箪笥の一番上の引き出しの奥の奥。
 久しぶりに引っ張り出した服は、当たりまえのように、何年経ってもあのときのままだった。
 畳まれたままの服を一度机に置いてから、着ているパジャマを脱ぎ捨てる。
 姿見に映し出された自分の姿も、何年経っても変わっていない。

 細くて小さな、頼りない身体だ。
 握りつぶせそうなくらいに儚い肩から伸びる腕はまるで小枝。スリップを申し訳程度に押し上げる胸に女性を感じることなどできず、腰周りもくびれを作るほどには成長していない。
 透けるほどに白い肌は、なるほど人から見れば確かに綺麗なのかもしれない。だが、それよりも病的な印象を先に感じるはずだと常々思っていた。
 正直なところ、もっと自分が大人びていたなら――そんなことを考えたことも幾度かある。

 鏡の中の自分を見つめながら、わざわざ引っ張り出してきた服に着替える。
 上着を着て、きつくない程度にタイを絞めて襟元を整える。捲れてしまったスカートの裾を綺麗に伸ばして、真っ白な靴下を白い足にはく。
 そうしている間、鏡の中の紅い瞳は、じっと自分を見つめていた。

「――ぴったりね。嫌になるくらい」

 着替え終わってイリヤは、あの頃と寸分違わぬ姿になった自分にそんな言葉を投げかけた。



 一週間ほど前だろうか。この地に一騎目のサーヴァントが召喚されたのは。
 イリヤの左手の甲に令呪の兆候が出始めたのもその頃で、遠坂凛が電話をかけてきたのも同じ日だった。イリヤは彼女に、

『貴女それでも魔術師?』

 なんて憎まれ口を叩いてやったのだが逆に、

『あんたはもう魔術師じゃないじゃないんでしょ。だからいいのよ』

 と、切り返されてしまった。確かに彼女の言う通りだ。

 イリヤスフィール・フォン・アインツベルンは魔術師を廃業していた。
 もちろん彼女の小さな体躯には魔力回路も残っていたし、魔術師として確かな智識と技術を持ってもいた。だが肝心の魔力が生命力と共に年々衰えていくのは留めようがなかったし、そもそも彼女にはこれ以上魔術師でいなければならない理由がなかった。
 そんな理由など、十年も前に失った。更に決定的だったのは一年前のことだった。

 イリヤと同じく再びマスターとしての証を手に入れた凛がサーヴァントを召喚したのが三日前。
 彼女は今度こそ、最優のサーヴァント・セイバーを引き当てた。遠坂家秘伝のうっかりは、今度ばかりは発揮されなかったらしい。
 凛はわざわざ、召喚したセイバーが彼女でないことを伝えてくれた。
 だがそんなことは当然のことで聞くまでもないことだった。イリヤが知っている、セイバーであった少女はあの時、間違いなく救われていたのだから。

 もし万が一、いや億に一。
 ありえないことだったが、彼女が現れていたとしたら――自分はどうしただろうかと思う。
 とりあえず殺してやったであろう事は間違いないのだが。



 姿見に布をかけて鏡に映った自分を消し去り、部屋の隅に置いてある小さな文机の前にしゃがみこむ。
 この文机は我侭を言って引き取ったもので、イリヤにとっても大事な宝物になっている。引く手数多だったのだが、あの時ほど勝負に勝ち抜いた自分の幸運を誉めてやりたいと思ったこともない。

「――、――」

 引き出しに手をかけて小さくスペルを唱える。魔力でかけられた錠は音も立てずに解け、開いた中には小さな宝箱が入っていた。
 取り出してそっと膝の上に置き、今度は箱の蓋に手のひらを乗せて、もう一度。かちりと小さな音を立てて箱の蓋が開いた。

 箱の中には鎖の切れた赤い宝石のペンダントだけがたった一つ、寂しげに転がっていた。





雪に咲く花





 外に出ると冬の冷気が途端に襲い掛かってくる。一月の冬木市の空気はどこまでも澄んでいて冷たい。十年経っても、毎年同じ空気だ。
 イリヤにとってもこの空気はもう慣れたものだ。何せ人生の約半分をこの街で過ごしているのだから、それは慣れもするというものである。
 肌を突き刺すような冷たい風も、吐き出した白い吐息が昇っていく空も、一面に敷き詰めたように広がる厚い雲の渦も――

「明日は雪かしらね」

 見上げながら半ば確信に近い思いを口にした。冬木市の雪空なんて、この十年間で何度も見ているのだから、どんな空のときに雪が降るかなんてもうだいたいわかっていた。ブラウン管の中でさえずる天気予報などよりも、自分の予報のほうがよほど正確だと自賛している。
 かといって、それが何かの役に立ったことがないのもまた確かなのだが。

 ――十年。

 自分の命の約半分。これだけの時間は決して短くない。
 常人からすれば十年という時間は八十年、乃至は九十年をも越える長い時間の一欠けらに過ぎないかもしれないが、イリヤにとっては十年の価値は常人の四倍にも及ぶ。
 しかもこの十年より前の時間――つまりイリヤが生まれてから冬木市にやってくるまでの時間は、灰色の雪で覆われた、色褪せた時間だった。
 そんな灰色だった時間が全て無駄な時間だったと言うつもりはない。苦痛と苦鳴と苦悶ばかりの時間だったけど、バーサーカーにも会えた。

 だがやはり、イリヤにとっての色鮮やかな時間は、この街とこの家の中と、そこで過ごした思い出の中にのみ存在した。
 最初の春には桜を見た。最初の夏には海に連れて行ってもらった。
 最初の秋には紅葉狩りをして、二度目の冬は一緒に除夜の鐘を聞きに行った。

 そんな思い出とも今日でお別れだと思うと、少しだけ寂しさを感じる。
 寂しい――思えばこの感情と出会ったのもこの家でのことだったか。
 昔の自分は、そんな感情など知ることなく、ただ恐怖と憎悪に塗れて震えながら一人の男を殺すことばかり考えていた。だというのに、この家で暮らしている内にずいぶん変わってしまったものだと思う。
 だが仕方のないことだ。知らなかった感情を誰に教えられることなく覚えてしまうほどに彼とすごした時間は充実していて、そして、その時間を永遠に失ったことは衝撃的なことだったのだから。



 去年のことだった。
 久しく聞かなかった名前が、朝のニュースで流れた。イリヤは桜と、時計塔から戻ってきてこの地の管理人を務めていた凛と一緒に朝食をとっていた。
 時間はほんのわずか五分間にも満たない時間だったと思う。だがその五分は、待ち続けた彼女たちの八年間を粉々にするのに十分足る時間だった。

 事実はたった一つ。
 衛宮士郎という名前の日本人が、中東の小国の内乱の中で死んだというそのことだけ。
 彼のことを知らない人たちにしてみればただそれだけのことだろう。でもイリヤにとってその事実は、世界の死と殆ど同義だった。

 しばらくして彼の遺品がこの家にやってきた。
 凛と桜と、それから結婚して姓を変えた大河と一緒に、ダンボール一箱にも満たない遺品を分け合った。
 桜と大河は泣いていたけど、凛と自分は涙を流さなかった。
 凛がそのときに何を考えていたのかは知らない。ただ自分は、ぽっかりと、心のどこかに埋めようのない空洞が空いていたのを感じていた。ひゅーひゅーと、灰色の風が抜けていく口笛のような細い音が聞こえるたびに、彼のことを思い出してずきずきと胸が疼いた。

 その後、部屋に帰って独りぼっちになって。
 誰にも気づかれないように抜き取った赤い宝石を胸に抱いて。宝石を当てた胸が途方もなく疼いて収まらなくて。
 その時になってようやくイリヤは、自分が寂しくて悲しいのだと……声もなく自覚した。



 以来今日まで、寂しいという感情は一度も感じたことはなかったから、久しぶりの気持ちを懐かしいとも感じていた。

「そういえば昨日、シロウの夢を見たんだっけ」

 懐かしいといえば、とそのことを思い出す。

「シロウってば、ぜーんぜん変わってないんだもの」

 おどけたように両手を広げ、口元を綻ばして空気を抱いた。

 夢の中で士郎は、空を見上げていた。
 赤い錆びた血の色に染まった、朽ち果てた丘の上で、たった一人。足元に突き刺さったぼろぼろの剣が一本、それだけが彼の供。
 錆びついた心と身体で、それでも倒れることなく遠い遠い空を見つめていた。
 イリヤは夢の中で、そんな彼の背中をずっと見つめていた。
 士郎は一度もイリヤを振り返ることなく、ただ前だけを――それだけしか知らぬと言わんばかりに、前だけを見続けていた。

 結局士郎は何も変わらないまま、理想を追い続けて死んでしまった。あの日出て行く時に、必ず戻ってくると約束したのに、果たさないまま。

 だから無理やりにでも約束を果たしてもらおうと思った。
 手のひらの中にある空っぽのアーティファクトを転がして握り締める。思えば数少ない遺品の中から真っ先にこの赤い宝石を抜き取ったのも、今日の日のことを無意識下で思いついていたからなのかもしれない。

 ――もうすぐ、もうすぐ。

 こっそりと微笑を浮かべて、最初に何をお願いしてやろうかと考え始めた。

「そうだっ!」

 と、とても良いことを思いついた悪戯っ子の顔をして、イリヤは小さくステップを踏んだ。

「んふふっ、死んでくださいってお願いしたらシロウ、どんな顔をするかしら」

 楽しそうに笑いながら、踊るようにステップを踏む。
 考えてみれば、元々自分がこの国にやってきたのはキリツグとその息子であるシロウを殺すためだったのだ。キリツグはもういないけど、最期の最期で片割れだけでも目的を果たすというのも面白いかもしれない。

 くるくると回ってスカートが翻る。
 こんな気持ちになったのも久しぶりだ。今日はとても気分がいい。
 なにせシロウに会えるのだ。しかもどんな願いごとでも三つだけ叶えてもらえる。まるで魔法のランプのよう。
 だから嬉しくて楽しくて、イリヤはくるくると踊った。

「! ――ん、と」

 だが少し調子に乗りすぎたらしい。急に全身から力が抜けて足元がふらついた。
 どうにか倒れこむのだけは堪えたが、少しの間胸に手を当てて弱々しい鼓動を落ち着けながら、わずかな魔力を全身に流していく。

「ほんと……不便な身体」

 顔を上げて、抑揚のない声でつぶやいてから土蔵に向かって歩き始める。

 そもそも十年ももつような身体じゃないのだ。
 現にリーゼリットもセラも、四年ほど前に他界している。同じホムンクルスの身体である自分がここまでもったのは、ひとえに遠坂凛のおかげだろう。彼女が自身の持つ全ての魔道技術を以ってメンテナンスしてくれなかったら、ここまで生きていられなかった。
 だがそれももう限界だ。元々無理に無理を重ねてきているのだから、今のまま大人しく生きてももって半年。
 ならば――何もない、灰色のような時間を半年も過ごすくらいならば、最期の無茶をして、願いを叶えて逝くほうがどれだけか幸せだろう。

 イリヤスフィール・フォン・アインツベルンは今日、死ぬ。
 それはきっと、衛宮士郎が死んだ日に決まったことなのだと、イリヤにははっきりとわかっていた。

 ――だって、そのためだけに今日まで生きてきたんだもの。

 白い吐息と共に吐き出した言葉は音にならず、冬の寒空に溶けて消えた。



◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆



 土蔵の床には召喚陣が敷かれている。
 衛宮切嗣が構築したセイバー召喚のための陣だ。かつて衛宮士郎が、偶然セイバーを呼び出した召喚陣でもある。
 あの時……もし士郎がセイバーを召喚していなかったら、聖杯戦争のマスターとなっていなかったらどうなっていただろうか。

「……ふん、バカみたい」

 そんなイフの話を夢想したところで今が変わるわけでもない。一瞬でもそのようなことを思考の端に浮かべてしまった自分を吐き捨てる。
 それにもし、士郎がセイバーのマスターになっていなかったとしても何も変わりはしない。
 彼は聖杯戦争に参加しなかったとしても、いずれ自分の道を見出し、同じように正義の味方を目指して殉じたであろう。早いか遅いかだけの話だ。

 召喚陣の前に立ち、小さく息を吐く。
 準備は全て整っている。召喚陣の中心には生前の彼が肌身離さず持っていた赤い宝石が置いてあるし、着ている服は自分が魔術師だったころの服だ。別に魔術的に優れた衣装ではないが、精神的にこの服を着ているとやはり違う。それに、彼にとっても馴染みの深い服でもある。より高い成功率を望むのであれば、やはり欠かすことはできないだろう。

 ともあれ準備は万端だ。
 月齢はよし、時間もよし。
 ほんの僅かしか残されていない自分の魔力だが、今この時こそが最も魔力が高まりを見せる時間だ。

 ことことと高鳴る胸の鼓動を沈めようと、精神の高ぶりも抑えようとする。魔術師は廃業しているとはいえ、仮にも魔術を使おうという者がこの体たらくでは成功など覚束ない。何よりもまず己自身の主でなければ、魔術など使えるはずがない。
 二、三度大きく深呼吸。冷たい空気を肺に入れて、全身に送り出す。
 ひんやりとした冷気の感触はやがて脳にまで至り、高ぶり熱くなっていた自分を醒まし鎮めていく。

 そうなるように自分自身を制御した。

 呼吸が落ち着いていく。動悸も落ち着いていく。
 期待の前に結果を求めろ、そう自分自身に言い聞かせた。

「――んっ、よしっ」

 ぺちりと、いつか凛がしていたように頬を叩いて、今度こそ準備は万端整った。
 錆びた魔力回路のスイッチを入れる。油も注してないわりにスムーズに開いた回路は総動員で、朽ちかけた泉から魔力を汲み上げていく。

「……ん」

 瑞々しい魔力の奔流がイリヤの全身を満たしていく。
 まるで渇いた喉が潤っていくような感覚、久しく味わっていなかった充足感。指の一本、髪の毛の先までを魔力の雫で浸していく。
 無論、全盛期の自分の魔力からは程遠い。せいぜい十分の一にも届くかどうかといったところだろう。遠坂凛には遠く及ばず、二流と言われている魔術師たちにも及ぶかどうか。

 だがそんな自分の魔力でも、サーヴァントを一騎召喚するくらいならば何も問題ない。
 おそらくこれで自分の魔力は枯渇し、後は死を待つばかりとなるだろうが何も問題ない。
 最初から――士郎が死んだと知った時から、自分の命は今日のためにあった。イリヤスフィール・フォン・アインツベルンは、この日を一年間待ち続けた。

 なんと虚しい一年だったろう。彼がもう、戻らないとわかっていて待ち続ける我が家は色が抜けきったように灰色で、彼のことを知る女性たちが訪れた時だけ、かろうじて薄ぼんやりと色を取り戻した。その色ですら彼の思い出に頼り切った、水に溶きすぎた絵の具のように儚い色だった。
 春も、夏も、秋も冬も――きっとまた訪れると信じていた――いや、願っていた季節は、やはり二度と訪れない季節となってしまった。
 わかっていて止められなかった自分にどれだけ後悔しただろう。
 彼の心の奥深くに居座った少女から、彼を奪い取れなかった自分と自分の身体をどれだけ憎んだか知れない。

『必ず帰ってくるよ』

 そう言って結んだげんまんなんて、切れるのが決まっている蜘蛛の糸のようなものなのだと、最初から知っていた。
 知っていて縋った。何もできなかった自分の手元に残ったのはそれしかなかったから。
 案の定、糸は切れ落ちることとなる。
 イリヤの手元に残ったのは、切れた蜘蛛の糸の切れ端だけ。それでもイリヤには糸を捨てる気にはなれず、今も大事にしまっている。
 だから一年前、士郎が死んだ日に、この日が訪れるのは決まっていたのだ。

 ――シロウが約束を守ってくれないのなら、無理やり守らせてやるんだから。

 そのためなら何でもすると決めた。何を失っても、何を犠牲にしても必ず果たすと。

 ――命なんて惜しくない。

 壊れかけの身体も、からからに乾いた魔力も、消える寸前の命でさえ――

 ――シロウに会うためだったら、全部あげるわ。

 だからイリヤは、何も臆することなく最初の一小節を口にする。

「――告げる」

 何を告げるか。
 何を彼に告げるのか。

 ――最初に告げる言葉なんて、そんなの決まってる。

 都合これで三度――座に在りし英霊を招く召喚陣から、世界を埋め尽くすような光が溢れ出した。
 召喚陣の上で、竜巻のように渦を巻く魔力が踊っている。左手の甲にじくりとした痛みが走り、血の色をした令呪の紋様が刻まれた。
 同時に自分の内側から大量に魔力が失われていく。
 それは生命力が失われていくことと同義。自覚した途端に膝から下の感覚が急速に失われていって、崩れ落ちそうになる。
 が、堪えてイリヤはじっと召喚陣から溢れてくる光に意識を集中していた。

 感じる。

 間違いなく引き当てた。忘れようにも忘れられない魔力の波は、確実に彼のものだ。
 薄暗い土蔵を白く染め上げ荒れ狂う魔力の奔流に銀髪をなびかせながら、イリヤは満面の笑みを浮かべていた。



「おかえりなさい、シロウ」



 荒れ狂っていた光が徐々に収束し、ぼんやりと霞がかった視界の向こう側に背の高い男の輪郭が見えてくる。
 イリヤは微笑みながら、視力が戻ってくるのをじっと待つ。
 慌てることはない。今、自分の目の前に立っているのは間違いなく彼であると確信している。

 ようやく、帰ってきてくれた。

 やがてまぶしすぎる光に殺されていた視力が戻ってくる頃、男が口を開いた。

「――君が、私のマスターか?」

 答えようとして――声が詰まった。代わりに別の何かが溢れそうになった。
 でもそれは自分らしくない。
 そう思って、イリヤはぐっと耐えた。士郎の前ではだらしない自分なんて絶対に見せたくなかった。
 困らせるよりも振り回すほうが自分らしい。

 だから、イリヤはこう答えた。

「わたし、カッコつけてるシロウは嫌いよ」
「……む?」
「だからぁ! シロウはシロウらしくしてなくちゃダメなの! そんなのわたしが許さないんだからー!」
「な、なにを……」

 周囲を覆っていた光の幕と巻き上げられた埃がようやく落ち着いて、互いが互いをはっきりと直視する。
 イリヤの目の前にいる男の姿は間違いなく、記憶の中にある騎士の姿そのままだった。

 赤い外套に褐色の肌、くすんだ白髪に見上げるような長身――かつて遠坂凛と共にあったサーヴァント。
 イリヤはこの男の真名を聞くまでもなく知っていた。

 ――英霊エミヤ。

 正義の味方を目指して人々のために戦い、磨りきれるまで戦って、その果てに一握りの命のために己の死後を世界に売り渡した英霊。
 かつて出会ったエミヤは信じた理想に裏切られ、正義の味方を目指した自分に絶望し、磨耗しきっていた。
 だがそんなことは問題ではない。彼がどんな英霊だろうとイリヤには何の関係もない。

「……シロウッ!」

 ねこの子が飛び跳ねるように士郎の腰にしがみつき、ぎゅっと離れないように抱きついた。

「やっと会えたね、シロウ」

 懐かしい感触、懐かしいぬくもり、懐かしいにおい。思ったとおり、あの頃から何にも変わっちゃいない。
 このエミヤは、自分が知っている衛宮士郎のままだ。

 半分くらい賭けだった。
 たとえエミヤを呼び出せても士郎に会えないなら意味はない。イリヤが再会を約束したのはエミヤではなく、衛宮士郎なのだから。
 だが、目の前にいる男は間違いなくイリヤが好きだったままの衛宮士郎だ。
 絶えぬ争いに疲れたかもしれないし、救おうとした人間に裏切られたかもしれない。いったいどれだけの悲しみや苦しみを味わったか知れない。
 でもまだ何もかもに絶望はしていないし、自分自身を見失ったりもしてない。

 その有様は確かに幾らか変わってしまったかもしれないが、まだ根っこのところは衛宮士郎のままだ。そうでなかったら、

「い、イリヤスフィール……?」
「むー、その呼び方もイヤ」
「あ、ああ、すまん。……イリヤ」

 ほら、こんな風にうろたえたりしないはずだ。

 ――やっぱりシロウだ。わたしのシロウだ。

 ようやく会えた嬉しさに口元が緩む。腰に回した腕に力を込めて、鼻先を彼の腹に押し付けた。
 彼の声を聞くのも九年ぶりなら、こうして思うままに抱きつくのも九年ぶりだ。頬をすり寄せて、存分に士郎を堪能する。

 ――ん。だめかも。

 やっぱり、堪えられそうになかった。こうして顔が見られないのがせめてものことか。
 イリヤは士郎に自分自身を埋めたまま、こみ上げてきたものをほんの少しだけ、士郎に零した。

「やっと……やっと会えたんだから、シロウのばか。帰ってくるって言ったのに何で帰ってこないのよばか。嘘つきは、キライなんだから」
「……イリヤ」
「でも……許してあげる」
「…………」

 腹に滲んだ暖かい感触に、士郎の顔が歪んだ。
 確かに自分は正義の味方を気取って多くの命を救ったかもしれないが、その一方でこんなに小さな妹を泣かせるような真似をしていたのだと、今更ながらに気がついた。

「……俺は、お兄ちゃん失格だな」

 苦々しくつぶやいて身を屈める。
 自分の目線と同じ高さにあるイリヤの瞳は紅で、その端に浮かんだ小さな雫を指の腹で拭ってやった。
 イリヤの髪に手を伸ばし、そっと梳いてやりながらひとふさ手に取る。久しぶりに触れる彼女の髪は柔らかくさらさらとしていて、月明かりもなく薄暗い土蔵にあって尚、銀色に輝いていた。

「ごめん、イリヤ。俺、約束破っちまったな」
「そうよ。ずっと待ってたのに……シロウの嘘つき」

 士郎は銀髪を掬って零すように梳きながら、拗ねたように唇を尖らせるイリヤの責めを受け止める。

「それに泣かせちまった」
「……泣いてなんかないもん」

 言って、今度は肩に顔を埋めてくるイリヤの頭を抱いて、もう片方の手で背中を撫でるように抱きしめた。

「……ただいま」

 首に回されたイリヤの腕が、よりいっそう強く抱きついてきた。



◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆



「なあ、イリヤ。聞きたいことがあるんだけどいいか?」
「ん。なあに、シロウ」

 士郎の膝の上に抱かれているイリヤは、背を胸板に預け、首だけを捻って彼を見上げた。こうするとひどく近い場所に士郎がいて気分がいい。
 逆に士郎といえば、もちろん嫌だというわけではないのだが少し居心地が悪い気がするのもまた事実だ。なんだかんだ言って、イリヤは女の子である。
 今も振り向いたイリヤの小さな顔が思った以上に近くにあって、思わず少し顔を離してしまった。

「む。シロウ、それはレディに対して失礼な態度だと思わない?」
「い、いや。他意はないんだよ、他意は。ちょっと驚いただけでさ」
「ふぅん……ならいいけど。それで、なに?」
「ああ、あのさ」

 士郎はそこでいったん切って言葉を選び、

「……今の俺は、サーヴァントだ」

 イリヤの目をじっと見てそう言った。

「そしてイリヤは俺のマスターだな」
「そうね。わたしがシロウを召喚したんだもの、この通り――」

 イリヤは自分の左手の甲を見せて言う。刻まれている紋様は、まるで血が流れているかのように鮮やかな紅の色をしていた。

「――令呪だってある。どう? シロウはわたしの言うことを何でも聞かなきゃいけないんだから」
「まあ……それはともかく」
「ごまかさないでよ」
「と、ともかく聞いてくれ。大事な話なんだから」

 じとりと湿っぽい目つきで睨んでくるイリヤの視線をとりあえず無視してシロウは居住まいを正す。
 対するイリヤはそんな彼の態度には気づいていたけど、だからといって別にどうすることもないと思っていた。士郎が何を考えていて、何を言おうと思っているのかくらいわかる。けれど、もはや何の意味もないことだとわかりきっていることだったから。

「聖杯戦争にだったら参加するつもりなんてないわよ」

 だから口を開こうとする彼の機先を制して先に結論だけを言ってやった。

「え?」
「だから、わたしは別に聖杯なんて欲しくないの。なによ、聞きたかったのはこのことじゃないの?」
「それはそうだが……なんでだ?」

 士郎の口調が不意に固くなる。
 それはそうだろう。マスターとなって、わざわざサーヴァントである自分を呼び出しておいて聖杯戦争に参加しないなどと、只事ではない。イリヤが自分を呼んだ一番の目的が自分との再会にあることは士郎にもわかっていたが、ならばこの後彼女はどうするつもりなのか。

 イリヤは心中で嘆息していた。
 告げなければいけないこととわかっている。イリヤは聖杯戦争に参加しないのではなく、参加できないだけなのだと。
 何故なら、既に彼女の身体は限界に近い。
 もはや、自分の力で立ち上がることすらままならないだろう。ほとんど枯れてしまった魔力と生命力は、イリヤの身体から自由を奪っていた。もう既に、イリヤの足は自分の意思で動かすことができなくなっている。
 事実を知ったとき、士郎は何を思うだろうか。
 怒るか、悲しむか、自分自身を責めるだろうか。いずれにせよ、嫌なことだった。

「あのね、シロウ――」

 衛宮士郎との再会、その等価交換の代価は、壊れかけの自分全てでは足りなかった。

「――わたしね、もう死んじゃうの」
「……え?」

 士郎の瞳が見開かれ、呆けたような表情になる。

「もともとわたしの身体はツクリモノだから。リンがいろいろ手を尽くしてくれてなかったら、もうとっくに死んじゃってた」
「それで……なんで」
「だって限界だもの。これ以上はどんなことしても無理。魔法使いか……そうね、あとは神様くらいでないとどうにもできないわ」

 まるでなんでもないことのように明るく言って、イリヤはおどけたようににこりと笑った。
 対する士郎の表情は闇を呑んだように暗い。

「いつまで……どのくらいなんだ」
「夜明けまでかな。もう、からっぽだもの」

 後頭部を打たれたような衝撃が士郎を襲った。肩がずんと重くなり、落ちた。
 もし、イリヤが今夜、自分を召喚していなかったら彼女はもう少し永らえたかもしれない。そもそも約束を最初から果たしていたならば、今日のようなことには――脳裏を一瞬でそれだけのことが駆け巡った。

 と、小さくて冷たい何かが、士郎の頬に触れてきた。
 イリヤの手のひらだった。

「シロウがちゃんと約束を守ってくれてたら、こんなことにはならなかったかもねっ」

 微笑みながら士郎の頬を撫で、イリヤはねこが爪を立てるように甘痒く彼を責めた。
 こんな時、恨み言の一つも言われないほうが辛い。
 相手が何も言ってくれないから、自分で自分を責め、許しが得られないままに際限なく自分を責め続けるしかない。
 イリヤは別にそんなことを意識していたわけではない。士郎が自分自身を責め続ける姿なんて見たくはないとは思っていたが、そんな心理の機微など彼女は知る由もなかった。だが確かに、彼女の優しげな断罪は、士郎にとってはせめてもの救いだった。

「ごめん、俺はイリヤを……」
「いいの。さっき許してあげるって言ったじゃない。それにね、どうせこのまま生きてても多分、夏までもたなかったもの」
「……そうか」
「そうよ。だからね、せめて死ぬ前にシロウに会いたかった。だからシロウは気にしなくていいのっ」

 土蔵の中の空気は冬だけに冷たく、イリヤの吐息も白い。
 不意に立てつけの悪い窓がかたかたと音を立て、外を走っている風が流れ込んできた。

「んっ……ちょっと寒い……そうだ! ねぇシロウ、あったかくして!」

 寒さに身体をふるりと震わせながら、イリヤは良いことを思いついたとばかりに、手を打ち合わせた。
 彼女はもともと寒いのが嫌いだ。昔、ずっと寒いところで一人ぼっちでいた時のことを思い出してしまうから嫌いだった。
 バーサーカーと一緒だった頃は、そんな時、彼に寄りかかってあたためてもらっていた。そうしてもらうだけで安心して、イリヤは嫌なことを忘れることができた――そんなことを思い出していた。

「ほらシロウ、早く早く」
「あったかくって、そんなこと言われてもどうすればいいんだよ。わかってると思うけど、俺、投影しかできないぞ」
「ん、もう。誰も魔術を使えなんて言ってないじゃない。こうすればいいの」

 イリヤは士郎の腕を自分の腹の前に持ってきて腕を組み合わせると、自分は士郎の全身を預けて寄りかかる。
 士郎の腕は自分よりもずっと長くて大きくて、包み込んでもらうには十分だった。

「これでよし。あとはシロウがぎゅってしてくれれば完璧ね」
「ぎゅ、って……な、なに言ってんだよ」
「む。わかってて聞いてるでしょ。それってセクハラって言うのよ、シロウのエロ」
「だっ、誰がエロだよっ!」
「あん、もう! そんなことはどうでもいいから、シロウはわたしの言うことを聞きなさーい!」
「って、こんなことで令呪使うやつがいるかばかー!」

 言うが早いか、イリヤの左手の甲が一瞬鈍く光り、令呪にこめられた魔術が発動した。



「――ったく、別に令呪なんて使わなくてもおまえを抱きしめてやるくらい、してやったのにさ」
「なによ、シロウがぐずぐずしてるからいけないんでしょ。それに令呪なんて今更なくなったって全然惜しくないもの」

 イリヤを膝に乗せ、両腕で彼女を抱きしめながら士郎は呆れたようにつぶやき、イリヤは頬を膨らませて反論する。
 もちろん本気で言い争っているわけではない。兄妹の他愛のないじゃれあいのようなもので、むしろそうすることを楽しんでいる。
 士郎がまだこの家にいた頃は、よく彼にわがままを言っては困らせて、こんな風にじゃれあっていたものだ。士郎はなんだかんだ言いながらいつだってイリヤのわがままを聞いてくれて、イリヤも士郎に思うままに甘えていた。

「…………」

 楽しかったその頃のことを思い出して、胸が締め付けられた。
 本当はずっとあの頃のままでいたかったのに――心中でつぶやきながら、自分を抱いている士郎の二の腕に強くしがみつく。

「イリヤ?」
「……シロウは、英雄になんてならなければよかったのよ」
「…………」

 瞳を閉じて腕に縋っているイリヤ。
 士郎にも彼女の気持ちが何を言いたがっているのか、よくわかっていた。

 衛宮士郎が正義の味方を目指さなければ、彼は九年前に家を出て行くことはなかった。
 衛宮士郎が家を出て行かなければ、彼は死ぬことはなかった。
 衛宮士郎が死ななければ、彼は英雄になどならなかった。

 全ては衛宮士郎が『正義の味方』という名の英雄を目指してしまったことに端を発している。もし彼が英雄を目指していなかったならば、十年間、イリヤはずっと幸せのうちにいられたはずだ。死を免れることはなかったとしても、どれだけ笑っていられただろう。

 士郎さえいてくれれば、元より幸福など望むべくもなかった少女は、それだけで幸せだったのに。

「なんで、英雄になんてなっちゃったの?」
「英雄……守護者になれば、もっとたくさんの人を助けられる。……俺は正義の味方には結局なれなかったけど、だけど守護者になればきっと全ての人を助けられる正義の味方になれるから。だから、俺は世界の取引を受け入れた」

 思った通りの答えだった。衛宮士郎の歪みは思った通り、少しも矯正されていなかった。
 そしてイリヤは知っている。
 自分の願いに純粋なままに、守護者となった士郎が辿る道の行く果てを。
 彼はいずれ守護者としての在り様と己の理想のギャップに磨耗していく。理想を抱いては裏切られ、それでもなお信じて裏切られ――そんなことを繰り返して、やがて彼はぼろぼろに朽ちて砕け散る。

 かつて出会ったアーチャーは、そんな英霊エミヤの成れの果てだった。

 目の前にいる士郎も、やがて彼と同じ道を辿る――もうそうなってしまうのは決まっていることだった。
 彼のように理想を抱いて理想に溺れ、理想を成せぬ己が身に苦しみ、傷つき、苛まれ、最後には自分自身を憎み存在を消し去ろうとする。

「……ばか」

 イリヤは士郎の行く末を知っていた。
 聖杯の器としてアーチャーを受け入れたときに、彼の全てを知った。彼がどんな英霊だったのか、どんな道を辿ってきたのか、彼の望みさえも。
 だから無性に悲しかった。

「ばかばかばかっ、シロウのバカッ! なんで英雄になんてなっちゃったのよバカーーーッ!」
「い、イリヤ!?」

 しがみついた腕を揺さぶりながら、激しい口調で士郎を罵る。
 士郎の行く末がどうなるか、言うわけにはいかない。だいたい言ったところで歩みを止めるような士郎なら最初からそうしている。
 だから今やサーヴァントとなり、聖杯システムの仕組みを知っている士郎も、イリヤにかつてのアーチャー――これからの自分がいったいどのような道を辿るのか聞こうともしない。

 何を言ったところでもう全て意味がないのだ。
 イリヤが今日、死を迎えることが決まっているように、士郎が磨耗してアーチャーになることは既に決まっていた。

「ホントにばか……シロウは、わたしとずっと一緒にいたほうが幸せになれたのに……」
「……ああ、俺もそう思うよ」

 ぽつりとつぶやくイリヤを抱きながら、士郎は頷いて瞳を伏せた。

 イリヤの言う通り、この家にいて、イリヤたちと一緒に歳月をすごしていたなら、きっと自分は人並みの幸せを得られたのだと思う。
 士郎にとっても彼女たちとすごした一年間は何物にも換えがたい時間であり思い出だった。孤独な戦場に在って、彼女たちとの思い出がどれだけ自分を支えてくれただろうか。全てを投げ出して、我が家のぬくもりに包まれたいと思ったことも何度もある。
 それでも結局、士郎は自分の生き方を変えることができなかった。

 ――だから問題があるとすれば、尋常の幸せを求めることができない俺自身にあるんだろう……俺は、歪んでるから。

 士郎にも自分自身の歪みがようやくわかっていた。それでも最期まで自分を貫き通して死に至り、英霊の座に辿り着いた。
 だが今、腕の中にはイリヤの小さな身体がある。生前、遂に二度とは手にすることができなかったぬくもりだ。
 まさかもう一度、こうして抱いてやることができるなんて、夢にも思っていなかった。

 だから――

「でもな、イリヤ」

 ――俺はきっと、幸せ者だ。

 口には出さず、士郎はただイリヤを抱く腕に力をこめただけだった。それで十分だと思った。

「…………」

 だからイリヤも、更に強く士郎にしがみついた。一寸たりとも離れぬよう、自分を染み込ませるように。
 それで十分、幸せだった。



◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆



 夜明けが近いようだ。
 闇色だった窓の色はいつしか群青色になり、今ではじわじわと白んできている。遠く低い場所にある雲も、霞がかった空に見えはじめていた。
 今日は曇天のようだ。こってりと重たげな雲が、空に垂れ込めている。
 この分ならきっと雪が降るだろう。イリヤは士郎の腕の中から雲を見上げながら、それ見たことかと、内心で快哉をあげていた。

 二人の間にはもうずいぶん前から言葉がない。
 互いに話して聞かせることなら幾らでもあったが、だからといって別にあえて聞かせるようなことでもなかった。そんなことをしなくても、ただこうして互いに触れ合っているだけで十分に満足だったし、通じ合っているような気がした。

 ――って、なにロマンチックなこと考えてるんだろ。

 らしくないことを考えてしまった自分に思わず苦笑する。まるでいつぞや間桐桜が持ってきた少女マンガの主人公のようなことを考えてしまった。
 だがこうして士郎の背にもたれかかって、彼の腕に抱かれているだけでひどく充実した気持ちになっているのは確かなことだ。
 このまま眠ったらきっと――

「……ん」

 と、とろりと重たくなったまぶたをどうにか堪える。

 ――そっか。そろそろか。

 そういえば、先ほどからひどく身体が重たい。身体だけじゃなく、心までもがとろりとしてきてあまりはっきりとしていない。
 ごく単純に言うならばひどい眠気が襲ってきているようなもので、それはつまり眠りが近くなっているという証拠だった。

「イリヤ?」
「……うん」

 顔を覗きこんでくるシロウにこくりと頷き、弱々しく微笑む。
 ほんの一瞬だけ咲き、溶けて消えてしまう雪の花の結晶のような微笑み。小さくて可憐で、ぞっとするほどに儚げ。
 シロウにだって、彼女の微笑みの意味はわかっている。窓の外に目を向けると、感情を消した声でつぶやいた。

「……もう、夜が明けたか」
「うん、早かったね」
「そうだな、早すぎるよな」

 二人互いに目を合わせて、仕方がない、とばかりに笑いあう。それが無理をしてようやく滲み出した笑いだなんてことは、士郎もイリヤもわかっている。こんなときに無理をしないで笑えるはずがない。
 イリヤが小さく、あくびをした。

「ふあ……眠くなってきちゃった」
「……もう少し頑張れないのか?」
「んー、そうね。シロウがそう言うなら、もうちょっとだけ、がんばる」

 そう言ってふわふわと頭を揺らしながら、イリヤは士郎に背を預けた。

 ――あ、走馬灯が走ってる。

 しばらくそのままぼんやりと天井を眺めているうちに、今までのことが脳裏に不意に脳裏に蘇ってきてそんなことを思った。
 思い出が浮かんでは消えていくたびに、泡が弾けるように自分の記憶が一つずつ消えていったが、イリヤは少しもったいないな、くらいにしか感じていなかった。それよりも、自分の人生には、自分が思っていた以上に笑っている思い出が多かったことに驚いていた。

 ――うん、やっぱりシロウのところにきてよかった。

 彼がいなければ、きっと自分はもっと虚しい人生を送っていた。人生どころか、最期を迎えてもただ壊れていくだけの人形で終わっていたかもしれない。
 士郎と、彼の周りの人たちのおかげで、自分はたくさんの思い出を思い出しながら死んでいける。それはとても嬉しいことだった。
 胸を張って楽しかったと誇れる。自分は精一杯、人生を楽しんだとはっきりと言える。
 そんな思い出を、こんなにたくさん残してきた。


 ……でも。


「……ねえ、シロウ」
「……ん?」
「あのね、やっぱりね……ヤだな」

 こんなに楽しかったのに。
 こんなに楽しいのに。

「やっぱりわたし、死んじゃうなんて……ヤ、やだな……」

 もうイリヤは、そんな楽しい思いをすることはできない。

「イリヤ……ッ」
「だってわたしっ……も、もっとシロウと、た、タイガと。あとね、リンも、サクラも……い、一緒に、もっと……」

 何かを堪えた震える声で一生懸命に願う少女に、士郎は何も言えなかった。ただ口の端から軋む音が零れるだけ。
 英雄となっても、守護者として絶大な力を得ても――それがなんだというのだ。
 エミヤは無力だった。彼には彼女の死をどうすることもできない。彼女の悲しみを和らげてやることもできやしない。

「ごっ、ごめんねシロウ。シロウにこんなこと言っても……で、でも」

 本当なら涙を流したいはずなのに、必死にそれを堪えて声を震わせている。
 悲しくて泣くのは嫌だった。最期に士郎と会えたのは、イリヤにとって悲しみを呼ぶことではなくただひたすらに嬉しいでなければいけない。
 だから我慢して、無理に笑顔まで作ろうとして、彼女の表情がくしゃくしゃに歪んでいる。
 そんな彼女が、士郎には途方もなく可愛らしかった。

「ばか、そんなこと気にするなよ」

 腕の中にいるイリヤを抱きなおし、正面から見つめて士郎は笑った。
 彼女を抱く腕の震えは止まらないし、ともすれば荒れ狂いそうな感情の奔流はぎりぎりだ。

 それでも士郎は笑った。
 この少女が望むならいくらだって笑う。無理して出した偽物じゃない、本物の笑顔で笑ってみせる。

「イリヤが望むなら、おまえの願い事を叶えてやる。忘れたか? 俺は今、おまえのサーヴァントなんだ。どんな願いごとだって三つだけ叶えてやる」

 何故なら衛宮士郎は幸せ者だから。
 今日、イリヤと会えたことが心底から嬉しくて、幸せなことだと思っている。だったら笑えないはずがない。

「……シロウ」

 笑顔で自分を見つめている士郎に、イリヤはどこか呆けたような表情になって彼を見上げていた。
 声の震えもいつしか止まっている。こみ上げてくるものも潮が引くように治まっていた。

「もうさっき一つ叶えてやったから、後は二つだな。ほら、どうしたい?」

 髪を撫でる大きな手が優しい。笑顔は思い出の中にある彼の笑顔と全く同じだ。
 当たりまえだ――彼は、衛宮士郎なのだから。

「……なんでもいいの?」
「ああ、なんでもだ。おまえの好きなこと、したいこと、なんでもいいぞ」

 士郎のその言葉にイリヤは彼を見つめて、そして自分も笑った。笑うと、泥のように自分に纏わりついていた暗い気持ちが全て一気に吹き飛んだ。

 死んでしまうことはやっぱり寂しい。家族と呼べる人たちともう会えなくなってしまうのも悲しい。
 けれど士郎が――大好きな人が自分を看取ってくれるなら、悪くないと思う。しかも自分の最期のわがままを叶えてくれると言う。

「そっか。なんでもいいなら……えっと、それじゃあ……」

 どんなわがままを叶えてもらおうかと、考えているだけで楽しくなる。

 ――せっかくだから、一回もしてもらったことのないことをしてもらおう。どんなことがあるかな。

 あれこれ考えながら、やっぱり士郎に会えて良かったと思った。
 士郎のおかげで、最期にこんないい思いをして逝くことができる。それはきっと幸せなことなのだろう。

「――ん、よしっ」
「む。決まったか。じゃあ俺はどうすればいいんだ?」

 しばしの間、どうするか悩んでいたらしいイリヤがぽんと手を打って士郎を見上げる。
 思いついた願いごとはどうやら彼女にとってかなりの名案らしい。大きな瞳がきらきらと輝いて、しかし口元は猫のように笑っていた。

「じゃあね、シロウは……目を瞑って」
「目を? なんだそりゃ。そんなことでいいのかよ」
「いいの!」
「でもなぁ……なんか良くわからんのだが」
「もう、ぐずぐずしてると令呪使っちゃうんだから!」

 言った時には既にもう使っている。左手の甲が再び光って、士郎は有無を言わさず目を瞑らされていた。

「ったく……だからわざわざ令呪なんて使わなくっても目くらい瞑ってやるのに」
「ぶつぶつ言わないの……」

 イリヤは小さな身体を目一杯に伸ばし、小さくひやりとした手のひらを士郎の頬にあてがう。
 そして自分もまた瞳を閉じて――

「…………」
「――ん」

 そっと士郎から身を離す。緩んだ頬は薄く染まっていて、雪のような白い肌に鮮やかに映えていた。

「……ふふっ、シロウとしちゃったね」
「あ、ああ」
「む。なによ、もうちょっと何か感想はないの? 女の子のはじめてを奪ったのに」
「ひ、人聞きの悪い言い方するなっ」

 言い合いながらも互いの頬は赤い。奔放なイリヤでさえそうなのだから、士郎はといえば言わずもがなだ。
 だがもちろん、嫌な気分など微塵も感じてはいない。特にイリヤなどは、してやったりの気分だった。
 ちょっとした悪戯心と、多分に占める欲求を満たして、これ以上ない気分だった。

「シロウ」
「ん?」
「ありがと」

 真っ赤になっている士郎に綻ばせていた口元を、柔らかなそれに変えてイリヤは目を細めた。

「シロウに最期に会えて、ホントに良かった」
「ば――ばか、それは俺のセリフだ」
「そうかな? ……うん。そうだったら嬉しいな」

 言ってイリヤは、落ちてくるまぶたとまつげを震わせた。
 もうそろそろ限界だった。
 襲ってくる眠気はイリヤの全身から力を奪い、今や意識までをも刈り取ろうとしている。

 窓から差し込む光は白く、彼女の白磁の肌をよりいっそう白く染め上げて、溶けていく雪を連想させた。

「……イリヤ」

 声を荒げることなどしない。が、感情はずっと憤りの叫びを上げていた。
 だが、こうなることはわかっていたことだ。だから覚悟だってできているつもりだし、何よりイリヤは笑っている。なら、士郎がすべきはただ黙って彼女の肩を抱き、髪を梳いてやることくらいだろう。
 士郎の腕に全身を預けたイリヤの表情は穏やかだ。寂しいわけではないし、悲しいとも思っている。けれど、それ以上にイリヤは幸せだった。

 もう既にイリヤのまぶたは半分以上落ちている。自分の意思で動かせる場所なんてほとんどない。
 思い通りになるのは声と、心だけだった。

「シロウ……わたしね、幸せだったよ」
「そうか……良かった」
「うん。シロウのおかげだね」
「……そうか」

 士郎の声が詰まった。
 イリヤにしてみれば何気ない一言だったかもしれないが、士郎にとっては何よりも重い一言だった。

「シロウ……そろそろ、わたし寝るね」
「……あともう一つ、願い事が残ってるぞ?」
「あと、ひとつ……? そっか。ん、と……どうしようかな……」

 もうぼんやりと霞がかっている瞳で士郎を見つめながら、細い声でイリヤがつぶやく。

「それじゃあ、シロウ……さいごの、おねがい」
「ん。なんだ?」
「あのね、わたしと……いっしょに……」

 ――そう言ってイリヤは瞳を閉じた。

「…………」

 もう目を覚まさないイリヤの髪を、無言で梳き続ける。
 笑顔のままのイリヤの寝顔を見つめながら士郎はその頬に触れ、零れ落ちた雫を親指でそっと拭った。



◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆



 人気のない森の中、士郎はイリヤを抱いて背の高い木を見上げている。木の幹は太く、背は天を突くほどに高く、これまでに数百年を数える時を生きてきた木は、これから先一体どれくらいまで生きるのだろうか。――士郎はそんなことを思った。

 士郎にとってもここは懐かしい場所だ。
 冬木市の郊外にある樹海は十年経ってもなお人が踏み入ることは滅多になく、木々は目一杯に己の腕を伸ばし生を謳歌していた。

 士郎が木を見上げていると、頭上に張り出した葉と枝の間からちらちらと白い綿が舞いながら降りてきた。
 手を伸ばして触れる。と、冷たい。

「雪か……」

 ゆっくりと落ちてくる幻想のような光景に目を細めると、士郎は木の根元に腰を降ろし、背を幹に預けて寄りかかった。

 さぁっ、と少し強い風が森の中を吹き抜けていく。しわぶきの音一つなかった森の中が俄かに枝が踊る音で満たされ、地面に敷き詰められた枯葉がさざ波のように寄せては引いていく。かさかさと転がりながら足元にやってきた腰の曲がった落ち葉が、士郎の足に当たってしばし彼を見上げる。そしてまた、かさかさと足早に駆けて去っていった。
 風に流され、頬にかかったイリヤの銀髪をそっと払ってやりながら、髪に降りてきた雪も一緒に払ってやる。
 こうして見ると、イリヤは本当に白かった。
 舞い散る雪の中で眠る彼女は、劣らぬほどに白く、見紛うほどに儚かった。

「……おまえがさ、幸せだって言ってくれて、嬉しかった」

 イリヤの頬に手を当てて、抑揚のない声でつぶやく。
 触れた指先にはぬくもりが伝わってきて、肌はまだ瑞々しい弾力に溢れていて柔らかい。穏やかな寝顔は、少しゆすってやれば今にも起きてきて、小さなあくびをするのではないかと思わせる。何も知らない者がイリヤを見ればきっと、気持ちよさそうに眠っているな、と頬を綻ばせるだろう。
 だが、イリヤはもう目覚めることはない。士郎の腕の中で眠ったまま、彼女はもう違う場所に行ってしまった。

「俺でも……おまえのこと、少しは幸せにしてやれたんだよな」

 士郎は小さな笑みを浮かべながら、イリヤの頬を慈しむように撫でる。
 イリヤは幸せだったと……そう言っていた。幸せの中にいたまま、笑顔を浮かべて彼女は死んでいった。

 どれだけ助けても、笑顔なんて見ることはできなかった。救うために殺し、一つの幸せを掬えると信じて一つの幸せを投げ捨てた。
 多くを救った。殺した数の何千倍の命を救い、そこには確かに失われるはずだった幸せがあったのだろう。
 だが同時に、失われないはずだった幸せを、士郎は間違いなく潰した――自分の意思で。

 十を救うために一を殺し。百を救うために十を殺し。千を救うために百を殺した。
 自分が通った救いの道には、多くの救われた命が確かにあった。
 だが路傍に目をやれば、そこには無残に捨てられた屍が腐臭を放ち、悲しみと苦しみからなる怨嗟の声をあげていた。

『返せ』

 聞こえてくる声に耳を塞ぎ、それでも聞こえてくる声を無視して屍の山を築き上げた。そうしなければ、士郎の力では何も変えることができなかった。

 自分は人殺しだと、わかっていても歩みを止めなかった。歩いた道の先に、誰も悲しまない救いがあると、そう信じて歩き続けた。
 だがその道はあまりに長く――それどころか、果てのない無限の道だと気づいてしまった。
 全てを救うことなんてできはしない。正義の味方は万人の味方ではないから、敵となった誰かには犠牲になってもらわないといけなかった。

 だから殺した。
 そこにいる人たちを天秤にかけ、より多くを救うために、重たかったほうに味方して、少なかったほうを敵とした。
 全てを救いたいと願った心のまま、手のひらから零れた一人には死んでもらった。
 それが果てに英雄となった、正義の味方の在り様だった。

「……イリヤ」

 だが、彼女は違った。
 腕の中で眠っている少女は、死に臨む間際に幸せだったと言ってくれた。彼女の命は失われてしまったが、その直前までイリヤは幸せのうちにいた。
 それがいったい誰によってもたらされた幸せだったか。

「俺は……少しでもおまえを救うことができたのか……」

 士郎がいなければ何もないまま死んでいくだけだったイリヤは、最後に士郎に会えたことで人並みに幸せを手にした。
 『シロウのおかげだね』と、笑いながら言っていた。

「……うっ、ぐ……ふっ……ぐっ、ふぅ……ッ」

 士郎が零した涙が、眠っているイリヤの頬に落ちて伝っていった。止め処なく溢れる涙は、イリヤの服の胸元を濡らしていた。

 誰も助けられないと思っていた。犠牲なくして何も救うことなどできないと。
 でも、イリヤを救うことができた。零したモノは何一つなく、最期の一瞬まで彼女の幸せを守ってやることができた。
 だから士郎は泣いた。生涯をかけて遂に叶えることができなかった願いを、ようやく叶えることができた。
 今の士郎はサーヴァントでしかなく、サーヴァントは、召喚されている間に経験した記憶を本体に持ち帰ることはできない。だからここで起きたことを自分の中に留めておくことはできないけれど――


 ――それでもきっとイリヤは、これから先磨耗するしかない英雄が得た、最後の救いだった。


「…………」

 涙を収めて空を見上げる。
 舞い落ちる雪のロンドはこれからますます激しくなっていくだろう。
 イリヤの髪と頬に降りてきた粉雪を払うことなく、士郎は彼女を抱いたまま空を見上げ続ける。

 埋めろ――そう願う。
 彼女の最後の願いを叶えるために、士郎は最期の時を待ち続ける。

 やがて、イリヤと共に真っ白に覆われて消えていく、その一瞬を。





あとがき

 これは弓にあらず。あくまで士郎なのだと主張します。
 あとはそうですねー。なんかイリヤ、ダッコちゃんみたいですね。自分で書いといてなんですけど。


 感想、ご意見などございましたらこちら、もしくはBBSまでよろしくお願いします。

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