樹齢幾年を数える木々が立ち並ぶ暗い森。
 灰色の雲に覆われた空から僅かに零れた太陽の光は、しかし木々が伸ばした手のひらに受け止められて地面までその殆どが届かない。
 森の地面を覆う土は焼け焦げたように黒い。
 冬の間にあれだけ積もっていた枯葉は、殆どが微生物たちに分解され森の養分として吸収されてしまったのだろう。今は裸の土を外に晒していた。

 冬のあの日――聖杯戦争のときに一度来たきりの深い樹海。奥に行けば開けた場所に城がある、アインツベルンの森。
 イリヤにとっては長いこと離れていたこの森に、木々に囲まれて彼女はたった一人で立っていた。
 今頃イリヤはあのときのことを思い出しているのだろうか。ここがバーサーカーが倒れた場所だということは、あいつだってきっと覚えている。
 ここから少し離れた場所には俺がアルトリアと初めて身体を重ねた寂れた廃屋がある。
 その廃屋で俺たちはアーチャーの消滅を知り、身体を重ね、そして夜が明けて狂戦士と戦い――彼を屠った。

 イリヤは何を思っているだろうか。ひょっとしたら思い出して落ち込んでいるだろうか。
 こんなときに傍にいてやれない自分が不甲斐なく、思わず視線が落ちる。
 俺はイリヤの兄貴だ。それなのに妹の傍にいられないのがこんなにも悔しい。辛いときに一緒にいてこそ、家族ってやつなのに、俺は――



 ――昨日の夜、お風呂上りのイリヤと少し話をした。

 イリヤを探して家の中を歩いていると、彼女の姿を縁側で見つけた。
 白いポンチョのような服の上に青い上掛け。肩を覆って胸元で結んでいるレースはやっぱり白で、その寝巻きはイリヤに良く似合っていると前から思っていたのだ――が、まだ本人には言ったことがない。言ってやったら喜ぶだろうか。

 そんな他愛もないことを考えながら、黙って彼女の隣に腰を下ろす。
 隣に座ったイリヤの長い髪からはシャンプーのいい匂いがして、傍にいるとまだほんのりと上気しているイリヤの身体が暖かかった。

「で。なぁにシロウ、話って」

 夕飯を食べた後、イリヤに話をしたいと持ちかけた。そのとき既にバスタオルを握っていたイリヤはそのままお風呂に行ってしまい、そして俺がアルトリアとの鍛錬から戻ってきたときにはもう既に上がってここで待っててくれていた。

 イリヤは投げ出した白い足をぷらぷらとさせながら、目をくりくりと開いている。俺は一つだけ息を吸い込んで、

「イリヤ、良かったらさ。俺と本当の家族に……エミヤの苗字に、ならないか」

 こちらを見上げているイリヤに、唐突にそんなことを言った。
 もっとも、俺にとっては少しも唐突なことではない。ずっと前から、聖杯戦争が終わったすぐ後の頃からなんとなく考えていたことだった。もし、今こんな事件が起こっていなかったとしても、いずれ近いうちに持ちかけていただろう。

「なあ、イリヤ。どうだろうか」
「ん……えーっ、と」

 イリヤは俺のその言葉に目をまん丸にして驚いた――と、思ったらすぐにきゅうっとその目を細めて笑うと、

「シロウ、それってもしかしてプロポーズかしら」

 なんて、小あくまな顔をしてとんでもないことを言ってくれやがりました。

「な、なんだってそうなるんだ……!」
「あら、だってニホンだと結婚すると男と女は同じ苗字になるんでしょ? あは、だったらやっぱりシロウのそれってプロポーズだー!」
「だっ、だからそうじゃなくってだな!」

 狼狽する俺を見もせずに、イリヤは嬉しそうに笑ってぱたぱたと足をばたつかせる。
 それは本気なのか、それとも俺をからかっているだけなのか。きっと後者だろうけど、そんなことはどちらでもいいと思えるほど楽しそうに笑っている。
 頬を少しだけ赤く染めて、足をぱたぱた振り回し、小さな口を大きく開けて、本当に楽しそうに幸せそうに。

「まったく……少しは俺の話も聞けってば」

 そんなイリヤを見ていられるならからかわれるのも満更ではない。そう思いながらとりあえず文句を言ってみた。

「んふっ、んふふっ! ……んー」

 するとイリヤはくすくすと含み笑いを漏らした後に「うん」と頷いて、ぴょんと庭に飛び降りた。

「おいイリヤせっかく風呂に入ったのに裸足で降りるなよ。汚れるだろ」
「いいの、そんなの。今はこうしたい気分なんだから、シロウの言うことなんて聞いてあげなーい」

 イリヤはそんな憎まれ口を叩きながら、後ろ手を組んで庭を歩く。
 梅雨の空は夜でも雲が多くて、今日も星一つ見えない曇天だ。ただそれでも、流れる雲の隙間から、時折月が見え隠れしている。
 庭を歩いていたイリヤは足を止めると、俺に背中を向けたまま、空に見えない月をじっと見上げた。

「ねえシロウ。どうしていきなりそんなことを言うの?」
「……え? あ、ああ」

 空を見上げたままそういったイリヤの声は、先ほどまでのはしゃぎようがまるで嘘のようで、抑揚がなく平坦に落ち着いていた。
 色がなく、躍動感のないイリヤ。それがなんだかひどく■■じみていて――焦燥感に駆られた。

「そんなのは、決まってる。イリヤは、おまえは俺にとって大事な妹みたいなもんだ。だから、ほんとはもっと前から考えてて……」
「なんでそれが今なの?」
「なんでって……」

 そんなことに理由はない。俺はずっと前からイリヤと家族になりたいと思っていた。
 だからこれは自然なことだ。いや、イリヤにとってはもちろん唐突なことだけど、少なくとも俺にとっては当たりまえのことだった。
 だから別に、今であることに理由はない。単なるたまたまだ。

 空を見上げているイリヤの背中は小さくて、その肩は華奢で、腕の細さなどまるで小枝でできているよう。少し力を入れたら手折れてしまいそうだ。
 はしゃいで、笑って、膨れて怒る。そんなイリヤは本当に生き生きしていて無邪気で、見ている俺までが楽しくなってくる。でも、今こうして空を見上げている彼女の、なんて儚さ。少しでも目を離してしまったら消えてしまいそうなほどにイリヤは――

 ――ああ、だったらやっぱり、

「たまたまなんて、そんなわけないよな」

 俺はまるで、独り言のようにつぶやいた。

 考えてみればそれこそ当たりまえだった。今の、こんなときにこんなことを言って、それがたまたまだなんて誰が信じる。自分自身だって騙せるわけがないのに、イリヤみたいな聡明な娘に通じるはずがない。
 イリヤは俺の言葉にゆっくりと振り返る。暗がりの中にいるイリヤはただぼんやりと、白い影となって浮かんでいた。
 月が出てないから夜の闇は暗くて、だからその下にいるイリヤの顔が良く見えない。
 ただそれだけのことなのに何故か、俺の背中には怖気が走った。

「シロウは、怖くなったの?」
「……なにがさ」
「わたしのこと」

 その言葉に、一瞬だけ心臓の音が跳ね上がる。
 胸の辺りが絞られ窮屈になって、呼吸までが苦しい。それを整えるように俺は話した。

「なんでさ……イリヤのことが怖い? そんなことあるわけない。あくまの遠坂や暴れだした藤ねえに比べたらイリヤなんてずっと可愛いじゃないか。イリヤのわがままなんて、いくらだって受け止めてやるよ。だって俺はイリヤのお兄ちゃんだろ?」
「うん。でもシロウ、わたしはシロウを殺そうとしたよ?」
「な――なに言ってるんだよ。確かにそうかもしれないけどさ……もうイリヤは、そんなことしないだろ?」
「しないよ」

 そう言ってイリヤは少しだけ笑った、のだと思う。はっきりと彼女の顔が見えないから、はっきりとわからない。
 でも多分、笑っているであろうイリヤは、その笑顔のままで言った。

「だけどシロウは怖いのよ。わたしがファルシュハイトみたいに、人形になると思ってしまったから」
「……それ、は」
「うん。それが怖いんだよね、シロウは。今のわたしがわたしでなくなっちゃうのが怖いのよね。わたしも、ファルシュハイトと同じだから、って」
「……」

 イリヤの声はなんだかとても優しくて、俺は誘われるように俯いて、頷いた。そうするしかなかった。
 そんなことがあるわけがないと――この四ヶ月の間、俺たちと一緒に暮らしたイリヤがあんな風になるわけないって思っても、不安は尽きなかった。

 俺はあいつを見てしまったから。イリヤと同じで造られたあいつを。でも、イリヤと違って人形なあいつを。
 ファルシュハイトは、俺が何を言っても無駄だった。きっと何も感じていなくて、俺の姿なんて見えていなかった。
 イリヤとは違う。全然違う。
 だけどそれでも……あいつとイリヤは同じホムンクルスという存在だった。だから俺はイリヤの言う通り、きっと怖くなったんだ。

「イリヤには……一緒にいてほしいんだ。おまえはもう俺にとって本当の妹以上で、とっくの昔に家族なんだよ。……切嗣と同じでさ」
「――うん、そうね」

 保証が欲しかった。イリヤがずっと俺の傍にいてくれるって保証が欲しかった。
 イリヤと本当の家族になれば、きっとイリヤはずっと俺と一緒にいてくれる。人形なんかにはならず、切嗣のように――妹になってくれると思ってしまった。
 子供じみてて馬鹿げてて、イリヤに失礼な事だって思うけど、それでも俺はどうしても欲しかったんだ。

 少し強い風が吹いて、ざあ、と枝葉がざわめく声がした。
 空に漂う煙のような雲は足早に流れ、ちらちらとその隙間から月の光が覗いて零れる。零れた光がイリヤの髪に少しかかって銀色の雫が散った。

「ごめんなイリヤ、俺、馬鹿なこと言った。だけど」

 だけど誤解して欲しくないのは、俺は本心からイリヤと家族になりたいと思ったこと。この気持ちにうそはない。
 イリヤのことは本当に妹だと思っているから、だから彼女にエミヤになって欲しいと思った。言い出すきっかけは間違いだったかもしれないけれど、俺のその気持ちは絶対に本当なのだと――

「――わかってる、大丈夫よシロウ。わたしはシロウのことなら、ぜぇんぶわかってるの」

 月を覆っていた雲がこの瞬間だけ全て吹き流されて、隠れていた月が大きく空に浮かび出た。
 途端、その瞬間だけの満月の光が空に溢れる。

「だってわたしは、シロウのお■ちゃんだもの」

 蒼銀色の光に照らし出されて、ようやく見えたイリヤの顔。可愛らしく笑っていた。
 正直言って俺はイリヤの笑顔に見惚れていて、彼女が言った言葉を聞き逃してしまっていた。なんか、とても大事なことを言った気がするのだけど。
 でも今は、今だけはそんなことどうでも良くて、俺はなんだか嬉しくなっていた。

「シロウ……嬉しいね。誰かにこんなに大切にされるのが嬉しいなんて、わたし知らなかったよ。すごくね、この辺があったかくてふわふわするの」

 そっと、胸の辺りを手で押さえてうっとりとした表情で目を閉じる。

「これってきっと嬉しいってことよね、シロウ――あはっ」

 イリヤはその笑顔で、何よりも雄弁に俺の勝手な願いに応えてくれた。
 そして白い素足で、踊るように跳ねながら俺に向かって飛び込んできて、俺は小さなその身体を受け止めた。





Day Dream/vow knight

――night 09――

『スノウ・ドール』






「シロウ」
「……ん」

 と、右に控えていたアルトリアが俺を呼び、回想の世界から帰ってくる。視線で指すアルトリアに促されて顔を上げると――

「来ました」

 ――彼女が、いた。
 というより、忽然と現れていた。僅かに視線を外していたその隙に、ファルシュハイトが現れていた。
 長い銀髪を後ろで束ね、アルトリアに切られた白い服もそのままに、色のない瞳で目の前のイリヤをじっと見ている。

 そんな彼女を見た瞬間、不意に脳裏に公園でベンチに座っていた彼女の姿がフラッシュバックした。
 自立した意思を持たず、ただ人形のように指示に従い、意味もわからずそれだけのために生きて――どうしようもなく報われない少女。

「……ッ」

 ――だめだ、振り返るな。考えるな迷うな躊躇うな。

 そう自分に言い聞かせて、振り払うようにして彼女を睨む。
 ……どうでもいいことだが。
 ファルシュハイトは遠坂よりも少し大きくて、俺よりも少し小さいようことに今、ようやく気がついた。

 そのファルシュハイトが、自分よりもさらにずっと小さいイリヤに手を伸ばす。
 当然だろう。彼女の目的はイリヤであり、他の何事にも関心を抱くようには指示されていない。だから目の前にいるイリヤをファルシュハイトが捕らえようとするのは至極当然のことで、逆に言えば――

「かかった」

 ――それが彼女の最大の弱点でもある。

 ファルシュハイトの指がイリヤの細い腕に触れた瞬間、イリヤの身体は色を失い積み木のように崩れ落ちる。ファルシュハイトの足元に転がったのは肉でできた人の身体ではなく、単なる木偶人形。足を止めて目を小さく見開いている彼女は、まさか驚いているのだろうか。
 そんなありえないはずの光景に身を乗り出しかける俺の左隣では、ほぼ同時のタイミングで遠坂が魔術回路を開いていた。
 途端、溢れ出す魔力。今の衛宮士郎にはひっくり返して振っても絞っても出せない圧倒的な魔力量。

「―― Drei三番 eine Schutz loschen抗魔消去……!」
「……!」

 遠坂の詠唱で人形に仕込まれた宝石の魔術が起動し、ファルシュハイトが溢れ出した光に包まれる。
 これで彼女が纏っている魔術兵装に編みこまれた魔力抵抗の力は失われたはずだ。

 もちろんこれは、最初からファルシュハイトに仕掛けられた罠だった。
 アインツベルンから来たばかりで俺たちのことを碌に知らないはずの彼女がどうしてイリヤのいる場所を知ることができたか。
 おそらくそれは、イリヤの魔力をトレースしたのだろうと推測し、それを逆手に取ることにしたのだ。
 まず、人形にイリヤの魔力を憑依させ幻術をかけて偽者のイリヤを作り上げた。そして偽イリヤを一般人が立ち入らぬであろうこの森に放ち、ファルシュハイトが出てきたところを――というわけである。本物はリズさんとセラさんと一緒に廃屋の中だ。
 彼女からあの強力な魔力抵抗力を奪ってしまえば、遠坂の攻撃も通じる。
 ならば白兵戦闘力で互角のアルトリアを擁し、そもそも数で勝る俺たちが負ける道理はない。そして、

『この森なら家も壊れないし、買い出した食料だって台無しにならないでしょ』

 と言ったのは、常に資金繰りに苦しんでいる遠坂の魔術師だ。うちの財政状況を知った上でのことかは知らないが、実にありがたいお言葉である。
 それにここでなら桜や藤ねえを巻き込む心配も……そして見られる心配も、ない。

「衛宮君」
「……」
「いいわね」
「……ああ」

 遠坂に応えて頷く。そこに一瞬の躊躇はなかった。
 なかった、はずだ。あってはいけなかった。

 ファルシュハイトは、あいつはイリヤを狙っている。彼女がいる限り、イリヤはずっと狙われ続ける。ファルシュハイトが今ここにいるのはイリヤを捕らえてアインツベルンに連れて帰るという目的があるからだ。彼女を放置していてはいつか俺たちの手の届かないところでイリヤは奪われ、そして永遠に失う。
 ならば、俺がしなくてはいけないことははっきりしている。
 あいつが……あいつには何も通じない。言葉が通じず、故に心が通じない。人の心を左右する魔法は、ファルシュハイトには届かない。
 だから、もうどうしようもないから、俺はそうしなくてはいけない。

 俺はあいつを――
 ――俺はファルシュハイトを。



 アルトリアが叢から飛び出し剣を構えて突進する。一足で三、四メートルも跳び、蹴られた地面が抉られて黒い土が固まりになって飛んだ。

「……!」
「騎士アルトリア、参る」

 名乗りを上げて斬りかかってくるアルトリアに気づき、ファルシュハイトも身構え、襲い掛かってくる一つ目の斬撃を身を翻してかわした。
 アルトリアが携えている剣は前回俺が投影した模造された黄金の剣モドキカリパーンだ。今のアルトリアではたとえ勝利すべき黄金の剣カリバーンを携えたとしても、宝具としてのその力を使いこなすことはできない。
 剣としての性能はもちろん比べるべくもないが、それもアルトリアが本来の力を持っていてこそだ。
 そうでないのならば、無理に投影するよりは、僅かな力といえども温存するべきだというのが遠坂の主張であり、それには俺も賛成だった。勝利すべき黄金の剣カリバーンほどの宝具を投影するのは、可能ではあるが、正直言って今の俺には負担も大きい。
 無理をして消耗することは避けたい。たとえ彼女から対魔力防御力を奪ったとしても、それで容易く勝てるほど甘い相手じゃない。

 現に今もアルトリアの風を巻いて唸り声を上げるほどの激しい斬撃を前に、ファルシュハイトは一歩も引いていない。
 アルトリアは、前回のときと違って下はスパッツ、上はシャツの上に遠坂の家の倉庫にあった魔力を編みこんだ厚手のジャケットと軽装だ。だからなのか身のこなしも心なしか軽く、剣先はますます鋭く走っている。
 アルトリアの剣は、彼女の可憐な顔立ちに似ず、どちらかといえば力と速さに頼った剛の剣だ。元々西洋の剣は、斬るのではなく相手を叩き潰すことに長けていて、日本刀とはその性質が逆だ。アルトリアはその西洋剣の使い手であるのだから、彼女の剣の性質がそれに準ずるのも道理だろう。
 対するファルシュハイトもまた、その拳の性質はアルトリアと同じだ。自身の魔力で身体能力を引き上げ、達人であるアルトリアと互角に打ち合える能力を手にしている。

 このことからでも、ファルシュハイトの能力が高次元にあるということが良くわかる。
 たとえかつての能力を失っていたとしても、あのアルトリアと正面きって互角に戦える魔術師がどれだけいるか。
 搦め手なしで正真正銘の剣の達人を相手にして、勝機を得られるほどに自分を強化できるその技量は、間違いなく達人クラスだ。
 それは戦闘用に特化している故のことか、それとも自分自身で身につけたものなのか――


 達人と達人同士の戦いはますます激しさを増していく。

「クッ!」

 こめかみの辺りをすぎていく拳に表情を僅かに歪めたアルトリアの顔を認めた一瞬後に、重たいものが空気の壁を突き破る音が聞こえてくる。
 一撃で人間の顔など粉々に粉砕するそれを紙一重でかわしたアルトリアは、それで臆することなく左脇に構えた剣を滑り込ませるようにしてファルシュハイトの懐に斬り込んでいく。必殺の一撃を放った後で体勢を崩していたはずのファルシュハイトは、だが、上半身を斜めに反らして切っ先をやり過ごした。
 そのまま身を沈めたファルシュハイトは黒土を切りながらアルトリアの足元を払い、アルトリアが咄嗟に飛び退ると、あり得ないことに残った片足だけで横に跳んで無防備な腹に足の裏を突き刺した。
 無茶な体勢からだったから致命的なダメージにはならなかったものの、それでもアルトリアが苦痛に眉をしかめる。
 その隙を見て取ったか追い詰めにかかるファルシュハイトだったが、そこに黒い魔弾が三発飛来して足を止められた。

「お生憎様ね、アンタの相手は一人じゃないってわけ!」

 名乗りを上げる遠坂にちらりと、意識を向けたその途端、その顔を狙って横殴りの剣風が迫る。
 ファルシュハイトはそれを予測していたのか易々とはずす。続けざま刃先を変えて袈裟に落ちてくる切っ先、かわしても吹き上がる逆袈裟、反撃する間もなく振り下ろされる真っ向上段の斬撃に、追いかけてくる稲妻のような刺突――

 それらから悉く逃れ、なお降り注ぐ嵐のようなアルトリアの剣を掻い潜るファルシュハイトは、それでも能面のように無表情だった。
 何故、とは考えていないのだろう。
 命じられた通りにイリヤを取り戻しに来たら彼女ではなくて、そして突然襲いかかってきたから迎え撃っている。ファルシュハイトにとって今の状況はきっとその程度のことなのだろう。何故このような目にあうのか、そんな疑問はきっと思ってもいない。だからあんなにも無表情なのだ。

「それで、いいのかよ。おまえ」

 思わずつぶやきが漏れて……そして慌ててそれを脳裏から追い出す。
 それでもこびりついたようにその思いは残って、じわじわと、まるでがん細胞のように侵食を始める。迷っている余裕なんてない。それに俺が迷って止めて、止まるようなやつでもない。全てどうしようもないことだってわかりきっているはずだ。

 ――それでいいのか。これでいいのか?

 なのにどうしてもその思いが消えない。こんなことを今更考えるのは危険なのだとわかっているのに、どうしてもその思いが消えない。

 ――俺がしようとしていることは正しいのか?

 正しいはずだ。間違っていないはずだ。
 イリヤを護るにはこうするしかない。何度も自問自答して、その上で出した結論だ。今更考え直したところで、同じ結論が出るだけ。
 ファルシュハイトはもうどうしようもない。だからせめて、イリヤだけでも。そんな結論になる。

「士郎。ぼさっとしてるんじゃないわよ」

 そちらに振り向くと、厳しい目をした遠坂が数個の宝石を手にして二人の戦いの光景を睨んでいた。
 標的の排除を絶対の目的とした、冷徹で非情な、完璧な魔術師の顔。根っこの部分は甘くても、遠坂は魔術師だ。その彼女にとってファルシュハイトは倒すべき敵でしかない。彼女の心に一片の情けを挟む余地なんてあるわけがない。
 そしてそれは俺にとっても同じはずだ。

「……ああ、わかってる」

 だから俺も小さく頷きを返して、背負っていた弓を構えて矢を番える。
 鏃の向かう先は彼女へ。射貫く的はファルシュハイトという少女の命で、射手はこの俺。
 遠坂は横で牽制のガンドを放ち、じっと戦況を見守っている。隙あらばいつでも手に持った虎の子の宝石を叩き込むつもりなのだろう。

「……」

 俺は無言で矢を引き絞り、狙いを定めて放った。矢は真っ直ぐに走り、ファルシュハイトの髪を掠めてその向こう側の木に突き立った。合わせてアルトリアの剣が走るが、ファルシュハイトの拳が剣の腹を叩いて弾かれる。

「やるぞ、遠坂」
「それはこっちのセリフ。いくわよ、士郎」

 いい加減に覚悟を決めて、次の矢を弓に番えて二人の動きを、アルトリアの次の一手をじっと読む。脳裏で叫ぶ声は全て無視すればいい。

 ――ファルシュハイトだって、本当は助けるべき人じゃないのか?

 そんな自分を責める自分の声には全て耳を塞ぎ、今はただ聞こえてくる剣の音にのみ耳を傾けた。



 アルトリアの動きから先の展開を読んで番えた矢を射かけ、遠坂はガンドを撃ち、アルトリアがそれに合わせて斬りかかる。
 対するファルシュハイトは前回と違って遠坂のガンドを防ぐ手段がない。
 遠坂のガンドはもはや弾丸と言っていいほどの物理的破壊力を誇る凶悪な凶器だ。それだけでも当たれば戦闘力をごっそり持っていかれるのは必定。そしてアルトリアを相手にしては、僅かな痛手が致命的な傷だ。その時点で彼女の敗北は決定する。
 別にガンドでなくてもいい。例えばそれが俺の矢であってもいいのだ。とにかくアルトリアが一撃打ち込めるだけの隙を作ることができれば。

 そう、それが例えば、広範囲に影響を及ぼす遠坂の宝石魔術であったとしても。

Vier四番 Ein Flub,ein Halt冬の河――!」

 遠坂が投げつけた青い宝石に込められた魔術が、一工程シングルアクションの詠唱によって紐解かれ解放される。
 空中で弾けて砕け散る遠坂家の財政を圧迫させる良質の宝石。それだけの犠牲を払って放たれた魔術はその名の通り、ファルシュハイトに向かって冬の河を作り、その流れに乗って子供の頭ほどの氷の塊が雪崩れていく。
 アルトリアの剣技に釘付けにされていたファルシュハイトは、それでもどうにか氷塊の直撃は避けたものの、放射状に広がった凍てつく息吹は避けきることができなかった。掠めていく冬の河の流れに長い服の裾は地面に白く縫い付けられ、左腕は青白い輝きに覆われる。
 そして当然のようにその隙を見逃さず、アルトリアの剣が降りあがった瞬間、その次には刀身が地面まで到達していた。そしてそれに一瞬遅れて青い人間の腕も地面に落ちて――

「あ」

 ――まるで雪の結晶が壊れるかのような容易さで、鋭くささくれた音を残して彼女の腕は砕け散った。

 肩口から先、ついさっきまでそこにあった腕は消えていた。血が零れていないのは切り口が芯まで凍りついているからなのだろう。綺麗に断ち切られたその断面は、まるで後からつけたものを取り外したかのように現実味が希薄だった。

 だが、そんなものは当然錯覚で、事実としてファルシュハイトは左腕を失った。
 一瞬の判断でファルシュハイトは斬撃を左腕でかばうことで捨てた。あのざまでは遠坂の魔術を受けたときに既に死んでいたのだろうが、それにしても顔色一つ変えずそれをやってのけるのは尋常ではない。……なんで、あんなことを無表情にできる?
 凍り付いた服の裾を力任せに破りはがして一足飛びで剣の間合いから逃れるファルシュハイト。だがアルトリアだって黙って逃がすほど甘くない。

「……終わったわね」

 そうつぶやく遠坂に俺も黙って頷く。油断ができる相手じゃないが、少なくとも片手でアルトリアに勝てるほどではない。まして他に半人前と一流の魔術師を相手に回しては万に一つの勝ち目もないだろう。

 ファルシュハイトは――ここで死ぬ。

 アルトリアがとどめを刺そうと剣を構えて走るをどこか呆然と見ながら、俺は叫びだしたいような衝動に襲われていた。

「ぁ……」

 それは喉元まで出かかっている。口の中に欠片は零れて舌の上で踊っている。
 だが同時に、理性が叫ぶなと言う。その言葉を吠えればきっとアルトリアは従い足を止めてしまい、そうなれば今度はアルトリアが危険に晒される。
 それだけは、衛宮士郎には絶対にできないことだ。

 あと一歩――踏み込めば、アルトリアは剣を構える。
 更にあと半歩――踏み込めば、アルトリアは斬撃を放つ。

 あとほんの一瞬で、ファルシュハイトは――

「ッ! アルトリアッ!!」

 ――俺がそう叫んだのと、彼女が大きく後ろに跳び退ったのは全くの同時だった。

「なんでッ!?」
「いや、ここからじゃ見えないけど、なんか……」

 瞬間的にぞくんと感じた。あれが嫌な予感ってやつなのかもしれないけれど、アルトリアが後退したのは見た通りだ。
 そしてその嫌な予感の元はすぐに知れることになる。

 立っているままのファルシュハイトが右腕を振り上げ、振り下ろす。それに合わせて更に飛び退るアルトリアを掠めていく光の筋が五本。

「遠坂、見えたかっ!?」
「見えたわよ! なによ、あのヘンなのはーっ!」

 表情を驚愕に歪めているアルトリアの胸元は、三本の筋が走ってジャケットが大きく裂かれていた。
 背中に木を背負って立っているファルシュハイトは、茫漠とした表情でアルトリアをただ見ている。
 右腕を突き出し、その指先から伸びている光の筋は、一目で魔力で編まれたものだとわかる。地面に下ろして糸のようにしなやかに垂れているそれは、

「アルトリア! 来るぞッ!」

 ファルシュハイトが右腕を振りかぶった途端に硬質化して、剣など遥かに届かぬ間合いの外からアルトリアに襲いかかる。
 上から降ってくる五条の爪を右に横っ飛んでかわしたアルトリアは、口元を引き結んで足を撓める。が、

「!? な!」

 地面に痕をつけたはずの爪が、そのまま鋭角を刻んで二本が左から、そして三本が頭上に飛んでそこから急降下してきた。頭上からの攻撃を動いてはずし、横からの二本は手にした剣で弾いてやり過ごす。

「あんな隠し玉持ってるなんて聞いてないわよ、ちょっと!」
「そんなの俺だって聞いてねぇよ!!」

 毒づきながら矢を番えてファルシュハイトの眉間を狙うが、彼女が僅かに首を傾げただけで矢は木の幹に突き立ち、遠坂のガンドはアルトリアを追って前に出る彼女の足を止めることもできず虚しく地面を抉る。
 一方、ジグザグの軌道を描いて上下左右から迫る光爪にアルトリアはさっきまでとはうって変わって防戦一方に陥った。
 予測不可能な動きを見せるそれをアルトリアはかわし、弾くが、何本かは捌ききれずに掠めて、赤い筋が白い肌に走っていた。

 見ればアルトリアの額には玉のような汗がいくつか浮かび、呼吸も荒い。彼女も相当に疲弊している。
 無理もないだろう。先ほどからあれだけの動きを見せながら剣を幾度となく振るい、その上、間一髪の差で命運を分けるような戦いを繰り広げているのだから。いかにアルトリアが強いと言っても、肉体的にも精神的にもピークに達しているはずだ。今のうちはまだ避けきれるかもしれないが、このままではいずれ捕まる――

「くそっ、たれ!」

 やけくそ気味に叫んで矢を番え、思い切り引き絞って放つが当たりまえのように矢ははずれ、ファルシュハイトは意に介した様子もなくアルトリアに迫る。
 俺の弓では彼女の気を引くことすらできない。自分の半人前振りがこんなときに限って情けなく感じる。力が、足りなすぎる。同じ弓を使う者でも、俺はあいつと比べて圧倒的に力が足りなかった。

「ちっ! こうなりゃもう一発でかいのお見舞いしてやるわよ!」

 その声に振り返れば、俺に似ているといった遠坂が赤い宝石を握り締めていて――

Funf五番――」
「遠坂ぁっ!」

 ――同時にそれに気づいた光爪が一本、飛んできているのに気づいて俺は咄嗟に、彼女の腰に飛びついていた。

「ッ!」

 熱い何かが背中の上をなぞっていく感触。俺はそれで切られたのだと感じた。
 遠坂と絡み合うようにして地面に倒れこんで土の上を滑る。幸いなことにそれで安心したのかどうなのか、ファルシュハイトの爪は追ってはこなかった。

「ちょ、ちょっと士郎!」
「わかってる、悪い」

 鼻先を埋めていた柔らかいそれから顔を上げる。と、少し土に汚れながらも頬を真っ赤にした遠坂の顔と、なだらかな曲線を描く胸元のふくらみが目に飛び込んできた。が、今はそんなことを気にしている場合じゃない。

「説教でも折檻でも後でいくらでも受けるから、今だけは勘弁してくれ」
「そんなんじゃなくて……っ! あんた、背中!」
「ん――ああ、そんなの、それこそどうだっていい」

 確かに傷は負ったし、焼けつくような痛みもある。血だって現在進行形で流れてるだろう。
 だが動けないほどじゃない。だったら立って、まだ俺にはやることがある。

「士郎、バカ! そんな傷で動いたら……」
「だから大丈夫なんだよ遠坂。俺はね、自分のことを気にする必要なんてないんだ」

 その言葉に彼女の眦が怒ってあからさまな怒気をはらみ始める。

「衛宮君、あなた自分が何を言ってるのかわかってるの?」
「遠坂の言いたいことはわかってる。もっと自分のことを考えろっていうんだろ。でもな、やっぱりそれは必要ないんだよ」

 遠坂の手の中にあの赤い宝石はもうない。だとしたらきっと俺が飛びついたときに落としたはずで――
 ――そちらに目を向けると、黒い土の上にぽつんと赤く光る石が転がっていた。

 あれを使えばアルトリアの力になって、彼女を助けられる。
 背中の傷がじくじくと痛んで、流れた血が地面に落ちてどす黒い染みになった。だが、こんな痛みなど今のうちだけだ。死に至るものでもなければどうというものでもない。

「士郎!」
「遠坂、俺のことは大丈夫なんだよ。だって俺のことはアルトリアが護ってくれるから」
「え?」

 疑問の声を上げた彼女にはかまわず、俺は赤い石に向かって走った。

 互いが互いを――それはあの夜に俺とアルトリアが互いに結んだ誓いだ。
 アルトリアは俺を護り、俺はアルトリアを護る。
 誰にでもなく、彼女だけに誓ったこの誓いは決して破られることはなく、相手が誰であっても妨げることはできない。だから、アルトリアがああして戦ってくれているうちは、俺が死ぬことも決してなく――

「アルトリアだって死なしゃしない」

 宝石を拾って鏃を千切り捨て、矢の先端に番える。

同調、開始トレースオン――」

 この宝石を解析・解明する。その上で基本骨子を変更し、構成材質を補強する。
 変化をもたらす強化の基本となる工程。だが今回強化する対象は、他人の魔力が通ったシロモノだ。それもとびっきりの魔術師、遠坂凛の。

「……く」

 宝石に自分の魔力を流し込み、パスを繋げた途端、遠坂のものと思われる魔力が逆流バックロードしてくる。
 ともすればその激流に押し流されそうな自分自身を支え、少しずつ、少しずつ、この小さな石の中に隙間なく埋め尽くされた遠坂の魔力に俺の魔力を流し込み、馴染ませて、俺の思う形に書き換えていく。

「ギ……がぁ、ぐ……」

 宝石の中身を書き換えている間、流れ込もうとしてくる遠坂の魔力を堰き止めている魔力回路があまりの過負荷に悲鳴を上げる。そもそも衛宮士郎の魔力回路など、遠坂凛が渾身を籠めて注ぎ込んだ魔力の前では塵芥のようなものだ。赤いあくまにケンカを売るということがどういうことか、考えればそれがどれだけの無茶かよくわかるってもんである。悲鳴を上げるどころか、今すぐ白旗揚げて逃げ出してしまいたい。
 だが、それでもこの無茶は通さなくてはいけない。今にも焼ききれて千切れそうな神経に鞭を打ち、叱咤して、この魔術は完成する。

「――同調、完了トレースオフ……!」

 そして出来上がったのは、鉄の鏃の代わりに赤い宝石を鏃とした一本の矢。遠坂の魔力を宿し、放てば爆炎を撒き散らす炎の剣。
 酷使した魔術回路はいまだに息を整えることもできず、休息を欲してぎしぎしと軋んでいるが、今はまだ容赦してやるわけにはいかない。

 今ならばファルシュハイトはアルトリアとの戦いに集中していて、俺のことなど気にも留めていない。ならば隙を見つけることも可能だし、この宝石の威力ならばいくら彼女でもひとたまりもないだろう。
 アルトリアは――今も一つ、小さな傷を頬に作りながら、必死の形相で迫ってくる光の爪を捌いている。だが作られる傷の数は確実に増えて、表情には焦燥がはっきりと見て取れる。いくらアルトリアと言っても、これ以上は保たないだろう。

 ――ならば。

 弓に矢を番え、引き絞る。ファルシュハイトが動く、その先一点を見据えて狙いを定める。矢が離れた結果、撒き散らされた炎はファルシュハイトを容易く溶かし、この世から消し去るだろう――俺が、その気になりさえすれば。
 アルトリアが手首を狙って迫る爪を弾き、頭上から降ってくる光をかわして、左右背後から鋭く抉りこんでくる刃を全ていなしてファルシュハイトに向かって走る。無表情のまま直立で、まるで見下ろすようにアルトリアの踊る様を見ていたファルシュハイトは、間合いを自分のものに持ち込もうとするアルトリアから逃れようと、膝を小さく撓めて跳んだ。

 ――ここだ。

 彼女を討つならばここだ。彼女の跳ぶ距離から着地地点を割り出し、そこに撃ちこめば終わる。
 それで彼女は――

「……Flamberge炎の剣!」

 一工程シングルアクションの詠唱を唱え、矢を放ち、その宝石に込められた魔術を解放する。
 放たれた矢は狙い過たず、今まさに地面に着地しようとしているファルシュハイトに向かって疾駆する。

 ――それで彼女は、炎に包まれた。

 吹き上がった炎は空を嘗めるように割れた舌先を伸ばし、枝を燃やして地面を焦がす。そして俺の視界を真っ赤に染め上げた。
 この炎は遠坂がこの四ヶ月の間、ずっと溜め込んでいた渾身の魔力の結晶だ。
 サーヴァントでなけりゃ、強力な兵装も持たないホムンクルスが耐えられる類の魔術ではない。こんな炎に包まれたら、あいつの、まるで雪のように華奢な身体で耐えられるわけがない。たちまちのうちに溶かされて消えてしまう。

 燃え上がる炎の紅が目に熱い。

 これで……終わった、のか。
 あいつは終わったのか? 俺が終わらせたんだろうか。

「……」

 何故だろうか。全て終わって、全てが元通りになるはずなのに、俺の目の前は白くて何も映っていない。
 代わりに脳裏に浮かぶのは、あのとき俺を見つめていた紅い二つの瞳。

 あいつは。
 結局最期まで、何一つ無いまま報われないまま……たった一つ持っている自分の身体すら溶けて――

「シロウ――!」
「……アルトリア?」

 その声に顔を上げたら、いつの間にか白い世界は終わっていて。

 いつの間にか俺の前にいた彼女を五本の爪が切り裂いて、赤い血の色がきらきらどろどろと、舞って散っていた。


 アルトリアが血煙の中に倒れていく。
 その軽い身体を受け止めた俺の手はべったりと赤く温い液体に濡れていた。

 俺の手のひらだけじゃない。
 汗に濡れたアルトリアの身体そのものも、血の赤に彩られて濡れていた。息遣いは荒く、瞳の中の光は失っていないが、それでももはや彼女に戦う力は欠片たりとも残されていなかった。
 そんな身体だというのに、俺に抱かれながらアルトリアはまだ戦意を無くしていなかった。

 フラッシュバックする光景――銀の甲冑を身に纏い、自らの血に濡れながら尚、剣を支えにして立つセイバー。

 アルトリアは、結局その本質はあの頃とまるで変わっちゃいない。
 血に濡れて、衛宮士郎を支えにして尚、立ち上がろうとしている。衛宮士郎に身を任せることなく、それどころか護るために。

 顔を上げれば、五本の爪をだらりと下げたファルシュハイトが無表情に見下ろしながら歩いてきている。すぐさまにその爪を振るわないのは、もはやこちらに戦う力がないと悟ってのことか。
 だが、どちらにしろ俺たちを見逃すつもりなどないだろう。そんな情など彼女の中には存在しない。
 ならば、このまま何もしなければただ死ぬだけだ。俺も、遠坂も、アルトリアも死に、そしてイリヤは失われる。つまり俺は――


 ――アルトリアとの誓いを果たせず、イリヤとの約束も守れない。


 そのことに思い至った瞬間、酷使されてひび割れた撃鉄がガチリと落ちた。



◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆



「あのね、シロウ。わたし、シロウの妹になってあげてもいいけど条件があるの」
「条件?」

 俺の膝の上に座って泥に汚れた足をぷらぷらさせながら、イリヤは首を反らして俺を見上げてきた。
 胸に寄りかかったイリヤの背中は小さくあたたかくて、膝の上に乗せられたおしりは犯罪的なまでに柔らかかったがそこは克己心でカヴァーした。
 見下ろせば吐息すらも届く場所にある小さなイリヤのたまご型の顔。
 色は透けるほどに白く、瞳は大きくて紅に輝き、銀色の髪は息を呑むほどに綺麗で、まるで芸術品のようなその容姿に、浮かべた笑顔と全身に伝わってくる陽だまりのようなぬくもりが、彼女に生命を吹き込んでいる。

 俺はそんなイリヤにお願いされて、彼女のお腹の前に腕を回して抱きかかえている。
 ……まあ、妹なのだし、この程度は許されてもいいだろう。と、思う。

「条件ってなんだよ、イリヤ。さっきも言ったけど少しくらいのわがままだったら平気だぞ」
「んー、と言ってもそんなにたいしたことじゃないわよ。簡単なことなんだから」

 そう言ってイリヤはくるりと身を捻って、正面から見上げるように膝の上で体勢を変えた。

「ひとーつ、シロウは一週間に一回、わたしの好きなものを晩ごはんで作ることー」
「なんだ、そんなことならお安い御用――」
「ふたーつ、シロウは一週間に一回、わたしと一緒のふとんで寝ることー」
「――って……そ、それは……まじですか、イリヤさん?」

 脳裏に数日前の光景が浮かび上がる。修羅の形相でありながら、同時になんだか泣きそうな顔をしていたアルトリア。一週間に一回、身の危険と心の危険を同時に味わわなくてはいけないと、つまりそういうことなのだろうか。
 ああ、それから犯罪者になる危険性もついでに帯びているわけで――例の裁判とか。

 だがもちろん、イリヤがそんな俺の都合を鑑みて、容赦などしてくれるはずもないわけで。

「まじに決まってるでしょ。それともシロウは嫌なの? わたしはシロウと一緒に寝たいだけなのに」
「い、いや……もちろん嫌ってわけじゃないんだけどさ……」
「ふぅん……それじゃあ――」

 言いかけて、イリヤはニンマリとタチの悪い笑みを浮かべる。

「――もしかして、わたしと一緒に寝たりしちゃったら、何もせずにすます自信がないんだ?」
「なぁっ!?」

 こ、このあくまっ子は言うにこと欠いて、なんつーことを。
 そりゃイリヤはかわいいと思ってるけれど、俺はそんな特殊な趣味を持ってる人間じゃないッ!

「っていうか、女の子がそんなことを簡単に口にするんじゃないっ」
「えー、でもわたし、シロウだったらいろんなことされても別にいいんだけどな」
「だからっ! そういう誤解されるようなことを言うと俺の身柄が非常に危険なんだっての!」

 壁に遠坂の耳あり、障子に藤ねえの目あり。ついでに畳には桜の耳があって、天井にはアルトリアの目がついている。
 ただでさえ最近人の出入りが妙に多いんだから、いつどこで誰が話を聞いたり見ていたりするかわかったもんじゃない。こんな話をしていたことを誰かに知られた日には、また裁判だ。罪状はもちろん児ポ法違反である。
 だが、何度も言うようだがイリヤにしてみればそんなの知ったこっちゃないわけであり、

「ふーんだ。シロウがわたしの言うことを聞いてくれないんだったら、わたしもシロウの言うこと聞いてあげないんだから!」

 と、つんとそっぽを向いて膨れてしまう。
 まあ……最初からこうなるのはだいたいわかっていたんだけどな。泣く子とイリヤにゃ勝てません、ってことか。

「はぁ……わかったよ。その条件もOK、一週間に一回、だぞ」
「ホントッ?」

 現金なもので、そう言ってやるとぱっと振り向いて笑ってるんだからなぁ。
 俺は笑いながら飛びついてくるイリヤを受け止めてやって、

「で、条件っていうのはそれだけか?」
「ううん。あともう一つだけあるの」
「あー、あともう一つね。ここまで来たらもうたいていのことは平気だぞ」

 もはやロリコンのレッテルを貼られる危険を冒しているのだから、俺は半ばやけっぱち気味にそう答えた。
 だがイリヤは、そんな俺とは反対に不意に表情に憂いと、そして反論を許さぬ厳しさを帯びる。

「みっつめ――シロウは絶対にわたしを一人にしないこと」
「……」
「わたしを置いて遠くに行かないこと。わたしを置いて死なないこと。わたしを……うらぎらないこと」

 真っ直ぐに俺を見据え、その瞳はまるで縋りつくように離れず、紅の中に俺の姿を映している。

「シロウがわたしを一人にすることは許さない。そんなことしたら、わたしはシロウを殺すわ」

 冗談の欠片も含まぬ声で、イリヤは言う。それはきっと、何かに裏切られた少女の叫びのようなものなのだろう。
 口だけで交わした約束など容易く破られると知ってしまったから、イリヤはそんな言葉を持ち出してまで俺を引きとめようとしている。そんな言葉など、俺は要らないというのに。そんなものなどなくたって俺は――。

「わかったよ、イリヤ。俺はおまえを一人にしないから。破ったら針千本だろうと毒だろうと、何だって飲んでやる」

 だけど、イリヤが不安に感じるというのならそれでもいい。不器用なこいつが、少しでも安心してくれるなら死の約束を交わそう。
 大丈夫。この約束は決して果たされることはないから。

「でも言っとくけど、こんな約束したって意味ないぞ」
「わかってるわ、シロウだけはわたしを裏切らないってわかってる。シロウはわたしのこと好きなんだもの。でもね、約束なの――」

 イリヤは小さな身体をそっと伸ばし、俺の頬に口づけする。柔らかくあたたかいその口づけを、俺は不思議と自然に受け止めていた。
 きっとそれは、捧げられた唇が、彼女の誓いの証にも似た神聖なものだったからだろう。

「シロウがわたしと一緒にいてくれるなら、わたしもシロウとずっと一緒にいるわ。何があっても、死ぬまでずっとそばにいるわ。……わたしが、シロウのたった一人の本当の家族に……シロウの肉親になってあげる」

 離れていく唇とイリヤのぬくもり。
 そのあとを、紅い瞳から零れた一粒の雫が、小さな朱唇の曲線に沿って流れて膝に落ちる。
 イリヤが初めて零した涙も、イリヤが初めて捧げた唇も――俺に捧げられたそれら全てが尊くて、知らずのうちに俺は彼女を抱きしめていた。

「シロウは……シロウだけはもう、わたしをひとりぼっちにしないで……」



◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆



 昨日の夜、イリヤと交わした約束を思い出していた。
 そしてアルトリアが帰ってきた夜、彼女に誓った誓いはずっと俺の中で生きている。
 死ぬ、死なせる、一人にさせる、そのどれもを認めることはできない。そんな理不尽を許すことは、衛宮士郎には決してできない。

 開いた回路から溢れる魔力を湛えながら、ファルシュハイトに向かって駆け出す。
 もはや感情はがむしゃらだった。何も失いたくなくて、もう何もかもを考えず、ただひたすらに護りたくて俺は走っていた。
 だが同時に、理性は標的を排除するために強かな計算を始めていた。

 衛宮士郎にできることは唯一つ、武器の投影。この身が及ばないのであれば、及ぶモノを幻想する。
 そもそもこの身はそれだけに特化した魔術回路。今、用意できる武器で敵を倒すことができるか? 要点はそこだ。

 弓矢――だめだ、論外。そもそも距離がなく威力もない。投影したところで為す術もなく終わる。
 勝利すべき黄金の剣カリバーン――これもだめだ。威力は申し分ないが、斬りかかっている間にこちらもやられる。良くて相打ち、悪くて犬死。

 あの爪を防ぎながら、同時に打ち倒す武器が必要だ。攻防一体に使える武器が。
 いや、一体でなくても良い。それぞれ守りと攻めに使える武器が二つあれば戦える。だが、そんな武器を俺は知っているか?

 ――知っている。

 唐突に、数ヶ月前のことを思い出した。
 あの、全てが始まった運命の夜。誰もいないと思っていた学校で、人ならぬ身の赤い騎士が振るい、闇夜に閃光を生み出していた武器。
 青い槍騎士の刺突を受け止め、同時に舞うように首筋を狙っていた二振りの短剣。あの剣ならば、彼女の爪を受け止め、そして――。

 ならば、それだ。


投影、開始トレースオン


 脳裏に、陰陽を描くような優美な曲線を持ち、まるで寄り添う夫婦のような白と黒の双剣の姿を映し出す。
 この剣の担い手はただ一人、サーヴァント・アーチャー。遠坂に召喚され、槍騎士と互角に戦い狂戦士を六度殺した赤い弓騎士。
 やつがこの世から消えると同時にあの双剣も失われたが、そんなことなど関係ない。一度見た剣ならば、確実に投影する。それが衛宮士郎の魔術だ。

 創造理念・鑑定――完了。
 基本骨子・想定――完了。
 構成材質・複製――完了。

「ぎぃ……ぐ――あ、あぁあぁあああ、あ……ッ」

 脳裏だけと言わず全身にノイズが走り、そのたびに耐え難い激痛に襲われる。脳の芯に鋭い針が突きこまれ、神経を直接抉り出すような激痛。だがそんなもの、失うことの痛みに比べれば微風に等しい。
 身体の中で狂ったようにのたうち、神経を食い破ろうとする蛇を全霊で押さえ込む。従え、貴様は俺だ――そう言い聞かせて魔力を紡ぐ。

 製作技術・模倣――完了。
 成長経験・共感――完了。
 蓄積年月・再現――完了。

「ぐ、あぁ――が、く……くあああぁぁあ――」

 挑むべきは自分自身。ただ一つの狂いも妥協もなく、全ての工程を己の手で再現する。
 だがしかし、今回だけは違う。
 挑むべきはもう一人。この剣の担い手であり、俺が何者であるかを伝えた男。憎たらしくて、どうしても好きになどなれなかったけれど、最期の最期は俺の理想の姿そのままに、全てを護りそして消えた騎士。
 あのときはどうしても届かなかった赤い背中に、今この時こそ、手を掛ける。

 確信はある。
 あいつにできて――この俺にできないはずがない!

 最終工程・担い手の業を継承――

「お――」

 ――完了。

「オオオオォォォォオオオオッ!!」

 左手と右手に結ばれた白と黒の幻想。その剣の名は干将・莫耶。
 煮えたぎる錬鉄に、妻が血肉を捧げて夫が鍛つ――そんな狂気の果てに生み出された夫婦剣。


 双剣を手に走る。ファルシュハイトは既に俺が持っている武器に気づき、表情がないままに右腕を振りかぶっている。
 だが、遅い。

「がああああぁぁッ!」

 駆け巡る激情を、そのまま獣じみた咆哮にのせて吐き出す。頭の中はめちゃくちゃに灼熱して、目の前だって暗いんだか明るいんだかよくわからない。前に向かって動いているはずの足の感覚など、とっくに無くなっていた。
 ただ一点、目指すべき場所にいる白い少女の姿だけは離さずに捉え、故に振り下ろされる爪の軌跡がやけにゆっくりに感じられる。

 左手に持った干将で、落ちてくる爪を防ぎ弾く。甲高い音と共に魔力の火花が散って、五本のうち三本は吹き散らされて消え失せた。
 残った二本、人差し指の爪と薬指の爪。それらは弾かれても力を失わず、高々と撥ねられた中空で切っ先の向きを変え、再び俺に向かって走ってくる。

「ぎッ!」

 灼熱が左肩を貫き、脇腹を僅かに抉っていく。肉がこそげ取られた痕から血が噴出し、力を失った左手から干将が落ちた。
 だがそれだけだ。
 俺の身体は既に彼女の懐近くにあり、右腕はまだ動き手の中では莫耶が黒い輝きを放っている。


「ファルシュハイト!」
「……!」


 呼んで、俺の視線と合わさった彼女の瞳は、まるで驚いたかのように微かに見開かれていた。……そんな気がした。
 その瞬間、急速に全身から熱が引いていく。彼女しか見えていなかった瞳には周囲の光景が戻り、どろどろに溶けていた頭は冷め切って、両の足に土を踏んでいる感覚が戻ってきていた。

 不意に、手のひらに温い液体のとろりとした感触を覚える。
 見ると、莫耶が鍔元まで左胸に埋まり、溢れた血が右手に零れて触れていた。

「あ」
「……」

 ファルシュハイトの身体が崩れ落ちてきて、軽い衝撃と共に彼女が俺の肩に顔を埋める。
 ふわりと広がった長い銀色の髪が、鼻先を少しくすぐって、女の子の匂いが奥に広がった。

「……おい」
「……」

 その肩を掴まえて、軽く揺さぶる。だけど何の反応もなく、彼女はただ黙って俺に寄りかかっていた。
 は、と小さく息切れのような吐息が自分の口から漏れる。
 彼女を支える自分自身が不安定で今にも崩れ落ちてしまいそうだったから、まるで縋るようにファルシュハイトの肩に腕を回した。

 そのまま、身体が凍りついたように動かなかった。彼女の肩越しに目に入ってくる莫耶の切っ先は、血に濡れてぽたぽたと雫を落とし、刀身は油でぬらぬらと光っていて――どうしてか、彼女に触れている自分の腕に力がこもった。

「はぁっ……」

 重苦しく、胸に落ちて詰まっていた息を吐き出す。
 抱きしめた彼女の身体は思った通りに華奢で、軽くて、柔らかくて、まだあたたかくて――

 ――だけどもう、とっくに死んでいた。





あとがき

 イリヤ編はnight10でラストです。あともう少し。


感想、ご意見などございましたらこちら、もしくはBBSまでよろしくお願いします。

二次創作TOPにモドル