シロウはいつだって唐突だ。

「ほらセイバー、包丁はこうやって握ってだな、切る時は押すんじゃなくて、引いて切るんだ」
「は、はい……」

 確かに料理の仕方を教えてほしいと頼んだのは私だ。
 最初から凛や桜に対抗し得る実力を身につけられるとは思っていなかったが、それでも、叶うならばいつかシロウに私の作った食事を饗することが出来たなら、どれだけ素晴らしいだろうかと夢想したのも私だ。
 早く起きて、その時間に教授を願ったのも――もしかしたら二人だけになれるのではないかと、そう思ったのも事実ではある。

 ――だが、いったい誰が料理をしているときに後ろから抱きしめられるなど予想できるというのだ。

 こんなもの、直感Aのスキルを持っていたとしてもわかるものではない。
 いや、真実は別に抱きしめられているというわけではなく、少なくともシロウにその意識はない。そうでなければ彼がこのような行動にでられるはずもない。ただ、包丁の扱い方について教授を頼んだ私の願いに彼が応えているだけだ。
 背後から重なるようにして、包丁を握ると私の右手と、トマトを持つ私に左手に自分の手を重ねている。そうして私の手を使って、彼は包丁を使っている。道具の使い方を身体で覚えさせるというのであれば、これは実に効率のいい方法だろう。

 ――そう、これはただ料理の練習をしているだけ。それだけなのだ。

 ただそれだけで、私はそちらに集中して料理の仕方を覚えなくてはいけないのに、どうしても手のひらのぬくもりや、背中に当たるシロウの胸板に意識が集中してしまう。ともすれば、このまま背中をシロウに預けて、もたれてしまいたいと思う自分がいる。

 そう思うたびに私は慌てて自分を克己して、必死にその想いを押さえ込む。シロウは真剣に、私の頼みに応えようとしているのだ。だというのに、私自身が自分の欲望に――望むことに溺れてどうするというのか。それは彼に対して失礼というものである。
 だから私は、私の手を導くシロウの手に、そして私を教えるシロウの声に集中しなくてはいけない。
 手のひらから伝わってくる彼のぬくもりや、頬に触れる吐息など、意識の外に捨てておけばいいのです。


 ……私にいったいどうしろというのですか、シロウ。


 わざとですか? わざとやって私を苛めているのですか? 私の気持ちを知ってこのようなことをしているなら、貴方は凛にも匹敵するひどいひとだ。
 だいたい意識するなというほうが無理というものです。

「ほらな、セイバー。押して切るとトマトの中身がつぶれちゃうだろ、刃物は――ってこんなこと、セイバーには言うまでもないかもしれないんだけどさ、刃物は刃を当てて引けば切れるようにできてるんだから、別に力なんていらないんだ」
「はい……わかります、シロウ」

 貴方の手が包むように私の手を握り締めているのも。
 貴方の横顔が私のすぐ隣にあるのも。
 私の頬がこれ以上ないほどに紅潮して、身体中が熱を帯びているのも――。

 シロウ、貴方にはわかりませんか?

 私がこんなにも……女として悦びを感じているのが貴方にはわかりませんか……?

「シロウ――」
「ん? どう……したんだ?」

 緊張していた力を抜いてシロウにもたれかかる。背中に感じる彼の体温はひどく心地よくて、ともすればこのまま眠ってしまえそうなほどだ。

「お、おい……セイバー?」

 私はシロウの呼びかけにも答えず、ただ自分の身を彼に預けた。
 これだけで私は十分幸せで、今はこれ以上のことなど望むべくもなかった。だがシロウは――

「……セイバー」

 ――シロウは、ゆっくりと重ねていた手のひらを外し、私を、



「あんたら……人が目を離したからって、なに朝っぱらからいちゃついてんのよ」



 私を抱きしめることなく宙をさ迷わせながら、寝起きで機嫌も悪くやぶ睨みで睨んでくる凛に必死で命乞いしていた。





ユメの家族計画
〜 前編 〜





「セイバーの戸籍?」
「そ」

 朝の食卓の席で、凛は唐突にそんなことを言った。

「シロウ、戸籍というのはなんですか?」
「ああ、戸籍っていうのはだな、国や市に出す自分自身の存在証明書みたいなもんだ。自分はこの街に住んでいますよ、って」
「なるほど……それがあるとどうなるのでしょう」
「いざってときに国や市の援助を受けられるのと、あとは結婚するときとかにも戸籍がないとちゃんと籍は入れられないな。まあ、国に自分の居場所を知らせてしまうわけだから、税金払えってうるさく言われるようにもなるわけだけど、基本的にはちゃんと持っていたほうがいいものだよな」
「ま、それはそうよね」

 シロウの言葉に頷きながら、トマトを口に放り込む凛。それが少し歪な形をしているのは私が切ったせいだろう。

「それで遠坂、セイバーの戸籍を取るのはいいんだが、名前とかどうしたんだよ。それにセイバーは元々この国の人間じゃないんだし、国籍とかは……」
「ああ、国籍だとかその辺は教会のお爺ちゃんにお任せしたら、あっさり用意してくれたわよ。あの人、どこにそんなパイプ持ってるのかしらね」

 教会の……ああ、あの御老人ならば少々のことでも笑いながら何とかしてしまいそうな雰囲気がある。
 聖杯戦争の後、あの言峰神父の後を継ぐ形で派遣されてきた御老人は、彼とは違い裏表のない非常に人のよい御仁だった。とはいってもやはり聖堂教会に属する人物なのだから一筋縄ではいかないのだろうが、少なくとも私たちに対して表立った敵意はない。それどころか、シロウや凛だけでなく、サーヴァントである私にも良くしてくれて、初めてお会いしたときなどお饅頭を頂いてしまった。
 なんでも和菓子作りが趣味らしく、そのお饅頭は非常に美味しかった。ええ、そのことだけでも彼が悪い人間ではないと証明できるでしょう。
 美味しい食べ物を作る人に、悪い人はいません。シロウ然り、桜もまた然り。そして凛もまた同様だ。

「とにかく、これで今日からセイバーも正式にウチの子になったわけだから、そこんところの自覚はキッチリしといてね」
「はあ……」

 と、言われてもいまいちぴんとこない。自覚を持てと言われても、そもそも私は自分がサーヴァントであるという自覚は持っているつもりだ。
 この身は凛の使い魔、サーヴァントであり、同時にエミヤシロウを護り、彼の敵を討つ剣。

「凛、私は私の立場をきちんと自覚しています。それとも凛は私が己を弁えていないとでも?」
「あんた……さっきアレだけのことしといてよくそんなこと言えるわね。ある意味すごいわよ」

 だったら褒めてください。

「それじゃセイバー、これが今日からの貴女のこの国における正式な名前、そして正式な立場というヤツよ」

 はい、と渡された一枚の紙。隣にいたシロウも覗き込むようにして、戸籍謄本と題されたその紙に書かれている言葉を目で追った。



養父 遠坂士郎
養母 遠坂凛
幼女養女 遠坂背胃馬




 ――ぐしゃり、とその紙は私の手の中で握りつぶされた。

「……凛、これはいったい?」
「だから、これが貴女のこれからの名前で立場よ。さっきからそう言ってるじゃない。それともセイバー、あなた私が三日三晩夜なべして考えた名前に文句でもあるのかしら?」
「ああ、成る程。どーりで最近の遠坂はいつも以上に朝の機嫌が悪かったわけだ」
「ふ……サーヴァントのために睡眠時間を削ってまでこの時代での真名を考える……まさにマスターの鑑ね」

 真名!? ということは私の真名はこれから『背胃馬』ですか!? しかもよりによって『遠坂』ですか!

「というか、養母が凛で養父がシロウというのはいったいどういうことですか!?」
「ああ、そういえばなんか俺、婿養子になってる?」

 そんなシロウ、さらりと流さないでください。貴方はそれでいいというのですか? いえ、よしんばシロウが良いとしても私が良くありません。ええ、認めるわけにはいきませんとも。
 シロウと家族になるのは吝かではありません。ですが、叶うのであればその、娘ではなく……。

「と、とにかく凛! これは無効です、すぐに取り消していただきたい!」
「取り消せって言われても……もう郵便屋さんに出しちゃったしねぇ……。ねえセイバー、これ、そんなに嫌?」
「決まってます!」
「……なにが嫌なのよ」
「なにがって! ……それは、その」

 ちらりとシロウの顔を横目で窺う。
 くっ……私が苦しんでいるというのになんですかシロウ、その、のほほん具合は。しかもそんな興味深々な様子で、あなたまで私が羞恥に苦しむ様を見たいというのですか!?
 これが……これが大陸で言うところの四面楚歌という状況なのか。

 私はなにやらニヤニヤと楽しそうな笑みを浮かべている凛をじっと睨みながら、

「そんなの、この名前です。『背胃馬』などと……凛は真面目に考えたのですか?」
「だから言ったじゃない、三日三晩の力作よ」
「ふむ……子供が生まれても絶対に遠坂には命名権を与えられないな」
「って、ちょっと士郎、なに馬鹿なこと言ってんのよ、あんたってば……」
「そうですシロウ、馬鹿なことを言わないでください」

 それではまるで凛とシロウの間に子供が出来ると言っているようなものではないですか。凛、あなたも自分で馬鹿なこと、と言っておきながら私をそんなに激しく睨みつけるのはどうかと思うのですが。

「と、ともかくセイバー。そんなにその名前が気にいらないのなら変えてもいいわよ。……それなら、いいのよね?」

 頬を紅くしたままこほん、とひとつ咳払いして凛はそんなことを言ってきた。

「いいのよね?」
「く……」

 良いわけがない。そもそも真の問題は私の名前などではなく……シロウ……そう、シロウは何故黙っているのでしょうか。よもやシロウはこのままで良いとでも思っているのでしょうか。
 もし……もしそうだとしたら私はどうしたらいいのだろう。
 だって、こんなのってありません。ようやく私は自分の気持ちを自覚したばかりだというのに。

 私は、シロウを。

「大丈夫だよ、セイバー」

 ぽんと、私の頭に誰かが手を置いたのに顔を上げると、そこには笑顔のシロウがいた。

「シロウ?」
「平気だって、遠坂が持ってきたあの戸籍謄本、ニセモノだから」
「……は?」

 ニセモノ? ですか?

「セイバーの戸籍を登録したってのはあるいは本当かもしれないけれど、いくら遠坂だってあんな滅茶苦茶な名前にしないって」
「でも……凛ですよ?」
「ちょっとセイバー、それどういう意味?」
「それに俺だって遠坂のところの婿養子になった覚えはないからな。そもそも俺は衛宮の姓を捨てるつもりもないし」
「シロウも。さらりとわたしのこと無視しないでよ」

 凛の戯言はともかく、シロウがウソをつくとは思えない。それにシロウは自分の父親である切嗣との絆をとても大切にしている。その彼が切嗣との繋がりである『衛宮』の姓をそうそう簡単に捨てるはずはないではないか。

 ということは私は――。

「まったく士郎ってばもう、ばらしちゃうんだからなー」
「いやだって、遠坂ちょっとおまえいじめすぎ」

「……凛」
「ん?」
「……騙しましたね?」



◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆



 シロウと凛は二人で学校に行き、私はこうして商店街に買い物に来ている。
 あの後になにがあったか、詳しく語るつもりはありませんが、とにかくこれから凛の言うことはなるべく話半分で聞いたほうが良いということだけははっきりとしました。
 シロウに止められなかったら何を仕出かしていたかわからないほど取り乱した私も私ですが、凛はそれ以上に人が悪い。シロウは良く彼女のことをあくまと呼びますが、今ならば彼の言に諸手を上げて賛成するでしょう。

 まあ……済んだことはもういいでしょう。それよりも今は己に課せられた務め確実にこなすことが先決。
 出掛けにシロウから預けられたメモの内容を確認しながら歩きなれた商店街の店をひとつひとつ巡りながら歩く。そのたびに、


『ようセイバーちゃん! 今日はひとりかい?』
『あら、今日は旦那さんはどうしたんだい?』
『だめよセイバーちゃん、士郎ちゃん逃がしちゃあ〜。今時珍しいくらいの高額物件なんだから』


 等々。どうもこの商店街の人たちはいい人ばかりなのだが、私を精神的に追い詰めていく人たちも中には多くて少々困ってしまう。それでも行く先々で代金を値引いてくれるのは非常に助かるのですが。

「はい、それじゃセイバーちゃん、これお釣りだから。今度また士郎坊と一緒においでなよ。オマケしてやっから」
「ありがとうございます、御主人。しかしそのようなことをしていただくわけには……」
「なぁに、いつかセイバーちゃんと士郎坊の赤ン坊が生まれたときの御祝儀の前払いだと思いねぇ」
「なっ……! し、失礼します!」
「がははは! またおいでよ〜」

 逃げるように八百屋さんから立ち去る私の背中に御主人の豪快な笑い声が届く。

 はあ……またからかわれてしまいました。
 わかっていながら毎回毎回同じ反応を返してしまう私にも問題があるのかもしれませんが、それにしてもこの商店街の人たちは結託して私をからかっているようにしか思えないのは何故でしょう。マウント深山商店街、侮れません。


 しかし……シロウの子供ですか。男の子でも女の子でも、きっと彼に似て素直な良い子になるのでしょうね。
 親は子に似るといいますし、それにあのシロウが子供を間違った方向に育てるはずがない。だから問題があるとしたら母親になる人なのでしょうが、もしそれが凛だとしたら……。

「いや、考えるだに恐ろしい。あくまが増殖するなど、看過できる事態ではない」

 頭を振ってその想像を脳裏から追い出す。
 凛が育てる子供なのだから、きっと根は気の良い子に育つでしょう。しかし同時に彼女の悪性部分まで受け継いだとしたら、私やシロウの受ける精神的被害は今の比でありません。単純計算で二倍、下手をすれば相乗効果というのも考えなければいけない。
 それにもし娘だったとしたら、確実に母親と父親を取り合う事態に発展するでしょう。凛の娘ならば勝気で負けず嫌いで、甘え好きなのは確定事項です。

 では、桜だったらどうでしょうか――。

「……ふむ。よもやこれほどとは」

 考えてみたものの――これが全くと言って良いほどに欠点がない。
 そもそも桜は料理をはじめとして家事全般に通じ、気立ても良く控えめで、これといって欠点の見当たらない女性だ。おそらく世の男性諸氏が自らの妻に、と望む女性が誰かといえば彼女のような女性なのではないだろうか。
 そんな彼女の子供なのだから、悪い子に育つわけもない。彼女のように気立ての良い子に育つでしょう。……何だか釈然としないものも感じますが、直感Aの持ち主である私の直感なのだからそうそう大きく外れることはないと言える。

 強いて欠点を挙げるとしたならば、彼女は少々嫉妬深い面があるということでしょうか。
 凛も、そして私にも少なからずそうした面はあるものの、桜は私たちのそれより尚一層その面が強い。いつぞやシロウに凛が甘えている時、その光景を凄絶な表情で見ていたことがありました。よもや、幾たびの戦場を駆け抜けたこの身が、婦女子の嫉妬の念で戦慄を覚えるとは思ってもみなかった。
 だとすれば、彼女の場合も子供が娘であったら母親同様に嫉妬深い性格になるのでしょうか。
 その場合、やはり被害を受けるのはシロウなのでしょうね……これも些か問題がないとは言い切れません。

 ならば大河ならどうでしょうか。

「――想像できません」

 というよりは想像することを否定しているというのだろうか。
 あの大河に息子か娘が生まれて、その父親がシロウ……ありえない夢想は紡げるものではありませんね。むしろ、今でさえ大河はシロウの娘に見えるくらいだというのに。
 いや、大河はあれで母性本能というものは強いタイプと見ました。シロウも口ではいろいろというものの、姉と呼び彼女を慕っています。もしかしたら子供が出来たならば、彼女の生活態度も変わって規律正しく子供を導いていくかもしれない――

 ――やっぱり想像できませんが。


 こうしていろいろと考えてみると、シロウの周りにいる女性は誰も彼もひとつは強烈な個性を持っていて、その個性が時として子供に悪い影響を与えることもあるようですね。
 そうとなると、シロウの周りにはあまり子育てに関しては良い人材はいないようだ。それはたとえ――

「……」

 たとえ、ば。例えばだ。もし……いや、こんなことを夢想するのは本当の意味のないことだとは思うのですが――。

 私だったら、どうだろうか。

 ……
 ……
 ……
 ……
 ……

「セイバーちゃーん」
「……はっ!?」

 と、声をかけられて気づいた時には既に遅く――



 がつんっ



「セイバーちゃん、ほっぺた真っ赤にしながらうっとりするのは良いけどね。でも、せめて目は開けて、ちゃんと前見て歩きなさいよ?」
「は、はい……すいません」

 駆け寄ってきた肉屋のおばさんに頬をハンカチで拭ってもらいながら自分の不甲斐なさを噛み締める。
 情けない。自らの夢想に溺れ、前後不覚になり動かぬ電柱などにぶつかってしまうとは。

「はい、綺麗になった。それでなにを考えながら歩いてたのかしら?」
「あ、いえ。その……」

 もちろん、言えるわけがない。

「そう、内緒なのね」
「申し訳ありません……このように世話になっておきながら」
「いいのよ、そんなこと。女の子なんだからいろいろあるわよね。……それより、電柱にぶつかったくらいでそんなしょんぼりした顔しないの」
「だがしかし……あまりにもブザマだ」

 いつも買い物に来ている肉屋のおばさんは、私のその言葉に笑みを――少なくとも今の私には浮かべられない――そんな力強い笑みを浮かべて、

「良いじゃない、少しくらいブザマでみっともなくても。ね、そのくらいじゃ士郎ちゃんはなんとも思わないし、この先いくらだって取り返せるのよ。人生長いしセイバーちゃんは若いんだ、今はとにかく前だけ見て歩いてればいいの! 後悔なんて後で士郎ちゃんと一緒に、いくらだってすればいいんだからさ」

 そう言って私の背中をバンと一つ大きく叩いた。その手のひらは私と同じく小さかったけれど、とても大きく感じられた。



◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆



「おじゃまします、御主人」
「ああ、いらっしゃいセイバーちゃん」

 その店の暖簾を潜って中に入ると、途端にあんこの甘いにおいが漂ってくる。否応なしに食欲を刺激する、非常に罪深くて嬉しいにおい。
 店の御主人もいつも通りにニコニコと人のよい笑みを浮かべながら私を迎えてくれる。もうかなりのお年のはずだが、それを感じさせないほどに闊達で、私よりも小柄な身体には生気が満ち満ちている。

「いらっしゃいセイバーちゃん、今日もかわいいねぇ……おや、士郎ちゃんは今日一緒じゃないのかい?」
「ええ、シロウは今日は学校に」

 御主人の後から現れた老婦人は、少し腰が曲がってはいるものの、やはり御主人と同じく闊達なひとだ。上品で質素な藍染の着物に身を包んで、雪が降りたように白い髪を結い上げている。
 物腰も柔らかく立ち居振る舞いも上品で、若い頃は貴族階級にあったのではないかと思わせる。
 そんな彼女がどうしてこの和菓子屋にいるのかは少々不思議ではあったが、今の御主人との仲を見る限りでは、きっと彼女の選択は間違いではなかったのだろうと思う。

「ああ、ところでセイバーちゃん」
「はい、なんでしょうか」

 ショーケースに並べられた数々の和菓子のうち、今日はどれにしようかと選んでいたところで御主人に声をかけられ顔を上げる。

「今日はこれから忙しいのかい?」
「これから……ですか」

 少し考え込む。
 凛とシロウはまだ学校に行っていて帰ってこない。家を出てくる前に私に出来ることは全て終えてきたし、夕食の時間にはまだ時間がある。
 これから帰ってからシロウたちが帰ってくるまで、道場で瞑想をしていようかとも思っていたが、それもさして重要なことではないだろう。

「いえ、特に何もありませんが」
「そうかい? なら、良かったらちょっと上がっていかないかい? 実は息子夫婦が来ているんだけどね、セイバーちゃんに是非会ってみたいというんだ」
「私に……ですか?」

 何故だろうか。私とその御主人の息子殿とは何の接点もないはず。だというのに私に会いたいなどと少々不可解ではないか。

「失礼ですが御主人、それはまたいったい何故なのでしょう」
「ああ、別にたいしたことじゃないんだよ。ただね、前からセイバーちゃんのことをうちのに聞かせてやってたら、そんなに綺麗な子がいるんだったら是非一度会ってみたいってさ。まったく、奥さんがちゃんといるってのにとんだ馬鹿息子だよねぇ」
「ふむ……」

 そのような評価を他者から下されていたとは思ってもみなかったが、少なくとも悪意があっての事ではないようだ。
 御主人には普段からお世話になっていることだし、これからもきっとお世話になることだろう。このようなことで報いることが出来るとも思わないが、多少なりとも返せるのであればここは快く応じるのが道理というもの。

「承知しました御主人。このような身ではありますが、私でよろしければ」
「おお、そうかい。ありがとよセイバーちゃん」

 皺の多い顔に笑みを深くし、同時に深く頭を下げる御主人。私のような若輩者に対してもきちんと礼節を忘れない態度は好ましい。きっとシロウも長じた末はこの御老人のような気持ちの良い人物になることでしょう。
 叶うことならば、その時まで……彼が老いさらばえるその時までずっと傍にあって支えになっていたいと思う。
 そう、ちょうど御主人とともにこの和菓子屋を支えている御婦人のように。

「それじゃあセイバーちゃん、何にもなくて汚いとこだけど、とにかく上がってくれ。ああ、すぐにお菓子とお茶を出すからちょっと待っててくれよ」
「いえ、御主人、そのような気遣いは無用です」
「なに言ってんだい、みずくさい。セイバーちゃんはうちの大事なお得意さんなんだから、きちんとおもてなしするのは当然さね」

 そう言って笑う御主人に導かれて部屋に上がる。御婦人は外に出て行ったが、きっと休業中の札を出しに行ったのだろう。

「お邪魔します」

 部屋は雑然としていてシロウの家の居間よりも狭く、箪笥や本棚、テレビ台などが八畳余りの部屋に立ち並んでいる。季節も最早冬を過ぎて春だというのに、家の土蔵にあるストーブや、この間シロウから聞いたこたつという暖房器具が畳の床を占拠していた。
 天井や壁は燻されたようにくすみ、木の柱には幾つもの傷が走り、隣室とを隔てるふすまはところどころが破れている。
 御主人が自ら言った通り、お世辞にも綺麗な部屋とはいえないだろう。だが、それがひどく好ましいと感じる。

 それはきっと匂いのせいなのだろう。
 仄かに漂う和菓子の甘い匂いと、それ以上にこの部屋にあるのは御主人夫婦の優しいにおいだ。
 同様の匂いはシロウの家にも感じる。ほっとして、その匂いに包まれているだけで無条件で安心できる、そんな匂い。生活臭とでも言うのだろうか。私がこの時代に召喚され、シロウと暮らすようになってから初めて知った匂い、気持ち。

「セイバーちゃん、こいつがうちの息子の貞晴と、それから嫁さんの圭子さんだよ」

 その部屋の、こたつに足を入れていた青年と女性が立ち上がって微笑みかけてくる。それはどこか御主人の笑みと似通っていて、二人が親子なのだということをなんとなく感じさせた。

「セイバーさん、はじめまして。親父からいろいろと話し聞いてます。親父がいつもお世話になっているみたいで」
「いえ、むしろそれはこちらのほうと言うもの。御主人にはいつも迷惑をかけている」

 差し出された手を握り返し、小さく会釈してから手を離す。
 貞晴は何故か離れた手をじっと見つめ、次いで私の顔を見つめる。

「? 何か?」
「いや……親父から話には聞いてたけど、ほんとに綺麗な人だなーって」
「はぁ……」

 と、言われても私自身にはいまいちぴんとこない。
 それは女性に対しては褒め言葉なのだろうが、正直初見の彼に言われても心が動くことはない。もし、シロウに言われたのであれば……それは心も動こうというものだろうが。

 それよりも美しいというのならば、彼の妻であるという圭子のほうがよほど美しい女性だと思うのですが。
 貞晴、良いのですか? 貴方の後ろで彼女が凛を見る桜のような目つきをして睨んでいるのですが。

「あなた……わたしもセイバーさんにご挨拶したいんだけど、どいてくれるかしら?」
「はっ! ハイ……スイマセン」

 その地獄の釜の底から送られてくるような視線に敗北し、貞晴はすごすごと後ろに下がっていった。その様はまるで凛の鋭い眼光に気圧され敗北したシロウのようで、私の哀愁を誘った。
 それだけでなんとなくわかる。貞晴は良い人だ。

 そして貞晴の代わりに彼の細君である圭子が私の前に立つ。
 ――その腕に、赤子を抱きかかえて。

「はじめましてセイバーさん、先ほどは主人が失礼しました」
「いや、気にしないでほしい。それでその……そちらは?」
「あ、この子ですか? わたしたちの息子です」
「わしらの孫だよ、セイバーちゃん」

 二人から紹介された彼は、圭子の腕の中で小さく寝息を立てている。
 本当に、何もかもがとても小さく、それでもその小さな指は一生懸命に何かを握っていて、伏したまぶたは時折震え――私は何故だかひどく感動した。



 いつだったろうか。
 それは遥かな昔。そう、私がサーヴァントとなるその更に前のこと。私は、同じように赤子の姿を見たことがある。
 その時の私は――どのように感じていただろうか、その、赤子を目にして。自分の子を見た私は――。

 モードレット。

 円卓の騎士のひとりにして裏切りの騎士。
 しかしながら私の息子であった者。私は――いまだ赤子であった頃の彼をこの腕で抱いたことがあっただろうか。
 ――そんなことすら、私は覚えていない。

 その時の私は王であった。王は人ではなかったから、人並みに子を抱くことも慈しむことも許されず、ただ国のためにその身はあった。
 それでも彼は私の子であった。私は彼の父親だった。
 だというのに私は彼についてほとんどのことを覚えていない。初めて彼を目にしたときの自分の気持ちも、彼をこの腕に抱いたことがあったかさえ。赤子だった頃の彼が……どんなであったかすら、脳裏に浮かばないのだ。
 しかし、長じて剣を振るい、一介の騎士として円卓の座についた騎士モードレットとしての彼のことは良く覚えている。

 ――ただ、一点。

 多くの騎士の骸で覆われたあのカムランの戦場で――。



「セイバーさん?」

 呼ばれて我に返る。
 目の前にいるのはモードレットではなく、貞晴と圭子の息子である赤子がいつの間にか自分の親指を咥えてしゃぶっていた。

「この子、もうすぐ一歳になるのにまだおしゃぶりする癖が抜けないのよね……甘えん坊の子にならないかちょっとだけ心配」
「そう……なのですか」
「ああ、そうだ。セイバーさん、うちの息子、抱いてみます?」
「えっ?」

 圭子の後ろから貞晴が、突然そんなことを言ってきた。

 ――この子を、私が。

「……いえ、遠慮しておきます、貞晴」
「? なんで?」
「私にはその資格がない――深くは聞かないでほしい。ただ、私には出来ないのです」

 出来ないというより……その勇気がないのだ。
 ただ、怖かった。この子を抱いた瞬間、かつて感じたかもしれないぬくもりが蘇ってきてしまいそうで。

 この身は罪の穢れに満ちていると――そう、赤子に聞かされてしまいそうで、私は怖かった。



◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆



「む、そろそろ時間ですね」

 火の入っていないこたつに足を入れ、御主人の出してくれた特製の大判焼きに舌鼓を打ちながら話をしていたら、いつの間にか外から入り込んでくる日の光が橙色のそれに塗り変わっていた。
 見れば時計の針もかなり傾いていて、そろそろシロウたちが帰ってくる頃になっている。

「御主人、申し訳ないのですが、今日はそろそろ失礼させていただきます」
「ああ、もうそんな時間かい。すまないね、セイバーちゃん。こんな長いこと引き止めちゃって」
「いえ、そのようなことはありません。今日は私も楽しかった。よろしければ今度また、このような場に預かりたいものです」
「セイバーちゃんさえよければうちはいつでも大歓迎だよ。そうだね、今度は士郎ちゃんも連れておいで」
「はい……ありがとう」

 互いに微笑み合って席を立ち、御主人以下に送られて外に出る。
 商店街は日の色に染め上げられて様相をがらりと変え、足元から伸びる影は黒く長く、隣家の塀に当たって立ち上がっている。
 赤く燃える太陽は既に新都の巨大な建物の中にその身を埋没させ、漏れてくる光は矢のように私を射し、その光を背で受ける建物は巨大な影を風景の中に浮き立たせていた。

「もう既にシロウは帰っているかもしれませんね」

 だとしたらなるべく早く帰らないといけない。
 シロウのことだから、私がいないときっと心配するでしょう。以前も少し私用で外出していたところ、帰っても私がいないことに気づいたシロウはわざわざ私を捜しに新都にまで赴いたとのことでした。心配してくれるのはありがたいが、少しシロウは過保護だと思う。

「ああ、ちょっと待ったセイバーさん」

 そう思い、挨拶をして帰ろうとした私に貞晴が声をかけてきた。

「なんでしょうか?」
「うん、実はね。今日、セイバーさんに会いたかったのは、ちょっと頼みたいことがあったからなんだよ。まあ……すっかり忘れちまってたんだけど」
「頼み……ですか?」

 そう言って貞晴が差し出した紙を受け取り聞き返す。

「ああ、セイバーさん、もし君が良かったらなんだけど……ちょっとアルバイトしてみる気はないかな?」
「あるばいと……ですか」

 アルバイトというのは確か、シロウがいつも糧を得るために行っている労働のことだったはず。
 渡された紙に目を落とすと、そこには『チャペルウェディング冬木』と書いてあった。





あとがき

 やっべ、すっげえ恥ずかしいです。なにがって冒頭シーン。初っ端からあはーんな展開はアレですねぇ(なんだよ
 しかし書きながら時折セイバーの口調が侍になってしまいそうになるのはどうしたものか。「ありがとう」というセリフの部分をうっかりすると「かたじけない」と書いてしまいそうになる。むぅ。

 というわけで拙作『おかしなユメ』の続編です。
 前回以上にますますセイバーさんが難しいです。先に書いたござる口調になりそう、というのもそうなんですけど、なんというのか、彼女のギリギリのポイントが掴めません。これ以上はっちゃけたらセイバーらしくなくなる、とかそういうの。
 ……意味不明ですね。

 ともあれ続きは後編で。多分、というよりプロット上では確実に前編より長いです。はふん。


感想、ご意見などございましたらこちら、もしくはBBSまでよろしくお願いします。

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