私は堪え性がないと彼にもいわれた。だが無駄は嫌いなのだ。三分も待てないという理由でカップ麺をそのまま齧りながら過去を振り返っていた。
 固い麺を啜っているのだか、齧っているのだかわからないまま口に運ぶ。脳裏のどこかにそんな私を見て嘲笑を浮かべるあの男の顔が浮かんできた。

「ふむ、流石に味がさびしいですね」

 お湯に良く溶かしてくださいと注意書きしてある袋を破って、味噌スープの元をかけてみた。問題はない。つけなくても良かったのだけれども、なんとなく瞼に蘇った笑みに対抗したくなったのだ。
 中途半端に溶けたスープが中途半端に麺に絡んでいる。解れていない麺を噛み砕いていると、舌にぼそぼそとしたスープの粉末が固まりのまま乗って溶けた。

「――辛い」

 思わずつぶやく。そしてそんなつぶやきを耳にした彼は堪えきれないようにげらげらと下卑た笑いを爆発させて、そんな彼に腹を立てた私はできるだけ無表情を取り繕うことにした。

「――うん? 何が辛いの、バゼット」

 ちょこんとアインツベルンの少女が隣に座ってくる。目を丸くした様子は、彼女の恐ろしさを知識として知っている私でも心和むものがあった。簡単に事情を説明すると、

「またシロウに怒られるわよ? そんな食生活。でも」

 悪戯げに唇を負けて、

「そんなに辛かったの? じゃああのお店にはいけないわね」と挑発的な物言いをするではないか。一転小憎らしい。
「あのお店とは?」

 にんまりと唇をゆがめている少女に、対抗心から聞いてみた。
 別に他意があったわけではない。ただなんとなく、話の続きというだけのこと。この街での生活を始めてから急速増えた無駄の一つ、世間話というものの一環のつもりだった。
 が、そのつもりは、

「言峰綺礼の行きつけのお店のこと」

 世間話には決して出てこないだろうその名前に、あっさりと趣を変えてしまった。
 詳しく聞けば、言峰が愛顧していた味だという。しかも猛烈に辛いらしい。あの士郎君が寝を上げて、ペットボトル1リットルの水を飲み干したの言うのだから相当だ。私はなぜか反抗心が芽生えていくのを感じた。私は元執行者。味など口にしたものの同定材料でしかない。辛い?それは情報であってわたしを苦しめるものでは足りえない。
 とどのつまるところ――私はもうあの男に負けたくなかったのである。そして、後に悔やんでも悔やみきれないのではあるが、たった一人でその中華店に行ってしまったのだ。

『泰山飯店』

 足を踏み入れた店内はまだ昼間だというのに締め切られて、そとはあんなにも明るい陽気だというのに湿っぽく暗い。店内には昼食時だというのに何故か客が私一人だけというのが、否応にも嫌な予感を掻き立てた。
 後にして思ったことだが、この時私は自分自身の直感を信じるべきだったのだろう。
 注文したメニューは麻婆豆腐。アインツベルンの少女が話していた言峰が特に気に入っていたというメニューだ。それが今、私の前にある。――あの男が内包している毒よりもなお毒々しい紅を湛えて。
 白い陶器の蓮華がこんなにも涼しげに見えるのは初めてだ。まるで掃き溜めに鶴の美しさである。料理に失礼かもしれないが、真実そう感じた。いけない、逃避してどうするのだ。繰り返すが、味など情報である。舌に走る痛覚などびびたる物で、恐れるに値しない。言峰は食べた。なら私なら平気だろう、そうでなくてはならない。もう彼に弱みを示せない。死人への意地ほど無用なそれはないが、自力で立ち上がった私という証明のために、「頂きます」といつものスピードで蓮華で真っ赤な泥をすくい、口に入れた。

「――」

 次の瞬間、私が知覚していた情報は音だった。手にしていた蓮華が落ちた音。からからと赤を詰め込んだ皿の中で揺れている。味、そう味は――考えた途端に舌の上でわだかまっていたそれが雪崩となってその情報を教えてくれた。

「かっ……!」

 たった一言で表せるそれはしかし、声にならなかった。額から汗が吹き出し、背中が滲む。ただひと口だというのに押し寄せた味という名の情報は私の思考を真っ赤に染め上げた。
 味覚という感覚が、他の感覚野を犯す。私は痛みを聞き、目にした。一瞬の後に幻聴幻覚は言峰の顔となり、薄ら笑いになった。いつもの私ならここで発奮するところであるが――、コレは無理だ。例えるなら悪性の溶岩である。耐え切れない。逃げたいと心底思った。が、しかし――負けられない。アンリなら私の覚悟を嘲笑するだろうか、哀れむだろうか。なんだかんだと人のいい彼だから、

「ヤメレ。見てる方が痛い」

 と止めるだろう。大切な相棒を振り返り、力を借りて、蓮華を拾い上げる。いざ、再戦。と、その時だった。

「あら。まだ頑張るのね、バゼット。でも貴方には無理でしょう。痛みを代償として受け入れる貴方には」

 いて欲しくない相手が、どうしてか目の前に相席している。
 彼女は薄く哂っていた。あの男と良く似ている。人の内側までを覗き込み全てを見通した上でなお哂う、そんな嫌な笑みだった。

「痛みを受け入れても何も為さない。そんな無駄は何より貴女が嫌うものだものね」

 言いながら彼女はいっそ優雅ともいえる手つきで白い蓮華を口に運んでいる。次から次へと。

「ク……」  漏れそうになる声を吹き出しそうになる汗とともに押し止め、それでも負けを認められない私は、

「なるほど、痛みを快楽として知覚しうる貴女ならばむしろ悦びなのでしょうね。被虐嗜好というものか……誉められた性癖ではないけれど」

 自分でも無様と思ってしまうような憎まれ口を叩いていた。

「労働に悦びなど挟みません。ただ主に祈るよう粛々と行うまでです」

 このような時だけ貞淑なシスターの顔をする。本当に良く似ている、気のせいだろうか。そう、突然底意地の悪い、残虐を愉しむ弧を口元に浮かべるところなど。

「貴方にはわからないかもしれません。では代償を用意してあげましょう。それを完食できたなら、貴方の従士は返しましょう」

 いけない、コレは罠だ。理解しつつも引き返せない心が返答してしまう。

「カレン、貴方が無償の好意を示すとは信じられません。つまり、その申し出は」
「お察しのとおりよ。貴方が次に蓮華を手放したなら、同時に悪魔憑きの腕を明渡してもらうわ」
 推察のとおりだった。けれど、私に選択肢があるだろうか。

「――いいでしょう。伝承保菌者を舐めない事だ……っ」

 ただ自己のプライドをかけて。勝てる見込みのない死地へと向かう。
 プライドが私を突き動かす、培った誇りが背中を押す。

「そのへんにしとけマスター」

 心底呆れ返った顔でため息をついている相棒の声に「誰のためだと思っているのだ――」そう声に出さず怒鳴り返して振り切って蓮華を手に取った。ひと口掬いって口に入れる。途端、雪崩れる痛みが脳を焼く。しかし屈せない、折れそうな自分に無理矢理芯を叩き込み、己を殺してひたすらに蓮華を運び続ける。

「あらあら、頑張るのね。でも我慢できなかったらそう言ってもいいのよ?もちろん、彼の腕は貰い受けるけど」

 笑っている彼女の顔すらも原動力とし、紅の泥を食らう。――貴様には負けない。目の前にある彼女の顔がいつしか彫の深い男の顔に変わっていた。

「見ていろ、ここで見せてやる」

 幻だとわかっていて私は言っていた、言わずにいられなかった。渡せないし、負けられない。無駄な意地の張り合いであったとしても、ベットは私のプライドと相棒なのだ、負けられなかった。
 二口目で味覚は失われ、三口目で熱さえも無くしている。残るのは痛みだけである。視界が毒々しい真紅でかき回されていた。これほどの狂気、封印指定狩りとの争いでもお目にかかったことはない。磨き上げてきた先見の経験が覆せない結末を突きつけてくる。――負ける。このままでは、何か手段を講じなければ。水は――もう飲んでしまっていた。お冷を、と頼むのは既に敗北を意味している気がしてならない。カレンの楽しげな笑みがそう物語っている。では豆腐。一時の休息を差し出す白さを探した。何故豆腐まで真っ赤なのだ。あれでは救いは見込めない。
 他に方策はと右往左往する瞳は、カレンの額に光る汗を見つけた。実はやせ我慢なのか、相手も。そう怪訝に感じた時ぱっとひらめいた。そうだ、このいまいましいシスターは悪魔を感知する異能である。一方私の片腕は悪魔だった。麻婆豆腐の脅威は全身に襲い掛かっているのだ。
 つまり、カレンは私と同じ業火に身を浸しているのである。
 ――ならば。意を決し、私は皿を手に取る。底にたゆたう豆板醤は一層深い、奥の見えない紅一色だ。見ているだけでも瞳が焼けそうなそれを睨み、私は笑った。

「……なにを?」

  余裕を装っていたカレンの瞳が訝しげに細められた。そう――この戦いの結末として彼女が用意したのは二つ、私がコレを完食するか否かだ。このままでは確かに真の意味での私の勝利は覚束ない。……だが、それを見届ける彼女が先に倒れたならば?

「……カレン、教えておきましょう。私の宝具は相打ち覚悟で放ち、しかし結果として勝利を得るものなのです!」

 そして私は皿を両手で持ち、そのまま一気に中身を口中へと流し込んだ。
 全て終わらせる紅が口内へ、喉の奥へ流れていく。灼熱にあらゆる自我が消滅しかける中、必死で耐える時間は粘着質この上ない。ああ、アンリ。どうしてここに? 彼は呆れながら口を開いた。

「なあ、マスター。あの女ともども馬鹿だろう?」

 何を。一体誰のために、私達は煉獄で踊っているというのか。

「だってさあ……それってよ。本当に、覚悟も糞もなく」

 絶対に相打ちだぜ?

 ――あ。

 彼が頭を掻きつつ嘆息する姿を最後に、私は唐突に無明の闇に落ちていった。



 ふ、と目を開けてみれば相変わらず場所は泰山飯店の片隅、締め切られた窓際の席だった。いつのまにか麻婆豆腐の皿は下げられていて、ぽつんとお冷が注がれたコップが置いてある。とりあえずまだ痺れている舌を癒すためにそれをひと口飲んで人心地つくと、彼女が座っていた席にメモ書きが置いてあるのに気がついた。

「――今日のところは見逃してあげます」

 素っ気無い言葉が書かれたそれをくしゃくしゃに丸め、ポケットに押し込む。

「いくら挑もうと無駄なことですが。彼は――私の相棒なのだ」

 半ば以上相打ちとはいえ勝利は勝利。あまり意味のない達成感に、しかしそれなりに満足しつつ席を立つ。

「……まぁ、二度とこんな勝負はしたいと思わないけど」

 とりあえず帰ったら士郎君にでも食生活の何たるかを教わるとしよう。もしくは人一倍食にうるさいあの剣の英霊でもいい。そして彼の作る美味しい食事で口直しをしなければ――。
 郷に入りては郷に従え、それはきっと無駄なことではないはずだから。



 でもまあその前に。
 しっかりと二人分の伝票を残して帰ったあの貞淑なシスターへの報復を考えるほうが先なのだけど。




あとがき

 メッセで千年雨さんとぐだぐだ話している間に何故かできていた掌短編。短いながらもいちおう合作だったりします。
 そもそもはバゼットで日常云々とか話してて、何となく交代で書いてたらいつのまにか最後まで書きあがってました。で、お蔵入りするのももったいないのでせっかくだからアップしてみましたとさ。



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