桜舞う季節を迎えた令嬢たちの花園に、今日も今日とて幼げな怒声が響き渡る。

「なっっっとくがいかーーーん!」

 校舎の窓ガラスを振るわせる、舌っ足らずなキンキン声は、しかしながら幼女のそれではない。声の発生源は、重厚な扉の向こう側のとある一室であり、その扉のプレートには本来あるべき厳粛な空気を一切感じさせないまま、
『理事長室』
 と、書いてあった。
 理事長といえば経営者なのである。学校で一番エライ人のことである。
 一般的な学校であれば、普通の生徒はまず理事長などに関わりあうことがないだろう。教師であっても、そうそう接触する機会はないはずだ。理事長の務めとは営利団体としての学校の存続であり、また同時に学問の場としての学校の存続である。生徒たちに知識を提供するのが校長を始めとした教師陣であるならば、理事長とは生徒たちに学習の場を提供するのが役目であった。
 故にその責任は当然のごとくひどく重たい。普通ならばそれなり以上に人生経験を積み、あらゆる側面から学校のことを、そして生徒たちのことを考えることができる人物がその立場に就くのが当然である。
 鳳華女学院分校がとてもではないが普通の範疇に収まらない学園であるのは、その学園の舵取り役である理事長が、どう考えても『理事長』というより『りじちょー』な人物であったことも一因として挙げられるだろう。
 さて、その件の『りじちょー』である風祭家令嬢・風祭みやびは現在、大変ご立腹であらせられた。
「あたしは、現状に大いに不満があるっ!」
 紅葉のような手のひらを勢いよくデスクに叩きつけ、ほそっこい肩を怒らせている様はまるで荒ぶるレッサーパンダのようだった。
 ちっとも怖くない。どころかむしろ微笑ましい。
 しかし学園の教師であり、かつ彼女の専属秘書を勤めてもいる滝沢司は、そのレッサーパンダの猛々しさを最もよく知る人物である。レッサーパンダを舐めてはいけない。あれでも漢字で書くと小熊猫なのだ。油断すると齧られる。
「……リーダさん、ちょっと後ろの戸棚にある倉庫の施工業者のファイルとってくれますか?」
 が、齧られるといっても所詮甘噛みであるとも知っているため、ガン無視だった。
「このファイルでございますか、司様?」
「うん、これであってるよ。ありがとう、リーダさん」
「ふふっ、この程度のことでお礼など言われては困ってしまいます」
 これで教師と秘書の兼任である司の仕事は人よりも多い。ある方面においては稀有な才能を持つ司だったが、ただの事務仕事においては人並み程度の才能しかない。放っておいて仕事が減るわけでなし、今は手を休めるわけにはいかなかった。
「お茶、お淹れいたします」
 そんな働く男の横顔を、メイド服を一部の隙もなく着こなしたリーダ――リーリア・イリーチニナ・メジューエワは、少しだけ眩しそうに見る。
「ああ、すまないねリーダさん。いつもいつも」
「もう……そのようなこと仰らないでくださいまし、マイロード」
 リーダにとって滝沢司は、自らが生涯唯一と定めた仕えるべき主だ。勿論、みやびもまた彼女にとって主なのだが、心情的には妹である。彼女が生涯をかけて真心と慈しみを捧げるのがみやびであり、彼女が真心と忠心を捧げるべきは司であった。
 その主が、真剣な表情で仕事に向かっている。ならば少しでも彼の手助けをして、少しでも疲れを癒してやるのが、今リーダがなすべきことであった。よって一先ず妹の切なる訴えはスルーである。
 慣れた手つきで、しかし気持ちはいっぱいに詰め込んで紅茶を淹れる。カップから立ち上った薄い香気が部屋に漂って、乾いた空気に慣れた司の鼻を擽った。
「どうぞ、司様」
「ありがと、リーダさん」
「司様、そろそろ一休みなさってはいかがですか? お忙しいのはわかりますが、あまり根を詰めすぎなさいませぬよう……」
「うん、そうだね――」
 リーダの淹れてくれた紅茶を一口含み、その変わらぬ味の見事さにいつも通りに癒されながら、司は凝り固まった背筋をゆっくりと伸ばす。
 そうしてついでに、そちらのほうにちらりと視線をやる。
「――それにそろそろ僕らのお姫様の相手もしてやらなくちゃいけないし、ね」
 そこには、司とリーダ、二人の家族に無視されまくってブチ切れ寸前の鳳華女学院分校りじちょーのお姿があった。



「だからっ! あたしは現状に大いに不満があると言っとるんだ!」
「はあ……不満、ですか? 理事長?」
 またそれか――彼ら三人が決して切れない絆で結ばれてから今日まで、たびたび繰り返されてきたそれに、内心でそうつぶやきつつ聞き返してやる司。
 しかしみやびはそんな司に不満げにくちびるを尖らせて、
「りじちょおだぁ〜?」
 自分のデスクで紅茶を飲む司にずいずいと迫り、息もかかりそうな距離まで顔を寄せてじっと睨みつける。
「理事長、じゃないだろう?」
「……今は仕事中ですよ、り・じ・ちょ・う?」
「みやびちゃんさまって言えー。愛してるー、って言えー。ぷりちー、ってゆえー」
 猫が甘えるような声。寄せてきたみやびの身体と触れそうな長い髪から彼女の匂いが漂って司をくすぐる。
「ねえ、つかさー……ちゅーしろー」
 子供のような幼い声で懇願してくるみやびは、しっかりと一八の少女だった。それはこの世の誰よりも、滝沢司が、司だけが一番よく知っている事実。そして勿論、そのことを他の誰にも教えてやるつもりなどない。
 はっきりと感じさせられるみやびの女性に、司は自身の理性が少しずつぐらついてきているのを自覚する。もしここが職場でなかったらとっくに司は男の本能を全開にして、彼女の求めに応じていただろう。
 ――が、ここはあくまで職場なのだ。
「り・じ・ちょ・う?」
「あいたっ!?」
 こつんと、軽くみやびの頭を撫でてやる。
「ぶ、ぶったね! リーダにもぶたれたことないのに!」
「んな、おおげさな……それよりも、今はだめです。けじめはちゃんとつけましょうね、理事長?」
「むぅ、いいじゃないか、別に……あたしとおまえの仲なんだから今更」
「今朝、どうやって起こしてやったか覚えてらっしゃらないのですか?」
「……あ」
 言われてみやびは思い出し、さっと頬を赤く染めた。
 それは司とみやびの間で交わした約束。

『もしもどうしても敬語を使ったり、あたしを理事長と呼びたい場合は、その日の朝はキスで起こしてくれ。それなら許す』

「……うぅ〜」
「思い出しましたか、理事長」
「あたしとしたことが迂闊だった。もっとすんごいことさせれば良かった……」
 悔しげに唇をかむが約束は約束、一度した約束を反故にするのは風祭みやびの沽券に関わる。
「わかったならほら、仕事しましょうよ。さっさとしないと日が暮れますよ」
「わかったわかった。……もう、司は意地悪なんだからな」
「仕事が終わったらいくらでもお相手しますから」
 しぶしぶと自分のデスクに戻っていくみやびに少し苦笑する。同時にこんなちょっとしたことで本気で拗ねてしまう彼女を可愛いな、と思ってしまう。
「……な、みやび?」
「! うんっ!」
 だからではないが、思わずそう呼びかけてしまった自分自身を甘いな、と思うしそれだけで簡単に機嫌を直して笑顔になるみやびをまた可愛いな、と思ってしまうのだ。
「……さて、それじゃとっとと終わらせますか!」
 さっきまでの態度はどこへやら、ものすごい勢いで仕事をこなし始めたみやびに習って、司もデスクに広げられた書類に向かう。
 司だってこんな仕事を相手にしているよりは、みやびを相手にかまっているほうがずっといい。仕事を早く終わらせれば終わらせるほどその時間も長く取れるのだから気合も乗るというものだ。
「司様」
「お、ありがとうございます」
 みやびと喧々諤々している間に冷めてしまった紅茶のおかわりをリーダが持ってきてくれた。それに口をつけながら、パソコンに向かって黙々と打ち込んでいく。今作っているのは次の理事会で議題にあげる案件の素案だ。司が作った素案をみやびが吟味・修正し、それをもって理事会と戦うのだ。今後の分校の行く末を左右するとも言える、大事な仕事だった。
「ところでマイロード」
「ん……なんです?」
 司は問いかけてくるリーダのほうを見ずに、モニターに没頭している。だからか、リーダはほんの少しだけ眉根を曇らせて、みやびがしたように、しかし控えめに司に身を寄せて耳打ちしてくる。
「今朝お嬢様になさったこと……私にはしてくださらないのですか?」
「ブ――ッ! り、リーダさん! いきなりなにを!?」
「だって……お嬢様と司様、とても楽しそうだから……」
 紅茶を噴出しモニターにぶっ掛け思い切り咳き込む司の背中をリーダがさする。
「コラーッ! おまえら、あたしには仕事しろって言っておきながらなに遊んでるんだーッ! ちゃんと仕事しろ!」
 そんな二人に幾分かのやっかみを込めて、みやびが思いっきり怒声をぶつけるのだった。


†      †      †



 滝沢司と風祭みやび、そしてリーリア・イリーチニナ・メジューエワの三人は、司がこの分校に赴任してきた日から少しずつ絆を育み続けた。
 きっかけは、当時風祭として、理事長として突っ張っていたみやびの素顔を司が覗いてしまったこと。決して誰も見捨ないことを滝沢の姓を持つ人間として誇りにしている司は、普通なら子供の我侭と顔を顰めるであろうみやびの言動・振る舞いの裏側にある本当の思いを知り、彼女の傍らに居続けた。
 みやびとリーダの二人は世界のどこにも居場所を与えられなかった自分たちに、他ならぬその居場所を与えてくれた司に惹かれた。だから誰にも愛されず、幾度も裏切られ続けた自分たちを愛してくれる司を――愛されることに恐怖を感じ続けていた司を、生涯をかけて愛し続けることを誓った。
 三人はこれからずっと、何があっても離れず互いに傍らに居続ける。
 これだけが三人にとって、何事にも優先される大切なこと。三人は家族なのだ。
 だから当然、司が帰ってきて食事をし、安らぎを得て眠りに就く家もまた、みやびとリーダの傍だった。
 今日もまた、司は仕事が終わるとみやびとリーダと一緒に屋敷に帰ってきて、一緒に食卓を囲む。まだ一年もたっていないその生活だったが、今ではそれが当たり前にあるかのように安らぎを得られる生活だった。
 リーダが作ってくれた夕食を三人で囲み、食後のお茶を喫する。
 ここで三人は、普通の家族がそうするように、今日あった出来事や次の休みの使い方など他愛もない話をしたりするのだが、
「リーダはずるい」
 みやびが何を思ったのか突然そんなことを言ったのだ。
「ずるいって……」
 いきなりのみやびの発言に、司もリーダもきょとんとした顔を見合わせる。
「何がずるいんだ?」
「だって、リーダは完璧すぎる。ずるい」
「完璧って、確かにリーダさんは完璧だけどさ」
 司がそう言うと、リーダはまあ、と口元に手を当てて、
「そ、そのようなことありません。私などまだまだ未熟者です……」
 そう言って恥ずかしそうに瞳を伏せて、ほんのりと白い頬を朱に染めた。
 完璧だった。まさに完璧。完璧に可愛すぎて、司は思わずリーダを抱きしめいたい衝動に駆られる。実際やったら目の前でぶーたれている小動物が怒るからしないけど。
 そしてどうやらみやびも同じ感想抱いたようで、良家の令嬢にあるまじき表情で髪をかきむしりつつ、ふかーっ! と吼えた。
「ぐあーーーっ! それだっ! それもずるいんだっ! なんで? 何でリーダってばそんなに可愛いのよーッ! 寄越せっ! その可愛さを少しあたしに寄越せー!」
「どうどう、落ち着けみやび。ブレイクだ、興奮するにはまだ少し早い。満月は来週だぞ?」
「これが落ち着いてられるかー!」
「まあ、確かにリーダさんは完璧だ。作るメシは美味いし気配り上手とくればもうこれ以上はない最高のメイドさんだ。おまけに美人でスタイルもいいし、しかしかといって少女のとしての恥じらいも忘れずそれがまた可愛い。僕だったらさっきのリーダさんの照れ顔だけでドンブリ三杯だね」
「も、もう! 困ります司様……困ります」
 何が困るのかわからないが、確かに困惑に戸惑った表情を伏せて、リーダは司の服の裾をそっと摘む。
「……私が完璧だと仰られるなら……それは司様の、マイロードの前だけです。貴方の前だから完璧であろうと、一生懸命になれるのですから……」
 リーダはそう言って、摘んだ指をもじもじと擦り合わせつつ、はにかんだ笑みを浮かべてそっと司を見上げた。
「り、リーダさん……」
「どうか……リーダと呼んでくださいまし……」
 目元を朱に染め、潤ませて見上げてくる瞳。震えるまつげとともに今にも伏せられそうなそれに引き込まれるようにして、司は近づいていき――、
「二人ともイチャついてんじゃあ、なーいッ! ああもう、なんだかとってもちくしょーーー!ッ」
 出来上がってしまった二人の世界を引き裂くべく噴火したみやびの絶叫と、すっ飛んできた紅茶のカップに盛大に脳を揺さぶられて目の奥で迸る星を見るのだった。
「ま、マイロード!? 大丈夫ですか!?」
「あ、ああ……慣れたくないけど、慣れたし……」
「愛のムチ、というやつだ。あたしの愛情がいっぱい詰まってるんだからな、喜んで受け止めろよ司。どうだ、嬉しいだろ? フン!」
 ぷりぷりとご立腹のみやびだが、別にやきもちを妬いているわけではない。いや、まったく妬いてないと言えばウソになるかもしれないが、それはどちらかといえば拗ねている、といったほうが表現的に正しいだろう。もしこれがリーダでなく、他の女であったら東京湾どころではない。
「お嬢様……?」
 司の頭にできたコブを撫でながら、リーダは凪いだ瞳をみやびに向け、みやびはその瞳を前にびくっと身を竦ませた。
 リーダはちょっと怒ってる。
 普段、聖人君子かと思えるほどに温厚な彼女だからこそ、怒った時は結構怖いのだと、みやびも司も知っていた。
 そしてこういう時のリーダはというと、
「…………」
 無言で、じっと相手の目を見据えて自分の非を認めるまで離さないのだった。
「…………」
「……う」
「…………」
「うう……」
 次第に形勢不利になっていくみやび。リーダの無言の気迫に押され、じりじりと退いていく様は実にいつも通りだ。司にとってはもはや結果などわかりきっているし、今のリーダにみやびと一緒になって抵抗したいとは思わないので思いっきり放置である。
 それにぶっちゃけ、マングースに対するハブ状態のみやびは見てて面白い。

 というわけで結局――。

「だって、あたしだって司の恋人なのにさ、それなのにリーダばっかりさ、若奥様扱いでさ。あたしはいつまでたっても二人の娘扱いでさ……」
 ソファーの上で体育座りになってぶちぶちと文句を垂れるみやび。
「いいですよねー、リーダは司の奥さんでいいですよねー。どぉぉぉせあたしは恋人じゃなくって娘ですからー。だってちっちゃいですからー。お尻だってちっちゃいし、胸に至っては下手したら小学生並ですからー……しょうがく、せい……うぅっ」
 自分で言って自分で落ち込む小学生並。まさに自業自得である。
 みやびのこういった愚痴は珍しいことではない。むしろ司とリーダにしてみれば「またか」と、ため息をついて然るべき類のものであった。
 司がみやびたちの屋敷に越してきてから学院生たちの間で実しやかに囁かれている噂は、司が赴任してきた当時の生徒たちが卒院してもなお消えることはなく、今年入ってきたばかりの生徒たち――僅か二名ではあるが――にも引き継がれている。
『司先生とリーダさんって最近妙にイイ感じだよね。新婚の夫婦みたい。……で、りじちょーは手のかかる二人の娘』
 それは、あくまで生徒たちにとっては噂話だったが、概ね間違っていなかった。
 事実と異なっている部分といえば、
「リーダだけじゃなくって、あたし『も』司の奥さんなんだー!」
 というわけである。
 確かにそれが真実なのである。司にとって、みやびもリーダも大切な女性だ。単に異性としてだけではなく、家族として、掛け替えのない身内として大切な存在。これから先数十年に渡る生涯をずっと共にすごしていくと誓っている。
 元々他人同士の男と女ならば、その関係は夫婦であるとするのが最も適しているだろう。だから司は、みやびもリーダも等しく自分の妻であると断言してもなんら恥じることはないと思っている。そしてみやびもリーダも、正式にそうした関係になったわけでなくとも、司を自らの夫であり、また生涯の主であると既に決めており、それを大声で宣言することに躊躇うことなど何一つなかった。
 しかし、それができないのは偏に彼らが現在置かれている立場というものがあるからなのだが、詳しくは割愛することとする。
 ともあれみやびは、周囲からの評価が厳然たる事実と、事自分に関する一点において大きく異なっていることが非常に不満なのであった。
「あのさ、みやび。何度も言ったけど別にいいじゃないか。噂は噂で事実とは違うんだから。それに僕らの今の立場からすればそっちの方が何かと都合がいいんだし」
 司は唇をつーんと尖らせて拗ねているみやびに司は何度も口にした正論を、今日もまた口にする。
「そんなこと、言われなくたってわかってるよ……でもさ」
 これ以上ないほどの正論で、これ以上議論する余地もない。聡明な風祭の娘にはそれがイヤになるほどわかってはいる。
 だがしかし、単なる『みやび』はしばしばそうした理屈を感情で捻じ伏せるのだ。
 難儀なことだった。
 風祭であるがために人よりも聡明な頭脳を持つが故に理屈を正しく理解する。同時に誰よりも寂しがりやなみやびは感情を抑えきれない。
 自分VS自分。誰にも介入しえない時間無制限一本勝負の結果が時たま現れるみやびのこうした愚痴の真実であった。
 で、こういう時にどうしたらいいのか――それももう、決まっている。
「……リーダさん、悪いけどお茶を一杯もらえるかな」
「はい。かしこまりました」
 苦笑をこぼしながらリーダが背を向ける。
 フリフリと揺れるエプロンドレスのリボンが台所に消えていくのを見送ると、司はさてとばかりに、
「みーやび」
「ん? ――わぁっ!?」
 隣に座る彼女の膝の裏に両手を回して抱え上げた。
 ちなみにお姫様抱っこではない。言うなれば、
「な、何をするんだ司ーッ! こんなところでま、松葉崩しなんて! リーダ様が見てる!」
「はは、どこで覚えてきたんだそんなこと。あんまり変なこと言ってるとこのままパワーボム決めるぞ、お嬢様」
 とまあ、そんな格好で抱き上げたみやびを、司はそのまま自分の膝の上に下ろしてやって、お腹に腕を回して抱きしめる。
「……つかさぁ」
 一瞬、みやびは身体を強張らせたが、すぐさま力を抜いて背中を預けた。
 じんわりと、司のぬくもりが伝わってくる。自分の体温と司の体温とが交じり合って、少しずつ一緒になっていく感じがみやびは好きだった。意外と大きな司の身体に隙間なく抱きしめられて包まれると、愛されて守られていると実感できる。こんな時だけ、みやびは現金にも小さな身体で良かったと思えるのだ。
 膨らませいたみやびの頬は桜色に染まってゆるゆるに緩む。たったこれだけであっという間に機嫌が直るのだから実にお手軽なものだ。
「みやびがイライラするのもわかるけどさ……僕だって同じなんだぞ」
「え……? なにが?」
「……ほんとは僕だって、外で堂々と人目を憚らないで、みやびとイチャイチャしてみたいってことだよ」
 言って、そっとみやびの耳たぶに口を寄せる。
 そんなことをしながら――。
(うっわ、なんてキザなこと口走ってるんだか。いくらみやびの機嫌を直すためとはいえ――まあ、丸っきりウソってわけじゃないけど我ながらトリ肌が立ったぞ)
 などと考えているわけだが、一方のみやびといえばすっかり騙されている様子で、目元がとろりとなっている。
 自己嫌悪の司とデレ状態のみやび。
 そんな二人が展開している甘ったるい空間に戻ってきたリーダは、相変わらずいつも通りの展開に苦笑をこぼしつつ、お茶を少し濃い目に淹れてきて良かったと、自分の判断に間違いがなかったことを自賛するのだった。


†      †      †



「――って、よくよく考えたら何一つ解決してないじゃないか!」
 すっかり機嫌を良くしたみやびから離れた司が風呂に行き、リーダと二人だけになったリビングでみやびは、今日も司の姦計に思いっきり丸め込まれたことに今更ながらに気がついていた。
「お、おのれ司ーっ! あ、あんなことでこのみやびちゃん様が容易く騙されると思ったら……思ったら……」
「騙されてしまうんですよね、お嬢様」
 はい、騙されちゃうんです。
 週に一度か二度は騙されてしまうみやびは、今日も騙されてしまった自分に激しく自己嫌悪する。まあ、その前に十分いい思いをしているのだからチャラだといえないこともなかったが、それはそれとして悔しいのだ。
「でもお嬢様、お嬢様だって司様の仰っていることはお解かりになっているのでしょう? それに司様がお嬢様のことを誰よりも愛されているのは、お嬢様ご自身が誰よりもご存知なのですし……そんなに焦らなくても」
「……む、それは違うぞリーダ。司はあたしのことだけを愛しているんじゃなくて、誰よりもあたしとリーダのことを愛してるんだ。そこのところ間違えちゃだめ」
「……はい。そうですね」
 宥めようとするリーダに、やや論点を外した、しかし譲れない反論をする。
 司が大事に思っているのはあくまでみやびとリーダ。どちらか一人が欠けてはいけないし、欠けるなどということもありえない。
「だからね、リーダ。あたしは別に司とリーダが夫婦扱いされてるってことが不満なんじゃないの。二人の仲が良くて、学院の生徒たちに認められてるのは素直に嬉しい」
 リーダはただでさえ自分に遠慮することが多いのだし――と、これは心中だけでつぶやく。もう少し彼女は積極的に自分を出してもいいと思う。何せリーダが司を想う気持ちは自分に勝るとも劣らないのだから。
「ただねー、その中にあたしが含まれてないのは、なーんか仲間外れにされてるみたいで……単純に……むかつくんじゃーーー!」
「……はあ。左様でございますか」
 要するにそういうことなのである。
 別に深い意味があるわけでもない。深い思惑があるわけでもない。三人はいつも一緒で、誰もが誰もを一番と想っているのに自分だけ娘扱い。
 なーんとなく差がつけられているようで気に入らないだけだった。
「だいたい、せっかく司がくれた指輪を毎日欠かさず左手の薬指に着けてるっていうのに、それが由から贈られたものって勘違いされてるってのが一番気に入らないの!」
「ですが立場上、志藤様はお嬢様の婚約者ということになっているのですし、それは仕方のないことと思うのですけれど……」
「仕方なくなんてない。あいつはあいつでいいやつだけど、それとこれとはまったく別の話。この指輪は司から貰った……婚約指輪なんだから」
 そっと、指輪をはめている左手を胸に抱きしめて唇を尖らせる。
 確かに――その気持ちはわかると、リーダもまた、自分の左腕を抱きしめた。
 学院では決して人前に見せたりはしないが、こうして屋敷に帰ってくれば必ずリーダも指輪を薬指にはめるのだ。
 この指輪が司以外の男からの贈り物で、それを自分が受け入れているなどと勘違いされるのは……確かにあまり考えたいことではない。
「だからねリーダ、あたしは考えたんだ」
「……と、申されますと?」
 俯かせていた顔を跳ね上げ、みやびは表情を輝かせている。
 良いことを思いついたから誉めれ誉めれ――そんなふうせがむ子供のように。
「よくよく考えてみたら、あたしたちは司から指輪を貰ったけど、司にはあたしたちから指輪を贈ってないじゃない。これじゃあ、婚約指輪としては片手落ち」
 なるほど確かに――婚約指輪というからには、男と女、お互いが同じ指輪をしていなければ意味がない。同じ形に同じ想いを込めて、互いに変わらぬ気持ちを身につけていなくてはいけない。
 なのに肝心の男――司に指輪を贈っていないのではしょうがないではないか。
「だからね、リーダ。司に指輪を贈ろう。あたしとリーダと、一つずつ。司の左手の薬指に、あたしとリーダがどれだけ司を想ってるか、教えてやるんだ」
 それで毎日学院に着けさせていけばきっと勘違いするヤツなんていなくなるんだー! と、みやびは気炎を上げていた。
「…………」
 実際問題のところ、自分たちが立たされている立場のことを考えればあまり良いこととは言えないだろう。現状、みやびが風祭の中で絶対的な立ち居地に立っていないことを考えれば今のままがベストでないにしろベターであることは間違いない。
 しかし――それよりも何よりも大切なことがある。
「……そうですね。良い、お考えだと思います。お嬢様」
「でしょう!?」
 何よりも大事にすべきは自分たちの気持ちだ。
 みやびは司とリーダを愛していて、リーダは司とみやびを愛している。
 そして司が自分たち二人を愛してくれている。
 だからこそ、今の自分たちがいるのだ。今の三人の関係がなければ幸福な今も、そしてこれから先もっと幸福な未来もありはしない。
 だからその気持ちを形にするのは、なるほど何よりも優先すべきことだった。

 誰にも明かせぬ気持ちならば、見せてやろう。
 この想いの在り処がどこにあるかを。
 この想いの大きさがどれほどなのかを。
 私たちが誰を愛しているか、小さな指輪に込めて、誰憚ることなく宣誓する。
 滝沢司のことを愛しているのだと――。

「それではお嬢様、このことは一先ず司様にはご内密に」
「そうね……司ってば、こういう時はいちいち細かいこと気にしたりするから、きっとなんだかんだ言って尻込みするんだもんね」
「それも私たちのことを大切に思ってくださっている故のことですが……お嬢様の仰るとおりです。――ですから、いきなり司様にお見せして、ビックリさせてさしあげましょう」
「ん!」
 否とは言わせないが、否とは言うまい。
 滝沢司もまた、風祭みやびとリーリア・イリーチニナ・メジューエワのことを愛しているのだから。
 主役の一人が不在のリビングで、二人の少女は幸福な未来を楽しげに語り続けていた。