激しく交差する二つの人影、激しく打ち合わされる竹刀の音。
 しっとりと湿った朝の空気に包まれた道場で、涼しげな顔をした金髪の少女と必死の形相をした赤毛の少年がぶつかりあっていた。
 ただしぶつかりあいといっても、それは一方的なものだった。
 金髪の少女が息一つ乱していないのに対し、少年は既に呼吸も荒く額に浮かぶ汗は頬を伝って床を濡らし、少女に打ちかかっては軽くいなされている。

「シロウ、先ほどよりも剣先が鈍っています。もう根を上げましたか?」
「――はっ、まだまだ!」

 だがしかし、誰の目にも明らかなほどに敗色が濃厚であっても、少年――衛宮士郎の目の光が衰えることはない。だから彼の相手をしているセイバーは、誰にもわからないようにこっそりと、小さく微笑んだ。

「それでこそシロウです」


 そしてそんな二人の鍛錬に最初から立ち会っているもう一人の少女――遠坂凛は、鍛錬が始まって少ししてからどことなーく、不満げな表情をしていた。
 が、互いの打ち合いに没頭している士郎とセイバーが彼女の様子に気づくはずもない。今の二人の目には目の前にいる相手しか入っていない。士郎はセイバーしか見ていないし、セイバーはもちろん士郎しか見ていない。

「……むぅ」

 一瞬でも気を抜けば即怪我に繋がるような激しい鍛錬をしているのだからそれは当然といえば当然のこと。
 だがしかし、凛にとってはその当然のことがどことない不満の種になってしまうのである。
 薄い唇をへの字に結び逆立てた柳眉の間に皺を刻んだ、怖いというよりは可愛らしいとすら言える表情で、遠坂凛は不満を表明している。


 しかし少なくとも士郎には、凛のことを気にしている余裕はまるでない。
 小手先のフェイントはあっさりと見抜かれいなされて、ならばと渾身で打ちかかっても完全に見切られかわされる。短い二刀の長所を生かして連続で切りかかっても、全て弾き返され全く通用しない。今更だが呆れ返るほどの両者の力量差である。
 ぽたぽたと床に染みを作る汗の玉を乱暴に拭う。
 互いの力量差など士郎にだってわかっている。わかっているからこそ、こうして少しでも力量差を埋めるためにセイバーに打ち込んでいくのだ。

「はっ!」
「――それも甘い」

 床板を打ち鳴らす踏み込みの直後に、乾いた剣戟の音。
 同時に打ち込んだ左右の剣は、一方は身を引くだけでかわされ、もう一方は竹刀で打ち落とされる。……だけでなく、追いかけるようにしてセイバーの竹刀の切っ先が弧を描き、士郎の懐に飛び込んでくる。
 剣速は――今の士郎が刹那の差で捌けるぎりぎりの速度。士郎は脳が知覚する前に獣じみた反射だけでかわし、何とか掠めるだけに留めた。

「……はっ、ふっ」

 何度目になるかわからない打ちこみをまたも返され、返す刀の斬撃をどうにか凌いだ士郎はとにかくセイバーの射程から飛び退いて逃れた。
 荒々しい呼吸を整えようともせずそのままに任せ、ただ眼前の敵と相対する。

 やはり今の自分では敵わない――士郎は痛感した。
 小細工は所詮小細工でしかないし、全力で打ちかかっても軽くいなされるばかりか、苛烈な反撃を見舞われる。幾度も剣を交えて自分は疲労困憊を極めているというのに、彼女はなお涼しい顔をしている。これでまだ勝ち目があると思うほうがおかしい――が。

「ふーっ」

 士郎は無理矢理に呼吸を整え、手にした双剣を構えた。
 剣先からは目には見えない剣気が揺らめいている。今の士郎の持てる全力をここに込めていることは明白だった。
 合わせてセイバーも正眼に構え、口元に実に満足げな微笑を浮かべた。

「正しい選択です、シロウ。明らかに格上の相手に対して余計な小細工など無用。むしろ全力を以って活路を見出すのです」
「ああ、わかってる。今までさんざんおまえに叩き込まれてきたことだからな」

 言いながら、それでもあの男だったら他に幾つもの手を考えるだろうが――と、心の中だけでつぶやく。
 だがそんな雑念はすぐに捨てた。自分は自分。いずれはあの高みに上るとしても、今は自分できることで高みを目指す。


 凛は一瞬、彼のそんな横顔に見惚れた。
 見惚れてから赤らんだ顔をぶんぶんと振りまわしたが、結局は髪が乱れただけで顔は赤いまま。むしろ症状は益々悪化しているように思う。
 だが仕方ないではないか。普段はぼけぼけしていてあまりしまりがないくせに、不意にあんな研ぎ澄まされた名刀のような顔をする。そのくせ、少年が持つ熱さも失っていないのだから性質が悪い。

「だいたい卑怯なのよ、あいつ」

 自分でも無茶苦茶なことを言っているという自覚はある。
 だがいつだって不意打ちでこんなことをされているのでは、文句の一つだって言いたくもなるというものだ。
 凛は赤らんだ顔を隠すように抱え込んだ膝の間に埋める。ついでに膝の間から下着が見えないように、足を閉じてシャットアウトした。


 かといって、もちろん士郎がそんなものに注目していたはずがない。
 だらんと両手を下げた体勢でセイバーに向けて突っ込んでいく士郎。対するセイバーも、迎撃するために前に出た。

 両者が激突する手前で士郎が床を砕かんばかりの勢いで左足を踏み込み、下手から右の竹刀を思い切り振り上げる。
 セイバーは下から迫ってくる刀を、僅かに顔を反らすことで回避した。吹き抜けていった風が彼女の前髪を撫でて揺らしていく。そしてセイバーは無防備になった士郎に対して無造作に、しかし必殺の一刀を――

「ッ!」

 ――振り下ろそうとして、正面からの体当たりをもろに食らっていた。

 そのまま縺れて倒れこむ士郎とセイバー。
 士郎は残った左の竹刀をセイバーの喉元に突きつけようとして腕を振り上げる――が、早いか、細い腕が下から伸びてきて捉えて抑えた。

「……ぐ」
「まさかこうくるとは思ってませんでした。不意をついたという意味では見事です。しかし――詰めが甘い」

 逆に士郎の首筋に、セイバーの竹刀が横合いから添えられている。真剣ならば、僅かにずらすだけで頚動脈を切り裂ける体勢だった。

「ですがシロウ、これは最初から狙っていたのですか?」
「いや」

 身体の下から聞いてくるセイバーに、士郎は頭を振る。

「実は踏み込んだ時に足が滑ってさ。ほんとは踏ん張ることもできたんだけど、そのままいっちまえって」
「なるほど……単なる偶然の産物ですか。それでは私が不意を突かれたのも無理はない。もし狙っていたのだったら誉めてあげようかと思いましたが……これではまだまだ、ですね」
「むっ。でもいいところまでいったのは事実じゃないか」
「勝利を得られないのであれば同じこと。わかっているのですかシロウ? 戦場だったらあなたは既に命を落としています」

 身体の下から厳しい表情を向けられて、士郎も思わず声に詰まる。
 事実として、いまだに彼女の竹刀は士郎の首筋に添えられたままだ。つまり、士郎の生殺与奪権はまだセイバーの手の中にあるということになる。

「……確かにセイバーの言う通りだ。俺はまだまだ甘いな」

 その事実を痛感し、士郎が素直にうなだれる。少し気落ちしたような表情で唇を噛んでいるその様子に、セイバーも表情を緩める。
 彼のこんな素直さをセイバーは好ましいものだと思っている。自分の弱さを素直に受け入れ、その上で高みを目指せる人間は上達も早い。性格ばかりは鍛錬でどうにかなるものでも言って聞かせて変わるものでもないから、士郎のこうした素直さと向上心は、天が彼に与えた最大の才能なのかもしれない。

 それに――最近は、こうして落ち込んでいる士郎を、少し可愛く思えてきている。
 もちろんこんなことは口に出せるものじゃないのだが。

「あの……ところでシロウ」
「ん?」

 と、急にセイバーの声の調子がやけにしおらしくなって士郎は首を傾げた。
 見れば頬は赤く染まっているし、瞳も何故か少し潤んでいるように――見えなくもない。

「いつまでもこのままというのは、その……少しだけ困る」

 下から見上げるセイバーに小さく囁くように言われ、士郎は今自分がどんな体勢をしているのか見直してみた。
 いや――改めて見直すまでもなく、どう見たってセイバーを押し倒しているようにしか見えない。セイバーの顔は相変わらず上気しているし、ほつれた金色の髪が道場の床に広がってまるで砂のようだし、身体の触れているところが妙に柔らかくて熱いし――

「す、すまんっ!」
「……いえ」

 意識した瞬間、鍛錬している時よりも更に機敏な動きでセイバーの上から飛び退き、床に正座して畏まる。そしてセイバーもまたのろのろと身を起こして、士郎と同じく身を正して相対した。

「……ほんとにごめん。無神経だった」
「気にしないでください。鍛錬中の……事故のようなものですから」
「うっ……し、しかしやっぱりセイバーは女の子なんだし……」
「その言葉と、気持ちだけで十分です。シロウ、気にしないでください。これ以上謝られては、私も困ります」

 セイバーはそこまで言って、それに、とつぶやくと後の言葉は口の中に飲み込んだ。
 士郎はそんな彼女を見て首を傾げたが、顔を赤くして俯いているセイバーを見ればどんなことをつぶやいていたのか、少しは想像もできよう。


 少なくとも――


「う、うぬぬぬ……」

 そんなお見合い状態の二人を端から見させられる羽目になった遠坂さんなんかは、嫌になるくらい想像できてしまったわけである。






遠坂さん、欲求不満です






「だいたいっ! 鍛錬とか何とか言って、あいつらべたべたしすぎなのよっ!」

 遠坂凛――当年とって一八歳の花の乙女は、乙女にはあるまじきことにどすどすとはしたなくも音を立てて廊下を歩いていた。本来の彼女であれば、いかに勝手知ったる他人の家といえど、やはり猫のように音を立てないよう静々と歩くべきところを、だ。
 そんな彼女を、我を忘れさせるほどに憤慨させているのが何かといえば、それはもう言わずもがなで先ほどの道場での出来事だろう。平たく言えば、凛の恋人である衛宮士郎の浮気であり、凛のサーヴァントであるセイバーの不倫であったりするわけだ。

 無論のこと、士郎とセイバーの二人の間にそういった関係があるわけではない。
 互いに憎からず想い合っているであろうことは確かだが、士郎がやはり凛の恋人であることもまた確かなことだからだ。セイバーだってそのことは承知しているだろうし、彼女自身、士郎と凛の関係を微笑ましく思っているはずである。

 ……と、凛も最近まではそう思っていたのだが。

「セイバーめ……あの子ってばもしかして、いやもしかしなくても……」

 ただでさえ、彼女にこの時代に残ることを決意させたのは士郎の存在である。そう考えると、元々セイバーは士郎のサーヴァントだったのだし、こうなるのは殆ど決まりきっていたことのような気もしないでもない。となるとだ。

「ぬぬぬ……ぅ」

 遠坂さんの眉間には益々深い皺が寄ることとなるのだ。
 これがセイバー以外の他の誰かだったら凛もこうも眉間に皺を作ることはなかったかもしれない。――無論、いい気分はしないだろうけど。
 しかし相手がセイバーとなれば話は別だ。

 彼女は凛と同じく士郎の最大の理解者であり、凛と同じく士郎の最高のパートナーである。そしてセイバーの剣が現在のマスターである凛ではなく、実のところ前のマスターである士郎に捧げられているのは、彼女自身公言して憚らないところでもある。
 つまるところセイバーは凛と並んで士郎の一番近いところにいる人物なのだ。
 おまけにセイバーは並外れた美少女だ。女である自分でさえ時々くらっときてしまうことがあるというのだから半端ではない。

 どうだろう、この完璧ぶりは。
 健気で自分を理解してくれて、その上で支えてくれる類稀な美少女。こんな娘に想われて嬉しくない男など、この世の中にいるだろうか。いや、いない。
 ちょっと食が太すぎたり鍛錬に熱心すぎて生傷が耐えないことなど、何ほどのことでもないだろう。

 しかし、だからといって凛は士郎の自分に対する気持ちに疑いは抱いていない。
 何せ衛宮士郎はこの遠坂凛が好きになった男だ。
 ひょいひょいと相手を乗り換えるような軽々しい男に引っかかるほど自分はうかつではないし、そんな男を好きになるほど自分の目は曇っていない。

 それに――時々ではあるが、きちんと互いに互いの気持ちを確かめ合ってもいることだし。

 凛は少しだけ歩調を緩めて、その代わりに目元を薄っすらと朱に染めた。

「遠坂、なに赤くなってんだ?」
「えっ? ぅわっ、士郎!?」
「おう」

 声をかけられて顔を上げると、すぐ目の前に士郎の顔があった。
 思わず一歩その場を飛び退いて距離をとる。胸に手を当てるとばくばくいっていた、ばくばくばくばく、と。
 凛は急いでままならない心臓の音を鎮め、一つ大きく深呼吸して息を整える。どんな時でも優雅たれ、遠坂家の家訓忘るるなかれ、だ。

「あんた、こんなところでにゃっ、にしてんのよ」

 噛んだ。

「にゃに、か……にゃにって言われてもなぁ」
「いちいち再現してんじゃないわよっ!」
「私たちはこれから買い物にいくところですが」

 がーっ、と顔を真っ赤にしながら照れ隠しに捲くし立てていると、横合いからひょこっとセイバーが顔を出した。

「おっ、準備できたか」
「はい、お待たせしましたシロウ」

 白いワンピースの上に薄手のカーディガンを羽織ったセイバーは、当然ながら鍛錬で乱れた髪もきちんと結い直していた。更に珍しいことに唇に薄くリップを塗っているようで、もしかしたら彼女なりにおしゃれというものをしているのかもしれない。
 それを見た遠坂さん、きりり、と眉の角度を吊り上げる。

「なによ、あんたらどこいくの?」
「どこって……商店街に晩飯の買出しに行くだけだけど」
「……ふぅん。そ」

 ――その割には随分気合入ってるみたいじゃない、セイバー。

 口に出さずにつぶやいて、ちらりとセイバーを見る。
 素直に可愛いと思ってしまった自分は負け組みだろう、とそんなことも思ったがもちろん口には出さなかった。

「ねえセイバー、あなたそんな服持ってたっけ。わたし、見たことないんだけど」
「あ……これですか? これはこの間、シロウに買ってもらったのです」

 そう言ってセイバーははにかみながら、両手を組み合わせてそっと胸に当てた。実に満ち足りた表情である。
 そして凛のこめかみには薄っすらと何かが浮かび上がった。

「私がここに来て半年も経ちますし……アルバイトのお給料もいただいたから、と」
「へぇ……そうだったの。知らなかったわ」
「知らないはずないだろ、遠坂だってその時いたじゃないか」
「あ、あれ? そうだっけ」
「そうだよ。一緒に自分の服も買ってたじゃないか」

 そう言われてみればそんなこともあったような気がする。
 この間、士郎と一緒に服を買ってもらった時にセイバーも一緒にいたのだが、もしかしたらその時のことだろうか。

「ところで遠坂はどうする? 一緒に買い物行かないか」
「……ん。そうね、そうさせてもらうわ」

 一瞬だけ考えてから、凛は即座に頷いた。
 ここのところ夕飯の買い物などは士郎とセイバーにまかせっきりだったし半ばそれが当たり前のようになっているが、よくよく考えたら当たりまえのことにさせておいて良いわけがないのだ、凛としては。
 ちらりとセイバーを見れば、彼女は既にサンダルを履き、ごく自然に士郎の隣に立って凛を待っていた。

 ――ほほう。それはこのわたしに対する挑戦ということかしら?

 別にセイバーのほうにはそんなつもりはないのだろう。
 が、凛のほうとしてはそのつもりがあろうがなかろうが、現在のこの状況は到底看過し得ないものがある。
 というわけで負けず嫌いの精神をばっちり発揮し、一人静かに闘志を燃やしているのであった。



 だが、そんな彼女の溢れんばかりの闘志とは裏腹に――。

「おう、士郎ちゃん、セイバーちゃん! 今日も夫婦揃って買い物かい!?」

 現在遠坂凛は圧倒的な劣勢に立たされていた。
 どのくらい劣勢かというと、赤いあくま VS 衛宮士郎程度の劣勢といえばわかりやすいだろうか。

「あ、あの。いつも言っていますが、私とシロウは別に、そのような関係などでは……」

 しどろもどろと反論しつつ、頬を桃色に染め上げて否定の意を表するセイバー。彼女なりに必死の模様。
 だがその中に、遠坂凛的に聞き捨てならない言葉が。

 いつも、いつもと言ったかこの小娘わ。つまりいつも夫婦扱いかこの。
 だいたいここで否定すべき士郎は何故明後日の方向を向いたまま、我関せずと日和っているのだろうか――。

 凛は内心、激しく憤慨しながらもなんとか崩れそうになる猫を必死に保ちつつ、後でどうしてくれようかとか思っていたりする。

「ところで士郎ちゃん、そっちの娘は初めて見るけど誰なんだい?」

 と、顔の皺に幾年の年輪を刻んだ大将の不躾な視線が凛に注がれた。足の先から頭のてっぺんまで、といっても不快になるものではないのだが。
 ともあれ凛はきた、と思った。
 大将と挨拶と軽い会釈を交わしながら、凛はいまだに繋がっているパスを通して後ろに立っている彼に、

 ――士郎?

 とだけ、言葉を送っておいた。これだけできっと自分の意思は伝わったはずである。なんせ遠坂凛と衛宮士郎は押しも押されぬ恋人同士なのだから、意思疎通なんて言うまでもなくばっちりなはずだ。通じてなかったらどうしてくれようか、ってなものである。
 だがまあ、士郎がかくかくこくこくと頷いているところを見ると、きちんと意思は伝わってはいるようだ。

「あー、えっとな。こいつは遠坂凛っていって、その、実は俺の――」
「二号さんかい?」

 ――違う。本妻だ。

 とかなんとかいうより、二号さんも何もないというのが本当のところ。

「……あのですね、わたしと士郎はそんな爛れた関係などではなく」
「まったく士郎ちゃんもあんま若いうちから派手にやるもんじゃねえぜ。まあ、セイバーちゃんも許してやんな、男の甲斐性みてえなもんだから」

 じゃなくて、人の話をまず聞けと――完全に無視された形の凛のこめかみがぴくぴくと震えて、背後に立っている士郎の膝もがくがくと震えた。
 セイバーは赤くなって俯きながら、なんとなく『承知しました』なんて言ってしまっていた。
 無論、セイバーにまで二号さん認定されてしまった凛はといえば、上がりっぱなしのフラストレーションゲージが更に上昇するしかない。そして士郎の表情は凍りつき、顔色は青ざめていく。悪循環といえば悪循環なのだろうが――。

「ま、まったく……そのようなことを言われても困るのだが……。とりあえず大根とじゃがいも、それからにんじんをください」

 ただ一人、顔を薄赤くして表情に僅かな困惑を浮かべているセイバーだけが、満更でもないといえば満更でもないのであった。


 それからあっちこっち、商店街の店を歩いて回る士郎とセイバー、そして三白眼になった凛の一行。
 基本的に一事が万事この調子であったがためか、凛の眉の傾斜角は時を追うごとにきりきりと鋭くなり、士郎の胃痛もきりきりと鋭くなっていった。
 はっきり言ってこうなることは事前にわかったはずなのに、それでも凛を誘ってしまった士郎の胃痛は自業自得だと言えよう。更に商店街の人たちにはっきりと事実を告げれば良いものを、なんとなく言いそびれてしまったのも自業自得に拍車をかける一因である。なんにせよ、士郎に救いようはない。

 ――だけど。

「セイバー、重たいだろ。そっち貸せ、俺が持つから」
「それではシロウの負担が大きい。私は問題ありませんから」
「いいから。こういう時は男が重たいほうを持つもんだ」
「あっ……まったく。こんな時ばかりシロウは強引になる。ですが……ありがとうございます」

 膨れ上がった袋を手から提げて並んで歩く二人の影を見ていると、商店街の人たちがああして二人をからかうのもわかる気がする。
 必要以上に醸し出されるチャーミーグリーンな雰囲気。
 ありえないとわかっている凛の目にも、二人の姿が新婚のそれに見えてきてしまうのだから腹立たしい。しかも何故、本来士郎の隣にいるはずの自分が一歩後ろにいるのだろうか。

「むむむ……」

 凛の口から小さく、聞こえないくらいに唸り声が漏れた。意識したわけでもないのに、唇がとがっている。
 無論、原因はあの二人にある。

 かといって士郎に他意がないのはわかっているのだ。
 セイバーはどうだか知らないが、少なくとも士郎のほうにはセイバーに親愛以上の感情を抱いていることはないだろう。自分とセイバーに対する気持ちの重さは同じかもしれないが、向いている方向性が違う。
 士郎の中で自分とセイバー、どちらがより女かといえば間違いなく自分だと胸を張れる自信がある。

 だというのに不満の声が出てしまうのは、全くもって自分の心が狭いせいだ――と、凛は思っていた。
 士郎のことを信じているのだから、多少セイバーが彼に甘えたとしても広い心で許してやるべきではないか。

 ――そう、わたしは遠坂凛。衛宮士郎はわたしの恋人、で、セイバーはわたしのサーヴァントよね。

 いわば二人ともわたしのシモベ同然。なら二人がちょっと親交を深めるくらい構わないではないか――などと考える凛。
 同時に深く呼吸して、改めて気持ちを落ち着かせて二人に視線を向ける。

「シロウ、今日の夕飯の支度は私も手伝います」
「そうか? そりゃありがたいけど、別に休んでてくれてもいいんだぞ」
「いえ。私は普段シロウに世話になっているばかりで何も返すことができていませんから。せめて少しだけでも手伝いができれば、と」
「んー、まあそういうことなら俺としても助かるけどさ。でも言っとくけど、俺はセイバーにたくさんのものを貰ってるぞ。それだけは勘違いしないでくれよ」
「…………」

 シロウがそう言うと、セイバーは柔らかく目元を緩めて小さく頷く。夕日に照らされた白皙の頬には薄く朱が散って、口元は薄く笑みの形を作っている。
 そんな彼女の様子を見ることできない凛にも、セイバーの雰囲気が変わったのは一目瞭然で――というより、並んでいた影が寄り添うように近づいているのを見て気づかないはずがない。凛の口元と目元はひくひくと不満げに震えていた。
 一瞬、割り込んで邪魔してやれー、とかそんな思いが頭をよぎる。
 が、どんな時でも優雅たれ、を家訓とする遠坂家の人間がよもやそんなことをできるわけがない。なんか横恋慕してるみたいでカッコ悪いからだ。

「む、むむむぅ……っ」

 本心では割り込みたい。でも、できない。
 二つの相反する思いが葛藤を生み、凛の心をくしゃくしゃにして口からは唸り声が漏れ続ける。

 遠坂さんのフラストレーションゲージ、順調に増加中。





 包丁がまな板を叩く音、火にかけた煮物が踊る音が台所と居間に響き、漂ってくる甘辛い匂いが否応なく食欲を刺激する。
 最後に腹に物を入れてから既に数時間を経過しているところにこの仕打ちだ。油断して腹の虫が鳴き声をあげそうになるので困る。
 時計の針は七時半を少し回っている。食事の支度が始まってから一時間くらいだろうか、もうあと少し待てば暖かいご飯がテーブルに並べられるだろう。

 凛はテレビの音が流れる居間のテーブルに肘をついて、ぼんやりと台所の二人の後姿を眺めていた。
 今日の夕飯の支度は士郎とセイバーの二人でやっている。
 セイバーはこのところ食べるばかりでなく、積極的に料理を手伝うようになっている。別に手伝う相手が士郎だからというわけではなく、凛や桜が食事の当番の時でも彼女が手伝おうとすることに変わりはない。

 セイバーのこうした行動はひどく好ましいと凛も思っている。
 彼女はまだ家事が満足にできないことや自分の食事量が多いことをちゃんと認識していて、そのことを後ろめたく思っている節がある。士郎や凛がなんと言おうと、事実は事実としてあるのだからごまかしようがない。だからセイバーは、どうにか自分も士郎たちの役に立とうと一生懸命なのだ。
 士郎の買い物に同行して荷物持ちをするのもその一環である。

「シロウ、千切りとはこのくらいで切れば良いのでしょうか」
「あ? ああ、うん。そのくらいでオーケー。でもできればもう少し均一に切ったほうがいいな」
「なるほど。了解しました、シロウの期待に応えてみせましょう」
「頼むよ。ああ、でも肩に力入れすぎて指切らないようになー」
「無論。シロウ、侮ってもらっては困る。如何に使い慣れないとはいえ包丁とて刃物であることに変わりはない。剣の名を冠するサーヴァントである私に使えないということなど、あるはずがありません」

 軽口を叩きあいながら並んで台所仕事をする士郎とセイバー。まるでドラマか漫画の中にある、新婚夫婦の生活を表した一枚絵にも見える。
 凛はそんな光景をぶっすーとした膨れっ面で見やりながら、肘を崩してテーブルに突っ伏した。ひんやりとした感触が頬に冷たくて少しだけ気持ちいい。

「……ふーんだ。ほんとはあそこにいるのはわたしなのに」

 できるなら自分も一緒になって台所に入りたかったのだが、生憎衛宮家の台所はそんなに広くない。二人も入ればもういっぱいいっぱいで、三人も入ったら満足に動けなくなってしまう。
 だからといってセイバーを追い出して自分が士郎の隣に収まろうなんて気持ちにもならない。
 凛だって一生懸命なセイバーが好きなのだ。自分が男だったら多分、いや、間違いなく惚れてしまっていたんじゃなかろうか、と思うくらいには。現実には自分は女でセイバーも女、そして士郎は男だからこんなにもやきもきする羽目になっているのだが。

「ふんだっ。馬鹿士郎」

 ぶーたれて、だらしなくテーブルの上に伸びきったまま士郎を馬鹿扱いする。
 だが士郎なんて馬鹿で十分だ。だって士郎がもっとはっきりとしてくれれば、こんなに自分がやきもきすることなんてないのだから。

 具体的にどうはっきりしてくれればいいのかというと、もうちょっと――セイバーだけでなく、自分のことも構ってくれればいいのだ。
 セイバーは確かにまだこの時代に慣れきっていなくて、いろいろと世話を焼いてやらなければいけないというのはわかるが、だからといって自分を蔑ろにしていい理由にはならないじゃないか。

 ――なんてこと、言っちゃってさ。

 つっぷしたまま目を少しだけ細めて、ぽそりとつぶやく。自分にだって非がまるっきりないというわけでもないと思うのだ。
 例えばもうちょっと、もうちょっとだけ積極的に甘えにいくとか構ってもらいにいったりするとか……すれば良いんじゃないかと思ったりする。
 それができないのは単に恥ずかしかったりするだけなのだから、これはもう自分のせいとしか言いようがない。

「でも、からかうんならともかく……素で士郎にべたべたするのってなんかわたしのカラーじゃないし。それにいかにも欲求不満になってますって宣言してるみたいだし。……ふん、別に欲求不満になってるわけじゃないもん」

 ぽそぽそと口の中だけでつぶいていた声が、凛の感情に合わせて少しずつ外に漏れ始めている。

「おーい遠坂ー、なにぶつぶつしてるんだー?」
「! う、うっさいの! あんたはさっさとごはんの支度する!」
「りょ、了解ですサー!」

 真っ赤になってどなる凛に、士郎は対象的に顔を青くしてビシッと敬礼。
 恐るべしは遠坂凛の迫力と衛宮士郎のへっぽこ具合だが、今回は他にも影響を受けた人物がいた。

「つっ……」
「セイバー? って、おまえ指っ」

 振り向くと、真剣な表情でキャベツと格闘していたセイバーが包丁を置いて指を押さえていた。
 どうやら指を切ってしまったらしい。秀麗な顔を僅かにしかめていた。

「平気か? とりあえず見せてみろ」
「いえ、この程度たいしたことありません。放っておけばすぐに塞がりますから」
「いいから見せろって」

 セイバーが何かを返答する前に強引に手を取って自分の手元に引き寄せる。
 白く細い指先には大粒の血の塊が膨れ上がっていて、傷が意外に深いことが見て取れた。見てるだけでこっちも痛くなってきそうだ。士郎もその傷を見て、自分が痛みを感じているかのように顔をしかめた。

「馬鹿、全然平気じゃないじゃないか。痛いだろ」
「あの、それは確かにそうですが……私はサーヴァントですから、放っておいても直ぐに」

 言ってセイバーは手を引こうとするが、逆に不機嫌そうになった士郎に引き寄せられて倒れこむようにもたれかかる。
 そして士郎はセイバーが突然のことに目を白黒させている間に、血の玉が浮き出ている指を口に含み吸った。

「しっ、シロウ!? なっ、なななにを……」
「…………」
「あの……シロウ……」

 慌てて荒げた声も徐々に尻すぼみになり、最後には大人しくされるがままに指を吸われる。セイバーはくすぐったいような不思議な感触に思わず少し身動ぎしたが、士郎のほうはまるで頓着していない。
 台所と居間に落ちる沈黙。士郎に指を吸われているセイバーはもちろん、居間でテーブルに突っ伏したまま完全に凍り付いている凛も無言のまま。

「……と、こんなもんか。遠坂ー、悪いけど絆創膏持ってきてくれ」
「う、うん」

 何が何やら、士郎に言われるままたんすの上の救急箱から絆創膏を彼に渡し、受け取った士郎は丁寧な手つきでセイバーの指に巻きつける。

「とりあえず応急処置。メシの支度、後は俺に任せてくれていいからセイバーは休んでな」
「ですが、まだ……」
「台所仕事は水仕事だからな。傷口濡らすわけにゃいかないだろ。ここまでやってくれてればあと少しだし、十分助かったよ。ありがとな」
「……はい」

 どことなく不満そうな表情だったが、大人しく居間に引き下がるセイバー。
 士郎に言われるままに大人しくたたみに腰を降ろし、しばらくの間少し未練がましく台所をを見ていた。……が。
 台所で忙しく動き回っている士郎の背中を見ている目元が徐々に緩んでくるのが凛にはわかった。

 ――こ、こやつ。

 ぴきり、と凛の頬が引きつる。
 対象的にセイバーの頬は目元と一緒にゆるゆるに緩んでいく。無意識なのだろうか、士郎の背中を見つめたまま降ろしていた両手を胸元で組み合わせて絆創膏を巻いた指を軽く握り締め、時折かき抱くようにして胸に押し付けいた。小さく吐くため息すら、どこか艶かしく感じる。
 これはもう、完璧だ。疑いようなどどこにもない。
 いかに士郎が朴念仁だとしても、こんな彼女を直視してしまえば、自然とその想いに気づかざるを得ないだろう。それほどまでにあからさまで強烈で、そして無意識な感情の発露だった。

「う、うううー……士郎めー」

 別に士郎のせいではないのに、士郎のことが恨めしくなってくる。
 目の端にちょっぴり小粒を浮かべて、遠坂さんのフラストレーションゲージは臨界を突破し、どこかに突き抜けていった。



◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆



 夜――。

 夕食に作ったコロッケの出来の良さに満足しながら風呂に入り一日の汗を流した士郎は、本格的になってきた秋の夜風に湯上りの身体を晒していた。
 星が浮かぶ夜空を眺めながら、風の吹き込む縁側で眠る前に一杯のお茶を飲むのがここのところの士郎の習慣である。

 今日も一日、大過なく過ごせた。
 凛とセイバーと、いつもと全く変わりなく。刺激が足りないといえばそうかもしれないが、刺激なら数ヶ月前にさんざん味わってきたのだ。せめてもうしばらくはのんびりと平穏なままでいいんじゃないだろうか。――そう、少なくとも学校を卒業するまでは。
 ず、と一つ啜って士郎はそんなことを考えながら、今日一日のことを思い返していた。

 ――そういえば俺、セイバーの指舐めちまったんだっけ。

 今日一日で最も刺激的だった出来事を思い返して、ふと頭に血が上ってきた。
 だがあれは仕方のないことだと思う。セイバーの指の傷は意外と深かったし、いくらサーヴァントだからって放っておくなんてしたくはなかったし。でも、さすがに遠坂の前であんなことをするのはまずかっただろうか――。

 などと赤くなった自分をごまかすように、熱いお茶を啜りながら脳内でぶつぶつと言い訳なんかをしてみる。
 そういえば、ともう一人の彼女、自分の恋人であるところの遠坂凛のことを思い出す。

「遠坂のやつ、今日はなんかちょっと様子が変だったか?」

 一日中、仏頂面ばかりしていたような気がしたし、かといって声を張り上げて怒ってくるような様子もない。しかも夕飯の時などは、こちらを無視しているかと思えば、ふと気づくと恨めしげな視線を送ってきていたりする。それでどうしたと聞くと、ぷいと視線を外してまたもくもくと食事に戻ってしまうのだ。
 これでは始末に負えない。しかもそっぽを向いてコロッケを食べているのがまた妙に可愛いもんだから更に始末に負えない。どうしろというのだ。

「……やっぱ、あれがまずかったかなぁ」

 あれというのはもちろん、セイバー指しゃぶりの件である。
 いや、別にしゃぶったわけでなく治療のつもりだったのだが、実際問題しゃぶったことに変わりはない。

「明日ちゃんと話しておくか……」

 幸い明日は学校だ。いつも弁当を一緒に食べている昼休みの屋上だったら二人でゆっくりと話しもできるだろう。
 底に残った飲み残しを一気に飲み干し苦味に顔をしかめながら、明日何と言ったものかと、そんなことを考えていた。



「……ねむ」

 いい加減、日付もそろそろ変わる時間帯になると眠気だって襲ってくるというものである。
 自室のふすまを開いてあくびを漏らし、敷いてあるふとんに潜り込もうと捲りあげながら、

 ――あれ? 俺いつふとんなんて敷いたっけ……な?

 などと首を捻っていた士郎は、しかし捲ったふとんの上にある者に思考を凍らせて、再びふとんを元通りに戻した。

「…………」

 こめかみ指を当て揉み解す。次いで眉間も揉み解して、十分に今見た光景を脳内で吟味。
 結論としてもう一回確認ということと相成り、再度ふとんを捲り――そしてまた戻した。

「……俺は幻を見た」
「ンなわけないでしょっ!」

 がばーっ、と羊毛の掛けぶとんを跳ね飛ばしてふとんの中に潜り込んでいた凛が飛び起きた。

「あ、あんたねっ! よりにもよって幻扱いするなんてどーいうことよっ!」
「いや、どーいうこともこーいうことも……そりゃ普通驚くだろうよ」

 なんて言っておきながら士郎の口調は妙に落ち着いているが、これでも心臓はばくばくと早鐘を打っているのである。
 そりゃそうだろう。
 部屋に戻ってきて眠ろうと思ったら、ふとんの中には自分の恋人がいた。しかも猫がプリントされた可愛らしいパジャマを着て、普段は二つに結い上げている髪をしっとりと下ろしているのだから、これでどぎまぎしないほうがおかしい。
 ふとんの上にぺたんと女の子座りで座り込んで、顔を真っ赤にしてこちらを睨んでいる凛は、凶悪無比に可愛すぎた。

 士郎はこのまま放っておいても全く落ち着いてくれそうにない心臓を落ち着かせるため、一つ二つと大きく深呼吸した。
 すると近くにいる凛から薫ってくる清潔なシャンプーと甘い彼女の匂いまで一緒に吸い込んでしまったもんだから、

「で、ででで……どうして?」

 なんか自分でも良くわからないことを口走っていた。
 だがそれでも凛にはどうやら通じたらしく、きっ、と一つ鋭く睨むとまたふとんの中に潜り込んで頭まで隠れてしまった。

「どうしてなんて聞く? ……決まってるじゃない」

 ふとんの中からくぐもった声がした。声そのものがとても小さくて囁くような声だったからえらく聞き取り辛い。かといって、いくらなんでもこの声を聞き逃すほど士郎も愚かではなかった。
 確かに。彼女の言う通り、馬鹿げたことを聞いてしまったものだ。さっき自分だって考えていたことなのだから、何でかなんて決まっている。

 ――参った。何を話すかなんて全然考えてないぞ。

 士郎としてはこのことは明日にするつもりだったから、咄嗟に何を言っていいのかわからない。
 ただとりあえず、

「……すまん。セイバーとのことだよな」

 謝って、見えていないだろうがきっちりと頭を下げた。
 軽率だったと思う。自分のしたことは間違ってないとは思っているが、自分のことを好いてくれている女の子の前であっさりとしていいことでもなかった。
 せめてその場で一つ二つくらいは言葉をかけるくらいは当然だった。そんなことすらしていないのだから、凛が怒るのだって当然だった。

 だが凛は――

「別にセイバーとのことで怒ってるわけじゃないわよ」

 ――ふとんにもぐりこんだままでそう言った。

「え? ……セイバーのことじゃないのか?」
「そりゃ……全く関係ないってわけじゃないわよ。でも、あんまり関係ないわよ」

 あれはあんただったら仕方ないし――と、半ば諦めたような口調で付け足した。
 それでは士郎はますますわけがわからない。セイバーのことを怒っていないならいったい何に怒っているのだろうか。
 まったくもって女の子というのはわけがわからない。それとも自分が馬鹿なだけなのか――。

 士郎がそんなことを考えていると、いつまでも黙りこくっている彼に業を煮やしたのだろうか、凛がかぶっていたふとんを少しずり下げて、頭半分、目元だけを外に出して士郎をじろりと睨みつけてきた。

「ばか」

 で、叩きつけてきたのがこのひとこと。――ああやっぱり、俺が馬鹿だったのか。

「鈍感、朴念仁、とーへんぼく、うすらとんかちのどんがめ!」

 なんてことを士郎が考える前に、次から次へと罵りの言葉を投げつけてくる凛。
 優雅たれを信条とする遠坂家のご当主には相応しくない、洗練されていない感情むき出しの言葉が次々と突き刺さり、言い返すことも出来ないまま、士郎が痛みに一歩よろめく。わかっちゃいたが改めて言われるときつい。

「あ、あのー、遠坂さん……そのくらいで勘弁していただけないでしょうか?」
「いやよ。……なによ、士郎の馬鹿。嫌いよ」
「……遠坂」

 さすがに――これは効いた。知らないうちにここまで言わせるほどに彼女を傷つけていた自分に心底腹が立った。
 凛は士郎を睨んでいた視線を顔ごと横に向けて背中を向けた。

 そのまま、互いの間に沈黙が下りる。

 士郎は――自分に対する苛立ちを一瞬ごとに注ぎ足しながら、なんて声をかけたものかと悩み、何も思いつかない自分に更に腹を立てている。
 凛は――思わず言ってしまったひとことに、だんだん不安になっていく自分を必死に押し殺していた。

「…………」
「…………」

 沈黙は気まずい。だから互いに何かを口に出そうと開きかけては閉じるということを繰り返している。その様子は端から見ると滑稽で、もし互いに見合っていれば噴出しながらいつもの雰囲気にも戻れたかもしれない。
 だが凛は士郎に背中を向けていたし、当然彼女のほうからも士郎の様子を窺うことなどできるはずもなかった。

「……遠坂」

 それでも耐え切れなくなった士郎がまた彼女の名を呼んだ。
 反応して小さく凛の背中が震えたが、後が続かなかった。何かを言おうとして言葉を探している間に名を呼んだ声の余韻も少しずつ薄れていき、士郎の心には少しずつ焦りが広がっていく。

「あー……その」
「……別に怒ってるわけじゃないわよ」

 だが士郎が焦燥に誘われるようにつぶやくのを遮るように、凛の声が上から被さった。

「あれ……? 怒って、ないのか?」
「怒ってない」
「いや、だって遠坂……ほら、てっきり」
「うっさい。怒ってないったら怒ってない」

 相変わらず背中を向けたままだったが、確かに声色に怒ったような感じはなく、むしろ拗ねているといったほうがしっくりくる。
 恥ずかしげに目を伏せ、俯きがちに唇を尖らせている――そんな凛が士郎には容易に想像できてしまって、思わず微笑ましい気分になってしまった。

「むっ……なによっ」
「いんや、なんでもね。でも、怒ってないんだったら……なんでだよ」

 士郎に問われ、ぐ、と思わず次の言葉に詰まる凛。
 だがここまできていい加減、黙っているわけにもいかない。というより、いい加減このままでいることに自分が我慢できない。
 せっかく。せっかく――なのだ。
 せっかくなんだから、思いっきり――でなくちゃ、割に合わない。ここまでした意味がない。

「……だって」
「だって、なんだよ?」
「士郎ってば、セイバーばっかり……構っちゃって」
「……は?」

 思わぬ答えが返ってきた。だから士郎は思わず間の抜けた反応をした。意味するところは『もう一度言ってくれ』。
 ただでさえ恥ずかしいというのに、もう一度同じことを言わなければいけないのは拷問のようなものである。見えないところで顔を真っ赤にし、むしろそんな仕打ちをしてくることに腹立たしく感じながらも凛はもう一度同じことを繰り返す。

「だからっ……あんた、セイバーのことばっかりでずるいって……そう言ってんの」

 声は小さかったがはっきりと、間違いなく届くようにしっかりと言ってやった。

 背中で呆然としている士郎の様子を感じ取りながら、凛はあまりの羞恥に身を縮めこませた。
 ふとんを胸元に掻き抱き、猫のように丸くなって襲ってくる羞恥に耐えている。

 ――馬鹿みたい馬鹿みたい馬鹿みたい馬鹿みたい! あーもうっ、士郎のおおばかたれッ!

 自分を罵ったり士郎を罵ったりしながら掻き集めたふとんに齧りつきそうな勢いで顔を埋める。
 もうこれ以上恥ずかしいことは言えない。言えないが、そもそもこれが言いたくて士郎のふとんにまで忍び込んだのだ。もし、万が一ここまで言わせておいてまだ朴念仁なことを言おうものなら、今度こそ許さん――そんなことを考えながら、凛は必死に身体の火照りに耐えていた。
 が、突然、熱が渡って熱くなっていた背中にひんやりとしたものが触れた。と、思ったらまた熱くなった、というか――

「……ふう」
「ちょ、ちょっと士郎!? い、いきなり何よ!」

 ――背中を向けている凛にぴったりとくっつくようにして士郎がふとんに潜り込んでいた。

 熱いのは背中に触れている士郎の胸板であり、首筋にかかる吐息であり、伝わってくる体温。どくどくと波打つ士郎の鼓動までが伝わって聞こえてくる。
 いきなりのことに、望んだこととは逆に身を捩って離れようとしたが、その前に士郎の意外に太い二の腕が前に回されてしっかりと抱え込まれてしまった。こうなってしまえばもはや逃げ場なし、身を捩ろうとしても跳ね除けようとしてもびくともしない。

「な、何するのよっ、いきなり……!」
「何もくそも俺のふとんだし、それにちょっと風に当たりすぎてさ、少し冷えたんだ……あったかいな、遠坂」
「ちょっ、コラッ……」

 冷えたなんて嘘だろうと言いたくなるほどに触れている背中が熱い。
 でも確かに抱きすくめる腕があたたかくてほっとして、言っていることが嘘だって良いなんて考えているのだから自分が現金だと思う。

「……もう」

 結局観念して暴れるのをやめ、大人しくなってされるままにする凛。だけでなく、自分からも士郎の腕を抱え込んで引き寄せた。
 かちこちと時計の針が秒を刻む音だけが部屋の中に響き渡る。
 士郎と凛が互いに少し身動ぎするたびに二人の間に空いた距離は埋められて、背中も腕も足もぴったりとくっつき合って互いを共有し合った。

 こんな風にくっつき合うのも、結構久しぶりのような気がすると、凛は思った。
 そう思うとなんだかちゃんと正面から顔を見たくなったが、しかしそれはそれで恥ずかしい気もする。まあ、こうして後ろから抱きすくめられるというのも悪くはない――なんて感じていたから、無駄に恥ずかしくないぶんだけこっちでもいいか、と腕に顔を埋めた。

「……遠坂」
「ぅん?」

 小さい幼子のような声で返事をした凛に、士郎は抱きしめる腕に力を入れて、

「俺、遠坂のこともっと大事にする」
「……うん」
「おまえのことさ、す、好きだから」
「うん……わたしも、さっき嫌いなんて言ったのうそ」
「拗ねてただけなんだもんな」
「……うっさい、ばか。いいじゃない、わたしだって、拗ねたって」
「ああ、いい」

 真っ赤になった凛の小さな耳元で、そんな睦言を囁き合う。
 だから凛の心にはもう不安なんてどこにもなく、今はただ自分を忘れられる場所で身体を丸めてひたすらに甘えた。内心でこっそり、

 ――あんたにはこんなことできないでしょ。羨ましいだろ。

 なんてことをこの場にいない誰かに自慢しながら。
 ここは自分だけの場所だ。遠坂凛だけがいていい場所なのだ。だから他の誰にも渡すわけにはいかない。
 凛は久しぶりのぬくもりの中に、存分に溺れていった。



◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆



「……凛、それではシロウの鍛錬になりません。貴女は邪魔をしに来ているのですか?」
「まさか、そんなわけないじゃない。わたしはわたしなりに協力してるつもりなんだけど」

 きりりと引き締まる冷たい空気と木の香が漂う道場から、きりりと鋭いセイバーの声とどこか艶のある凛の声が聞こえてくる。その二人の間――というよりは片方の発生源のごく近くにいる士郎には、互いの視線がぶつかって火花を散らしている様を肉眼で捕らえてしまっていた。

 ――おかしいな。俺、魔眼持ちじゃないのに。

 別に暑くもないのに汗をだらだらと流しながらなんてことを考えていたが、見えてはいけない怪現象が見えてしまうのは魔眼のせいではない。というか、そんな魔眼はない。原因は不明であるが、強いて言うなら主人公補正といったところだろうか。
 目線をちらりとそちらに向けると、頬を紅に上気させこちら、というか凛のことを睨みつけているセイバーがいる。仁王立ちになって腰に手を当てて、思いっきり鋭く炎を宿した目つきで見下ろしている。

 勘弁してください――と、正直なところ士郎は謝ってしまいたい気分だった。
 もちろんセイバーは士郎のことを睨んでいるのではなく、あくまで凛だけを睨んでいる。だがしかし、位置関係上セイバーが凛を睨むと、その視界範囲に巻き添えで士郎も入ってしまうのだから仕方ない。

 何故なら凛は、士郎の背中にぴったりと張り付いている。
 道場の真ん中で結跏趺坐に構えている士郎の背中に覆いかぶさり、首に細い腕をくるりと回している。密着率はかなり高い。
 真面目で自分にも他人にも厳しいセイバーだから、これにはいらついても無理のないところだろう。

「これのいったいどこが協力だというのですか。私には邪魔しているようにしか見えない……!」
「だって己を律して常に自分を見失わないようにするための鍛錬なんでしょ? この程度で心を乱しているようじゃしょうがないじゃない」
「くっ、屁理屈を」

 いくら言っても離れるどころか悪びれる様子もない凛に、セイバーのフラストレーションもどんどん上がっていく。同時に視線もますます鋭くなるものだから士郎の発汗量すごいことになっていくわけだが、対象的に凛は涼しい顔をして、むしろ勝ち誇った笑みすら浮かべている。

「屁理屈なんて……ちゃんと理に適ってるじゃない。こうして――」

 にやりと笑い、凛が自分と士郎の背中の密着率を一〇〇%に持っていく。士郎の表情が見事に引きつって、セイバーの表情は凍りついた。

「――こんな風にしてもまだ冷静でいられるようでなきゃ、鍛錬してる意味なんてないじゃない」
「そっ、そのようなことを……! そのようなことに意味などない! 凛、そこに直りなさい。性根を叩きなおして差し上げます」

 激昂のあまり魔力供給が乏しいのも忘れ、銀の鎧を纏って竹刀を構える。
 それだけで凛の胸の感触にやや緩みかかっていた士郎の頬も緊張感も、一気に張りを取り戻した。ついでに引っ込みかけていた冷や汗も。

 だが矛先を向けられた凛はといえば対象的に落ち着き払っている。
 それは右手の甲に輝く絶対命令権・令呪のせいではないだろう。何故なら凛が伸ばしてセイバーに向けている指先は、左手のものだった。

「猪突猛進!」

 びしり、と指差しされたセイバーに凛の一喝が飛んだ。

「この程度のことで我を忘れて魔力の無駄遣い。士郎よりもむしろあんたのほうが鍛錬してたほうがいいんじゃないの?」
「くっ……」

 事の是非はともかく、凛の勢いに飲まれて思わず言葉に詰まるセイバー。
 縋るように士郎に視線で助けを求めても、彼女の心のマスターは静かに首を横に振るだけだった。自分が何を言っても無駄だということを士郎は良くわかっていたし、下手をすれば火の粉が飛んできて延焼するということも良くわかっていた。

 ――裏切りましたね、マスター。

 内心で苦虫を噛み潰し、唇を噛む。
 頼みの綱――というには少々心もとなく、実際あっさりと切れてしまったわけだが――の士郎にも見捨てられ、セイバーは進退窮まった。

「で、どうするのセイバーちゃん? 大人しく正座でもする?」
「ッ……そうですね」

 今日の凛はやたらと挑発的だ。何があったのかは知らないが――そちらがその気ならばと、セイバーは覚悟を決めた。
 セイバーは纏っていた鎧を解いていつものブラウスの姿になると、表情を消して士郎の傍らに立ち、

「……シロウ」

 士郎を見下ろして彼の名を呼ぶと、返事が返ってくる前にさっとその隣に腰を降ろした。

「セ、セイバーさん? い、いきなりなんですか?」
「……凛がこうしろと言ったのです。文句を言われる筋合いはありません」
「は、はあ……でも」
「いいのです」

 でももなにもありません、とばかりに士郎を封じ込めて、ほんの少しだけ彼のほうに擦り寄る。
 その際に組んだ足の爪先が士郎に爪先に触れたおかげでぴくりとセイバーは反応したが、表面上はまるで気にした様子もなくそのままの姿勢で瞑想に入った。――もっとも、実質的に瞑想なんて出来ているはずはなく、ただ目を閉じたに過ぎない。これを瞑想というにはあまりに雑念が多すぎた。

「ふぅん、なるほどね。そう来るんだ」
「そうしろと言ったのは凛ですから」

 しれっといってのけるセイバーに、凛はふんと鼻を鳴らす。

「だからって別に士郎に手を出せなんて言ったつもりはないけど……ま、いいわ。あんたがそのつもりなら好きになさい。……でもね」

 そう言って凛は士郎に頬をすり寄せ、唇が触れそうなほどに近づく。そして見せつけるように前に回した腕でぎゅっと強く士郎を抱きしめた。

 やはりここはあたたかい。
 それに意外と広くてごつごつしていて、だからだろうか、触れているとほっとする。できることならずっとこうしていたいと、正直そう思う。

 ――なら、そうすればいいのよね。

 誰憚ることはない。大きな声でだって言ってやれる。
 遠坂凛は衛宮士郎のモノで、衛宮士郎は遠坂凛のモノである、と。
 だから言ってやろう。そして見せてやろう。

 凛は楽しげな笑みを浮かべて、言ってやった。

「わたしももう、我慢するのは止めることにしたから。そこのところよろしくね」

 そうして赤くなっている士郎にも構わず、横合いから掠めるように彼の唇に唇を触れさせる。
 隣でセイバーがこめかみにバッテンを走らせて正座を組んだまま再び鎧を纏っていたり、当の恋人が激しくうろたえていたりしたが関係ない。

 欲求不満はもうやめにしたのだ。思うままにするというのは、想像していた以上に良いものだった。
 なんだかとても楽しくて、ひどくいい気分で――凛はけっこう幸せな気持ちになっていた。





あとがき

 というわけでこれが100万HIT記念短編でしたとさ。

 ……はて。
 やはり俺には素直に遠坂さんものは無理なんでしょうか。何故かセイバー分が強い、強すぎる。

 つーかね、なんかね。おかしなユメと一緒じゃん、コレ。

 と、最初のうちに気づいておけという感じなんですが、書いちゃったもんはしょうがない。もったいないですし、今更書き直す根性もないのでこのままで。
 まあなんだ。Ver.遠坂さんということで勘弁してください。


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