らいおんの小ネタ劇場

第 141 回目から第 150 回目まで


第 141 回 : 2004 年 11 月 13 日「文化祭・四回目」

「ところでシロウ、お腹がすきましたね」
「それはたこ焼きを食いながら言うセリフじゃないとは思うが概ね同意だな、そろそろ昼時だし」

 シロウがしている時計を隣から覗き込むと、既に時刻は昼の一時を回って分針は半分の位置まで傾いていた。私たちが交代したのがちょうど正午のころでしたから、いつの間にか一時間半もたっていたということになる。

「こんな時間になっていたなんて全然気づきませんでした……」
「まあ、そんなもんだろ。セイバー、楽しいんだろ?」
「ええ、それはもう」

 本心から楽しいと、そう思う。だからシロウの問いにも素直に頷いて答えた。

「だからだよ。……うん、やっぱりセイバーを連れてきて良かった」
「そうですか?」
「ああ。セイバーにはさ、いろんな楽しいこと知ってほしいからさ。この世にはおまえの知らない楽しいことがいっぱいあるから」
「そうですね……確かに私はこのような楽しみを今まで知りませんでした」

 雑多な人ごみの中に活気が溢れかえって、思わず引きこまれそうになる空気。今ここでなら何をしても許されてしまいそうな、そんな雰囲気。
 数多くの出し物の中には、冷静な目で見たら確かに『くだらない』と評を下してしまいそうなものだってある。
 だがそんなことは今日この場では関係ない。この空気の中だったらどんなものだとしても良いのだろう。この祭りはそういう祭りだ。

「ですからシロウ、今日は私の知らないことをあなたが教えてくださいね」
「もちろん。それじゃさしあたっては腹ごしらえといくか」
「はい。シロウの料理には及びませんが、こういった場所でいただく料理にはまた違った良さがありますし」

 多少雑ではあるかもしれないし、普段口にしているシロウや桜の料理にはもちろん及びませんが、周りの雰囲気が違うだけで料理の味も違うと感じるのだから不思議な話です。シロウの料理も一人で食べるよりは大勢で食べたほうが美味しいと感じますし、きっとそれと同じことなのでしょう。


「ふぅん、中華料理か?」

 箸袋の柄やメニューの柄も中華風ですし、まさかレンゲを使う和食や洋食があるとも思えない。ちょうどそこにあったので適当に入ったのですが、中華というのも悪くはありませんね。わりと久しぶりですし。

「とりあえずメニュー……」
「? どうしたのですか、シロウ?」

 メニューを開いてシロウ凍りつく。はて、いったい何事でしょうか。
 だが彼の手元に視線をやって、凍りついた理由がよくわかった。なるほど、ここはあの店だったのですか。
 しかし、いくらなんでもありとはいえ、学園にあの店が入ってくるのはさすがに予想外だった――というより、あってはならないことです。
 とにかくここは――。

「シロウ、出ましょう」
「ああ、出よう」
「へい、マーボーお待ち」

 互いに頷き立ち上がり、足早に出口に向かう――前に、割烹着を着た言峰が私たちの前にそれを並べていた。

「待て言峰。俺たちはまだ注文なんてしてないぞ」
「するまでもない。見ただろう、衛宮士郎。この店のメニューは麻婆豆腐一択だ。さあ、食え」
「食うかッ!」

 言峰が運んできた麻婆豆腐から漂ってくる香りは達人の手によるものであることを示すように、食欲を刺激する良い香りだ。
 しかしながら、それを完全に台無しにしてしまうほどこの麻婆豆腐は赤かった。こってりと絡みつくような濃厚な赤は、この世全ての赤を集めてそれでもなお足りぬとばかりに香辛料を投入したかのような赤だ。シロウでなくとも食えと言われれば否と即座に一蹴するだろう。
 目の前の割烹着を来た神父は数少ない例外だ。シロウの言葉にふむ、と頷くと、

「だが衛宮士郎。貴様がこれを食わぬと言うなら、料理の代金を払った上で更にあれらが代わりに食うことになるが」

 そう言って背後に視線をやる。
 促されてそちらを見るとそこには、なんというか予想していて然るべき二つの人影が直立不動の体勢でそこにいた。

「ランサーにギルガメッシュですか。そこでなにをやっているのですか?」
「なんでもいい! なんでもいいからおまえらとっととそれ食え!」
「いや、それは勘弁してほしいな」
「雑種、王の食事を口にする栄光に浴することを許す。ありがたく食うがいい」
「この期に及んで偉そうだなおまえ。いつも思うんだけど、そろそろ自分がどんな立場なのか自覚したほうがいいぞ」

 同感です。確かにギルガメッシュは、かつては英雄王としてこの地上全てを統べていたことがあったかもしれない。しかし今の彼は単なる言峰教会の居候にすぎない。おまけに聖杯戦争が終わってからというもの、いろんなことがいろいろとあって英雄王としての威厳は全て無かったことになりました。
 それがわかっていないのは本人だけです。今では我が家に住み着いている猫たちでさえそれを知っているというのに。

「しかし何故二人とも逃げないのだ。貴公らがその気になればいくらマスターであるとはいえ、人間である言峰から逃げおおせることは容易いだろうに」
「ふむ。その問いの答えもまた導くのは容易いことだなセイバーよ。忘れたか、我々マスターにはサーヴァントに対する三度の絶対命令権がある」
「っていうか、言峰おまえ、こんなくだらんことのために令呪なんて使ったのかよ……」

 シロウが心底疲れた表情で吐き出した。
 だが言峰は彼の反応に、その鉄面皮を珍しく歪めて向けてきた。

「くだらなくはないな衛宮士郎。これは貴様と私の価値観の相違というものだ。他者の価値を己の価値でもって貶めるとは思い上がったものだな」
「……確かにその通りだが、事が激辛麻婆豆腐だと思うとなんかめちゃくちゃ萎えるな」

 これもまたシロウに同感です。
 というか、麻婆豆腐に何故ここまでの情熱を注げるのか、正直私にはわかりかねますが、まあ、その一念は立派であると言っても良いでしょう。

 ……か?

「それでどうする衛宮士郎、そしてセイバーよ。食うか?」

 最後にもう一度確認するように言峰が否やを聞いてくる。
 それに対する私たちの答えはもちろん決まっていました――。




第 142 回 : 2004 年 11 月 15 日「文化祭・五回目」

「……で、なんでまたお化け屋敷に入ろうなんて思ったんだ? 一回入ったじゃないか」

 暗幕に包まれた暗闇の中、隣に感じるシロウの気配が半ば呆れたような口調で聞いてきた。
 しかしそう言われても私も明確な答えは持っていない。強いて言うならば、
「ここは昼前に入ったところとは別のお化け屋敷ですから。それに桜のクラスの出し物でもありますし、少しだけ興味を感じたまでです」
「ふぅん……でも、内容なんてあんまり変わらないと思うぞ」

 どうせ同じお化け屋敷なんだし――と気のない言葉でシロウがつぶやいた。
 そう言われると確かに自分の行動が意味のないことのように思えてくる。元々、ちょっとした興味故のことですから執着も薄い。かといって一度入ってしまったものを今更引き返すわけにもいきませんし……。

「……まあ、いいではないですか。意味があろうとなかろうと、楽しめればいいのです」
「ん。ま、その通りなんだけど……さ」
「? なんですか?」

 暗がりの中なのであまり視界はよくありませんが、それでもシロウが辺りを見回して、首を傾げたのが気配でわかった。

「なんかさあ……入ってから一度もアクションがないってのはさすがにおかしいなー、って」
「む……言われてみれば確かにそうですね」

 先ほど入ったお化け屋敷では、入ったらすぐになにやら飛び出してきたり触れようとしてきたりしたものですが、今回はそれがまるでない。ただ、歩いているだけです。これでは面白みも何もありません。

「失格、ですね」
「あん?」
「ですからこれでは失格だというのです。お化け屋敷とは侵入者に恐怖を与えてこそ、その存在意義が満たされるはず。だというのに、何もしないままただ暗い中を歩かせるだけとは……了見違いも甚だしい」
「いや、セイバーさん。何もそんなにヒートしなくてもいいんじゃないでしょうか」
「何を馬鹿な。それがいったいなんであっても、一度始めたことに最善を尽くさなくてどうするのですか」

 たとえ人から見ればどれだけくだらないことであっても、自分たちで決めたことなのです。ならば全力を尽くすのが当然のこと。
 そんな当たり前のことすら放棄しているようでは、失格どころか敵前逃亡として論外の烙印を押される他ありません。

「こうなってはもはやこれまで。行きましょう、シロウ」
「ああ、はいはい。わかった――」

 と、前を向いたシロウの表情が凍りつくのとほぼ同時に、私の表情も同じように凍りついた。

「…………」
「…………」
「…………」

 目の前には暗い闇の中にぼんやりと浮かび上がった。まるで何かを嘲笑っているかのような白い仮面――。

「おわああッ! び、びっくりしたぁっ!」
「あ、あなたはハサン・サッバーハ……ですか?」
「如何にも」

 暗闇の中それだけ浮かんでいる仮面は、したりとこっくり頷いた。それだけを見れば滑稽なのだが、油断していたところに突然現れてはさすがに驚かずにはいられない。
 シロウはあからさまにそれを表に出していて、私は傍目には平静を保っていられている……と、思う。しかしながら、実際のところは、私の胸もいつもよりも少しばかり早く鼓動を打っていた。

「で、でもなんだってあんたがここでこんなことやってるんだ?」
「うむ。実は先日、ライダー殿に頼まれたのだ」
「ら、ライダーに? ……そっか、この演出はライダーの仕業だったのか」
「くっ……そうだったのですか。私としたことが……」

 そうと知っていれば油断などしなかったものを。……いや、これは言い訳にしか過ぎないか。
 無念です……。おそらくライダーはこちらからは見えないどこかで私たちの様を覗いているはず。この失態、後日何を言われるかわかったものではない。脳裏にまで彼女の薄い笑いが浮かんでくるようで……ますます無念です。

「その様子ではライダー殿の思惑通り、驚愕に身を浸したようだな」
「そ、そりゃあまあ……あれで驚かないほうがどうかしてるって」
「認めたくはありませんが……今回ばかりはライダーに勝ちを譲る他ないでしょう」
「そうか。ならば私もわざわざこのような道化芝居に付き合った甲斐があったというものよ」

 道化芝居……なるほど確かにそうかもしれないが、その道化芝居の主役にされて見事に醜態を晒した身としては、さすがに釈然としないものがある。

「ところで――」
「ん? ……なんだよ、今度は」

 突然口調を変えてきたハサンにシロウが警戒心を込めたいぶかしげな声をあげる。

「なに、たいしたことではない。実は私のこの仮面なのだがな」
「……それがいったいどうしたのですか?」

 アサシンであるハサン・サッバーハは顔を持たない英霊です。彼の仮面の下には人の持つ表情を全てそぎ落とした、文字通り無貌があるという。そしてその仮面は、彼がハサン・サッバーハである限りは決して外すことができない。
 ハサン・サッバーハは、顔も名も持たない英霊であると決められているからだ。

 だがそのようなことは今更語るようなことでもない。私もシロウも当然のようにそのことを知っていて、ハサン自身もまたそれを受け入れているはず。
 ハサンは私の言いたいことを読んで取ったのか、長い手をぱたぱたと振りながら、

「いやなに、たいしたことではないのだ。ただこの仮面の下が――」
「!」

 そう言って自身の顔に手をかけ、一気にそれを取り去って――

「ぃッ!?」

 その下にあった顔に、私は喉から込み上げてくる悲鳴を押し殺すことができなかった。

 だってそれは仕方がない。
 仮面の下にあったのが間桐蔵硯の顔で――更にそれが自分の目の前に迫っていたとしたら、誰だって悲鳴を殺すことなんてできやしない。

「あっ、ああぅ……な、何故ですかッ!?」

 情けないことに、まともに呂律の回らない舌を何とか動かして、ようやくそれだけを口にする。
 自分でも意味を成していない言葉だと思ったが、今のこの状況ではそれが精一杯だった。

「うむ。これがライダー殿の考えた最後のドッキリというやつだ。このために魔術師殿にはわざわざご老体にご足労願ったのだ。本当ならば今日はのんびりと日向ぼっこをして過ごすはずだったのだな」

 目の前にいる蔵硯の中から聞こえてくるハサンの声が私の問いに答える。
 なるほど……最初から仮面をかぶって姿を見せていたのは蔵硯で、ハサンは隠れて喋っていただけということですか。
 ここまで完璧にしてやられるとは思ってもみなかった。伊達に普段暇をもてあましているわけではありませんね、ライダー。

「あー、ところでセイバーさんや」
「……はっ、シロウ。なんですか?」

 すぐそばに見上げたところにあるシロウの顔は、相変わらず暗がりの中ではっきりとわからないが、何やら困っているように見える。

「? どうしたのですか?」
「いや、どうしたもこうしたも……いつまで俺にしがみついてるのかなー、って……」
「え? ……あ」

 ――シロウ本人に言われてようやく気がついた。

 私は今、これ以上ないほどにしっかりと、シロウの身体に腕を回して彼にしがみついていた。

「あ、あの……これはその、いえ……。すいません、シロウ……」
「いやまあ、このまんまでも俺はいいんだけどさ」

 そう言ってシロウは苦笑を浮かべて、空いた手でイリヤスフィールにするように私の髪の毛をかき混ぜる。

「魔術師殿……こういう時はやはり見て見ぬ振りをするのがこの時代の振るまいとして正しいのだろうか」
「かー」
「……ふむ。眠っておられたか。無理もない、セイバーたちが来るまで朝からずっとここで隠れていた故」

 などという主従の会話も今は殆ど耳に入らず、私は意識は頭の上にある手のひらに集中している。

「…………」

 シロウの手は私の手よりも二回りくらい大きくて、触れられると何故だかわからないがひどく安堵する。
 だからだろうか。
 シロウ自身から許可も得ていることだし、せめてここを出るまではしばらくこのままでいようと思っていた。



第 143 回 : 2004 年 11 月 18 日「文化祭・最終回」

 時間が許す限りの間、シロウといろいろなところを回りました。
 例えば虎が吠える弓道場だったり、人の限界を超える辛味を饗する中華料理店だったり、東方の妖怪変化が住まう屋敷もだったり――挙げてみるとなんだかとんでもないところばかりだったような気もしますが、それでも楽しかったか、と聞かれれば答えなど決まりきっている。
 それは多分に同行者の彼のおかげというのももちろんあるのでしょうが……私の気持ちに嘘偽りはない。今日という日に、私は満足していた。

 ――このまま終わっていたならば、ですが。

「まさか最後の最後でこのような仕打ちが待っていようとは……思ってもみませんでした」
「ちょっとセイバー! あんたもぶつぶつ言ってないでさっさと二番テーブルにお茶持ってく!」

 当喫茶店のメイド長である凛の声に押されるようにして、私はお盆を持って動き出す。
 普段まったく自宅の家事をしない凛がメイド長など片腹痛い――などとアーチャーは嘲笑ってマスターに本気で首を絞められていましたが、いかに彼女がメイドとして全くの無能力者だとしても、今現在、私を指揮する立場であるのは動かしようのない事実だ。
 そのこと自体には――仕方なくではあるものの――否やはありません。協力すると確かに約束したのは私なのですから。

 しかしだからと言って、きぐるみに続いてメイド服まで着させられるとは思いもよりませんでした。
 いや、むしろ考えないようにしていたというほうが正しいのかもしれない。凛を含めた他のクラスメイトも同じ格好をしているのですし。
 だが何故、私のメイド服のスカートだけこんなにも丈が短いのでしょうか。いかに白いニーソックスを履いているとはいえ、足元に冷たい風が吹き込んでくるのは、非常に頼りない感じがします。それに頭に乗せたカチューシャは獅子の耳を模っていますし、尾までついている。
 余計な飾りをつけるのは凛だけで十分ではありませんか。

「ケーキセット二つ、お待たせしました」
「あらセイバー、そんな仏頂面だとせっかくの可愛い格好が台無しじゃない」
「何を馬鹿なことを……」

 笑い声をもらしているメディアに、思わず今の感情をそのまま声に出してしまう。だがそれでも彼女は、それが可笑しいのだと言うように笑うのをやめようとしない。そして本来ならそんな妻を嗜めるべきである夫の葛木宗一郎は我関せず、といった顔で紅茶のカップを口元に運んでいた。

「だいたい何を考えて貴女はこの服を作ったのですか。このような……足元が露になるようなものを」
「決まってるじゃない。あなたに着せたら可愛いと思ったからよ」
「で、ですからその認識がおかしいというのです!」

 私が可愛いなどと、誰が信じられるだろう。このような女らしさに乏しい女を。
 無論、別に余人になんと思われようと私は構いはしないが、だからといって無用の恥までかかせられたいとは思わない。
 シロウに醜態を見せたいなどと、誰が思うものか。

 だというのに、メディアは笑顔を一転させて呆れたようなそれに変えてあまつさえ、

「じゃあ、誰かに聞いてみる? ……そうね、例えばあなたのマスターとか」

 などと言い出す始末で、私が止める間もなくウェイターをやっていたシロウを呼びよせていた。

「なにか用ですか?」
「め、メディア! 余計なことは――!」
「たいしたことじゃないわ。この娘……あなたのセイバーのことだけど、どう思うかしら?」
「どうって……なにがさ」
「決まってるじゃない。可愛いって思うかどうかってことよ」
「あ、ああ……そういうことっすか」

 言ってシロウの視線が私の爪先から頭までをなぞるように上下する。
 当然、私は彼のほうを見ることなどできやしない。何よりも羞恥が立ち勝って、叶うことならば今すぐこの場から去ってしまいたい気分だった。
 ……が、その一方でシロウがどう答えるかを気にしている自分がいるのもまた確かなのだ。

 自分でも現金なことだと思うし、そんな自分を卑怯だとも思う。
 しかし内心でどこか、期待してもいた……シロウの次の言葉を。

「それで? どうなのかしら」

 少し身を乗り出して聞いてくるメディアから身を引き、シロウの表情が少し引きつる。

「い、言わなきゃダメですか」
「当然」

 有無を言わせぬ断定口調。それ以外を許さぬと逃げ道を断たれたシロウは、仕方ないとため息をついて一つ呼吸を整えた。

「そ、そりゃまあ……可愛いに決まってるじゃないか。だってほら、セイバーは元がきれいなんだから何着ても似合うって言うか……。それにそういう格好も新鮮だし、俺は良いと思う。……うん、可愛いぞ」
「う……」

 視線を彷徨わせながら、頬を赤くしてシロウはそんなことを言ってくれた。
 これで……嬉しくないわけがない。
 私は内心を押し隠すのに必死で、多分表情がかなりおかしなことになっていると思うが、自分では見えないので良くわからない。ただ、顔がひどく熱いのできっとシロウと同じように私の顔色も変わっているのではないだろうかという想像だけはできた。

「だ、そうよ。良かったわね、セイバー。あなたのマスターはあなたを可愛いと思ってるそうよ」
「…………」

 無論、今回ばかりは彼女の余計なお世話にも感謝したいと思っているし、私自身も良かったと思っている。けれどそんなことを素直に口にするには少しばかり羞恥のほうが上回っていた。
 しかしそんなことはわざわざ口にしなくてもメディアならばわかっているだろう。私が俯いて表情を伏せていても、それだけで内心を読み取ってしまうくらいには、彼女は人の心を機微を悟るに長けている。
 これが今日一日の最後の思い出だというのならば、このような恥ずかしい格好をしたことも悪くないと思える。あえてもう一度着たいかと問われればもちろん答えは否ですが、今だけはこれを用意してくれた彼女に感謝したい。

「さて……そちらはそれでいいのだが、メディアよ」

 と、それまでずっと黙して気配すら断っていた宗一郎が不意に口を開いた。一瞬、こちらの内心を読まれたのではないかと思って驚いたが、どうやらそのようなことはないようだ。彼の意識はこちらに向いていない。
 いつの間に食べたのか、きれいになったケーキの皿を無言でシロウに差し出しながら彼はじっと妻である正面の女性を見つめる。普通ならば彼の静かな、そして深い湖の水面のような視線を向けられると居心地を悪くするかに思えるが、さすがにそこは慣れているのかメディアに動じた様子もない。

「なんでしょうか、宗一郎」
「うむ……セイバーにその格好が似合うというのはわかった。おまえや衛宮が言うことに私にも異論はない。だが――」

 そう言って背後に視線をやる宗一郎を追って、私たちも一斉にそちらを向く。
 そこには――あまりにも哀れすぎて、今の今まで視線を逸らさざるをえなかった、弓兵の姿があった。

「――あの男の格好もおまえが望んだことなのか?」
「……いえ、アレは違います。アレは彼のマスターの趣味ですわ」
「そうか。遠坂のか」

 ならば良い、そう言って頷きそれきり彼は興味を失ったように窓の外の夕焼け空に見るものを変えた。無論、私たちもだ。

 正視に耐えるものではない。特にシロウはそうだろう。
 いかにマスターの命とはいえ、メイド服を着る羽目になった己の一つの可能性を具現した男の姿など。

 己を殺し。
 ただ己を一個の機械と化し。
 ただ己が今為すべき事のみをする。
 感情など不要。心は冷たき硝子と徹す。

 確かにそれは己を維持しながらではできることではなかっただろう。自分を殺して、今ここにあるのは自分ではないと言い聞かせなければ――。
 あまりにも無常だった。
 今日という日のエミヤシロウの最後の思い出が……このようなものであるのだとすれば、あまりにも哀れだった。

 というか、泣かないでください、シロウ。



第 144 回 : 2004 年 11 月 20 日「猫と陽だまり」

「はうー、かわいいよぅー」

 陽だまりになった我が家の縁側で、私服の由紀香が腕に三毛の子猫を抱いてうっとりとした笑みを浮かべている。それだけではなく、頭にはぶちの猫を乗せているし、首の辺りには黒の子猫が襟巻きのように巻きつき、膝の上ではシロがうとうとと目を細めていた。

「由紀香は猫が好きなのですか?」
「はいっ、ふわふわしててにゃーって鳴いて、すごい好きです。あ、でも猫も好きですけど犬も大好きなんです」

 そう言って由紀香は、とても幸せそうに柔らかく笑い、釣られて私も笑顔になってしまう。彼女の笑い顔はとてもあたたかく、見ている人間の気持ちを柔らかなものにしてしまう。きっとそれは相手が誰であっても例外ではないのだろう。
 だからいつもはあまり抱かれることを良しとしない猫たちも、彼女の腕や膝で大人しくしているのでしょう。私が抱き上げた時など、自分が気に入らなければすぐにでも飛び出していくというのに、なんとも現金なものだと思う。

「セイバーさんはこの子たちといつも一緒にいられるんですよね。いいなぁ」
「それはそうですなのですが、時々悪さをすることもあるのですよ。食卓にすぐに上がろうとしたり、私の食事を取ったり……叱っても直らないのです」
「あ、猫って気紛れな生き物だって言いますから……」

 言いながら彼女は猫を撫でる手をやめず、その手元からごろごろと喉を鳴らす音が聞こえてくる。
 確かに、時折小憎らしく感じることもありますが、この子たちはとても可愛らしい。由紀香の膝の上にいる子の頭に手を伸ばして撫でてやると、今日は機嫌がよいのか、大人しく撫でさせてくれた。ふわふわとした毛並みと伝わってくるぬくもりが心地よい。

「おーい、セイバー……と、三枝も一緒だったか」
「衛宮君」
「なんですかシロウ?」

 居間から頭を出したシロウが上着を羽織ながら声をかけてきた。

「今からどこか出かけるのですか?」
「ああ、ちょっと晩飯の買い物に行ってくる。セイバーに一緒してもらおうと思ったんだけど」
「そうなのですか……しかし」
「うん、こっちはいいから三枝と一緒に猫と遊んでてくれよ」
「あ……ごめんなさい、衛宮君。そ、それじゃわたしも一緒に……」
「だからいいって。せっかく猫を見に来たんだから、こいつらと遊んでやってくれよ」

 しょんぼりと眉を落とした由紀香に笑いかけ、シロウは彼女の頭の上にいる猫のあごの下を引っ掻くように撫でる。――そして引っ掻かれた。
 なるほど由紀香は歓迎で私は許可。そしてシロウは不許可ですか。
 猫に限らず動物は食事をくれる人に懐くといいますが、我が家の猫は例外のようですね。

 と、そんな掠り傷など今更どうということもない私とシロウが平然としている中、由紀香は一人シロウの手のひらを見てなにやら慌てだす。

「だ、大丈夫? ち、血が出てるよ!」
「ん? ああ、別になんとも。唾でもつけときゃ治るさ。で、セイバー、今日はなんか食いたいものあるか?」
「そうですね……これといって特にはないのですが、和食にしていただけるのであれば嬉しい」
「了解。……ああそうだ、せっかくだし三枝も一緒に食ってくか、晩飯」
「――え?」
「いやほら、時々昼飯のおかず分けてもらってるお返し……っていうか、どうせなら一緒のほうが楽しいだろ」

 シロウの申し出に由紀香はきょとんと目を丸くする。
 が、それも一瞬で、すぐにいつもの――いや、いつもより少しだけ熱っぽい笑顔になり、首をゆっくりと横に振った。

「ううん、わたしも家の晩ごはん作らなくちゃいけないから」
「そっか。じゃあしょうがないか」
「うん。でも……ありがとう、衛宮君。誘ってくれて嬉しかったです」
「……いや。うん、まあたいしたことないじゃないし、友達だろ? 当たりまえじゃないか、このくらい」

 そう言いながらも明後日の方角を向いて頬などを引っ掻いているのは間違いなく照れくさいからなのでしょう。シロウもシロウで時々素直ではないところがある。それもひどく不器用で、端から見れば隠そうとしているのが丸わかりだ。
 由紀香にもそれがわかっているのでしょう。微笑みを更に深くして、照れているシロウを真っ直ぐに見つめていた。

「さ、さて……それじゃそろそろ行ってくる。早くしないと特売が終わっちまう」
「特売にはまだまだ余裕があると思いますが……ところでシロウ、他に誰か連れて行かなくていいのですか?」
「そうだなぁ……桜は今日は部活だろうし、そうだな――どうせ遠坂辺りが暇してるだろうから、あいつ連れてくよ」
「あっ、衛宮君。ちょっと待ってください」

 背中を向けて玄関に向かおうとするシロウを呼び止めて、由紀香は片腕に子猫を抱きなおし、もう片方の手で自分の服のポケットをまさぐる。

「これ、ばんそうこです。手から血が出てるから……」

 どうして都合よくそんなものがポケットに入っているの気になったが、ともあれ彼女は取り出した絆創膏を片手で器用に剥がしてシロウの手のひらの傷を塞いだ。絆創膏は小さくてピンク色をした、少女らしい可愛らしいものだった。

「はい、これでもう大丈夫。……それじゃ、いってらっしゃい、衛宮君」
「サンキュ、三枝。じゃ、いってくるよセイバー」
「いってらっしゃい、シロウ。どうか気をつけて」

 シロウはわかってる、と言わんばかりに手を振って、今度こそ私たちの前からいなくなった。きっと出かける前に凛の部屋に寄っていくのでしょう。
 それにしても今日は和食ですか……自分で頼んだことですが、とても楽しみです。シロウは基本的にどんな料理を作っても素晴らしいのですが、中でも和食は特に素晴らしい。想像するだけで幸せになれるというのはこのことです。
 凛が作る料理も桜が作る料理も、どちらも美味しいのですが、やはり私はシロウの料理が一番好きです。今日はいったいどんな――

「セイバーさんは、いいなぁ」
「――は、何でしょうか由紀香。シロウの料理は確かにそれはそれは素晴らしいものですが」
「え? 衛宮君のごはんがどうしたんですか?」
「……いえ、気にしないでください」

 どうやら夕食を楽しみにするあまりに少々我を忘れてしまっていたようです。我のことながら不覚。
 由紀香は少しのだけ小首を傾げていぶかしげにこちらを見ていたが、やがてすぐに視線を腕の中の猫に落としてゆっくりとその背中を撫で始める。

「セイバーさんはいいなぁって、ちょっとそんなことを思いました」
「ああ、猫たちのことですか? でしたらいつでも会いに来ればいいではないですか。この子らもきっと喜ぶでしょうし」

 私の言葉を証明するように、猫が喉を鳴らしながら由紀香の腕の中で自分を擦りつけるように寝返りを打つ。私としても由紀香は好きですから、彼女ならばいつ来ても快く迎えることができますし。
 そのことを伝えると、由紀香は顔を上げてこちらを向き、そしてどこか困ったように薄く微笑んだ。

「ううん、猫のこともそうですけどそうじゃなくて……」
「ふむ……ではいったい?」
「…………」


「…………」
「? どうしたセイバー、ぼっとしちゃって」
「あっ、いえ……少し考えごとを」

 結局、由紀香は何も語らず黙したまま帰っていった。彼女は何が羨ましいと言うつもりだったのだろう。
 あの時の、いつも朗らかな彼女が見せた儚げな雰囲気のせいで、そのことがやけに気にかかる。

「セイバー、茶碗空っぽだけどどうする? おかわりいるか?」
「そうですね……いえ、今日はこの辺にしておきましょう」
「なによ。あんたが茶碗三杯なんて珍しいじゃない。いつもだったらまだまだここからが本番だっていうのに。もしかして太ったの?」
「……凛、あなたとは一度互いの認識について深く語り合わないといけないかもしれない」

 などと、いつものように憎まれ口を叩いてくる凛に鋭く視線を返す。
 しかし太ったというわけではありませんが、確かに今日は少し食が進まないのは事実だった。無論、シロウの料理に問題があるわけではなく、彼が作ってくれた料理は今日もとても美味しい。
 それでも食が進まないのは、やはり先ほどのことがずっと気になっているからだろうか。何故こんなにも気になるのか自分でもわからないが……。
 これもある種の直感が命じているのではないかと――なんとなくそんなことを思ってしまっていた。



第 145 回 : 2004 年 11 月 23 日「勤労感謝」

 居間のテーブルの前でシロウがぼーっと座ってテレビを眺めている。
 普段は常に忙しく動いていて、休んでいる暇を探すほうが難しいシロウだが、今日は朝からずっと何もしていない。
 その代わりに働いているのが――

「セイバー、ごはんできたから運んでくれるー?」
「了解しました、凛。……ところでイリヤスフィール、洗濯は終わりましたか?」
「終わったわよ。後は干すだけから、ごはん食べたらやるね」
「ええ、それで構いません。桜、あなたも手を休めてください。食事にしましょう」
「あ、はーい」
「セイバーちゃん、お腹すいたよぅ」
「……大河、あなたは今日はおかわり禁止です。少しは働いてください」

 ――とまあ、私であり凛であったりするわけです。大河は全く働いていませんが。
 ちなみに働いていないのはシロウも同じなのですが、こちらはむしろ働いてはいけないので問題ないのです。しかし不思議なもので、するなと言われれば逆にしたくなるものです。シロウもその例に漏れず、朝からずっと落ち着きがない。

「なあ、セイバー……」
「む。何か用件でも? 何なりと申し付けてください、シロウ」
「あ、いや……俺もなんかしなくていいのかな」
「ですから、シロウは今日は何もしなくていいのです。私たちに任せて休んでいてください。今日は勤労感謝の日なのですから」
「はあ……」

 この問答もいったい何度目になるだろうか。
 勤労感謝の日とは普段働いている方のために与えられた休日。であれば、いつも働き尽くめのシロウが休みを取るのは当然のことです。だから今日は凛たちと諮ってシロウに休んでいただくために、家事の一切を私たちで引き受けることにしたのです。
 ちなみに今日はシロウのアルバイトの日でしたが、こちらもシロウの代わりにバーサーカーを派遣しておきましたので問題ありません。

 問題があるのはむしろシロウ本人と、ついでに大河でした。
 大河のどこに問題があるのかは言うまでもありませんし、今更言っても仕方のないことです。しかしシロウのほうはそうはいかない。
 シロウに休んでいただくのが本日の趣旨であるというのに、本人が妙に働きたがるのです。説得して一度は納得してもらったものの、それでもやはりじっとしているのは落ち着かないらしい。しかし今日ばかりは彼がなんと言おうと休んでもらわなければ。初志を貫徹するのは大切なことです。


「シロウ、ただ今帰りました」

 日も落ちかけて空がオレンジ色に染まった頃に買い物から帰ってきて玄関から声をかける。膨らんだ買い物袋の中にはたまごが入っているから、中身が崩れ落ちないように腐心しながらそっと置いて、

「シロウ? ……出かけているのでしょうか」

 もう一度呼びかけても返事がないことに首を捻る。出かけているのでなければ、土蔵か道場でしょうか――?

 居間に上がって答えはすぐに目に入った。

「なるほど、寝ていたのですか」

 居間の畳に大の字になってシロウが眠っていた。少しだけ裾がまくれ上がったお腹の上では、子猫のシロが同じように大の字になってお腹を見せている。なんとも平和な光景に、先ほどの呼びかけてシロウを起こさずにすんだことに安堵した。

「やっぱり疲れがたまっていたのだろう。無理もないことですが……」

 台所に買い物袋を置いて、眠っているシロウの枕元に膝をつき、なんとなしにその頬に触れてみる。手触りは私のと比べると少しざらざらとしている。殿方は誰しもこんなものなのでしょうか……私はシロウ以外の殿方に触れたことがないからわからない。

 ――そういえば切嗣は顎にひげが生えていましたね。

 ふとそんなことを思い出して頬から伸ばして顎のほうまで撫でてみたが、彼のようにひげが生えてきそうな兆候はいまだ感じられない。もっとも切嗣にひげが生えていたからといって、シロウも同じようになるとは限らない。血縁上、彼とシロウに結びつきはないのですから。むしろアーチャーにはひげなど生えていないのだから、シロウも生えない可能性のほうがずっと高いはずだ。

 それにしても本当に良く眠っている。先ほどから眠っているのをいいことに無遠慮に触っているというのに、まるで目を覚ます気配がない。
 ならば――と、私は不意な思いつきに自分でも少々気恥ずかしさを覚え、周囲を慌てて見回した。

「……だ、誰もいませんね」

 言葉に出してまで確認し、熱くなった身体と頭を冷やすように冷たい空気を大きく吸い込む。

「ではシロウ……失礼します」

 そっとシロウの頭の下に手を入れて、持ち上げる。それでもなおシロウも猫も目を覚まさないのをちゃんと確認してから、膝を差し込んで手に持っていた彼の頭をそこに降ろした。
 俗に言う、膝枕というやつです。
 するのは初めてではないのですが、やはりなんどやっても少し気恥ずかしい。……が、膝に感じる重みとぬくもりが心地よいのも記憶通りだ。
 少しかたいシロウの髪の毛に手を通して梳きながら、規則正しい呼吸を繰り返すシロウの寝顔をじっと見つめてしまう。

「お疲れ様です、シロウ。いつも感謝しています」

 自然に頬が緩んでくるのがわかる。これではいったい誰のためにこのようなことをしているのかわかったものではない。というよりそもそも私が勝手にしたことなのだから、多分に自分のためであることは間違いないのですが……。
 まあ、どちらでも構わない。それでシロウがゆっくりと休めるのであれば良いのですから。

「……で、あんたなにやってんの?」
「はい、シロウに膝枕を……って、凛!?」

 振り向いたところに凛の顔があり、思わず大きな声を出してしまい、慌てて口を噤む。シロウのお腹の上で眠っていたシロはびっくりして目を覚ましたようですが、幸いなことにシロウは相変わらず眠ったままで身動ぎすらしない。いえ、そんなことよりも、

「り、凛。いったいいつ帰ってきたのですか? 帰ってきたなら挨拶くらいは……」
「帰ってくるも何も最初から出かけてないわよ。あんたが気づかなかっただけでしょ。にしても……ふぅん、膝枕ねぇ……ふぅん」
「う……これは、その……」

 凛のじっとりと湿っぽい目つきから思わず視線を逸らして明後日の方向を見てしまう。なんら心に疚しいところがあるわけではないのですが、妙に気恥ずかしいというか、気まずいです。

「ま、いいけどね。後で代わりなさいよ、それ。わたしはちょっと電話してくるから」
「で、電話ですか? いったいどこに……」
「うん、アーチャーに家の掃除頼んどこうと思ってさ。じゃ、電話借りるわねー」

 そう言って凛は居間から出て行った。
 しかし……なるほど。あちらのエミヤは勤労感謝の日であっても休めない、ということですか……いつかアーチャーが凛のことをサーヴァント使いが荒いとぼやいていましたが……その言葉に嘘はありませんでしたね。
 年中無休のアーチャーに同情の念を抱きながら、改めてシロウがマスターであったことが幸運であったことを噛み締める。

 少なくとも凛や言峰のような特殊な人物がマスターではなくて良かった、と。



第 146 回 : 2004 年 11 月 27 日「ヘンな」

「ねえねえ士郎、知ってる?」
「知ってるかどうかは何のことか聞かせてくれないとわからないけど、何のことだ藤ねえ」
「えーっとね、なんか最近、商店街にヘンな馬車が現れるんだってー」
「ヘンな馬車?」

 昼食の席、忙しなく動く箸を止めないまま、大河が不意に切り出した話に私とシロウは揃って首をかしげた。

「ヘンな馬車、ですか。ヘンとはいったいどんな馬車なのですか?」
「んー、その辺は良くわかんない。だから知ってたら教えてもらおうと思って」

 頬袋をいっぱいに満たして顔の大きさを通常の三倍ほどにしながら大河が丸くした目をこちらに向けてくる。そこには私たちに対する無限の期待が込められていたが、生憎ながら私は知りません。
 それはどうやらシロウも同様らしく、きっぱりと否定の言葉を口にした。

「それにしてもヘンな馬車ってどんな馬車なんだろうな……正直どうでもいいと言えばどうでもいいけど、気にならないといえば嘘にはなるな」
「ならば商店街に見に行ってみますか? ちょうどゴミ袋と洗濯洗剤が切れそうなのです」
「そうだなぁ……ま、会えなかったら会えなかったで別に困るわけでもないし、ついでで行ってみるか」


 大河の話によると、そのヘンな馬車とやらが現れるのは夕方になってから、とのことでした。
 時間を合わせて、余計なものを買いたがる大河を御しながら必要なものだけを買いこんで、橙色に染まった商店街の道を三人で歩く。
 十一月ももう終わりとなれば、空の色もそろそろ冬支度を始める頃だ。最近は太陽が出ている時間も急速に短くなって、気がついたら辺りが暗くなっているということも良くある話。心なしか、道往く人たちの足取りも、帰り道を急ぐかのように早いような気がする。
 そして冬が訪れるとなると、やはり最も辛いのが凍てつくように厳しい寒さだろう。
 今年はそれでも例年よりも暖かいそうだが、今日に限って言えば、剥き出しの頬がひりつくような寒さだ。暖かいなどという言葉からは程遠い。

「今日は久しぶりに鍋にでもするか?」
「わーい、お姉ちゃんしらたきが食べたいなー」
「出汁の染み込んだ白菜に勝るものはありません。春菊もまた味わい深い……」

 などと、件のヘンな馬車のことなど半ば忘れかけ、身も心も温まるであろう今晩の食事について思いを馳せる。
 寒いのは確かに余り歓迎できることではありませんが、寒ければ寒いほど、温かいごはんが美味しくいただけるというのもまた事実。決して悪いことばかりではありません。


『いもー、いもー。いしやきいもー』

 と、その声が聞こえてきたのは商店街の出入口を出かかった時のことでした。

「焼いもですか……」

 いつだったか、ライダーの家庭菜園で取れたいもを庭で焼いて食べたときのことを思い出した。赤黒い皮を剥いたその下から現れた、金時色のいもは、そのままでも、塩を振っていただいてもとても美味しかった。

『美味しいはずのいもはいかがでしょうかー。いえ、別に食べたくないというのであれば構わないのですがー』

 屋台を引いているであろう人物の抑揚のない声が、スピーカーを通した少し濁った音で響き渡る。
 しかし、売ることを目的にしている割には随分とやる気のなさそうな売り文句ですね。焼いもの屋台だというのに、女性というのも珍しい。

 それに……この声ですが、なんだか……。

「セイバー」
「あっ、はい。なんでしょうか、シロウ」
「……俺たちも行くぞ」

 声をかけられ我に返ると、シロウはどこか疲れたような顔をしていた。

「それは構いませんが……ところでシロウ、大河はどこに行ったのですか?」
「いや、だから……その藤ねえを追いかけるんだよ」

 なるほど、そういうことですか。
 声が聞こえてくる方向に顔を向けると、そこにはすでに豆粒ほどの大きさになった大河の影が遠ざかっていくのが見えた。


 そして大河を追って石焼いもの屋台に到着した瞬間、大河のことも含め、忘れかけていたことについても全てが解決しました。

「これがヘンな馬車の正体ですか……幻獣に焼きいもの屋台を引かせるなど、何を考えているのですか、ライダー」
「別に何も考えていませんが。単に効率的だと思っただけです」

 羽の生えた真っ白な馬に跨り、綱を引いているのは流れる長髪を風の中に揺らしているライダーでした。
 そして嘶きをあげているペガサスが引いているのは幌をかぶった荷台ではなく、真っ赤に焼けた石といもを積んだ屋台だった。

「家庭菜園で取れたいもが余っていたのでどうしたものかと考えていたのです。そこでせっかくですし、売ることにしたのですが、自分で屋台を引くのは面倒だったのでペガサスに任せて私は御者をすることにしたのです。これでもライダーのクラスですから」
「そうですか……」

 なんというか……何もかも台無しになったような気がします。
 この国に限らず世界中の物語に伝説の獣として語られ、時には神の獣とすら呼ばれるペガサスが、夕暮れ時の商店街でいもの屋台を引いているなど、いったい誰が想像できるでしょうか。

「とにかくシロウ、お金はちゃんと払ってください。既にタイガが勝手に三本ほど貪っていますので。この屋台で食い逃げを敢行しようなどという愚はくれぐれも犯さないように。櫓櫂の及ぶ限り追い詰めて、必ず代金を払っていただきます」
「ああ、わかってるわかってる……ついでに俺たちの分も一本ずつ頼む……」

 疲労も困憊に達したといった風情で財布を取り出すシロウ。彼の背後で大河が実に幸せそうに、両手に抱えたいもを頬張っている。

 とりあえず今日わかったこと。
 この冬木市においてヘンとか妙とかおかしなとか――そういった言葉を冠する事件は驚くに値するものではないということでしょうか。
 知っている人間、もしくはサーヴァントが関わっているのはおそらく……というよりほぼ間違いないことでしょうから。



第 147 回 : 2004 年 11 月 29 日「肉布団」

 ……さて、身動きが全く取れないのですが、どうしたものでしょうか。
 それにそろそろ夕飯の支度をしなければいけない時間だというのに、当のシロウがこのように眠ってしまっていてどうするというのでしょう。
 このような状態になってからかれこれ二時間。どうすることもできないまま、時折思い出したようにため息をつきつつ、ずっと天井を見上げている。いや、どうにかしようと思えばどうにかすることは可能なのだが、あまりその気にならないといったほうが正確だろう。

 しかし、困った。
 私もだんだんお腹が空いてきましたし、このままずっとこうしているわけにもいかない。直にイリヤスフィールか凛か桜か……誰かがやって来た時に今の状態を見られるわけにもいきません。私はともかくとして、シロウが大変なことになるであろう事は容易く想像できる。

「シロウ、シロウ……そろそろ起きていただけないだろうか。ずっとこの体勢でいるのも、少し疲れるのです」
「う、うぅん……む」
「な……なにをしているのですか貴方は」
「ぐ、むぅ……」

 突然不埒な行動に走ったシロウの耳を摘んで引っ張りあげる。わりと力を入れて抓りあげたはずなのだが、それでもシロウは唸り声を上げるだけで目を覚まそうとしない。
 まったく……いかに眠っているとはいえ、胸に頬擦りなど、シロウでなかったら剣の錆としていたところです。


 だいたい何故こんなことになったのかというと、そもそもの原因は雷画にあるはずなのです。
 藤村雷画――藤村大河の祖父にして、シロウにとっても祖父同然の人物であり、イリヤスフィールを甘やかしては良く相好を崩している御仁です。
 その雷画の元に、所用でシロウが出かけたのは昼の食事をいただいたすぐ後のこと。たいした用事でもないのですぐに帰ると言って、シロウは笑顔で出て行きました。
 しかし……一時間経っても二時間経っても、おやつの時間になってもシロウは帰ってきませんでした。ホットケーキを焼いてくれるというから楽しみにしていたというのに、シロウは帰ってこなかったのです。

 結局彼が帰ってきたのは日も傾きかけた頃でした。
 期待を裏切られたことでやや機嫌が傾いていた私は、自分でも大人気ないとは思いつつも玄関に出迎えに出ませんでした。恐る恐るただいまと言ってきたら、なんと言ってやろうか――などと、他愛もないことを考えながら居間で空腹に耐えながら横になっていたのです。

 そしてシロウはゆっくりとした足取りで静かに居間に入ってきて、私にただいまの挨拶を……する前に私に覆い被さってきたのでした。
 突然の蛮行に、さすがに最初は少し慌てさせられました。よもやシロウがこのような行動に出るとは思ってもみなかったからです。私の胸元に顔を埋め、足を足で絡め取り、拘束するように両腕を身体に回してきつく抱きしめてきたのです。
 相手がシロウだからか特に嫌悪感は感じなかったが、さすがにこんな状態を素直に受け入れることなどできるはずがない。

『は、離れてくださいシロウ! ……シロウ?』

 なんとか両腕だけは拘束から抜け出して、彼の身体を押し返そうとした時に気がついた。

『お酒の匂い……ですね』

 シロウの全身から香ってくるむっとしたアルコールの刺激臭が鼻についた。これはかなり呑んでいる――と、気づいた瞬間に、雷画がお酒好きだったということを思い出した。しかも自分が飲むときは誰かにつき合わせることが多いらしく、さすがに大河やイリヤスフィールに相手はさせないものの、良くリーゼリットやセラと一緒に飲んでいるらしい。

 つまり今日はシロウが捕まったということだ。
 で、あれば、シロウのこの行動にも説明がつく。何故かという理由は良くわかりませんが、シロウはお酒が入ると途端に奇矯な行動に走る癖がある。以前にもお酒を飲んで、このように絡まれたことが何度かありますから、そのことは身を以ってよく知っている。

 そういうことであれば仕方がない。この状態になったシロウに理性を求めるのは無駄な話。それにもう既にこの時には寝息を立ててしまっていた。
 しばらくこのまま寝かせておいて、気がついてから懇々と説教をして差し上げようと思い、放っておいたのですが――


「――いったい何時になったら起きるのでしょうか」

 三十分か、長くても一時間もすれば起きると思っていたシロウは、予想に反して日が完全に沈んでしまった今もなお眠っている。

「まったく本当に……困ったものです」

 深いため息を吐き出して、胸元にあるシロウの頭を軽く抱きしめる。
 眠っているせいで全身が弛緩している彼の身体は、完全に私に預けられている。同じ年頃の同性にくらべるとやや小柄ではありますが、シロウもやはり殿方だけあって少し重たい。それにお酒が全身に回っているせいか、体温も高くて私と触れ合っている肌が少し汗ばんでいる。

「暑いですね……こんなにもずっとくっついていられては無理もないのですけど。少々ふとんにしては重たいですし」

 起こそうとしても起きてくれないとはわかっていながらも、頬を突いたり肩を揺さぶったり、いろいろと手は尽くしてみたものの全く起きる様子がない。
 ……困った。
 シロウの身体が温かいせいか、その重みが心地よい成果は知らないが、私にまで眠気が襲ってきてしまった。

「シロウ……これが最後通告です……起きてください」
「んー」
「……だめですか。では仕方ありませんね……」

 手は尽くしました。私の努力は認められてしかるべきでしょう。
 非があるとすれば、それは全てシロウにあるはずです。きちんと責任は取っていただきます……。

 重力に逆らわず落ちてくるまぶたをそのまま閉じて、シロウの背中に腕を回す。
 身体全体で感じるぬくもりとシロウの存在に溺れながら、ゆっくりと意識が闇の中に落ちていった。


 それから目を覚ました時、シロウが凛や桜たちに囲まれて正座しながら、責任を取っている真っ最中だったのは完全な余談です。



第 148 回 : 2004 年 12 月 8 日「ゆたんぽ」

 今現在、室内の気温は十度以下。外は寒風吹きすさび、木の葉が揺れる音と窓枠が揺れる音が物悲しく聞こえてくる。

「うー……寒いの嫌いっ」

 シロウの腕の中でイリヤスフィールが毒づき、私は何を贅沢な、と思う。
 確かに空気は嫌になるほど寒いのだし、事実彼女は小さな身体をますます縮めて震えているのだから無理もないでしょうが……そのように暖かそうな場所で言う言葉ではないような気がするのです。

「イリヤスフィール、寒いのでしたらふとんに潜って眠ってしまえばいいでしょう。無理にここにいなくてもいいのですから」
「それもイヤよ。だってそしたら、わたしの場所をセイバーが取っちゃうじゃない」
「……何を馬鹿なことを」

 言って私はシロウの腕に身を寄せながら頭を振ったものだが、心の隅で彼女の鋭さに感嘆していたのもまた事実だったりする。当然イリヤスフィールは疑惑に満ち満ちた視線を向けてくるのですが、こちらも当然ながら無視の一手です。

「っていうかさ……イリヤもセイバーも寝ればいいじゃないか。俺だって眠いんだし……」

 そんな私たち二人の間に挟まれたシロウが、ぽつりとためた息を吐き出すようにつぶやいた。この中で誰が一番暖かいのかというときっとシロウはずです。理由は言うまでもないのだが、そうは言っても彼もまた寒さを感じていないはずはない。
 だというのに表情には疲労感のほうが色濃く漂っている。実にシロウらしいと言えばその通りなのですがあまり納得はできない。
 そもそもいったい、何故このようなことになっているのかというと――。


 何も別に複雑な事情が絡んでいるわけではないのです。事は非常に単純。
 しかしながら問題はこの季節においてはひどく深刻な問題でした。

 まずエアコンが故障したのが始まりでした。元々だいぶ傷んでいたのを騙し騙し使ってきていたのですが、このたびとうとうシロウの腕を持ってしても修復不可能な状態にまで陥ったのです。
 仕方なしに土蔵から、これまた壊れかけのストーブを持ち出したのはいいものの、こちらもまた故障。というか、最初から壊れていたのですからどうしようもないでしょう。どうやら私たちの知らない間に土蔵に侵入して遊んでいた何者かの手による仕業だそうですが……その何者かが誰のことであるか、容易に想像できるのはその誰かの日頃の行いの賜物なのでしょう。

 ともあれこういった軌跡を辿り、我が家の暖房器具は全滅したのです。
 間の悪いことに今日は本格的な真冬日で、外の気温は雪でも降るのではないかと思わせるほどに寒い。だから夕飯は身体の温まる鍋にして、お風呂もいつもより熱めに沸かしました。
 シロウの作ってくれた水炊きは非常に美味で身体も心も温まりましたし、少し熱めもお湯も心地よいものでしたが、しかし所詮はその場しのぎにすぎない。一時の暖が去っていけば、再び訪れた寒さが身体を芯から冷やしていく。
 それで雪が好きなくせに寒さには弱いというイリヤスフィールは、直ぐに音を上げて人肌という直接的な手段に訴えたのです。彼女がシロウにくっつくのはいつものことなのですが、今回は大義名分があるからかいつもよりもずっと積極的なような気がする。
 据わっているシロウの足の間に身体を入れて座り込み、背中からシロウの胸に寄りかかっている。シロウもまた寒さに耐えかねたか、これ幸いとばかりに彼女を湯たんぽ代わりに使っているのだから、イリヤスフィールにとっては願ったり叶ったりでしょう。寒いと口では言いながらも顔は綻んでいた。

 私は……私もそれに便乗させていただいたのです。
 仕方がありません。サーヴァントといえど、そのつもりでなければ寒いものは寒いのですから。


 結局、今日はもう寝ることにして明日暖房の修理をしようということになり、夜も遅いことですし、イリヤスフィールも泊まっていくことになりました。
 ……それは良いのですが、

「イリヤスフィール、ふとんは客間に敷いたと言っているのに何故ここにいるのですか」
「決まってるじゃない。今日はシロウと一緒に寝るのよ」

 などと、まるでそうすることが当然のようにシロウのふとんに潜り込んでいるイリヤスフィールには納得できませんし良くありません。
 だいたいシロウも困ったように笑っているだけで何も言わないというのはどういうことなのでしょうか。確かにイリヤスフィールはシロウにとっては妹のようなものかもしれませんが、それでも女性であることに変わりはありません。……その、倫理的に問題があるような気がするのです。

「……とにかく、馬鹿なことを言っていないで自分の部屋に行ってください」
「やーよ。だいたいなんでそんなことをセイバーに言われなきゃいけないのよ。羨ましいんだったらセイバーも一緒に寝ればいいじゃない」
「「なっ!?」」

 私とシロウの声が同時に重なる。

「そ、それこそ馬鹿なことですっ。ヘンなことを言わないでいただきたいっ!」
「その通りだっ、イリヤならまだしもセイバーは困るッ!」
「む。なんでよシロウ」
「……何故ですかシロウ?」

 シロウの言っていることに間違いはないのですが、それはそれで納得できないものがある。何故イリヤスフィールは良くて私は駄目なのでしょうか。
 私とイリヤスフィールの二人から追及を受けて、シロウはしばらくしどろもどろだったのですが、やがて何かが限界に達したのか、

「あーもうっ! いいから二人ともとっとと寝ちまえーーーッ!」


 ふとんに入ったまま、ふすま一枚隔てた向こう側に視線をやる。
 さっきまでシロウとイリヤスフィールの声がぼそぼそと聞こえていましたが、既にそれも途絶えて久しい。きっと二人とも眠ったのでしょう。

『……おまえと一緒に寝れないってのは、べ、別にセイバーの事が嫌いとかそういうわけじゃなくってだな……むしろその、逆の理由であって……』

 最後に言い訳するように言ってきたシロウの言葉が脳裏に不意に蘇った。

「…………」

 外は寒いけれどふとんの中は暖かい。
 シロウとぬくもりを分かち合っているイリヤスフィールが少し羨ましいが、一人でも別に構わないと思った。
 私は私で、人肌とは違うぬくもりを感じている。

 きっとこのぬくもりは、ふとんのおかげだけではないのですから。



第 149 回 : 2004 年 12 月 14 日「鍋」

 いつもの居間、いつもの食卓。で、あるというのに漂っている緊張感。
 それは全て卓上でぐつぐつと小気味良い音を立てている鍋の存在に原因があるといって良いでしょう。事実、食卓からの視線はごく僅かな例外を除いて全て鍋と、その中身に向けられている。

 そもそも事は、シロウの学友である一成が檀家の人からもらったという蟹を持ってきてくれたところからはじまりました。
 蟹……というのは私もあまり詳しくはないのですが、春夏秋冬、四季によって様々な食材を楽しめるこの国において、冬における代表的な食材として名を馳せる代物だということ。
 最初は誰に聞いても白々しい様子でたいしたものではない、とか、そんなに美味しいものではない、などと言われたのですが、さすがにシロウだけはきちんと真実を伝えてくれました。というか何故……いえ、別に誤魔化そうとした理由など知りたいとは思いませんが。

 ともあれ、既に準備を終えて、後はフタを開くのを待つばかりとなった衛宮家愛用の鍋の前で、皆が今か今かと開帳のときを待っていた。
 誰かがごくりと、無意識に喉を鳴らす。そしてそれが契機となったのか、

「……じゃ、フタ開けるぞ」

 今まで難しい顔で腕を組んでいたシロウが、遂に意を決したのかそう口にした――途端、向けられている視線の濃度が濃くなった。
 そんな一堂の反応を見て、シロウは諦念に満ち満ちた表情で頭を振る。彼のその態度にいったいどのような思いが秘められているのかは知らないが、彼にそうさせる者たちは皆、無言の圧力で持ってシロウに続きを促していた。
 シロウはため息一つの後、鍋のフタに手をかける。
 そして全員が息を飲んで見守る中、ついにフタが開かれて濛々と立ち込める湯気が――!

「しゃ―――っ!」

 その瞬間、誰よりも早く、誰よりも獣じみた速度で繰り出される箸があった。
 一直線に、ただ一直線に己の獲物のみを狙ったそれに、シロウは元より他の誰も反応することはできなかった。

 ……だが、侮ってもらっては困るのだ。

「――させん!」

 サーヴァントたる己の能力を遺憾なく発揮し、鍋の中身でも最も大きなそれに向かっていた箸に自分の黄色の箸を絡ませて食い止める。

「大河。いただきますがまだ済んでいません。食事前の挨拶を忘れるなど、礼儀に反する行為はこの私が認めはしませんので……そのことだけは覚えておいていただこう」
「うー、セイバーちゃんのいけずー」

 唇を尖らせて拗ねながら箸を引っ込める大河。
 まったく、ある程度こうなることは予想していたものの、私に力の一端を使わせることになるなんて本当人間なんでしょうか、彼女は……。
 だがしかし、大河が非常識であるというのは今更のことです。いちいち気にするまでもないこと。

「どうでもいいけど士郎、早くしなさいよね。これ以上待たせるようならあんた、突っつくわよ」

 びしりと箸の先をシロウに向けながら語気も鋭く凛が吠える。無論のこと、この私がいる限りそのようなことをさせるつもりはありませんが、彼女の言うこともわからないでもない。あまり気を持たせすぎないで欲しい。

「…………」
「じゃ、まあ……いただきます」

 視線でその意を伝えると、食べる前から疲れたような表情でそう宣言した。
 では、ここから私は戦の渦中へと入ります。いかに相手がシロウといえども容赦するつもりはありませんから、そのつもりで――。


「しかし衛宮よ……おまえの家の食事風景というのはいつものこのようなものなのか?」
「いやまあ……いつもならもう少し静かなんだがな……でも、だいたいこんなもんだ」

 目の前で繰り広げられている壮絶な争奪戦を、シロウと一成はどこか遠い世界の出来事を見るかのような目で見やりながらもそもそと白いごはんを食べている。無論、鍋の中身をよそうべき小鉢の中身は空っぽのまま。
 だが、今の私にそのような二人を気にしている暇はない。
 食事は戦いです。それが特に鍋であり、食材が普段口にできない珍味であれば尚のこと。
 何時いかなる時にでも、戦う意思を己に奮い立たすことができなければ敗れ去っていくのは自明の理。シロウも一成も、敗れ去る運命だったのでしょう。

 だというのに何故……二人ともそのように哀れみの視線を向けてくるのでしょうか。理解不能です。



第 150 回 : 2004 年 12 月 21 日「おこた」

 冬もだんだんと深まってきて、衛宮家の居間にはテーブルに代わってこたつが鎮座ましましていた。噂では聞いていた、冬における最高の宝具、人類最高の英知の一つである暖房器具こたつ。
 正直なところ、大河もシロウもおおげさに話しているだけだろうと思っていたのです。
 しかし今、私はそれが事実であったことを身を以って思い知らされていました。

「はー……あたたかいですねー」
「ええ。こたつがこんなに良いものだとは思いませんでした。……一度入ってしまうと出たくなくなってしまうのが難点といえば難点ですが」

 最後の一個のみかんを籠から取って皮を剥く。……と、寒さから逃げるように外から帰ってきた子猫が、みかんの代わりに籠の中でとぐろを巻いた。

「ところで桜、確か今日は弓道部の練習の日だと思っていたのですが、学校には行かなくて良いのですか?」
「えっと、そうなんですけど今日は……」
「さむいからおやすみー」

 聞いているこちらが眠くなりそうな声で言ったのは、突っ伏して目を線にしている大河。要するに寝ているのですが、それで何故こちらの問いに答えられるのか不思議でならない。

「……と、とにかくそういうわけで弓道部、お休みなんです、今日は」

 苦笑しながら、口元から垂れている涎の着弾予想地点にそっとティッシュを挟み込む桜は本当にできた女性だと思う。シロウを助け衛宮家の家事を切り盛りするのみならず、綾子の後を継いで虎の哭く弓道部の部長となっただけのことはある。

『桜はホントにしっかりものの娘さんだよなぁ』

 とは最近のシロウの口癖です。それだけ彼が桜を頼みにしているということなのでしょう。

「それにしても……部屋の中はあったかいけど、外は今にも雪が降ってきそうね」

 もう一人、こたつに足を入れて身を縮めているのは凛。アーチャーに無理矢理繕わせたという赤いちゃんちゃんこを羽織って、桜が淹れた紅茶を啜っている。どうやらこの家の中では遠坂家の家訓は適用されていないようです。
 彼女は窓の外の、灰色の雲に覆われた空を眺めながらぼんやりとつぶやいた。
 確かに今日はかなり寒くこの通り天気も悪い。もしかしたら夜には今年初めての雪が降るかもしれない。

「これでホントに雪が降ってきたら……猫はこうして丸くなってるし、やっぱりランサーは庭を駆け回るのかしら?」
「ランサー?」
「犬」
「……姉さん、そんなこと言ったらランサーさん、泣いちゃいますよ?」

 たしなめる桜に、しかし凛は「ハッ」と鼻で笑っている。ふむ、やけに性格と口が悪くなっていますが、気が緩んでいる分だけ普段押さえつけている本性が漏れているのでしょうか。
 しかし何故雪が降るとランサー……ではなく犬が庭を駆け回るのでしょうか。普通に考えれば寒さを嫌がりそうなものですが……。
 抱いていた疑問が表情に出ていたのか、気づいた桜が「それはですね」と、歌を口ずさみ始めた。

 ゆーきや こんこ あられや こんこ
 ふっても ふっても ずんずん つもる
 いーぬは よろこび にわかけまわり
 ねーこは こたつで まるくなる

「……っていう歌なんです」

 綺麗な声で歌い終えた桜が少し照れているのか、ほんのりと頬を赤くする。

「なるほど。それで庭を駆け回ると……確かに猫は丸くなっていますが」

 ランサーは果たして庭を駆け回るのでしょうか。
 クランの猛犬と呼ばれた彼ですが、日本の柴犬とは異なるでしょうし……可能性は低いと思う。それに元気に庭を駆け回るランサーというのも少し想像しにくい。そういうのはどちらかといえばバーサーカーのほうが似合うような気がします。それに彼のマスターであるイリヤスフィールなど、まさに雪というイメージにぴったりと当てはまるではないか。
 少なくともランサーと言峰の主従よりも、バーサーカーとイリヤスフィールの二人のほうが、見ていてずっと絵になるはずです。

「…………」

 ……などとそんな光景を思い浮かべていると、玄関のほうから慌しく誰かが駆け込んでくる音と、聞きなれた少女の声が聞こえてきた。

「ただいまーっ! うーもうっ、外寒いッ! 寒いのキライ!」
「……やっぱり無理でしょうか」
「なにが?」
「いえ、こちらの話です」

 視線だけこちらに向けてきた凛に頭を振って答えて、しかし内心では少しだけ落胆する。
 寒いのが嫌いなら雪の中で踊る彼女を見ることはできないかもしれない。
 だけどもし、彼女が雪が好きだったなら――もしかしたら近いうちに妖精のような少女を見ることができるかもしれない。
 それはきっと、冷たい雪の中にあっても心温まるような、幻想的な光景に違いない。

「ただいまっ、わたしもこたつはいるー。セイバー、もうちょっとそっちに寄ってー」
「おかえりなさい、イリヤスフィール」

 ふすまが開いて居間に飛び込んできたイリヤスフィールが、こちらが答える間もなくこたつに足を入れてくる。ほっとしたように満面の笑みを浮かべる彼女の頬は、寒さのせいかほんの少しだけ赤みを帯びていて、いつもよりも余計その幼さを際立たせていた。
 しかし、赤みを帯びていてもなお白い彼女はきっと、誰よりも雪が似合うと思うのだ。

「……ところで一つ聞きたいことがあるのですが」
「ん、なぁに?」
「あなたは雪は好きですか?」

 だから私は思わず聞いてしまっていた。
 もし彼女の答えが私の期待通りだったとしても、心に思い浮かべる光景を実際に見ることはかなわないかもしれないのに。

「んー、雪は好きだけど、今はこたつのほうが好きよ」

 案の定、イリヤスフィールはまるで猫の子のように丸くなってこたつのぬくもりに浸っていた。
 まあ、仕方ないでしょう。雪が好きとはいえ、寒いのは嫌いなのだから。
 しかしいつか雪が降ったなら、その時はシロウと一緒に彼女を雪の下に誘ってみよう。猫のように寒さが嫌いなイリヤスフィールだが、雪の下で犬のように駆け回りおどろ彼女はきっと誰よりも愛らしいはずだから。