夕方頃から降り始めた雨はまだ勢いを衰えることなく降り続き、しとしとと庭の土を叩く音が静かに居間にまで届いてくる。
 水気を含んだ空気はこの時間になって冷気となって変わり、六月初旬という時期にしては珍しく冷え込む夜となった。

「遠坂、おまえそんな薄着で寒くないか? 上着貸してやろうか」
「え? あ、ううん、大丈夫よ。ありがとう、士郎」

 もはや遠坂のパーソナルカラーとでも言ってよい、赤の薄手のシャツと目にまぶしいミニスカートという出で立ちの彼女は見た目にも寒そうだったが、苦笑しながらぱたぱたと手を横に振った。

「そうか? ならいいけどこんなときに風邪だけは引いてくれるなよ」
「む、わかってるわよ。自己管理の一つもできないようで遠坂の魔術師は名乗れないわ」

 その自己管理もしっかりした遠坂の魔術師にしては、部屋の整理整頓は苦手だけどな――
 ――と、これだけは口の中だけで、聞こえないようにつぶやいておく。声に出して聞かれたらまた怒られるし。

「さて、と。それじゃ、そろそろアイツのこと聞かせてくれる?」

 遠坂の視線の先には、彼女の対面に座ったセラさん、リーゼリットさん。それからイリヤ。
 俺とアルトリアは遠坂の隣で話を聞く体勢になっている。形からすればアインツベルン関係者と俺たちとで別れている形だ。
 まあ、だからといってお互いの立場に違いがあるわけじゃない。俺たちは、俺たちだ。

 道場での話が終わった後、遠坂に連れられて居間に戻ってみれば既にイリヤたちが待っていた。
 もちろん、今日イリヤを襲撃してきた少女のことについて教えてもらうためだ。
 俺たちには彼女が何者かなんてさっぱりわからないが、同じ――いや、元アインツベルンのイリヤたちならば知っていることだってあるはずだ。

「その前に一つだけはっきりさせておきたい。イリヤ」
「なに、シロウ?」
「あの娘は、おまえを狙ってきたんだよな。アインツベルンから」
「なによ士郎、そんなこと今更聞かなくてもわかりきってるじゃない」

 遠坂が横から口を出してくる。今更聞くまでもないことを聞いて余計に時間を取らせるなと、そう言いたげな顔。
 だけどこれは俺にとってとても重要なことなんだ。

「イリヤ?」
「ええ、リンの言う通り。狙われているのはわたし。狙っているのはアインツベルンで、あれはその手段よ」
「……そうか。よし、わかった」

 これではっきりした。やっぱり彼女――あの白い少女は俺たちの敵だということが。
 何かの間違いでも勘違いでもなく、明確に俺たちに敵意を持って襲い掛かってきた。屋敷の結界が反応した時点でそれはわかっていたことだけど、その敵意には明確な目的が伴っていた。
 俺たちには決して頷くことができない目的が。
 互いに退けない理由があって交わることがなく、それが互いにぶつかり合うことでしか解決できないなら、やはりぶつかり合うしかないのか。

「もういいのかしら? ……じゃあ、単刀直入に聞くけど、アイツは何者?」

 俺に一つだけ確認を取って聞き始める遠坂。そして彼女の問いに答えたのはセラさんだった。

「彼女は私たちと同じホムンクルスです。それも特に対魔術戦闘に特化して特別にチューニングされた型です」
「戦闘用のホムンクルス?」
「はい。言ってみれば彼女は私たちの姉のようなものです」
「姉? ってことはセラさんたちも……」
「そうだよ。わたしたちも、同じ。ホムンクルス」

 そう語るリーゼリットさんの口調は何の気負いもなく淡々としている。事実、彼女はそのことを何程のこととも思っていないのだろう。
 そしてそれは俺たちにとっても同じだ。そりゃ、多少は驚きもしたが、別段それでなにがどうと言うわけでもない。俺と遠坂は魔術師なのだし、アルトリアに至っては元サーヴァントだ。普通の人間と違うという意味では俺たちに大差はない。

「まあ、貴女たちがどうとかは今更どうでもいい話だわ。今度暇なときにでも聞かせてちょうだい」
「……そうですね。今あなたたちが必要としているのは彼女の情報でしたか」

 セラさんは遠坂とアルトリアの言葉にちょっとだけ目を見開いて、

「わかりました。余計なことを話している余裕はないでしょう。それにそろそろお嬢様はお休みの時間です」

 こくりと首肯してから話し始める。

「彼女――ファルシュハイトはアインツベルンが第四回目の聖杯戦争のマスターとするために生み出したホムンクルスです」





Day Dream/vow knight

――night 08――

『ツクリモノノココロ』






 ――ファルシュハイト。

「それが彼女の名前か? いや、それよりも第四回の聖杯戦争って……」
「はい。エミヤキリツグがアインツベルンのマスターとして参加した前々回の聖杯戦争です。本来ファルシュハイトはその戦いにおけるマスターとして、アインツベルンに聖杯をもたらすべく生み出されました」
「切嗣が? ……オヤジがアインツベルンのマスターだって?」
「そうです。第四回聖杯戦争の折、アインツベルンは外来の魔術師であるエミヤキリツグをマスターとして戦いに臨んだのです」

 そうか……以前アルトリアが言っていた魔術師の名門ってのはアインツベルンだったわけか。
 第四回聖杯戦争時に切嗣をマスターとして立て、最優のサーヴァントであるセイバーを用意して戦いに望んだ魔術師の一族。
 まさかそれがアインツベルン……イリヤの実家だったなんて思ってもみなかった。

「イリヤはそのことを知ってたのか?」
「ええ、もちろんよ。……キリツグが最後の最後で裏切ったこともね」

 なるほど、それならばイリヤがあれだけ俺に固執していた理由もなんとなくわかる。
 が、そう言うイリヤの表情に変化の色はない。淡々と、事実のみを語っている。俺には逆にそれが――

「……」

 隣を横目で窺うと、アルトリアもさすがに驚いたように表情を固めていた。
 無理もない。もしかしたら彼女――ファルシュハイトがアルトリアのマスターになっていたかもしれなかったのだから。

「ですがセラ、第四回の聖杯戦争のあのとき、私のマスターは切嗣でした」
「ええ、その通りです。結果だけを申し上げれば、アインツベルンはファルシュハイトを用いるよりも外来の魔術師であるエミヤキリツグをマスターとしたほうが、より聖杯を手にする可能性が高いと判断したのです」
「それは何故? 衛宮切嗣がどれだけ優れた魔術師だったか知らないけれど、余程のことがない限り、アインツベルンのような生粋の魔術一族が外来の魔術師である彼を用いるなど考えられることじゃない」

 それは遠坂の言う通りだと思う。
 魔術師というのは本来、自分たちの研究、術を秘匿するものだ。現に魔術師としての工房などあの土蔵くらいしかないこの家にだってしっかりと結界は張られているし、遠坂の家など言わずもがなだ。
 だから遠坂の言う通り、生粋の魔術師であるアインツベルンの一門が、一族の人間ではない切嗣を受け入れるというのは本来あり得ない話なのだ。
 そのアインツベルンが既にマスターとなるべき少女を用意していたにも関わらず、自分たちの最秘奥が外に漏れる危険を犯してまで、衛宮切嗣という男にマスターを求めた――単純な戦闘能力の差だけでは説明できない気がする。

「何故、ですか。簡単なことです。ファルシュハイトよりもキリツグにマスターを任せたほうが聖杯を手にする確立が高かったというだけのことです」

 しかし、セラさんはその理由を確立の差であると言い切った。
 衛宮切嗣とファルシュハイトを比べたときの、単純な性能の差であると。
 ……そういう、ものなのか?

「ファルシュハイトは既にご覧になった通り、ただ戦闘をこなすだけの能力ならばかなりのレベルを誇っています。ですが彼女には致命的な欠陥があった」
「欠陥……ですか?」
「はい。ファルシュハイトには自立的な判断能力が著しく欠如していたのです。彼女の性能を戦闘能力に特化させるあまり、そちらのほうが疎かになってしまった。聖杯戦争とは単純な腕の比べ合いではなく、文字通りの戦争ですから」
「――戦術の一つも立てられないようなマスターでは敗北は目に見えていますね」

 後を引き継いだアルトリアの言葉にセラさんは小さく首肯した。
 つまりファルシュハイトは、自分の意思もなく聖杯戦争のマスターとなるべく生み出され、自分の責任ではないのに失敗作の烙印を押され、挙句の果てに後から現れた別の男に自分の存在意義すら奪われて――

「……セラさん、切嗣がマスターとなったその後、ファルシュハイトはどうなったんですか?」

 零れそうになる感情をどうにか押さえ込みながら言葉を振り絞る。
 俺は自分でも思っていた以上に堪え性がないみたいだ。八つ当たり気味にぶちまけてしまいたいと思う、どうしようもない馬鹿が俺の中にいる。

 ただでさえそんなだったのだから――

「それは私にもわかりません。当に廃棄されたものと思っていましたが、どうやらまだ保管されていたようですね」

 ――その、人間をモノのように扱う言葉に、簡単に感情が沸点を迎えた。

「なんだよそれ……人間をなんだと思ってやがる! ふざけるなっ! それじゃ彼女はなんのために生まれてきたんだ。魔術の名門だかなんだか知らないが、そんな馬鹿げた連中に道具みたいに扱われて良い筈があるかよっ!!」
「シロウ! 落ち着いてください!」
「落ち着けるかっ! だってそれじゃあ――」

 ――それじゃあ、イリヤもリーゼリットさんもセラさんも同じってことじゃないか。

「士郎、魔術師ってのはそういうものよ、特にアインツベルンはね。もう千年もの間、聖杯を手にするって目的のためだけに狂ってきた一族だもの。士郎の持ってる正義感も倫理も常識も、連中にとっては無価値よ」

 遠坂はそれを当たり前のことのように言う。そして彼女の言うことは正しく魔術師としては常識的なことなのかもしれない。いや、事実そうなのだろうし、冷静に考えてもアルトリアから聞いている魔術師としての切嗣と、ファルシュハイトではどちらが優れているか、火を見るより明らかだ。
 わかってる。俺の振りかざしている正義感なんて子供じみた無価値なものだってくらいわかってる。
 狂信じみた千年にも渡る目的の前では、こんな感情的な正義感も、連中にとってはツクリモノにすぎないファルシュハイトの存在も全くの無価値だ。

「それにね、シロウ。わたしたちは人間じゃないの。最初から道具として作られた存在よ。わたしは聖杯として作られ、リズとセラはその失敗作ね」
「失敗作って……道具って、イリヤ……おまえ」

 続いてイリヤの口から出たその言葉に愕然とする。
 なんで。
 どうしてそんなことをなんでもないように言えるんだ?
 おまえは、今でもそんな風に自分のことを思ってるのかよ。

 自分をツクリモノの聖杯だと。リーゼリットさんとセラさんをただの失敗作だなんて本気で思ってるのか?

「士郎、とにかく今はそんな話は後のことよ。あんたのことだからきっとこうなると思ってさっきは後回しにしたのに。これじゃ意味ないでしょ?」
「……ああ」

 ――確かに、今はそんなことを話しているときではない。

 感情的に納得なんて当然できちゃいないが、遠坂の言うことはやっぱり正しい。
 俺が感情的な分、彼女のように理性的なストッパーがいてくれるのは本当に助かる。

「すまん、遠坂。迷惑かける」
「良いわよ。今更でしょ、こんなの。で、他には何か知らない? 例えばそのファルシュハイトが得意としている魔術とか」

 仕切りなおしとばかりにぶつけた遠坂の質問に、しかしセラさんは首を横に振る。

「残念ですがわかりません。先ほども申した通り、彼女は廃棄されていてもおかしくはなかったのですから」
「そっか……それさえわかれば対策の立てようもあったんだけどな」
「でもさ、遠坂。今なら何も知らないってわけでもないだろ? 少なくとも今日の戦いで彼女は自分自身を強化する魔術を行使してたし、着ていた服は恐らく魔力抵抗値の高い魔術兵装だ」

 遠坂はそれにこくりと頷いて答える。

「そーね。強化魔術は目の前で、っていうか庭を見ればわかる通りだし、あれが魔術兵装でなかったらわたしのガンドをああまで防げるわけないし」

 さすがは遠坂、腕も一流だが自信も一流。
 そしてもちろんその自信は実力に裏打ちされたものだからこそだ。

「とりあえず……今わかってることはこれくらいか。参ったわね、結局のところアルトリア頼みってことじゃない」
「そうだな。せめてあの服さえどうにかできればなぁ……」

 と、そう言うと遠坂がぴん! と、耳としっぽをを逆立ててあくまの顔に変貌する。

「あらあら衛宮君てば、女の子の着ている服を強引に剥きたいだなんて……エロいわね」
「だぁっ! 誰がいつそんなことを言ったか! だからおまえらもそういう目で俺を見るなーーーっ!」


 とにもかくにも、だ。
 俺から、俺たちからイリヤを奪おうっていうなら俺たちがすることは唯一つしかない。

 護り抜く。
 退けて、護る。敵を傷つけ、俺たちが傷つくことになっても護り抜く。

 ――だけど、本当にそれだけなんだろうか。

 聖杯戦争のときにも感じたこと。戦って殺しあうだけが全てじゃないはずだと、他にも解決方法があるはずだと思っていた。
 結局、殺し合わずに済んだ相手なんて遠坂くらいしかいなくて、イリヤとだって殺し合ってしまったわけだけど。
 だがやはり、誰もが傷つかずに済むならばそれが一番良いことには変わりがない。
 それは甘い考えかもしれない。けれど誰だって痛いのや苦しいのは嫌なんだから、それを相手に強いるのはきっと最善じゃない。

 敵も味方も、あまねく全てを救う――それがきっと最善。
 もちろんそれが不可能事だと言われても否とはいえない。だけどだからこそ、それを求めることに価値があるのだと、俺はそう信じていた。



◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆



 昨日から降り続けた雨は今日になってもまだ止まず、空は灰色の幕に覆われて低く垂れ下がっている。
 激しくもなく弱くもなく、淡々と静かに振り続ける雨はアスファルトを冷たく濡らしいくつもの水溜りを作っていた。これから夏が来て、水不足が訪れる前の一ヶ月間のお湿りの季節。必要な時期だとわかってはいても、やっぱり俺はあまり好きじゃない。

 なにせ洗濯物は乾かないし、歩いてて靴の中に水は染みて入ってくるし。それに食い物の鮮度管理にも気をつけないと、すぐにカビてしまう。
 それでなにが怖いって、腹をすかせた藤ねえがカビの生えた食いもんをうっかり食っちまって腹を壊すのが一番怖いのだ。

 だが俺の都合など構わずに雨は降り続ける。
 昨日の騒動で駄目になってしまった食料の買出しに出てきた俺たちを容赦なく叩き、傘を差していようが関係なく肩を濡らす。更に、履いている安物の靴の中にも次第に水が染み込んできて、徐々に靴下が湿っぽくなってきていた。

「シロウは雨が嫌い?」
「ええ、まあ……好きじゃありませんね」
「そう? わたしは、けっこう好き」

 俺の隣を歩いていたリズさんは、差したピンク色の傘を左右に揺らしながら、水溜りを飛んで避けたりむしろ飛び込んだり、ぴょんぴょんと跳ねている。
 表情に乏しいから彼女が今どんな気持ちでいるのかイマイチよくわからないけど、あれはあれで楽しいのだろう。

「リーゼリット、服が濡れるからおやめなさい」
「でも、楽しい」
「楽しくても、です。子供でないのですから、イリヤスフィール様の付き人として自覚を持ちなさい」
「セラ、うるさい。おばさんみたい。でもおっぱいは子供」

 眉をひそめて注意するセラさんに相変わらずの無表情ですごいことを言い返すリズさん。
 セラさんは無言のままリズさんに近づいていって、

「……」
「イタイ、イタイ、イタイ」

 やっぱり無言のままでそのリズさんの頭をギリギリと握り締める。骨がきしむ音が聞こえてきそうなほどに見事なアイアンクロー。それでも器用に自分の買い物袋を抱え、尚且つ濡れていないのはさすがパーフェクトメイドといったところか。

 ……確かに胸、小さいけどな。

 それにしても二人ともメイド服のまんまで出てくるもんだから、商店街でも目立つこと目立つこと。
 買い物の手伝いをしてくれるのは助かるんだけど、できれば着替えてくれればよかったのに、とか思わないでもない。しかしながら両脇にメイドさんを二人も連れて歩くのは両手にメイド、というカンジで男としての矜持が満たされる思いであったのもまた事実。
 あまり目立ちたくないという思いと、むしろ誇らしく注目を浴びたいという思いとが俺の中で同居する。まさに二律背反。

「今更ながらすごいことだよなぁ……」

 自分の家にメイドさんがいる――これは漢にとってロマンでござるっ! とか言ってた後藤君の言葉が思い出される。
 あのときは彼の言っていることの意味が良くわからなかったが、今の俺ならば素直に頷けるであろう。

「シロウ、ぼーっ、としてる?」
「うわぁっ!?」

 いつの間にかじゃれるのをやめていたリズさんが俺の顔を覗き込むようにして見つめていた。差している傘を重ね合わせて、息がかかるほどに近い。
 白い肌、長いまつげ、ピンク色の唇と澄んだ紅の瞳。
 こうして間近に見る彼女の顔は、人形じみて見えるほどに整っていた。

「い、いや、だいじょうぶだいじょうぶ。だからちょっと離れてね、リズさん」

 それが気恥ずかしくて、言う前に慌てて自分から顔を離す。触れてみればきっと俺の顔は熱くなっているはずだ。

「シロウ様。なにを考えていらしたのかわかりませんが、あまり道端で呆けるのは如何なものかと思いますが」
「あ、いや……返す言葉もありません」

 が、セラさんからかけられた冷水のような言葉に、その熱は一気に冷めた。
 わかっていたことだけど、どうにも俺はセラさんに嫌われている。
 それがどうしてだか俺にはわからないけど、誰かに嫌われるというのはあまり嬉しいことじゃない。まして彼女はイリヤをとても大切に思っていてくれるひとだ。そんなひとに嫌われたままでいたくはない。
 でもほんとに、なんでなんだろうな? 俺は何か彼女に嫌われるようなことをしたんだろうか。

「……シロウ」
「? なんですか?」
「わたしたちがいない間、イリヤはどんな子だった?」

 リズさんはといえば、怒られたからか、今はもう飛び跳ねるのはやめて大人しく俺の隣を歩いている。
 彼女から問いかけられながら、その横顔はやはり離れたところから見ても整っていて美しいと思った。

「イリヤですか? そうですね……」

 俺は彼女の問いに、少しだけ考えてから、

「妹、でしたよ、イリヤは。や、でしたって言っても今もそうだしこれからもそうなんだけどね」
「妹? シロウの?」
「ああ……妹で、大切な家族だよ。イリヤは普段は藤ねえの家で寝泊りしてるんだけどさ、朝になるとうちに朝メシを食いにくるんだ」

 正直に、彼女の日常を語って聞かせることにした。きっとそれが今のイリヤを語るのに最も適していると思った。
 今のイリヤがどれだけ普通の女の子なのか――それを教えてあげたかった。

「なんか知らないけど、イリヤは俺がエプロンをつけているのを見るのが好きで、桜が朝台所に立ってると少し拗ねてさ、我侭を言うんだ。『シロウはわたしのためにごはんを作らなきゃだめなのー』ってさ。ああ……それからできれば人のふとんの中にもぐりこんで起こすのはやめてほしいかな」
「ふとんって、シロウのふとん?」
「そうだよ……って、だから俺はそういう趣味はないって」

 途端、視線の温度が絶対零度に下がるセラさんに背筋を寒くしつつ乾いた笑みを返す。
 っていうか俺、絶対に誤解されてるよなぁ……
 と、落ち込みつつも気を取り直す。事実として俺はロリコンじゃないんだから、誤解は後から解けばいい話だ。

「俺が昼間学校に行ってる間はアルトリアと二人でいることが多いみたいだな。時々アルトリアを手伝って家の掃除とかしてくれてるみたいだし、そうでない時は藤村の爺さんの相手して将棋とか打ってるんだってさ。これがまた結構強いらしくてさ……イリヤ、頭いいからなぁ」
「お嬢様がそのようなことをなさっているのですか?」
「うん。それも自分から言い出してのことだぞ。誰も強制なんかしてない。そりゃもちろん手伝ってくれと頼むことはあるけど、それは強制と違うだろ? 買い物にも一緒についてきてくれるし。ああそうそう、最近は料理をするようにもなったんだ」
「イリヤが料理を? おいしい?」
「ああ、美味いよ。真剣な顔して一生懸命作ってさ、それが美味くないはずない。まだレパートリーは少ないけど、もう少ししたらイリヤの作った料理だけで晩メシの食卓を埋め尽くせるようになるんじゃないか? こればっかりはアルトリアもまだイリヤには及ばないしな」

 ぽつぽつ傘に当たる雨が跳ねる音、ぴちゃぴちゃと靴が水溜りを跳ねる音がリズムを奏でる。
 雨足は弱くなるどころか次第に強くなってきて、やむ気配は一向に見えない。昨日の夜からずっと降っているせいか、今日は少しだけ肌寒い。

 イリヤは寒いのが苦手だからな……今日の晩メシはあったかいのにしようかと思う。

「イリヤは……聖杯戦争が終わって、こっちでの生活が始まって、ずっと普通の女の子だったよ。見たまんまの歳のかわいい女の子だった」
「……」
「アルトリアがいなくなって、俺は未練なんかないと思ってたけど、でもそんなイリヤの無邪気さにきっと俺は助けられてた。自分でも気づかないうちに駄目になりかけてた俺のそばに、イリヤはいつだって居ようとしてくれてたんだ」

 イリヤに俺を助けていたなんて意識はなかったかもしれない。むしろそうであってほしいと思う。
 彼女には何の屈託もなく、普通の女の子としていてほしいから。
 俺はそんなイリヤが好きで、大事だと思ってる。だから俺を護ってくれた彼女を、今度は俺が護ってやりたい。

「イリヤはとってもいい子だ。毎日をほんとに楽しそうに笑ってくれてる。それが嬉しいんだ。あんないい子がさ……泣いたり、辛い目に合わなきゃいけないなんて、絶対に間違ってるだろ? だからさ……イリヤには、笑っててほしいんだ」

 それが、彼女からバーサーカーを奪ってしまった俺の役目であり……同時に受け継いだ遺志だ。そして俺の意志でもある。
 俺が彼女にとって、絶対に頼れるような男になれるかどうかわからないけれど、そのような存在でありたい。

 だから――

「シロウは、イリヤのことが、好き?」
「ああ、もちろん。好きだよ」

 だからリズさんのその問いに、俺は一瞬の躊躇もなく、そう答えた。

「そう……」

 そしてリズさんは俺のほうを振り向いて、

「ありがとう、シロウ」
「……礼を言われるようなことじゃないよ、好きなんだからさ」
「そうだね。わたしも、イリヤのこと、大好きだよ」

 そう言ってくれた彼女はほんの少しだけ微笑んでくれたような気がして、そんな俺のことをセラさんは黙って見つめていた。
 そして俺がそんな彼女のことを見つめていなかったら、公園にあの白い少女の姿を見かけることもなかったかもしれない。

「! あれ……」

 セラさんが歩いているその向こう側にある公園のベンチにひっそりと座っている白い影。
 ひっそりとした、影――そう称してしまうほどに彼女の存在は希薄で、ともすれば雨の水煙の向こうに消えてしまいそうだった。

 なんでこんなところに、そう思う前に彼女が顔を上げてこちらを見る。
 ――目が合った。
 彼女は俺たちに気づいた。となれば――

「まずいな。まさかこんな街中にいるなんて思ってもみなかった」

 昨日の今日だ。彼女もあの戦いで負った傷を癒すためにどこかに隠れているものだと思っていたのに、こちらの認識が甘かったか。
 いや、とにかく今はそんなことなど後回しだ。

「リズさん、セラさん。ファルシュハイトだ」

 二人が足を止めて公園の中を見る。

「俺が相手をする。その間に二人は家に帰ってアルトリアたちを呼んできてくれ」

 撃鉄を落として魔力回路を開き、全身を魔力に浸す。俺でどこまで食い止められるかはわからないが、やるしかない。
 脳裏に今俺が持っている最大の戦力、アルトリアが振るった黄金の剣の姿を投影し、その幻想に魔力を――

「だいじょうぶだよ」

 ――流し込もうとしたところでリズさんのそんな呑気そうな声に遮られた。

「はい?」
「だいじょうぶ。ファルに、けんかする気はないから」
「はあ?」

 えっ、と……けんかする気がないって、要するに戦う気がないってことだよな。
 いやだから、なんでさ。

「理由は昨夜に申し上げた通りです」

 俺の声なき疑問を察して答えてくれたのはセラさんだった。

「ファルシュハイトには自立的な判断能力がありません。聞いておられたと思うのですが」
「あ、ああ……聞いてたけどさ。でも、彼女にとって俺たちは敵だろう?」

 昨日、思いっきりファルシュハイトに対して敵対行動をとった俺たちを、彼女が敵として認識していないと思えない。
 逆の立場である俺たちが彼女を敵として認識しているように、彼女だって俺たちを敵と認識するはずだ。

 だがセラさんは俺の問いに対して首を横に振って答えた。

「いいえ。今のファルシュハイトの目的はあくまでイリヤスフィール様の奪還です。それ以外のことは彼女の行動の判断基準にはありません」
「え、ええ? いやだって待てよ……だって昨日は」
「昨日はあな……いえ、私たちがイリヤスフィール様奪還の邪魔となったから排除しようとしただけです。私たちが彼女の目的を邪魔しようとしていないならば――ファルシュハイトにとって私たちの存在は無意味。見えていないのと同じです」
「……」

 自立的な判断能力がない、ってのはそういうことか。
 つまり、今の彼女にはイリヤしか見えていないということか。イリヤを俺たちから奪還することだけが今の彼女の全てで、今の彼女の存在意義。
 それ以外のことは何も見えていなくて、何もかもが無価値。

「……なんてこった」

 これじゃあ、聖杯戦争を戦えないのも無理はない。いや、それどころか普通に生きていくことだって難しい。
 ファルシュハイトは――絶対に一人じゃ生きていけない。
 誰かにあれをしろ、これをしろと命じられなければ自分では何も判断できず、何も行動を起こさない。本当に、ただのヒトガタ。

 それを裏付けるように、既にファルシュハイトは俺から視線を外して亡羊とした瞳をどこへとも知れぬところへ向けている。
 公園のベンチに一人ぼっち、傘を差すこともなく冷たい雨に打たれて人形のように身動ぎもせず、ただ自分をそこに置いていた。

「……寒くないのか? あいつは」
「どうでしょうか。ただ、もしそうだったとしても彼女には何の意味もないのでしょうが。あそこに座っていることですら彼女には何の意味もないのですから。他の誰に見つかろうが、雨に晒されようが、ファルシュハイトにとってはどうでも良いことなのです」
「じゃあ、何でわざわざ雨に濡れるようなところにいるんだよ。屋根の下だっていいじゃないか」
「そうですね」

 セラさんは相変わらずの無表情のまま、ただそこにいるだけの彼女を見つめてつぶやく。

「あのベンチでも、屋根の下でもファルシュハイトにとって必然性はないのですから……どちらでもいいのでしょうけど」
「どこにいようがそのこと自体に意味はない、か……あいつにとって必然性がある行動ってのは、イリヤに関することだけ、ってことかよ」

 ふつふつと沸いてきているこの気持ちのやり場がない。行き場もない。
 思いっきりばかやろう、て言ってやりたいのに、言ってもその言葉は届かない。何を言ってもどうしようもない。

 そう、もう何もかもがどうしようもないのだと、言葉をかける前に決着がついてしまった。
 俺の甘い考えは全てが木っ端微塵になってしまった。
 何を言っても意味がないからどうしようもない。そんなくそったれな現実に全て駆逐された。

「くそったれ……」
「シロウ?」

 毒づきながら、俺は意味のないことをしようとしていた。
 何で俺は自動販売機であったかいお茶なんて買っているのか。こんなことしたって意味がないってわかってるのに。
 このどらやきは江戸前屋で買ったアルトリアのお気に入りだ。彼女が喜んでくれると思って買ったのに、俺はどうしてこんな意味のないことに使おうとしているのか。ああ、意味がないついでに総菜屋で買ったおにぎりもつけてやろう。どうせ意味なんてないんだから、一つも二つも関係ない。

「ごめん二人とも、ちょっと荷物見ててくれな」

 買い物袋を二人に任せ、傘とお茶とどらやきと、それから鮭のおにぎりを持って俺は公園に入っていった。

「ほんとになんで、こんな意味のないことをしてるんだろうな」

 雨に濡れて粘つく泥を踏みながらファルシュハイトに近づいていく。
 彼女は再び顔を上げて、近づいてくる俺を見つめていた。瞳の色はイリヤたちと同じ綺麗で純粋な紅色。一寸の曇り穢れなく、きっとその瞳の中にはガラスに映したように俺の姿が映っている。
 誰もいない公園で、彼女はたった一人ぼっち。イリヤを奪還するという目的を達するまで、彼女はずっとこのままこうしているつもりなのか。
 そしてたとえその目的を達したとしても、その次には本当に何もなくなるだけ。

 何をしても、何を成しても――どうあっても彼女は、報われない。どうしようもなく、報われない。

「……よお」
「……」

 俺を見上げている彼女の瞳は思った通りに綺麗で、思った通りに透き通るような透明さだった。
 腰まで届く銀色の髪は濡れそぼって頬にひと房張り付き、真っ白な服も雨の水を吸って灰色になっている。
 驚くほどにイリヤに良く似た彼女は……こうして濡れていても驚くほどに綺麗だった。なのに、

「まるで濡れねずみだよな、おまえ」
「……」

 少しだけからかうような言葉にも彼女は何の反応も見せなくて、相変わらずただ黙って俺を見上げているだけだ。
 じっと見ているだけのその瞳に俺の姿は映っているけれど、彼女に俺の姿は映っているのだろうか。もしかしたら彼女にとっては、イリヤ以外の全ては全くの無色、白色なんじゃないだろうか。
 だとしたら、やっぱり俺のしようとしていることは何の意味もない。

「おまえさ、そんな濡れたら風邪ひくぞ。ほら、傘ぐらい差せよ」
「……」

 それでもどうしたことか、俺は意味のないことをしていた。
 ファルシュハイトの華奢な手を取って、雨に濡れて冷え切ったその手に傘を持たせる。彼女は俺を見上げたまま、意外にも素直に傘を受け取った。
 そうして今度は俺が降りしきる雨に晒される。
 梅雨入り時の雨は冷たくて、打たれた先から体温を奪っていく。指先は寒さに次第に痺れ、頬を伝う雫が首筋を通って服の中にまで入り込んでいく。雨水を吸ったシャツが肌に張り付いて気持ちが悪い。
 今は傘を差しているファルシュハイトは、いったいどれだけの間こんな気持ちを『どうでもいいこと』と無視していたのか。

「なあ、腹へっただろ。メシ、ちゃんと食ってるのか?」
「……」

 彼女はやはり何も答えない。

「おまえのことだから多分、食ってないんだろうな。だから、これやるよ」
「……」

 答えない彼女を俺も無視して、持っていたどらやきとおにぎり、それからお茶をファルシュハイトの膝の上に乗せてやる。
 彼女は膝の上に置かれたそれらにちらりと視線をやってから、再び俺を見上げた。その瞳の色に変化はやはりない。
 だから俺は傘を持っていないほうの手に、あったかいお茶を持たせてやって、

「寒いだろ。こんなに手も冷たくなっちまってさ。このお茶あったかいから、飲めば少しはましになるぞ。ほら」
「……」

 半ば無理やりに、その頬にお茶を当ててやった。
 それでも彼女の顔色は何一つ変わることはなく、次第に温もりを取り戻していく冷たかった指先が救いと言えば救いだった。

 ……俺は本当に何をしているんだ。

 お互いに無言で見詰め合う。
 俺は雨に打たれ、彼女は俺が渡した傘を差し、その手にはどらやきとおにぎりとあったかいお茶。

「あのさ、そりゃ俺が勝手にしたただのおせっかいだけどさ……」

 雨に濡れて重たくなってきた髪をかきあげ、乱暴に掻き毟る。
 気持ちがいらいらしてやるせない。どうしようもないとわかっているから、自分のやっていることが無駄だとわかっているから、こんなにも腹が立つ。

「こういうときはさ、ありがとうって、お礼の一つくらい言うもんなんだぞ」
「……」

 だけど彼女は何も答えず、ただ黙って俺を見上げているだけ。

「ま、いいけどな……じゃ」

 期待なんてしちゃいなかったけど、結局最後まで何一つ言葉を交わすことなく、俺は彼女の前から立ち去った。
 背中越しにまだこちらを見ているのがわかる。ただ、その視線には何の感情もこもっていない。

 肩を濡らす雨がこんなにも重たくて、こんなにも冷たい。雨が染み込んだジーンズも重たくて、足取りまでもが重たい。
 重たそうに落ちてきそうな灰色の空と、それを見ている俺の気持ちまで……何もかもがどうしようもなく重たい。
 ばかやろう、と、喉元まで出掛かっているこの言葉はいったい誰にぶつければいいのだろうか――

 ――誰にもぶつけようがない。唯一ぶつけられる相手はあれだ。

 ままならない。何もかもがままならない。
 鬱陶しく降り続く雨もままならないし、今更になってイリヤに手を出してくるアインツベルンのくそったれ共もままならない。昨日の騒ぎで食費がかさんじまって生活費もままならないし、ファルシュハイトの無口っぷりもままならない。
 だけど一番ままならないのは、今更になって千千に乱れて迷っている俺自身だ。



「お待たせ、帰ろうか」

 待っていてくれた二人に、自分でもわかるくらいに無理して笑いかけて歩き出す。
 多分、今の俺は随分と情けない顔をしてるんじゃないかと思う。このまんま帰ったらきっとアルトリアに心配をかけてしまうから、帰り道でできるだけ頭を冷やそうと思う。幸いに、そのための雨はまだまだやみそうにないことだし。

 そう思っていたら、

「……セラさん?」

 セラさんが無言で俺の隣に並んで、その傘の半分に俺を入れてくれていた。

「馬鹿ですか、あなたは」
「え? いや、それはそうだけどさ……セラさん、濡れるよ?」

 彼女の肩は半分が既に傘の外にはみ出ていて、もう一方の肩も濡れている俺の腕に触れてしまっている。
 だが彼女は呆れたようにため息をつき、

「つくづくあなたは馬鹿ですか。自分を馬鹿と言われて素直に受け入れる神経もそうですが、まずは他人を心配する前にご自分を省みたらどうなのです」
「って言われても……セラさん、女の子じゃないか」
「っ! あ、あなたは大馬鹿者ですっ!」

 そう言ったら一つ怒鳴ってそっぽを向いてしまった。
 ああ、これは完全に嫌われちゃったかな。何でだか良くわからないけど、嫌われたくはないのに、大馬鹿だってさ。
 だけど不思議なことに――でも、ないか。あまり不思議でもないけど、俺はそんなにショックを受けていなかった。

 そんなことよりも今は、濡れた肩が重たい。

「セラ、シロウに、らぶらぶ?」
「……リーゼリット、帰ってから覚悟していなさい」

 じゃれている二人の声が今の俺の耳にはどこか遠かった。

 どうしようもない。
 ままならない。

 何もかもが意味がなく、言葉は届かず心が通わない。ただ一つのことしか彼女には意味がなく、それ以外は全てが無価値。俺の望んだ価値あることは、あいつの持っている無価値に負けて潰された。
 だからどうしようもない。俺にできることなどたった一つしかなくて、あいつを――。

 ファルシュハイトを――。

「……」

 真っ直ぐに空を見上げると、無数の弾丸が俺を目掛けて落ちてくるような錯覚に襲われた。
 額を穿ち、目を潰し、頬を貫き耳を削いで鼻を抉って肩に食い込みやがて全身を満たして蜂の巣にする。
 もちろん、全部錯覚だ。

 そんな錯覚は逃避だ。嫌なことから逃げようとして詮無いことを考えている俺がいる。
 そうして今度は内側から自己嫌悪の槍に貫かれた。逃げたくたって逃げ場なんてどこにもないってわかっているのに。


 濡れた肩が冷えて身体の芯から怖気が走る。
 寒さに小さく身を震わせて、無性にアルトリアのぬくもりが恋しくなった。





あとがき

 結構トンデモな設定でしたオリキャラのひと。でも、書いてて楽しゅうございました。
 さてもう少しでイリヤ編も終了の予定です。そしたら次はピー編の予定です。
 先はまだまだ長いけど、黙々黙々と書いていくだけですね。


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