<真面目の理由>



 突然ですが皆さんこんにちは。生徒会の一年生、有島咲子です。
 わたしたちは今、セイバーさんとともに会議室から生徒会室に戻り、資料整理に当たっています。2月以降未整理のまま放置されていた各種資料を、項目別に分けて日付順にファイルし直しているのです。
 たった三か月分ではありますが、ウチの生徒会の活動は多岐にわたるため、紙の資料だけでも結構な量があってなかなか大変です。

「紙って意外に重いねえ。肩がこるよコレ」

 わたしの隣でぼやいているのは、おかっぱの髪を薄く茶色に染めた少女。姓は雅(ミヤビ)で名は蘭(ラン)といいます。漢字二文字の変わった名前ですが、変わっているのはそこだけではありません。こやつは色々な意味で変人なのです。
 どんな人間に対しても物怖じしないし、ずけずけとものを言う。そしてお調子者。はっきり言ってかなりお子様な性格です。それでも他人から不興を買うことがほとんどないのは、根がとてつもなく明るいからなのでしょう。
 それと彼女、相手を乗せるのがすごく上手いんです。心を読んでるんじゃないかと思うくらい。今日も初対面のはずのセイバーさんを見事に自分のペースに引きずり込んでましたし。あれはちょっと羨ましい特技だなあ。

 ……で。
 そのセイバーさんなんですが。

「…………」

 黙々と、仕事をしておられます。
 無言です。無表情です。滅茶苦茶シュールです。
 ぷんすか怒ってる、なんてものじゃありません。もっと危険です。今のセイバーさんは飢えたらいおんです。近寄ったらかぷっと噛まれます。自分でも何言ってるのかよく分かりませんが、たぶんこのたとえは間違いなんかじゃないと思います。

(一体どうしてこんなことになっちゃったんだろ)

 今日何度目かのため息を、わたしは胸中で吐き出しました。

 セイバーさんといったら、イギリスから来た謎の美女。いまや学校中が噂で持ちきりの神秘的なお嬢様。とてもわたしたちと同年代とは思えない、完璧な物腰と上品な雰囲気を兼ね備えたレディ――だったはず。少なくともわたしはそう聞いていました。
 今日からこの人と一緒に仕事ができることを、わたしはひそかに楽しみにしていたんです。ああ、それなのに……

 もう一度、ちらとセイバーさんをうかがってみます。さっきと何も変わっていません。相変わらず無言で、書類をファイルする手だけを動かしてます。なまじ美人なだけに、無表情だとすごくおっかない。正直、逃げ出したくなります。
 いえまあ、仕方がないことだとは思います。あんな風にしつこく男子からまとわりつかれたら、そりゃあ腹も立つでしょう。
 でもあの人たちだって、いちおう悪意があるわけじゃないのだし。笑って受け流すくらいで済ませるのが普通じゃないかなあ。もしわたしがああいう風に男の人から言い寄られたら、きっと嬉しいって思うだろうし。言い寄られたことがないから分からないけど。

(生徒会長は「真っ直ぐすぎる」って言ってたけど……セイバーさんて、実はとっても気難しい人なんじゃないかな)

 不意にわたしの心の中に、そんな考えが浮かびます。
 自分が正しいと思ったこと以外はいっさい認めない。もしセイバーさんがそんな人だったとしたら、ちょっと苦手だな。とりあえず、これ以上この人の機嫌を損ねたりしないように気をつけないと……

「うはー疲れた。ねえたいちょー、ちょっと休みませんか。もう作業も半分くらいは終わったし」

 ……などと考えてた端から、隣のお馬鹿がセイバーさんに話し掛けやがりました。この状況でどうしてそんな能天気なことが言えるのか、本気で不思議です。いっぺんこやつの脳の中身を見てみたい。
 ああほら、セイバーさん無言でこっち見てるじゃない。怒ってるよアレは!

「ふむ……なるほど」

 あれ?
 セイバーさんは、手元のファイルと未整理の資料の山を見比べたかと思うと、至極あっさりと納得してしまいました。

「このあたりで休憩を入れるのが妥当ですね。では、10分間ほど手を休めましょう」

「はーい! それじゃあわたし、お茶を淹れますね。生徒会長愛用の茶道具一式がありますから!」

「ああ、それはいい考えだ。お茶は心と身体を落ち着けさせる。我が国のお茶には敵いませんが、日本のお茶もなかなかに美味しいですし」

 しゅたっと手を上げる雅に、セイバーさんは柔和な笑顔を向けています。不機嫌な顔とか怒った顔とか不敵な笑顔とかは見ましたけど、こんな表情を浮かべるセイバーさんは初めてです。
 なんていうか……すごく綺麗。わたしの貧弱な語彙では言い表せないほど、優しげで、知的で、上品で、誇り高く、美しい。そこに居たのは、わたしが噂で聞いたとおりのセイバーさんでした。

「……有島、どうしたのです? 私の顔に何かついているのですか?」

 不意にセイバーさんが問い掛けてきました。どうやらわたしは自分でも気付かぬうちに、この人の顔に見とれていたようです。我に返ったわたしは大慌てで手を振りました。

「い、いえ、なんでもありません。そのなんていうか、ファイル整理の疲れが立ちくらみっぽく襲い掛かってきただけです」

「む? それはいけない。貴女は椅子に座って休んでいなさい。お茶は私と雅で淹れます」

「そんなとんでもない! セイバーさんこそ座って待っていてください!」

 わたしは脱兎の如く駆け出しました。自分でもどうしてかよく分かりませんが、この人にお茶を淹れてもらうなんて、何かに対する冒涜のように思えたのです。例えるなら不敬罪というところでしょうか。自分でも何言ってるのかよく分かりませんが。

 雅の横まで駆け寄ってみると、彼女はすでにお茶葉を出し、急須にセットするところでした。わたしは引出しの中から湯飲みを三つ取り出して、机の上に並べます。
 ちらと横目で見ると、セイバーさんは机の上に散乱していた資料やらファイルやらをひとつにまとめて、部屋の隅にある棚へと移動させていました。
 彼女がここから遠ざかったのを見計らって、わたしは雅に話し掛けてみます。

「ねえ。雅から見て、セイバーさんてどんな人?」

「へ? どーいう意味?」

「だから、セイバーさんのキャラクターがよく分からないのよ。雰囲気と中身がずれているというか、大人びているようでいて妙なところで子供っぽいというか……」

 それはわたしの本音で、同時に雅への救援要請でもありました。
 未だにセイバーさんにどう接すればいいかわからないわたしをよそに、風変わりな我が友人はすでにあの人と付き合う要領を会得している様子。彼女から何かヒントをもらえれば、今の状況が多少は改善されるかもしれません。
 お茶を注ぎ終わった雅は、わたしの疑問に首を傾げました。

「そう? たいちょーほど分かりやすい人もいないと思うけどな。要するにすごく真面目なんだよ。いやちょっと違うか。あれだ、質実剛健……じゃなくて、ええと」

 少しばかり考え込んだあと、彼女はよくわかんなくなっちゃったゴメンと言って諦めてしまいました。人を見る目は誰よりも確かな雅ですが、国語力が追いつかないためか、人物評は苦手な様子。
 まあそれでも、彼女がそう言うのならその通りなのかもしれません。わたしがまだセイバーさんを理解していないだけで。
 ――などとわたしが考え込んでいる間に、資料を片付けたセイバーさんが戻ってきました。危ない危ない、ひそひそ話はこれで終わりにしなければ。

「緑茶ですね。このほのかな香りは実に……うむ、悪くない」

 湯飲みを覗き込んだセイバーさんは、大真面目な顔で中身を論評します。別に笑わせるつもりはないのでしょうけれど、一昔前の料理評論家みたいに大袈裟にうなずくものだから、わたしは危うく噴き出すところでした。……やっぱりこの人、よく分かりません。
 まあそれはともかく、ここからは午後のティータイムです。仕事を忘れてのんびりと会話を交わせば、もう少しこの人のことが分かってくるかもしれません。少なくとも、恐れていたほど気難しい人じゃないみたいだし。
 さて、どんな話題を持ち出そうかな。机についてお茶を一口すすりつつ、わたしは考えを巡らせました。
 まあ考えるまでもないか。ここは個人の趣味とか、そういう無難なところから行くべきです。セイバーさんはけっこう怒りんぼのようだし、きちんと話を選んでいかないと……

「そういえばたいちょー、さっきはなんでぶすっとしてたんですか? 有島が怖がってましたよ」

「――っ!?」

 隣のお馬鹿がのほほんと放った第一声に、わたしは思いきり驚愕しました。どうしてコイツはいつもいつも、いきなり直球を投げつけるのか。急いで止めようとしたけれど、お茶が喉に詰まって声が出ません。

「ちょ、雅、何言って……ゲホっ」

「あれ? 有島ったらあわてんぼさんだなあ。あわててお茶なんか飲んだら、むせて当たり前だって」

 誰のせいだと思ってるのよ誰の! ほら、セイバーさんだってまた不機嫌に……!

「……そんなに恐ろしげに見えていたのですか、私は? そんなつもりはなかったのですが……」

 不機嫌に――なっていませんでした。
 セイバーさんは真顔のまま、自分の顔に手をやっています。少し不本意そうな、しかしどこか納得しているような按配で。
 すらりとした白い指が、鼻の頭をつまんでいます。反対側の手は頬のあたりをぺたぺた撫でています。自分の顔の形を実際に触って確かめる今のセイバーさんは、なんだか小学生に上がったばかりの幼子のよう。普段の彼女とのギャップに、わたしはまた噴き出しそうになりました。

「あ、あのですね。別に怖かったわけじゃありませんよセイバーさん」

 とりあえずフォローを入れておこうと、わたしは声を上げました。顔から手を離してこちらを見上げるセイバーさんに、おずおずと控えめな感想を述べます。

「ただちょっと、その……近寄りがたいな、と感じただけで」

「近寄りがたい、ですか……。そういえば楓からも、普段の表情が硬すぎると言われました」

「カエデ?」

「蒔寺楓。私の同級生にして友人です。私のことをあれこれと心配してくれる善き女性です。……彼女からも、私はもっと笑ったほうが良いと言われました」

 そしてセイバーさんは、あごに手を当ててむうと唸りました。

「こうも指摘を受けるのであれば、やはり正したほうがいいのでしょうね。見目のことなど気にしても仕方ないと思っていたのですが……」

 外見など気にするものではない――と、女性としてあるまじき暴論を口走るセイバーさん。でも、表情はいたって真面目です。どうやら本気で思い悩んでいる様子。
 普通なら笑うか呆れるかする場面なのでしょうが――セイバーさんの真剣さを見ていると、それはできませんでした。
 わたしは態度を改め、率直な意見を口にします。

「その……直せるんだったら、直したほうがいいと思います。だって、すごく勿体無いですし」

 セイバーさんは綺麗です。でも綺麗過ぎて、無表情だとどこか人間離れして冷たく見えてしまうのです。まるで人の心をもたぬ機械のように。あるいは、慈悲を持ち合わせぬ暴君のように。
 わたしの意見に、雅も加勢します。

「有島の言う通りですよ。せっかくの美顔が台無しです。使える武器はすべて使わなきゃ」

 ……美貌をきっぱりと武器と言い切るのはどうかと思うけど、ともかく雅がそう告げると、セイバーさんは口の中でうむむとつぶやきました。
 やがて彼女は、納得の面持ちで大きくうなずきます。

「よく分かりました。たしかに外見は社会的な財産の一つ、大いに活用していくべきです」

 ……いえ、ですから。武器とか財産とかそういう即物的な捉え方は、女の子として問題がありませんか。二人とも。
 まあそれはともかく、率直な提言を感謝しますと、セイバーさんは柔和な笑いを浮かべました。邪さも嫌らしさもなく、ただ喜びという感情だけを取り出して結晶化させたような笑顔。可愛らしさと美しさの絶妙なブレンドに、わたしはまた見とれてしまいます。――うん、やっぱりこの人は、にこにこ笑っているべきだよね。

 セイバーさんという人間が、なんとなく理解できた気がします。
 真面目なだけではなくて、誠実で、何事に対しても真摯なんですね。
 いい意味でも悪い意味でも不真面目さがないから、時として子供みたいな反応を見せたり、狭量に見えてしまうことがあるわけで。そこのところを理解しておけば、気兼ねなくお付き合いすることができそうです。理があると認めたことはきちんと受け入れてくれるのだから、気難しいわけではないのだし。

 それにしても……

「セイバーさんって、本当に真面目なんですね」

 うん。なんていうか、わたしたちと同年代とは思えないほど、真剣に人生を生きている――という感じがします。少なくともわたしは、ここまで真摯な人を今まで見たことがありません。

「そーだねー、本当に。何か重いものを背負ってるって感じがします、信念というか誓いというか。そのへんのところはどうなんですか、たいちょー?」

 雅もわたしに同意して、セイバーさんに水を向けました。
 と、虚を突かれたようにセイバーさんが黙り込みます。目を見開いて、まばたきすること数回。

「……セイバーさん?」
「たいちょー?」

 わたしたちがきょとんとしていると、セイバーさんは、先ほどとはまた違った種類の微笑を浮かべました。

「……ふむ。雅の言うとおり、確かに私には理由があります。貴女たちはそれを知りたいのですか?」

「え?」

 真正面から問い掛けられて、わたしは答えに詰まります。でも雅はお構い無しでした。セイバーさんが悪戯っぽい笑みとともに差し出した提案に、迷うことなく飛びつきます。

「知りたいです! 教えてくれるなら教えてください!」

「わかりました。貴女たちには話しておきましょう。これから一年間、私の元で働くわけですし」

 うなずくや否や、セイバーさんは真面目な表情に戻りました。わたしたちを見渡しつつ、ゆっくりと話し始めます。

「私はかつて、大きな失敗をしてしまったのです」

 それからセイバーさんが語ったことは、何一つ具体的な事例のない、抽象的なことがらの羅列でした。

 いわく――
 自分の近くで持ち上がった大きな問題を、自分の力で解決しようとしたこと。
 何人もの同じ志を持った仲間がいたこと。彼らとともに問題に挑んだこと。常に全力を尽くし、次々に降りかかる難題を切り抜けていったこと。
 けれども――最終的に、セイバーさんたちの力は及ばなかったこと。

 まるで雲を掴むような、具体性のない話。それなのにわたしたちは聞き入ってしまいました。なぜならセイバーさんの語り口には、まぎれもない真実があったから。
 淡々と、ぽつぽつと。自分のつらい過去を、彼女はわたしたちの眼前にさらけ出していきます。

「幾人かの仲間は失望し、私の元を去っていきました。幾人かは反対を叫んで敵方に回りました。そうして最後に辿り着いたのは――見るも無残な結末。私についてきてくれた仲間たちを、そしてその問題に関わったすべての人たちを、私は不幸な目に遭わせてしまった……」

 そこでセイバーさんは目を閉じました。過ぎ去った過去を悔やむように。すでに取り戻せない何かを悼むように。

「こんなことなら、最初から何もしなければよかったと――すべて無かったことにしたいと、そう願ったこともあります」

 そう告白するセイバーさんは、本当に悲しそうでした。悲しくて、苦しくて、死んで償えるなら死んでしまいたいと言わんばかりに。神様がかたちづくった彫刻のようだったこの人が、今はすべての輝きを失って、ただ無力にうなだれています。
 その様はまるで――焼け野原となった廃墟の中、見捨てられ、打ち捨てられた英雄像。

「あ――」

 わたしは思わず腰を浮かせました。放っておいたら、セイバーさんはそのままどこかに消えてしまいそうに思えたのです。
 でも、それはただの杞憂でした。
 セイバーさんが再び目を開けます。まぶたの下にあったのは、エメラルドかと見まごうほどの、強い意志の光をたたえた瞳。

「けれども。失敗に終わってしまったけれど――」

 そうつぶやいて、セイバーさんは再び黙り込みました。
 けれどと言ったその後に、どんな言葉を続けようとしたのか。長い沈黙の間に、彼女は何を思っていたのか。それは結局わかりませんでした。セイバーさんは、直接には何も語ってくれなかったから。
 でもそのときのセイバーさんの表情は、苦しみに耐えるようなその顔は、しかしただ過去を悔やんでいるのではありませんでした。たとえるなら――焼け落ちた森の中で、灰の下から芽吹く新芽を見つけた少女のように。荒れ果てた廃墟の先で、瓦礫をどけて新しい家々を建てようとする人々のように。

 しばしの時を経て。
 脳裏を巡る景色を打ち消すためでしょう、首をひと振りしてから、セイバーさんは再び話し始めました。

「……過去を無かったことにはできない。そして、決して無かったことになどしてはいけない。だから私は、過去に私が迷惑をかけた人よりも多くの数の人々を、この手で幸せにしようと誓いました。過去の失敗を繰り返さず、未来に多くの実りをもたらす。それを可能にするための力を身につけようと思い立ちました」

 そこで一息ついてから、セイバーさんはもう一度、わたしたちのほうを見やり、

「ゆえに私は、何事にも全力で取り組んでいるのです」

 にっこりと、花咲くような笑顔を向けてくれたのでした。

「――――」

 なんというか、言葉もありません。これほど重い衝撃を受けたのは、いつ以来でしょうか。
 わたしと2年しか違わない人間が、あんな悲しげな表情をするなんて。あんなにつらそうにして思い出さなければならない過去を持っているなんて。
 そしてそれ以上に、そんな過去をきちんと受け止めて、前に歩み出そうとしているなんて。
 それはなんと感動的で、口をさしはさむことすら許されない重い現実であることか――

「すごい! たいちょーかっこいい! よくわかんないけど滅茶苦茶かんどーしました! これからも一生ついていきます!」

 …………。
 えーと。
 雅にとってはそれほど重いお話でもなかったみたいです。こいつの軽さというか神経の太さには、ある意味で尊敬の念すら覚えます。見習うつもりはないけれど。
 まあ、雅の感性については置いておくとして――心の中に浮かんだ純粋な疑問を、わたしはセイバーさんに向けました。

「あの、よかったんですか? 初対面のわたしたちに、そんな重大な話をしてしまって」

 セイバーさんにとって、今の話は口にするのもつらい過去だったはず。そしてそれ以上に、おいそれと他人に打ち明けていい秘密ではなかったはず。今日知り合ったばかりの、いわば他人であるわたしたちに、話してしまってよかったのでしょうか。
 しかしセイバーさんは、軽く微笑んだだけでした。

「かまいません。これから仕事をともにする貴女たちに、私の目的が何処にあるかを告げるのは当然のこと。それに今の私にとって、過去はただつらいだけのものではありませんから」

「そうですか……」

 今の説明で、わたしもなんとなく納得できました。悲しい過去については、自分も経験があったからです。
 5年前、わたしのお婆ちゃんが亡くなったとき。あのときはとても悲しくて、どんなことですら悲しくて、いつまでも悲しみが終わらないようにすらわたしには思えました。お婆ちゃんが可愛がってくれた記憶さえも、わたしの心を苛んだものでした。
 今は違います。胸の痛みが完全に消えたわけではないけれど、お婆ちゃんとの楽しい思い出は、お婆ちゃんが生きていたときと同じように、楽しく思い出すことができるようになりました。
 過去を乗り越えるって、きっとそういうことなんだと思います。セイバーさんもそうだったのかは、わたしにはわからないけれども。

「さて――と、話が長くなってしまいましたね」

 冷めかけたお茶を一息で飲み干して、セイバーさんが立ち上がりました。休憩は終わりだ、ということなのでしょう。部屋の時計を見てみれば、たしかに10分を大幅にオーバーしています。
 わたしも急いで湯飲みの中身を飲み干しました。あんな話を聞いた以上、ぐずぐずなんてしていられません。こんな雑用などさっさと片付けて、早く会議室に戻らなければ。何しろ、やらなければならないことは山のようにあるんですから。

「頑張りましょうね、セイバーさん」

 わたしの口からは、自然とそんな言葉が漏れました。この人と一緒に仕事をしていることが誇らしく思えてなりません。ほんの20分前まで、ぷんぷん怒ったこの人に恐れをなして、苦手かも、なんて思ってたことが嘘のようです。
 それもこれも、この人の素敵な笑顔を見たからなんだろうなあ――なんてことを思っていると。

「待ちなさい有島。仕事を再開する前に、二つほど言っておくことがあります」

「へ?」

 いきなりセイバーさんから呼び止められて、わたしは足を止めました。
 なぜかセイバーさんは、両手を腰に当てて仁王立ちしています。表情もちょっと怖いです。さっきの怒り顔に近いです。
 急に態度を豹変させたセイバーさんに、わたしは大いに狼狽しました。

「あ、あのう、いったい何でしょう……」

 恐る恐る尋ねてみると、彼女はつかつかとこちらに歩いてきます。わたしは思わず後ずさりしかけて、でも足がすくんで動けませんでした。
 怖いです。眉が釣りあがってます唇がへの字になってます両手は腰に当てられてます。な、何か悪いことでもしましたかわたしっ!?

「まずひとつ」

 きっかりこちらの40センチ手前まで詰め寄ったセイバーさんは、怯えるわたしに厳しい口調で命じてきました。

「今はプライベートではなく公務中です。セイバーさん、などという呼び方は止めなさい。名前で呼ぶような馴れ合いを許していては、職務に差し障りがあります」

「えっ!? え、ええと……」

「これからはちゃんと役職名で呼びなさい。隊長、と」

「あ、は、はい! りょ、了解しました、隊長」

 命じられたまま、わたしはあわてて復唱しました。本来ならツッコミを入れるべきところのような気がするんですが、セイバーさんの迫力に呑まれてそれどころではありません。ああああ、やっぱりこの人怖いよう。苦手だよう。
 内心で泣きそうになっているわたしに、セイバーさんはさらに畳み掛けてきます。

「それともうひとつ」

「は、はひ」

 返事はすでに鼻声でした。逃げ出したくて仕方ないけれど足は一向に動いてくれません。助けを求めようにも、友人であるところの雅は横からのほほんと眺めているだけ。こ、この薄情者ぉ……!
 逃げ場を失ったウサギのようにすくみあがるわたしに、セイバーさんはさっと何かを突きつけてきました。ううっ、今度はいったい何なんですか――

「握手を」

 へ?
 ……握手?

 胸元に突き出されたセイバーさんの右手を、わたしはまじまじと見つめました。白くて小さな手が、握り返されるのを期待して緩やかに開かれています。

「…………」

 わたしは無言のまま、おずおずと右手を差し出しました。果たしてセイバーさんはすぐさまわたしの手を掴むと、ぶんぶんと上下に振り回します。
 やっぱりこれは、シェイクハンド――西洋流の友好の儀式、だったみたいです。知識としては知ってましたが、実際にやったのは初めて。えっと、なにか新鮮……。
 目の前の事態を処理しきれずに呆けているわたしから、セイバーさんは手を離します。そのまま彼女は口元に微笑を浮かべると、鈴を転がすような声でわたしに呼びかけてきました。

「これからもよろしく。頑張りましょう有島」

「は、はい」

 そしてわたしの返答を受け取ったセイバーさんは、くすりと悪戯っぽく笑って、

「それと――そのように怯える必要はありませんよ。これからも遠慮なく、私に意見してください」

 そう、釘を刺してきたのでした。
 セイバーさんが身を翻します。先ほど片付けた資料を取りに戻るのでしょう、教室の隅まですたすたと歩いていきました。
 わたしは呆然と彼女の背中を見送り――そしてそんなわたしの肩を、雅がぺしぺしと叩きました。

「怯える必要はないってさ。もっと遠慮なく喋ってくれってことじゃないかな?」

「そういうこと……なのかな」

「そーだよ。大丈夫、たいちょーって優しい人だって。だから、ね? 有島もきちんと本音を言わなきゃ」

「う、うん」

 ウィンクしつつ告げてくる友人に、わたしはこくんとうなずいたのでした。




管理人の感想

 幕間の話、という感じでしたね。
 セイバーさんの日常溶け込み生活の話なんでこういう話しがあるのは話の展開上もちろんあり、ってかあって然るべきなんですが……
 くそぅ、欲求不満がッ! 士郎とか凛とかはまだかッ!
 と、思ってしまうのは致し方のないところ。うがが……まあ、落ち着け俺。もう少し待て俺。

 ただまあ、敢えて言ってしまうと、今回のような話だとちょっと盛り上がりに欠けてしまうのも事実なので、少し一工夫が欲しいかな、とか読み手の立場的には思ってしまいます。まあ、話の谷間部分なのでそうなってしまうのはしょうがないところでもあるのですが。
 ちょっと贅沢を言ってみた今回でした。


 カラテマさんへの感想はBBSまでよろしくお願いします。


投稿作品TOPにモドル