん。所詮わたしは自分の欲求に勝てなかった駄目な女の子なんです……」
「……では、やはり」
「だって、だってお腹すいたんです! 食べればまた体重が増えるってわかってる、わかってるけど仕方ないじゃないですか! お腹すいて寝れないんですもん! ……情けないですよね、先輩が聞いたらきっとわたしのこと嫌いになりますよね。お腹がすいて夜中にこっそりお饅頭盗み食いするような食い意地の張った女の子なんて……」

 私は彼女に何も言葉を返すことはできなかった。
 なんて言葉をかけてやればよかったのだろうか。今でも私はこの時桜になにも言ってやれなかったことに、少しばかりの後悔を抱いている。
 だがこの時桜は私の顔を見ると、わかっている、そう言いたげな表情で首を横に振り静かに両手を差し出した。

「さあ、セイバーさん。わたしを捕まえてください。この衛宮家において盗み食いは重罪……それはあなたも良くわかっているはずです」
「ええ……無論です。かつて私も貴女に捕らえられ、そして足を洗った経験がありますから」
「ふふっ、そういえばそうでしたね。奇妙なものです、あの時セイバーさんを捕まえたわたしが、今は逆に捕らえられているなんて……」
「桜……!」

 それ以上、私に言葉はなかった。
 後はただ、彼女に縄をかけ翌日の朝食の席でその罪を全て白日の下にし……桜を晒し者とするしかなかった。

 誰であろうと犯した罪はなんらかの罰を以って償わなければならない。
 盗み食いを犯した彼女の場合、それが朝ごはん抜きというカタチであった、ただそれだけなのです。


 だから私は、こうして桜が盗み食おうとしたこのお饅頭を食べていると……ふと思い出すのです。
 あの夜、落ちてきそうなほどに大きな月と照らし出された蒼銀色の庭、そして全てを受け入れて縄を受ける桜の表情を。
 もし、もし一歩間違えていたら、あの時捕らえられていたのは桜ではなく、私だったかもしれない……そんな思いに身を震わせるのです。


 それはそれとしてお饅頭、美味しいですね。



第 118 回 : 2004 年 9 月 13 日「道路交通法」

 いつも通りの朝、いつも通りのシロウの朝食、いつも通りに和やかな食卓に、突如としてその男は帰ってきました。

「久しぶりだなセイバー! そして雑種!」
「……本当に久しぶりですね、ギルガメッシュ」
「ラスベガスで素寒貧になってからしばらく見なかったから、どうしたのかと心配してたんだぞ」

 そう、米国にギャンブルに行くと言って旅立ち、簀巻きになって帰ってきて以来全く姿を見せなかった人類最古の英雄王が、再び帰ってきたのです。

 まだ残暑も厳しいというのに首元を覆うふわふわの毛皮と金色に光る金箔入りのコート、五本の指に嵌められている凛が飛びついて強奪しそうな大きな宝石の指輪、蝶の羽のように張り出した何か勘違いしているとしか思えないサングラス。
 平たく言って、ギルガメッシュの出で立ちは簀巻き以前よりも更に派手になっていました。間違った方向に。

「おまえ、いったいどうしたんだよ。博打ですって一文無しになったんじゃなかったのか?」
「たわけ、雑種風情の物差しで我を測ろうなどとは片腹痛いわ。忘れたか、我の往くところには常に黄金が付き従うのだ」
「ああ、そういえばそうだったけ、黄金律」

 ぽんと手のひらを打ってシロウが納得と頷く。
 ギルガメッシュが持つスキル・黄金律。凛に金ぴかと言わしめる彼の金回りのよさは、全てこのスキルを持っているが故のこと。彼女は豚に真珠だとか猫に小判だとか言っていましたが、私も同意見だ。あのような男に無限の財力を持たせるなど、キチガイに刃物としか言いようがありません。せいぜい、イリヤスフィールの月々のお小遣い一五〇〇円と同じくらいで十分です。
 人格者であるバーサーカーですら三〇〇〇円と米穀通帳しか貰っていないというのに、あまりにも分不相応というものだ。

「で? また金ぴかになったおまえがうちになんの用なんだよ」

 今朝飯食ってるんだが――そう言って湿っぽい目つきで睨むシロウの態度など意に介さず、というより全く気づいた様子もなく、ギルガメッシュは一つ鼻で笑うとどこまでも居丈高に、

「ふん。今日はだな、王たる我が高貴なる身分の者にしか手に入れられぬ代物を、雑種である貴様に見せてやろうと思ってな。なに、頂点に燦然と輝く王たる者、支配する民草に憐れみを施すのは当然のことよ。感謝など無用だ」

 などと言い放ち、まるで路傍の塵芥でも見るような蔑みの視線を向けてきた。

 故に――我が全身に凄愴の気が漲ったのは無論のことである。

 このアルトリアのマスターであるシロウに対しそのような無礼、見逃すことなどできようはずもない。如何な日々の温もりの中に剣を持つ手を緩めていようとも、決して刃を鞘に納めたわけでも、ましてや手元から離したわけでもない。
 一朝事があらば、すぐにでも我が剣はシロウの敵へと向けられる――例えば目の前にいる不貞の輩などにだ。

 だが当のシロウはといえば、一つ小さなため息をつくと、どうでもよさげに頭を掻き毟った。
 と――今にも殺気をぶつけようとする私の肩に手を添えて、身体をそっと自分の方に引き寄せる。自然、私の身体はシロウの腕の中にすっぽりと納まることになり、おまけに肩口をしっかりと抱きとめられてしまったからには、身動きすら取れないわけで――

「う……! な、なにをするのですか、いきなり……」
「要するに結局……高い買い物したからわざわざ自慢しに来たってか? ス○夫みたいな奴だな」

 ――私は当然抗議の声を上げるが、シロウはそんな私に構わず思いっきり呆れを含んだ視線を以って蔑みの視線に対抗していた。
 シロウはギルガメッシュの言うこと為すこと、全く気にしていない。ただそうであるものとして受け流しているだけだった。

「で、いったい今度はなにを手に入れたんだよ。おまえがわざわざ自慢しに来るくらいだからよっぽどのものなんだろうけど」
「うむ。まさに王たる我に相応しい一品であるとしか言いようがないな。来い、雑種。貴様の目にも入れることを許そう」
「はいはい、ありがたき幸せにござい」

 意気揚々と歩いていくギルガメッシュの背中を見送りながらシロウは気のない返事をする。
 しかし……それにしても、だ。

「…………」
「ん? なに膨れてるんだ、セイバー?」
「……シロウは卑怯です」
「? なんでさ」

 これでわからないと言っているのですから余計卑怯だと思う。
 問答無用とはまさにこの事、抵抗する暇も与えず従わせるなど卑怯以外のなんだというのでしょうか。
 ギルガメッシュを追うシロウに手を引かれて歩きながら、私はぶつぶつと我がマスターの悪口を何度も繰り返していた。


 で、ギルガメッシュが手に入れたとかいう王たる彼に相応しい一品は、我が家の門の前でパトカーに駐車禁止を食らっていました。

「ぶ、無礼者が! 貴様ら、いったい誰の所有物に駐禁の札など貼っていると思っている!?」
「あー、はいはい。わかったからお兄さん、とりあえず免許証出してね」
「免許だと? ふん、王がいったい誰にどんな許しを請わねばらなんというのだたわけめ」
「……お兄さん、免許持ってないのね?」

 そしてついでに、ギルガメッシュ自身は免許不携帯で警察の方々に連れて行かれてしまいました。
 私とシロウは、道路交通法違反でお縄になったギルガメッシュと彼の愛車とやらをただぼんやりと見つめているしかなく――

「……メシの続きにするか」
「はい、そうですね」

 ――とりあえず事の顛末を見送った後に、中断していた朝食を再開することにしたのでした。



第 119 回 : 2004 年 9 月 18 日「屋上弁当・前編」

 良く晴れた空の下、シロウ手製の弁当を広げる。
 夏の頃は日差しが厳しくて叶わなかったが、最近は太陽も柔らかになり、風も涼しくなりつつあるので昼になるとこうして屋上で昼食をとるようになった。
 期限は冬になるまで。月が巡って次の季節になれば、今度は身を切るような寒さが襲ってくる。とても外で食事を楽しむことなどできないでしょう。

 今日のおかずは鳥の唐揚げ、ほうれん草のおひたしにごぼうのきんぴら。それからふんわりと仕上がったたまごやき。シロウらしい、地味ではあるがバランスの取れたおかずです。味については私ごときがなにかを言う必要はないでしょう。

「むぅ……あんたまた少し腕上げた?」
「さあ、どうだろうな。俺はいつも通りに作っただけだけど」
「わたしも遠坂先輩の言う通りだと思います。この期に及んで更に上達するなんて、先輩ってズルイです」
「いや、ずるいとか言われてもだな……」

 頬を膨らませる桜に苦笑するシロウ。追いつくべき目標が更に遠くなってしまったのですから、桜の気持ちもわからなくはない。凛はただ単に悔しいだけなのでしょうが。
 なんにせよ、私としては彼らが互いに切磋琢磨して上達していくのであればなにも言うことはありません。シロウのご飯は今日も美味しいですし、これからもっとずっと美味しくなるのであれば、これに勝る喜びもありません。

「……む?」

 と、私の感覚になにかがふと触れた。

「どうしたんだセイバー? アンテナぴくぴくさせて」
「シロウ、何者かが近づいてきます。それとアンテナではありません」
「でも食べる手は止めないのね、あんた」

 当然です。相手が我々に敵意を持っているのであればそういうわけにはいきませんが、今のところそのような気配は感じられない。恐らくはここの生徒なのでしょう。そのために至福の時間を途切れさせたくはありませんから。

「あれ? 衛宮君?」
「それとセイバー嬢に、間桐の妹君か」
「あーんど遠坂。フルメンバーじゃないか」

 現れたのは由紀香、鐘、楓のいつもの三人。

「おぬしらもここで昼食か、奇遇だのう」
「ここんところ天気もいいしな。それに教室で食ってたら他の連中に食われちまうし」
「ふむ、なるほど。衛宮の弁当といえば究極のメニューと称されるほどの一品と聞くからな。ここで相伴に預かれるとは私も運が良い」

 シロウの隣に腰を下ろしながら、鐘は僅かに口元を緩めた。

「なんだよ、別にそんないいもんでもないぞ。自分の弁当食えば良いじゃないか」
「謙遜するでない。世間の噂というものは決して嘘をつかないものだ。無論、全て真実というわけでもないが……事が単純であればあるほどに、噂はより真実を強く伝えるものよ。それに以前、セイバー嬢も申しておったしな」

 ちらりと視線を向けてきた鐘に、私は一つ頷いて胸を張る。
 彼女の言うことは全て真実。そしてそれがシロウのことであるならば、私にとってはなによりも誇らしい。

「もちろんです。シロウの作るご飯はとてもとても美味しい。だから私にとって食事の時間は、なによりも幸せな時間なのです」
「ほれ、セイバー嬢もこう言うておるではないか」
「セイバーさんはいつだってはらぺこですしね」
「……桜、私とていつもお腹をすかせているわけではないのですが」

 湿っぽい目つきで桜を睨んでみたけれど、彼女はさっと目をそらしてしまった。
 まったく、ここのところ桜の性格があまり良くないのは姉である凛の影響なのでしょうか。数少ない良心が黒く染まっていくのを見るのはあまり気持ちの良いものではない。

「セイバーさん? あなた今、とても失礼なこと考えませんでしたか?」
「いいえ。考えすぎでしょう」

 睨んでくる凛の視線を直視しないように視線をそらし、空を仰ぐ。本当に今日はいい天気です。それにごはんも美味しいですし。

「あの……衛宮君」

 被っている猫の皮を三分の一ほど脱ぎ捨てている凛を無視して唐揚げを味わっていると、いつの間にか由紀香がシロウの隣に移動していた。
 なにやら自分の弁当箱の包みを解きつつ、シロウの弁当箱の中身に熱い視線を注いでいるようですが……?

「あのね。もし良かったらわたしも衛宮君のお弁当、食べてみたいんだけど……」
「む、三枝さんもか? ……そりゃ構わないんだけどさ」

 シロウの弁当箱の中身は既に半分ほどに減っている。鐘と由紀香に分けてしまえば、自分の分はますます少なくなるだろう。
 午後には体育の授業もありますし――腹がへっては戦ができぬ、というやつです。だがシロウは彼女の頼みをきっと断らないでしょう。そういう人です。
 ……仕方ありません。少々惜しいですが、私の分をシロウに――

「それで、代わりと言ったらなんだけど……良かったらわたしのお弁当、食べてくれないかな」
「え? 三枝さんのを?」
「うん。あのね、わたしも自分のお弁当、自分で作ってるんだけど、衛宮君から見てどうかなって……」
「ああ、忌憚のない意見を、ってやつか。そういうことだったら遠慮なくもらうよ。このままだと俺もちょっと足りないしね」

 ――と、思っていたらどうやらシロウの不足分は由紀香の弁当で補われることで決着がついたようです。つまり物々交換ですね。これならば誰の食べる分も減るわけではありませんから、万事解決です。
 だというのに、何故か桜は微妙に不機嫌な様子でシロウたち二人を見ていた。……ふむ、なにかおかしなことでもあるのでしょうか。

 凛は――

「だいたいさー、女のくせに男に弁当作ってもらうなんて、フツー立場が逆なんじゃない? 完璧超人の遠坂ともあろうものがさ」
「ふふ、それは旧態依然とした日本の悪しき風習です。今時、男子厨房に立つべからず、なんて時代遅れというものだと思うんですけど」

 ――なにやら楓と真正面から戦闘中ですね。なんの参考にもなりません。


 しかし、日本においては女性が男性に食事を作るが普通だったとは……。
 となると、私がいつもシロウに食事を振舞ってもらうだけで、逆に私が料理をしないというのはもしかしたらおかしなことなのかもしれない。
 凛は時代遅れだというが、彼女自身の料理の腕前はシロウに勝るとも劣らないものを持っている。もしそうでなかったなら、彼女は口が裂けても時代遅れだなどと言い訳がましいことは言わないでしょう。遠坂凛とはそういう女性です。
 桜も以前は料理ができなかったのを、シロウに教えを受けてできるようになったとのことです。やはりここは私も彼女と同じく鍛錬を積むべきなのか。
 誰しも、料理ができない者よりできる者を好ましいと思うはず。それはまたシロウも同じはずだ。

 ……というか、なにをやっているのですか、シロウ?

「あ、あの……三枝さん?」
「はいっ、どーぞ召し上がってください、衛宮君」

 箸で煮付けたじゃがいもを摘んでシロウに差し出す由紀香と、彼女を前に見事に固まっているシロウ。

「こっ、これはまさか『あーん』とかいうやつじゃないか!? 話に聞いたことはあってもほんとにやるやつ初めて見たー!」
「うむ。箸から零れぬように添えている手がポイントだな。由紀香め、やり慣れているとみた」

 大げさに驚く楓と冷静にコメントする鐘。見れば凛と桜も表情を凍らせて固まっている。

 ええ、もちろんさすがの私もこの展開は予想していませんでしたから。
 シロウがこの次にどうするか、非常に楽しみですね。



第 120 回 : 2004 年 9 月 20 日「屋上弁当・後編」

 固まっているシロウと朗らかな笑顔で彼の口元に箸を差し出している由紀香。
 そして息を殺して見守る私たち。

 ふわりと、頬を撫でた風が髪を揺らしていくのを感じる。私たちの間に流れる空気が固まってからどれくらい経っただろうか。時間にすればほんの数秒か十数秒のことだったのだろうが、とてもそうとは思えないのが不思議なところだ。

 相対したまま動かないシロウと由紀香――先に動いたのは由紀香のほうだった。

 差し出した箸が摘んでいるじゃがいもを凝視したまま動かないシロウになにを思ったのだろうか。
 見る者を柔らかな気持ちにさせる彼女の笑顔が不意に曇り、形の良い眉が悲しげに顰められた。

「えっと、衛宮君……?」
「…………」
「あ……ごめんね。もしかして、迷惑だったかな……ごめんね」

 言って、彼女の笑みは一転して悲しげなものに取って代わる。内心の感情を押し殺して無理に浮かべた、見るだけでこちらも引きずられてしまいそうな、そんな笑顔だった。
 となればシロウが気づかないはずがない。元々自分に寄せる好意や賞賛などには疎いくせに、他人の悲しみや苦しみには敏い人ですから。

「うっ……いや待て三枝! そんなことはない、そんなことはないぞ!」
「……あ」

 そう喚いて手を引っ込めようとする由紀香の肩を逃げられないように掴むと、そのまま差し出されているじゃがいもの煮っ転がしにひと口で齧りつき、お百姓の方に失礼にならぬようよく咀嚼してから飲み込んだ。

「衛宮君……」
「……うん、美味い」
「ほんとに?」
「ああ、俺はこと料理に関しては嘘は言わない。だからほんとに美味い」

 確かにそれは真実でしょう。シロウは料理に関しては一家言を持っているし、己の腕に誇りを持っている。故にごまかしも手抜きも一切しない。シロウが美味いといったのであれば、由紀香の料理は本当に美味しいのでしょう。
 由紀香もシロウの真摯な態度にそれを感じ取ったのでしょう。

「そっか……うん、ありがと。衛宮君」

 目元をほんの少し、薄っすらと染めて、彼女は見惚れるくらいに柔らかな微笑を浮かべた。

 ……それにしても、何故でしょうか。
 由紀香があんなにも嬉しそうにしているのはとても良いことだというのに、何故か胸の辺りに不快な気持ちが込み上げてくる。これはやはり、己のサーヴァントのそんな状態に陥っていることにも気づかず目の前の少女に見入っているシロウが悪いのでしょうか。
 我のことながら無理もないと思う。これまでずっと尽くしてきた主に、こうも容易く裏切られれば誰であれこのような気持ちの一つも抱くものでしょう。

 しかし主は事ここに至ってもなお、無慈悲にもこちらを省みることをしようとしない。

「それじゃあ衛宮君、もうひとつ食べますか?」
「あ、ああ。……いただきます」

 二人向かい合ったまま、シロウは由紀香から差し出された料理をまるで鳥の雛のように素直に口にする。
 最初はあれだけ躊躇していたと言うのに、一度やってしまえばたがが外れたかのように唯々諾々と口を開いている。我が主ながらなんと流されやすい人なのだろうか。……ところでいつまで由紀香の肩を掴んでいるのでしょうか、マスター?

「でもまさかさー、昼休みの屋上でこんなラブコメ見れるとは思ってもみなかったなぁ」
「うむ。しかも主演が衛宮と三の字だ。もっとも三の字のあれは天然だが……衛宮は己の身の危険を理解しておるのかどうか」
「はい? 危険て……うおぉっ!?」

 む、なんですか楓。こちらを見るなりなにを驚いているのですか。しかも人の顔を見てそのような態度を取るのは些か――ああ、なるほど。凛と桜ですか、ならば無理もありません。彼女たちがああなった姿は、あまり人前に出すことができるものではありませんから……ここは一つ釘を刺しておくべきでしょう。

「凛、桜。気持ちはわからないでもありませんが、少し落ち着いてください。楓が脅えていますよ?」
「あらセイバーさん、落ち着けと言われてもわたしは最初から落ち着いていますが……。逆にわたしのどこら辺が取り乱しているのか、よろしければお教えいただけないかしら」
「ふむ。では遠慮なく言わせていただくと……笑顔があくまになっています」
「……ほう」

 む、こめかみに青い筋が浮き出ましたね。被っている猫の皮と塗りたくっているメッキが半ば以上剥げてきていますが、まあ自業自得でしょう。私のようにきちんと己を保つ冷静さを持てない凛が悪いのですから。
 それから――。

「桜、あなたも影が伸びてます」
「――あっ、気がつかなかった。ありがとう、セイバーさん。……フフッ、わたしってばうっかりさん」

 目元に影を落としながらざわついていた足元の影を引っ込めている桜の笑みは、ある程度見慣れているわたしでも怖気を誘うものがある。ましてや見たこともないであろう楓が硬直して蒼白になっていても無理はないでしょう。

「うん、衛宮の弁当は噂に違わぬ美味さだな。これならばハイエナのごとく群がるのも頷けるというものだのう、うん」

 むしろ、まるで気にせずシロウの弁当を摘んでいる鐘のほうが脅威に値する。私ですら怯ませる彼女ら二人のあの様相を前に微動だにせぬとは、いったいどれだけの精神力を持っているのでしょうか、彼女は。

 それからシロウは――相も変わらずですね。完全に場の雰囲気に飲み込まれてしまっています。なんということでしょう。
 戦場では常に己を見失わず、相手のペースに惑わされぬよう努めねばならないと常々教えているというのにこの様とは。やはりもう一度、一から厳しく基本の手解きをしなおさなければなるまい。必要とあるならば、この身を修羅へと投じることも厭いません。シロウのためですから。

 しかし私がこのような覚悟まで固めているというのに――

「衛宮君、もし良かったらなんだけど、今度また、お弁当食べてくれませんか?」
「なっ、なんですとー!?」
「えっ……? だめ、かな」
「うああ……ダメじゃありませんっ。よろしければ是非っ」

 ――などと、またも由紀香に敗北し、要求を呑まされてしまっている。
 まったく、由紀香が手強い相手だというのはわかりますが、そこで堪えないでどうするというのですかっ! 腑抜けています、まったく腑抜け切っています。聖杯戦争の時、あれほどまでに己を真っ直ぐ、決して曲げなかったシロウはいったいどこへ行ってしまったのでしょうか。

「ふむ、馳走であった……ところでセイバー嬢?」
「……む、なんでしょうか鐘。今、私はシロウにどのような鍛錬を課すべきかを考えるのに余念がないのですが」
「ああ、それは結構なことなのだが――」

 シロウの弁当箱をすっかり空にした鐘は、私の持っている弁当箱に指を差し、

「力の入れすぎで箸が折れておるぞ。ついでに言えば弁当箱も軋んで砕けそうになっておる」

 淡々と、感情の動きをあまり感じさせない瞳で事実をありのままに伝えてきた。
 ああ、確かに。手にしていた割り箸は小枝のごとく二つに折れているし、弁当箱は今もなお悲鳴を上げていますね。これは気づかなかった。

「気持ちはわかるが少々落ち着いたほうがよろしいな」
「そうよセイバーさん……」
「凛?」

 肩に手を置かれ、振り返るとそこにいたのはとてもいい笑顔を満面に浮かべた凛。
 ――が、目があまり笑っていないような気がするのはきっと私の勘違いではないでしょう。

「気持ちはわかりますけど、物に当たるのは良くありませんよ?」
「む……確かにその通りです。この身の不覚でした」

 となれば、やはりこのような気持ちを二度と抱かなくて済むように、シロウにはきちんと成長していただかなくては。
 マスターの敗北はサーヴァントである私の敗北も同義です。私はシロウのサーヴァントとして、彼が正しい道に進み、そして正当な勝利を得られるように最大限の努力をしなくてはならないのです。
 故にシロウ、覚悟を。今宵の私は、貴方のために手加減を己から捨てましょう。

 そんな私たちを見ていた鐘は、秋の空を見上げ口元に小さく、微笑を浮かべた。

「やれやれ……衛宮も愛されておるが故に苦労が多いのう……ま、善哉善哉」

 あまり善くありません。