遥かな昔、聖剣を携えた偉大な王が治めた国が終焉の時を迎えた。
 国が滅びた後ブリテンの地は俄に乱れ、野党化した集団が各地で散発した。

 その村も、そんな時代に災禍に見舞われたはずの村の一つだった。
 ひどく小さな村で、まともな武器もなく男たちの数も少ない。小なりとはいえ武装した屈強な荒くれ共の集団と争うことなどできるはずもなかった。
 そもそも備える暇すらなかったのだ。何もかもが突然だったから。
 いつものように村人たちが起きてきて、ささやかな朝食の支度をしているところに突然現れた野党の集団。最初にその姿を認めた少年は、村の中に雪崩込んできた馬の群れに跳ね飛ばされて地面を転がった。
 少年は痛みに身を竦ませながら必死に声を張り上げた。少年は天涯孤独で家族はいなかったが、小さな村では村人全員が家族のようなものだった。
 だから逃げろと叫んだ。少年は声の大きさには少し自信があったが、しかし雷鳴のごとく響く馬蹄の前では蚊が鳴くのに等しい。
 それでも少年は声をあげた。血の味を噛み締め、ひきつり痛む喉を無視して声を限りに叫ぶ。

 叫んで、自分を突き飛ばして先頭を駆けて行った男を睨みつけた時には――その首は既に宙に飛んでいた。

 足を止めた集団の前には、一人の男が立っているようだった。
 馬蹄が起こした土煙と人影とに阻まれて良く見えないが、背の高い男が剣を携えて立っている。剣の切っ先からは何かが零れて、地面と繋がっていた。
 誰がどう見ても、首を飛ばしたのはその男であった。

 後はあっという間――。
 一人目の首が飛んだ後、激昂した二人が男に同時に襲いかかり、二人同時に殺された。
 次は四人。これは二つ呼吸する間に地面に転がり、一つの血だまりを作った――かと思えば、男は今しがた殺した相手から槍を奪い、一突きで九人を貫いていた。気がつけば二十人以上いた荒くれたちは数人になり、更に一人減り二人減り……とうとう全滅していた。
 朝早くから訪れた災難は、結局少年の擦り傷と打撲だけという被害で終わってしまったのだ。

 少年が見た村の救い主はまだ年若い騎士で、一見するとあれほどの立ち回りができるようには思えなかった。顔立ちも柔和で、性格もその通りに穏やかだった。背は高かったが身体つきもどちらかといえば華奢で、少年がそれまで思い描いていた英雄のイメージとはまるでかけ離れた騎士だった。
 それでも少年と、村人たちにとっては英雄以外の何者でもない。村にたった一つの犠牲もなく救ってみせた騎士は、間違いなく救い主だった。
 だから少年はそんな騎士に憧れて、旅を続ける彼について村を出て行った。

 それから十年二十年の時間が流れて、村人たちが少年と騎士のことを忘れかけた頃、ふらりと男――かつての少年――が帰ってきた。
 彼は一人で、共にいたはずの騎士の姿はどこにもなかった。
 代わりにその手は剣と約束を携えていた。


 ――今からどれくらい先のことかわからない。だが未来に、丘を越えた湖で王が復活する。その時、彼女を助けてほしい。
 ――そして必ずいるはずの、彼女を支える誰かにこの剣を渡してやってほしい。


 それが少年と騎士が交わした約束だった。約束は少年が死んでも彼の息子が受け継ぎ、息子が死んだら孫が受け継いだ。
 或いはそれは、約束と呼んだだけの呪いだったのかもしれない。
 いずれにせよ確かなのは、百年千年を経ても少年と騎士の約束は守られ続けたということだけ。

 少年にとって騎士は英雄だった。誰にも知られずとも彼は知っている。騎士は誰にも知られぬ偉業を確かに成し遂げた。
 だから騎士が振るった剣は、彼の尊き誓いがこめられた英雄の剣だった。





Day Dream/vow knight

――night 14――

『騎士の剣』






「この剣は……私が彼に授けたものなのです」

 解いた金色の髪が、風に撫でられ空にそよぐ。
 鞘から抜いた剣を目の前に掲げながらアルトリアは言った。

「騎士叙勲の時にサーの称号と共に授け、彼は私の騎士として国に仕えることを宣誓した。その時から彼は円卓の一席につき、この剣を携え、常にそばで私を守護してくれていた」

 丘を越えた湖のほとりで、木々の間から差し込む光を受けて剣は虹色の光を放っている。
 刀身に綻びはなく、千年の刻を超えても尚切っ先は鋭い。振るえば主に仇なさんとする敵を、この剣は瞬く間に葬り去るだろう。騎士叙勲のために用いられた剣というわりには飾り気が殆どない、実用一辺倒の西洋剣。
 だが、それだけだ。
 解析してみたがこの剣にそれ以上特別なものなどない。材質はただの鉄でしかないし、約束された勝利の剣エクスカリバーのように鞘が特殊なわけでもない。
 だというのにこの剣は、千と五百を超える年月を経ても尚当時の輝きを失わずにいる。いや、むしろ輝きはそれ以上なのかもしれない。
 それはとうとう仕えるべき主の元に戻ったからなのか――。

「これは、ベディヴィエール……」

 アルトリアは目を細め、剣先から柄頭まで視線を走らせて、

「貴公なのだな」

 口元に薄い笑みを浮かべ、そして何かを思い出すかのように瞳を閉じた。

「誰が知らなくとも私にはわかる。伝説などなくとも、貴公が果たした誓いはこの通り、ここにある。故にこの剣はベディヴィエール、貴公そのものだ」

 誓い――。
 そう、確かにこの剣には特別なところなど何もないかもしれない。
 だがそこにこめられた担い手の意志は今までに見た他のどの剣にも劣らぬほど強い。この湖のほとりで、王の死を看取った騎士はこの剣に己の意志をこめた。王より賜った己の騎士たる証に、必ず意志を果たすと誓ったのだ。
 そして彼は誓いを果たし、尚、主のために千の刻を越えて再び仕えた。

 ――これが、騎士の誓いってやつか。

 概念ではなく、目の前に形としてあるその凄まじいまでに意志力に俺は気圧された。
 或いはこれは敗北感というものだろうか。
 俺は果たして、アルトリアのためにここまでのことをできるだろうか。彼女を想う気持ちで劣るなどということは決してないが、だが彼のように己の意志を貫き通すことはできるだろうか。
 今、この時に至るまでの道程で、彼はいったいどれだけの苦難を打ち破っただろう。そのために捨てたものだって一つや二つではないはずだ。

 アルトリアが掲げる剣の向こう側に、見たことのない騎士の背中を幻視する。
 決して逞しいわけではないその背中がどこまでも遠い。

「――なんてこった」

 思わず口をついて頭の中身が漏れてしまった。

「シロウ?」
「ああ……いや、な。なんだって俺の前にはこうもとんでもないヤツラばっかりいるんだろうなぁ、って思ってさ」

 これで三人目だ。……俺の目の前に並んだ背中の数は。

 切嗣。
 いけすかないが、アーチャー。
 それからベディヴィエール。

 どいつもこいつも一生かかって越えられるかどうかもわからない連中で、それが三人もいる。今はまだその背中に手をかけることすらできないっていうのにだ。なんとも難儀な話だと思う。
 でもだからといって諦めるわけにはいかない。俺だってかつてアルトリアに誓ったことがある。その誓いは決して破られてはいけない絶対のものだ。
 そのためにも俺は折れるわけにはいかない。今はまだ目標でしかないこいつらを越えて、いずれはその前を歩いてみせる。
 ……とは言ったものの、だ。

「ジェリコの壁だよなぁ……せめてベルリンの壁くらいだったらいずれは崩すことだってできるんだろうけど」
「越えることができませんか? 目の前にある背中を」
「まさか。できないなんて最初から諦めちまったらそれこそ全部終わりだからな」
「その通りです。確かに道は遠く険しいかもしれない。しかし私は、シロウは彼らにも劣らないと信じています」
「……そりゃまた。信用されちまったら応えないわけにはいかないよなぁ」

 頬を掻きながら、彼女が向けてくる無比の信頼をこめた視線から逃れるように空を見上げる。
 無論、逃げるつもりなんてさらさらなくて、ただ単になんというか、照れくさいだけだ。
 見上げた頭上からは、木々の枝の間を縫ってきた太陽の光が零れて落ちてくる。まぶたに落ちて瞳を満たした光は視界を真っ白に満たし、一瞬の後に緑と白に彩られた景色を返してくれる。
 ……まぁ、なんとかなるだろう。
 根拠なんてどこにもないけれど、きっとどうにかなる。そう思えば気分だって随分と楽になってくれた。……現実逃避とかではなく、だ。

「シロウ」

 呼ぶ声に振り向くと、アルトリアが鞘に収めた剣を俺に向かって捧げていた。

「これはあなたのものです。ベディヴィエールがあなたのために遺した剣、受け継いでいただきたい。そしてこの剣を振るい、私と共にあなたの誓いを果たしてほしい。ベディヴィエールは私のためにこの剣を遺し、私を支える者――即ちシロウ、あなたを己の担い手として望んだ……叶えてやってほしい」

 ……この剣の担い手に俺、か。
 自問する。果たしてこの剣に俺は相応しいか否か。
 この剣のこめられた想い、業を継ぐことはできるだろう。彼と俺の思うところは一つだ。彼女を守るという一点において曇りは無い。
 ならば、この剣を振るえるだけの力量があるかと言われれば否だ。俺はまだ彼には遠く及ばない。
 俺がこの剣に相応しいかといえば、応とも言えるし否とも言える。だが、それ以前にもっと大事なことを見落としているような気がする。
 そもそもこの剣は誰かが受け継ぐようなものなのか?

「それは……違うような気がする」

 湧き上ってきた疑問は俺の中で形になる前に口をついて出ていた。
 思いがけないことを言われた――そんなこと言いたげに、唖然と口を開きっぱなしにしているアルトリアの表情に微笑ましいものを感じながら、思ったままのことを素直に告げる。

「ああ、やっぱりこいつは俺が持つべきじゃなくって、おまえが持つべきだろ。こいつは俺の剣じゃなくて、おまえの剣だ」
「む……しかしベディヴィエールは……」
「だってベディヴィエールはおまえのために自分の剣を遺したんだろ? だったらその力はおまえが使うのが一番正しい」

 そうだ、誰が持つに相応しいかっていったらアルトリア本人以外にいるわけないじゃないか。ベディヴィエールがあの剣にこめた想いは彼女を守ることであり、彼女の仇となる敵を切り伏せることだ。
 ならば彼女に最も近い場所――それこそ俺の手ではなく、アルトリア自身の手の中にあるほうが間違いがない。ベディヴィエール本人だって、俺なんかを担い手とするよりはアルトリアを担い手としたほうが望みに近いはずだ。
 それに千年を越えても騎士にとって仕えるべき主はただ一人。忠と剣を捧げた主は、ベディヴィエールにとってはアルトリアだけだ。たとえ器を肉体から鍛え上げた鋼の刃に変えたとしても、それが変わることなどないだろう。
 だからベディヴィエールの剣は、アルトリアが握るべきだ。
 彼女がこれから先、その刃を振るうことなどあってはほしくないし、ないはずだけれども――。

「……わかりました。では、この剣は私が担います」
「ああ、それがいい。ベディヴィエールの守護は常におまえとあるべきだからな」

 しばし目を閉じ黙考し、次に目を開いた時、彼女に迷いは無かった。
 一度収めた鞘から剣を抜き、高々と天に向けて突き上げる。切っ先から虹色の雫がこぼれ落ちて、アルトリアの髪を彩った。
 アルトリアは瞳に飛び込んでくる輝きに、しかし瞬きもせずじっと向かい合っている。無言だが、まるでそれは剣と会話しているかのようだった。


 彼女がベディヴィエールと話をしている間に俺も自分と話をしよう。
 俺があの剣を持たないと決めたもう一つの理由。それが何なのかってことだ。
 それはつまるところ単純な話で、ちょっとした意地のようなものなのかもしれないし、もしくは我侭なのかもしれない。俺は自分の剣を持っていないのに、代わりにベディヴィエールの剣を使って、それがさも自分のものであるかのように振るうのが嫌だった。
 あれはベディヴィエールのものであり、そして今の担い手は彼が守ると誓った主であるアルトリアだ。

 俺は、俺だけの剣がほしい。
 アルトリアを守り、彼女を害する敵を退け、そして自分の正義を貫ける力がほしい。

 衛宮士郎に許された唯一の武器、投影魔術。
 この目で見て取った剣を正確に再現する、特異な魔術だ。それこそ宝具ですら再現する俺の投影は、無限の剣を内包していると言っていいだろう。
 だがその剣林の中に俺だけの剣はない。全ては模倣、既にある剣を映したフェイクだ。他の誰かが揮った力を借りているに過ぎない。
 もちろん、偽物だからといって必ずしも本物に劣るわけではないことを俺は知っている。超える事はなくとも、比肩するくらいなら十分可能だし、事実聖杯戦争では投影魔術で映し出した幻想がなくては戦い抜くことだってできやしなかっただろう。
 だからわかっている。投影魔術は確かに衛宮士郎の唯一の武器であり、何よりも信頼できる力なのだと。

 でも、俺は本物を識ってしまった。
 圧倒的だった。
 こめられた想いの真っ直ぐさに魅せられ、培われた経験の重みに気圧され、積み重ねた歴史の厳しさに震えた。
 それはとても綺麗で、識った時には憧憬を抱いていた。いつか俺も、これに負けないくらいの自分だけの本物を手にしたい、と。

 だが同時に不可能であることもわかっていた。
 俺に許されているのは投影だけだ。本物ではなく、ホンモノに及ぶニセモノを幻想することしかできない。ゼロからオリジナルを作り出すことなど、それこそ半人前に成せるような業ではない。
 そう、俺にできるのは、本物という綺麗な理想を真似て自分のものとすることだけだ。

 だけどそれでも憧れた――自分だけのものに。
 脳裏におぼろげに浮かぶのはイメージ。自分の理想をこめた、この世でただ一つ、俺だけの幻想イメージ
 いつの頃からか、そのイメージは俺の中に生まれていた。だがあるのはこう在りたいという理想だけで、手に取れるような形にはなっていなかった。だから当然、手を伸ばしても届くはずがない。それでも俺は本物に憧れた。届かないとわかっていても諦めず、手を伸ばし続けていた。
 形作ることはできなくとも、想い続け、手を伸ばし続けることは俺にだってできるはずだから。


「シロウ?」
「……んっ、あ、ああ……話は終わったのか?」
「はい、おかげさまで存分に。シロウのほうはどうしたのですか? なにやら呆けていたようですが」
「ちょっと、な。考えごと」

 剣を鞘に収めて覗き込んでいたアルトリアに曖昧な答えを返しておいてひらひらと手を振る。

「気にしなくてもたいしたことじゃないって。藤ねえが大騒ぎするのと同じくらいたいしたことじゃない」
「それはそれでたいしたことのような気もしますが……でも、シロウがそう言うなら気にしないことにします」

 眼前にあったアルトリアの碧色の瞳が遠ざかる。我に返った途端、目の前にアルトリアの顔があったもんだから、少しばかりどぎまぎしていたのだが、どうやらそこまで気づかれずに済んだみたいだ。まあ、気づかれたからといって困るようなことでもないけれど。

 そういえばアルトリアは、ベディヴィエールとどんな話をしていたのだろうか。――ふと、そんなことを思った。
 ありがとうございます、と礼を言ってそれから、今後ともよろしくといったところだろうか。長々と思い出話……ってのはあんまりイメージじゃないな。
 或いはもし、俺のことなんかを話しているとしたらやっぱり――

『シロウは、とても美味しいごはんを作ってくれる人なのです』

 ――と、なるのだろうか。
 うん、なんかすごく容易く想像できてしまうあたり、もう少し自分の半人前っぷりをなんとかしなくてはと思ってしまう。
 食卓で頼りになるってだけではなく、いざって時に頼りになる……そんな男にならなくてはいかん。
 そうでなきゃ、胸を張って言ってやることなんできやしない。

「……と、そういやあいつは」

 傍から離れたアルトリアのほうを見ると、彼女は連なっている木々の中の一本に触れてそれを見上げていた。

「アルトリア、そいつがどうかしたのか?」
「……ああ、これは……私が最期を迎えた時に背を預けていた木なのです」

 呼び声に一度こちらに振り返り、また視線を戻して年輪を重ねた太い幹を撫でさする。長い間風雨に晒されてきたであろう幹からは、彼女が手を動かすたびにざりざりと、古い樹皮が粉のようにこぼれた。

「千五百年以上の昔のことなのに、まだこの彼が生きているとは思ってもいなかったので」

 アルトリアが言う彼というのは、ベディヴィエールのことではなく今彼女が触れている木のことなのだろう。
 彼女が言うことが記憶違いとかではないのであれば、彼は少なくとも樹齢千五百年を超えていることになる。

「たいしたもんだな。よくこの時代まで生きてたもんだ」
「はい、本当に。彼だけではなく、この森そのものもですが……あの頃からまるで変わっていない。……変わらぬ姿であり続ける、ただそれだけのことだが、その変わらぬということを千五百年も続けるというのは並大抵のことではない。人であろうと、自然であろうと」
「そうだな。本当にすごいことだと思うよ、俺も」

 言ってぎちりと、手のひらに食い込むほどに強く手を握り締めた。
 心底からそう思う。千五百年以上も変わらずにアルトリアのことだけを想い続け、そして遂には時代を超えて主に再び仕えた騎士のことを。
 そんな彼に俺がもし何か言うことがあるとしたら、それは一つだけだろう。
 結果として彼の剣は俺ではなく、最も相応しい人物の手に渡ったわけだけど、それでも彼は俺が自分の遺志を継ぐことを信じていてくれたのだ。
 だから、まだ俺自身は胸を張れるほどに立派な男じゃないけれど、

「……アルトリアのことは、俺に任しとけ」

 この想いだけはきっとずっと変わることはないから、彼女のことは心配しなくても大丈夫。
 俺はあんたみたいにまだ強くはないし、それどころかアルトリアよりも弱い。半人前だし遠坂にはいつもからかわれてるし、おまけに魔術師としてはイリヤよりもへっぽこで……なんか、ますます自分に自信がなくなったきたけど、でも必ずアルトリアのことは――。

「アルトリアのことだけは絶対に幸せにしてみせるから」

 今まで幸せを手にできなかった分、彼女には幸せになってもらいたいから。
 彼女の素顔はもう二度と曇ることはないし、これから先、今まで見たことのない彼女の顔をいくらでも見せてやる。俺が、そうしてみせる。
 だから安心して、俺に任せとけ。

「あ、あの……シロウ」

 と、つんと袖を引かれてそちらを見ると、何故か少し頬を上気させながらこちらを見たりあちらを見たりと、アルトリアが視線を泳がせていた。

「ど、どうしたのですか、いきなり……い、いえ! もちろん私としてはその、嬉しいのですが、ただ突然のことだったので……」
「……む」

 なるほど、つまりアルトリアが赤くなって明後日の方向を向いたりしてちらちらしているのは、照れているからなのか。
 確かにかなり唐突だったな。我ながら声に出すことはなかったかもしれない。今更だがこっちまで嬉し恥ずかしが伝染してきやがった。
 とはいえ、いきなりあんなことを言っておいて、ここで狼狽するのはあまりにカッコ悪い。あくまで平静を装うのが吉だろう。

「まあ、なんだ。決意表明ってやつだな。……そいつに」
「剣に、ですか」
「剣というよりはベディヴィエールに、だな」
「ベディヴィエールに……」

 かしゃりと小さく鞘が鳴く。

「おまえのことは俺が……ってさ」

 ごにょごにょと肝心なところは口の中で咀嚼するだけにしてごまかした。言わなくてもわかってもらえると思うのは甘えだけど、さすがに二度も三度も繰り返して言いたいことではない。

「そう、ですか」
「ん、まあ。そうなんだよ」

 アルトリアはこくりと一つ頷くと、さまよわせていた視線をしっかりと上げてこちらを見つめてきた。
 かと思ったら、

「! お、おい!?」
「シロウがそう思ってくれているのは知っていた。でもやはり、とても嬉しく思う。……ありがとう、シロウ」

 アルトリアの両の瞳が近づき、顔を俺の胸元に埋めて少しくぐもった声でそう言った。
 声と一緒に吐き出した吐息が薄いシャツ越しに肌に感じられて熱い。いつの間にか両腕はしっかりと背中に回されていて、小さな手のひらと柔らかい小柄な身体全体から体温が伝わり、目のすぐ下にある頭からは清潔なシャンプーの匂いが薫ってきていた。

「――現金な話なのですが」

 そうしたまま、アルトリアがぽつりととても小さな――風でも吹けば流されて聞き逃してしまいそうな――声でつぶやいた。

「私は今、この身が女で良かったと……思っています」
「…………」

 ――ああもう、ばかやろう。

 感情に任せてそう言いたくなったが、代わりにアルトリアの小さな頭と背中に腕を回すことで自分自身をどうにか堪えた。
 いきなりなのはまったくどっちのほうだってんだか。こんなことをこんな風に言われて参らないヤツなんているわけない。だから俺だって当然参ってしまったわけだ。そんなのは今更なんだが。
 だからまぁ、多少照れくさかろうがはっきりと言うべきことは口に出して言っておかなくちゃな。

「おまえは俺が守るから。必ず、幸せにするから」
「はい、信じています」

 はっきりと口にした言葉に、一瞬の遅滞もなく信じている、と言葉が返ってきた。
 ならばその信頼には応えなくてはいけない。かつての誓いは必ず貫く。
 アルトリアを守り、彼女を幸せにする。
 そして他の人々も守るような正義の味方になってみせる。

「私もシロウを守ります。シロウが私にとってそうであるように、私も貴方の剣なのですから」
「……ああ」

 だからだろうか。アルトリアのその言葉に頷くのに、一瞬俺は躊躇した。
 互いに互いを――それが俺たちの在り様として正しいのだとわかってはいたが、彼女が俺のために傷つくのはやっぱり嫌だった。
 アルトリアは俺の躊躇に気づいていないのか、胸に顔を埋めたままじっとしている。柔らかい彼女の髪の間に指を入れて梳くと、さらさらときめ細かな金色の砂が手のひらから零れて風に流されていく。

 ――俺って実は自惚れ屋なのかも知れないな。

 簡単にできもしないことをやってみせる言ってのけたり、少なくとも今の自分より強いアルトリアを守ると言って見せたり。しかも俺の事を守ると言ってくれるのは嬉しくても、実際に傷つくことを思うと嫌だったりするなんて、自分でも手に負えない。
 自惚れてて、たくさんのものを同時に手にしたいと願うほどに貪欲で、そのくせに半人前。
 考えれば考えるほど、自分がなんだかどうしようもない人間に思えてくる。

 けれど、わかっていても諦めたくはない。諦めるつもりなんてさらさらない。
 気持ちだけで何かができるわけじゃないけれど、今の自分の気持ちを捨ててしまったらそれこそ全てがなくなってしまう。

 今この腕の中にあるぬくもりも。そして今は届かぬ場所にある輝きも――。
 いずれ全てをこの手の内に納めたい。それは衛宮士郎という男にとって、一生涯をかけても追いかけ続ける価値のあることなのだから。



◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆



「あっ! シロウ!」
「おう、ただいま帰ったぞ」

 プレートで部屋の番号を確認し、いちおう二度三度ノックをしてからドアを開く。ベッドの上で寝転がって本を読んでいたイリヤが跳ね起きて、放り出した読みかけの本が開いたまま、重たげな音を立てて床に落ちた。

「本落ちたぞ。いいのか? 読みかけだったんじゃあ」
「別にいいわそんなの。ただの暇つぶしだもの。それよりもおかえりなさいシロウ、アルトリア」
「ああ、いい子にしてたか?」
「っもう、子ども扱いしないでよ」

 俺たちを部屋に招き入れたイリヤの頭をぐしゃぐしゃと引っ掻き回すように撫でてやると、それまでにこにこしていた彼女の頬が俄に膨らんだ。これ以上ないほどの見事な膨れっ面だったが、そんな仕草が可愛らしいのだから恐れるよりも微笑ましい。
 ……これが例えば遠坂の膨れっ面だったりしたら、また別の感想を抱いたのだろうが。

 イリヤが用意してくれた紅茶とお茶菓子を摘みながらしばし互いに情報交換。
 俺たちはまあ、ロンドンから離れていた間の出来事――というか土産話を。そしてイリヤは、このロンドン時計塔での遠坂の活躍ぶりだとかなんだとか。
 しかしイリヤが自分からお茶を淹れるなんて初めてのような気がするのだが、これがなかなかどうして。或いはこの数日間でこっそり練習でもしていたんだろうか。さすがにスコーンはどこかのお店で買ってきたもののようだけど。

「では、あなたの身体はもうすっかり大丈夫だということなのですか?」
「いちおうはね。わたしの持ってるアインツベルン秘蔵の魔道技術まで提供したんだから上手くいかなきゃ嘘だわ」
「……まて。それじゃあ、なにがいちおうなんだ?」

 少し温くなりかけた紅茶をひと口含んで舌と喉を湿らせる。自分でも眉間の辺りが緊張しているのに気がついていた。
 それはそうだろう、事はイリヤの命に関わる。上手くいったと言いながらいちおうというのがどういうことか、問いたださないわけにはいかない。イギリスくんだりまで来て、何の意味もなかっただなんてのはさすがに勘弁してほしい。
 が、意気込んでいる俺とは対象的にイリヤはしれっとしている。ミルクを垂らした紅茶に喉を鳴らし、視線は次に手をつけるスコーンへと飛んでいた。

「おい、イリヤ?」
「わかってるわ。そんなたいしたことじゃないんだから落ち着きなさい、シロウ」

 まるで年下の子供に対するかのようなイリヤの口調は、確かに不思議と大人びていた。もともと外見にそぐわずイリヤの精神は同年代の少年少女に比べれば遥かに成熟している。保有している知識だって、ひょっとすればそこら辺の大人など及びもつかないほどだ。
 けどまあ、小さな口に一生懸命スコーンを頬張っているところなんかはまだまだ年相応で、少しだけほっとする。
 子供が大人のようだなんて、そんなのは歪だ。イリヤ自身は子供扱いされるのは嫌みたいだが、背伸びして大人になろうとする必要なんてない。

「むぐ……ん、だからね、術自体はちゃんと上手くいったの。これ以上ないってくらいの完璧、新しい身体の具合も悪くないし、不安になるような点なんてどこにもない。あの魔術師、トオサカと縁があるらしいのだけど、確かにたいした魔術師だったわ……って、何よシロウ」
「い、いや。なんでもないなんでもない」

 唇の端にクローデットクリームをつけたまま、真面目な表情で話すのが微笑ましくて思わず口元が緩んでしまった。そのことを正直に言ってやらないのも少し意地が悪いとは思うが、まあたまにはいいだろう。見るとアルトリアも微妙に顔を綻ばせているし。

「それで? 完璧だったなら何も問題ないんじゃないのか?」
「うん、確かに魂の移し替え自体は問題ないの。でもね、新しい肉体に魂を移し替えるなんて無茶をして、すぐに何もかも今までどおりってわけにはいかない。例えば臓器の移植だって移し替えてすぐに今まで通りっていうわけにはいかないでしょ? まして魂なんて形のない不安定なものだもの」
「ふむ……つまり今のイリヤスフィールは、絶対安静の状態ということですか?」
「んー、そういうわけでもないんだけど、身体に魂が完全に定着してるわけじゃないから、今はとても不安定なのよ。肉体的には何の異常もないけど、魂という観点からわたしを見た場合すごく不安。ちょっとしたことで身体と魂の繋がりが切れちゃってもおかしくないわ」
「……おい、それってかなりまずいんじゃないのか!?」

 身体と魂の繋がりが切れるってことは、要するにイリヤが幽霊になっちまうってことなんじゃないだろうか。我ながら芸のない想像だとは思うが、そんなに大きく的から外れているわけじゃないだろう。
 だったらこんな風に平然としていていいわけがない。なのになんだってこいつは――!

「馬鹿ッ! そんなヤバイ状態だってんなら、起きてないで大人しくしてろ!」

 カップに手を伸ばそうとしていたイリヤの細い腕を捕まえて強引に抱き上げた。
 イリヤの小さな身体は、いつもより心なしか軽いような気がする。俺の気のせいなのかもしれないが、それでもぞっとするような不安が背筋を走る。

「きゃ……! ちょ、シロウ?」
「いいから。まったく、自分のことくらい自分で面倒見れないようじゃまだまだ子供だぞ」

 イリヤをベッドまで運んでそっと寝かせ、その上に毛布をかけてやる。
 ……って、こういう時どうすればいいんだ? 風邪とは違うから濡れタオルなんて乗せてやっても意味はないだろうし。こんな時ばかりはつくづく自分の無知が恨めしい。遠坂の講義をサボっているわけじゃないのだが、どうやら俺の頭脳は知識の吸収効率があまり良くないようなのだ。
 まあ、その辺りは遠坂が戻ってきたら詳しく聞けばいいだろう。あいつだったらきっととるべき対処をきちんと教えてくれるはずだ。

「遠坂が帰ってきたらちゃんと話しはするから、とりあえず今は寝ててくれ。……頼むからあまり心配かけてくれるなよ」

 毛布をかぶったまましばらく何やら言いたげだったイリヤだったが、やがて観念したのか大人しくなった。
 ……かと思ったのだが。

「ねえシロウ。どうしても寝てなくちゃダメなの?」
「当たりまえだろ。そんな魂と肉体の繋がりがちぎれそうだなんて時に起きてていいはずないだろう」
「ふぅん。だったら……」

 と、にやりと例の小悪魔的な笑みを満面に浮かべた。同時に覚える、もはや慣れっこになってしまった嫌な予感。

「シロウが一緒に寝てくれるんだったら寝てあげるー」
「はぁっ? な――」
「なにを馬鹿なことを言っているのです、イリヤスフィール」
「――にを、っていうか、うんまあそうだ。アルトリアの言う通りだぞイリヤ」

 それまで黙ってスコーンを頬張っていたアルトリアが、俺の言おうとしたことに先んじてくれた。
 彼女の表情はあくまで静かで平静だったが、もしかしたら焼もちなんてのを焼いてくれたのかもしれない。まあ嬉しいんだが、イリヤ相手にそれはちょっと大人気ないんじゃないかなー、と思ったのも事実だ。

「えー、なんでよー! シロウはわたしのお兄ちゃんなんだし、何も問題ないんだから良いじゃない。どうせアルトリアは旅行中シロウといちゃいちゃしたりえっちなことしてたりしたんでしょ? だったら今度はわたしの番ー!」
「そッ、それは確かに……ええい! 今はそのようなことは関係ない! とにかく寝るなら一人で寝れば良いでしょう!」
「なによけちー、どくせんきんしほういはんー! こうせいとりひきいいんかいに訴えてやるんだから!」

 意味がわかって使ってるんだかわからないが、いつのまにそんな難しい単語覚えたんだろうか。
 もはや口を出せる立場にないことを何となく自覚しつつ、ちっとも危篤には見えないイリヤと、もはや落ち着きというものを気持ち良くかなぐり捨てたアルトリアの喧々諤々口げんかをぼんやりと眺める俺。気分的にはすっかり部外者だ。けんかするのは良いけど仲良くけんかしろよ?

「だいたい行く前におばさんになるのはイヤだって言ったじゃない!」
「ま、まだなると決まったわけではありません!」
「あーっ! やっぱりヤルことやってるんじゃない! シロウのエロ!」

 って、俺かよ。そりゃせっかく二人きりなんだし……なあ。互いのスキンシップは大事だし。
 頬を膨らませて睨みつけてくるイリヤと、顔を真っ赤にして『余計なことは言うな』とばかりのアルトリアを前に、さて向いた矛先をどうかわしたものかと悩む俺。何事も無かったように話をそらそうにもこういう時に限って話題がない。
 いっそのこと身を翻し、一心不乱に逃げ出してやろうか――なんてことを考え始めたところで閉じていた扉が開き、

「……あんたら帰ってくるなり楽しそうね。外まで筒抜けよ」

 なーんて、こちらはいかにも不機嫌そうな遠坂さんが、久しぶりのご尊顔を見せてくれたのだった。



◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆



 結局のところ、イリヤは肉体的には何の問題もなく、日常生活を送る分には心配することなど何もないってことらしい。例えば  まあ、魔術師としてはもちろん歓迎すべき状態ではないらしいのだが、今の生活で魔術行使を制限されたところで、そんなのはどうでもいいことだし。魔術回路の数も減ったらしいが、そんなのはたいしたことじゃない。
 要はイリヤがこれからちゃんと、普通に生活できればそれで十分だ。それ以上は何も望まない。

「まったく、あんたは人のことになると途端に落ち着きなくすんだから。いい加減その性格直しなさい、半人前とはいえ魔術師で、あんたはわたしの弟子なんだから。弟子のあんたがミスったらわたしだって無関係じゃいられないんだから」
「う……すまん、迷惑かける」
「しかし凛、シロウのその性格は一生かけても直らないと思いますが」
「どうかーん」

 口々に言う二人に、遠坂まで「わかってるわよ、そんなこと」などと言いながらもはや表情も変えずに紅茶なんて飲んでいる。
 いやまあ、確かに俺も否定はできないんだが……そこまで諦めきった態度されるとなんか寂しいぞ。

「……さて」

 半分ほどに中身が減ったカップをソーサーに音もなく置いて、遠坂が顔を上げた。

「時計塔にレポートは提出したし、イリヤの身体も問題なし。士郎とアルトリアも二人でしっかり楽しんで来たんだろうから、これでやり残したことはもう何もないってところかしら」
「ん、まあそうだな。遠坂もお疲れさんだったな、レポート」
「まったくよ」

 腕を組み、憤懣やるかたないといった様子で鼻を鳴らしてソファに身を沈める。細身の身体を受け止めてきしりと音を上げたソファにはイリヤとアルトリアが座っていて、ちなみに俺は床にベタ座り。
 何か嫌なことでも思い出しているのか、しかめっ面になり些か乱暴に――そう、少なくとも優雅に、とは間違っても言えない――食べかけていたスコーンにがぶりと齧りついた。うん、頬張ったというよりは齧ったというほうが正しいだろう。

「……何よ。なんか言いたいことでもあるのかしら衛宮君?」
「いえ、滅相もありません。でもなんでそんなにご機嫌がよろしくないのでしょうか死匠」
「……あん?」

 びきり、とこめかみの辺りに走ったバッテンマークとドスのきいた声。目はやぶにらみになってるし、これは久しぶりにあくまさまの登場でしょうか。

「ご機嫌? よろしくないわよ全然。衛宮君とアルトリアがいちゃいちゃいちゃいちゃしてる間にこっちは塔のエラいじいさんたちにねちねちねちねち言われてましたもの。それはご機嫌だって麗しくなろうってもんですわ」
「あの、遠坂さん。口調がなんか怪しいんですけど」
「それにその、私たちは別に言うほど……」
「してたんでしょ?」
『……はい、してました』

 プレッシャーに負けた。だからといって誰も俺たちを責めることなんてできない、できないはずだ。

「おまけにくっついてきたあの猫かぶりの縦ロールは人のレポート見ていちいちけちつけてくるし……」
「ああ、ルヴィアさん。……てか、猫かぶり?」
「一見すると良家のお嬢様で物腰丁寧、成績優秀でお偉い様方の信頼も厚い完璧超人。しかしてその実態は……チッ!」
「…………」

 鋭く舌打ちする遠坂を見て、なんとなく近親憎悪、という言葉が脳裏に浮かんだがもちろん口にも表情にも出したりはしない。そんなことしたら獣じみた直観力を持つ遠坂にたちどころに補足されるのはわかりきっているからだ。
 にしても、良家の出身で物腰丁寧、成績優秀で先生の信頼が厚いって……本気でネコミミモードの遠坂と同じじゃないか。

 ちょっと想像してみる。
 遠坂が二人。挟まれている俺。

「……うわぁ」
「? なによ、どうしたのよいきなり」
「あ、いえいえ。なんでもありません」

 想像の結果、思わず呻いてしまっていたが幸いなことに今回は気づかれなかったらしい。僥倖僥倖。


「――なんにせよ、これで俺たちのここでの目的は全部果たしたってわけだよな」

 遠坂のほうでもいろいろあったらしいが、きちんとやるべきことはやっているのだし、イリヤだってこうして無事だ。
 俺とアルトリアも得がたい土産を引っさげている。
 贅沢を言うならせっかくだしロンドン市内の観光とかもしたかったところだけど、いつまでも家を空けているわけにもいかない。家を出る時に藤ねえががるがる言ってたし、家事だってずっと桜一人でやってくれているのだ。甘えっぱなしでいるわけにはいかないだろう。

「よし、それじゃ帰るか」

 口に出したら急に我が家が恋しくなってきた。イギリスで食うメシも、思ったほど悪くはなかったがやっぱりなんだかんだ言って自分の家で皆で食うメシの方が美味いし、ずっと落ち着く。

「どうせ飛行機のチケットは明日なんだし、予定通りなんだけど。……そうね、帰りましょ。いくらなんでも自分の管理する土地をを理由もなく空けっぱなしにしておくわけにもいかないし。聖杯戦争も終わったばかりでまだ少し不安定だもの」
「そうですね。私もそろそろシロウの食事が恋しくなってきましたし」

 それぞれにそれぞれの理由はあれど、一週間以上も異国にいれば過ごしなれた国と自分の家が恋しくなってくるのは同じらしい。
 何となく嬉しかった。ここにいる全員の帰る場所が同じだってことは、つまるところ家族も同然なんだと思っていいってことだよな。

「と、それじゃ帰る前に一度桜と藤ねえに連絡しておくか。何の連絡もなしじゃ驚くか暴れるかするだろうし、主に藤ねえが」

 桜によろしくね、そう声をかけてくる遠坂に手を振り返しながら、日本で帰りを待っていてくれているだろう桜と藤ねえに思いを馳せた。
 藤ねえ辺りは今頃腹をすかせているだろうか。
 桜はどうしてるかな。……藤ねえがいてくれるから平気だと思うけど――寂しがっていやしないだろうか。
 それだけが何となく、今の心配事だった。



◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆



 受話器を置いて少女は小さく、しかし熱っぽいため息を吐き出した。
 甘く、こってりとした吐息が暗く澱んだ空気に溶けて消えていく。消えていく吐息の行方を見送って、少女――間桐桜は振り返り窓の外に目を向けた。
 空は灰色。どろりととぐろを巻いた雲が空の端から端までを埋め尽くし、まるで落ちてくるのではないかと思えるほどに、低く地面に覆いかぶさっている。
 そして雨。雲から途切れなく滴る雨露が地面を叩き染みのような水溜りを作り、街の影を隠すほどに煙っている。

 桜の指が触れた窓ガラスが水滴を自らに滑らせる。ツ、と、まるで涙を流すかのように、痕を描きながら零れていく。
 不意に窓の外が眩く光った。
 伝っていく水滴と俯く少女の面が一瞬間、照らし出される。
 遅れてやってくる轟音に、窓枠がかたかたと頼りなげな音を奏でた。

「……先輩」

 少女は縋るように、彼の名を呼ぶ。
 しかしこの広い屋敷に、少女救いを求める声を聴く者は誰一人としていなかった。





あとがき

 いやぁ、まあいろいろと詰め込んだ14話でした。
 これでいちおうイギリス編はおしまいです。ルヴィアさんが登場して喜んだ方には糠喜びさせました。ホントに顔出しただけでしたとさ。
 かっとなってやった。むしゃくしゃしていた。ルヴィアだったら何でも良かった。今は反省している。


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