千年以上の昔から変わらない草原に、俺たち二人は立っていた。
 隣に立つアルトリアは、冷たい風に梳られる髪をそのままにしながら、じっと眼下に広がる草原を眺めている。
 さざめく草の波は地平線の向こう側に沈んでいく緋色に照らされて、まるで――。

 脳裏に浮かんだいつか見た光景は、今だって鮮明に思い出せる。
 それはセイバーだった彼女――アルトリアがかつて辿った記憶の光景。夢を通して見た、古い古いある日の出来事。
 冷たく感じるほどに静かなアルトリアの翠の瞳は、この草原にいったい何を見ているのだろうか。今あるがままの、紅色の草原だろうか、俺と同じかつての光景だろうか。それとも……俺の知らない、彼女だけの記憶なのだろうか。

「シロウ……」

 アルトリアが小さく俺を呼んだ。
 視線はずっと向こう側にやったまま、夢を見ているかのような声で俺を呼ぶ。だから俺は何も言わず、少しだけ彼女に身を寄せた。

「シロウ……私はかつて、ここにいました。海を越えて多くの騎士を従えて……ここは私の、最後の戦場だった」

 小さな唇から小さな声が漏れる。夕日に照らし出された彼女の横顔は息を飲むほどにきれいで、こんな時に思わず見惚れた。

「私はずっと眠っていたから、私にとってあの日のことはついこの間の出来事なのです。……この戦場で膝を屈して、騎士たちの躯を眺めていた。私は私によって死んだ彼らを見ても悲しみというものを感じていなかった。ただ終わったと――それだけを思っていた」
「そっか……」

 それを非情とは思わない。
 彼女はずっと走り続けていた。走って走って、ようやく終わりに辿りついた。
 王として己の為すべきことを為した。その小さな身体で国一つを背負い続けた。押し潰されそうな重圧に耐え続け、誰もが望み、全てを救うに足る王であろうと歯を食いしばってきた。
 なるほど――確かに結末は血に濡れた屍の山だったかもしれない。
 彼女がかつて考えたように、他の誰かが王であったならばそんな結末は迎えなかったかもしれない。

 だがそんなこと誰にわかる。彼女が王でなかったらそれこそ、もっと悲惨な現実が歴史に刻まれていたかもしれないではないか。
 アルトリアは、頑張った。
 どれだけ辛かろうと苦しかろうと、誰一人自分に味方してくれなくても、決して逃げ出さず――最後まで王である自分を、誇りを以って全うした。
 そんな彼女が最期に自分のことだけを考えていたとしても、いったいそのことを誰が責められる。

「シロウ……」

 その日から千と数百年の歳月が流れた。彼女は今、普通の少女としてこの草原に立っている。

「何故でしょう……あの時は、何も、感じなかったというのに……」
「……アルトリア」

 小さく、それとわからないくらいに身体を震わせる彼女を背中から強く抱きしめる。
 千年以上たって、ようやく普通の女の子として泣くことができたアルトリアの弱い心を護れるように。



 目の前に広がるのは紅に染まった何もない草原。
 だがかつて、この何もない草原で、幾万の騎士たちが互いの誇りをかけて剣を交えた戦いがあった。
 ウェールズ年代記において、西暦五二〇年頃にあったとされるカムランの戦い――伝説に残るアーサー王の、それが最後の戦いだった。





Day Dream/vow knight

――night 13――

『アルトリア』






 イギリスでも、アーサー王伝説が残る街といえばウィンチェスター、ティンタジェル、グラストンベリだろう。
 ウィンチェスターには多くの騎士が集い囲んだと云う円卓が掲げられ、ティンタジェルはアーサー王生誕の地として伝えられている。アーサー王の墓が発見されたとされるグラストンベリなどでは、思わず二人揃って顔を見合わせて苦笑を浮かべてしまった。

「まさかこの目で自分の墓を見ることになろうとは思っても見ませんでした」
「だな。こんなのタイムスリップなSFの世界の中のことだけだと思ってたのにさ」
「た、たいむすり……?」

 などと、軽口を言い合っていた。
 アーサー王の伝説が残る街といっても、その伝説は信憑性に乏しく、それらしいものがあるとか誰それによると、などといった頼りない伝説でしかない。結局、現代を生きる街の人々のほとんどにとっては観光名所としての価値が大半を占めるのみだ。
 実際問題のところ、伝説の中で主人公として生きたアルトリアによれば、これら伝説の地は事実として概ね間違ってはいないとのことだ。ただそれを言ったところで信じる人間など、俺をはじめとした事情を知るごく近しい人間だけしかいない。

「もちろんあの円卓は偽物ですし、墓の下に私の亡骸が埋まっているはずなどありませんが」

 笑いながらそんな冗談を言うアルトリアの頭を、俺は軽く小突いてやった。


 二人だけの短い旅の間、アルトリアは笑ってくれていた。かつての自分の面影が残る土地で何を思うのか、と勝手に心配していた自分が馬鹿らしくなるくらいに旅を楽しんでいるように見えた。
 景色を楽しみ、すっかり容貌を変えた国の姿にいちいち感心し、言われるほどひどくないイギリスの料理の味に頷く。かつては雑だった故郷の料理が、長い年月の果てに進化していたことにいたく感動していたご様子。日本に帰ったら挑戦するのも悪くない。まあ、エクスカリバーガーなんてあんまりにあざとすぎるネーミングのハンバーガーを食った時なんかは、さすがに微妙な顔をしていたけど。

 ――でも。

 やはりこの国には彼女がアーサー王であった頃の記憶が詰まっている。良いも悪いも関係なく、過去にあった事実としてそこにある。
 遥かな昔からその表情を変えていない場所――グラストンベリから丘を越えたところに広がるカムランの野。
 アーサー王最後の戦場であり最期の地でもあるこの草原には、一際鮮明な記憶が広がっていた。

 忘れたくとも忘れられない……忘れてはいけない記憶。
 彼女がセイバーとしての役を終え、戻ってきた地。誇りと共に自分の誓いを全うした地。
 そして彼女の最も辛い記憶、過去が眠っている地でもある。

 だから……忘れられるはずなんてなかったんだ。



 太陽は既に地平線の向こう側に落ち、代わりに空には月が昇っている。
 見上げた群青の空に散らばる星は、日本で見る夜空よりもずっと数が多い。この草原の空気はとても澄んでいるし、今日は空に雲一つない。頭上に広がる渦のような星空を見上げて吸い込まれていくような錯覚を覚えても、無理は無いと思う。
 俺たちは並んで、昔から変わっていないという草原と砂金やらビーズやらをひっくり返したような空を眺めていた。

「……思えば私は、遠くを見すぎていたのかもしれません」

 と、しばらく無言だったアルトリアが、頭を俺の肩に乗せたままぽつんとつぶやいた。
 いったい何のことだろう――なんて、考えるまでも無い。

「国の行く末を……先のことばかりを常に考えていて、今を見ていなかったような気がするのです」
「だから自分に仕える騎士たちのことも見ていなかった?」

 アルトリアは小さく首肯して、

「ラーンスロットやガウェインたち円卓の騎士。そして私の妻であったギネヴィアも……いずれも私の最も近しい人たちでしたが、私は彼らが私を見るほどに彼らのことを見ていなかった。私はただ国だけを見ていたから、未来に国が滅びていく姿を見つけて……だから聖杯を求めたのです」

 彼女が語っているのはずっと昔、アルトリアが王であった頃の話だ。
 今まで俺はあえて聞こうとは思わなかったし、アルトリアも自分からは話そうとしなかった。それは彼女が昔のことを忘れてしまったということではないし、俺だって気にならなかったわけじゃない。
 ただ別に、どちらでもいいと思っていた。話を聞いても聞かなくても、何かが変わるわけでもない。俺たちは俺たちのまま。それにもし聞くことがあるとしたら、その時が来た時にきっとアルトリアから話してくれるだろうから無理に聞くことも無い、と思ってもいた。
 寄せてくるアルトリアの肩を温めるようにごしごしと撫でる。アルトリアはそれで少しだけ笑って、目を細めてくれた。

「私は聖杯にやり直しを願っていた。それは国のためだったけれど、もしかしたら自分のためだったのかもしれない。……どちらにしろその願いは間違いで……気づかせてくれたのはシロウでした」

 彼女の言葉に俺は小さく頭を振った。
 確かに俺はきっかけくらいになれたのかもしれないけれど、気づいたのは彼女だからだ。

 王の選定のやり直し。それが彼女が聖杯に願おうとしていたことだ。
 自分以外の誰か、相応しい人物が王につけば国が滅びに向かうことはなかったと、そう思ったから彼女はやり直しを願った。
 それは間違いだ。俺も彼女も、今はそのことを知っている。起きてしまったことをやり直すことなんてできやしないということを。
 だから彼女は聖杯への願いを捨てて、王として自分の誓いを全うした。

「あの時、王であった頃の私は気づかなかった……」

 細めた瞳は膝の上に落ちていた。口元に浮かんでいた笑みは、自嘲的なそれに変わっていた。
 この一瞬の間に、彼女はそのまぶたの裏に何を映したのだろう。
 そしてその答えはすぐに出た。

「聖杯なんていらなかった。簡単なことだったのです。私はただ、もっと自分の足元を省みればそれでよかったのだ」

 ざぁ、と風が吹き、剥き出しの彼女の膝を撫でていく。海原のような草原が風にたなびいて波立ち、飛沫の音を上げた。

「国というものは王が一人で作るものではなく、一人で育てるものでもない。人が作り営むものなのに、聖杯などという神秘を持ち出したのは明らかに誤り。国が滅びへと向かったのは、そのことに気づかず人を省みようとしなかった私の過ち故……」
「……馬鹿」

 思わず――だからこそ本心から出た一言に、アルトリアが目を丸くした。
 それで、馬鹿だなんて他に言い方があるかもしれない、とも思ったが、謝る気にはならなかった。
 だってアルトリアは馬鹿だ。自分で間違っていたと言うのに、なんでまだ……なんでこいつはまだこんなことを言うんだろう。

「おまえ一人だけのせいじゃないだろ。過ちには周りも気づくべきだったんだよ。聖剣を抜いた王は偉大で不可侵な存在だったかもしれないさ。おまえの王としての在り様が周囲を遠ざけてたのも確かにそうだろう。だけど――」

 アルトリアはまだ自分一人で背負おうとしている。国を滅ぼしてしまったのは全て自分の責任だと思い込んで、自分で自分を責めている。
 それは呪いではない。彼女を運命の輪に捕らえるようなことはないだろう。
 ただ、悲しいだけだ。全て終わってしまったことと彼女も理解している。だからといって忘れられるはずもなく、終わってしまったが故に癒すこともできず、漫然と緩やかな悲しみがずっと残り続ける。

 正直なところ――それは仕方のないことだと思ってる。生きていく以上、悲しみと無縁の人生を送れることなどないだろう。彼女に限らず、たとえどんなに平凡な生まれをする人であっても、大なり小なり悲しみを経験する。悲しみをゼロにすることなんて誰にだってできやしない。
 でも、アルトリアはちょっと背負いすぎだ。こいつは真面目だから、何でもかんでも自分で背負いすぎる。もう少し楽を覚えても良いのに、自分に厳しいからそんなことを許そうとしない。そんなのただ辛いだけなのに。

「――立派な騎士様たちがあれだけ雁首並べてて、なのにどうして誰一人として気づかない。どうして誰もおまえの苦しみをわかってやれなかったんだよ。俺はずっとそのことが納得できなかった。……おまえだけのせいなんかじゃ絶対無い。絶対的な存在だったからと王に全てを背負わせておいて、国が滅びに向かっていくことに気づかなかったのは、おまえの周りにいたあいつらだって同じだ」
「シロウ……彼らはいずれも誇り高い見事な騎士たちでした。彼らを侮蔑することはやめていただきたい」

 きゅうっ、とアルトリアの目が細められる。
 一転して碧眼に鋭い光を宿して睨み据える彼女の視線を、俺は正面から受け止めた。

「ああ、そうだな。確かに騎士としては立派だったろうさ。でも、おまえを支えてやれなかったじゃないか」
「それは、私が未熟だっただけのこと。彼らになんら責はありません」
「違う。おまえに全ての責任があるなんて、そんなことはない。責任は全員に少しずつある」

 これだけは絶対に譲れない。確かにアルトリアには王として、国の荒廃に責任を持たなければいけない立場だったかもしれない。
 けれどさっき彼女が言った通り、国は王だけではなくその国に住まう全ての人々で作っていくものだ。なのにどうして辛いことだけアルトリアが背負わなきゃいけないんだ。俺にはそれが納得できない。
 アルトリアは確かに方法を過ったかもしれない。でもそれは彼女だけではない。多くの騎士たちも過った。その責任は彼らがそれぞれ負うべきだ。

「なんで、アルトリアがそいつらの責任まで負わなきゃいけないんだよ。何でおまえが生きて自分のせいだと自分を責めて、苦しまなくちゃいけない。アルトリアが、死んだ騎士たちの背負っていた重荷を背負わなくちゃいけない理由なんてどこにもないだろ」
「しかしシロウ、私は……」
「おまえはもう普通の女の子だろ!」

 もうアルトリアは王じゃない。アーサー王はもう、地上のどこにもいないのだ。
 彼女の国は滅び、彼女に仕えてくれた騎士たちは全て死に絶え――アーサー王自身も、逝ったのだ。

「死んだんだよアルトリア。アーサー王はな、もう死んだんだ。千年以上も昔に、丘を越えた湖のほとりで」

 滅びと向き合い、逃れるように聖杯を求め、どれだけ苦しくても王としての誓いのために歯を食いしばって――。
 そして俺たちは出会った。
 出会って触れ合って、少しだけケンカもして……最後はあの目の眩むような朝日の中で一度目の別れを得て――。

「おまえは、最後まで全うしたじゃないか」

 丘の上から滅びを見下ろし、そうして全てを受け入れた。
 彼女は、誇りと誓いを全うした。

 アルトリアが虚を突かれたような表情になった。そして少しずつ、噛み砕いて飲み込むようにその言葉を胸に落としていく。

「……そう、でしたね。そうか、王であった私はもうどこにもいなかった……」
「ああ。もういない」

 その表情には何か大切な物を失ったような、同時にどこかほっとしたような、不安と安堵がない交ぜになって表れていた。
 彼女にだって、かつて王であった自分が死んだことなどわかっている。だがわかっていても王であった頃の記憶が失われるわけではないし、アルトリア自身は今もこうして生きている。いや……千年以上も昔、眠りについたはずの彼女がどうしてこの時代にいられるのか、真相は誰にもわからないから、あるいはあの時にアーサー王は死んでいなかったのかもしれない。
 だが真相がなんであったかなんて問題じゃあない。

「おまえはもう、いい加減解放されてもいいんだよ。いいじゃんか、普通の女の子で」
「…………」

 アルトリアは押し黙って答えない。わかってはいてもそう簡単に今までの自分を変えられるものじゃないだろう。
 俺にだってそのくらいわかってる。

「忘れろって言ったって無理な話だから、忘れろなんて言えない。全部ひっくるめておまえの人生なんだから昔のことを思い出すことだってあると思う。辛いことを思い出したって仕方ないけど――」

 だけど、これだけは覚えていてほしい。

「――何もかも一人で抱え込まないでくれ。おまえはもう普通の女の子でいいんだからさ、王様だった時みたいに自分一人で抱え込まなくてもいいんだ。一人で辛かったら、頼りないけど俺が一緒に……いや、そうじゃないな。一緒にいさせてほしいんだ、おまえと」
「シロウ……」
「この間、さ。俺、おまえに情けないところ見せちまったよな」

 少し前の話だ。まだ彼女の肉を貫いた感触も忘れられないほんの二ヶ月ほど前の話。
 俺は一人の少女を殺した。そして奪ってしまった命の重さが辛くて、俺は少し駄目になりそうだった。
 あの時、もしアルトリアがいてくれなかったら、俺はもしかしたらそのまま折れていたかもしれない。

「おまえに縋って、叱られて、甘えさせてもらった。それがどれだけ助けになったか、おまえにはわからないかもしれないけど……俺はアルトリアがいてくれたおかげで、駄目にならずにすんだんだよ」
「そんなことは……あなたはそんなに弱い人間ではない」
「いや……」

 俺はきっぱりと首を横に振る。自分が情けないことを認めるのは申し訳程度には持っている男としての矜持にとって噴飯ものだったが、相手がアルトリアならそんなことにだって耐えられる。できることならしたくはないけど、彼女にだったらどれだけ情けないところだって見せられる。

「これだけははっきりと言えるんだ。俺はそんなに強い人間じゃない。そもそも一人で何でもできるようなスーパーマンなんざどこにもいない」

 どれだけ偉大な王であっても、たとえ伝説に語られる英雄であってもそれは同じだ。ましてどこでにもいる凡人でしかない俺など言わずもがなで、それはいかに英雄であったとはいえ今やただの少女でしかないアルトリアにも言えること。
 見上げてくるアルトリアの碧の瞳は強く輝き、くっと上がった細い顎は真っ直ぐにこちらを向いている。ぴんと伸びた背筋も凛と張り詰めた雰囲気も、彼女の持つ凛々しさを見事に彩っている。
 だが実際のところアルトリアはこんなにも華奢だ。小柄で、肩も腕も足も細い。凛々しさよりも可憐さや儚さのほうが立ち勝る。
 いったい誰が、こんな少しでも力を入れたら手折れてしまいそうな少女が、たとえ自分のことであっても、重たい荷を全て背負えるなんて思うだろう。

「例えば俺がそんな凄いヒーローみたいなやつだったら良かったんだけどな。そしたら俺は自分のことは自分で解決できたろうし、おまえを襲う敵も全部蹴散らしてやれるんだけど……」
「……夢物語、ですね」
「ああ、夢物語だよ」

 お互いに顔を見合わせたまま、苦笑しあった。
 そんなこと、改めて俺なんかに言われなくても彼女にだってわかっていることだ。後の世に英雄と呼ばれるほどの力を手にしながらも、己の望みを叶えることができなかったアルトリアなのだから。

 思うにこの少女は誰かに頼るのがとことんへたくそなんだろう。というか、どうしていいのかわからないって言ったほうがより正確なのだろうか。
 彼女にとって、自分の苦しみは全て自分一人だけのものだけであり、彼女に悩みを打ち明けられるような相手はいなかった。だから今になって、いざ縋れる相手を見つけることができたとしても……どうしていいかなんてわからないだろう。
 だから俺は、無理矢理にでも彼女に甘えさせなくちゃいけない。

「……よっこいしょ」
「あっ……? シロウ、なにを……?」
「だっこ」

 小柄なアルトリアの身体を抱えあげて、膝の上に横抱きに抱え込む。いわゆるお姫様だっこの体勢というやつだ。
 頬を僅かに紅潮させ、戸惑ったようにこちらを見上げてくる彼女の頭を自分の胸に押し付けて柔らかい手触りの髪を、できる限り丁寧に撫で梳く。

「…………」

 しばらくそうしているうちに、俺の腕の中でどうしたらいいものかと身動ぎしていたアルトリアも、だんだんと今の自分の居場所に落ち着いたのか、力を抜いて自分を委ね始めた。その間も俺は手を止めず、彼女の髪や背中をずっと撫でている。

「……シロウ、少し大きくなりましたか?」
「ん? 何がだよ」
「シロウがです」

 胸元に頬を押し当てたままこちらを見上げたアルトリアが、手を伸ばして髪に触れてきた。

「以前はもっと……シロウの顔が近くにあったような気がする」
「ああ、身長か。あんまり自分じゃわからないけど、そうなのか?」
「ええ、間違いありません。少し前に比べて、やはりシロウは大きくなった」

 自信有り気に頷くアルトリアを見るときっとそうなのだろうと思う。今まで背が小さかった分、ここにきて急に伸び始めているのかもしれない。この歳になって成長期を迎えるっていうのも珍しい話だが、ありえないことじゃないだろう。

 アルトリアは背を測るように髪に触れていた手を肩にまで降ろして、まぶしさを堪えるように目を細める――月明かりのせいだろうか。
 彼女の頭は俺から見て見下ろす位置にあるから、彼女からすれば空を見上げるように俺を見上げていることになる。
 そう思って俺も空を見上げたが、先ほどまで煌々と丘を照らしていた月の姿は、いつの間にか分厚い雲に覆われていた。おかげで辺りもすっかり闇の中に落ちていて、何故気づかなかったのだろうかと、自分自身を疑う羽目になった。

「シロウ?」
「うん、なんでもないよ。いつのまにか月が隠れてたんだなぁ、ってさ。全然気づかなかった」
「あ……そうですね」

 言われて気づいたようにアルトリアが少し首を伸ばして、けどすぐに元の場所に頭を戻した。軽い重みと体温を身体の真ん中で感じる。
 無言で心地よい空気が流れる。アルトリアは黙ったまま俺の腕の中で目を細めていた。放っておけば眠ってしまうのではないかと思うくらいにもたれてくれていて、自然、彼女の身体は全身から力が抜けていてまどろんでいる。
 実際のところ、このまま眠ってしまってくれても良いと思っている。それで彼女の夢見が良いのだったら、尚のことそうしてほしい。

 だけど――。

「……本当は、辛かった」

 だけど――アルトリアはぽつりと、つぶやくように言葉を零した。抑揚の無い、まるで用意された台詞を読んだかのような言葉だった。
 彼女はそれ以上何も言わない。俺も聞くつもりなんてないし、これ以上聞くことなんて何もない。
 言葉は一つだけで十分だった。この、たった一つの言葉にどれだけの思いが篭められているか、俺は良く知っている。

 当たりまえだ。辛くないはずなんてない。
 ごく普通の少女が双肩に国なんてものを背負ったのだ。当たりまえのように得られるはずだった、女の子としての幸せも何もかも全て捨て去って、人であることすら捨てて、代わりにとんでもなく重たい荷物を背負った。
 それが辛くないはずなんてない。

 王としての彼女はそんな感情、全て飲み込んでしまっただろう。
 何故なら王は人ではなかった。悲しみも苦しみも、笑顔ですら全て剣を握った時に少女の名と共に捨てた。王とはそうあるべきとずっと思っていたから。
 だけど無くなったわけじゃない。捨てたつもりでもそれは心の奥底の深い深い場所に沈めていたというだけに過ぎない。
 だって彼女は俺に笑ってくれたから。無くしてなんかいなかった。

 だから本当は辛くないはずなんて無かったんだ。その、少女は――。
 声を限りに罵ったって良かった。自分の前に国を維持できなかった先代王のことも、逃れようのない選択肢を持ち出した魔術師のことも、全てを自分任せにした騎士たちのことも、過酷な人生を強要した運命のことも。

「頑張ったな……アルトリア」

 俺はもたれかかるアルトリアを抱きしめ、彼女は素直に俺に身体を預けてくる。瞳を閉じた彼女の表情がひどく安らいでいるのが途方もなく嬉しい。
 俺の言葉で彼女が背負った過去を癒すことなどできるとは思っていない。それにそもそも癒す必要などどこにもない。いくら苦難に塗れているものだったとしても、彼女の人生は誇りに満ちた彼女そのものだ。決して否定するようなものじゃない。
 だけどそれでも、今はただの――強くても弱い女の子でしかないアルトリアだ。彼女が昔のことを思い出して辛い時に一人になんてさせたくない。その時は彼女のすぐ傍にいて、少しでも慰めてやりたいと思う。

 今のように、彼女を少しでも支えてやりたい。これから先、長い間にいくらでも辛いことはあるだろうけど……。
 俺たちは一人じゃない。
 二人で行けばきっといつだって、どんな時にも救いがあるはずだから。



◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆



 カムランの戦場跡を越えて少し行ったところにその村はあった。人口も五百に満たない小さな村で、煉瓦造りの小さな家々がぽつぽつと立ち並び、柵に囲まれた牧場は、昼間であればのんびりと牧草を食む牛たちの姿を見ることができるのだろう。村の真ん中を横切る小川には、空に浮かんでいる星が天の川の流れのように浮かんでいた。

 結局、訪れるのが随分と遅くなってしまった。
 今は夜だからして、街灯も少ない道には当然歩く人の姿も見えないし、収穫前のジャガイモ畑にも誰もいない。
 でもだからといって、都会と違い危険な雰囲気などは微塵もなく、家々の窓から零れる明かりからは家庭の温もりが伝わってくる。澄み切った空気と少し湿り気を帯びた夜の土の匂いはわけもなく郷愁を呼び起こした。

「……でも虫の声はあまりしないんだな」

 隣を歩くアルトリアに語りかけたつもりもなく、ただつぶやいただけだったのだが彼女は律儀に頷いてくれた。ちらちらと頼りなげに明滅する街灯の下に集まる影もまばらだから、もしかしたら日本のような鈴虫とかなんかは本当にいないのかもしれない。細く長く響くあの声が俺は好きだから、それがないのは少しだけ物足りない感じがした。
 彼女がほんの少しの間だけ世話になったという村は、電車を降りてからコーチとバスを乗り継いでいかなければいけないような片田舎で、何もないが良いところ、と言ったアルトリアの言葉の通りに牧歌的な空気を多分に残した静かな田舎町だった。
 アルトリアはこちら・・・に戻ってきてから日本に来るまでの間、この村の村長さんのところに世話になっていたらしい。
 目覚めた彼女のところに、まるでそうすることが当たり前のような態度で現れて、当たり前のように衣食住を世話してくれたという。それだけでなく、アルトリアの日本への渡航費用やら何やらまで全て用意してくれたのだそうだ。
 しかし、もちろんそれはとてもありがたいことなのだが、こうも一方的な親切を受けると何故と気になるのもまた当然のことだろう。
 だが聞いても年老いた村長は詳しいことは何も答えてくれなかったらしい。ただ、古い約束があるということを教えてくれただけだという。
 だから今回、こうしてせっかくイギリスに来たのだし寄っていこうということになった。
 その理由というのも気になるし、それにアルトリアが世話になったのだったら、俺も一度きちんと会って挨拶くらいはしておくべきだろう。……っていうと、なんか違う意味にも取れそうな気がするが、まあ、おおむね間違ってもいないような気がする。

 じゃりじゃりと、靴の裏で砂を食む音だけが暗い夜道に響く。
 ふと見下ろすと、荒れた小道を少し足早に歩くアルトリアの横顔はどこか浮き立っているような気がして、少し見入ってしまっていた。

「……なにか?」
「その爺さんに会うのが楽しみなのか? 顔が少し緩んでるぞ」
「む、緩んでなど……。しかしそうですね、彼は本当に私によくしてくれましたから。ですからもう一度会って礼を言いたいと思っていました。ですから彼と会うことを待ち遠しく感じていたのは確かです」

 そう言ってから、

「……ああ、それが楽しみといえばそうなのかもしれない」

 アルトリアははたと気づいたかのように、こくこくと頷きながら自分で自分の言葉に納得していた。
 俺はそんなアルトリアの仕草に思わず頬を緩めそうしながら、内心では少しほっとしていた。
 彼女がこうまで信頼を寄せている相手ならとりあえずは安心してもいい。理由が何であれ、それがアルトリアに害をなすようなものではないのだろう。人を疑うなんてのはもちろん気持ちのいいことじゃないから、信用できるのならしたい。
 だから安心した。できることならアルトリアには、あまり嫌な思いをしてほしくない。
 叶うならばこれから先、彼女の身に訪れる出来事が全て優しければ良いのにと――無理だとわかってはいたけれど、そう願わずにはいられなかった。


 そう思っていたのに――。

「父は……死にました」

 村の長の家というわりには小じんまりとした家の居間に通されて、お茶と一緒に告げられた言葉がそれだった。
 アルトリアは、湯気を立てているカップを持ったまま呆気に取られたような表情をしている。そこから何を読み取ったか、村長の息子だという人はカップの中の紅茶をひと口飲んでから、改めて身を正して話し始めた。

「父も高齢でしたから……アルトリア様が日本に行ってから一月後に。前日の夜、普通に床についてそのまま逝きました。冗談抜きで眠るみたいにね」
「そう、ですか……せめて一目でも会って礼を言いたかったのですが。そうか、もう、いないのですか……」

 つぶやいて俯き、カップの中で揺れている自分の顔を見つめるアルトリア。
 それがひどく頼りなげだったから、俺はテーブルの下で彼女の膝の上の手を握っていた。アルトリアも、少しの逡巡の後に俺の手を握り返してくる。
 彼女の手は小さくて少しだけひんやりとしていたが、握っているところから少しずつ体温が移っていくのがわかった。

「……ところでそちらの方は?」

 と、アルトリアを見ていた視線がこちらに移った途端、まだ自分が挨拶すらしていないことに気がついた。
 アルトリアの手を握ったまま慌てて名乗ると、彼は俺とアルトリアの顔をしばし見比べて、

「ミスタ・エミヤ……失礼ですが、アルトリア様とはどういう……?」

 妙に緊張した面持ちのまま、そう聞いてきた。

「どういう……と言われましても」

 互いに顔を見合わせて、間に何となく妙な空気が漂う。
 俺とアルトリアの関係、なんてひと言で言ってしまえば簡単なものだが、かといってそんな単純なものだけではないとも思う。……というか、ストレートに言うのがなんだか恥ずかしいのだ。
 まあ、結局のところ――。

「シロウは私の、伴侶となる人です。日本に行く前に話したと思いますが……私の鞘であり、そして剣でもある……」

 少しだけ口ごもりながら言ったアルトリアの言葉が正しく俺たちの関係を表しているのだろう。
 しかしこの人、俺とアルトリアの関係を気にするのだろうか。……いや、気にするのは当然のことかもしれないが、だからといって難しい顔をして考え込むようなことなのだろうか、と思ってしまう。それに妙に彼女に対して物腰が丁寧すぎるような気がする。普通は客人相手に『様』をつけて呼んだりしない。
 ――これではまるで、主に対する従者みたいじゃないか。
 ふとそんな思いが頭をよぎったが、それはすぐに遮られることとなった。

「そうですか……あなたがアルトリア様の想い人ということなら、お渡ししたいものがあるのです」
「……俺に? アルトリアではなく?」
「はい。あなたにです。それが千年以上昔に交わされた古い約束なのですから」

 千年。正確には千年と五百年弱。

 聞いた途端に俺の手を握っているアルトリアが反応した。
 当然だろう、俺だって自分の顔が強張ったのがわかる。千年というその言葉が何を意味しているのか――まさか、と、そう考えもするのだが――わからないわけがない。俺たちにとってはひどく馴染みの深い時間の単位。
 しかしそれがいったい何故こんなところで出てくるのだろうか。そして何で俺に。
 俺たちは互いの手を握ったまま、目の前に突然出された状況に戸惑うしかできなかった。





あとがき

 イギリスの料理、実際食ったことがないからまずいのかどうなのかわからないところが心苦しいですね。なんかいろいろと調べたんですけど、それこそ人の好みなんで千差万別ですしね。

 そんなわけで三ヶ月ぶりの更新となりました。今回はホントに難産難産。
 でもまあ、ぼちぼちですね。ぼちぼち進んできました。……やっとです。


感想、ご意見などございましたらこちら、もしくはBBSまでよろしくお願いします。

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