「ここに帰ってくるのも久しぶりよね……」

 ロンドンに留学してから数年、戻ってきた懐かしい場所を前に遠坂凛は知らずのうちに笑顔を浮かべていた。
 そこはもう一つの我が家、セカンドホームと言い換えても差支えがないだろう。何せ穂群原学園の生徒であった頃、生活の半分と言わぬまでも三分の一くらいはここで過ごしてしていたのだから。
 ゆかしい日本家屋の表札には衛宮とある。
 友人であり戦友であり弟子でもある。そして心の底の端っこの絶壁の辺りにひっそりと住み着いている男の家だ。

「桜も士郎も、元気にしてるかしらね……って、そうでないなんて考えられないんだけど」

 立派な構えの門を潜り、確かめるようにゆっくりと庭を歩く。
 あの頃と何も変わっていないのが何となく嬉しい。
 士郎の工房ともいえる土蔵も、鍛錬で使っていた道場も。愛車三号は心なしか傷が増えたような気がするが、誰か別の人が使っているのだろうか。

「んー……うん、ま、いっか」

 玄関の前に立って、呼鈴を押そうかどうか一瞬迷ったが、思い直してそのまま入っていった。士郎たちを驚かせてみたいというのもあったが、何となく昔のままの通りにしたいと思ったからだ。

「ただいまー」

 努めて平静に、浮かれる自分を押し殺して声をかける。土間に靴は五足。
 士郎、桜、ライダー、それに大河――。

「ん? これ、誰のかしら」

 ちょっと首を捻った。一人分、靴が多い。
 だがそこまで深く考えることはないだろう、と改めて思い直して凛は自分の靴を隣にそろえて上がった。一足くらい気にするようなことではない。女物のようだから桜かライダー辺りが二足用意しているだけなのだろう。

 だがその予想も居間に入った瞬間、粉々に打ち砕かれることになる。


「な……なんで……?」

 テーブルについて食事をしている面子を見て、凛はそこにあったあまりの光景に持っていたバッグを取り落とした。

「と、遠坂……おまえ、帰ってきてたのか!?」

 期待通りに驚いた顔をしてくれている士郎だが、凛はそれどころではなかった。
 食卓の一角に、何か――いや、誰か非常に浮いた人物がいる。その人物はこちらにちらりとだけ視線を向けると、後は何事もなかったかのように自分の食事に箸を向ける。
 ある意味見慣れた顔であった。だが、ある意味では見慣れない顔であるともいえる。
 いや、そんなことはどうでも良くてだいたいなんでここに彼女がいるのか――。
 混乱の局地にあった遠坂凛は、とりあえずその疑問を素直に叫ぶことにした。

「なんで黒いセイバーがここにいるのよーーーっ!!」






Noble Black






 くすんだ金髪に患ってるのではないかと思うくらいに蒼白い顔、碧だった瞳は金色に変わり、全体的に醸し出すカラーが基本的に黒い。
 というかそもそも室内で黒い甲冑はどうなのだろうかと思う。
 静かに、しかし確実に茶碗の中身をすり減らしていた彼女は、それを全て制覇すると、

「…………」

 刹那だけ茶碗の底を見つめてから、無言で士郎に差し出した。

「ああ、おかわりな。ちょっと待ってろ」

 黒セイバーの手から茶碗を受け取り、士郎がぺたぺたと山盛り盛って返してやると、彼女はやはり無言でそれを受け取って再び箸を動かし始めた。
 そんな、黙々と一心不乱に食事をしているところを見ると、ああ、やっぱりセイバーなのだなぁ、と思ってしまう辺り凛にとってのセイバー像というものがどういうものか、ある程度窺い知れる。
 しかしやっぱりどう見たところで黒いものは黒い。これが凛が初めて出会ったときのセイバーならまだしも――いや、それにしたって問題ありまくりなのだが――かつては敵として命のやり取りをした相手だ。日本に帰ってきて早々だったが凛の視線も自然と鋭くなる。
 緊張感をむき出しにした凛の視線を受けながら、しかし黒セイバーのほうは動じた様子はまるでなかった。
 相も変わらず黙々と、山盛りの白いごはんに淡々と挑んでいる。というか、周りの反応も慣れたもので、士郎は愚か、桜も大河も、一戦交えたライダーでさえ彼女のことを気にしている様子がない。
 あまつさえ大河などは黒セイバーにしょうゆとってー、などと頼んでいる始末。まあ、それに応じるほうも応じるほうだったが。

「まあ、遠坂も立ってないで座れよ。朝飯食ったか? 食うか?」
「食うか!」

 のほほんとしている士郎がなんだか腹立たしくて思わず怒鳴り返してしまう。これでは自分一人が馬鹿みたいではないか――。

「なんだよ、帰ってくるなり機嫌悪いな。……ああ、セイバー、またおかわりか?」
「…………」
「悪い、もうおひつ空っぽなんだ。もう少し炊いとくか?」

 士郎が聞くが、黒セイバーは首を横に振り、茶碗と箸をきちんと並べて置いて礼をするように黙してから静かに席を立った。
 それだけは以前と変わることのない、しゃきっと伸びた背中を見送ってから、凛は士郎の膝を指で突き、

「ねえ、士郎……あれっていったいどういうことなのよ」
「セイバーのことだろ、わかってるから今は少し待て。藤ねえが学校にいった後でちゃんと説明するから」

 別れた時とこちらはまるで変わらない、現在はがしがしと実に美味しそうにごはんを食べている大河を見る士郎に、凛も小さく頷いた。

 しかしなんということだろうか。
 別に感動の再会ってやつを期待していたわけではない。わけではないのだが、数年ぶりの再会なのだし、お互いに積もる話も気持ちもあるわけで、もうちょっとこう、盛り上がりのある再会の仕方があっても良かったのではないだろうか。
 盛り上がるには盛り上がったが、それは凛が期待していたものではない。
 これではほんとのほんとに、あの頃と全く同じ日常そのものじゃないか――と、ほんの少し残念に思いながら、凛はだらしなく寝転んで天井を見上げる。
 こうなったらほんとにあの頃のようにしてしまえ、などと開き直ってやることにしたのだ。



◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆



「――で、説明してくれるんでしょうね」

 慌しくロケットスタートを切って出かけていく大河を見送って、黒セイバーを除いた一同は再び居間に会していた。
 桜が淹れてくれた濃いお茶を啜りながら、なんとなく伊達眼鏡をかけてみた凛は、その奥にあるまごうことなきやぶ睨みを士郎に向けている。
 彼女の正面に座った士郎は、束ねていた髪を降ろしてほんの少し大人びた友人を前に、変わっていないなぁと苦笑しながらも、

「ま、その前にさ」
「なによ」
「……おかえり、遠坂。また会えて嬉しい」

 などと今更言うもんだから凛のほうも虚をつかれて思わず毒が抜けたように、

「あ、うん……ただいま」

 ごにょごにょと口ごもらせて、なんとなく膝の上で指を遊ばせてみたり眼鏡のつるを弄ったりしてしまっていた。

「姉さん、こっちにはいつまでいられるんですか? わたしとしてはほんとはずっとこっちにいてほしいんですけど、そうもいかないんでしょう?」
「そりゃ、まあ。一週間くらいはいようかなって思ってるけど……あんたがそう言うならもう少しいてもいいかなー、とか」
「士郎、あれは照れているのですか?」
「遠坂はああ見えて実はかなりの照れ屋だしな。おまけに照れ隠しもへたなんだ」
「ああもうっ、うっさいわよあんたら! わたしのことはどうでもいいからさっさと事情を説明しなさいッ!」

 これもまた照れ隠しに喚きたてる凛に、三人ともが揃ってくつくつと笑う。隠そうとしても隠せないくらい、凛の顔が真っ赤だったからだ。
 一方の凛はといえばばつが悪そうに身を小さくして、自分を落ち着けるようにお茶などを啜っていた。

「で、だ。あのセイバーのことなんだけどな――」



 士郎たちが凛に語って聞かせた話を総合すると、結局のところ彼女が何故、どうやって戻ってきたのか士郎たちにもわからないらしい。
 凛がイギリスに旅立ってしばらくした後、ふらりと彼女は衛宮家に現れ、そのまま居ついてしまった。
 もはやアンリ・マユに犯された聖杯もないというのに黒いままの彼女に、士郎たちもわけがわからぬまま最初は警戒していたのだが、相手にはどうやら敵意があるわけでもないらしく、しかも頑なにここから離れようとしない。
 そのうちにいい加減、彼女がいる生活というものにも慣れてしまい、今に至るわけだ。
 彼女がここにいる理由、もし考えられるものがあるとすればそれは――

「じゃあ、あの黒セイバーはまだあんたのサーヴァントだってわけ?」
「ええ、セイバーさんがここにくるまで気づかなかったんですけど、どうもそうみたいなんです。パスが繋がってますし、魔力もライダーと同じようにわたしから供給されてます」
「ふぅ、ん……」

 話をしているうちに飲み干してしまったお茶を急須から注ぎ、凛は考え込むように唇に指を当てた。

「令呪は?」
「ここにあります――ほら」

 言って、服を少しだけはだけて左胸を桜が晒す。そこには見間違えるはずもない令呪が鈍い紅色を見せていた。

「ま、そんなわけだ。説明しろって言われても俺たちにもあんまり説明できることがないんだよな」
「そんなあっけらかんとして……結局のところ理由も目的もわからずじまいなんじゃないの」

 桜が胸をしまうと同時にライダーの目隠しから解放された士郎が太平楽な表情でそう言うのに、凛が少しだけ睨みを効かせる。

「そんなこと言ってもさ、実際のところ別にあいつがなにを仕出かしてるってわけでもないんだからいいじゃないか」

 士郎はそう言うが凛の表情はやはり冴えない。腕組みをし、難しい顔をして何か考え込んでいる。
 久しく見なかった凛の、久しく見なかった魔術師としての表情。そこに士郎は何か不吉な予感を感じたが、口には出さなかった。

「……まあ、いいわ。とりあえずその辺のところはもういいわ。それであれはいつもはどんなことしてるわけ?」
「士郎やサクラがいない間は特に何も。基本的に道場か土蔵にいるようですが、何もせずぼんやりと過ごしていることが多いようです」

 凛の問いにライダーが答える。実のところ、ライダーもまだ完全に黒セイバーに気を許しているわけではない。
 向こうも当然気づいているのであろうが、士郎たちがいない時、それとなく彼女の様子を窺っていたりする。
 だが、やはり今言ったとおり、サーヴァントであるライダーの目から見ても黒セイバーにおかしなところは見当たらない。いや、おかしいといえばその存在自体がおかしなものではあるのだが、それを置いたとしても、害になるような行動を取ったことは今まで一度たりともなかった。

「士郎がいる時は道場で鍛錬に付き合っているようですが……」
「そうなの、士郎?」
「いやまあ、四六時中そうだってわけじゃないけど、よく付き合ってはもらうなぁ」

 でも以前のセイバーよりもずっと手厳しいぞ、とその時のことを思い出しているのか、渋い表情をするが、すぐにそれを元に戻して、凛に正対する。

「とにかく、遠坂が心配するのも何となくわかるけど、そんな必要なんて多分ないぞ」
「多分、ね。相変わらず魔術師としては半人前ね、士郎は」
「俺はセイバーのこと信じてる。信じた人のことを疑うくらいなら俺はずっと半人前のままで構わない」
「……そうね」

 真っ直ぐに見据えてくる士郎の瞳。それを受け止めた凛はふっとかすかに笑みを見せる。

「そういうところも相変わらずね、あんた。わたしには真似できそうにないわ」

 ――だから汚れ役は自分の役目だ。



◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆



「ぜっ……はぁ……」

 持っていた竹刀を放り投げ、道場の床に尻餅をつく。
 後からついて出て止まらない荒い呼吸が士郎の胸を激しく上下させる。額から流れてくる汗が目に入りそうになり、首を振ってそれを嫌がった。
 呼吸の整わない士郎とは対象的に、相手になっていた黒セイバーのほうはといえば、こちらは始めた時と全く変わらない涼しい表情をしている。感情が浮かんでいない蒼白い容貌に、眉一つ動かさず、動けない士郎を見つめていた。

「と、とりあえず今日はここまで……すまん、俺のほうがもう動けそうにないや」
「…………」

 息も絶え絶えに、まるで許しを請うようにそう言う士郎に、黒セイバーは少しだけ頷くと無言で背中を向けた。
 鍛錬はいつもこうやって終わる。
 あの小さな身体のいったいどこにそんなスタミナが、とそう思わせるくらいに黒セイバーは疲れを見せない。もっとも、それは以前の彼女であっても同じことが言えたのだが。
 違うのは彼女が全くの無言であること。鍛錬が終わって動けない士郎に、彼女は何も声をかけない。用だけ済ませたら後はそれきりとばかりに、無言で道場を立ち去っていくだけだ。
 黒セイバーが施してくれる鍛錬に何の不満もなかったが、そこだけが少し寂しいといえば寂しかった。

「あ、あのさ、セイバー」

 そんなことをふと思ったからだろうか、士郎は立ち去ろうとする背中に声をかけていた。
 立ち止まり、金色の瞳がこちらを向く。
 冷たい瞳――用があるならば早く言え――まるでそう急かしているような瞳だ。

「あ、いや……なんでもない」
「…………」
「悪い、呼び止めたりして」

 しかしかける言葉も見つからず、黒セイバーはそんな士郎を一瞥すると今度こそ道場から立ち去っていった。
 後に残されたのは士郎一人。
 襟に滲む汗の冷たさにも気を止めず、彼女が出ていったところをじっと見送った。

「なに、考えてるんだろうな、アイツ……」

 誰もいない道場で、士郎は一人つぶやく。
 かつて一時契約を交わし、不本意にも破らされ、その後は剣を交えた相手。
 士郎の手のひらには今でも彼女の胸を刺したときの感触が忘れられない記憶として残っている。それがたとえ今の身体のものではなかったとしても消えることはない。魂そのものに刻み込まれている、罪の記憶だ。

 彼女が帰ってきてくれたのは素直に嬉しい。もう二度と会うことはないと諦めていたのだ、それがどんな形だったとしても嬉しくないはずがない。
 だが、一抹の不安もある。
 それは凛が感じているようなものではなく、もしかしたら彼女が自分の手の届かないところで突然消えてしまうかもしれないことに対する不安だ。彼女が桜のサーヴァントであるのは確かだけれど、ただそれだけだ。士郎には今ある現実が砂上の楼閣であるかのように感じられていた。
 ぎちり、と強く手のひらを握り締める。
 かつてその命を握りつぶしてしまったこの手のひらで、彼女の存在をこの場に繋ぎ止めたい。今度は失わないように。
 なのに――。

「先輩」
「ん……? ああ、二人とも」

 黒セイバーが出ていった入り口から桜とライダーが顔を出した。

「今日もお疲れ様でした、はい、タオルです」
「手酷くやられたようですね」
「おう、こっぴどくやられたよ。手加減ってもんが全くないからさ……サンキュ、桜」

 士郎にタオルを渡すと、桜はにっこりと笑い、その隣にふわりと腰を降ろす。士郎の鼻先をくすぐった桜の髪からシャンプーのいい香りが漂った。

「……ライダーはこっち」

 桜と反対側の士郎の隣に腰を降ろそうとするライダーを笑顔で制し、桜は自分の隣をぽんぽんと叩く。
 そんな自分のマスターにライダーはそれとわからないくらいに苦笑を見せて、彼女に言われるまま腰を降ろした。

 士郎がタオルで汗を拭いている間、しばしの沈黙が道場に落ちる。
 汗みずくの士郎に嫌がるでもなく身を寄せて微笑んでいる桜、その隣で何をするでもなくじっと控えているライダー。聖杯戦争が終わってからずっと、こんな三人の関係が続いている。
 正確にはあともう一人。
 三人から少し離れた場所で、沈黙を保ったまま佇む黒いセイバーの姿がいる。
 まるでその中に入っていくことを憚っているように距離を置きながら、しかし決して自分の目の届かないところには離れない。
 じっと、何を考えているのかわからない静かな瞳で見つめてくれている。

「……なあ、あいつさ」

 言いかけて、流れてくる汗を乱暴に拭いとり、士郎は彼女が出ていった先をただ見つめる。
 黒いセイバーがこの家にやってきてからかなりの時間が経っている。それなのに、考えてみれば自分は彼女のことを何一つ知っていなかった。居てくれるならそれだけでいいと思っていた。
 だけど士郎は、そして桜もライダーも、彼女が何故ここにいるのか、何一つとして知らない。
 表情を動かすことなく、瞳の色には何も映さず、何も語ってくれない。そんな彼女がもどかしかった。

「気になるなら直接彼女に聞いてみれば良いのではありませんか?」

 そんな士郎の葛藤を読んだかのようにライダーが言う。

「士郎が聞くならばセイバーはきっと答えると思いますが」
「……そうかな」

 無言で頷く。確かに今日まで一度も聞いたことのなかったことだ。その必要もないと思っていたからだが――。

「でも先輩?」
「ん? なんだよ、さく、ら……?」

 桜の指がちょんと太ももの柔らかいところを抓り上げている。別に痛くはないのだが、それをしている桜の笑顔がなんだかいつもと違うような気がした。
 有体に言うと、ちょっと怖い。

「あの、桜さん?」
「セイバーさんと仲良くするのは別にいいんですけど……浮気はダメですよ?」
「いや、それはその……もちろんです、はい」

 にっこりと笑う桜とがっくり項垂れる士郎に、ライダーは控えめではあったが、今度こそ笑いを吹き出していた。



◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆



「……セイバー」

 縁側に座って星を眺めていた黒セイバーは、自分を呼ぶ声にそちらに振り向いた。

「隣、いいか?」

 何も言わず小さく頷き、視線をまた空に戻す。
 よく晴れた夜空には星がちらちらと輝いている。満天の星空、というわけにはもちろんいかなかったが、それでも僅かな瞬きすら見ることのできない都会の空に比べればまだ多いほうだろう。
 灯りの落ちた夜の闇の中では、黒セイバーの姿は溶け込むように希薄になる。病的ともいえる青白い顔色が更に白くなって、まるでこの世のものではないように思えて、寒くもないのに士郎の身体は寒気に襲われた。
 士郎は黒セイバーの隣、少し間を空けて腰を降ろして彼女の横顔を見つめた。
 彼女の横顔からは相変わらず生気というものが感じられない。それは顔色のせいだけではなく、感情の揺らぎを見せない瞳のせいでもあった。
 あれだけころころと表情を変えていたセイバーが――そう思うとなんだか哀しかった。

「セイバーさ……おまえ、どうして帰ってきたんだ? ――あ、いやっ、別におまえが帰ってきたのが悪いって言ってるんじゃないぞ!?」

 士郎を振り仰いだ黒セイバーに、慌てて言い訳する。
 そうしてから彼女の表情に相変わらず感情が浮かんでいないのに気づき、士郎はばつが悪そうに少し身動ぎした。
 黒セイバーはそんな士郎を少しの間見つめていたが、やがて視線を外して再び茫洋とした視線を空に戻す。

 果たして自分の話を聞いているのか――。
 それとももしかしたら隣に座っている自分のことを空気のようなものだとでも思っているのではないか――そんな考えが一瞬脳裏をよぎったが、士郎はそれでも構わないと思いなおし、彼女と同じ空を見上げながら口を開いた。

「……前にも言ったかも知れないけど、俺はおまえが帰ってきてくれて嬉しいと思ってる。おまえはもしかしたら覚えてないかもしれないけど……俺は」
「…………」
「俺は……おまえを殺した」

 膝の上に置いた自分の手のひらを開き、その中に紅い血の色を握り締める。
 無論、血の色などそこにはない。けれど、あの日からずっと消えずに残っている。士郎が犯した罪の意識そのままに。

「あの時はああするしかなかった。それはわかってるけど、でも、そんなのただの言い訳だ。……ずっと、後悔してた。もっと俺が上手くやっていればおまえを死なせることなんてなかったんじゃないかって。だから、おまえが帰ってきてくれて嬉しい。もう二度と会えないと思ってたからさ……」
「…………」
「でも、ときどき不安になる。いつかまたおまえがいなくなっちまうんじゃないかって」

 握り締めた手のひらに生まれた震えが背筋にまで伝わっていく。一度失い、もう二度と戻ってこないと覚悟していたものが戻ってきてくれた。
 だからもう二度と失いたくない。不安はそのまま恐怖となり、士郎に寒気を呼び起こした。どんな形でもいい、彼女が消えてくれなければ――ずっとここにいてくれるのであればそれこそどんなことにだって耐えてみせる。

「教えてくれないか、セイバー? おまえを失わないために、俺は何をすればいい?」

 単純明快な士郎の問いに、黒セイバーは瞳を少し開いてじっと彼を見つめて、しかし小さく首を横に振った。

「……そっか」

 肩を落とす。あからさまな落胆だった。
 彼女が知らないのであれば、他にこの世の誰が知っているというのだろうか。誰も知りはしないだろう。

「それじゃ――」
「それじゃあ、結局あんたは正体不明のアンノウンってわけなのね」
「!」

 縁側の向こう側から聞こえてきた鋭い声。
 振り向くとそこには闇夜にぼんやりと浮かぶ紅色の影が、その両手に鈍く輝く宝石を握り締めて立っていた。



「遠坂……」
「離れなさい、士郎」

 光の届かないところから月明かりの下に出てきた遠坂凛の瞳には、あからさま敵意が篭っている。その視線の先には士郎の隣に座っている黒セイバーの姿がある。一瞬たりともそこから視線を離さず、また、いつでもその手にある宝石を発動できるように身構えていた。

「ちょ、遠坂おまえ、なんのつもりだよ」
「なんのつもり? ……わたしはね、得体の知れない、敵になるかもしれないような相手を自分の懐においておくつもりはないの。何のつもりかと言われればそういうつもりよ」
「敵になるかもしれないって……遠坂! おまえ本気で言ってるのかよ! セイバーだぞ、どうかしてるのかおまえ!」

 立ち上がり、かばうように黒セイバーを背後に隠す。
 見る限り凛は本気で言っているように思える。もちろん、これが悪い冗談であるならばと思うが、魔力の輝きを帯びた宝石は冗談事のようにはとても見えない。

「もう一度言うわ、どきなさい、士郎」
「――断る。おまえが何のつもりなのか知らないが、セイバーに手をだそうなんて許さない」
「あんた、自分が一度殺されかけてるの忘れたの? そいつ――なんでここにいるかもわからないんでしょ? だったらいつまたあの時と同じことになるかわかったもんじゃないわ」
「……そんなことには、ならない」
「その根拠は? 相手がセイバーの姿形をしてるってだけでそんなことを言ってるんだったら士郎、あんた魔術師やめなさい。今ここでわたしを止めたいって言うならきちんとした理屈を以って論破してみせることね」
「遠坂……」

 凛の言い様に呆然とし、拳を握り締める士郎。
 言い返せるはずがない。理屈も何もありはしないのだから。彼女が戻ってきた理由など、彼女自身が知らなければ誰も知るはずがない。あの戦いの生き証人は全てこの家にいて、生き証人は誰もそのことを知らないのだから。
 だから凛の言う通り、黒セイバーは相も変わらず正体不明のままなのだ。もしかしたら再び敵となる可能性だって捨てきれない。

 だって彼女はいまだに黒いのだから――。

 しかし、だからなんなのだ。
 それがどうしたというのだ。そんなことは関係ない。
 彼女が今ここにいる。もし本当に、もし万が一のことになるというのなら――。

「俺が止める。なにがあってもセイバーを止めてみせる。もう二度と消したりなんて、しない」
「……口上だけは立派でもね、どうにもならないってことがあるってあの時学ばなかったの、士郎? ……ああ、わかった。もういいわ」

 凛のその呆れきった口調に、士郎が一瞬警戒を解く。わかってくれたのか、と。
 しかしそれはどこまでも甘かった。

「邪魔するって言うなら士郎、あんたも一緒に排除する」
「なっ……!?」
「ここには桜がいる。わたしの妹がね。あんたがいなくなったら桜は悲しむでしょうし、わたしは恨まれる。嫌なことだけどあの子が危険な目にあうよりはよっぽどマシよ。悪いわね士郎、あんたの贅肉に付き合うつもりはさらさらないわ」
「おまえ本気……みたいだな」
「いつだって大マジよ」

 なるほど確かにあの目は本気だ――敵意の矛先を自分に向けた凛に、士郎は息と一緒に溜まった唾を飲み下す。
 暗い夜の闇の中、凛の白いな腕が真っ直ぐこちらに突き出された。左手の指に三つ、挟み持った宝石が輝きを増す。
 あの小さな宝石一つに、自分を何回殺せるだけの魔力が詰まっているのだろうか。少なくとも衛宮士郎が抗しきれるような甘っちょろい魔力ではあるまい。本気の遠坂凛に、半人前以下の魔術師が敵うはずがない。
 だが、退けない。
 作り物の肉体に埋め込まれた数少ない魔力回路を叩いて起こし、目の前の魔術師に比べれば貧弱ともいえる魔力を搾り出す。

「……そう、その覚悟ができたっていうなら――」

 瞳を細め、凛の唇が小さく呪を紡ぐ。
 そして魔力が膨れ上がった。常人には不可視の、しかし心得のある者ならば否応なく目を惹いてしまう圧倒的な魔力の奔流。

 ――あ、こりゃあ死んだな。

 即座にそれを悟った。士郎が知っている数年前の遠坂凛とは比べ物にならない。自分が平穏と怠惰に溺れている間、彼女は自身の才能を更に磨き上げていた。あの魔力の渦は衛宮士郎を五回は殺して更に余りある。
 膝が震える。脳裏に桜の笑顔が、そして泣き顔が同時に浮かんだ。
 生存本能がここから逃げ出せと、アラートを最大にして訴えかけてくる。

 こんなところで死ねない――。
 ――けれど。

「……どかないぞ。ぜってえにここからはどかないからな、遠坂!」

 震える膝を叩いて止め、四股を踏むようにその場に踏ん張る。ともすれば鳴き声を上げそうな歯の根をぎっと食い縛り、見開いた目で凛を睨みつけた。
 一度その気になってしまえば簡単なことだった。今ならたとえ相手が世界であってもこうして踏ん張れそうな気がする。
 理屈だろうが理だろうが知ったことか――やらせないと言ったらやらせないのだ。

「ならいいわ。無理矢理にでもどかすから」

 番えた三つの宝石が眩い光を発し、その切っ先が士郎に向かって一直線に飛んでくる。
 視界が白と紅と、そして青に染まり、士郎は目を閉じて――



 ――そして開いた時、彼の目の前には夜の闇よりなお暗い背中が立ちふさがっていた。

「……凛」

 彼女が小声で、しかし良く通るあの頃のままの声で凛の名を呼んだ。

「私一人を討とうと言うならばそうすればいい。貴女の言うことはもっともだ、私は自分が何者かすら私自身にもわからないのだから。この身がシロウたちにとって害為すものであるならば、甘んじて討たれもしよう。だが――」

 彼女はいつの間にか現界させていた凛の魔力弾を受け止めた剣の切っ先を、今度は逆に凛に向け、冷たく鋭い声で言い放つ。

「――もしその為にシロウに害を為すというのであれば話は別だ。この剣は貴女を切り刻み、二度と我がマスターに手出しできぬよう肉塊に変える。その覚悟があるのならば……この剣をもって応えよう」

 そう言って月明かりの下にも鈍く生える黒い剣に士郎は息を飲んだ。
 あの時、柳洞寺の地下で自分に向けられたのと同じ殺気が剣先から溢れている。その切っ先が凛に向けられているのを目の当たりにしながら身動き一つ取れず、声すら出すことが出来なかった。
 だが、今確かに自分のことをマスターと呼んでくれた。
 まだ自分のことをマスターと呼んでくれる。かつて確かにあった繋がりを、目に見える形で失ってしまっていても確かに持ってくれている。
 ならばこの・・セイバーは間違いなくあの・・セイバーだ。見た目も纏う空気も変わってしまっていても、ただそれだけのことだ。

「……セイバーもういい、剣を引いてくれ。遠坂ももういいだろ?」

 そこに至った途端、声はすんなりと出た。全身を縛っていた緊張感ももはやない。彼女を前にして抱く恐れなど何もありはしないのだから。
 セイバーの肩に手を置き、もう片方の手で剣を握っている彼女の手のひらに触れる。

「セイバー」
「……シロウ、私を」

 セイバーは剣を構えたまま士郎を見、そして自分に触れている士郎の手のひらに視線を落とした。
 戸惑うように視線が揺れる。いつも引き結んでいた口元は僅かに開かれて、言葉を探しているようだった。

「なんだ、言ってくれよセイバー」

 士郎が問うと、やがて彼女は躊躇うように口を開く。

「私を……まだ、その名で呼んでくれるのですか?」

 彼の敵は己の敵だと――必殺の気を発しながらなお、彼女は初めてその感情を露にして聞いていた。
 変えない表情と、静かな口調に僅かな不安を乗せていた。
 それを聞いて士郎は小さく笑みを浮かべる。

「当たりまえだろ。おまえが俺のことをまだマスターと呼んでくれるなら……いや、そうじゃなくても、おまえは俺にとっちゃセイバー以外の何者でもないよ」

 言って、士郎は触れている彼女の手を包み込むように握り締めた。

「…………」

 士郎がそうすると、少しだけひんやりとした小さな彼女の手のひらからすっと力が抜けていき、セイバーゆっくりと剣を下に降ろした。

「ほら、遠坂も。別に本気じゃなかったんだろ?」
「馬鹿言わないで、わたしは本気だったわよ。……本気だったけど」

 そう言いながらも凛は伸ばしていた腕をゆっくりと降ろして、

「ま、そっちの本気も聞けたし、今日のところは見逃してあげるわ」

 実に凛らしい台詞と共に、しかし内容とは裏腹に目線はあくまでまだ鋭いまま。

「でもねセイバー、悪いけどわたしはまだあんたのことを完全に信じたわけじゃないわ。そんな姿してるってことはまだどこに毒が残ってるかわかったもんじゃないもの。だからもし少しでも疑わしい事があれば、今度こそわたしがあんたを殺してあげる。……魔術師として、それからわたしとして、ね」
「……肝に銘じておきましょう」

 それでようやく凛も笑みを浮かべ、士郎もほっと一息つけた。
 これで全て元通りだ。いや、まだ完全とは言い難いかもしれないが、些細なことでしかない。いずれ本当に全てが元通りになるだろう。
 あの戦争から数年、多くのものを失ったが、大切に思っていたものは戻ってきてくれた。もしかしたらこれも小さな妹、であり姉でもあるあの白い少女が遺してくれた小さな奇跡だったのかもしれないと思えてくる。
 だが、奇跡を起こしてくれたのはあの少女なのかもしれないが、こうして自分に巣食っていた不安を取り除いてくれたのは、わざわざ倫敦から会いに来てくれたこの親愛なる友人だ。

「ありがとな、遠坂。ほんとにありがとう。おまえ、やっぱりいいヤツだよな」

 その気持ちを口に出して言うと、言われたほうの彼女はそっぽを向きながら頬を少しだけ染めた。

「べつに、あんたのためじゃないわ。はっきりしないのが気持ち悪かっただけよ。……ま、自分でも甘くなったとは思うけど」

 凛はそう言うが、士郎はあまりそう思わない。
 外見は確かに少し大人っぽくなたが、遠坂凛は一度別れた頃の遠坂凛のままだ。少しも変わってないと思う。
 だが彼女がそう言っているのだから、あえて自分の思うところを言ってやる必要も無い。士郎は苦笑しながら彼女の言葉に頷いた。

「そうだな、倫敦に行ってからおまえ、少しだけ贅肉が増えたかもな――」



「……さて、そろそろわたし寝るわ。まだちょっと昨日からの疲れが残ってるし、眠くなっちゃった。……セイバー、後始末はお願いね」

 そう言って凛は小さく欠伸をかみ殺しながら部屋に戻っていく。
 後に残されたのは月明かりの下に立ち尽くすセイバーと、そして、

「……シロウ、今のは、あなたが悪い」

 ぼろきれのように大の字になり、顔面をこぶし大に陥没させている衛宮士郎。
 そんな彼をセイバーは無表情なまま、実に冷ややかな目で見下ろしていたが、やがてほのかな笑みを浮かべて腰を降ろし、

「ですが、私だけは……たとえあなたが悪に染まろうとも……変わらずその傍にいて仕えましょう」

 そうつぶやき、再び空に浮かぶ星を眺め始めた。
 黒い夜空は満点の星を散りばめて、薄い光を帯びていた。



◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆



「せ、先輩、どうしたんですか? その顔……」
「いや、まあ、そのな、いろいろとあってな」

 翌朝、起きてきて士郎の顔を見た桜は士郎の顔面の惨状に目を丸くした。
 当の犯人は少しも悪びれた様子もなく、もくもくと行儀悪く新聞片手に白いごはんを口に運んでいる。そちらになかなか目を合わせようとしない士郎の様子からライダーは犯人が誰なのかを察したが、あえて口を出そうとはしなかった。どうせどうでもいいような理由なのだということは、過去の経験上良く知っている。
 それに、懐かしい光景と空気に余計な口出しをして水を差したくはなかった。

「しろうー、おかわりー」

 一方、そんな弟分の惨状などまるで気にした様子もない大河の健啖ぶりは相も変わらずだった。
 口元にお弁当を引っ付けたまま、茶碗を差し出すのもこれで三回目。都合四杯目となるがペースはまるで衰えようとしない。歳を重ねるごとにますます食欲も増していっているような気がするのだが、体型が少しも変化しないのは彼女が藤村大河だからなのだろうか。

「っていうか、少しは遠慮しろよ藤ねえ。セイバーだっているんだからさ」

 そう言って大河に茶碗を渡しながら目を向けると、ちょうど顔を上げたセイバーの目と正面からぶつかる。
 相も変わらずの無表情、相も変わらず意味なく甲冑など着込んでいる彼女は、傍目には昨日とまるで変った様子はない。

 だが――。

「ん? おまえもおかわりか、セイバー?」
「…………」
「茶碗よこせよ。今日は多めに炊いといたからさ」
「…………」

 彼女の手から空になった茶碗を受け取って、白いごはんを山盛りに盛ってやる。

「ほら、遠慮しないで食ってくれ」

 士郎から茶碗を受け取り箸をとったセイバーは、

「……シロウ」
「ん?」
「ありがとう」

 目元をほんの少しだけ緩ませて、山盛りの白飯を少しずつ切り崩していくのだった。





あとがき

 掟破りな黒セイバー帰還モノ。何となく書きたくなったので書いた。性格とか大幅に捏造気味。
 黒セイバーがいる理由? そんなものは俺も知りません。奇跡ってことで一つ。なんて便利な言葉だ。


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