それで何かが解決するわけではないことは判っていたけれど、私はマスターの指示に従って、洗面所で顔を洗っていた。
 他の客と共用になっている洗面所で、流しっぱなしにした水を両手ですくって顔にかける。普段より手つきが荒っぽくなったので、シャツにも少し水が飛び散った。すぐに乾くだろうから気にかけることでもないが。
 蛇口を閉め、備え付けのタオルで顔を拭く。汚れや水滴を落としてから、私は手前にある鏡にふと視線をやった。

「ひどい、顔」

 そんな言葉が漏れる。意識して自分を魅力的に見せようとしたことはないが、それでもこれはあんまりだ。こんな、覇気も何もかも無くした幽霊のような顔は。
 いや、この心はすでに幽霊と同じ。だからこんな顔こそが、今の私には相応しいのかもしれない。


お前の強さは何のためにある。



 不意に、プリーストの宝具によって無力化されたときのことが思い出された。どこからともなく聞こえてきた問いかけに心を埋め尽くされて、一歩も前に進めなくなってしまったことを。
 私はあの正体不明の声の前に屈してしまった。自分の心の矛盾を暴き立てられて、戦う理由を見失ってしまった。

 使い終わったタオルを所定の位置に戻して、私はのろのろと洗面所を出た。外はすぐにロビー兼レセプションルームになっている。今は私たち以外誰も泊まっていないため、付けっぱなしのテレビの前に並べられたソファには誰も座っていない。宿の亭主が受け付けに座っているのが見えるが、暇を持て余したのか、ぐっすりと昼寝していた。
 さして広くもないロビーの端で、しばし立ち尽くす。


お前は何のために戦いつづけるのか。



 明白だった。ずっと明白だと思いつづけていた、自分が戦う理由。
 王になると決めたあの日、絶対に迷わぬと誓った。その誓いを、私は今まで守りつづけてきた。たとえ実の息子から裏切られても。
 それなのに今、私はこんなにも迷ってしまっている。


お前の目的は何だ。



 自分の目的は今でも同じ。選定の剣を抜いたあの日から変わりはしない。戦乱に明け暮れる大地に平和を。戦に泣く人々に笑顔を。そのために私は他のすべてを捨てて、ただ一つの道を走りつづけてきた。
 王という名の非情の道。戦士という名の修羅の道。9を守るために1を切り捨て、味方を守るために容赦なく敵を屠る生き方。そうして私は、いくつもの屍を積み上げてきた。
 その生き方を後悔したわけではない。戦いつづけた人生に恨みがあるわけではない。駆け抜けたあの日々を嘆いているのではない。
 後悔したのは、その結末。恨みがあるのは、その最期。嘆いているのは、その終焉。
 私は結局――目的を果たすことができなかったのだから。


お前の目的は。



 無力な少女に過ぎなかった私は、結局無力なままで終わった。戦乱で明け暮れる大地に平和は戻らなかった。戦に泣く人々に笑顔は宿らなかった。あらゆる努力は無駄に終わり、あらゆる犠牲に意味はなかった。
 だから私は、私よりも優秀な王を探し出し、一からすべてをやり直すことに決めたのだ。それこそが自分の理想を達成する唯一の方法だと信じて。
 そして私は世界と契約し、英霊となった。


目的は。



 だというのに私は、今の自分に迷いを持ち始めている。
 他の誰かに王の座を譲り、王としての自分を消滅させることを躊躇している。
 私の理想を達成する方法はそれしかないと――わかっている、はずなのに。

 洗面所のすぐ外で止めていた足を、再びのろのろと動かす。
 30分ほど休憩すると凛は言っていた。けれどもまだ、今後について何か方針が立ったわけではない。であれば、なるべく早めに作戦会議を再開する必要がある。こんなところでぐずぐずしているわけには行かない。
 重い足を引きずって移動を再開しつつ、私は今さら躊躇するわけを自問自答していた。
 ――未練?
 まさか。私はあの生き方を楽しんでいたわけではない。敵を屠ることに喜びを感じもしなかったし、味方を切り捨てることは苦痛ですらあった。心を非情で塗り固めなければ耐えられないほどに。
 義務感ばかりの時間だった。ならば、自分の記憶からあの時間が消え去ったとしても、何の問題もない、はずだ。
 ……それなのに。なぜ私は、こんなにも胸を苦しくしているのだろう。

「騎士殿」

 いや、違う。この胸の苦しさは単なる思い違いだ。この身にあるのは、祖国に平和をもたらすという誓いだけ。そしてその誓いを果たすためには、私以外の誰かがブリテンを納めなければならないのだ。
 無力なアルトリアは、誓いを立てることもなく、選定の剣に手を触れることもなく、戦乱を無力に傍観しながら、ひっそりと息を潜めて暮らすべきだ。

「騎士殿」

 そう、私は否定されるべきなのだ。

 国に平和をもたらすという、遠き日の誓いも。
 騎士たちと肩を並べて戦った、あの戦場も。
 持てる力のすべてを出し切って駆け抜けたあの日々も。

 すべては無意味――だったのだから。

「……っ!」

 ぎりっと奥歯を噛み締めて。
 そこでようやく、わたしは気付いた。私の通り過ぎたすぐ横に、つい3時間半ほど前まで敵だった亡霊戦士が立っていることに。

「騎士殿?」

「…………」

 無言のまま、視線だけを彼のほうに向ける。
 マレク。名しか聞いていないが、姓などという立派なものは持っていないとシロウに説明していた覚えがある。小型の熊を思わせるのっそりした体格の兵士は、しかし個人戦闘よりも交渉に関して優れた能力を見せていた。生前は優秀な野戦指揮官だったのかもしれない。そう――フス派の。

「…………」

 無言のまま私は視線を前に戻し、再び歩き始めた。
 今はマレクと顔を合わせたくない。彼が断片だけ語ったフス派の物語は、どことなく私の過去に似ている。さきほど耳にしたとき、思わず取り乱してしまったほどに。
 今の私は自分のことだけで手一杯なのだから、もうこれ以上、憂いの種を増やしたくはない。

「騎士殿」

 だというのに、彼はしつこく呼びかけを続けてくる。仕方なく私は、足を止めないまま声だけで返答した。

「何の用です」

「部屋に戻るなら方向が違います。そちらに行っても厨房しかありませんが」

「…………」

 無言のまま私はきびすを返した。いくら不案内な建物とはいえ、物思いにふけって方向を間違えるとは何たる不覚。自分の注意力の散漫さに腹が立った。とはいえ、今は早く部屋に戻らなければ。

「騎士殿」

 マレクは呼びかけをやめない。同じ単語を繰り返しているだけだが、その声音にはどこか真摯な感情が混じっていて、ぞんざいに扱うことをためらわせるものがある。
 もしかしたら、何か大事な用でもあるのかもしれない。例えば、プリーストの宝具に関する情報とか。であるとしたら、このまま無視していいものではない。
 私は覚悟を決めて、身体ごと彼に向き直った。

「どうしたのですか、マレク」

 すると彼はにっこりと笑い、私の背後――厨房のほうを指差した。

「宿の冷蔵庫を漁る必要はありませんよ。私がすぐに新しい料理を用意しますから」

「誰がそんなはしたない真似をしますか! 道を間違えただけです!」

 宿の亭主が昼寝をしていることも忘れて、私は大声で怒鳴っていた。幸い亭主の眠りは深かったらしく、いまだに椅子にもたれかかって寝息をたてているが。
 それはともかくこの歩兵、いったい何度私を愚弄すれば気が済むのだ……!

「もう余計なことはしないでください! 大きなお世話です!」

「しかし、あれだけシチューをかきこんでも満腹していないご様子でしたし。そこまで頑丈な胃をお持ちなら、このマレクも腕の振るい甲斐があるというものです」

「何気に思いきり失礼ですね貴方は! いい加減にしないと私の剣の錆にしますよ!?」

「ああその、申し訳ありません。どうも私は調子に乗りすぎる癖がありまして」

 彼はあっさり両手を上げて引き下がった。
 む、よろしい。先ほどの昼食の味に免じて許そう。まさかシロウより美味しいシチューを作る人間がいるとは思わなかった。彼は不埒で不誠実な人間だが、あの料理の腕まで風王結界で叩き切るのは惜しい。
 そうやって私が怒りを納めていると、両手を下ろしたマレクが、急に真面目な顔つきになった。

「というわけで、謝罪を兼ねて、私に罪滅ぼしをさせてくださいませんか」

「む? 罪滅ぼし、とは?」

「ええ。あなたの迷いを多少なりとも解消したい。悩みというものは、心の中に溜め込んでいるとますます大きくなってしまうもの。だから一度誰かに愚痴れば、幾分かマシになります。私がその聞き役になりましょう」

 あまりに唐突なその申し出に、私は目を丸くした。
 何を言っているのだ彼は。この私が愚痴? 王であり騎士であるこの私が? いやそもそも、もっと大きな問題がある。

「ほんの3時間前に知り合った相手に、悩みを打ち明けられるはずがないでしょう」

 しかも、信用ならない人間相手に――とは、さすがに私も付け加えなかった。しかし彼は悪びれもせずにうなずく。

「ええ、まったくその通りです。しかし今は時間がありません。プリーストの宝具のことは別にしても、心に重荷を抱えたままでは剣筋が鈍ります。いつ戦いが始まるかもわからない状況だということを考えれば、早めに心境を整理しておかなくては」

 む。確かにそうだ。しかし、だからといって――

「そして私は、この戦いが終われば再びブラニーク山で眠りに就く身です。次に目覚めるのはいつになるか判りません。あなたが悩みを打ち明けたとしても、私がそれを悪用することは物理的に不可能です」

 う。なるほど。しかし、問題はそこでは――

「それに私は魔術師殿や見習い殿とは違う、ただの過去の遺物です。私に話すならば、あなたも何の遠慮も要らないでしょうし」

 ううっ、確かにそうだ。今は一刻も早く心の迷いを解消しなければならない。かといって、シロウや凛に愚痴を漏らすなどという真似は不可能だ。ならば、マレクに自分の迷いを話すのが唯一の選択肢ということになる。
 ――いや待て。どうして私は説得されかかっているのだ。彼などに内心を打ち明けられるはずがない。

「マレク、お心遣いはありがたいのですが、要らぬ心配です」

 それで会話を打ち切ろうとした私に、マレクは意外な言葉を返してきた。

「いえ別に、あなたを気遣ってこんな申し出をしているわけではないのですが」

「え?」

 疑問符を返す私に、彼は軽く肩をすくめてみせた。そして続ける。

「私の望みはプロコプの魂を解放し、英霊の座に還すことです。しかし、英霊である彼に勝てるのは英霊のみ。そして英霊とは、滅多なことではこの世に現れないと聞きます。つまり、今の私の頼みの綱はあなただけなのです、騎士殿」

 あくまで生真面目な表情で、彼は私をじっと見下ろしてくる。

「しかし、今のあなたの心は千路に乱れ、もう一度コラールを喰らえばひとたまりもない様子。それではプリーストを倒すどころではありません」

「た、確かにそうですが……!」

「今トゥーレ協会を止めなければ、いずれ彼らは、プリーストや亡霊戦士たちを使い全欧州に戦いを挑むでしょう。我が祖国を守る戦士の魂が、侵略者の手先に使われるなど許せない。何より、現在の平和が乱されるのを見過ごすわけには行かない。もちろんマティウスさんの毒を癒すという目的もありますが、私個人にとっても、ブラニークの研究所は今すぐにでも潰しておかなければならない場所なのです」

「そ、それはわかっています」

「プリーストを倒し研究所を潰すには、騎士殿、あなたの力が絶対に必要です。ですから私は、あなたに少しでも力を取り戻してもらわなければならない」

「うう……」

 なんということだ、完全に言いくるめられてしまった。昔からこの手の話術に私は弱かったけれど、こうも簡単に手玉に取られるとは。
 しかし考え直してみれば、歩兵の言っていることはいちいち筋がとおっていた。トゥーレ協会もプリーストも、すぐにでも倒しに行かなくてはならない敵だ。そしてプリーストの宝具の効果がこちらの心理的状況によって左右されるならば、今の状態のままで奴との戦いに臨むわけには行かない。私はあっという間に無力化され、シロウも凛も守れなくなってしまう。
 私の恥とシロウたちの安全、どちらが重いかは明白である。ならばここは恥を偲んで、マレクの申し出を受けるべきであった。

「……わかりました。すべてを打ち明けるわけには行きませんが、私の過去を少しお話しします。私の迷いはそこに直結していますから」

「ありがとうございます、騎士殿」

「しかし」

 そこで私はマレクを見つめ返した。

「一つ条件があります。まずは貴方の素性をもっと教えて欲しい。私はフス派の知識を持ち合わせていないし、よく知りもしない相手に自分の過去を話すことには抵抗がありますから」

「ふむ、なるほど。交換条件というわけですか」

 興味深げな表情のマレクに、私はこくんとうなずいた。そう、これは交換条件。多少なりとも彼の人間性を確かめておきたいし、それに私自身、彼の過去には興味があった。
 そう――あのとき。彼は自分の人生を満足げに振り返っていた。この私と同じような末路をたどったというのに、である。私はいまだにそのことが納得できない。マレクの満足げな笑みの理由を、私は聞きただす必要がある。
 だから私は背筋を伸ばし、今度こそ戯れ言も韜晦も許さぬ視線で、彼を射すくめた。

「問おう歩兵。貴方の生き様を」

「話しましょう騎士殿。私の記憶を」

 そう答えて、彼は長い物語を――孤児団の伝説を語り始めた。





「……帰ってこないな、二人とも」

 士郎がぼやいた。彼は今、部屋に三つあるベッドのうち、部屋のいちばん奥にあるものの上に寝転んでいる。怪我を負った彼の身体を少しでも休ませたかったので、休憩時間中はベッドに横になるよう、私が指示したのである。

「心配することはないと思うけど。二人とも宿からは出ていないし」

 そしてわたしもまた、真ん中のベッドで休んでいた。こうしておけば、気休め程度とはいえ魔力回復も少しは早くなる。士郎と同様、激しく魔力を消耗したわたしにも休憩が必要だった。
 ちらと見た時計の時刻は3時。セイバーとマレクがこの部屋を出て行ってから20分が経過したことになる。作戦会議の再開予定時刻を過ぎたわけではないから、そんなに気にかける必要はないのだけれど。
 ――けれど、今のセイバーは精神的に弱っている。「戦いの理由を見失っている」というマレクの言葉を素直に信じたわけではないけれど、彼女がだいぶ参っているのは確かだった。

「…………」

 そう、セイバーは参っている。それでもきっと、彼女は戦うことを選択するだろう。たとえわたしたちが無理に押しとどめたとしても、彼女は死の危機に瀕するマティウスを見捨てたり、目の前の不正義を看過したりはしない。そのへんは士郎と同じ性質なのだ。
 わたしが心配するのはむしろ、彼女のその一途さだった。たとえ自分の身を犠牲にしてでも、彼女は自分の正義を貫き通すだろう。引くことを知らないその苛烈さは、しかし行き過ぎれば自らを破滅させてしまう。
 やっぱりセイバーのことが気になって、わたしは上半身を起こし――

「なあ、遠坂」

 ベッドから抜け出る前に、士郎に呼び止められた。
 寝転んだままの彼もまた、ここにはいない彼女を案じているのか、沈んだ面持ちである。

「……次の戦いには、やっぱりセイバーが必要なんだよな」

 そして彼は、そんなことを言ってきた。
 あんな状態のセイバーを戦場に出したくない、というのが彼の本心なのだろう。それはわたしも同感だ。しかし、

「ええ、必要よ。英霊に打ち勝てるのは英霊だけだもの」

 魔術師としての理性の部分が、わたしにそう答えさせていた。

「全力状態のセイバーの剣を、プリーストは一度は防いでみせた。セイバーには叶わずとも、あいつにはそれだけの速さと技量があるということよ。宝具のことを考慮の外に置いても、士郎やわたしじゃプリーストに太刀打ちできないわ」

「そうか……」

 再び考え込む士郎。ああ、なんか嫌な予感がする。こいつのことだ、また自分ひとりを犠牲にするような戦い方を考えてるんじゃないだろうか。そんなやり方は絶対に認めないけど。

「ちょっと士郎、固有結界を使えばなんとかなるとか思ってるんじゃないでしょうね」

「そんなわけないだろ。たとえそれでプリーストに勝てても、他にも亡霊戦士が40人もいる」

 意外なことにわたしの弟子は、馬鹿弟子らしくない冷静な意見を返してきた。

「大体あいつら、銃で武装してたじゃないか。それで四方八方から撃たれたら、ロー・アイアスでも対処できないぞ。あれは一方向からの射撃しか防げないんだから」

 むう。士郎に言われて気付くというのも抜けた話だが、プリーストだけでなく亡霊戦士のほうも、考えてみれば結構な難敵なのだ。わたしの防御魔術なら銃撃も多少は防げるが、それも魔力が枯渇するまでの話だ。ピーシャラチの一斉射撃を浴びせられたら、わたし達は10秒と保たずに蜂の巣にされてしまうだろう。

「――頭痛の種がまた増えたわね。どうしたものかしら」

「それなんだけどさ、遠坂」

 もう一度ベッドに転がったわたしを、上半身だけ起こして士郎が覗き込んでくる。

「あいつら、どういう陣形で俺たちを迎え撃つつもりだろう。歩兵たちを広く展開させて、俺たちを包囲しようとしてくるのかな」

「それはないわ」

 そんなことをしても、単にこちらに各個撃破の機会を与えるだけだ。そして亡霊戦士の数が減れば、プリーストの宝具の射程はどんどん縮まってしまう。あいつらの最大の武器はコラールなのだから、その威力を減ずる危険は冒さないだろう。
 となれば、敵の採りうる戦術はひとつ。

「史実どおり、車砦の中にこもってピーシャラチの飽和射撃をしてくるでしょうね。その戦法なら、人間に過ぎないわたしたちはもちろん、セイバーでもそう簡単には近寄れないし」

 たとえ接近できたとしても、それはこちらがコラールの射程範囲に入ることを意味する。セイバーがコラールの効果をもろに受けてしまうことは前回の戦闘で証明されたのだから、敵はもう一度その再現を狙ってくるだろう。少なくとも、わたしが敵の指揮官ならそう考える。

「てことは、敵は一箇所に密集して俺たちを待ち構えてるってことだよな」

「おそらくね」

「だとしたら……相手の射程外から、敵を一網打尽にできるかもしれない」

「へ?」

 間抜けな声を上げてから、わたしは気付いた。なるほど、相手が一箇所に固まっているということは、逆に遠くから狙い撃ちできるということでもある。いかにコラールが恐るべき宝具でも、その射程の外から攻撃してしまえばいいのだ。
 でも、その案は不可だ。わたしの持ち合わせの道具では、30メートル以上離れた場所に強力な打撃を浴びせることはできない。そして切り札といえるあの武器も、とある理由で使うことができなかった。

「士郎、セイバーの宝具で敵を一掃することを考えてるんでしょうけど、それは無理よ。今の魔力残量だと、明日になるまで待ったとしても一回だけしか使えないし、使った瞬間にセイバーは戦闘不能になる。その一回でプリーストを仕留められればいいけど、外してしまったら目も当てられないもの」

 ――という次第である。士郎の案は悪くはなかったのだが、惜しむらくは現実に沿っていなかった。今は別の手段を模索しなければならない……などとわたしが思案していると、

「セイバーの宝具って、遠距離から攻撃できるのか?」

 士郎が何もわかってない顔で尋ねてきた。
 ああ、よく考えてみたらこいつ、彼女の宝具を一回も見たことがなかったんだっけ。

「……待ちなさい士郎。じゃああんた、どういう方法で敵を一網打尽にするつもりだったのよ」

「えーと、アレを使うつもりだったんだけど。おまえの協力があればたぶん大丈夫なんじゃないかな、なんて」

「なんだか自信なさげね。……まあいいわ、何を使うつもりだったか言ってみなさい」

 わたしがそう促すと、士郎はベッドの上で胡座をかいて、その作戦を説明し始めた。






 リパニの丘。裏切りと同胞同士の殺し合いが交差した戦場を最後に、歩兵の記憶は終わっていた。無念の、無念であるはずの孤児団の物語を語り尽くして、彼は口を閉ざす。

「…………」

 私もまた無言だった。マレクの語った物語は、やはりどこか私のたどった人生と似ていた。王として軍を率いた私と、司令官に率いられて戦った彼、という違いはあるにせよ。
 だからこそ、今の彼の表情は納得がいかない。納得することなどできない。
 どうして彼は涼やかに笑っていられるのだ。何故その瞳には一切の後悔が浮かばない。理想を成し遂げられぬまま終わって、それでも彼は満足していられるというのか。
 ――彼もまた、どんな悲惨な結末をも受け止めて、それでも前に進める人間だというのか。アーチャーという名の結末を受け止めきったシロウと同じように。

 いや違う。
 「華麗なる長征」の末に、暴走した味方が盗賊集団に堕したことを語ったとき。彼の口調には強い嘆きがあった。
 権勢の拡大に酔ったフス派の聖職者たちが、庶民たちから金銭を巻き上げていく様を語ったとき。彼の拳は憤怒で固く握られていた。
 リパニの丘で繰り広げられたフス派同士の殺し合いを語ったとき。彼の瞳には言い知れぬ悲しみの色が浮かんでいた。
 ――遠き日に誓った誓約が、もう決して果たされぬことを知ったとき。彼は深く失望していたのだ。ブリテンを救えぬことを悟った私と同じように。

 だというのに、何故。
 全てを語り終えた今、彼は満足に包まれているというのだ?

「騎士殿、私の物語はこれで終わりです。次はあなたの番ですが」

 納得いかないまま目の前の歩兵を睨みつけていると、当の歩兵がそう要求してきた。
 私の番? ……ああ、そうか。私が内心を打ち明ける代わりに、彼に自分の素性を語ってもらう約束だったのだ。みずから求めたことだというのにすっかり忘れていた。
 マレクの満足の理由はまだわからないけれど、約束を違えるわけには行かない。仕方なく私は口を開き、

「私は、ある老騎士のもとで育ち……」

 彼のように包み隠さず全てを話そうとした途端、肺が呼吸を乱した。それ以上言葉を重ねることができなくなって、私はぎゅっと唇を噛む。
 無意味な、無駄でしかなかった人生。それを振り返ろうとして、身体そのものが拒否反応を起こしてしまったようだ。私は目を閉じて、呼吸を整えることに務めた。
 プリーストの宝具を受けるまでは、こんなことは起こらなかった。聖杯を求めて無数の時代を彷徨っている間も、私は王としての誓い、騎士としての矜持を、常に胸に抱いていた。だから、王として騎士として全力で駆け抜けた過去も、ある種の誇りとともに思い出すことができたのだ。
 ――今の私には、もうそれはできない。自分の全てが否定されるべきものなのだと、知ってしまった今では。

「私は……。私の人生も。貴方の司令官と同じです、マレク」

 だから私は、そのように誤魔化すしかなかった。

「プロコプと同じ、とは?」

「自分の理想を果たすために、剣を取って戦い、勝ち続けた。けれども最後は味方に裏切られ、同朋同士の殺し合いのさなかに戦死した。全てが無駄だった……そういう、人生です」

 ごくごく簡便に、要点だけを述べる。15分かけて自分の過去を振り返ったマレクに比べればあまりにも短かすぎる説明だが、それでも今の私にとっては、充分に苦痛を伴う作業だった。

「全てが……無駄? はて、どういうことでしょう」

 しかし、さすがに今の説明は乱雑すぎたのだろう。マレクはなにやら難しげな顔でこちらを見ている。もっとくわしく話せ、ということか。
 やむをえない。15分もかかるような長い回顧などできそうにないが、もう少し詳細に話す努力はするべきだった。約束をしたのは私なのだから。

「私の望みは、戦乱に明け暮れる国に平和を取り戻すことでした。だから私は剣を取り、国の王になった。そして軍の先頭に立って敵と戦い、勝ち続けた。しかし私には人望がなかった。私の部下は次々と離反していき、最後は遠征中に裏切られて、国を二分する戦いを起こしてしまったのです」

「……むう」

「裏切り者を倒すことには成功しました。しかしその戦のために多くの者が死に、大地は荒れ果て、統一されかけていた国は再び分裂してしまいました。私は結局……理想を果たすことができなかった」

 だから、傷つき倒れた私は、死の間際に世界と契約したのだ。死後に英霊となって世界を守ることを約束する代わりに、私の望みをかなえる力を探すための猶予を与えてもらうことを。

「要するに、私は王として相応しくなかった。だから、全てを一からやり直し、王として相応しい人間に改めて私の国を治めてもらおうと考えました。そしてそれを可能にする力――聖杯を探すことにしたのです。この時代に来るまでの間、私はずっとその目的のために戦いつづけてきた」

 だというのに。あの剣を手に取ったときからずっと、疑うことなく真っ直ぐに突き進んできたというのに。今の私は、これ以上進むことを躊躇してしまっている。プリーストの宝具の影響下に置かれたときだけでなく、こうして今も、迷いを抱えたまま立ち尽くしている。

「一体、なぜ――今さらになって私は、その目的に疑問を持っているんだろう。自分自身でも、よくわからないのです」

「…………」

 話を聞き終わったマレクは、ただじっと私を見ている。私の疑問に答えを出すでもなく、迷う私を嘲笑うでもなく、彼は少しだけ目を見開いて、こちらを凝視していた。彼の表情は驚きに息を呑んでいるようにも見え、私にとっては少々居心地が悪い。
 やがて彼は、ポツリと漏らした。

「まさか、本当にあなたが彼の人だったとは……」

「彼の人?」

「いえ、なんでもありません騎士殿。さて、なにから話すべきか」

 額に手を当て、しばし思案にふける歩兵。
 激励の言葉でも考えているのだろうか。ぼんやりとそんなことを予想していると、不意に彼は顔を上げ、予想外のことを聞いてきた。

「騎士殿。あなたは自分が王として相応しくないと言いましたが、ではどのような人間ならば、あなたの国を救うことができたのでしょうか?」

 ……え?
 いったい彼は何を言っているのだ。そんなこと、私の今の迷いとは何の関係もないだろう。私より優れた者が王になっていれば、全ては丸く収まり、私の願いも叶っていた。いちいち確認するまでもないことだ。

「答えていただけませんでしょうか、騎士殿」

 マレクの視線は真剣だった。どうやら本気でそんなことを聞きたがっているらしい。私は内心でため息をついて、彼の疑問に答えた。

「決まっているでしょう。10のすべてを救える人間だ」

「10のすべて?」

「私には力が足りなかった。10の味方がいたとして、10の全てを救うだけの力はなかった。9を助けるためには、1を犠牲にしなければならなかったのです。だから私は躊躇いなく1を切り捨てていきました。でもそれこそが、私が国を滅ぼした理由。部下たちが私を見捨てたのは、私のその血の通わぬ冷たさを見たためなのだから」

「ああなるほど、そういう意味ですか。しかし、歴史上に10の全てを救った人間などいたのでしょうか?」

 だからなぜ、そんな考慮するに値しない質問を続けるのだ。いるに決まっているだろう。味方全員を納得させ、国を一つにまとめて戦い、最後まで勝利し続けた者。誰からも反対を受けず、誰をも犠牲にせず、誰にも涙を流させず、全てを一人で解決した英雄。そう、たとえば……

 たとえば?

「…………」

 具体名が思い浮かばず沈黙する私に、マレクは静かに言葉を続ける。

「偉大なるカエサルもアレキサンダーも、すべての味方を救うことはできませんでした」

「…………」

「10人の人間がいれば10通りの理想があります。そして、全ての理想は違う方向を向いているものです。10の理想をひとまとめに束ねて一方向に向かわせるなど、人にできることではありません。ゆえに、歴史に名を残した英雄の手は例外なく汚れている。彼らの理想に歯向かう人間に流させた血で」

 諭すように語りかけてくるマレクに、私はむしょうに腹が立った。そんなことはどうでもいいだろう。今の私の迷いとは何の関係もない。とにかく、私が王にならなければ良いのだ。それで全てはうまく行ったのだから。
 隠しようもない苛立ちを声に込め、私は言い捨てた。

「ならば、人望のある者が王になればいい。味方を無闇に切り捨てない人間ならば、部下に離反され、国を滅ぼす裏切りを受けることもなかったはずだ」

「プロコプはそういう人間でしたが。そう、ちょうどあなたと逆かもしれません」

 まるで最初からこちらの言い分を予測していたかのように、マレクは淀みなく返答してきた。

「彼は、自分の率いる急進派はもちろん、自分と意見をたがえる穏健派も無下に扱うことはできなかった。それどころか、自分の命令を無視して勝手に暴走する部下さえも切り捨てることができなかった」

 懐かしむように、惜しむように、歩兵は自分の司令官を評する。

「そして味方の勝手な行動を許したため、彼は教会との和平交渉をまとめることができず、結局あの結末を迎えてしまった。彼がもう少し冷徹であったならば。あなたのように味方を切り捨てることができたなら、孤児団の最後はああではなかったのではないか。そう思ったこともあります」

 淡々と語る歩兵の言葉を聞くうちに、私の中で少しずつ焦燥感が育っていく。
 一体マレクは何を言おうとしているのか。もしかして彼は、私に無慈悲な一言を告げようとしているのではないだろうか。死に瀕した私が最後にすがった希望をも、粉々に打ち砕く一言。
 すなわち――

「それでは、私の国を救うことは誰にもできないというのですか。たとえ聖杯を手に入れようと、私の願いが果たされることはないと言いたいのですか、貴方は!?」

 耐え切れなくなった私は、ついに爆発していた。敵意にも似た視線を浴びせ、声を荒げて歩兵を詰問する。居眠りする宿の亭主のことなど、すでに頭から消えていた。代わって自分の心を占めるのは、私の目的を否定しようとするマレクへの怒り。
 しかし彼は、こちらの切っ先を受け流すように首を振った。

「わかりません。私はあなたの国の事情をよく知らないし、私に答えられる問題でもないでしょう。私が見たのはフス戦争だけですから」

「ならば……!」

「ですが、その私でも言えることはあります」

 鋭い――驚くほど鋭い視線で射ぬかれて、私は急停止していた。それまでずっと穏やかだった歩兵の瞳に、強い光が点っている。その意志の光は、私の激情をも押しとどめるものだった。

「司令官という仕事を、私は間近で見てきました。だからわかります。勝利しつづけるということが、どれほど偉大な労苦であるかを。ただ一つの勝利を得るためにも、工夫を重ね神経を削らねばなりません。人の身でありながらそれを10年も続けたならば、それはもはやひとつの偉業でしょう」

 何も言えなくなった私を見据えて、彼は続ける。

「プロコプは偉業を果たした。彼は自らに課した任務を最後までやり遂げたのです。もし彼が、最後に失敗したという理由であなたと同じことを望んだなら、私は彼を殴ってでも止めますよ。私たちが司令官と仰いだ人間は彼一人であり、彼は最後まで、自分の義務を放棄することなく戦ったのだから」

「それは……し、しかし……」

 彼の言わんとしている事が何なのか、ようやく私も悟った。彼はプロコプを引き合いに出して、私を慰めようとしているのだ。たとえ失敗に終わったとしても、それでも偉業を成し遂げたのだ、と。
 彼の配慮自体はありがたい。けれども、その詭弁を認めるわけには行かない。私が果たしたかったのは、偉業ではないのだから。
 ――そう。義務を果たしても、勝ちつづけても。
 国を滅ぼしてしまっては。夢みた理想を叶えられなければ。

「失敗に終わってしまえば、何の意味もない……!」

 そう叫んで。
 一瞬後、私は自分の失言に気付いた。今の言葉はすなわち、プロコプの全てを否定する言葉でもあったのだ。マレクの敬愛する司令官を、私は完全に侮辱してしまった。
 しかし歩兵はこちらをとがめることもなく、真摯な表情で語りかけてくる。

「確かに私たちは失敗しました。フス派を守り抜こうとして、フス先生の理想を欧州に広めようとして、平和なボヘミアを夢みて、その全てをかなえることはできなかった。その点だけから見れば、プロコプは司令官として失格だったのかもしれません。ですが」

 マレクの瞳に、ほんの少しだけ寂しさが加わった。

「あの時代、その全てを実現するのは、結局は不可能だったのでしょう。フス先生の理想は、何百年もあとにようやく実現する遠い願いだった」

「遠い願い? ……それは?」

 聞き返す私の胸の中に、ちりちりと何かがわだかまる。
 この上マレクは何を言おうとしているのか。もしかして、私にとっては決して許すことのできない言葉を口にしようとしているのではないか、と。
 そして――その予想は的中した。

「身分も貧富も関係なく、神の救いは平等である。神の御前で、すべての人の心は自由である。その理想を実現するには、我々はまだ早すぎたのです」

 彼は私に、そう断言したのだ。
 あたかも――アーサー王もまた早すぎたのだと、慰めるかのごとく。

「早、すぎた……だと?」

 それこそ、絶対に認められない言葉。
 早すぎたという言い訳で、理想の達成を諦めるなど。
 早すぎたという言い逃れで、失敗に終わった罪を回避しようなど。

 許されることでは、ない。

 沸きあがった新たな憤激は、マレクの眼光もプロコプへの配慮も押し流した。

「私の戦いも貴方たちの戦いも、最初から失敗に終わる結末だったと――貴方はそう言うのか!? 平和を願う想いも、平和を求める戦いも、早すぎればすべては無駄なのだと――貴方はそう言いたいのか!?」

「無駄なことなど何一つありません、騎士殿。私たちの戦いも、そしてあなたの戦いも」

 そしてマレクににっこりと微笑み返され――そのあまりに唐突で穏やかな表情に、私はまた言葉を失った。

「我々の理想は、遠い願いでした。多くの人々の英知を経て、悲惨な戦いを乗り越え、少しずつ達成されていくべき大事業でした。その長い長い道のりの第一歩を、誰かが踏み出さなければならなかったのです」

 満足げな。私がその正体を知ろうとした、あの満足げな笑みを浮かべて、マレクは続ける。

「フスが処刑されてから100年後、一人の僧侶が、贖宥状に疑問を投げかける壁紙を教会の門に張り出します。彼もまたカトリック側から異端審問にかけられますが、フス先生が記した著作を読んで勇気づけられ、最後まで自説を曲げませんでした」

「――――」

「僧侶の名はマルティン・ルター。彼の起こした波紋は、彼自身の意図を超えて全欧州に広がりました。各地で教会の支配から脱して聖書にのみすがろうとする宗派が現れ、フス戦争で権威を失った教会はそれを押しとどめることができませんでした。後にその騒乱は、歴史書にこう記されることになります。宗教改革、と」

 私は呆然と、彼の話に聞き入っていた。
 宗教改革。その単語くらいは知っている。今シロウたちのいるこの世界が、この形に定まるために絶対に必要だった出来事。個人個人が自らの魂と向き合うきっかけを作り、この世に多様な価値観をもたらす先鞭となった事件。自由と平等という言葉がなによりも重いものになったのも、その改革があればこそだった。
 ならば。彼らの、孤児団の戦いは。その道のりの第一歩だったということか。
 決して無駄では――なかったのか。

「騎士殿、もう一つだけ聞かせてください。あなたの国は、あなたが救おうとした人々は、すべて死に絶えてしまったのですか?」

 不意にマレクがそう尋ねてきた。私は我に返り、慌てて首を振る。

「いえ、そんなことはありません」

 今でも彼らはあの島に住んでいる。多くの戦乱を乗り越え、多くの危機を乗り切って、長い歴史と文化を誇りに生き続けている。

「この時代に至るまで、平和も繁栄もなかったのですか?」

「……いえ」

 私の時代のずっと後、彼らは世界の海に乗り出して、太陽の沈まぬ王国を作り上げた。今はその広大な領土は失われて久しいけれど、彼らは特に落胆するでもなく、ようやく融和を果たした欧州の中で平和な日々を送っている。

「ならば、あなたの志は受け継がれたのです。10年間を戦い抜き、勝ち続けたあなたの勇姿は、ほかの誰かの心に勇気をもたらした。あなたの理想の灯火は、後継者たちに受け継がれたのです。ちょうどこの国の人々が、フス戦争に勇気づけられたように」

「チェコの人々が……?」

「はい。この国に民族復興運動が起こったとき、フス戦争は理想化されてチェコの歴史の象徴となりました。この国の人々は、あの戦いに自らのアイデンティティを求めたのです。そしてそれを原動力にこの国は独立し、その後のいくつもの冬の時代を乗り越えてきました」

 マレクはこちらから目を離し、部屋の窓にその視線を向けた。ガラスの外には、赤い屋根と白い壁の家々が織り成す美しい風景。彼の時代から600年を経たあとも、戦果を浴びることなく保たれてきた眺め。
 中世の面影を残すその素朴な街並みこそ、孤児団の後の時代の人々もまた、この国を守りつづけてきたという確かな証だった。

「フス派という教えそのものは残らずとも、その理想と誇りは消えはしなかった。フス先生は、ジシュカは、プロコプは、今でもこの国の人々の心の中に生きています。そうでなければ、プロコプが英霊となるはずがない」

 そして彼は私に視線を戻し、先程とはまた別の種類の笑顔を浮かべた。

「あなたも同じことです、王よ。自分の人生を後悔しなくてもいい。勝ちつづけるために苦悩した日々を、軍の先頭に立って戦いつづけた10年間を、すべて白紙にする必要などありません。それは、長い道のりの第一歩だったのだから」

 ……違う。

「全てを成功裏に終わらせられずとも、恨む必要はないではありませんか。あなたの国は、あなたの後継者によって平和を取り戻し、そして繁栄の時代をも迎えた。あなたが守ろうとした人々は、この時代もずっと生き続けている」

 ……違う。そんな慰めは、ただのごまかしだ。

「そして王よ。あなたほど強い思いを託された英霊を、私は見たことがない。あなたの国の人々の心に、遠い異国の少年の心に、あなたは強くメッセージを刻んだのです。ならば嘆くことはない。あなたの偉業は、確かに何かを残したのだから」

 ……違う。そんなのは、ごまかし、だ。

 必死にマレクの言葉を否定しようとして、自分の内心の変化に気付き、私は愕然とした。
 どうして私は、こんなにも――安堵してしまっているんだろう。

 国に平和をもたらすという、遠き日の誓い。
 騎士たちと肩を並べて戦ったあの戦場。
 持てる力のすべてを出し切って駆け抜けたあの日々。

 それらが無意味ではなかったというだけで、どうして、こんな――

 胸の奥からこみ上げる感情に、私は翻弄されていた。マレクの言葉に返事をすることができない。それどころか歩兵を直視することもできず、私はうつむき、ただ床を見るばかりだった。

 ……だからだろう。彼がいつのまにか私の前から離れ、宿の階段のあたりまで歩き去っていたことにも、私は気付くことができなかった。自分の感情をもてあまして立ち尽くす私の耳に、遠くから奇妙な会話が流れ込んでくる。

「魔術師殿、そろそろあなたの出番ですよ」

「ひゃ!?」

「変な声をあげてないで、さっさと出て来てください」

「ちょ、ちょっとマレク! わたしがここにいることに気付いてたの!?」

「……かくれんぼは下手なんですね魔術師殿。先程からあなたのツインテールが手すりの陰からちらちらと顔を出していたんですが」

「うぐっ……し、しまった……」

「まあそれはいいですから、早く騎士殿の元へ行ってあげて下さい。私ができるのはここまでです。あの方を支えていけるのは、あなたたちなんですから」

「わ、わかってるわよ! あんたはとっとと部屋に戻って、士郎と作戦会議の続きをやってなさい!」

「了解しました」

 会話が聞こえてくるほうをぼんやりと見やると、マレクが苦笑しながら階段を上がっていくところだった。彼と交代するようにして、私のマスターが手すりの陰から姿を現し、足音も荒くこちらに向かって行進してくる。

「あ、凛……」

 ようやく事態を把握して、私は間の抜けたつぶやきを漏らした。
 私とマレクの会話を盗み聞きしていたらしい凛の表情は、どの角度から見ても不機嫌だった。額のあたりに青筋らしきものが浮かんでいるから、不機嫌どころか怒っているのかもしれないが。

「休憩時間を過ぎても帰ってこないから様子を見に来たら……何やってんのよあんたは!?」

「も、申し訳ない。つい話が長くなってしまって、その」

「そんなこと気にしてるんじゃないの、わたしは! ああもう、こんなことなら、アーチャーとの約束なんて最初から無視してればよかったわ」

 よく分からないことを口にしながら、凛はきっかりこちらの胸元10センチまで踏み込んで、私に指を突きつけた。

「初対面のヒゲ中年には悩みを打ち明けておいて、どうしてわたしたちには何も相談してくれないのよ!?」

 彼女の怒りの理由は、私の遅刻ではないらしい。その程度のミスでは、決して彼女はこんなに怒ったりしない。私のマスターは心の底から腹を立てているのだ――私が彼女にきちんと相談をしなかったことに。けれども、私にも言い分はある。
 凛とシロウは、未来に向かって歩かなければならない。私のような過去の遺物に囚われて、その歩みを止めてはならないのだ。だからこそ、私は自分の過去も自分の真名も、二人に告げはしなかった。

「……私は貴女の剣であり使い魔です。使い魔が主人の手を煩わせるなど……」

 ぼそぼそと始めた私の言い訳は、しかし凛に両肩を掴まれて断ち切られる。

「このチェコに来てる時点で、充分あんたはわたしの手を煩わせてるのよ! あと、わたしの家で遠慮会釈なく食い散らかしたり、家事を手伝おうとして洗濯物を風に飛ばされたり、干した布団を入れ忘れたり、士郎と三人で遊びに行った新都で迷子になってくれたり――とにかく、もうあんたは充分わたしに迷惑かけてるの!」

「そ、それは……申し訳、ありません」

「だからなんで謝るのよ!? そんなに嫌なの、わたしたちに迷惑をかけることが!? わたしだって士郎だってあんたにさんざん迷惑かけてるのに、それでも嫌なの!?」

 凛がその瞳を燃えるように輝かせている。彼女の言い分が、彼女の怒りの理由がわからなくて、私はただ困惑の表情を返すだけだ。
 ――と。凛はこちらから手を離して、瞳の炎を弱めた。

「あなたとわたしはね、もう充分に深く関わったの。ハラペコのあなたにベッドから叩き起こされて衛宮邸に朝食を食べに行くのが、今のわたしの当たり前の日常なの。遠坂凛にとっては、セイバーはもう家族の一人なのよ。お互いに迷惑をかけあうなんて当たり前じゃない、家族なら」

「家、族……」

「なのにあなたは、使い魔とか過去の遺物とか理由をつけて、わたしと深く関わるのを避けようとするの? そんなにわたしたちと一緒に行くのが嫌?」

 馬鹿な。そんなはずが――ない。
 少しでも、聖杯を見つけるまでの少しの間だけでも彼らと未来をともにしたくて、私はこの時代に残ったのだから。

「嫌じゃないのね?」

「はい」

 消え入るような声で答える私に、凛はようやく笑みを見せてくれた。

「なら、人生相談くらいやらせなさい。自分で言うのもなんだけど、わたしって意外に姉御肌なのよ? 自分の周囲に暗〜い顔した人間が居たら、思わず背中を蹴っ飛ばしてやりたくなるくらいに。周囲の人間が幸せでないと幸せになれないオンナなのよ、わたしは」

 もっとも、そんな自分に気付いたのは聖杯戦争の後なんだけどね、と付け加えてから、凛は少しだけ後退し、会話するのに適切な距離をとった。

「で、どう? 心の整理は……まだついてないのよね?」

 そう問われた私は、もう、自分の心を装うことなどできなかった。凛の精一杯の心遣いを受けて、堰を切ったようにあふれ出てくる感情で胸が一杯になってしまったのだ。嬉しいのか悲しいのか、笑いたいのか泣きたいのか、それさえもわからない。
 ただ一つ、確かなことはあった。それは、未だに私は答えを見い出せていない、ということ。

「迷って……います。どうしたらいいのか、私はわからなくなってしまった……」

「うん、そっか。そうよね」

「私が王に相応しいとは思えない。でも、あの戦いが無駄ではなかったなら……私の10年間が、誰かのためになったというなら……。でもそれは、ただの欺瞞かもしれなくて。自分が踏みにじった人々を見捨てる行為なのだとしたら、私は……」

「うん」

「私はやはり、結末を変えたい。でも、戦い抜いたあの日々を捨てたくない。苦しいことばかりだったけど、でも、でも、それでも……私にとっては、大切な……」

「うん」

 いつのまにか、私の頬を何かが濡らしていた。それを自覚したのは、凛に抱き寄せられてからのことだったけど。
 凛の手の平が、力づけるようにこちらの背中に回る。私はその温かさにすがるようにして、胸の奥からこみ上げる感情を、形にならないまま吐き出しつづけた。

「私は、私は……どうしたら、いいのか。このままではプリーストに勝てない。でも、答えが見つからない……」

「大丈夫」

 涙ぐむ私に、凛が力強く語りかける。

「大丈夫。プリーストの宝具は、わたしたちがなんとかできるわ。士郎のおかげで勝つ見込みが立ったの」

「ほ、本当ですか……?」

「本当よ。だからあなたが無理に答えを出す必要なんてないの。たっぷり迷いなさい。大丈夫、答えなんていつか必ず見つかるから」

「凛……」

「迷うべきときには迷って、泣くべきときには泣いて、困ったときには他人にすがればいいのよ。たとえみっともなくてもね。そっちのほうが、よほどいい結果を出せる。だから今は迷いなさい。言いたいことがあるなら、わたしが全部聞いてあげるから」

 結局、その言葉が決め手になったのだろう。泣き叫びこそしなかったけれど、それから私は子供のように嗚咽を繰り返した。凛の服が濡れるのも構わず、彼女の腕に支えられて、私はずっと涙を流しつづけたのだ。

 あの剣を手に取ってから、初めて。
 私は王としての誓いも騎士としての誇りも忘れて、一人の少女に戻っていた。





管理人の感想

 ああー、こうきましたかー。良いですねー、すごく良いですねぇ。悩め悩めセイバー、どんどん悩め。
 さすがに史実を基にしているだけあって、説得力ありますね。思わず頷かせてしまう力を持ってます。ここで悩みを得たセイバーが、物語の最後にどういう答えを出すのか今から楽しみです。個人的にはやっぱり最後には士郎に答えを与えて欲しいと思ったりもするのですけど……どうなるんでしょうね。

 あと次回辺り士郎がなにやら活躍する模様ですよ? 主人公面目躍如の時がやってくるのでしょうか。
 そして戦場に出たセイバーはどうなっちゃうんでしょうね。うぎゃー、見所満載ッ! 個人的にはマレクの行動もすごく楽しみなんですけど。彼奴はナイスです。


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