湿っぽい梅雨の毎日、僅かに訪れた太陽の姿。雲間から伸びる光の手が公園に立ち並ぶ木々に投げかけられ、地面には枝葉の影が風に揺れている。
 昨日まで降り続いていた雨の痕は水溜りとなって残り、日の光をきらきらと返して輝きながら空の水色を映し出していた。
 雨の後だからか、こんな時間だからか、公園には誰もない。
 使う子供のいないジャングルジムは地面にぽたぽたと水滴を零し、滑り台もびしょ濡れになったまま。砂場では子供たちが作ったおうさまのいない砂の城が風雨に晒されて、無残にも壊れかけていた。

 そんな公園にぽつんと一つだけある小さなベンチ。

 湿り気を含んだ六月の風に吹かれて、その上に転がっていた開きっぱなしの傘が、まるで首を傾げるように傾いて向きを変える。
 少し大きめの、男物の傘。数日前にこの公園で貸し出した俺の傘だ。

「……」

 歩み寄って傘を取って、閉じる。
 傘の影には風雨から守られるようにして、江戸前屋のどらやきの包みと総菜屋のおにぎりの包み、それからお茶の空き缶が転がっていて――

「なんだよあいつ……なんだかんだ言って、しっかり平らげてるんじゃないか」

 その時のことを思い出して、何故だか笑ってしまった。
 ちっとも愉快な思い出でもなんでもないのに、何故だか俺は微笑んでいたけれど――

 水溜りに映った自分の顔は、無様に歪んで映っていた。





 廃屋で、ファルシュハイトを膝に抱きながら、俺は天井を見つめていた。
 彼女の身体はまだ温かくて、硬くない。
 頬に触れれば確かな弾力を持って返してくるし、膝の上は彼女の体温で少し汗ばんでさえいる。
 伏せられたまつげは長く、形のよい唇は小さく開かれていて、血と泥を拭った白い顔はやっぱり綺麗で成長した暁のイリヤを思わせた。

 まるで、ただ眠っているだけのようにさえ見えた。
 少し揺さぶってやれば、眠たそうに目をこすりながら起きてくるんじゃないかって、そんなことさえ考えた。

 でも、動かない。
 当然だ、彼女は死んでいる。俺が殺したのだから。死んだ人間は、いくら起こそうとしても目を覚ますことはない。いくら早く起きろと急かしたって、寝ぼけ眼を見せてくれるなんてこともない。
 ただずっと、眠っているだけ。
 ……いや、眠っているというのもきっと間違いだ。何故なら、死んでいては夢を見ることすらない。

「夢さえ見れないっていうなら、おまえは今、なにを見てるんだろうな」

 話しかけても当然、答えは返ってこず――

「……そろそろ、行こうか」

 ――俺は彼女の頬を一つ撫でてやって、その身体を抱き上げた。
 ファルシュハイトの身体はすごく華奢で軽くて、死んでしまっているのにまるで羽のようだった。


 先ほどまでは白みがかった灰色だった空は、俺たちが廃屋の中で待っていた間に鉛色の空に変わっていた。その内側にたくさんの雨を抱え込んで、下から見上げていてもその影が透けて見て取れるほどに。
 彼女のために空が泣いてくれている――そんなことを考えてしまうのは、俺が感傷に浸っているからなのだろうか。

 ファルシュハイトはこの森に埋めてやることにした。
 実際問題として彼女をこのまま人里に連れてって弔うことはできないけれど、そうでなくてもこの静かな森で、静かに眠らせてやりたいとそう思った。
 俺と、アルトリアと遠坂と、それからファルシュハイトの妹たち。見送ってやれるのは俺たち六人だけしかいない。
 他の誰かと触れ合うことのなかった彼女だから――いや、もしかしたら誰か彼女を送ってやりたいと思う人が他にいるのかもしれないけれど――今は俺たちだけしかいないから、他ならぬ命を奪ってしまった俺が見送るのを許してほしい。

「せめてその服だけでも着替えさせてやれれば……良かったんだけどな」

 俺が莫耶で穿った胸元は黒ずんだ血の色に染まっていて痛々しい。女の子なのだから、最期くらいはせめてもっと、綺麗な格好で見送ってやりたいのだけれど……生憎、そんなものここにはどこにもない。仕方ないから、少しでも血を拭ってやろうとしたら遠坂に怒られた。

『あんた、女の子の胸まさぐろうなんて変態じゃないの?』

 もちろんそんなつもりなど欠片もなかったが、男の俺がそれをしようとしたんだからそう言われるのも無理はない。代わりにアルトリアに拭ってもらったのだけれど、服はすっかり血を吸って固まってしまい、殆ど染みは拭えなかった。

 だから、彼女の胸はまだ紅いまま。

 その紅の色が、否応なく俺の胸を焦がして罪を心に焼きつける。
 だが、それはいけないことだ。彼女を殺してしまった俺の行動は決して間違ってはいなかったのだから。それが間違いであると俺が思ってしまうのは、彼女たちの無事を否定してしまうことと同じことだから。

 だが今の俺には、この結果を受け入れることができていない。そればっかりはいくら否定しようとも否定できない。
 こんなにもやりきれない気持ちを、どうやって否定しろというのだ。

 残心――己の行動のその先にある結果を受け入れるその行為――あのとき、莫耶を握った右腕を突き出した俺の心にそれはなかった。
 あのときの俺はただひたすらに、アルトリアとイリヤを護ることしか考えていなくて、そのせいでファルシュハイトが死ぬことになるなど念頭の外にあった。
 ……我に返ってみれば、そのときにはもう彼女の身体から命は失われていて、俺の手は彼女から流れた真っ赤な血に包まれていた。


「士郎」

 歩み寄ってきた俺に気がついて遠坂が振り向いた。泥仕事をさせてしまったせいで、白い頬が少し土に汚れてしまっている。

「ごめん、みんなにばかりそんなことさせちまって」
「なに言ってんのよ。士郎を止めたのはわたしたちなんだからそんなことは気にしないでいいの」

 遠坂は俺が抱いているファルシュハイトの目をやりながら少しだけ眉をしかめて、

「……士郎の傷が一番ひどいんだから。少しくらいは大人しくしててほしいのよ」
「それを言ったらアルトリアだって同じだろ」
「いいえ。私の傷は血が派手にしぶいただけで、そんなに深くはない。シロウに比べればずっと軽傷です」
「……そっか」

 そう言った遠坂に追随して言うアルトリアに、これ以上俺も何も言うつもりもなかった。
 ファルシュハイトを葬ってやるための墓穴は、彼女たちが掘ってくれた。本当ならば俺も手伝いたかったのだけれど、傷が深いからと遠坂が許してくれなかった。もちろん、アルトリアも、イリヤもリズさんもセラさんも。
 おかげで俺は、ファルシュハイトと二人、廃屋の中で待っている羽目になったのだ。

 足元に掘られた穴は森の中でも一際大きな木の根元に掘ってあった。
 あまり広くも深くもなく、人が一人横たわったらそれでいっぱいになってしまう程度の広さだけど、これで十分だ。

「ありがとう、みんな。ご苦労様」
「いえ、そんなことよりもシロウ様……彼女をそこへ」

 セラさんに促され、彼女を穴の中に横たえる。
 湿った黒い土は冷たく、触れた爪先が少し泥に汚れた。横たえて、胸の前で手を組ませてやりたかったけど……足りない左手の代わりに彼女の手を強く握り締めて、そうしてからそっと胸の上に右手を置いてやった。

「シロウ」

 彼女の傍らに腰を降ろしている俺の背中に澄んだ声がかかる。

「シロウは、悲しんで、くれてる?」
「ああ……どうなんだろう。わからない、わからないけどさ……」

 リズさんの言葉を聞きながら彼女の頬をそっとくるりと撫でる。
 自分が感じているこのやり切れない気持ちが悲しみなのか、それとも別の何かなのか。

「わからないけど……」

 ぽつりと、手のひらと頬に水滴が落ちて伝って流れていく。
 それは俺が零したものでも彼女が零したものでもなく、空から零れた涙雨だった。





Day Dream/vow knight

――night 10――

『往く先の果て』






 束の間だった非日常が終わって日常に戻ってからもう一週間が経った。
 今では俺の怪我もだいぶ癒えて、どうにかごまかしながらもこうして久しぶりに学校に通い、アルトリアはすっかり良くなって毎日家事に勤しんでいる。
 遠坂はといえば、今回の一件で失った宝石たちを惜しみながらも、

『衛宮君、あなたが使った分はちゃんとツケとくからね』

 などと、とってもありがたいお言葉を贈ってくれた。そういや俺、聖杯戦争のときの借金もあるんだっけか……

 そんなこんなで、あっという間に時間は過ぎ去って一週間。

 この一週間、振り返ってみれば、僅かに残った非日常の残滓のおかげで藤ねえがフィーバーして、その熱を鎮めるのが大変な一週間だった。
 具体的に言うと、怪我をして帰ってきたことのいいわけだとか、リズさんセラさんのメイドコンビの今後のことだとか。
 そして、俺の妹となるイリヤのことだとか。

 怪我のことは、適当にごまかした。殆どの傷は遠坂とイリヤの魔術のおかげで塞がったけれど、大きかった傷はそれでも塞ぎきれず、結局俺は学校を一日休む羽目になった。それを俺は転んだからと、誰も信じないような嘘でごまかした。
 当たりまえだが藤ねえも、そして桜も信じちゃいないだろう。納得だってしてくれるわけもない。
 それでも彼女たちは深く立ち入ることはせず、頷いてくれて――俺は申し訳なくて、その日は二人のために少し豪華な晩飯にした。

 リズさんとセラさんは、結局藤ねえの家、というか藤村組に居候することになった。
 最初は二人とも俺の家に居候するつもりだったらしいのだが、そこはさすがに藤ねえが断固として譲らず、アルトリアもいい顔をあまりしなかったということもあり、丁重にご遠慮願うこととなった。そもそもいい加減、部屋も足りなくなってきたしな。
 そんなわけで彼女たちは今、藤村組の家事手伝いとして雇われているのだが、そちらの仕事が終わったあとはうちにもやってきてアルトリアを手伝って洗濯やら掃除やらをしているようだ。
 そういった家事の合間に、セラさんはアルトリアとイリヤに料理を教えているようだ。一度、彼女の料理が食卓に並んだことがあったが、それは実に見事なもので、さすがはパーフェクトメイド、と感心ていたら少し照れていた。
 ちなみにリズさんは土蔵が事の外お気に入りのようで、よく中に転がっているがらくたで遊んでいる。その度にほこりで汚れた彼女のほっぺたをセラさんが拭っているのだが、その様はまるっきり姉妹のやり取りそのもので見ていて微笑ましい。
 ――なんてことを言ったら、セラさんは照れながら怒っていた。何故だろう。

 そしてイリヤは、今は俺の家に住んでいる。妹になったのだから当然なのだが、やっぱりこれも藤ねえがぶーぶーと文句を言っていた。藤ねえにしてみれば、なんだかんだ言って可愛い妹を失うようで寂しかったのだろう。

『うー、イリヤちゃん、ほんとに士郎のとこに行っちゃうの? おじいさまが寂しいって言ってたよ。私も寂しいよう』

 って、なんだかんだ言わなくても寂しいって言ってたっけ。
 だけど、藤ねえには悪いがこのことに関しては俺も譲るつもりはなかった。そして、イリヤ自身も。
 一晩かけて宥めてすかして泣き落として、どうにかこうにか藤ねえを説得して――

 ――そんなこんなで、衛宮家の門柱には『衛宮』の表札の隣に『イリヤ』と彫られた小さい表札がぶら下がっている。更に逆の隣に『アルトリア』の表札が下がっているのはこの際ついでだからと新しく作ったからだ。
 俺は約束通りに昨日の晩飯でイリヤのリクエストに応え、更に約束通りにイリヤと一緒のふとんで寝た。
 ……もちろん、寝ただけで何もしていない。何もしていないのだが、今朝のアルトリアの機嫌はすこぶる悪かった。


 だからこうして家に帰ってきても、中に入るのがほんの少しだけ躊躇われているのだけれど、

「俺には別に疚しいところなど何一つないんだから、堂々としてりゃいいんだ、うん」

 門柱の横にぶら下がっている三枚の表札を横目に、自分の家の門を潜っていく。というか、何で自分の家に帰るのにこんなに緊張してるのか。
 俺は自分自身に苦笑しながら、一箇所だけ色の違う土の色――彼女が大穴を開けて総出で埋めなおした場所だ――を目の端に捉えて庭を横切る。
 そうして真っ直ぐ向かった先は土蔵だった。

「……」

 自分の部屋にも戻らず、着替えず、荷物も置かないで、何故か俺は帰ってきてからまず最初にここにきていた。
 扉を開けると、真っ暗だった土蔵の中に光が飛び込む。
 そこは相変わらず修理しかけのガラクタだとか、藤ねえが持ちこんだ変なおもちゃだとかが転がっていて雑然としていた。時々暇を見て整理はしているものの、少し時間を置いたらまたすぐに散らかってしまう。
 だけど昔からこのガラクタだらけの倉庫が、俺にとっては宝の山であり、自分の部屋のようなものであり、一番落ち着く場所でありそして――今はアルトリアと名乗っている彼女と出会った場所でもある。

 床に刻まれた紋様はサーヴァントの召喚陣だ。
 俺はこの召喚陣の上で八年間、毎日欠かさず魔術の鍛錬を繰り返してきた。そしてそれは、数ヶ月前にここで彼女と契約を結んでからも何一つ変わることはない。
 この土蔵は変わることなくお粗末だけれど、俺の工房であり、魔術の鍛錬を繰り返す空間だ。

 持っていた荷物を放り投げ、召喚陣の上に座し、結跏趺坐に構える。俺は一つ大きく息を吸って、肺に冷たい空気を流し込み、

「――投影、開始トレースオン

 雑念を払い、自分自身に言い聞かせた力ある言葉を吐く。
 同時に、己の身に備え付けた魔術回路のスイッチががちりと落ちて回路が開いた。途端、汲み上げられた魔力が回路で変換されて、魔術師である衛宮士郎の力となって溢れ出す。
 『投影開始』――この言葉を使った衛宮士郎は、その瞬間に己自身を変革させ、魔術師となる。

 ――創造理念の鑑定。
 ――基本骨子を想定。
 ――構成材質を複製。

 一つ一つの工程を踏んで、俺は脳裏に描いたその双剣を投影しようとする。
 自分にはあまりに過ぎた術を使おうとするその行為に、魔力は容赦なく俺の手を離れて暴走を始めようとする。内側から走る激痛に思わず取り落としそうになる手綱をどうにか繰って神秘を構築する。

 ――製作技術の模倣。
 ――成長経験に共感。
 ――蓄積年月を再現。

 手の中にぼんやりと白と黒の短剣が浮かび上がってくる。
 紛れもない力を宿した宝具、陽剣干将・陰剣莫耶。一週間前に投影に成功した、サーヴァント・アーチャーが振るった武器。
 ……そして、俺が、彼女を、

「!」

 その瞬間、ぼんやりと霞がかったシルエットでしかない双剣に黒々とした皹が走ったかと思うと、高く乾いた音を奏でて夫婦剣の幻想は砕け散った。

「――は」

 失敗。

 肺の中で熱くなった息を吐き出しながら後ろに倒れ込む。碌に掃除もしてないせいでほこりが舞い上がって顔に降りかかったが、まるで気にもならない。
 ……莫耶の切っ先に血の色を見てしまった。
 たったそれだけで編み上げた幻想は綻んで、八割方現界していた干将・莫耶は再び大気の魔力に戻って消えていった。

 大の字に転がって、灰色にくすんだ天井を黙って見上げる。
 莫耶に見えた血の色の紅なんてそれこそ幻想の産物で、俺が俺自身に見せた錯覚に過ぎないだろう。
 脳裏にこびりついて離れないあの光景――ファルシュハイトの胸を穿ち貫き、黒い地面に落ちる血滴の色。黒い刀身は紅と人の油を纏ってぬらぬらと輝いて、上を向いた刃は俺のことをじっと見つめているかのようだった。

『何故殺した?』

 そう問われているような気がした。だがそれとて俺が俺自身に聞かせた幻聴に過ぎない。
 わかっている。俺は俺自身を責めている。あのときに彼女を殺してしまったことを。

 もちろん後悔などはしていない。そして何度思い返しても、俺があのときしたことは間違っていないと断言できる。
 だがそれが最善だったかと問われれば……頷くことはできない。

「心だけで思ったって……届きゃしなかった」

 吐き出した言葉が虚しく響き、自分の耳にも飛び込んでくる。
 そう、俺は――伸ばしたの俺の手は、理想には届かなかった。



◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆



 不意に入り口のほうから扉が開く軋んだ音がした。
 そして小さく閉じる音がすると同時に、こちらに向かって誰かが歩いてくる音が近づいてくる。

「アルトリア……」

 つぶやいてから振り向くと、果たして彼女がそこにいた。

「おかえりなさい、シロウ」

 アルトリアはそう言って微笑むと俺の頭の横にふわりと腰を降ろす。それだけで周りの空気が少し暖かくなったような気がした。
 俺たちはしばらく互いに言葉も交わすこともなく、俺はただ天井を見つめ、彼女はただ正面を見つめ続けた。

「なあ、アルトリア……」

 やがて先に痺れを切らしたのは俺だった。天井を見上げたまま、横にいる彼女に声をかける。
 だがアルトリアは、俺に最後まで言葉を言わせることなく、

「シロウ、私はあなたにおかえりなさい、と言いました」
「……え?」
「ならば、あなたも私に言わなくてはいけない言葉があるはずだ」
「あ、ああ。そうだ、そうだったな」

 少しだけ目線を細くして、アルトリア。俺は半ばその視線に気圧されるようにして頷いた。だがもちろん、そうすることが当たりまえなのだということは俺にだってわかってる。……呆けていた俺はそんなことにも気づかなかったのか。

「……ただいま」
「はい。おかえりなさい、シロウ」

 少々のばつの悪さを隠して言ったその言葉に、アルトリアはおかしげに微笑みながらもう一度おかえりを言ってくれた。

 俺は床に寝っ転がりながら隣で笑っている少女を黙って見上げる。
 アルトリアは相変わらず綺麗で、差し込んでくる陽光を受けた艶のある金色の髪はきらきらと輝き、砂金のような粒を零している。肌もまるで光の中に溶け込んでしまうんじゃないかと思うくらいに白く、笑顔に細めたエメラルドのような瞳が俺をじっと見つめている。
 ……やっぱり、いつだってアルトリアは綺麗だ。

「シロウ、帰ってくるなり魔術の鍛錬ですか」
「まあね。でも見事に失敗したよ」
「そうですか。ですがそれもまた日々の積み重ねです。個人の力とは積み上げた努力と挫折の数で決まります。大事にしてください」
「うん。……含蓄のある言葉だな。覚えとくよ」

 事実彼女はその通りにしてきたのだろう。
 王となるその前、ただの騎士見習いだったときにも毎日のように剣腕を磨き、王となってからも愛剣を肌身離さずそばに置いて己を鍛え続けたのだろう。
 アルトリアの強さは天稟によるものだけでは決してない。それだけでは彼女のあの眩いまでの強さは手に入れることなどできはしない。
 生まれ持った最高の材質を幾度も容赦なく叩いて鍛え、己を火にくべながらも決して屈せず、そのたびに輝きと強さと粘りを増し続けた。きっと気が遠くなるほどの時間、俺がまだ知らない血を吐くような苦難と、聖杯戦争という試練の果てに、今の彼女はできあがった。

 だからアルトリアというセイバーはこんなにも真っ直ぐで美しい。
 無数の傷を負いながら、それでもなお折れず屈せず自分自身を貫いた。夢の中で見た彼女の姿を、俺は心底美しいと思いただただ見惚れた。

 そんな彼女は、俺の剣であると、そう誓ってくれた。俺を護り、俺の敵を討つ唯一無二の剣であると。
 同時に俺も誓った。彼女の剣であろうと。アルトリアを護り、そして目に映る誰かを護る剣であろうと。

 だがアルトリアという剣の強さ、美しさに比べて、衛宮士郎という剣の脆さはどうだ。
 それは罪であると――わかっていて、覚悟したつもりで殺めた命の重さに耐えかねて、こんなにも弱くなってしまっている。
 なんとも情けない話だ。一ヶ月前、彼女が帰ってきたあの夜に、決して折れず屈せず砕けぬと、そう誓った舌の根も乾かないうちにこんなにも――

「シロウ」
「――あ、ああ。なんだ?」

 呼ばれて俺は横たえていた身を起こした。
 真っ直ぐに俺の目を見つめてくるその瞳に自分を映して、身体ごと彼女に向き直る。
 俺を見つめる彼女の瞳はひどく真剣で、肌の色そのままに真っ白い表情は少しだけ怖く感じられた。

「シロウは後悔していますか? ……彼女を殺したことを」

 そして口を開いたアルトリアは、今俺がもっとも聞かれたくないことを容赦なく口にした。途端、背筋は中に鉄棒が入れられたかのように緊張し、口の中は一気に干上がってからからになった。

「……」

 答えようとして口を開いて、でも上手く言葉が出なくて閉じる。
 だが、彼女の問いに対する俺の答えは決まっていて、それは揺るぎのないことだ。だから俺はそれを口にするだけでいい。
 俺は乾いた唇を舌で湿らせ、もう一度、そっと息を吸い込んでから口を開いて答えた。

「後悔なんてない」
「……」
「俺がしたことは間違っていないって、それだけははっきりしてる。だから当然後悔だってしたりしない、できるわけがない。あの時はああする以外に――ファルシュハイトを殺す以外に終わらせる術がなかったんだから……どうしようも、なかったんだから」

 俺がそうしなかったらどうなっていたか。
 例えば、莫耶を突き立てるその直前で我に返って、動きを止めてしまっていたらどうなったか。
 きっとファルシュハイトは、俺を殺すことに容赦などしなかっただろう。

 そして結果として俺は死に、あの時既に動けなくなっていたセイバーも殺され、切り札を失った遠坂もまた同様の結末を迎えて、イリヤたちは手の届かないところに行ってしまったはずだ。
 残された藤ねえと桜は、きっと帰らない俺たちを待ってずっとこの家で待ち続けるだろう。二人とも優しいから、俺たちがいなくなったことで泣いてくれるかもしれない。なんにせよ……悲しみにくれるのは間違いのないことだ。
 そしてファルシュハイトも、結局何も変わらずそのままの人形で、やがて人知れず稼動できなくなっただろう。
 たった一人で寂しく、誰にも看取られぬまま。

 もし俺があのときにファルシュハイトを殺さないでいたら、そんな結果しか生み出さなかった。
 ファルシュハイト一人の犠牲でそんな悲劇を全て救うことができるのなら、それがきっとあの時俺に成し得た最善の結果なんだろう。

 俺を見るアルトリアの瞳は淡々としていて、凪の海のようにたゆたっている。どこまでも静かだった。
 逆に俺の心はざわざわと波立ってきた。押さえつけていた意識が鎌首をもたげ、青白いそのツラを上げてくる。

「だけどさ、アルトリア……」

 うねりを増した波に流されて、ポツリと、言葉が漏れて出る。

「……だけど、なんでしょうか?」
「……俺は。彼女のこと、もっと……上手くできたんじゃないのか?」

 俺を見つめるアルトリアの瞳に映る俺の顔。情けない顔で、彼女に縋っている。
 それがわかった途端、決壊した。
 一週間、自分の中に降り続けた雨は言葉の奔流となって流れ出し、喉までこみ上げてきたところで、それを留めようとすらせず一気に吐き出した。

「俺はわかってた……ああいう結末になっちまうって、あいつを殺すしかないってわかってたんだ。わかってて止められなかった!」
「……」
「どうしようもないからって……そんな理由で殺すしかないって、なんだよそれ……。あいつはそれで良かったのかよ。いいわけないだろ」

 静かに見つめてくるアルトリアの瞳に甘えるように、俺は自分を剥き出しにして吐き出した。
 九の悲劇を救うために一を殺す。それが正義の味方だっていうのなら、それは俺が目指そうとする正義の味方じゃない。十全てを救うことができるのが、十年前の夜に切嗣と約束し、アルトリアに誓った俺の正義の味方の姿だ。

 ……切嗣。
 切嗣も俺と同じことを悩んだのだろうか。俺が憧れた男は、きっと一を殺し九を救う正義の味方だった。第四回目の聖杯戦争を共に駆けたアルトリアの言葉は、そんな彼の姿を如実に示していた。
 だがそんな切嗣の心は、そうなったときからずっと磨耗し続けていたのではないだろうか。……俺が受け継いだ衛宮切嗣の理想は、十全てを救う正義の味方だったはずだから。

 目に映る全てを救う正義の味方を目指し、人には成せぬ事と絶望し、それでもなお理想を追い続けた果てが、あの衛宮切嗣の姿だったのだろう。
 だから衛宮切嗣にとって、あの自分は正義の味方ではなかった。
 そうなれなかったことが――望まぬ正義を行使し続けることが彼をどれだけ磨り減らしただろうか。

 切嗣が子供の頃に憧れた正義の味方。その憧れは大人になり、理想とかけ離れた己となってもまだ遠い憧憬として彼の中に存在し続けた。だから、俺の見たいなガキが、何も知らない子供の言葉だったとしても、その理想を継ぐと――そう答えたときに、

『――安心した』

 そう、言ったのではないか。
 自分が求めた理想は自分が死んでも失われず、いつか実現するのだと……死の際でそんな希望を、たとえ小さくても手に入れられたのだから。

 だが、切嗣のそんなちっぽけな希望はあまりにも無力だった。
 おかげで、助けるべきだった少女を無残にも殺し、その希望を裏切った。
 そんな俺などに――

「俺は、正義の味方になんて」
「――シロウ」

 厳しさを含んだその声に顔を上げると、アルトリアが声と同じく切れるのではないかと思えるくらいに鋭い瞳で俺を見据えていた。
 そして、次に開いた口から出た言葉は容赦なく俺を打ち据えるものだった。

「何者ですか、貴方は」
「……え?」
「自惚れないでもらいたい。言ったはずだ、貴方は魔術師だがただの人間であると」

 そういう彼女の表情は凍てつく冬のような厳しさを湛えていた。

「あの切嗣ですら成せなかった理想に、半人前でしかないシロウが最初から辿りつこうなどと、身の程知らずもいいところです」
「あ、アルトリア……」
「怒りましたか? ですが事実です。歩き始めたばかりのひよこが最初から全てを思い通りに叶えようなどと……それこそ神にすら成しえない」
「ッ……!」

 噛み締めた歯の間からぎり、と軋んだ音が漏れて出る。それは怒りのためによるものではなく、悔しさによるものだ。
 俺だってわかってる。彼女の言うことは間違っていない。
 だとしたらそもそも悔しがる必要などはなく、ただ己に思い知らせればいいだけだ。だがそんなの、感情がついていくわけがない。
 なにせ……アルトリアに言われているのだ。

「お、俺は――」
「切嗣だけではない。……私も同じでした」

 だが、そんなのも彼女が不意に瞳を伏せて言ったその言葉に、あっという間に霧散した。

「王として全ての民を、そして国を救いたい――私の最初の望みです。滅び逝く国と、そして共に滅び逝く民を救い、ブリテンに恒久の平穏を……私はその願いのために選定の岩の剣を抜きました」
「あ……」

 かつて夢の中で見た少女。
 ただ一人丘の上に立ち、空の雲を流す風に晒されながら眩い剣を携えていた少女の瞳は――祖国に押し寄せようとする敵を睨みつける王の瞳は、その向こう側になにを見ていたのか。もちろん、国とそこに住む民の安寧だけであったはずだ。
 その願いは、きっと俺の願いと同じものであったはずだ。

「ですがシロウも知っているでしょう? 私の願いはついに叶えられなかった。国のために王として生きる、その誓いは果たされても、国は結局滅び、その道程で多くの無辜の民が運命を共にしました」
「……」
「本陣を狙う敵軍を討つために全軍を投入したため、野党化した輩から民を護れなかったこともあります。作戦のために最前線にあった小さな村を切り捨てたこともありました。それは全ては私の無力の故です」

 血を吐くようなアルトリアの告白を、俺は黙って聞いているしかなかった。
 本当はもういいと、わかったからとその口を塞いで自分の傷を抉る彼女を止めたかった。でも、アルトリアは俺を真っ直ぐに見つめて話している。そんな、俺のためにしてくれている彼女の告白を、どうして止められるだろうか。
 俺にはアルトリアのこの話を聞く義務があった。

「ですがシロウ、私は決して足を止めませんでしたよ。今の貴方のように無力に苦しんだ夜もありました。最後には……聖杯を求めてやり直したいとも思った、それは貴方も知っている通りです。だけどシロウ、私は貴方のおかげで自分自身に誇りを持って誓いを全うすることができた。だからシロウ――」

 アルトリアはそこまで言って微笑むと、その両の腕を伸ばし、俺の頭の後ろに手を回して自分の顔の前に引き寄せた。

 目の前に微笑んでいるアルトリアの顔がある。
 小さな唇、整ったまつげ、碧色の澄んだ瞳、頬にかかって揺れる金糸の髪……そのどれもに、俺は吸い込まれる。

「――このようなところで挫けぬよう。貴方はそんな弱い人ではないのだから」

 そして俺はあたたかい彼女の胸の中に吸い込まれていた。

「まだ貴方は歩き始めたばかりなのです。自ら望んだ苦難の道なのですから……これから何度も壁にぶつかって、その度に苦しみ、挫けそうになるでしょう。でも、決して折れないでください。貴方が誓ったことを私は忘れません……だから、破ることも許しません」
「それはわかってるッ……けど、アルトリア、俺は」
「けど、ではありません。誰が知らなくても、貴方自身が知らなくても私はシロウの強さを知っています。私は……貴方の強さに心を奪われたのですから」

 彼女は俺の頭を抱く腕の力を更に強くして、髪に自分の顔を埋めてくる。
 俺もまたアルトリアの抱擁に身を任せ、その心地よさに目を閉じながらつぶやく。

「自分がどうしたら良かったのか、答えが出ないんだよ。どうすればあいつを救えたのか、見えないんだ。どれだけ俺に力があればあいつを救えたのか、それすらもわからないんだよ」
「……すまない、シロウ。貴方のその問いに答えられる言葉を私は持っていない。できることはせいぜいこうして、貴方のそばにいてあげられることくらいです。挫けそうなときには叱咤し、苦しんでいるときに支えて、時にはその……甘えさせてあげるくらいしかできませんが……」
「あ、いや……」

 少し照れを含みながらそう言うアルトリアに、思わずこちらも感情をつられてしまう。彼女の腕に抱かれていることが急に気恥ずかしくなって身を引こうとしたが、それ以上に強い力に引き寄せられて押し付けられた。

「ですがそれは貴方の剣であり、鞘でもある私にしかできないことと自負しています。だからシロウは、貴方の信じる道を踏み外さず進んでください。私はいつでも貴方のそばにあります」
「……ああ、そうだな」

 薄いブラウスを通して伝わってくるアルトリアの心臓の音。
 心地よい鼓動のリズムを感じながら、彼女の柔らかさとぬくもりに溺れそうになる。

 ――このまま、眠ったら気持ちいいだろうな。

 そんなことを考えながら、俺も彼女の背中に腕を回そうとして――



「なにやってるのよ二人ともーーー!」

 ばーん! と開く扉の音に振り返ってみればそこにいたのは、小さな影。

「い、イリヤスフィール!?」

 その影は、くわー! と両手を大きく広げ威嚇のポーズをとっている我が妹・イリヤその人であった。逆光になっていて顔とか良く見えないけれど、あのちびっこさはイリヤ以外には誰も実現できないちびっこさだから間違いない。
 そしてそのちびっこは、不機嫌そうに足音高くずんずんと俺たちに向かって接近し、

「えいやっ!」

 とばかりに俺の首根っこを掴んでアルトリアから引き剥がしてしまった。俺、成すがまま。

「な、なにをするのですかイリヤスフィール!」
「ふん、それはこっちのセリフよ。人がちょっと目を離したと思ったらこれだもの、油断も隙もないんだから」

 俺を間に挟んで、にらみ合うアルトリアとイリヤ。
 と、思っていたら、イリヤは突然俺の頭をがばーっ、と奪い取って抱きかかえて、アルトリアに挑戦的な目つきを向ける。

「だいたい落ち込んでるシロウを慰めるのはわたしの役目なんだから、アルトリアは余計なことをしないでいいの」
「な、なにを言っているのですか! 私はシロウの……その、えーと……と、とにかく! シロウは私が支えると誓っているのですから今更貴女の出番などはないのです。その辺りをわきまえていただきたい!」
「ふーんだ。アルトリアがシロウの何なのかは知らないけど、妹のわたしのほうが強いんだから!」

 いや、強いってなにさ。そういうのに強い弱いってあるのかー? と聞きたかったけど、聞いたら聞いたでまたややこしいことになりそうなのでやめておく。日和っていると笑わば笑え。下手を打って二人の矛先が俺に向いてくるのだけは万難を排して避けたいのだ。



 だけど。

 こうして目の前で騒がしく言い合っている二人を見ていると、この光景が目の前にあることに深い安堵を覚える。
 もしかしたら失われてしまっていたかもしれない日常が、こうして無事に手元にあることが素直に嬉しい。

 でも引き換えにファルシュハイトは死んでしまった……俺が殺してしまった。その代償というにはあまりに大きい。

 俺はまだ悩んでいる。
 自分がしたことが間違っているとは思わないけれど、自分のしたことが最善だとは思えない。彼女は間違いなく救うべき人だったのに、俺は彼女を絶対的な力不足のせいで救うことができなかった。
 どうすれば彼女を救うことができたのか。どこまで自分に力があれば彼女を救うことができたのか、いまだ俺には見えず答えはない。いずれ答えを得ることができるのか、その保証もない。

 ただ一つだけはっきりしているのは、俺にはやはりこの道を違えることなどできないということ。
 俺は俺が理想とした正義の味方の道を、幾度も躓きながら歩いていくだろう。きっと、彼女と一緒に。
 それだけは間違いなく決まっていることだった。


 いまだ俺に答えはなく、至るべき己の姿もまだ見えず、この身の往く先を幻視しながら――

 ――ただ今だけは、このあたたかい日常の中にたゆたって微笑んでいたかった。





あとがき

 イリヤ編終わりー。よって次回から新展開です。
 とりあえず一山越えて、お疲れ様でした自分。


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