「この分からず屋……! いい、そんなに戦いたいってんなら勝手にしろ! もう俺は知らないからな!」 そう言い放って彼は駆け出した。夕焼けに染まった世界の中、離れていく背中を、私は黙って見つめていた。 そうして私はただ一人で、誰もいない橋の上に立っていた。 ……不思議なことに。 あれほどに煮えたぎっていた頭が痛いほどに冷たい。脳裏に幾つも浮かんでいた彼への罵倒の言葉は、全てが全て、まるで最初からなかったかのように消え去っていた。髪をなぶり、頬を舐める風に身が震えた。ほんのわずかに上げかけた手のひらは、いったいなにを掴もうとしていたのか。 今はもう消えて見えなくなってしまった背中をまだ追い続け、私はじっと見つめている。見えもしない彼はもう遠く離れて届きもしないというのに。 ……届かない? それはおかしい。私は彼のサーヴァントであるのだから、彼のそばにいて守るのが義務だ。手の届く場所にいなければ責務を果たすこともできず、ならば届かないなどということはあってはならないはずだ。 この身は剣。故にセイバーのサーヴァント。 そして私の主は彼だ。剣がその担い手のそばから離れるなどあってはならないこと。如何な名剣であろうとも、振るわれなければ切れないなまくらと価値は変わらず途端に飾り物へと成り下がる。故にこの身は彼と共になければならないはず。 ……何を今更。馬鹿なことを。 上げかけていた手のひらを下ろす。握り締めた拳が掴んだのは、冷たい空気だけ。だがそれすらもすぐにすり抜けて、手のひらには何も残らない。 私は灼熱した激情に己を任せて、浮かんだ端から全て彼に叩きつけた。 全て、子供じみた罵りの言葉だ。言ったところで何の詮もない、意味もない、ただ相手を傷つけるためだけの言葉だった。 彼を否定したのは自分だ。彼を拒絶した。契約を解除しても構わぬとさえ言った。 「……私は、そんなことを言ったのか」 思い返し口に出した途端、胸中に穴が空いた気がした。 黒々と口を空けた小さな穴は、しかし私が彼にぶつけた言葉を一つ思い返すたびに抉るように大きくなっていく。 水面を渡り、橋の上を吹きぬけていく風はどこまでも冷たい。ぽっかりと開いた穴に吹き込んで私を内側から冷やしていく。 ……寒い。 やがて温もりの欠片も何もかもを失い、心が凍えた。蹲るようにして身を縮め、橋の欄干に手をついてどうにか自分を支えることができた。 川の流れの中に映る太陽の輝きが、瞬いて目の中に飛び込んでくる。まるで天にある星の河のような流れの中に、私の影はあまりに小さく映っていた。 蹲った私の影は、たった一つだった。 他に交わることもなく、うつむいたまま川の中でたゆたい、歪んでいた。 一つになったところで私に変わることなどない。……そう、むしろ今までが異常だっただけだ。 前回のときも私はマスターと交わることなく戦い抜き、そして最後まで生き残った。今回も、たとえ契約を解除されたとしても、残るマスターはただ一人、残された魔力を以って打ち倒し望みを叶えればいいだけのこと。 ずっと……ずっと持ち続けていた望みを。私の、願いを。 彼ならわかってくれると思っていた。 ……シロウには、わかってもらいたかったのに。 そもそも何故、彼にだけはわかってもらいたいなどと思ったのか。 たとえ誰に理解されずとも、聖杯を手にして今一度選定の時をやり直せば良い。そうして私より相応しい人物に王として立ってもらい、私には成し得なかった救国の望みを果たせれば良いはずなのに。 私の望みは、今の時代には私ただ一人しか持ちえない望みだ。 千年を越える時間の流れの果てに、既に故国は滅びて無く、そこに生きた人々とて当たりまえのように亡い。地上より消え失せて、口の端に上る伝説と成り下がった国を救いたいなどと、この私以外に誰が願うというのか。 だから、誰かとこの願いを共有することなどできはしない。誰かに理解してもらうことすら叶うことではない。 なのに何故、私はそれをシロウに求めてしまったのか。 川の中ほどに積み重なっている瓦礫の山――かつて私が作ったそれを意味もなく眺めながら理由を考えていた。 そう……それは多分、私が彼の過去を知ってしまったからなのだろう。 エミヤシロウの過去は、前回の聖杯戦争の最後の日から始まる。それ以前の過去は全て泥のような炎の中で燃え尽き、塵となって消えていた。 私はその始まりの過去を、彼の夢を通して知った。 だから、シロウならば―― 彼は聖杯など必要ないと言うが、それはきっと彼が気づいていないだけだろう。 あの光景、あの惨劇、失われた命と助けられなかった命。 全てはシロウが背負うべきものではない。彼に深い傷跡を残したあの赤い地獄を生み出したのは私なのだから、むしろ私が背負うべき罪業だ。 だというのに……わかっているはずなのに何故、シロウは自ら背負おうとするのだ。 エミヤシロウという少年は自分というものが著しく欠けている少年だ。自分自身よりもまず他人を優先する。 他の命、幸福のためならば容易く自分の命を投げ出すことも躊躇わない。かつて、バーサーカーの斧剣から私を守るため、己の身を投げ出したように。 そんな在り方は歪だ。自分の命の重みも理解できないのは、単なる大馬鹿者だ。 同じことをシロウに向けて言ってしまったが、それだけは真実であると確信している。 だがそんな彼の在り方も、悪夢で見た日の出来事を端に発しているのだとしたら、やはり彼はやり直すべきなのだ。 シロウが苦しみを背負う必要などどこにも無いのだから。 あの惨劇が全てなかったのならば、多くの無辜の苦しみも、失われた命も、シロウの重荷も全てが解放されるのだから。 それはきっと……彼にとって救いのはずだ。 ――だから、シロウならばわかってくれると思っていた。 でも、シロウにはわかってもらえなかった。 彼は私が間違っていると言う。 私と同じ、無かったことにしたい過去を持っているのに、間違っていると――起きてしまった出来事をやり直すなんて子供の我が儘と同じであると言った。 それが許せなかった。 私はただ、滅び逝く国と滅び逝く民を救いたいだけなのに、それが何故……私の願いの何が誤りだというのか。 私は王であり、国を救う責務を負っている。 国が滅びようとしているのであれば、何をしてもそれを救わなくてはいけない。私が王となったその結末に国の滅びがあるのであれば、私よりも王として相応しい人物に国を託さなければならない。その者であれば、きっと誰よりも国を正しく導き、多くの民を救ってくれるはずだから。 シロウとて、あのとき助けられなかった人たちを救いたいと願っているはずだ。 この世の地獄そのものの中で苦しむ人々を救いたいと――私の願いとどう違うというのか。 だが、不思議ともうシロウに対して怒りは感じられなかった。 あれほどまでに許せなかった彼の言葉を思い返しても、同じように我を忘れるような怒りなど微塵たりとも湧いてこなかった。 あるのはただ、寂寥感と喪失感。 正体もわかっている。 胸から欠け落ちたモノは、拾いたくても手の届く場所にはなく、今はもう戻れない場所に去って行った後だった。 と――不意に、背後に人の気配を感じた。 「……!」 慌てて振り返ったがしかし、歩いていたのは私が会ったこともなく、当然見たこともない男性だった。 ただこの橋を通り過ぎていこうとしていただけの彼は、不思議そうな顔で私を振り返ったが、すぐに興味を失って足早に通り過ぎていった。 私はいったい、誰であると思ったのだろう。 何故か落胆する自分をごまかせないまま、再び橋の向こう側に視線をやる。太陽はもう、半分以上その身を大地に沈めていた。 ……あの男性は、これから家に帰るところだろうか。 ……私はこれからどうするべきだろう。 シロウは勝手にしろと言った。私もまた、シロウがいなくてもランサーとそのマスターを打ち倒すと言ってのけた。 ならばすることなどただ一つで、私は自分自身で口にしたことを今すぐにでも実行すればいい。 シロウはまだ私との契約を切っていない。令呪を通して感じられる確かな繋がりがその証拠だ。 ならば何も問題はないはずだ。少なくとも私に時間の制限はなく、一人ででもランサーとそのマスターを探し出せばそれでこの戦いも終わる。 ……ついに聖杯は私の手に渡り、願いも叶えられる。 躊躇うことはない。枷もない。今すぐにでも行動を開始し、敵と戦い倒し、望みを手にすればいい。 「…………」 少しずつ少しずつ、太陽が沈んでいく。ビルの隙間から漏れている滲むような紅の陽光が目に痛い。だがそれもやがて溶けるようにして消えていき、街の影は次第に夜の闇へと変わっていくだろう。 次第に移り変わっていく街の光景を、私はぼんやりと見つめていた。 私は、ずっとそうしていた。 「なにを……しているのだ」 太陽の光に目を赤く焼きながら、ぽつりと声を漏らす。 私はなにをしているのだろう。成すべきことがあり、遮るものなど何一つないということもわかっているのに、こんなところで。 呆けている場合ではないとわかっているのに、足が動かない。 望めば叶うとわかっているのに、どうしてもその気になれない。 心が、弱くなっている。 ……何故、弱くなった? 「わかりきったことか……そんなこと」 シロウだ。彼のせいで私はこんなにも弱くなってしまったのだ。 私は……間違ったことを言っていない。私を間違っていると言う彼の言葉に頷くことなどできない。 聖杯を手にし、王として国を救うためにこの身はある。自分のために聖杯を使うなどということはあってはならない。滅んでいく国と民を見捨てて、私一人が幸福を掴むなどというのは許されざる戯言だ。 だから私は言葉の限りに彼を罵って―― 『この分からず屋……! いい、そんなに戦いたいってんなら勝手にしろ! もう俺は知らないからな!』 ――馬鹿げたことに、後悔していた。 私は決して間違っていない。シロウが私の願いを理解してくれなかったのだから、互いの意見が交わらないのは当たりまえのことだ。 でも……それはいいのだ。 少し寂しい気もするけれど、仕方のないことと諦められる。所詮、私とシロウは違うのだから。 私が後悔しているのは、彼にぶつけた言葉の数々。その一つ一つ。 事の是非はともあれ、シロウは私を想ってくれていた。 彼がどれだけ私のことを大切に想ってくれていたのか、いくら私でもわかる。自惚れでもなんでもなく、確信している。 そうでなければ今日だって私を連れ出したりはしないだろう。シロウは私をごく普通の一人の娘として扱おうとし、そして大切にしようとしてくれている。 ……私自身シロウには、少なからず好意を抱いている。今更そのことから見て見ぬふりなど、できはしない。 そんな彼に私は罵言をぶつけた。 彼に言われた言葉に苛立ち、冷静さを失って思いつく限りに罵った。 ……我に返ったのはその背中が走り去っていったときだった。 シロウは白くなるほどに拳を強く握り締め、唇は千切れてしまいそうなほどに強く食い締めていた。 罵られたシロウの表情は、誰の目にも明らかな怒りの表情だった。 だからもう、私はシロウのところには戻れない。 あれだけのことを言われれば、さすがのシロウも私を見限っただろう。事実勝手にしろと、そう言っていたのだから。 「寒い……」 徐々に冷たくなってくる夕暮れ時の風に晒されて、身を竦ませる。 服を通して冷気が染み込んでくる。胸にぽっかりと空いた穴を風が吹きぬけていくたびに、温もりが零れ落ちて遠くに運ばれていってしまう。 ……帰りたい。 なんて愚かなことだ。私が気がつくのはいつでも全てが手遅れになったあとだ。 今日だってそう。我に返ったときには取り返しのつかないほどに私はシロウを怒らせて、帰る場所を失っていた。 もし……考えることさえ愚かなことではあるが、もしなかったことにできれば――私は今からでも彼の下に帰ることができるだろうか。 そんな馬鹿げたことを考えながら私はその場にじっと立ち尽くし、沈んでいく太陽を眺め続けていた。 いったいどのくらいの時間が経ったのだろう。 かろうじて頭を出していた太陽も、もうずっと前にとっくに沈んで消えており、空にはちらちらと星が瞬き、太陽の代わりには月が浮かんでいた。 「……ッ」 風が吹き、川の水面に映る青白い月が揺れて乱れた。 さらわれようとする髪を、感覚を失った指先で抑えながら月が元の形を取り戻していく様をじっと見つめる。 身を凍えさせるこの風にもそろそろ慣れてきた。というより、身体中どこもかしこも冷え切ってしまって、これ以上冷えようがないのだろう。 だいたい、切りつけるように吹き抜ける風も、風に運ばれてくる寒さも、通り過ぎていく人たちも……今の私にとってはどうでも良かった。 ――これから、どうしたら…… 何度も何度も繰り返している己への問いかけ。そして返ってくる答えはいつも同じで、無言が返答。問いかけるたびに喪失感は少しずつ積もっていく。 いつしかそれは胸中に雪のようにうず高く積もり、積もった分だけ心中を冷やしていく。 肌が寒いのはいくらでも我慢ができるかもしれない。でも、そうでない寒さは耐えがたい。吐き出した息は白く夜の風に溶けて、流れていく。追いかけて見上げた星空は、どうしてかいつもより遠く感じられた。 星空を見上げながら、寒さのあまりにひび割れそうな自分の肩を両手で抱きしめる。 当然、少しも温かくはならない。この寒さは自分では癒せないと理解していたのに、そうせずにはいられなかった。 幾つもの言葉の切れ端が、浮かんでは消える。 心中で呟く言葉など誰も聞くことなどなく、そもそも誰が聞いてくれる人とていない。だけどそれでもいい、それでもいいから、なんでもいいから胸の中で踊っているこの言葉を吐き出したかった。 そうでもしないと、自分の中から追い出してしまわないと凍えてしまいそうで―― 「シ――」 「セイバー。体、冷えるぞ」 ――不意に背中に掛けられた声に、震えた。 漏れかけた言葉が凍り付く。 それは寒さのためではなく。 それは細く苦しい、この心のためでもなく。 「――シロウ?」 ただ純粋な驚きのためだった。 まさか彼が戻ってくるなどと思ってもいなかった。なのにその声は、この二週間ですっかり聞きなれた声と同じものだった。 何故、と思いながら振り返る。 身を翻すだけの僅かな間に、期待と不安がせめぎ合う。 「なにしてんだよ、こんな時間まで。いつまでも帰って来ないから、遠坂が心配してたぞ」 でもそんなもの、白い息を吐きながら私を見ている彼の目を覗いた瞬間、たちどころに雲散霧消した。 間違いなく、我がマスター。私の目の前にいるのはシロウだ。 彼は私のすぐ手の届く場所にいて……少しでも手を伸ばせばきっと触れることができた。 「――そうですか。それは、悪いことをした」 だが私は言ってから、彼と合わせていた視線を半ば無意識のうちに外していた。 彼と目を合わせるのはどうしてか憚られた。もしかしたら……あろうことか、恐れているのかもしれない。 「……別にいいけどな。けど、なんだってこんなところにいたんだ、おまえは。……いやまあ、捜すの楽だったからいいけどさ」 ため息のような息を吐きながらそう言う彼を再び見た途端に、私を見つめ続けていた視線とぶつかり……視線が落ちる。 私が……私が何でここにいたのか、か。 そんなものに、何故という理由などありはしない。 「……はい。ここにいたのは、まだ行き先が決まっていなかったからです。シロウは勝手にしろと言ったでしょう。ですから勝手にしようと思ったのです。けれど何をするべきか、何をしたいのか、何処に行きたいのか思い浮かばず、ずっと、どこに行くべきかを考えていました」 だが、私にはもう、行くべき場所もない。 ランサーがどこにいるかなどと見当もつかないし、彼のマスターがどこの何者であるかも知らないのだから探しようがない。 ……ああ、そうだった。私はそんなことも知らなかったのだ。 これでいったいどうやって敵を倒せというのだ。たった一人でこの街を駆けずり回り、どこにいるとも知れない敵を求めて無為な時を過ごすつもりだったのだろうか。その隙にランサーにシロウを討たれればそれで戦いは終わるというのに。 契約を解除する? 馬鹿な話だ。 マスターを失ったサーヴァントがいったいどれだけ自分を維持できるというのだ。自ら死を選ぶようなものではないか。 そんなことは……他ならぬサーヴァントである私が一番良くわかっていたはずなのに。 愚かだ、どうしようもなく。 私は馬鹿だ。 だが―― 「……申し訳ありません。凛には世話になったと伝えてください。ランサーを倒し、聖杯を手に入れたのならシロウの元に戻ります。ですから、それまで」 私は、己の愚かさの責任を取らなくてはいけない。 一人でランサーを討ち、この手に聖杯を得る。 成すならばすぐにだ。今すぐに敵を討ち、戦いを終わらせる。どこに敵が潜んでいるかもわからないが、それでもだ。 どこにいるかわからないというのなら、この街の隅々まで余すところなく探す。時間がないというのなら、時の流れよりも尚早く動いてみせよう。 さもなくば、私はシロウに顔向けなど―― 「なに言ってるんだ。おまえが帰るところは俺んちだろ。メシだって布団だって、ちゃんとセイバーの分を用意してんだから」 ――顔向けなど、できないはずなのに。 何で彼は、まだ私にそんな言葉をかけるのだろう。 「……ですが、士郎はもう私の事など知らない、と」 「そうだよ。セイバーがなに考えてるか、俺には分からない――ほら」 言って、シロウの手が私の手を握り締めた。 「ぁ――シロウ」 冷たかった手のひらと指先に、シロウのぬくもりが伝わってくる。そのあまりの心地よさに思わず声が漏れる。 じんわりと手のひらから伝わるぬくもりは、やがて冷え切った身体をあたためていく。 気づけば――開いた穴には落とした欠片がはまって塞がっていた。 ずっと冷たかった胸も、もう冷たくはなくなっていた。 「うちに帰るぞ。いくらサーヴァントだからって、こんなに冷えたら風邪を引く。早く戻って、あったかい物でも食べよう」 「――あ、あの、ですが、私は」 シロウの手が、なかなか歩き出そうとしない私の手を強く引く。 引かれて、足が一歩、前に向かって踏み出した。 「それと、言っとくけど俺は謝らないからな。文句があるなら今のうちに言っとけよ」 シロウは歩きながら私と目を合わせようとしない。 私はきちんと彼の目を見て謝りたいと思っているのに、シロウはそれを許してくれないらしい。じっと見上げ続けても私のほうを見ようとしない。 私の視線に気づいていないはずはないのに。 シロウに謝りたかった。あのような罵言をぶつけ、無意味に傷つけたことを。 でもシロウは自分が言ったことが間違っていないと、いまだに確信しているからそれを許そうとはしない。私が謝りたいのはそういうことではなく―― 私とて、私の望みも願いも、間違っているなどとは思っていない。だから私たちは根本的なところでまだ認め合ったわけではない。 だが、それでも。 私のことを心配してくれたことは――私のことをまだ想ってくれていたことには。 こうして、私のことを迎えに来てくれたことには。 少しだけ後ろからシロウの横顔を見上げながら、声に出さないで呟く。 謝罪を許さないというのであれば、謝ることはしない。だからせめて、貴方に感謝を。 ――ありがとうございます、シロウ。 握られている手のひらに少し力が込もる。 私はほとんど無意識に、しかし確かに自分から、シロウの手を握り返していた。 シロウと一緒に橋の上から公園に下りてくる。 街灯に照らされた噴水の水が光を返して輝いていて、まるで星の砂が吹き上がっているかのような錯覚を覚えた。 誰もいない公園は静かで、聞こえてくるのは風の吹きぬけていく音と私たちの足音だけ。 私は今、シロウと二人だけでこの公園を歩いている。 「…………」 不思議な気持ちだ。 さっきまであれほど帰りたいと思っていたのに、どうしてか今はもう少しゆっくりと……できるだけこのまま歩いていたいと思っている。 あれほど寒さで凍えた身体が、今はあたたかく――シロウに握られた手のひらの熱が一際強く感じられた。 だけどシロウの歩みは私よりもひどく足早だ。急ぐ理由などないはずなのに何故なのだろう。少しだけ不満だ。 おかげで先ほどから何度か躓きそうになっていて、今もまた、握られた手のひらに引かれて石畳の隙間に足を取られた。 「セイバー、もう少しゆっくり歩こうか? なんか調子がよくなさそうだし」 シロウが振り返って私を見る。 申し訳なさそうにしているシロウ。心配げに私を見つめる彼の瞳の真剣さに、 「い、いえ、体はとても元気です……! ただ、その……凛の言葉に踊らされるワケではありませんが、こうして手を繋いでいると本当に逢い引きのようだな、と」 「え――?」 思わず、そんなことを言ってしまった。瞬間、シロウの頬が一気に赤くなる。 ――な、なんてことを言っているのでしょうか、私は。 そんな彼の表情を見て、私自身、自分が何を言ったのかにようやく気づく。それではまるで私が―― 「そ、そうだな。……その、手、離そうか? えっと、セイバーが迷惑だったらの話、だけど」 「……いいえ、私もこうしているほうがいいです。シロウの手は温かくて、安心します」 だが、いくら恥ずかしくても、それだけは嫌だった。 このままこの手は繋いでいたい。きっとこの手を離したら、また私は寒くなってしまうから。 こうして手を握られているだけで、これから先の不安など何もかも消えていくような気がする。このままこうしていられるのであれば、どんなに幸せなことだろうかと、そのような未来を一瞬だけ夢想して感じた。 それは本当に夢のようなことで、決して現実のものとなることはない。シロウが言うように、私が私のために生きることなどあってはならないのだから。 だがしかし、ほんの一時だけ、夢を見ることだけなら許されてもいいと思う。……許してもいいと思った。 現実では決してありえない、ユメでしかないのだから…… 繋いだ手のひらからシロウのぬくもりが伝わってくる。 今日一日、いろいろなことがあって……シロウと仲違いまでしてしまったけれど。 その終わりがこのぬくもりであるならば、私を連れ出してくれた彼に、やはり感謝したい。 そう思ったそのとき―― 「――何処に行く。勝手に人の物を持っていくな、小僧」 二人だけしかいなかったはずの公園に冷徹な声が響いたそのときに、この夢は終わりを告げた。 絶対的な王としての威厳と英雄としての風格、そして金色の鎧を纏った男が街灯の下、傲然として立っている。 背筋に怖気が走り、正面に壁のように立つ圧倒的な存在感に我知らず圧されそうになる。ぬくもりに満ちていた全身は再び冷えていき、逆に脳裏には灼熱するような熱が滾ってきた。 あれはキケンだ。 あれは決して遭ってはならない者だ。 だがしかし、遭遇してしまったからには―― 「……シ、ロウ」 強く、強くその手を握り締める。重ねた手のひらを強く押しつけ、指先を指先に強く絡めて。 手のひらと指先一本まで、そのぬくもりを忘れないように。 シロウを、決して忘れないように。 戦う前から負けるつもりなどない。でもあれは、絶対的な死そのものであり、今の私には抗うことすら許されないだろう。私に残された先は、目の前の男に敗北し、引き倒され穢される。そのような未来しか見ることができない。 ならばせめて、シロウを守る。 主を守ることが私に課せられた第一の義務であり、今の私自身の……第一の願いでもある。 ――シロウは、必ず。 そっと、指先を解いて手のひらを離す。……ぬくもりが少しずつ失われていく。 だがこの身体に宿った熱は決して失われず―― 私は、最古の英雄王と対峙した。 あとがき 原作本編からワンシーンを抜き出して書いた短編です。 単純にあのシーンのセイバーを書いてみたかったので書きました。そしたらこうなりました。 公開するかさんざん悩んだんですが……とある方に相談して、ちょっと見てもらって、公開することにしました。いろいろとアドバイスも貰えましたしね。 というわけで、この場にて感謝を。 本当にありがとうございます。よろしければ、またお願いしますね。 感想、ご意見などございましたらこちら、もしくはBBSまでよろしくお願いします。 二次創作TOPにモドル |