扉を開けた途端、俺はそいつと目が合った。 その一瞬、脳の活動を停止させた俺は目を伏せて天を仰ぎ、しばし黙考した後、もう一度目を開いて部屋の中を覗き見た。 やはり視線と視線がぶつかった。 汚れを知らない全裸を包むのは靴下のみ。急所を隠すハットはずらさないように、紳士の証たるネクタイは翻らせないように、ゆっくりと歩くのが英国の嗜み。もちろん、恥ずかしいからと言ってパンツを穿くようなはしたない紳士など存在していようはずもない――。 そんな完璧な、箱入り純粋培養されたような英国紳士がそこにいた。 ただし……身体は半透明だったが。 俺は音を立てないように慎重に無言で扉を閉じた。ふと、天井を仰いで染みを探してみるとすぐに二つばかり見つかった。 ――うん、無意味だ。 そう思って視線を閉じられた扉に戻し、遮られてもはや見えない部屋をじっと見詰めてみる。 「ここ……確か今、降霊学の講義やってるんだったよな」 「うん。確か実際に霊を降ろす実験やってるって言ってたかな。ねえシロウ、中でなにやってたの? 見たんでしょ?」 「……ああ、いや。俺にはちょっと高度すぎてなにやってるのかよくわからなかった。ほら、俺って半人前だし」 無邪気に袖を引いて聞いてくるイリヤに、乾ききった声でもって答えを返す。 嘘は言ってない。 実際、俺にはこの中にいるあの霊がいったい何者かなんてわからないし、そもそも何故アレを喚んでるかなんてちっとも理解できやしない。 だがきっと、俺のような半人前にはわからない高尚な理由があるんだろう……そう思いたかった。 ここはイギリスはロンドンにある時計塔――とは言っても、俺たちが今いるこの時計塔は一般の人たちが知るビッグ・ベンの時計塔とは別の時計塔だ。 すなわち魔術協会の本部たる時計塔。人の身で神秘を具現し、根源を目指ことを至上の目的としている異能力者・魔術師たちの総本山。 と、こう言うといかにも怪しげな不可思議建築物のように聞こえるし、正直なところ俺も実物を見るまで少し身構えていたところはあった。が、なんのことはない、時計塔とは平たく言えば魔術師たちが集まる大学のようなものらしい。 詳しいシステムがどうなっているのかまではまだ聞いたわけではないが、普通の大学と同じように授業があって、自分の得意な分野、学びたい魔術理論を選択して学ぶようになっているらしい。ついでに言えば試験なんかもちゃんとあり、及第点を取れなかった場合、落第ということもあるそうだ。 だが一つ、普通の大学、普通の学生と決定的に違う点がある。 すなわち――己の研究に命が係るか否か。もしくは賭けられるか否か。 魔術師と名乗るものが一番初めにする覚悟は、自身、そして他人の死の容認だ。全ての魔術の基本である魔術回路の構築だって、一つ間違えればたちどころに命を失う羽目になる。故に魔術師たちは、どんな些細なものであれ魔術行使が常に命がけであり、容易く命を奪うことを知っている。 その程度も弁えられない魔術師には魔術師たる資格は与えられない――どころか、魔術の存在を表沙汰にする前に危険要素として粛清される。 だから普通の大学のように講義をサボったり、試験の際にカンニングしたり、ましてや他人の研究成果を盗んで自分の物とするような学生はこの時計塔には一切存在しない。そのようなことをすれば命を失うと知っているか、もしくは既に失っているかのどちらかだからだ。 良くも悪くも厳しく、一切の情け容赦が入る余地のない魔術師たちの学び舎であり総本山がこの時計塔なのである。 さてこの時計塔、魔術師の総本山というだけあって単なる学び舎というわけではない。 欧州を中心として世界各地に散らばる魔術師たちを監視・統括し、管理する魔術教会の総本部という側面も持っている、というかむしろこちらのほうが重要だろう。道を外し外道に堕ちた魔術師の粛清、潜在敵である聖堂教会との交渉、いまだ日の目を見ぬ神秘の蒐集など、時計塔が担う役割は数多い。 故に日本で行われていた聖杯戦争もまた、魔術協会が放った目に監視されていた。――そんな気配など、あの時には一切感じなかったというのに。 でも、だからこそ俺たちは今こうしてここにいるわけだ。聖杯戦争の顛末を見届けた魔術師として、最後まで生き残ったマスターとして、そして冬木市の管理者として遠坂はここ時計塔に報告の義務を負わされてわざわざやってきている。今頃はお偉いさんの目の前で猫を被っていることだろう。 残された俺たちはというと、そんな面倒な義務は全て遠坂にうっちゃって、こうして時計塔内の見学としゃれこんでいるわけだ。 と、言ったところで……もちろん今もどこかで監視されてるんだろうけどな。 アルトリアが誰かに見られている気配を感じるとかなんとか言ってたし、遠坂の連れというだけで、あくまで部外者にすぎない俺たちが自由行動などできるはずもない。こちらにはなにか事を起こすつもりなどないのにご苦労なことである。 俺たちは遠坂が戻ってくるまでの間、魔術師の巣窟がどんな場所であるか、魔術師たちの学び舎でなにを学べるかがわかればそれでいいのだ。 もっとも同行人の一人であるイリヤはあまり興味なさそうに、あくびなどしていたりするのだが……自身、優秀な魔術師であるイリヤには、もしかしたら時計塔のレベルですら退屈なのかもしれない。もしくは、もう既に魔術そのものにさして興味を感じていないのかもしれないな。 対するもう一人、アルトリアはといえば―― 「ふむ……ふむ、ふむ」 ――と、さっきからふむふむこくこくと、妙に興味深げなご様子。 逆にこちらはこちらで、元々魔術師でない彼女が何故? と思わないでもないが、最近は遠坂を師として と、ふむふむと頷いていたアルトリアがふむっ、と一つ大きく頷き、顔を上げて碧色の瞳をこちらに向けてきた。 「それでシロウ、いかがですか?」 「ん? なにが?」 「……なにが、ではありません」 隣から顔を覗きこむように聞いてきたアルトリアは、俺が逆に問い返してきたのが気に入らなかったらしい。やや目を細めて睨み据える。むぅ、彼女の瞳はとても綺麗なのだけど、それだけにこうして睨まれるちと怖い。 しかし、俺としてはいかがと言われてもなにが、と言いたいところなのだが彼女は……お説教モード半歩手前、といったところだろうか。 「シロウ、あなたはこの時計塔に、自身に得るものがあるかどうかを見極めに来たのではなかったのですか? 私の知る限りでは、決してただの物見遊山目的などではなかったはずだが」 「お? お、おお! モチロンそのつもりだぞ」 なるほど。それが言いたかったのか。 ――すまん、ぶっちゃけ忘れてたがホントのことなんて言えない。 言ったら最後、伝統ある時計塔の廊下で立たされ坊主でお説教食らう羽目になる。そして事はいずれ遠坂の耳に入り、今度はお説教という名目の だがしかし――俺は致命的なまでに嘘が下手らしい。遠坂曰く、口で黙ってても表情で全部語っている、とのこと。 実際今だって、刻むな心臓のビートとか自分に言い聞かせてみても耳にうるさいほどバクバクだし、 「シロウ、目が泳いでるよ」 とかイリヤに言われるくらいにキョドってるし。 まあなんだ。俺だって最初から惚け通せるなんて思っちゃないさ。こうなれば俺も男、諦めて大人しく腹を括るしかあるまい。 「すいませんちょっとだけ忘れて見学気分でした。勘弁してください、遠坂には黙っててください」 ここは男らしく謝り倒しの一手である。 男らしさとは意地を張り通すことではなく、たとえ屈辱に塗れても自身の成すことをきっちりと成すことにこそある――というのは決していいわけなんかじゃないと思っているのだがどうか。でも屈辱から逃れるために張り通した意地の先には、更なる屈辱が待っている、というのは我ながら外れてないと思うぞ。 「ふぅ……シロウ、そんな情けないことをはっきりきっぱりと口にしないように。懇願せずとも別に凛には話しませんよ、このようなこと」 「む。そうしてくれると助かる」 「ほーんと、シロウって時々すごいくせに、基本的にはアルトリアとリンのおしりに敷かれてるのよねー」 これがかかあ天下っていうやつなのかしら、などとつぶやきながら小首を傾げているイリヤ。 どうでもいいがどこで覚えた、そんな言葉。 「で、どうなのですかシロウ? いかに本来の目的を見失っていたとはいえ、まさかなにも感じていないというわけではないのでしょう?」 今度は否を言わせません、と言わんばかりの雰囲気で再度聞いてくるアルトリアに、俺は無論首を縦に振ることで答えた。いくら半人前とはいえ俺も魔術師の端くれだ。本物の時計塔の空気に触れてなにも感じないなんてことはない。 「そう、だな……。実際、興味がないって言ったら嘘になるよ。魔術を本気で学ぶんだとしたらここ以上の環境なんてないだろうし、まだちらっとしか覗いてないけど、それでもかなりレベルの高い研究をしてるってのはわかるし」 「ならシロウも、ここへの留学を考えてるの?」 「ああ、そうだな――」 さっきの降霊科で行ってた実験の内容はともかくとしても、今の俺に足りない魔術理論、智識がここに全て揃っているのは確かだろう。 今、俺にそういった智識を伝授してくれている師である遠坂も、来年になって学校を卒業すれば間違いなく留学という道を選ぶと思う。もし叶うのであれば、彼女と共にこの時計塔で研鑽を積むのも悪くないだろう。むしろ、遠坂がいなくなった後に独学で魔術を学ぶのに比べれば、ここで真っ当に学ぶほうがずっと良いはずだ。俺は手段としての魔術を捨てる気はないし、これからも磨いていきたいと思っている。 ならば答えなど、本当は簡単なはずだ。可能不可能は別として、時計塔で本格的な魔術を学ぶことを望めばいい。 でも。 「――いや、まだそこまでは考えてないよ。先のことだしな」 「ふぅん」 「…………」 ぽんぽんとイリヤの頭を撫でている俺をアルトリアが見ている。 アルトリアはじっと無言のままだったが、俺には彼女がなにを言わんとしているのかわかっていた。 こりゃあ……後で弁明しとかないと、お説教かな? などと、苦笑しつつ頬を掻いていると、 「――あら、あなた方見慣れませんけど、どちらからおいでの方かしら?」 背後から涼やかではっきりと良く通る、まるで風鈴の音のような声が聞こえた。 振り向いてまず目に入ったのは、豪奢な金髪。次に印象的だったのは意志の強そうな瞳と、抜けるような白い肌。背は女性にしては決して低くはないけれど、全体的に造りが華奢なせいかやや小柄にも見える。 彼女――まだ少女といって差し支えないその女性は、小脇に何冊かの本を抱え、足音も立てず優雅にこちらに歩み寄ってきた。 「そちらのお二人は違うようですけれど……あなたは東洋の方……ですわよね? その割には髪の色が違うようですけど」 「あ、いや……これは生まれつきであって、俺は確かに日本人だ……です」 俺の前に立った彼女――こうして近くで見るととんでもない美人だ――は、くすりと口元に微笑を浮かべた。 「そうですの。では、あなた方ですわね、今回の聖杯戦争の勝ち残りの魔術師というのは」 その一瞬、彼女の瞳が僅かに細められて強い輝きを発したように見えた。 ……わかる。なんとなく本能で感じる。 彼女は、俺にとって苦手な部類に入る人物だ。なんかはっきりと良くわからないけど、多分、俺は彼女に良く似た人物を身近に知っている。 ――誰だ、それ? ぼんやりと脳裏に霞がかった誰かの顔が浮かんだが、表情を霞ませる霧が晴れて正体がはっきりとする前に、目の前の彼女の優雅な一礼のおかげで浮かんでいた幻はあっという間に消え去ってしまった。 「はじめまして、ニホンから来た方。わたくしはルヴィアゼリッタ・エーデルフェルト。よろしくお見知りおきくださいませ」 ――night 12―― 『Britain』 「――ああ、大丈夫。俺も遠坂もセイバーも、それからイリヤも皆無事だから。っていうか、飛行機で海外に行くくらいでどうにかなるわけないだろ?」 『それはそうですけど……先輩、海外旅行なんて初めてじゃないですか。心配しちゃいます』 「はは、信用ないなぁ」 電話の向こう側にいる桜の心配そうな声に、彼女がどんな表情をしているのか容易に想像できて思わず苦笑してしまう。とはいえ、気持ちはわからないでもない。俺だって桜が海外旅行なんかに行ったら、今の彼女と同じような態度を取ってしまうだろう。 「俺のことなんかよりそっちはどうなんだ? 藤ねえ、暴れたり飢えたりしてないか?」 『そうですね、先輩がいなくなっちゃったせいでちょっとご機嫌斜めみたいです。昨日も部活で大変だったんですよ? まだ先生に慣れてない一年生の子たちなんて、驚くの通り越して脅えちゃってました』 「ふ、藤ねえのやつ……まったく。かじったり引っ掻いたりしてないだろうな……」 『はい、それなら大丈夫です。わたしと美綴先輩で宥めておきましたから』 「そっか……すまん、苦労かける。美綴にもよろしく言っておいてくれ」 ため息と一緒に言葉を吐き出して、暴れている藤ねえの姿を想像し、同時に桜と美綴のこうむった迷惑を思ってまたため息が出た。 部活の練習中、いきなり表情をしかめて唸り始める藤ねえ。嫌な予感を感じる桜と美綴。 いきなり立ち上がって竹刀片手に一年生に理不尽な要求を申し付ける虎。 『せんせいお腹すいた! イギリス行って士郎のごはん買ってきなさい! 光の速さで!』 ぽかーんとして困り戸惑う一年生。暴れるタイガー。殿中でござると抑えにかかる上級生一同。振りほどかれる面々――俺たちのことはいいからおまえらは逃げろ、先輩を見捨てて逃げることなんてできません! 絶望の中迫りくる野生の獣を前に繰り広げられる学園ドラマ――。 『あの……どうしたんですか先輩?』 「む。いや、なんでもない。ちょっとその時の光景を想像してただけ」 黙りこくった俺を心配する桜の声で現実に戻ってきたが、我ながらかなり細部まで正確に投影できたのではないかと思っている。俺たちが日本に帰るまでにいったいどれだけのドラマが弓道場で生まれるだろうか。桜と美綴には帰ったらちゃんとお礼をしなくちゃな。 だがまあ……暴れるだけの元気があるなら良かった。しょげ返って落ち込んで、寝込んでる藤ねえなんて想像もできないけど、そうなるくらいならまだ暴れてる藤ねえのほうが良い。中学の修学旅行の時はわざわざ旅行先まで追っかけてきたからこんなこと考える暇もなかったけど、さすがの藤ねえも海を越えて追いかけてはこれないし……だから正直なところ、心配だったしな。 見てないとなにを仕出かすかわからない――とか、どうなっちまうかわからない、とか。藤ねえは姉として俺の面倒を見ているつもりらしいが、それは俺だって同じだ。弟として、姉のことを心配するのは当然のこと。――そんなこと、言葉に出したことはないけれど。 だから藤ねえの傍にいれない今は、もう一人の家族である彼女を頼りにするしかない。 「悪いけど桜、俺がいない間、藤ねえのことまかせた」 『はいっ、まかされちゃいました。不肖わたくし間桐桜、先輩の信頼を裏切るようなことはしません』 「ああ、わかってる。桜のことだもんな、ちゃんと信じてるから」 『……はい』 我ながら照れくさいことを言ってしまい、受話器を挟んで日本とイギリスで互いに赤面してしまった。桜の顔は見れないけれど、そのくらいわかる。 「そ、それで今、そっちはなにしてるんだ? イギリスとは時差があるから……」 俺はそんな自分をごまかすように無理矢理話題を変えようとしたが、どうやら滑っちまったらしい。くすりと、ほんの少しだけ漏れる桜の笑い声に、ますます自分の頬の赤みが増したのがわかる。全くもってカッコがつかない。 『こっちは朝ごはんの時間ですよ。今日は部活もお休みですしこれからお部屋の掃除して、今日はちょっと頑張って豪華なお昼にしようかなって思ってるんです。その前に藤村先生を起こさないといけないんですけどね』 「なんだ、藤ねえも昨日泊まってったのか?」 『はい。お風呂から上がったら居間で熟睡しちゃってたんで。それで、そちらは今頃お夕飯の時間くらいですか?』 「うんにゃ、もうとっくにそんな時間は過ぎてるよ。晩メシ食ったのはもうだいぶ前。……もうすぐ、夜の十一時だな」 ちらと腕に巻いた時計の針を確認してから言う。 「いちおうイギリス料理のレストランに入ったんだけどさ、アルトリアが渋って大変だったよ」 彼女にとってイギリス料理とは、茹ですぎの野菜だとかひたすら煮込んだだけのベークドビーンズだとか、そういったとにかく雑な料理、という思い込みがあるらしい。……もっとも彼女の思い込みは決して間違いではないのだが。 そんなわけで、忌まわしい過去の記憶に魂を引かれたアルトリアを説得してどうにかこうにか入ったイギリス料理のレストランは――意外と言っては失礼かもしれないが、意外にもちゃんと美味しい料理で饗してくれた。 とはいえ、これもきちんとしたレストランに入ったからのことであって、油断していると手痛いしっぺ返しを食らうのは間違いないだろう。イギリスの都市圏の家庭料理、というか一般の料理はやっぱり雑な料理が主流なのだ。おまけに量も少ないらしいし。 イギリスで美味しい料理を食べたいならば、ちゃんと場所を選んでからにしなければならない――てのがガイドブックによるところの薀蓄だ。 ……と、少し長くなっちまったな。 親しい人との会話は思わず時間のことを忘れさせてしまうものだが、いくらなんでも国際電話での会話で時間を忘れてしまうわけにはいかない。 俺も遠坂もあまり金を持っているわけじゃない。帰りのチケットはもう取ってあるけど、電話のしすぎでメシも食えないなんてことになったら、アルトリアになんて言われるかわかったもんじゃないからな。 「悪い桜、そろそろ……」 『あ、いえ! そんな気にしないでください。電話代だってただじゃないんですし!』 「そう言ってくれると助かる。それじゃまた電話かけるから、藤ねえにもよろしく言っておいてくれ。……あんま桜に迷惑かけるなって、さ」 『はい。……それで先輩、あの』 「ん?」 トーンが落ちて、桜の声がどこか縋るような響きに変わった。それは、空港で分かれたときの彼女の声と同じ響きを持っていて―― いや、ありえない。 「どうした、桜?」 そう思いながらもなにかに不安を感じたのか、殊更に俺は窺うような声を出してしまっていた。 たかが悪夢で見ただけの光景が、こんなにも後を引きずるなんて思ってみなかった。今、こうして元気な桜と会話しているというのに、ちょっとしたことで脳裏に蘇ってくる。あんなもの、忘れてしまえば楽なのだろうけど、そんなことが簡単にできればとっくにしている。 そんな内心をおくびにも出さず俺は桜の次の言葉を待ち、彼女もしばらくの逡巡の後、ようやく口を開いた。 『……あの。イリヤちゃんとアルトリアさんと、それから……遠坂先輩にもよろしく言っておいてください!』 「あ、ああ……そりゃもちろん、言っておくけど」 一瞬、呆気に取られた。 どことなく寂しげにしていたかと思えば、出てきたのは同行のイリヤと遠坂への言伝で――なんだ、良かった。思ったより元気みたいだ。 もちろん桜が寂しい思いをしてないなんて思っちゃいないけど、良く考えたら藤ねえだっているのだし……心配のしすぎだったか。 『それじゃあ先輩、今日のところはそろそろさよならですね。また、お電話くださいね』 「ん、わかってるよ」 俺の思いを裏付けるように、桜は最後の最後まで元気な声で、 『先輩、早く帰ってきてくださいね。――でないとわたし、寂しくて泣いちゃいますから』 そう言って電話を切った。 電話の受話器を置いてそっと息を吐き出す。ため息というほど深くはなく、さりとて吐息というほど軽くない。 いつもと変わらない、聞き慣れた桜の声を聞くことができて安心した。……あんな夢を見た後だから、不安に感じていないと言ったらやっぱり嘘だ。 でも結局、俺の不安など全くの杞憂で、桜はやっぱり桜のままだった。少しだけ寂しい思いはさせちまってるけど、まあ藤ねえもいるし、そんなに心配しなくても大丈夫だろう。 ほっとして時計を見ると、十一時をもう十分ほども回っていた。 「まずい、少し長電話だったか」 誰に語ることなく自分に毒づく。耳に残っている桜の声を余韻を脳裏で再現しながら、俺は部屋に戻る足を少し速めた。 ちょっと電話したらすぐに戻ると言った手前、あまり彼女たちを待たせるわけにはいかないだろう。これから明日からのことも含めて、ちょっとした会議を催すことになっているのだ。女性陣はお風呂、そして俺は自宅に電話――それぞれ用事を済ませた後で。 思ったよりも長電話になっちまったし、もしかしたら遠坂辺りが今頃てぐすね引いて待っているかもしれない。 もっともイリヤは結構長風呂だから、待たされるのは俺のほう、という可能性も無きにしも非ずといったところだが。 明日からのこと――本当なら明日は皆でちょっとした観光でもするつもりだったのだが、どうやらそうは問屋が卸さなかったらしい。 遠坂は明日もずっと時計塔に入り浸りになるし、なにやら聖杯戦争に関するレポートも提出しなければならないとのことでしばらくは観光どころではないと文句を垂れていた。 時計塔を出た後は、ちょっとばかり適当に市街を歩き回ってからホテルに戻った。昨日のうちに予約していたホテルはあんまり予算に余裕がない旅行客に良心的なお値段のお宿。 とはいえ近くに地下鉄の駅もあるし、バスとトイレはきちんと部屋ごとにあるし、雰囲気もまあまあで値段の割にはいい部屋なのではないかと思う。 ちなみに――さすがに俺の部屋と女性陣の部屋は別々で取っている。 アルトリアとイリヤは一緒の部屋でもいいって言ってくれたんだが……さすがに俺と遠坂が一緒の部屋で寝るってのは問題大有りだし。 だいたい遠坂と一緒じゃ、俺のほうが休めない。イリヤは妹だし、アルトリアは恋人で今更だから別にいいとしても、遠坂はやっぱり俺にとってまだ特別な存在なわけで……。平たく言えば思いっきり女の子で、間に一線があるのだから意識しないほうが無理ってもんである。 同じ女の子でもアルトリアと遠坂は全くの別なのだ。 例えるならアルトリアは俺と同じボートに乗って一緒に櫂を漕いでいて、遠坂はすぐ隣で別のボートに乗っている……とまあ、そんな感じだろうか。 ああ、それからイリヤは俺の膝の上に乗ってはしゃいでる、ってところだな。 なんてことを考えているうちに部屋の前、アルトリアたち三人がいる二〇二号室のプレートが目の前のドアにかかっている。 「士郎だけど。入ってもいいか?」 こここん、こん、と節をつけて四度ドアをノックして、返事が返ってくるのを待つ。 「はい。どうぞ入ってください」 「……っ!」 「? どうかしましたか、シロウ?」 「あ、ああ……いや、そっか。風呂上りなんだよな、アルトリア」 「ええ、先に頂きました」 数瞬の後、内側に開いたドアから顔を出したアルトリアの金色の髪はしっとりと濡れていた。ホテルのシャンプーは日本では売ってないものだったのか、少なくとも俺の記憶にはない香りが彼女の髪から薫ってくる。 ……少しばかり危なかった。 もしこの部屋に遠坂やイリヤがいなかったら、俺は多分アルトリアを後ろから思いっきり抱きしめてただろう。 風呂上りの彼女の香りと後姿、首筋から除く白いうなじには、俺の中の男を十二分に刺激するだけの魅力に溢れていた。 「シロウ、なにか?」 「む、いや。なんでもない」 振り返るアルトリアの目を直視しないように視線を外して、部屋に入る。 途端、襲いかかってきた女の子の匂いはさすがに強烈だった。 「シロウ、おっそーーーい!」 ぼすんと音を立てて腰の辺りに突っ込んでくる、ポンチョのようなパジャマを着たイリヤを受け止めて更に心臓が一つ跳ね上がる。 きっと風呂から上がったばかりなのだろう。まだドライヤーも当てていないイリヤの髪はしっとりと水気を含んでいた。伝わってくる身体の温もりも、いつもよりずっと暖かく感じる。 「ほら士郎、イリヤといちゃついてないであんたもとっとと座る」 「わ、わかってるよ」 それから見慣れているとはいえ、パジャマ姿の遠坂というのもやっぱり目に毒だ。あんまり見続けていてはなにかと危険だろう。 「? あんた、どこ見てんのよ」 「……天井」 しょうがないだろ。 「――というわけだから、わたしは明日からもしばらく時計塔から離れられないのよ」 四つあるベッドの一つに腰を降ろし、苦虫をいっぱい噛み潰したような遠坂のため息混じりの話を聞く。 内容は昼間に聞いたこととあまり変わらない。とにかくわかったのは遠坂はしばらく自由行動を封じられたということと、俺とアルトリアにできることは何一つないってことだ。 そしてイリヤだが、彼女の場合はいちおう話もつけていることだし、後は件の人形師のところに行って直接話をつければいいとのことだ。 「なあ、遠坂。イリヤのことだけどさ、俺たちがついていこうか? どうせやることないんだし」 ならば、と思ってそう提案してみたのだが、遠坂は難しい顔をして即座に首を横に振った。 「だめ。悪いんだけど士郎が行っても交渉にならないわ。繰り返すけど相手は生粋の魔術師だもの」 「だからって……俺だって半人前だけど魔術師なんだぞ」 だが遠坂は苦笑を浮かべて、もう一度小さく首を振る。 「無理だってば。士郎はやっぱり魔術師にはなれないもの。……貴方はね、魔術使い。生粋の魔術使いなのよ。究極的に自分のためにだけ魔術を使うんじゃなくて、他人のために魔術を使える者。ま、言うなれば心に贅肉を持った魔術師ってところかしら」 「…………」 遠坂の言いたいことはわかるし、それに間違ってないってこともわかってる。 彼女の言う通り、俺は魔術師が魔術を行使して目指すという根源の存在などに興味はない。魔法なんてのも別に無理して手に入れるようなものではないと思っている。せいぜい『あれば便利だな』というくらいの認識だ。 以前、そのことを遠坂に話したらものすごく呆れられ、不快そうな顔をされ、最後に深いため息をつかれた。 思えばこのとき、遠坂は俺が何者かを思い知ったのだろう。 俺が何者と思われようと別に構わないし、それで俺のすることが変わるわけではない、が。 「大丈夫よ。イリヤにはわたしがついていくから安心して」 「……ならいいけどさ」 「まったく、こんなことで不貞腐れないでよ。……士郎はね、今のまんまでいーのよ」 「っ! な、なにすんだよっ!」 遠坂がくすくすと笑いながら身を乗り出してきて、人差し指で俺の鼻を抑えて潰し、そのまま軽くデコピンを見舞ってきた。 く、くそう。まるっきり子供扱いじゃねえか。 「シロウ、人には向き不向きがあります。なにもかも自分でできるなどとは努々思わぬよう」 「……わかってるさ、そんなこと」 アルトリアにまでそんなことを言われて、これ以上意地を張るつもりはない。彼女も俺の内心を悟ったのか、満足げに小さく頷く。 と、今度は視線を遠坂のほうに向けると、彼女にしては珍しく少し意地悪げな笑みを浮かべると、 「それに交渉というのは相手との腹の探り合いが物を言うのです。会話の中から相手の意図を探り、思考を先読みし、己の舌鋒を以って論破して結果を有利なものに導くという、いわば剣を使わぬ戦です。シロウのように根が素直で心身ともに健やかなる人にはあまり向きません。故にここは凛に任せるのが最も聡い選択でしょう」 なーんて、赤いあくまな人に向かってものすっごい意味深な言葉を放ってくれました。ああ、遠坂、とりあえずこめかみをぴくぴくさせるのはやめてくれ。アルトリアはきっと場の空気を和ませるために、慣れない冗談を一生懸命考えてくれたんだからさ。そこに免じてくだされ。 「……とにかく、イリヤにはわたしがついていく。ちびっ娘もそれでいいわね?」 「ん。ほんとはシロウと一緒にいたいけど、しょうがないからリンで我慢してあげるわ」 「……あぁ、そう。そりゃどーも」 いかにも込み上げてくるものを堪えているご様子の遠坂さん、眉間を指先で揉みながらものすっごい視線を俺に向けて来ています。 えーと、君たち。俺のことを想ってくれるのはとっても嬉しいんですが、お願いですからあんまりうちのお師匠を刺激しないでください。危険ブツです。ニトロみたいなお方なんで、ちょっと突っつくと爆発してあくまになります。 ああほら、視線で訴えかけてくるじゃないですか。 ――衛宮君、ちゃんと自分の妹とサーヴァントの暴言の責任は取りなさいよ? ――いや、ちょっと待ってください。イリヤはともかくとして、アルトリアはもう俺のサーヴァントってわけじゃあ。 ――黙れ。シャラップ。問答無用。 必死にアイコンタクトで無罪を訴えるも、どうやらそれは逆効果だったらしい。 ギン、と遠坂の眼光が鋭く光る。それでも巧みに俺だけにしか見えないようにしているのはさすが生粋のにゃんこ被り。だからといって俺にはDEATHな視線が向けられてるってことに変わりはないわけなんだがなー。 ――衛宮君? 遠坂が視線の鋭さはまったく変えないまま、にこっと笑う。 ――KILL YOU. ビシバシ! と、目にも止まらぬ速さで笑顔のまま、首を掻き切り落とすジェスチャー。 その笑みはとっても可愛らしくて、目が黒線で伏せられていて、ついでに物騒なセリフがなかったらきっと俺は見惚れてしまっていたに違いない。 まあ、だからといって俺がDEATHられることに変わりはないんだけどなー。 ……天国の親父、もしかしたら近いうちにそっちにいくことになるかもしれません。道半ばで倒れる不肖の息子をお許しください。 「まあ士郎の処刑はともかくとして、わたしとイリヤは明日からも時計塔に詰めっぱなし。イリヤにはもちろん、報告書の作成、手伝ってもらうからね」 「えー、めんどくさい」 「文句垂れてんじゃないわよ。わたしだって誰が好き好んで報告書なんてめんどくさいもん作りたいなんて思うもんか。しかも……」 瞳を伏せて、握り締めた遠坂の拳がぷるぷると震える。 「しかもなんだってあの女狐を横に置いてンなことしなくちゃならないのよっ!」 拳を天に突き上げ遠坂爆発。世紀末覇王張りの凄まじい威圧感。逃げてもいいですか? ここで逝ってしまったら俺の生涯には悔い残りまくりだ。 「女狐というのは、ルヴィアゼリッタのことですか、凛」 「決まってんじゃない! あの猫被り女魔術師よっ」 猫を被ってんのはおまえも一緒だろ――と言ってやりたかったが、そんなことしたら床に向かってダムダムと激しく打ち下ろされている拳が、今度は俺の脳天に向かって打ち下ろされるのは明白だったのでやめておいた。 確かに――遠坂とルヴィアさん、出会った瞬間から火花散らしてたからな。生涯のライバルの出会いってのはああいうもんなんだろうか。 ルヴィアさんと廊下で遭遇したその後、彼女と一緒に待ち合わせ場所の中庭のテラスでお茶を飲みながらしばし談笑としゃれこんだ。 彼女は物腰が柔らかで、所作の一つ一つが優雅で気品に溢れていた。いかにも良家の子女、といった感じなのだが、会話の内容も知的で話題も豊富。単なるお嬢様じゃないってのはあれだけの短い時間でよくわかった。……ついでにものすごい美人だし。 だが、話している間にも、俺が最初に感じた違和感は晴れなかったのだが――あいつが来た瞬間、ようやくその正体に行き着いた。 『あ、遠坂が二人』 互いに美人で。 互いに優等生で。 互いに名家の出で。 互いに眩く輝いて。 そして――互いに猫を被ってる。 そんな二人は目を合わせた瞬間、電撃のように互いを好敵手と認めたに違いない。口では決してそのことを認めないかもしれないが。 お互い似すぎているが故に、必ず越えなければならない相手。近親憎悪にも似ているが、その実はまるで違う。となれば、やはり二人の関係はライバルとするのが一番なのではないだろうか。 その後の二人の応酬がどんなであったか、特に語ることはないだろう。 遠回しな言葉で皮肉を飛ばし、粗を突こうと隙を窺い、優雅な口調で突き刺すような嫌味を述べる。ああ、確かにアルトリアが言う通り、舌戦ともいえる交渉ごとなんかは遠坂に任せておいたほうがいいかもしれない。少なくとも俺にはあんな見事すぎる言葉の応酬は無理だ。 そのルヴィアさん、遠坂が時計塔にいる間、彼女のサポートを任されたそうな。時計塔内部のことなどなに一つ知らない遠坂が、円滑に自分の任を果たせるよう、いろいろな手助けをするのがルヴィアさんの役目――表向きは。 実際のところ、遠坂にそんなサポートなんて必要なはずはないのだ。助けを借りるくらいなら自分で調べてなんとかしてしまうくらいでなければ、遠坂凛はやってられない。大方、聖杯戦争に勝ち残った冬木の管理者の品定めってところだろう、という遠坂の言には俺も同感だった。 とはいえ、いくら遠坂が気炎を上げたところで時計塔上層部の決定が覆るわけでもない。 遠坂自身は要らないとだめもとで言ったらしいが、無論聞き入れられるわけもなく、それはそれは恩着せがましくサポートという名目の監視者を受け入れる羽目になったとのことだ。 「まったく……これからしばらくあいつと顔つき合わせてなきゃいけないなんて。イギリスなんて来なきゃよかった」 ぶちぶちと文句を言い続けている遠坂の機嫌はすこぶるよろしくない。 こんな遠坂としばらく付き合わなきゃいけない俺たちも、結構不幸なんじゃないかと思うのは俺だけなんだろうか。 「……で、遠坂とイリヤが時計塔で仕事してる間、俺たちはどうしてりゃいいんだよ」 一頻り愚痴を吐き出して、落ち着いた頃を見計らって話を元の路線に戻してみる。その間に紅茶を入れたりお茶菓子を用意したりとそれなりに努力をしていたりする。しかし当のお姫様といえば「夜中に甘いものなんて気が利かないわね」なんて、憎まれ口叩いてくれたりしたわけだ。 ま、なんだかんだ言って素直に全部食べてくれるところなんかはちょっとだけ可愛いとか思ったりしないでもないのだが。 閑話休題。 遠坂はカップの底に僅かに残っていた紅茶をくっ、と飲み干して静かに置く。陶器のカップは見事なまでに音一つ立てていない。 「そうね。どうせしばらく時間できちゃうんだし、士郎とアルトリアは予定通り里帰りでもしてきなさいよ」 「俺たちだけでか? でも遠坂たちも一緒に行くはずだったじゃないか」 「まーね。でもしょうがないじゃない、わたしもイリヤもここから動けないんだし」 「そりゃそうだけどさ……やっぱりせっかくここまで来たんだ。俺は遠坂もイリヤも一緒にいてほしいって思う」 そう言うと遠坂は少しきょとんとした顔をして、次いで小さく吹き出した。 「ばか、だから無理だって言ってるじゃない。わたしたちのことはいいから、ちょっと早い新婚旅行だとでも思ってのんびりしてきなさい」 「なっ、なに言ってんだよ。馬鹿なこと言ってるのは遠坂じゃないかっ!」 少しだけ優しげな口調でからかってくる遠坂に、どもりながら下手糞に抵抗を試みる。ちらりと隣の様子を窺ってみれば、アルトリアは真っ赤になって俯いてるし、イリヤはなんだか不機嫌なご様子で頬を膨らませていた。 遠坂はそんな俺たちを見て、今度こそ余計なものを捨てた笑顔を浮かべて、 「士郎の気持ちは嬉しい。ありがたく受け取っておくわ、気持ちだけね。心の贅肉だけど、あんたのそういうところって悪くないと思ってる。でも今回ばっかりは仕方ないんだからさ、素直にわたしの気持ちも受け取ってもらってもいいんじゃないかしら?」 「……そうだな。悪い、余計な気遣いさせちまって。ありがとな、遠坂」 こんなことを言われてしまっては、俺もいい加減子供じみた我がままを言ってもしょうがない。 遠坂の申し出はありがたく受け取ることにしよう。 それに、だ。別に、新婚旅行ってわけじゃないけれど……アルトリアと二人きりで旅行できるっていうのも魅力的な話しだし。あの賑やかな家にいたのでは、なかなか二人だけになる機会なんてのもないしな。 しかしアルトリアの故郷、か。考えてみれば俺は彼女の昔のことをあまり知らない。 知っていることといえば、彼女がサーヴァントであった頃に見た夢の中の光景だけ。……そしてそれは決して良い夢ではなかったと思う。 あの夢、というより彼女の記憶を、俺はただ見ていただけだ。彼女があの光景にどんな思いを抱いていたか、そんなことはわからなかった。 アルトリアにとって良い思いでであったのか、それとも――。 「……あの、シロウ」 と、アルトリアがそっと囁くように俺を呼ぶ。 彼女は目元を薄っすらと染めながら、やや戸惑ったように視線を彷徨わせていた。 が、やがて一つ小さく咳払いをするときちんとこちらに向き直り、赤い顔はそのままに深々とお辞儀をして、 「それでは……よろしくお願いします」 「あ、いや。こちらこそ」 「その、不束者ではありますが」 「いや、こちらこそっ」 なんて、互いに礼儀正しくお辞儀の応酬をしてしまう。端から見るときっと間の抜けた光景なのだろう。 事実遠坂なんかは、思いっきりため息をつきながら、 「あんたら、相変わらずお子様よね……」 とか憎まれ口を叩いてくれるし、イリヤなんかも、 「むぅ、二人で旅行するのはいいけど、わたしこの歳でおばさんなんて認めないんだからっ」 などと、とんでもなく意味深なことを口走ってくれやがりました。 つーか、いったいどこで覚えたんだそんなの。 妹姫様の情操教育に激しく不安を感じる今日この頃。やはりここはきちんと学校にでも通わせるべきか――と、アルトリアと赤い顔を突き合わせながら、俺はそんなことを考えていた。 時計の針は既に深夜の一時を回っており、今頃日本では桜が鼻歌混じりに洗濯物でも干している頃だろう。藤ねえは……まだ寝てるだろうか? こちらはもう一時間も前に遠坂たちとお休みの挨拶を交わし、俺は自分の部屋に戻ってベッドで横になっている。 いつも畳にふとんを敷いて眠っているからか、ベッドというのは妙に居心地が悪くて落ち着かない。 だがこんな夜中に眠れなくて、染み一つない天井を見つめている羽目になっているのはベッドのせいでも、少し小腹が空いてきたせいでもない。 イギリス――アルトリアの故郷。 この土地には彼女の過去がある。良い過去も辛い過去も。決して長くはなかった、アーサー王としての彼女の人生が全て、ここにある。 俺はなにを見て、なにを聞くだろうか。 そして俺に自分の過去を語る彼女がいったいなにを思うだろうか。 さっきからずっと、そのことばかりに思いを巡らせていた。 アルトリアは強い。とても強い子だ。 王として生きていた時も、そして俺のサーヴァントとして戦っていた時も、彼女は一度たりとも弱音を吐かず一度だって折れたりはしなかった。 でも、そんなアルトリアだって結局は普通の人間だ。凛々しくて、時々少し抜けていて、時々怖がりな普通の女の子だ。いくら強かろうが、彼女が心に弱いところを持っていて、時に折れそうになるほどに脆くなることを、俺は良く知っている。 なのに彼女は、強くなければいけなかった。 元々強かったけれど、本当は普通なアルトリアという少女は、王であったが故に無理矢理な強さを己に課さなければいけなかった。 弱みを見せてはならず。 脆さを見せてはならず。 誰よりも強く、常に超然とし、負けず、折れず、屈せず――。 その身は聖剣の如く輝かしい、王の中の王でなければならなかった。 アルトリアは、誰にも自分が弱いのだと、自分が普通なのだと言えやしなかった。 誰もそんな話を聞いてくれる人はいなかった――彼女が強いのは、当然であり必然だったから。 そのうちに彼女は、自分の弱さを無くした。 当たりまえだが、そんなことできるはずがない。人である以上、悩んだり不安を感じたり、悲しみや苦しみを覚えて泣きたくなってしまうのは当然だ。 だけどアルトリアは王だったから、人前でそんな自分を見せることなどできはしない。若年の身であり、聖剣という力の象徴の主であった彼女は殊更に人である自分を晒すわけにはいかなかった。聖剣という神秘を以って王になった以上――彼女は己を王足らしめる神秘性を失うわけにはいかない。 だからアルトリアは、まるで自分を追い詰めるように、自分で自分に弱音を吐くことすら禁じてしまったのだ。 少し喉が渇いた。 ふとんから這い出して、すっかり生温くなってしまった買い置きのミネラルウォーターをひと口飲む。 「……眠れん」 いろいろと考え事をしていたら、ますます眠れなくなってしまった。 今日は一日いろいろあって身体は疲れているのに、あいにく頭のほうはすっかり覚めてしまっていた。 窓のそばに寄って、ロンドンの街並みを見下ろす。 彼女が王であった時代からはすっかり変わってしまったロンドンの街。あれから千年もの時間が流れたのだから、変わってしまって当然だ。 道はコンクリートで覆われ、夜になっても街灯が足元を明るく照らし出し、故に昼夜構わず人は街を行き交っている。例えば今もレスター・スクエアでは、バスカーたちが様々な芸を競い合っているだろうし、彼らの芸を目当てに多くの人たちが集まってきているだろう。 彼女が王であった頃と違い、人々は戦争などテレビの向こう側にしか知らない。一日の糧を得るために日々不安を抱くこともなければよもや飢える心配などすることもなく、人々は平穏な人生を謳歌し、ほとんどは平穏のうちに死んでいく。 今の人たちにとって、遥かな過去にあった激しい戦いのことなど教科書の中のことでしかない。ましてやアーサー王が築き上げた王国や、そのために起きた戦いなど、伝説として語られるだけの夢物語ですらある。 でもあいつにとっては、過去のことはついこの間のことなのだ。 ちょっとしたことから昔のことを思い出すかもしれない。自分がかつて戦いを演じた土地で、生々しい傷跡を見つけるだろう。 そんな時、俺は気づいてやれるだろうか。 唇を食いしばって、なんでもない、と言ってしまう大馬鹿野郎の嘘を咎めて、彼女を泣かせてやることはできるだろうか。 俺が辛かったあの時、叱って慰めてくれたアルトリアのように――俺は、あいつを支えてやりたい。 アルトリアが苦しい時や辛い時、悲しいことを思い出して思わず泣いてしまいたくなった時に、すぐに気づいて彼女のそばにいてやりたいと思う。 せめて俺と一緒にいる時くらいは、アルトリアが弱くなれるように。 「……わかるよな。アルトリアのことだもんな」 自分に言い聞かせるように口の中でつぶやく。 なにも心配することはない――誰よりもあいつのことを想っている俺なら、気づかないはずはない。 窓を開け放し、外の空気を部屋に入れる。 八月とはいえ、日本に比べてずっと涼しいイギリスの風が火照った身体を冷やしていく。 気が緩んだのか、少しずつ眠気が襲ってきて頭が少しぼんやりしてきた。 アルトリアはもう眠ってしまっただろうか。それともまだ眠れず、俺と同じように外の空気にでも当たっているだろうか。 どちらにしろ――彼女が見る今日の夢が、心休まる穏やかなものであればいいと――俺は思わず、いるかもわからない神様に願ってしまっていた。 あとがき えー、多分皆さんわかったかとは思いますが、イリヤなんかは今回思いっきり端役です。あんまり出番なしの予定。 基本的にメインは士郎とアルトリアさん。よって今回はアルトリア編という名の士郎編です。結局前回と同じですね。 にしても今回も微妙に凛分が強い気がするなぁ、と。 感想、ご意見などございましたらこちら、もしくはBBSまでよろしくお願いします。 二次創作TOPにモドル |