光もなく、僅かな光苔のような何かの、ぼんやりとした色にのみ照らされた空洞が――



 ――絶対的な黒色と白色で染まる。



 此方より黒の剣閃。
 彼方より神獣の嘶き。

 膨大な魔力の本流が渦を巻き、岩盤を捲り、薄い空気を焼いてただ互いを射貫かんとして放たれる。
 神話の時代、幾たびか繰り返された光景が、神の去った時代に、見る者とて無い暗い地の底で他ならぬ神話の時代の英霊の手によって出現する。

 されど。

 神の激突に比肩し得る戦いに介入し、決着をつけたのは、他ならぬこの時代の人の手による、神話の時代の宝具であった。







 失った意識がほんの僅かに戻ってきたその瞬間、どん、と私の身体に何かが圧し掛かった。私の動きを押さえ込むかのように腹に馬乗りになっている。
 温もりを持った重み。生々しい生き物の感触のそれは、人の身体なのだと、ぼんやりとした頭で理解していた。

 渾身の一撃を大英雄の盾で防がれ、私はライダーの宝具に敗北した。
 いや、むしろライダーの騎英の手綱ベルレフォーンにではなく、人の身によって成された熾天覆う七つの円冠ロー・アイアスに破れたと言っても良いだろう。何故ならその盾が私の約束された勝利の剣エクスカリバーを防いでみせなければ、今頃ライダーの肉体は跡形も無く散っていたであろうから。
 盾によって護られたライダーは、その全力を使い切るも私を打ち倒し、そして私はこうして無防備に敵の前に己を晒している。
 それは決して致命傷を負うような敗北ではなかったが、致命的な敗北であることには間違いが無い。何より、今私の命はこうして圧し掛かっている人物の手の内にあり、最早風前の灯であったのだから。


 ――誰だろうか。


 いまだ意識のはっきりしない頭で、どこかその懐かしい温もりの持ち主のことを思う。
 三つの宝具がぶつかり合った時に生じた光で目を焼かれたのか、意識だけでなく、視界すらはっきりとせず、白一色の世界にその人物の輪郭すら見て取ることは出来ない。
 今の私に知れるのは背中に当たるごつごつとした岩の感触と、圧し掛かる温もり、全身を浸す闇の冷たさ。
 耳すらも壊れてしまったか、聞こえるのは痛いほどの静寂だけで、肝心の目はまだ白を映すのみで何も捉えてはくれない。
 今の私は、知りたいことを知る自由すら、持ち合わせてはいない。


 ――誰、なのだろう。


 だが、それでももう一度同じことを思う。
 徐々に失った音が戻ってきているのか、耳には静寂の無音ではなく、そこにいる誰かの息遣いを聞き取れるようになった。
 低く、止めたように細い、その息遣い。
 それは胸の中に何かが詰まって、息をすることさえ許されていないからなのだと――漠然と理解できた。

 その誰かの吐息が、ようやく溜まったモノを吐き出すように、漏れた。

「――セイ、バー」

 苦しげで、囁くように細い声で、それを聞く私の耳は壊れかけだったが、その声は確かに私に届いた。
 聞き覚えのある声だった。
 この声を聞くのはとても懐かしいような気がする。これまでに何度もその声を聞いていたが、私はその声をとても懐かしいと感じている。

「ぁ――シロ、ウ――?」

 考えてみれば当たりまえだった。そのようなことにも気づかぬとは、本当に私は壊れてしまったのか。
 ライダーともうひとり、私と敵対し、大英雄の盾を現界させて私を破ったのは他ならない彼だったのだから。



 エミヤシロウ。

 かつて私が剣を捧げた、マスターであった少年――。








残滓









 彼と出会ったのは空に月が輝く、夜のことだった。
 かつて私が僅かな時を過ごした蔵の中で、彼は私を見上げ、私は彼を見下ろしていた。

 そうして、彼は私のマスターになった。

 聖杯戦争。望めば何をも叶えるという杯を巡って争う、人と、人ならぬ英霊の殺し合いの宴。
 エミヤシロウはわけもわからないまま、ただ、無関係な誰かが犠牲になるのは許せないと――そんな理由でその殺し合いに飛び込んだ。聖杯などというモノなど要らないと。ただ他の誰かのためだけに、自分を犠牲にするような戦いに身を晒した。

 そんな彼の在り方はひどく歪だった。

 他の誰かのためならば、自分の命など厭わない。そしてそこになんの打算も無い。
 彼は私を護るためと、本来ならば護られる立場であるはずなのに、私を庇ってバーサーカーの剛剣の前に自分を晒したことすらあった。

 ――正義の味方。

 それが彼のなりたいモノだった。
 正義などという、人によって定義の変わるひどく曖昧なもののために命を懸けた。自分の正義――誰かの笑顔――そのためだけに。
 彼のそんな生き方はひどく歪で愚かで、その願いは辿り着けない高みにあるものだった。人の身では到底達しえぬ願いはしばしば人を滅ぼす。シロウもあるいはそのことを理解していたかもしれない。だが彼の理性はそれを受け入れていなかった。
 何故なら、彼の理性――行動の判断基準において、自分自身の優先順位はひどく低いものだったから。

 だが、それ故に彼の人となりは好ましくあった。彼の歪な在り方に危うさを感じることはあっても、彼自身を疎ましく感じることはなかった。
 誰に対しても、相手をまず一番に考える彼のことを心底から嫌うような人間はいないだろう。
 そんな彼だったから、大河も桜も、それにおそらく凛も、彼に惹きつけられたのだろう。

 かくいう私も彼のことはとても好ましく思っていた。
 私を普通の女と扱うのは、忘れ去った何かを思い起こすようで少々困ったが、彼と共にあって過ごした日常はとてもあたたかだった。
 彼と過ごしたあの屋敷。あそこにだけは――彼が目指していた誰もが笑っていられる世界が確かに存在していた。



 叶うことならば、彼をマスターとし、彼のサーヴァントとして最後まで彼の隣で戦いたかった。
 彼と共にいることはひどく心地が良く、あの世界には求めたぬくもりがあった。
 だがそれは叶わなかった。結果として私は彼のサーヴァントではなくなり、あまつさえ彼を脅かす存在に成り下がった。

 全てはあの夜。
 夜の闇より尚暗い、聖杯の影に飲み込まれたあの夜に――全ての運命は反転した。





 私は、あの影に殺された。
 ――否。喰らい尽くされ、陵辱し尽くされた。

 私の精神こころはひとつひとつこそげ落とすように削られ、削られた欠片は飲み込まれ――そうしてじわじわといたぶるように、その意思は私を埋め尽くした。

 痛みは無かった。苦しみも無く、犯されることへの屈辱すら飲み込まれて何も感じなかった。
 ただ、最期に――

 『私』が消えてしまうその瞬間に、シロウのことだけを強く想った。



 それから私はシロウの敵となった。


 アインツベルンの森で、変わり果てた姿で再会し。
 連れ去られるイリヤスフィールを追おうとする彼を捩じ伏せ。
 バーサーカーを打ち倒すために人であることを捨てた彼の前に立ち。
 そして尚、愛する少女を求める彼の最後の壁として前に立った。


 幾度も――闇に犯されたこの身とこの心は、かつて剣を捧げた彼に対し、魔剣と化した聖剣の切っ先を自らの意思で突きつけた。
 そのたびに彼はどれだけ苦しんだろうか。
 自惚れでなければ――この私ですらもかけがえのないひとりとして受け入れてくれた彼は……きっと、私を憎むよりも悲しいと感じてくれた。

 そして桜のこと――。

 シロウにとっては日常の象徴であり、唯一と想う彼の愛する少女。
 私を殺した影は、彼女の力が暴走したモノだった。
 その影は私をそうしたように、多くの無辜の人を喰らい、取り込んだ。彼ら彼女らの日常を侵略し、その笑顔を永遠に喰らい尽くした。
 エミヤシロウの正義からすれば、それは絶対的に倒すべき存在であった。

 シロウがそれを知ってどんな決断を下したのかはわからない。だが、こうしてまだ彼女が生きていることを考えれば、結論はひとつだろう。
 自分よりも大切と願う、多くの人々の命を――たったひとりの少女、しかも自分にとってのみ大切な少女のために切り捨てた。

 その時に、正義の味方を目指したエミヤシロウは、間桐桜ただひとりを望むエミヤシロウによって惨殺された。


 私はシロウを護ることが出来なかった。
 それだけでなく、彼の苦しみの一因となり、幾度も彼を脅かした。
 かつて聖杯から零れ英雄王を飲み込み、切嗣を呪い殺した闇には抗えなかった。

 『この世全ての悪』

 反英雄アンリ・マユの闇は、私を飲み込みたちどころに闇の色に染めきった。
 その絶対的な負の感情の前には、私の誓いなど、圧倒的な河の流れに押し流される水面の木の葉のようなものでしかなかったのだと思い知った。





 ――視力が徐々に戻ってくる。

 私を見下ろすシロウの輪郭、赤茶けた髪の色、小柄な身体……懐かしいエミヤシロウ。

 ――視力が回復した。

 苦しげに歪む表情、揺れる瞳の影、噛み千切らんばかりに歯を食いしばり……腕を頭上に振り上げている。
 その手には、強い魔力を帯びた短剣を握り締めている。
 それで私は唐突に理解した。

 ――ああ、私はここでシロウに殺されるのだ。

 当然のことだろう。今の私と彼は敵同士だ。
 私にとってエミヤシロウとは殺すべき敵であり、エミヤシロウにとっても私は排除すべき障害だ。
 この暗い地の底で私たちは出会い、そして戦ってシロウが勝利した。で、あれば彼は当然私を殺してしかるべきだ。

 だというのに……何故彼はまだ、私を殺さないのだろう。

 シロウは苦しんでいる。
 それはわかるのだ。彼のような人が一度でも心を通わせた私を殺すことなど、苦しみを伴わずできるはずがない。
 が、しかし、同時にエミヤシロウは強い人だ。
 桜を救うと――彼がそう決めたのであれば、たとえ何が障害となって存在しようと、全て退けて成し遂げるはずだ。現に人の身でありながら、ライダーの助けもあったとはいえ、全力現界しているこの私を打ち破ってみせたのだから。
 だから彼は、私を殺すことが出来る――いや、殺さなくてはいけない。



 そうでなければ……私が貴方を殺してしまう。



 意識が徐々に戻ってきている。ライダーの宝具に撃たれ、一度は意識を失った闇が自分を取り戻してきている。
 ひたひたと。
 まるで冷たい水に浸っているかのように、足の先から全身に闇が沁み込んで来ている。乾いた布が水を吸い込むような容易さで、この身体は足元の闇の侵食を、自分自身に受け入れている。
 いずれこのままでは……闇の冷たさは、触れているシロウから伝わるぬくもりさえも奪いつくしてしまうだろう。この闇は私の精神こころをも塗りつぶす。
 そうなれば私はシロウを殺してしまう。冷たい心のまま、そのことに何も感じず、まるでそれが当然であるかのように。



 私には……シロウを殺せない。



 だってそうだ。私はシロウを護ると誓った。
 あの月明かりの下で、彼の剣となり彼の敵を討ち滅ぼすと誓ったのだ。

 私の剣は――彼を殺すためのものではない。

 もう二度と、彼に剣を向けるような真似はしたくない。彼のぬくもりを捨て去るような真似はしたくない。
 それと引き換えられるならば、この命とて差し出そう。むしろ、それがシロウの手であるならばこれに勝ることは無い。この身は既に滅びた身だ。シロウを失わずにいられるのであらば、もはやなんの未練があろうか。
 シロウが私を殺す――それが彼にとってどれだけ残酷なことでも、彼が生きていられるのであれば。
 私が、彼を殺さずに済むのであれば――。



「――、あ」

 そうつぶやいた彼の声に意味はあったのか。その心中にどんな想いが渦巻いているのか。わからないけれど、ただ、わかるのは彼が苦しんでいるということ。シロウだってここで私を殺さなくてはいけないとわかっている。そうでなければ私に殺されるとわかっている。

「あ――、あ」

 音を失っていた耳も、色を失っていた瞳も元に戻り、後は意識が戻るだけ。
 そうなれば私は彼を殺してしまう。

 だからシロウ、私を早く殺してください。



 闇に飲み込まれた私を殺して――まだ『私』の残滓があるうちに。
 残滓が、闇に飲み込まれる前に……貴方への最期の想いだけで残った『私』が殺されてしまう前に。
 私がまだ『私』でいられるうちに。
 貴方を殺してまで得られる偽りの生など要らない。この場で『私』として死なせてください。





「――」

 シロウ、私は貴方に何もしてあげられなかった。
 シロウ、私は貴方にたくさんのものをもらった。
 シロウ、私は貴方を護ることができなかった。
 シロウ、私は貴方への想いで残ることができた。

 私は貴方に何一つ残せず、ただ贖えない罪だけを貴方に押しつけて消えていく。

 だからせめて、己に誓ったことだけは果たしてみせます。
 私がまだ私でいられるならば、その誓いはまだ失われていない。
 貴方を護る。貴方を死なせたりしない。
 貴方の敵を――貴方を脅かす、闇に飲まれた私自身を――。


 早く私を――
 ――私が、自分の闇を抑えていられる間に。

 早く私を――
 ――私が、貴方に憎しみを抱いてしまう前に。

 早く私を――
 ――早く私に……刃をください。


 シロウ、ごめんなさい。

     シロウ、ありがとう。

 シロウ、私は貴方を。

     シロウ、私は貴方を。

 貴方を護りたい。

     貴方は邪魔です。

 シロウ、早く。

     シロウ、消さなくては。

 シロウ、貴方と一緒に――。

     シロウ、貴方を殺さなくては。


 ああ、シロウ……寒くなってきました。この闇は冷たくて心地よい。
 シロウ、貴方のぬくもりが消えてしまう。私が……消えてしまう。
 このぬくもりが――貴方のぬくもりが消えてしまう前に――このぬくもりを、貴方を抱いたまま、私は――私を――。


 ああ……シロウ。貴方はほんとうに――あたたかいのですね。


 ――シロウ。

 ――シロウ。

 ――シロウ。

 ――シロウ。

 ――シロウ。

 ――シロ




































 全てが消えた後に残滓は無く。

 ただひと欠片の想いだけが果たされて――。





あとがき

 私にしては珍しくシリアスで、救いのないラスト。
 今回は容赦なく、原作の流れです。原作プレイの時から、このシーンはひどく心に残っていました。
 正ルートではなく、バッドエンドであるファム・ファタールに通じるシーンが、です。

 言うまでも無く、セイバーのセリフ。
 あのセリフの存在の意味に対しての独自の解釈……というか、妄想・願望に近いのがこれです。
 そう意味では、これを書いた私自身にとってはこの話にも救いがあったのかな、とも思っています。


感想、ご意見などございましたらこちら、もしくはBBSまでよろしくお願いします。

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