――ああ、またこの夢か。

 世界に入り込んだ途端、自分がどこにいるのかわかった。世界とは夢の世界。衛宮士郎が眠っている間に訪れる、この世のどこにもない世界だ。
 相変わらずこの世界には何もない。空もなく地面もなく、当然ながら海もない。
 一面は暗い闇に包まれて、平面がどこまでも続いて限りがない。黒い絵の具で塗りつぶされたような中では自分の姿さえ見ることはできず、手も足も身体そのものさえも、あるような無いような曖昧な感じだ。
 ただ、ここに自分はいる。それだけははっきりとしていた。
 もしかしたら、今ここにいる自分は魂だけの存在なのかもしれない。眠っている身体から紐で繋がれて魂だけ離れ、この世界にやってきているのかもしれない――そんな馬鹿馬鹿しいことをふと、真剣に考えてみた。

 夢の世界ってのは寝ている間に魂が遊ぶ場所らしい。
 遊び場は自分が無意識下で願っている願望、欲望を映し出した世界であったり、良くわからない極彩色で塗りたくったような滅茶苦茶な世界だったりする。時には自分の未来の姿を夢に見ることもある、らしい。――確かデジャビュとか言ったか。もっともその未来予知は、その時になって初めて思い出すような役に立たない未来予知らしいのだけれども。

 なんにせよ専門家じゃない俺には、はっきりとしたことはわからない。でも、本当に夢の世界が遊び場なのだとしたらこれほどつまらない遊び場所もないだろう。なんせジャングルジムとか滑り台だとか、そんな簡単な遊具の一つもないのだから。
 それとも、こんな寂しげな遊び場を持っているのは俺だけなのだろうか。
 何もない、真っ暗な世界――楽しみなど何一つなく、ただ果てがないだけの世界。いつまでも終わりに辿り着けない世界。
 そんな世界が遊び場なのだというのなら、きっと俺という人間はどこかおかしいのだろうと思う。

 だが、この夢はそんな夢分析の参考にはならないだろう。何故なら今俺が見ている夢は、普通の夢とは少々趣が異なる。
 この後、夢がどんな展開を見せるか、俺にはだいたいわかっていた。ここのところ毎日見ていれば、そりゃ内容だって覚えるってもんだ。

 暗い世界の、遠い手の届かない向こう岸に光が見えた。
 光は急に見えるようになったのだけれど、最初からそこに存在していた。ただ暗いだけの世界にある、唯一の異物。
 と、言うよりはこの世界自体があの光のためだけに存在すると言ってもいいのではないかと思う。順序が逆なのだ。この世界の中にあの光があるのではなく、あの光があるからこそ、この世界がある。
 この闇は、ただアレを見せるためだけに用意されたんじゃないかと、最近思うようになってきた。


 ――アレは俺にとって何かとても大切なモノだ。


 だから俺は手を伸ばした。毎日のように、結局届かないと知りながらも諦められない子供のように頑なに手を伸ばし続ける。
 実際のところ、どうやったらあの光を手にすることができるのか、俺には全くわからない。そもそも伸ばしているのが手なのかどうかすらはっきりしないのに、どうして届くなどと思うだろう。
 でも俺にはこうすることしかできない。だから頑なに手を伸ばし続ける。

 ――届け。

 祈りにも似た想いはしかし届かず、結局いつも通りに意識が浮き上がる感覚を覚え始める。

 ――届けッ。

 闇を切り裂く太陽のような光が上から降ってきて、俺は全身に浴びながらなおも手を伸ばし続けた。
 ぼんやりと光の中に埋没していく光――剣を見つめながら、俺はゆっくりと浮かび上がっていく。

 まだ何かが足りない。
 あの剣を手にするために、俺に足りないものは何か。
 徐々に覚醒していく曖昧な意識の中で、俺は思い浮かべては霧散していく理想の剣の形を必死に留めようとしていた。





Day Dream/vow knight

――night 11――

『渡英』






 光に導かれて目を覚ましたら、やっぱりそこも暗闇だった。
 だが、途絶えることなく聞こえてくる唸るような低い音と、かろうじて見て取れる周囲の輪郭のおかげで自分が夢の世界から還ってきたのだということを実感させてくれる。
 俺は狭くて硬いところに自分の身体を押し込めるようにして座っていた。多少きつく感じるのは、自分の身体が以前より成長しているせいだと思うと、あまり悪い気分はしないのだから現金なものだ。人より小柄だったことに少し劣等感を感じていた分、そんなことを感じるのだろう。

 二つ三つ目を瞬いて、ようやくぼんやりとした意識がはっきりしてきたところで、同行人の彼女たちのことを思い出す。
 確か彼女らも機内灯が落ちたところで寝たはずだけれど――と、数時間ほど前にあった出来事を思い出しながら右手に顔を向けると、アイマスクをして眠っている遠坂がいて、その一つ隣で小さく寝息を立てているイリヤがいた。

「…………」

 逆側、今度は左に頭を倒すと何か妙に難しい顔をしながら、それでも眠っているらしいアルトリアがいた。

 とりあえず彼女たちがちゃんと傍にいてくれていることに安堵する。いちおう俺は男なわけだし、彼女たちは女の子だ。古い考えだと言われるかもしれないが、やっぱり男ってのは女を守ってやらなきゃとか思ったりする。それでなくとも三人とも俺にとっては大切なひとたちなわけだし。
 だから彼女たちが眠っている顔を見れただけでなんとなく安心して、シートに身体を預けた途端に小さくため息を吐いた。

「……にしても、エコノミーって言うだけあってやっぱシートが安いよな」

 飛行機が空港を離れてから、かれこれ十時間近い時間が経っている。それだけの間、この固いシートに座っていればどうなるか。
 じんじんと痛む尻に耐えかねて、ぽつりと愚痴が漏れてしまう。いくら悪い気分はしないと言ってもさすがにこれは辛い。
 思わず出てしまった声に慌てて周囲を見回したが、囁くような小さな声だったので、誰も気づいていない。ほとんど無意識みたいなもんだったが、今が真夜中で他の乗客は寝ているのだという自覚はまだあったようだ。

 それにしても、誇大広告だと思う。何がというと航空会社のパンフレットなわけだが。
 エコノミークラスでも快適な空の旅をお楽しみいただけます、とか何とか言っておきながらこの尻の痛みに耐えろというのはさすがに詐欺なんではないだろうか。機内食にしたってうちの王様の舌を満足させるには程遠く、俺が宥めなかったら危うく彼女の野生が目覚めるところだったのだ。
 とはいえ、贅沢を言ってもはじまらない。俺にしたって遠坂にしたって、所詮は学生なわけだしビジネスクラスだの、ましてやファーストクラスだなんて未知の領域に踏み入ることができるような財産を持っているわけがない。いや、遠坂はもしかしたら手持ちの宝石を売れば踏み入れることもできるのかもしれないが、基本的に金欠である彼女がそんな真似をするとも思えない。

『贅沢は敵よ』

 と、真顔で言うやつがビジネスだのファーストだの……なぁ?
 お腹の上で手を重ね、彫刻のように身動ぎもせずに眠っている俺のお師匠様のずれ落ちかけた毛布をかけ直してやる。と、何やら口元でむにゃむにゃと言いながら丸くなってしまった。まるで猫のような仕草に、一瞬、猫の耳を頭につけて『にゃあ』と鳴く遠坂を脳裏に投影して――慌てて打ち消した。

 ――こんなこと考えてたのが遠坂にばれたらいったい何されるか。

 まさかとは思いつつも、時折、まるで俺の脳の中身でも覗いてるんじゃないかってくらいの鋭い洞察力を持つ遠坂だから油断はならない。しかしそれにしても馬鹿なことを妄想してしまった自分に苦笑しつつ、硬いシートに背中を預けて仰向けに天井を見つめた。



 それにしてもまさか、夏休みに海外旅行なんてすることになるとは思ってもみなかった。
 目的地はイギリス。魔術師たちの総本山である時計塔があり、そしてアルトリアの故郷でもある国だ。
 国家としての本来の正式名称を『グレート・ブリテンおよび北アイルランド連合王国』といい、国旗もイングランド、スコットランド、アイルランドの国旗を三つ重ね合わせて作られている。形式上の事とはいえ、いまだに王制の形を保っている深い歴史を持つ国だ。

 そんな国に俺が行くこととなったきっかけは、遠坂のところに届いた一通の手紙だ。
 差出はロンドンの時計塔から。二月に終結した第五回目の聖杯戦争の顛末を、生き残った冬木市の管理人から直接聞きたいとのお達しだったらしい。
 遠坂は冬木市の管理人として行かないわけにもいかないし、それに将来のことも考えて一度時計塔を見ておきたかったこともあり即座に渡英を決めて、そして俺はというと彼女の渡英に同行することとなったわけだ。
 本当なら別に彼女だけで行っても良かったのだけれど、師匠として、弟子に時計塔を見せておくのも後学のためと思ったらしい。

『士郎、あんたも一緒についてくる? いやむしろついてこい。師匠命令よ』

 とまあ、お誘いは一瞬で命令に成り代わり、俺の渡英もあっさりと決まったわけだ。反論する余地はなし。
 だがまあ、俺も一応は魔術師である以上、彼女が言う通りに魔術師の本拠地である時計塔を見ておくのは悪くないと思った。
 問題があるとすれば旅費のことくらいだったし、それも切嗣が遺してくれた財産を少し崩せば捻出できるものだった。

 それにアルトリアのこともある。
 彼女は渡英のことを聞くと、自分も一緒に行くと言い出した。

 一度故郷に戻ろうと思っていたし、一度俺に自分の生まれた国を見てもらいたかったと、アルトリアは言っていた。
 だから俺にとって今回の渡英には時計塔の見学だけではなく、アルトリアの故郷を一緒に見に行くことも目的にある。あいつが生まれて王として立ち、幾千幾万の敵と戦い、守ろうとして守れなかった国を見てみたい。
 もっと単純に言えば……アルトリアのことをもっと知りたいってことになるんだろうな。うん、我ながら単純なことだ。

 それからイリヤ。
 きっと彼女の渡英の理由が最も重い理由だろう。なんせ事は命に関わる。

 イリヤは元々聖杯として生み出されたホムンクルスだ。生まれからして俺や遠坂のような普通の人間とはまるで違う誕生の仕方を経ているし、聖杯なんて並外れた魔術機関として造られたのだから、相当の無茶が小さな身体に施されている。放っておいたら一年ももたないくらいの無茶だ。
 イリヤが……妹が理不尽な理由で死んでいくのを座して見ているつもりはこちらには毛頭ない。
 今までイリヤの身体を診てくれていた遠坂によれば、聖杯として造り出された彼女の身体――すなわち膨大な魔力回路を保有するボディを取り替えない限り、根本的な解決にはならないとのことだった。全身に刻まれた膨大な魔力回路そのものが、彼女の命を削っているからだ。
 ならば話は早い。ボディを取り替えるなんて、言葉遣いはまるでイリヤを人形か何かとして扱っているようで気に入らないが、要は彼女のために新しい身体を手に入れて、これから先もずっと生きて生けるようにしてやれば良いだけの話だ。

 遠坂がイギリスに行くと言い出した時、真っ先にそのことが思い浮かんだ。目下のところ俺にとって最大の懸念事項はイリヤのことだったからだ。
 人形師と呼ばれる魔術師たち。卓越した技術を持つ人形師は、まるで人間の身体そのものと見紛うほどのボディを造り出す技術を持っているらしい。彼らならきっとイリヤの代わりの身体を造る事だって可能だろう。
 幸いなことに時計塔には、遠坂の親父さんの知己であった人形師がいるらしい。イリヤのことは彼に頼むつもりだ。

 ……が。いくら縁があるとはいえ、相手は生粋の魔術師だ。

『封印指定の人形師を除けば、その技術は当代随一よ。魔術師の中の魔術師と言っていいわね。衛宮君みたいな半人前とは天地ほどの差があるわ』

 最後のひとことが余計だったものの、自身、天才の呼び名を冠するに相応しい遠坂にそうまで言わせる魔術師が一筋縄で行く相手のはずがない。
 等価交換――魔術師とは切っても切り離せない言葉がある。
 骨の髄からの魔術師を交渉相手にとして向こうに回し、等価交換の言葉の下にいったい何を要求されるか……それが懸念といえば懸念だった。



◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆



「――先輩」

 小さく、囁くような声で袖を握っているのは、ずっとずっと俺の家族でいてくれた女の子。
 空港のエントランスで、くぐもった英語で飛行機の到着を告げる声にかき消されそうな声で俺を呼んだ桜。

 忙しげにスーツケースを転がして行きかう人々の中、俺たちはそこだけぽっかりと穴が空いたように人を寄せつけず向き合っていた。
 俺は今からイギリス行きの飛行機に乗って、遠い海の向こうに渡ろうとしている。桜はその見送りに来てくれている。俺の横には対して中身のない軽いスーツケースがあって、対して桜は何も持たない手ぶらな格好。お互い服装はいつも通りだけれども。
 なのに、どうして同行するはずのアルトリアと遠坂、それからイリヤがいないんだろう。それに藤ねえだって桜と一緒に見送りに来ているはずなのに。

「先輩」

 もう一度、弱々しく呼ぶ声で我に返り、俺の胸元辺りに頭がある桜を見下ろす。
 目の前の、すぐ届くところにいる桜は、囁くような声と同じでなんだかいつもよりもずっと小さく見えた。

 お腹の前で強く手を握り締め、俺を引きとめようと掴む指は身動ぎしただけで振り払えてしまいそうなほどに儚い。俯いて目元は長い髪に隠れ、彼女が今どんな顔をしているのかもわからない。もしかしたら悲しげに曇っているのかもしれないのに。

 ――なんでさ。

 何故、桜がこんな寂しげな声を出さなきゃいけない。

「わたしは……行っちゃ駄目なんですか、先輩」

 ――そんなことはない。

 こんな桜を見たくなくて、どうにかしていつもみたいに笑って欲しくて、声を限りに叫ぼうとした。だが俺のモノであるはずの声は、俺の意思に反して喉から出てこようとしなかった。引きつったようにひゅーひゅーと、喉ばかりが必死に足掻くだけで、桜にかけてやるべき声はひとことたりとも出てこなかった。

 桜はそんな俺を下から見上げたようだ。顔を隠している髪が少しだけ揺れて、一瞬だけ目元を覗かせた。
 その目は、まるで光を失ったかのように暗く淀んでいた――ような気がした。

「先輩は……わたしを置いて行っちゃうんですか」

 ――そんなことはない!

 言おうとしてもやはり言葉は出なかった。
 否。出なかったのではなくて、出せなかったのだ。
 何を言ったところで、俺が桜を置いて行ってしまったのは紛れもない事実だと、自分でもわかっていたから。

 桜はそんな俺を、また下から見上げていたようだ。顔を隠している髪が揺れて覗いた目元を、今度ははっきりと見た。

 ぞくり、と背筋に蟲が走るような悪寒を感じた。
 彼女の瞳は、まるで惹き込まれていきそうなほどの黒だった。いや、むしろ色が無い、と言ったほうがいいのだろうか。
 呑みこまれそうなほどに深く、凍えてしまいそうなほどに冷たくて、陽だまりのような桜には決してあってはいけない瞳の色だった。

「やっぱり先輩も……あのひとがいいんですね」

 『あのひと』と桜が言う人物が誰のことか俺にはわからない。ただ、その人を呼ぶ桜の声には他に例えようも無いほどの負の感情がこもっている。
 気がつけば――いつの間にか周囲から光が失われている。空港のアナウンスも人がスーツケースを転がす音も聞こえない。あれだけ行きかっていた人々の姿は、闇に喰われたかのように消え去っていた。

 いるのは俺たちだけだった。
 何もない真っ暗な、まるで穴倉のような空間に俺と桜の二人だけが立っていた。

 ――さくら。

 呼ぼうとしてもやっぱり声が出ない。
 いや、声だけでなく指の先一本も動かせない。まるで暗闇に捕らわれたように身動ぎ一つ許されず、呼吸すら満足にできているのかすら疑わしい。
 なんでかって、こんなにも息苦しいのだから。身体が、肺が、脳が酸素を求めて足掻いても、この息苦しさから解放されない。
 だんだん頭が血が上ってきたみたいに熱くなっていき、代わりに手足が徐々に冷たくなっていく。

 ――苦しい。

 急にではなく少しずつ少しずつ、苦しさが増していく。胸の辺りが少しずつ重たくなっていって痺れていく。欲しい欲しいと訴え続けるその痺れは、少しずつ水が染みていくように全身に広がっていく。

 ――苦しい、クルしい。

 喉を掻き毟ろうとして、指先すら動かないことに気づいた。そんな簡単なジェスチャーすら、今の俺には許されていない。
 結局声を出そうとして、でもいくら訴えようとしても声は出ず、貪るように空気を欲しても望んだモノは得られない。こんなにも欲しいのにどうして――

「先輩……ふふっ」

 ――桜が、ワラっていた。

 まるで嘲るように艶やかに、下から俺を覗き込んで嗤っていた。
 おかしい。こんなことはありえない。桜の笑顔がこんなだなんてあっちゃいけない。だって俺の知っている桜はもっとあたたかい。
 だからこんなことはありえない。これは夢だ、夢でしかないはずだ。そうでなければいけない。

 夢ならば……早く覚めてしまえ。こんな悪夢などこれ以上見ていたくない。

「……先輩。先輩は」

 囁くような桜の声に彼女を見下ろす。
 いつの間にか桜は俺を見上げていて、今まで見えなかった彼女の顔がはっきりと見て取れた。

 桜は――

「先輩は、わたしを……」

 ――桜は、嗤いながらとめどなく涙を零していた。



◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆



「士郎っ、そろそろ着くわよ!」
「ッ!?」

 揺り起こす声に目を開くと、真正面から俺を見下ろしている女の子の顔があった。切れ長の綺麗な瞳ができない子を見るようにこちらを見つめている。
 ……桜じゃ、ない。
 通路を挟んだ向こう側に見える窓の外にあるのは、どこまでもひたすらに続く薄く青い空、そして白い雲。
 俺はまだ空の上にいるのだから、こんなところで桜に会えるはずがない。

「あぁ……そっか」

 どうやら俺は本当に夢を見ていたらしい。仰向けに天井を見たまま、気づかないうちにまた眠ってしまってたみたいだ。
 あれからどれくらい経ったのだろうか。もう機内に光が戻っているしは明けているけれど、ちょうど朝食の時間ってところだろうか。

 ――に、しても。

 まだ慣れない光がまぶしくて目を細めながら、起こしかけた身体をもう一度シートに預けて小さくため息をついた。
 俺はよりにもよって、なんて夢を見てしまったんだろう。今すぐにでも桜のところに飛んで帰って膝を屈して謝りたい気分だった。あの桜があんな――あんな風に嗤うわけ無いじゃないか。それに見送りの時だっていつも通りだったのに。
 そりゃあ……少し寂しそうにはしていたけれど――。

「ちょっと士郎、どうしたのよ。すっごい汗かいてるわよ。ほらタオル」
「ん、すまん遠坂。いや、少しばかり夢見が悪かっただけだから心配するなよ」
「別に心配なんかしちゃいないわよ」
「あっそ。……ところでイリヤは?」
「あの子だったらさっき起きて、今は顔洗いに行ってる」

 起こしてくれた女の子――遠坂が顔に押し付けてきたタオルで汗を拭く。ほんとはタオルで拭くだけじゃなくって、汗を吸って湿っているシャツも取り替えたいところだが、さすがにここで着替えるわけにもいかない。そんなことしたら空港に着いたところでいきなり現地警察のお世話になってしまう。
 とりあえず顔の汗を拭き取って、ふと隣を見るとまだ夢の世界にいるらしいアルトリアの寝顔があった。
 聖杯戦争中、魔力の消費を抑えるために昼間は眠ってばかりいたアルトリアだが、サーヴァントでなくなってからも睡眠に対する欲求というのはあまり変わらなかったらしい。普段はそんなそぶりをあまり見せないのだが、学校から帰ってくると昼寝中の彼女を見つけたこともあったし、朝だってお世辞にも強いとは言えない。
 そのアルトリアだが、相変わらずなんだか難しい顔をして眠っている。彼女は彼女でどんな夢を見ているんだか。

「それにしても遠坂に起こされるなんて思ってもみなかったな」
「む。こんな可愛い女の子に朝起こしてもらっておいて、出てくるのがそんな憎まれ口なんて……衛宮君も偉くなったものねぇ」

 自分で自分のことを可愛いなんて言ってしまう遠坂も相当なものだが、事実としてその通りなので、そのことについては何も言うまい。
 だが、しかし。

「そりゃ偉くもなるさ。普段、朝その可愛い女の子のことを起こしに行っているのが誰だと思ってんだよ」
「……ぐっ」

 返答につまり、遠坂がこちらをぎんと睨みつけてくる。が、俺は柳に風と受け流すのみだ。だって事実だし。
 アルトリアが戻ってきて以来、妙にうちに泊まっていく頻度が高くなってきた遠坂。一週間のうち、半分近くはすっかり自分用に改造した離れの部屋で寝泊りしているわけだが……聖杯戦争中に判明したことなのだが、遠坂は朝が滅法弱い。
 なんでも極端な低血圧なんだそうだ。熱しやすいところからして高血圧なんじゃないかと最初は思っていたのだがどうやらそうではないらしい。
 ともあれ、朝になると気配遮断のスキルを発動した遠坂が、ゆらーふらーと台所でメシの支度をしている俺の背後に現れるのだが、朝が弱い遠坂の起き抜けは、にゃんこをかぶった彼女しか知らない人にはオススメできない。クラスの三枝さん辺りに見せたら、きっと彼女は卒倒してしまうだろう。

 ……いや、現実逃避という線も捨てがたいか。

 本性を現した遠坂は、パジャマのカッコのままで髪はぼさぼさで目はやぶにらみ。本人無意識なのだろうが、あの目は誰彼かまわずケンカを売って歩くアウトローのそれに近い。きっと遠坂の目は朝限定で発動する魔眼なんじゃないかと俺は睨んでいるのだがどうか。
 そして一応同年代の異性である俺の前に立ちはだかった遠坂は、ずれ落ちて白い鎖骨を覗かせているパジャマもそのままに、決まってこう言うのだ。

『……ぎゅうにゅう』

 俺は洗ったばかりの綺麗なガラスのコップに牛乳をいっぱいに注ぎ、よこせ、と言わんばかりに差し出されている遠坂の右手に渡してやる。受け取った遠坂は、左手を腰に当て、そのまま男らしく一気飲みしてから白いヒゲを拭うこともなく洗面に行くのだ。戻ってきた時にはすっかりいつものしゃんとした遠坂になっているのだから、その辺りの変身っぷりはさすがにたいしたものだと思う。
 余談だが何故、遠坂が毎朝欠かさず牛乳を飲むのか、俺にはわからない。ただ、時折桜の胸元をビームが出るような勢いで凝視している時があるのだが、きっと関係のないことなのだろうと思う。いや、彼女の名誉のためにもそう思いたいが、真実を確認することはできない。俺とて命は惜しいのだ。

 これがつい二ヶ月ほど前までの遠坂凛の朝の生活の様子である。
 で、今現在それがどう変わったかというと、実のところそんなにたいして変わったわけではない。
 ただ単に、自分で起きないようになってしまった遠坂を俺が起こしに行って、ついでに部屋から出てきた寝ぼけ眼の彼女の手を引いて台所まで連れて行くようになったっていうだけである。後は以前と全く同じ展開だ。
 ……ていうか、俺は時々自分がお母さんなんじゃないかと錯覚するときがあるのだが、遠坂自身は俺をなんだと思っているんだろうか。

「そんなわけだからして、この件に関しては俺の勝ちってことで」
「……そんなわけってどんなわけよ、いったい」

 悪態をつき、口の中でぶちぶちと文句を言いつつも面と向かって反論してこない辺り、本人も自覚はしているらしい。
 ……ま、俺としては少しくらい迷惑かけてくれたほうがいいんだけどな。魔術師の等価交換ってのとはまた別で、遠坂には世話になってるし、そんなこと抜きで、俺は遠坂を半分以上家族みたいなもんだと思ってるし、な。

「で、ほんとにどうしたんだよ。いつもはあんなに寝汚いのにさ」
「あんた、自分がアドバンテージ取ったからってここぞとばかりに言いたい放題ね……」

 ――いや、ゴカイだ。そんなつもりないから死ナス視線で見つめないでくれ、目を逸らしたくなるじゃないか。

 俺のそんな心の声が聞こえたのか、遠坂はふんと忌々しげに一度こちらを睨みつけて、照れたようにそっぽを向いた。

「……だからよ。朝が弱いって自分でわかってるからこんな早起きしたんじゃない」
「……ああ」

 確かに周囲皆一般人だらけの中で、あのお姿をご披露するわけにはいかないからなぁ。
 だから他の誰よりも早く起きて、さっさと洗面済ませていつもの遠坂凛にメイクアップしたってわけか。なるほど、納得だ。

「ったく、あんたもこんなことわざわざ言わせなくても気づきなさい。毎日のように見てんだから」
「う……いや、すまん」

 確かに失言だった。遠坂は女の子なんだから、こんなことを自分から言うのは相当恥ずかしいだろう。だから俺も素直に謝ることにする。遠坂に恥ずかしい告白をさせちまったのは、間違いなく俺なのだから。

 ……が、遠坂はここからが違った。

 憤懣やるかたない、といった表情をしていたかと思えば、一転して口元をニンマリと歪めてイヤな笑顔を向けてきて、

「あーあ、まさかこんなやり方で男の子に辱められるなんて思ってもみなかった。衛宮君てば意外と……なのねぇ。この分じゃアルトリアも夜、どんなことをお強請りされてるかわかったもんじゃないわねぇ」

 なーんてことを言ってくれました。
 ……って、誰が何をアルトリアにシテるって!?

「お、おまっ、遠坂っ! おまえナニ人聞きの悪いことをっ!?」
「あら、別にわたしはちょっぴり気になったことを言っただけだけど? 心に疚しいところが無いならこの程度でうろたえるはずないんだけどなぁ」
「ぐっ……と、トーゼンだろ! 俺は清廉潔白の身だッ!」
「ふぅん……だったら本人に聞いてみましょうか?」
「え?」

 遠坂が指差した方向に顔を向ける。遠坂のほうを向いていた俺の真後ろ、つまり俺の右側の席に座る人の方向へ。
 そこでは、いかにも私は寝起きです、という表情をしたアルトリアが、ぼんやりじっとりと俺を見つめていた。

 実を言うと、アルトリアもあまり寝起きが良くない。

「お、おはよう、アルトリア」
「…………」

 挨拶をしてもぼーっとしたまま、何も言わずこちらを見ている。綺麗な碧眼をまだ眠たげに細めながらしょぼしょぼと瞬いているだけなのだが……な、なんだろう、この不思議なプレッシャーは。
 今日のアルトリアはなんだかいつもとちょっと様子が違う。いつもの寝起きはこう、なんだかほんわかとしていて例えるなら干したばっかりのふとん、という感じなのだが、今のアルトリアは例えるなら万年床のせんべいぶとん、といった感じだ。自分でもなに言ってるのか良くわからんが。

「え、えーと、アルトリアさん?」
「…………」

 再度話しかけても無言。代わりに眠たげに目をこすりこすりしている。
 む、むぅ……この仕草は初めて見たぞ。普段はどちらかといえば凛としていてあまり隙を見せないアルトリアの、こういう幼げな仕草は新鮮だ。今この手の中にカメラがないのが惜しい、惜しすぎる。

「あんた、どうでもいいけど襲うなら場所考えてから襲いなさいよ?」
「誰がそんなことするか大馬鹿者……ッ!」

 不意に俺の手のひらを包む柔らかい感触に、声が詰まった。

「シロウ……」

 視線をそちらに落とせば、手を伸ばしてきたアルトリアが両手で俺の手を包み込んでいた。まるで宝物を扱うような繊細で優しい手つき。改めて確認できたのだが、やはりアルトリアの手は小さくて柔らかくて、少しだけひんやりとしていて気持ちがいい。
 だが対象的にアルトリアの形の良い眉はどこか悲しげに八の字を描き、唇はへの字を描いていた。

「シロウ……私は恐ろしいのです」
「お、おそろ? なにがいったい?」

 アルトリアの口から恐ろしいなんて言葉が出てくること自体珍しい。いったいなにが恐ろしいというのだろうか。というかむしろ、俺は背後から鋭い視線をがすがすと突き刺してくる遠坂に後でなに言われるかのほうがよほど恐ろしいのだが。
 とはいえ、アルトリアはどうも真剣なようだし……いやでも、どう見ても半分夢の中の状態で真剣といえるのかどうか。

「シロウ……聞いてください」
「わ、わかった。どうしたんだ、アルトリア?」
「……飛行機が」
「飛行機が?」
「ざ、雑な料理を大量に積んで落ちてくるのです……家に」

 ……えーと、つまりそれは飛行機が墜落するのが恐ろしいのか、それとも雑な料理が恐ろしいのかどっちなのだろう。
 多分、後者だと思うのだが。

「そして大河が『空が……落ちる……!!』と言いながら私に雑な料理を無理矢理……!」
「あー……はいはい、それは怖かったろうな。……日本を離れても出てくるのか、藤ねえ……」
「なにその子、寝ぼけてるわけ? というかまだ寝てるの?」
「寝ぼけてるの半分、夢の中半分ってところだろうな」

 ごしごしと目の前にある小さな頭をかき回すように撫でながら遠坂に後頭部で応える。実際アルトリア、今も半分くらい落っこちそうになってるし。
 それにしても……夢に見るほど嫌だったか、あの機内食。確かにお世辞にも美味いとはいえなかったけどさ。向こうについたらちゃんと美味いメシを食わせてやらなきゃな。いい食材が手に入ればいいんだけれど。

「いいけどさ、あともう少ししたら着くんだから、それまでにちゃんとその子起こしておくのよ」
「ああ、わかってる。朝飯が来る頃には起こしておくよ」

 こっくりこっくりしていたアルトリアが完全に二度寝するまで頭を撫でてやって、身体からずり落ちた毛布をもう一度かけ直してやる。いい機会だから、アルトリアの寝顔をじっくりと拝見してやろう。いつもは起きたらすぐにメシの支度だからあまり長いこと見てる暇はない。なんせそんなことで朝食が遅れたら、その日一日はずっと機嫌が悪いまんまだからなぁ。

 だからじっと寝顔を見つめてやるのだ。
 眠っているアルトリアは、起きているときに比べると少し幼く見える。というか、むしろ外見年齢相応なんだろう。そしてもうわかりきっていることだが、やはりアルトリアはとんでもない美人さんだ。
 使い古された言葉だけど雪のように白い肌はきめ細かくてすべすべしている。思わず触ってしまってるわけだから手触りだってわかってしまうのである。眠っているから解いているさらさらの金髪は、肩口までだったのが少し伸びて今では背中にまで届いていた。ポニーテールとかもいいかもしれないなぁ。

「……ちょっと士郎」

 瞬間、アルトリアのほっぺたと髪の毛を撫で回しながら俺は凍りつき、まるで鉄棒を突っ込んだかのように、背筋がぎしりと音を立てて伸びきった。

 幸せいっぱい夢いっぱい、おいおいここはぱらいそかい? といった気分だったところに突如として突き刺さる殺意の波動。
 いや、別に殺気はこもってないのだが、鋭すぎる視線が抉りこむように俺の背中に突き刺さっているのは間違いない。

 恐る恐る振り返ると――うわぁい、眼光ギラギラ血管ピクピクしてますよ遠坂さん!?

「あんた……寝てる女の子をべたべた触るのはいくらなんでも強姦と変わんないわよ?」
「う゛っ!? こ、これはアレだ、いわゆるスキンシップというやつであって」
「……随分と一方的なスキンシップねぇ」

 棘がいっぱい立ちまくってまるでウニかハリセンボンかってなくらいにつんけんした遠坂の言葉に俺、しどろもどろ。気分は蛇に睨まれた蛙、もしくはグドンに睨まれたツインテールだ。俺と遠坂なら立場が逆なはずなのに……おかしい。もしかして俺は海老の味がして美味しいのかしらん。
 万が一そうだとしたら、今度はアルトリアにも狙われてしまう――などと考えている俺はきっと現実逃避しているのだろう。
 だがいつまでも逃げてても仕方ない。昔の偉い人も言っていたしな、逃げちゃダメだ、って。

 というわけで俺、反撃を試みてみる。

「いっ、いいだろ。俺とアルトリアはほら、いちおうこっ、恋人同士という甘く切ない関係なわけであって……だからその、ダメ?」

 繰り出された反撃は貧弱と連呼してしまいたいくらいに貧弱だった――

「……ま、あんたとアルトリアがそれでいいって言うなら別にいいけどさ」
「やっぱりダメですか……って、あれ?」
「あれ、じゃないわよ。触ろうが舐めようがかじろうが、あんたの好きにすればいいじゃない」

 ――のだが、どうやら俺の反撃は見事に赤いあくまの撃退に成功したようだ。いや、別に舐めたりかじったりはしないけど。

「えっと、いいのか、遠坂?」
「いいもなにも、別にわたしが口出しするようなことじゃないじゃない」
「そりゃまそうだけどさ……」

 だったらなんでこんなに遠坂は不機嫌なんだろうか。
 口出しするようなことじゃない、とか言いながら視線は相変わらずやぶにらみの視線だし、引き結ばれた薄い唇は思いっきりへの字口だ。

「はぁ……なんでわたし、こんなこと言おうとしてるんだろう」

 と、遠坂は首を捻っている俺をしばしそのままで見ていたが、やがて諦めたように大きくため息をついた。
 そして今度こそ完全に柳眉を逆立て、僅かとはいえ明らかに怒りをこめた口調で捲くし立てる。

「あのね衛宮君、確かにいくらあんたとアルトリアがいちゃいちゃしようが、どこでバカップルやってようがわたしは別にどうだっていいけどね、どうだって良くない人間がいるってことくらいちゃんとわきまえなさい! TPOよTPO!」
「は、はい? どうでも良くないって……誰が?」
「ッ! そんなことくらい自分で考えて自分でわかれバカっ! 鈍感も朴念仁も度が過ぎれば罪悪なの、ついでに無駄に優しいのも!」

 言いたいことを言うだけ言って、遠坂は口を頑丈に結んでそっぽを向いてしまった。
 ……なんか、良くわからないけど怒らせちまったみたいだな。ということはきっと俺に何か悪いところがあったのだろう。遠坂は確かに無茶苦茶なことを言うやつだけど、真剣に怒っている時のあいつは、決して見当違いなことを言わないってことも俺は知っている。
 この場合、問題は結局なにが悪いのか、俺にはさっぱりわからないってことだろう。要するに鈍いのを治せっていうことなんだろうけど……なんでさ。

 だけどさ、遠坂。
 TPOって言うならおまえにも少しはわきまえて欲しかったな、TPO。
 今のやり取りで俺たち、すっかり周りの注目集めちゃってるし……いや、痴話喧嘩なんかじゃないんだってば。



 で、その後、洗面から戻ってきたイリヤに衆目の前で思いっきり懐かれて、ようやくほとぼりが冷めてきた周囲を再び沸かせてしまうのはまた別の話。
 というか、イギリスに到着する前からこの調子で大丈夫なんだろうか、俺は……





あとがき

 なんか……まーた地の文の分量が増えたような気がします。
 つーわけで新展開、舞台はイギリスです。イギリスといえばロンドン、ロンドンといえば時計塔。となれば皆さん期待されるのはアレですね。

 雑な料理に激しく反応するアルトリア。

 ではなく、ルヴィアゼリッタさんかと思います。さてどんな扱いになることやら。答えは私だけが知っている。
 にしても今回は微妙に凛分が強い気がするなぁ、と。


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