最近の私はおかしい。


「だっ、だから遠坂オマエッ……ちょっとくっつき過ぎだって」
「んー? なによ、士郎は嬉しくないワケ?」


 何がおかしいのかと言うと、それが自分でもはっきりとしない時点でかなりおかしい。
 今までにこんなことはなかった。
 騎士として、剣の英霊として戦場に立つこの身が、己のことをわからぬなどという不始末はあってはならないことだ。


「もしかして照れてるのかなー、衛宮君は」
「だっ……! ばっ、ばか! 誰が照れてるかっ……ただなんだ、その」
「ただ……なーに?」


 だというのに、私は今の自分におきている変化がなんなのか、それがわからない。
 肉体的には健康そのものと言えるだろう。
 そもそも英霊であるこの身が病になど冒されるはずもないし、凛からの魔力供給にも異常はない。
 このところはいたって平穏で傷を負うようなこともないし、シロウが作ってくれる食事はいつでも美味しい。
 なのに――。


「ああ、もうッ……そ、そうだセイバー!」
「あ、そうやってまたすぐにセイバーに逃げるんだからな、士郎はー」
「う、うるさいなっ。それよりセイバー! ……セイバー?」


 どうしてか最近の私は、ふと、気持ちがひどく落ち込むことがある。
 あるまじきことだが、目の前の出来事から逃げ出したくなるのだ。


「セイバー、セイバー?」


 それは決まってシロウと凛が二人で一緒にいるときであり、二人が睦まじくしているときでもある。
 シロウも凛も、私にとっては大切な二人だ。その二人が睦まじくしているのは、私にとっても歓迎すべきことであるはずなのに――私は時々それをひどく疎ましく感じている時がある。
 そんなことを感じてしまう自分を、おかしいと言わずして何と言うのか。

 私は――!


「おいっ! セイバー、どうしたんだよ!」
「えっ?」


 呼ぶ声に顔を上げると――そこにはシロウの顔があった。

 ごく、至近距離に。

「!!」

 その瞬間、私の顔は危険なほどに熱を持ち、背中には汗が吹き出る。
 気づいたら自分の意思とは無関係に身体が動き、咄嗟に目の前のシロウから逃げるようにして距離をとっていた。

 遠ざかるシロウの顔は目を丸く見開いており、その隣にいる凛は腰に手を当てて不思議なものをみるような顔をしている。
 いけない。鼓動が早すぎて息が整わない。

「おーい、セイバー。だいじょうぶか?」
「だっ、大丈夫も何も私はなんともありませんっ! そ、それよりどうしたんですかシロウ!?」
「いや、どうしたんですかって……むしろこっちがどうしたんですかと聞きたいのだが」
「ど、どうしたと聞かれても……そ、そうですね」

 む、いけない。
 シロウまで私のことを不思議なものを見るような顔つきで見ている。凛はともかくとして、シロウにまでそのような目つきで見られるのは心外だ。
 私は一つ呼吸を整え、なんでもないように、いつもそうするようにシロウに返答する。


「――わっ、私は今晩の食事はにくじゃがなど良いと思うのですがっ!」


 途端――静寂が部屋いっぱいに満ち満ちる。

「……」
「……」
「……」

 どうやら、今の私は致命的におかしいらしい。





おかしなユメ





 そして私は今、シロウと一緒に商店街を歩いている。

「重くないか、セイバー?」
「いえ、気にしないでくださいシロウ。この程度、どうということはありませんから」
「そうか? でも辛かったら言ってくれよ」
「はい、ありがとうシロウ」

 そう礼を言う私に、シロウは笑みを以って返してくれた。
 自分のほうがよほど重そうな袋を二つ抱えているのに、シロウはいつもそんな風に私を気遣う。
 それが彼にとっては当たりまえのことであり、誰にでも向けられる優しさであると知ってはいるが、やはり心温まるものには違いない。
 私が護るべき者と誓った彼の心は、いつだって健やかで好ましく、それが私にとって誇らしくも感じられた。


 夕焼けに染まった商店街の道を、シロウと二人で歩く。
 このくらいの時間は、私たちと同じ目的で訪れる人たちが多く、昼間は寂しげなこの道も今はたくさんの声で賑わっている。
 その中を、シロウと並んで歩く。

 私たちが一緒に買い物に来るのは別段珍しいことではなく、最近はむしろ頻繁であると言っていいだろう。
 この時間にはまだ大河は帰っていないし、桜も同じく部活動とやらで忙しい。凛はたまについて来ることもあるのだが、基本的に買い物を自分の役割ではないと認識しているようで、このくらいの時間は自分の部屋に籠もって何やらやっているようだ。

 以前はシロウが一人で商店街に出ていたのだが、私一人何もすることがなく家にいるのも心苦しい。
 まだ今の時代の経済活動を熟知していないこの身だが、シロウの持つ荷を減らすことくらいはできると思い、以来、こうしてシロウを手伝っている。

 一週間に二日か三日――この時間がこの身に訪れる。

「それじゃ、セイバー。そろそろ帰ろうか」
「買い物はもう良いのですか?」
「ああ、今日の晩飯に必要なものは買ったし、向こうしばらくの食材も買い溜めたからこれで十分」

 掲げて見せた買い物袋は、確かにいつもよりも大きく膨らんでいて端からネギの頭が飛び出していた。
 どうやら自分が気がついていないうちに、随分と店を回っていたらしい。基本的に食材を購入するのはシロウで、私は購入したものを持つだけの役目とはいえども、少し注意力が散漫すぎたかもしれない。
 シロウの身を護る者としては不覚である。

 もっとも、こんなこともシロウに言わせれば、

『聖杯戦争も終ったんだし、セイバーはもうちょっと肩の力を抜いていいんだぞ。いつもそんなんじゃ疲れちまうだろう』

 とのことだ。
 その気遣いはありがたいのだけれど、これは私が自分自身に課した誓いであり役目である。いかに今が平穏に包まれていようと、疎かにするのは許されることではない。シロウにはそのことをわかってもらいたいのだが――。

「さてと。じゃあ、いつものところ寄って行くか」
「あ、はい。そうですね」

 シロウの声に顔を上げ、歩き出した彼について私も歩き出す。
 いつものところというのは、言葉通りに私とシロウが買い物の最後にいつも寄っていくところであり、それはシロウに言わせれば、私の手伝いに対するささやかな報酬ということなのだそうだ。



 誰もいない公園のベンチに並んで座り、一緒に夕焼け空を眺めながらどら焼きを食べる。
 これが私に対するささやかな報酬。
 以前、お茶請けに出されて私が気に入ったのを、シロウは覚えていてくれた。だから、買い物の最後に二人で一つずつどら焼きを買って食べる。
 老夫婦が営むその和菓子屋のどら焼きは、あんこがたくさん詰まっていて、甘くて美味しい。
 それに何故か二人とも私のことを気に入ってくれているらしく、訪れるとにこにこと零れるような笑顔で迎えてくれる。正直少しこそばゆくはあるが、二人の気持ちはとても温かく心地良いものだった。
 唯一困ることといえば、私とシロウのことを、その――少々、勘違いしていることくらいだろうか。

 ちらりと隣にある横顔を盗み見ると、至極平和そうな面持ちでどら焼きを頬張っていて、その口元にあんこがついていた。
 最近になって少し精悍さを増してきたかのように思えるが、こういったところはやはり彼らしい。
 私にとっては微笑ましいと感じることだが、やはりこのまま気づかないのままでいるのは少しみっともないだろう。

「シ――」

 呼びかけて――そういえばハンカチを持っていたことを思いだし――私は途中で言葉を止めていた。

「……」

 ハンカチをしまった右のポケットに手をさまよわせ、シロウの横顔を見つめる。

 ――どうしたものだろうか。

 このまま黙っていてシロウが気づかなかったら、彼は恥は衆目に晒されてしまうだろう。それは彼にとっても私にとっても良いことではない。
 そのことを早くシロウに伝えなければ――。

「……」

 そう思いながらも私の口は動かず、代わりにいつの間にか右手がポケットの中のハンカチを握り締め、少し汗ばんでいた。

 ――私の反対側に凛がいたらどうしていただろう。

 ふと、そんな思考が浮かぶ。
 きっと彼女は何だかんだといいながら、微笑み、シロウの頬を拭ってあげるのだろう。そしてシロウも、子供のように唇を尖らせながら、凛の行為を為すがままに受け入れるのだ。――どことなく、嬉しそうに。

 そして私なら……どうするべきなのだろうか。

「……」

 ぎゅっ、とハンカチを握る手に力がこもる。

 それはきっと変なことではない。何故なら凛がいなくて、私しかいないのだから仕方ないことだ。
 シロウはきっとハンカチなど持っていないだろうし、服の袖などで拭ったらあんこで汚れてしまう。
 だから凛の代わりが私でも――それはちっとも変なことではないはずだ。

 何故かどくどくと逸る心音を抑え、熱くなってきた身体を冷やすためにも冷たい空気を体内に取り入れる。
 シロウの口元には相変わらずついたままの黒いシミ。
 この身はエミヤシロウの剣であり、セイバーのサーヴァント。断じてあのようなものに敗北するわけにはいかない――!

「シロウ!」
「ん? なに?」

 ――が。

「……」

 そのシミは、私が撃退するまでもなく、振り向いた時にシロウ自らが舐め取ってしまっていた。

「なんだよ、どうしたんだセイバー」
「……いいえ、なんでもありません。シロウはまったく気にしないでいいことです」
「? なに怒ってるんだセイバー?」
「何を言っているのですかシロウ。別に私は怒ってなどいない」

 そう。別にシロウは悪くないのだ。だから私は別に怒ってなどいない。
 ただ少し、間の悪い彼にうらめしい気持ちを抱いても、それは間違いではないはずだと思うのだ。

 そうでなければ、ポケットの中で皺になってしまったハンカチが――きっと報われない。



◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆



「あ、お帰りなさい、二人とも」
「ただいま、遠坂」
「只今帰りました」

 家に帰りつくと珍しくエプロンなどをかけた凛がすぐに出迎えにきてくれた。

「お風呂は掃除して沸かしておいたわ。あと、お米も研いでおいたあげたわよ」
「ん、さんきゅ」
「ふふん、そうそう。もっと感謝しなさいよ」

 いつものように笑顔でそんなことを言いながら、玄関に上がったシロウから自然に買い物袋を受け取る凛。
 本当に、ごく当たりまえのようにシロウはそれを凛に渡し、凛もごく当たりまえのようにシロウの隣に並んで居間に向かう。

 私は先ほどまで自分がいたその場所から一歩下がって、二人の後をついて歩いていく。
 これが私の本来の、当たりまえの立ち位置。

「シロウ、これはどこに入れておけば良いですか?」

 居間に入り、私は手にしていた袋を掲げシロウに問う。
 中に入っているのは食料品なのだから、早いうちに冷蔵庫にしまっておかなければいけないだろう。
 シロウはこれから夕食の下拵えを始めるのだから、二人も台所にいるのは少々手狭だが仕方ない。

 と、思っていたのだけれど――。

「ああ、それは俺たちがやっとくから、セイバーは休んでてくれていいぞ。今日もありがとな」

 シロウはそう言って、私の手からひょいと袋を取り上げて、隣にいた凛に渡してしまった。

「ちょっと、なによ士郎」
「なによじゃなくって手伝えって言ってるの。俺は下拵えしとくから」
「む。人使い荒いわね。……ま、いいけど」
「人使いが荒いって、俺はお前にだけは言われたくないぞ……」

 凛も口では何だかんだ言いながら、あっさりとそれを受け取って冷蔵庫に中身をしまい始めた。

 そして私は、一人居間で二人を見ながら立っている。

 休めと言われてどうすれば良いというのだろうか。
 この身は疲れてなどいない。
 シロウの為になりたいとこそ思え、それが例えこの身を気遣ったものだとしても、なにもしないで休んでいろなどという言葉は望んでいない。

 なのに何故、シロウはそんなことを言うのだろう。
 何故、凛は良くて私はだめなのだろうか。


 そう、思ってから、私はすぐに自分の思考に後悔した。
 そんなこと、決まってるではないか。シロウの心の天秤は、いつだって凛に傾いている。
 今更思い知るほどのことでもない。
 そしてそれは私にとって歓迎するべきことであり、喜ばしいことのはずなのだ。

 その――はずだ。なのに。


 結局のところいつもと同じだった。
 これ以上、この場にいることが耐えられそうもなく、情けなさに打ちひしがれる。いつから私はこんなにも弱くなってしまったのか。
 だがそんな意思とは無関係に私の足は動いていた。
 幸いにシロウの口から言葉は貰っている。これ以上ここにいる必要もない。

 ――それがまた、悲しいのだけれども。

「セイバー?」

 だから背中から私を呼ぶ、マスターである凛の声ですら――今は届くことはなかった。



◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆



 休めと言われて、私は離れにある自室ではなく、何故か庭にある土蔵にやって来ていた。
 外の世界から隔絶された世界がここにはある。
 薄暗く、空気はひんやりと冷えていて、見渡して何もない場所が見事にない。
 シロウの物かキリツグの物か、それとも大河の物なのか、一見して何に使うのか、私にはわからない物が無造作に転がっている。
 だが、そのがらくたと呼ばれるもののどれもに、シロウの痕跡が残っていた。

 ここはシロウの世界だ。
 私がシロウに出会う前、出会ってから共に戦っているとき、そしてそれから今まで。
 シロウは欠かすことなくこの土蔵で、自らを研鑽している。
 折れ曲がった鉄の棒や、修理しかけの鉄の塊――確かすとーぶとか言っていた――は、全てシロウの魔力が通った代物だ。

 床に転がっているそれにそっと触れ、魔力の指を内側に伸ばす。

「……あ」

 思わず声が漏れる。
 そこには既に希薄になっているものの、確かにシロウの魔力の残滓があり、私の指にそっと触れ返してきた。
 触れるだけでシロウのものだとわかる、とてもあたたかい力。

「聖杯戦争のとき、この力をシロウから受け取っていたとしたら、どれほどの――いや」

 私は頭を振ってそれを否定する。
 そのときにシロウから魔力供給を受け全身を彼の力で満たしていたとしても、きっと私はこの得がたい力の存在に、気づいてなどいなかっただろう。
 私は頑なで、彼の言葉を甘いと否定するばかりで決して受け入れようとしていなかった。
 それなのに気づくわけがない。

「……シロウ」

 まったく、自分がいやになる。


 私は今、心からシロウに抱きしめられたいと思っている。
 強く、強くこの身を抱きしめてほしいと感じている。
 私を見てほしい、私を求めてほしい、私を無二の存在と受け入れてほしいと――願ってしまっている。

 そのことを、自分がこんなにも女であったことを認めないわけにはいかない。否定するにはもはや苦しすぎる。

 罪深い私は、王としての誓いをシロウへの誓いで塗りつぶしてしまうほどに、彼に惹きつけられている。
 彼のあたたかい笑顔も、意外なほどに逞しく広い背中も、優しく包んでくれそうなその腕も――全て自分のものにしてしまいたいほどに愛しく感じていた。


 今私が、この手に聖杯を持っていたとしたら――何を願っただろうか。
 所詮はこのような想いなど、詮無い夢想に過ぎないが、私は……あの時に時間を戻すことを願っただろうか。

 この土蔵の月明かりの射しこむ窓の下――初めてシロウに出会った場所で、私は彼を見下ろし、彼は私を不思議そうな顔で見上げていた。

「――問おう。あなたが私のマスターか」

 同じ場所に立ち、月明かりを背負い、私はあの時と同じ言葉を口にした。
 一瞬、ほんの一瞬だけ、そこにシロウが戻ってきた。そしてやはり不思議そうな顔で、私を見上げていて――今の私ならばきっと、驚いていた彼に微笑を見せてあげられただろうに。
 そして私は彼に手を差し伸べ、話しかける。シロウは戸惑いながらも私の名を問うだろう。
 私は彼の問いに答え、今と同じように彼の剣となることを誓うのだ。今の私の、精一杯の想いを込めて――。

 瞳を閉じると、すぐにその光景は消え去り刹那の出会いはそれで終った。
 今更、全ては遅いのだ。
 私がようやくシロウの得がたい力――その、得がたいぬくもりに気づき、彼のことを深く想うようになったとしても……既に彼の隣には凛がいる。
 もはや私が立ちたいと願うその場所に空きはなく、できることは二人の後ろで見守ることのみ。

 だが、それでいいのだ。
 この身はサーヴァントであり、シロウを護ると誓った騎士だ。彼のために剣を捧げ、彼のために剣を振るえるのであれば、その為に私はシロウの傍にいることを許されるだろう。
 それだけでも――この身には過ぎた幸福だ。


 だがその為には。


「凛、お願いがあるのです」

 その為にはこの想いは邪魔なだけだ。



 振り向いたそこには、階段を下りてくる凛の姿があった。
 彼女はどこか不機嫌そうな顔をして私のもとに向かってくる。

「凛、シロウの手伝いはもう良いのですか?」
「まあね、ちゃちゃっとやって後は任せてきたわ。そんなことより、あんたのことよ。……あのばかは鈍感だから気づかなかったみたいだけど」
「そうですか。申し訳ない、マスター」
「まったくだわ。――で?」

 目の前に立ち、腕を組んで私を睨み据える凛。その眼光は冷たい。と言っても、魔術師としての彼女が見せる冷たさとはまるで違う冷たさだ。
 マスターとしてサーヴァントを責めるのではなく、遠坂凛として私を糾弾している瞳。

 凛が、私がシロウを想っていることに気づいているのならそれも当然だと思う。
 だが、それもここまでだ。

「凛……令呪はありますね」
「もちろん。これは貴女とわたしを霊的に繋いでいる証だもの。わたしが貴女のマスターである限り、令呪が消えることはないわ」
「はい、その通りだ。今も凛から私に魔力が供給されているのがわかる」
「それで? それがいったいどうかしたのかしら」

 言いながら、右手の甲を掲げた凛の眼光は、先ほどよりますます強くなっていた。

 令呪――マスターとサーヴァントを霊的に繋ぐ契約の証。凛の右手にも、紅い血の色で彩られた紋様が刻まれて脈打つように光っている。
 かつてはシロウの左手にもこの令呪があり、私と彼とを結び付けていた。
 だが、私の油断に端を発する紆余曲折の果てに彼から令呪は失われ、最終的に凛にその紋様は刻まれた。

 令呪には、マスターとサーヴァントを霊的に繋ぐ以外にもう一つ役割がある。
 それがマスターのサーヴァントに対する三度の絶対命令権。つまりマスターは自身のサーヴァントに対して、三度までならたとえそれが何であろうと、強制的に命令を下すことが出来る。

 凛の令呪に残された、私に対する命令権は残り二回。

「凛――令呪を私に使ってください」

 それが、私の望みだ。

「……ふーん。まさかセイバーがそんなことを言うなんてね。思ってもみなかった。意味、わかってて言ってる? それ」
「無論。サーヴァントの身でありながらマスターに令呪の使用を求めるなど不遜この上ないが……それでもです」
「そ。で、セイバーはわたしにいったい何をさせたいわけ?」

 ――そんなことは決まっている。

 この想いが、私がシロウを欲しいと望む気持ちが邪魔になるのなら。


「凛――私のシロウへの想いを――消せと。無くせと。彼を想うなと命じてください」


 もう、これしかない――。

「凛は気づいているでしょう。私はシロウのことを愛しいと想ってしまった。シロウの隣には貴女がいるというのにこのような想いを抱いてしまったのです」
「そうね。正直なところ言わせてもらえば、けーっこう前に気づいてたわよ。っていうか、士郎と一緒に買い物に行くときのあんたを見て気づかないほうがどうかしてるわ。まったく、あれは犬だったらもう、しっぽぶんぶん振ってるところよ」
「そ、そうでしょうか……? ですがシロウは」
「だから、あの鈍感ばかのとーへんぼくは唯一の例外。あいつが気づくんだったら、六歳の小学生だって気づくわよ」

 言って凛は、

「ったく、あのナチュラル女殺しめ」

 などとぶつぶつ言いながら舌打ちをした。

「ともかく凛、早く私に令呪を」
「――ああ、そうね。……あんた本気?」

 凛は半眼になってこちらを睨んでくる。
 私はその視線に真っ直ぐ合わせ、気圧されぬように見つめ返す。
 だが凛も私を馬鹿にしている。このようなことを――冗談などで言えるはずがないではないか。

「凛、私は本気です。冗談や中途半端な覚悟で口にしたと思われるのは心外だ」
「ん? わかってるわよそんなこと。衛宮君のことを大好きなセイバーが、冗談でそんなこと言えるわけないじゃない」
「ッ! だ、だったら何故そのようなことを聞くのです」
「わたしが言いたかったのはそういうことじゃなくってね――まあ、どうでもいいわ。で、セイバーはなんだってまた突然そんなこと言い出すのよ」

 凛の口調は、まるで私を貶めているかのような響きに包まれている。
 先ほどから妙にこちらを挑発するようなことばかり口にするし、それになんだあの眼は。まるで『オマエは馬鹿か』と言わんばかりの、そう……ちょうど、あのアーチャーを彷彿とさせるあの眼は。
 私がいったいどれだけの想いでこのようなことを口にしているのか――同じ女であるのに、それも理解しようとしないのか?

 やはり凛は良くない。
 確かに魔術師としては超一流だが、私のマスターとしては、シロウに比べて天地ほどの差がある。
 シロウはいつだってこの身を気遣ってくれたし、己には厳しく、常に身を正して清々しい。それになにより作る食事はとても美味しい。

 翻って凛はどうだ。
 朝はだらしないし、食事だってシロウが作ってくれるのに頼りっぱなし。それになにより、凛はいつもいつもシロウをばかにする。
 だいたいなんだ。何故私の気持ちに気づいていながら、ああも私の前でシロウに甘えるのだ。
 まったくもって良くない。

 今更ながらに――あの時にシロウとの絆を失ったことが悔やまれるが――それこそ今更だ。

 それにまだ誓いは失われていない。だから、そのためにも私はシロウへの想いを断ち切らねばならない。

「シロウの隣には……既に凛、貴女がいます。だから、そこに私の立場は既に……ありません」
「まあ……セイバーがそう言うならそうなのかもしれないわね。わたしもそのつもりだし?」

 ――凛の言葉はいちいち私を抉る。

「ですから私は……。この身がいつまでもシロウへの想いを捨てられないままでは、私はいつか、代わりに自分の誓いを捨ててまで彼を求めてしまうかもしれない。そんなことは、そんなことだけは絶対に許されない。この身は生涯、シロウを護り彼の敵を討つ剣であると誓ったのだから」
「ふぅん……生涯、ねえ……」
「――っ!」

 だから、なんだって凛はそのような目で私を見るのか。
 よもや、馬鹿にしているのだろうか。この身を嘲っていると?

「凛! あなたは――」
「まあいいわ。わかったわかった。セイバーがいいって言うなら望み通りにしてあげるわよ」

 だが、私が激昂するその直前に凛は右手を掲げて、魔力を練り上げていた。
 ――まあ、いい。
 いろいろと彼女には言いたいことがあるが、それはもういいだろう。

「――Anfangセット

 これで……これで私はシロウへの想いを捨て去ることが出来る。
 これで私は元の私に戻ることが出来る。

Vertrag令呪に告げる……Ein neuer Nagel聖杯の規律に従い、――」

 凛の声が朗々と詠唱を詠う。彼女の足元から魔力の風が巻き起こる。
 この詠唱が完成すれば、令呪に込められた絶対命令権は発動する。

 ――後悔なんてない。これでいいのだ、これで。

 私がシロウを愛しいと想う気持ちはこれで失われるが、私がシロウを大切と想う気持ちが失われるわけではない。この身を賭してシロウを護れるならば、それでいい。彼の傍にあり、彼の望むことを助けるのが私の望みなのだから。

 ただシロウが、そこにいてくれるならば。私は――。

 ――私は。シロウを。

 ……

 ……シロウ。

 ……シロウ。

 ……シロウ。シロウ。

 ……シロウ。シロウ、シロウ。シロウ……シロウ。シロウ、シロウ――シロウ!

「――Ein neues Gesetzこの者、我がサーヴァントに Ein neues Verbrechen戒めの法を重ね給えッ――ッ!!」

 凛の詠唱が、その最中に何故か『ぶちり』という音を混ぜ込みつつ最後まで奏でられ――

 ――そして、こめかみの辺りに巨大な青筋を張り付かせた凛がその絶対命令権を行使する。







「あー、もうッ! ごちゃごちゃとつまんないこと気にするんじゃないッてのよ、このおおばかむすめーーーッ!!」







 それは何故か――私が予想していたのとはだいぶ違う言葉で発動し、凛の右手から溢れ出した魔力の輝きが薄暗い土蔵の中を満たし塗りつぶした。



◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆



「――な」

 光が収まって、最初に訪れた感情は戸惑いと驚き。
 そして視界に、何故か怒りを湛えている様子の凛の顔が入った瞬間、私も彼女と同じ感情に自分を任せた。

「何をしているのですか凛! これでは約束が違う!」
「は? 約束ですって? そんなものした覚えはないわね」
「くっ……凛、やはり貴女は私を馬鹿にしていたのですか!?」
「馬鹿にしてる? ――馬鹿にしてるですって?」

 そのひとことでスイッチが入ったかのように、凛は足音も高くずかずかと近寄り、私の胸元を荒々しく掴み上げた。

「ふざけんじゃないわよ! 馬鹿にしてるのはあんたのほうでしょうがっ!!」
「わ、私が……? 私がいったいいつ凛を馬鹿にしたと……」

 その気迫に押され、不覚にも口ごもる。
 ぎりぎりと掴み上げる凛の力は思った以上に強く、只でさえ背丈の小さい私の足は床からかかとが浮き上がっていた。

「あんたね、何が『シロウへの想いを消してくれ』よ、ふざけんじゃないわよ。あんたが望んでもいないことに力を使ってやるほどわたしは安くないの。何様? あんたわたしのサーヴァントでしょ? 主にホラ吹くなんていい度胸してるじゃない」
「だ、な、何を言うのか! 私が偽りを言うなどとあり得ない! 凛は、凛は私がどれだけの想いであんなことを口にしたと――」
「あぁっ、うるさいうるさいうるさいっ! だったら最初っから泣いてんじゃないわよッ!」

 ――え?

 私が、泣いている?

「あんたが泣いたりするからいけないのよ。そのせいで口が滑ったのよ。そうでなかったら容赦なく消し去ってやってたわ、あんたの想いなんて」

 触れてみれば――確かに。
 私の頬には涙の雫の足跡がはっきりと残っていた。
 触れればすぐに乾いて消えてしまうくらいに微かなものだったが――。

 確かに、私は泣いていたようだ。

「ああ、そうよ。消してやってたわよ。後から嫌だって言ったってやめてなんかやらなかった。そうなってから自分がどれだけ馬鹿なことを言ったのか思い知らせてやってたわよ。ふん! そうなった時は既に手遅れなんだけどね!」

 何故私が泣いていたのだろう。
 私は涙というものをこれまでに流したことがない。乾いて、頬にひりつくようなこの感じも、喉の上の方に熱いものが絡まるような感じも何もかも初めてだ。
 私は生まれてから泣いたことがない。なのに何故私は泣いていたのだろう。

 などと――考えるまでもない。結局、凛の言ったことは正しい。
 私は心底からシロウに囚われている。私は自分が思っていた以上にシロウを愛しすぎていた。
 最早、想いを捨てることなど叶わない。

「そしたらめそめそとベソかいてるあんたの前で思いっきり士郎に甘えて、優しくしてもらうのよ。思いっきり見せ付けてやるわ。ええ、これっぽっちも容赦なんかしてやらないんだから! ――って、聞いてんのあんた!?」
「はい、凛。聞いています」

 そのことに私自身は気づかず、凛は気づいていた。
 悔しいけれど経験が違うというのだろうか――凛は、少なくとも私よりも女というものを理解していたのだろう。だから同じ女であり、同じ男に想いを寄せている私の真の望みを、いとも簡単に看破した。

 まさか涙を流すほどに、シロウを想っていたとは、私自身思っても見なかった。私は本当に……己のことを理解していなかった。

「凛、すまない。そして感謝します。貴女のおかげで私は大切なものを失わずにすんだ」
「え? あ、うん……」

 できる限りの感謝を込めて凛に頭を下げる。先ほどまで何事か言っていた彼女は、口を開いたままなにやら戸惑ったように口ごもっていた。
 凛に礼を言うこの気持ちは本物だ。これまでにぶつけられた彼女の言葉の数々や視線の意味も、今ならなんとなくわかる。
 何故なら凛はとても真っ直ぐで、ついでに好戦的な人だ。

「――別に。こんなつまんないことでリタイアされても不戦勝みたいでイヤじゃない」

 ほら、こんな風に考えるような人なのだ。

 訂正しよう、凛。貴女は私のマスターとして相応しい。
 シロウと比べるのは意味のないことだが、ある一部分に関しては彼よりも尚、と言えるだろう。勝負にかける意気込みというのか、もしくは闘争本能と言うのが正しいのだろうか。それが人一倍強い。
 凛は、間違いなく獅子の気質を持っている。己が好敵手と認めた相手に、戦いもせずに勝つなどと認めることが出来ない。

 そしてついでに言うなら、彼女もまた素直に己を表現できない人だ。今もなんだかんだと憎まれ口を叩きながら、彼女は明後日の方向を向いて頬を染めている。あれは照れているのだ。
 シロウによれば学校でも凛はそうらしい。彼が言うには『猫の皮を被ったあくま』とのことらしい。



 さて――当初の予定とは違ってはいたものの、令呪は発動した。
 その効果は、確かなようだ。

「凛」

 何故なら今の私はとても気持ちがすっきりとしている。
 今まで澱み、絡み合い、自身で自身を縛り付けていた心が解放されてまるで羽が生えているかのようだ。今ならば空を飛び、そのまま躊躇なく彼のところへと飛び込んでいけそうなくらいに、心だけでなく何もかもが軽かった。

 そう、凛の言葉を借りれば――容赦するつもりは最早ない、といったところか。

「今更遅いのですが――後悔しませんね?」
「フッ……あんた、誰に物言ってんの?」
「――そうでしたね。ではこれから私と貴女は敵同士だ」
「ええ、そうね。言っておくけど、正々堂々なんて言葉、わたしには通用しないから。自分の目的を達するならば手段を選ばないのが魔術師よ」
「はい、それならば同感だ。私とてこの勝負に騎士道精神を持ち込むつもりなどありません。何故ならばこの戦には敗北は許されないのだから」

 互いに視線を交わす。その間に笑顔などない。
 当然だ、これは互いの想いを懸けた戦いなのだから。故にその視線で互いを射抜くのみ。それは何よりも静かな宣戦布告。
 薄暗く月明かりがまばゆい土蔵の中、私とシロウの聖域で、静かに鋭く勝負の幕は上がる。

 今ならば胸を張って誇ろう。
 私はエミヤシロウを愛している。誰にも渡さぬと自身に誓えるほどに。
 ――ああ、そう思っていたら急にシロウに会いたくなってしまった。
 先ほどは逃げるようにしてしまったが、今はすぐにでも彼の顔を見て声を聞きたい。

 そう思い、足を踏み出そうとしたとき、

「ま、そうは言ってもこの戦い、わたしのほうが断然有利なんだけどね」

 凛がその黒髪をかき上げながら、不敵な――友好的と言うにはあまりにも程遠い――笑みをこちらに向けてきた。

「……それはどういうことでしょうか」

 踏み出そうとした足を止め、凛のその笑みを静かに見つめる。
 はっきりと聞き捨てならない言葉だ、それは。確かに凛は今の私よりもシロウに一歩近いところに踏み込んでいる。ただし、それはあくまでたったの一歩だけであって、このように勝利を確信した笑みを浮かべるほど確定的なものではないはず。
 敵を知り、己を知れば百戦して危うからず。
 この時代に召喚され、シロウとの日々を過ごしている間に覚えた大陸の兵法書の言葉だ。まったくもって理にかなった言葉だと思う。

 故に探るような視線で睨む私を、凛はあろうことか鼻先で笑って吹き飛ばしてくれた。

「ねえセイバー……今、あなたの現界を支える魔力がどうやって供給されているか、貴女知ってる?」
「それは凛、貴女が――」
「んっふっふー、実はねー、それだけじゃなかったりするのよ、これが」

 そう言って凛はいつもシロウを馬鹿にするときに見せる笑いを私にして見せた。
 ……ああ、シロウ。私はこんなことでもあなたと通じ合ってしまいました。シロウがいつも悔しそうな表情をしているのが良くわかります。
 何故ならば、私もついつい聖剣を抜いてしまいそうになりましたから。ええ、凛のこの笑みは人の身が浮かべるものではありません。聖人たちが説く、天より墜とされた者たちが浮かべるに相応しいものと言えるでしょう。
 凛は必死に自制している私を嘲笑うかのように顔を寄せてきて、私の耳に囁くように告げてきた。

「んふー、じ・つ・は――わたしを通して士郎の魔力も供給されてるのよねぇ……セイバーちゃんにはっ」
「! なっ!?」

 ばばっ、と激しく頭を振ってそちらを向く私に、凛は逃げるようにして一歩飛びのく。
 い、今……非常に聞き捨てならないことを聞きましたっ! というか、そんなの初耳です!

「凛! 今の話はどういうことですか!?」
「どういうこともこういうことも、そういうことよ? セイバーにだったらわかるわよねぇ、意味が」

 にやにやしながら『くふふっ』と非常に気分に良くない笑いを漏らす凛。
 ……くッ。よもやこの私がついていながらシロウの身を護ることが出来なかったとは。なんたる不覚。
 だが、そうとわかれば最早これまで。

「……ならば凛。以降は私に魔力を供給していただかなくて結構。私はシロウから魔力をいただくことにしますから」
「はぁっ!? な、なに馬鹿なこと言ってんのよ! 士郎の魔力であんたの現界を支えるなんて出来るはずないじゃない!」
「そのようなものどうとでもなります。ええ、それよりもシロウがあなたの毒牙にかけられているという現実を見過ごすことのほうが、人として不出来だ」
「……そうかしら?」
「そうですとも」

 ああ、そうだ。これは胸を張ってその通りだと言える。私のためにシロウにそのような重荷を背負わせるわけにはいかない。
 ならばその――ちょ、ちょくせつのほうが……あの、効率が良いのではないのでしょうかと思うのですが。……ええっと、はい。

 ――と、凛がこちらを睨んでいる。それこそ飛ぶ鳥を落とすかのような勢いを込めた視線だ。

 私たち二人の間に細い糸の様に張り詰めた緊張感が交差する。互いに込めた視線の棘は既に何本も突き刺さり、シロウであるならば胃腸に変調をきたしているか、その前に逃げ出しているだろうが、今の私たちはこの程度では何の痛痒も受けることはなかった。

「……だいたいあんた、前から気に入らなかったのよね。士郎はわたしのモノだってのに、のこのこあいつの後ついて買い物行ったりして」
「……そうですね。ならば言わせてもらえば、凛は少しシロウにくっつきすぎだ。彼の行動の妨げになると何故理解できないのです?」
「……」
「……」

 張り詰めた空気はますますその鋭さを増し、今や錯覚で身を刻むかと思わせるほどにまでなっている。もしこの場にシロウがいたならば、何もかも悟った世捨て人の如き表情を浮かべるか、とりあえず謝っているだろうが、今の私たちにはそよ風ほどの影響も与えることはなかった。

「わたしを差し置いて、少し士郎に優しくされすぎなんじゃないの、セイバー?」
「あれだけシロウに甘えさせてもらっている人の言うことではありませんね、凛」
「……」
「……」

 いつの間にか土蔵の外から生き物の気配がなくなっていた。涼しげに声を奏でていた虫たちの鳴き声も消え果てて、しんと静まり返っている。シロウであれば気配を察知し、半径三十メートル以内には近づかないだろう。彼は小動物じみた危機察知能力を持っている。

「わたしは士郎の恋人で、あなたはしがない護衛騎士なのよね? だからあいつのことはわたしに任せておいてくれればいいのよ、セイバー」
「そうですか。ではこれよりは彼の身体だけでなく、心までも護って見せましょう。ええ、彼の最も近いところで、生命尽きるまで。凛、ご苦労様でした」
「……」
「……」

 無言で左腕の袖をまくりあげ、掲げる凛。刻まれた魔術刻印は、薄暗い土蔵の中でも怪しい光を放っている。
 まあもっとも、私も既に魔力で成す銀の鎧を紡ぎ上げ、この身に纏っているのですが――。



◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆



 一方その頃の衛宮士郎――。


「まったく、セイバーも遠坂もなにやってんだかな。もうじき晩飯だって言うのに」

 愛用のエプロンを身につけ、台所で夕飯の仕度をしていた手を止めて士郎はふと、土蔵がある方向に目を向ける。

「……なんだろう。俺の直感が今土蔵に行くなと全力で叫んでいる――!」

 そこに件の彼女らがいるとなんとなくわかりながらも、衛宮士郎の本能は自身に土蔵を行くことを禁じていた。

「……二大かいじゅう大決戦?」


 ――彼の直感は概ね正しい。



◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆



「あっ! もう、ちょっと士郎! 沁みるじゃないっ」
「うるせー、黙って大人しく治療されてろよ、遠坂。ほら、今度は右のほっぺた出せよ」
「だって沁みるのよ、痛いのよ!? もっと優しくしてくれたっていいじゃない! ――んっ、沁みるってば!」
「いつもは俺にもっと痛いことしてくれるだろ? ほら、終ったよ」

 土蔵で繰り広げられた私と凛の初めてになる不毛な戦いは、結局最後は格闘戦に移行し、土蔵に甚大な被害を与えて収束した。
 その後、全てが終った頃にようやく現れたシロウに二人揃って叱られて、現在は居間で彼の手当てを受けている。

 ――はぁ、まったくもって不覚です。まさか自分があのように我を忘れるなどとは。

 シロウが土蔵に現れたとき、私たちは重なり合ってお互いの髪を掴み合っていました。おかげできちんと束ねていたはずの髪はほどけてしまっていたし、あの時から借りっぱなしの洋服も袖が破れてしまった。
 凛も、私と殆ど同じような有様で、そんな私たちを見てシロウは随分と久しぶりに本気で声を荒げていた。

 曰く、この後片付け、誰がすると思ってるんだ――と。

「ほら、今度はセイバー」
「あ、すいませんシロウ……」
「そう思うならケンカなんてするなよ」
「はい、申し訳ありません……」

 シロウは先ほどから険しい表情を崩そうとしない。……まだ、怒っているのだろうか。
 修理しかけていたすとーぶを再び壊してしまったことがそんなに腹立たしかったのだろうか。

「……」

 凛のつけた右腕の引っかき傷を消毒しながら、シロウはむっつりした表情で黙っている。
 怒鳴られることよりも何よりも、話しかけてもらえないのが一番怖くて、いつもの柔らかな表情を見せてくれないのが悲しい。
 ……嫌われて、しまっただろうか。
 ……だとしたら、どうしたらいいのだろう。
 ひりつくように痛む傷口など気にならない。そのようなことより今はシロウのことが一番気になった。

「あの、シロウ」
「なに?」
「その……怒っていますか……?」
「当たりまえだろ」
「あっ……」

 傷口に絆創膏を貼ってふさぎ、シロウはひどく真剣な顔で私を見た。

「ご、ごめんなさい……」
「まったくだ」

 言われて最早顔も見ていられず視線を下に向けて畳を見つめる。視界に入った膝の擦り傷が憎らしかった。
 ――なんであんなことをしてしまったのか。
 ――あんなことしなければ良かった。
 そう思って後悔しても遅い。想った人の前であのような失態を演じ、その挙句がこれだ――。
 ……なんて、愚かなことを。

「セイバーも遠坂も、女の子なんだぞ? そこんとこわかってるのか、二人とも」
「……え?」

 本当に、不機嫌そのものの口調のシロウの声に思わず顔を上げる。
 そこにあったのはやっぱり不機嫌そうなシロウの顔だったけど、それは――

「顔に傷なんて作りやがって……ったく、残ったらどうするつもりなんだよ」

 ――それは、ちっとも怖くもなんともなく、逆に何だか嬉しくなった。
 呆然と彼を見つめる私の顔にシロウの手が触れ、遠慮も何もなく傷口に消毒液を当てる。それは少しだけ沁みて痛かったが、その分、頬に触れるシロウの手のひらが温かくて心地よかった。
 どうということはないし、そもそもシロウはこういう人だった。ただ彼は、私たちのことを心配して怒っていただけだった。
 凛は私と違って恐れていた様子などなかったから、きっとシロウのこうした気持ちになど、とうに気づいていたのだろう。……こういうところで彼女と私の差を思い知らされて、少しだけ悔しい。

 が、今はただ――

「ほら、終ったぞセイバー。もうこんなことすんなよな。遠坂も、いいな」
「ふん、だ。……わかってるわよ」
「……はい。承知しました、シロウ」
「っ!? セ、セイバー!?」

 ――もう少しだけ、この手のひらのぬくもりを分けていて欲しい。それだけで私は満たされるのですから。

「ちょっ、ちょっとセイバー、あんたひとの士郎に何やってんのよ!」
「い、いや、おまえこそちょっと待て遠坂。いつから俺がおまえのになったんだ?」
「む! 今更そんなこというワケ、あんたは。わたしの初めて奪ったくせに」
「なっ……! お、おまえ、いきなりっ……セイバーもいるのに、なに言ってんだよ!」
「そんなの今更気にすることないわよ、全部ぶちまけちゃったんだから。なによ、セイバーに知られたらまずいことでもあるの!?」
「な、なんですとーーーーー!?」

 シロウと凛がなにやら睦まじくしているが、今の私にはそれすら気にならない。
 頬に押し当てた少しごつごつしたぬくもりと、自分の手で包んでいる意外なほどに大きな彼の手のひらを感じることに集中しているのだから。



 私はこれまで女であったことを意識的に捨てていた。それは王として生きると誓った私にとっては当然のことであり、そうして長い年月を経てからは、それが無意識的なことへと変化していた。
 つまるところ――この身におきていた変化の正体は、私が捨てていた『女』の部分が、シロウのおかげで無意識に蘇ってきただけのことだった。
 それはあり方としては自然で、少しもおかしいことではない。

 しかし――この身は王として生き、国のために生涯を懸けると誓った身。それを捨てて女である自分を取り戻すなど、騎士王として生きた自分のあり方からすればあまりに不自然なことだ。
 今まで王として生きてきた自分に対する裏切りであり、あの戦場で骸となった騎士たちへの裏切りでもある。
 それは重々承知している。


 だが――許して欲しい。
 この、頬に感じ、手にしたぬくもりは捨てることは出来ない。一度自覚した想いを忘れることは出来ない。
 何故ならそれは、私があの時に捨ててきて――そして今思い出してしまった、アルトリアという名の娘がユメに見たことなのだから。


 この身は所詮、英霊であり人間ではない。いつしか凛が逝きシロウが生涯を全うした時に、私はアーサーとしての現実を取り戻すだろう。
 だが、それまではユメを見させて欲しい。
 いつまでも流れ、そして止まっている時のほんの一時の間――たかが人が生まれ死んで行くまでの数十年。
 その間だけ、私がアルトリアに戻ることを許して欲しい。

 シロウ。
 シロウ――私の愛しい人。

 彼の傍で私はユメを見る。私はそれを自分に許したいと思う。

 何故なら私は――今、とてもおかしいのだから――。



オマケ


あとがき

 セイバー一人称。
 しかも、うにゃうにゃと悩んでいるセイバー一人称。

 やばいくらいに難しいッス。

 難しすぎて、何だか彼女の気持ちとやらをちゃんと表現しきれなかったような気がするよぅ。とりあえず無理やりキレイに終らせてみました。
 文章能力不足か、プロットの練り具合が甘かったか。もしくはその両方か。なんにせよ修行不足というヤツである。喝。
 てか、後半セイバー大暴走。こんなん、俺のセイバーじゃないやい、という意見大多数と見た。令呪の力はそれだけ凄かったってことで笑って許して。

 ちなみにプロット時の仮題は『セイバーのやきもち』だったり。何だかまったくかけ離れたものになっているなぁ……。
 つーか、令呪にそんなことできるのか? とか、聖杯ないのになんでやのん? みたいなツッコミは御勘弁ください。


感想、ご意見などございましたらこちら、もしくはBBSまでよろしくお願いします。

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